89. 力こそ正義という奇異な風潮が支配する文化圏に於いて最も学識が高いと思われる人物による魔導にあまり明るいとは言えない異なる分野に於ける識者に対する大規模魔力排斥術式及びその対処法に関する情報提供
ネイト宰相がのたくっていたソファーに平然と腰掛け、真也は改めて執務室の中を見回した。
二十畳程度の奥行きがあるその空間は、高い位置にある採光窓から差し込む西日に溢れていた。それだけでも室内は十分以上に明るいが、武の国の嗜みなのか何なのか、頭上には小さなシャンデリアから蝋燭の光が零れ落ちている。
執務用のデスクの上には、転倒防止と思われる透明なケースの中に更に別の燭台が燃えていた。デスクワークの為には明るい方がいい、というだけの理由では無いだろう。昼間だというのに街中で燭台の火が絶えない事を、真也は城に入るまでの道中で既に把握していた。
デスクの上は非常に整頓されていた。余分な資料など一枚も積まれていないどころか、ネイト宰相はペンの一本すら出しっ放しにするつもりは無いようだ。――まったく、何て余計な事をしてくれるのか。資料が山になって積まれていれば、それを登って採光窓まで辿り着けるというのに、あれでは窓から外に出ることもままならないだろう。せっかく床には絨毯が敷かれ、足音がほとんど聞こえない作りになっているというのに、これでは全く意味がない――と思ったところで、真也は自分の思考に呆れ返った。
――資料を登る? 窓から外に出る? いったい、どうして自分がそんな事をしなくてはならないというのか。城を出たければ普通に出て行けばいいし、そもそもあの採光窓に手を掛けたければ、資料を足場にする必要なんか全く無い。背伸びをすれば十分に手が届く高さだろう。いや、それ以前の問題として、仮に採光窓をよじ登ったとしても、そこから外に出るなんていうのはまず不可能だ。あんな小さな窓枠を抜けられるのなんて、それこそ小さな子どもくらいでは無かろうか?
これも長旅の影響なのだろうな、と真也は思った。見慣れない場所をあちこち巡ったせいで、少しだけ童心に返ってしまっているのだろう、と。そういえば、自分も昔は随分とろくでも無い事をしてきたものだ、などと取り留めのない事柄を思い返して、真也は記憶に鍵を掛けるように、そこでプツリと思考を切った。
意識を切り替えるように大きく息を吸って、吐き出す。インクの香りに嗅ぎ慣れない香が混ざったようなその匂いは、初めて嗅いだ筈なのに、真也をなぜか少しだけ懐かしい気分にさせた。
「お待たせしました」
窓と逆側の壁には、歴代の国王や王妃の物と思われる肖像画が掛けられていた。その中で最も新しい一組に目を留めたところで、入り口の扉を開けてネイト宰相が顔を出した。
手には小洒落たポットが乗ったトレーを持っている。部屋を出る前に彼女が言い残したところによると、中身はかなり上等なお茶なのだそうだ。ネイト宰相が“来客を饗さないわけにはいかない”と懇願したので、真也がありがたくお願いした結果によるものだった。
宰相殿は無言かつ無表情のまま、ソファーの前の長テーブルに二人分のカップを並べると、「どちらのカップをお望みですか?」と真也に尋ねた。どうやら、妙な気を起こすつもりは無いという意思表示のつもりらしい。真也が手前のカップを選ぶと、ネイトは二人分のカップに交互に茶を注いで、向かいのソファーに腰を下ろした。
ラベンダーにミントを加えたような、良い香りが部屋に立ち込める。
ネイトは真也が選ばなかった方のカップを取ると、礼儀のつもりなのか先に一口だけ口をつけて、すぐにソーサーの上に戻した。こういう細かい部分に気が回るあたり、茶を淹れている間に、彼女はすっかりいつもの自分を取り戻したのだろうと真也は思った。
とはいえ、先ほど“あんなコト”があったばかりなのだ。どんなに気持ちを切り替えたように見えても、少なくとも、ネイトは自分にあまり良い印象を持ってはいないだろうという予測くらいは真也にも立った。これから何点か物を訊ねようというのに、それはあまりメリットのある相互関係だとは言い難い。
「――なるほど、あの姫様の髪は母親似だったんだな」
だから真也は、もう一度だけ壁際の肖像画に目をやって、世間話でもするような体でそう切り出した。ネイトの警戒心を解く目的があってのことだった。
最も新しい肖像画に描かれた、ウェヌスの母らしき人物は、王女と全く同じ目を奪うような金色の髪をしていた。髪型も同じく、腰までありそうな長髪だった。
「……、ご自分の出自を秘匿するつもりがあるのなら、どうか覚えておいて下さい。
この世界での常識として、髪色に血縁での相関はありません」
ネイトは肖像画の掛かった壁を一瞥して、淡々と自分のカップに甘味付けの蜜を注ぎながら続けた。
「この世界では、容姿は個人の魔力への親和性によって左右される部分が少なからずありますからね。髪色はその代表的な物の一つです。王女様が前王妃様と似た髪色なのは、全くの偶然に過ぎないと考えて下さい」
「ほう、それは参ったな。生物学分野に於ける遺伝の法則っていうのは、物理学に於ける万有引力並に基本的且つ普遍的な事項だと思っていたんだが……。
親が子に形質を伝えないっていうなら、それは生物学の近代的手法を揺るがす程に重大な事実だ。何しろ、自然選択論の根幹が歪む」
「いえ、別に子が親に全く似ないという訳ではありません。大部分の性質では、寧ろ似る部分の方が多いと考えて良いでしょう。
ただこの世界に於いては、親子での類似の他にも、各個人の微妙な魔力適正の差による影響も考えなくてはならないという事です。親子は似ますが、貴方の世界よりもその縛りは多少緩いものと考えて下さい」
そこまでを一気に説明して、ネイト宰相はカップの中をかき混ぜ、ゆっくりと口元に運んだ。その仕草を見るでも無く長めながら、真也は“頭の回転が速い人なのだな”と感じた。敢えて複数の専門用語を混ぜて発した真也の問いに、恐らくは文脈から意味を判断して、完璧に噛み合った答えを返してきたという事実から判断したものだった。
恐らくは典型的な秀才なのだろう、と真也は考えた。同じ頭の回転が速いでも、一つの分野に特化した“天才”ではこうはいかない。極めつけの一つの才能に拘泥せず、浅く手広く柔軟な用途に頭を使う事が出来るのは、秀才ならではの特権だと真也は思っていた。
具体的に表現すると、一番助手に欲しいタイプの人間だと言える。
「血縁の影響がより強く出るのは、髪色よりは寧ろ瞳の色ですね」
真也が彼女の器量を分析している間にも、ネイトはソーサーにカップを戻して続けた。
「瞳の色に関しては、魔力の影響はほぼ無いことが分かっています。この世界の人間の瞳の色は、殆ど例外無く、反対の性別の親に一致するとされていますね。
例えば父親が赤い瞳の場合は、女児の瞳の色は必ず赤に。母親の瞳が青の場合には、男児の瞳の色は必ず青になります」
「反性遺伝といったところか。この世界の人間に染色体なんて物があるのかは分からんが、遺伝子レベルでのメカニズムが非常に興味深いな」
思いの外学術的な会話が成り立った事に気を良くしながら、真也は自分のカップに注がれた茶を口に含んだ。甘味料は入れていないが、仄かな天然の甘味を感じる。ネイトは蜜を入れていたが、真也にはストレートでも十分そうだった。彼女は意外と甘党なのかもしれないな、などと適当に解釈しつつ、真也はもう一度、ウェヌスの両親を描いたと思われる二枚の肖像画に目線を移した。
母親と思われる女性は、いかにも女傑といった体の、気の強そうな風貌で、珍しい銀色の瞳を細めていた。対する父親の方は少し気が弱そうで、丸っこい翡翠色の瞳が特徴的だった。
……この二人の夫婦生活がある程度想像がつくような気がしたが、今は敢えては気にするまい。
取り敢えず。今の宰相の話を統括すると、今代の武の国王族は、あの二色の内どちらかを瞳に宿して生を受けたという事になるのだろう。丁度、ウェヌスが父親の肖像画と同じ、翡翠色の瞳を持っているように――。
「しかし貴方が王族の容姿を気に留めるとは、少々意外ですね。
王女様から聞き及んだ話によりますと、貴方は他人の事情に大して興味を示さない為人だと聞いていましたが――」
「……ああ、正にその通りだ。興味の有る無しで言えば、全くと言って良いほどに興味はそそられない。
でもな、予め知っておいた方が良いことを判断する分別くらいは、オレにも有るっていうだけの話だ」
「王族の顔を覚える事が、貴方にとって重要な事なのですか?」
「さして重要だとは思わないが、覚えておくに越したことは無いってだけの話さ。
何しろ、どうせこれから顔を合わせることになる相手なんだ。心の準備くらいしておいたって、まあバチは当たらないだろう」
「……、なるほど、そういうことですか」
ネイトは顎に手を当てて、少し思案顔になった。それは真也には、相手の所持している情報を推し量って、統括しているような仕草に思われた。
数秒の逡巡の後、ネイトは直ぐに言葉をつないだ。
「ご安心を。両陛下共、九年前の動乱にて崩御されておりますので、貴方が顔を合わせる事は不可能です。
我が国の王族は、今やウェヌサリア第一王女のただ一人ですから」
「――、なんだって?」
――王族はウェヌス独りしか残っていない。それは真也にとって初めて聞く話であった。いや、しかしそれにしては――。
真也が釈然としない面持ちで首を捻っている間に、宰相は銀縁メガネの弦を上げて、事件のあらましを簡単に説明した。
土砂災害の支援の為に手薄になった城を、全幅の信頼を置かれていた精鋭部隊が襲撃したこと。それを率いていたのが、当時英雄視されていたカリストと呼ばれる大剣豪だったこと。そのクーデターで国王・王妃の両名が命を落とし、第二王女も恐らくは殺害されたと目されているということ。ネイトの父に当たる前宰相も、その折に亡くなっているとのことであった。
ネイトが説明している間、真也は渋い表情を崩さなかった。彼女が語った一連の事件は、真也にとっても決して無関係な物だとは言えなかったからであった。
何しろネイトによると、事件後にそのカリストという男は王族の首を手土産に、天の国へと召抱えられる事になったらしい。
――貴族の国である天の国が、わざわざ敵国の反逆者を迎え入れた理由。それは実力の保証出来る人物に、召喚主として異世界人を呼び出す役目を与える為だったと目されているという。
つまり本来は、真也が殺し合う相手はあの赤いスカーフの少女では無く、そのカリストという反逆者であったかもしれなかったのだ。
「――――」
とは言え、今となっては、それはあり得たかもしれない可能性の一つに過ぎなかった。現実問題として、天の国は、何の因果なのか奴隷階級出身の“あの少女”を召喚主として起用する羽目になってしまっている。現状に関与しない以上、これは留意しておく程度で十分な情報であると真也は判断した。
思考をクリアにするために、一度だけ深く息を吐く。
現状の要点――、武の国の王族はウェヌス一人だという状況を理解した上で、真也は「意外だな」と率直な感想を付け加える事にした。
「両親はともかくとして、他の肉親まで九年も前に殺されてたっていうのは完全に想定外だな。オレはてっきり、あの王女様には今も弟か妹――たぶん妹が居るものだと思ってたんだが。いや、少なくとも初対面の時から、今の今までそう思い続けていた」
「初対面の時から……? まさか、王女様が自分でそう仰ったのですか?」
「直接聞いたわけじゃないが、そう言ってるような物だと解釈していた」
真也は肩を竦めて、カップの持ち手に触れながら続けた。
「初めてオレに会ったとき、あの王女様はこう名乗ったんだぞ?
“私は武の国の第一王女、ウェヌサリア・クリスティーです”。――第一王女だと言ったんだ。おかしいだろ? 王女が一人なら“武の国王女”で十分に意味は通る。わざわざ“第一”って付けるのは、明らかに第二以下を意識した上での言い方じゃないか。
――少なくとも、九年も前に弟妹を全て亡くした人間の口上だとは思えなかったな」
「……、そういう言い方も有り得るのでは? 弟妹の有無に関わらず、ウェヌサリア王女が武の国の第一王女様であるという事実に変わりはありませんから。王族の第一子である事を強調した言い方をしたからといって、それがそのまま第二子以下の存命を示すとは限らないでしょう」
「……、なるほど、言われてみればその通りだ。だが――何でだろうな。あの時のオレには、どうしてもそんな風には思えなかったんだ。何故かはよく分からなかったが、あの王女様は、明らかに妹の存在を意識しているようにしか思えなかった。そう、ちょうど――」
ちょうど――どのような感覚だというのか。それを意識した瞬間、真也の脳裏にはふと閃くものがあった。
そう、ちょうど――。
それは今、この部屋に対して感じている既視感と、或いは目の前のソファーに腰掛けるネイトに対して抱いている感情と、どこか似たような感覚だとは言えないだろうか?
そう思ったとき、真也はふとした違和感を覚えた。それは今こうして、この場に座っている自分自身に対してのものだった。
そうだ。そういえば、何故自分は、先ほど城に入った時に受けた“洗礼”の後で、わざわざネイト宰相の姿を見咎めるような事をしたのだろうか?
そんなのは、別に大した理由は無かっただろう。それほど興味があった訳でも無い。ただあの暴動もかくやというバカ騒ぎに、一人だけ参加しなかった彼女が、ほんの少しだけ気にかかっただけであった。
――考えてみれば、それがそもそもおかしかったのだ。
朝日真也という人間は、そもそも他人に対して極端に無関心な性格の持ち主である。そんな真也が、いくら一人だけあの騒ぎに参加しなかったからといって、仮にそれが少しだけ気にかかったからといって、どうしてわざわざ、ネプトに訊ねてまでその事情を知ろうと考えたのだろう?
答えは簡単だった。そうしなくてはいられない程に、彼女の存在が気になっていたからに他ならない。ネイトの姿を初めて見た瞬間、まるで数年来の友人に再開したかのような、溢れんばかりの親しみを覚えたからに他ならない。それは意識しなくては分からないような、脳の酷く深いところから来る感情ではあったが、確かに、間違いなくそこにあったのだ。
そう考えると、真也にはふと思いつく事があった。そういえば、この感覚には覚えがあったのだ。初めて見て、知った筈の知識なのに、その実随分と昔から知っていたような感覚。初めて触れた筈の魔導書を数行読んだだけで、強烈な既視感と共にその中身が手に取るように分かった、あの経験。それは、真也自身の物では無い。ならば意思疎通を可能にする為に、記憶を共有し合っている、彼女の――。
それはあまりにもバカバカしくて、突飛な解釈だったかもしれない。根拠にするには酷く希薄な、学生が論文として提出してきたら落第点を付けざるを得ないような、そんなレベルのお話。
だが真也には、なんとなく、この国に来たときから抱いていた強烈な既視感の正体をようやく掴んだように思えた。
否。或いはもっと前から気付いていて、無意識に知らないフリをし続けていただけだったのか――。
「……もし生きてるとしたら、どうだ?」
気が付いた時には、その問いが口をついていた。
深く考え、腹芸を仕掛けた訳では無かった。ただ疑問として、漠然とそう思っただけの話だった。
「どう、と言いますと?」
「なに、例えばの話さ。仮に、万が一その第二王女様が生きていたとしよう。
九年前のその動乱をなんとか生き延びて、今もどこかで立派に暮らしているとする。
――その場合、武の国としてはどう考えるんだ? 王族が一人なんて現状は、あんたらにだって好ましくは無いはずだ。いや、召喚主なんて人柱染みた役割になっている以上、あの王女様が無事に跡継ぎを残せる保証だって無いだろう。
そんな現状で、もしも第二王女が生きていることが判明したとしたらどうする?
当然、あんたらとしては――」
「――はい、非常に困りますね」
ネイトは、ハッキリとした声色でそう断じた。
そこには、反駁を許さないような凄みがあるように思えた。
「……何か問題があるのか?」
「……、勘違いされているようですので補足しますが」
ネイトは比較的内心が面に出ない、クールな面持ちを崩さぬままに、続けた。
「我が国に於いて王族とは、その血筋故に権力を与えられている存在ではありません。
彼の“山断ちの王”の代より幾星霜、常に最強の武術の腕を継承し続けてきたからこそ、王族は武の国の支配権を認められているのです。権威の元は血では無く、あくまでも王族個々人の武芸の腕によるものと考えて下さい」
ネイトは一度言葉を切り、カップを口に運ぶ。真也も触れていたカップの持ち手を持ち上げて、少しだけ喉を湿らせた。茶は少しだけ冷め始めていた。
「あり得ないとは思いますが、第二王女様が生きていたと仮定しましょう。
幼い頃からの武の修練は、身体に刻み込まれます。第二王女様は短剣を主体とした技能を習得されていましたが、その他にも蹴りや掌底、投げや関節技など、基本的な操体法程度なら、今でも無意識の域で覚えている可能性が高いでしょう。
――ですが、恐らくはそこ止まりです。修練の環境が失われたとすれば、武具を使った戦闘では、恐らくは武の国で並以下の戦闘技能しか習得していないものと思われます。
繰り返しになりますが、武芸に秀でない者が王族として尊敬される事は決してありません。今さら帰って来たとしても、この国に第二王女様の居場所など無いでしょうね」
「……なるほど、ごもっともだ」
納得したように肩を竦める真也に、ネイトは静かな微笑を浮かべた。酷く事務的な、感情を敢えて込めないように努めたような笑みだった。
「そういうことです。そしてこれも繰り返しになりますが、武の国としては第二王女様は亡くなったものとして考えていますし、実際、そうであって欲しいとすら願っています。
――そうでなくとも、第二王女様の先天魔術は、当時の我が国にとって非常に危うい可能性を孕んだ代物であると目されていましたから」
そう言って、ネイトは冷めた茶を再び口の中に流し込んだ。それで無駄話は十分だと思ったのか、真也も自分のカップの中身を、一気に口に含んで飲み込んだ。
――どこの世界でも、権力というのは気持ちの良いものでは無いらしい。
真也は素直にそう思ったが、それを口に出そうとは思わなかった。
「さて、少々雑談が過ぎましたね。そろそろ貴方の要件を伺いたいのですが」
カップの中身を干して、一呼吸置く。無意味な雑談は十分だと思ったのか、ネイトは事務的にそう切り出した。
「ああ、そうだったな」
真也はカップをソーサーに戻し、気を抜くと直ぐに足に溜まる血液をヒラメ筋のポンプ作用で押し出しながら続けた。
「じゃあ、遠慮なく聞かせてもらうが――」
真也は凝り固まった肩を解すように伸びをして、今の自分の状態について弱みにならない程度にネイト宰相に伝えた。一言でまとめれば、この城では身体が重くて過ごしにくいので、何か重力の軽減策を教えて欲しいという当初の要望であった。
とはいえ、王都全体に掛けられた魔力排斥術式――つまりは、おそらくこの国の国家機密に関わる話でもあるのだ。正直に言えば、真也はそう簡単に情報を聞き出すことは出来ないだろうと予測してもいた。
しかしネイトの返答は、真也が予想していたよりも随分と軽いものだった。
「――なるほど、事情は分かりました。
それでしたら、ご自身で燭台の火を消してみてはいかがでしょうか。この街の魔力排斥術式は、燭台の炎による単純な力技ですので」
――曰く。
ヴィーンゴルヴの魔力排斥術式の正体とは、魔力を消費する燭台をバカみたいな数設置し、周囲の魔力を可能な限り使い果たすという酷くエネルギーの無駄遣い的なモノであるらしい。真っ昼間から街中で惜しげも無く燃やされている火の数々は、つまりはそういう事なのであり、少しでも魔導を学んだ者なら一目で看破出来るくらいに簡単な仕掛けであるとのことであった。
魔導には疎いので少々分かりにくい点もあったが、“要するに、燃料をガンガン燃やして街中の酸素を薄くしてるようなものか”と真也は解釈した。というかそんなに短絡的な仕掛けなら、某赤髪の魔術オタクな少女なら、もう100メートルくらい先から一本目の燭台を見た瞬間に分かっていたのではなかろうか。つまり、彼女はタネを知ってて黙っていたという事になる。
そう考えると多少の憤りを感じなくもなかったが、次の瞬間、きっとあまりにも簡単な仕掛け過ぎて、気付かない人間が居ることなんか予想もしてなかったのだろう、という現実的な解釈に思い至ったので深く考えるのはやめにした。
取り敢えず、今さらながらではあるが、あの少女が凡人の理解の範疇を超えた魔導の腕を誇る天才肌であったことを、同じく物理の分野では他を置いてけぼりにする事が多かった物理学者な青年は再認識してみたりもする。いやはや、真也にしてみればもう短い付き合いという感覚でも無いのだが、やはり学者と魔女では上手く思考が噛み合わないように出来ているらしい。
イロイロと言いたい事が無いでも無かったが、なにはともあれ、そういう事なら話は簡単であった。燭台の火が魔力を使うことで、間接的に重力が強くなっているというのなら、近くの灯りを吹き消すだけで身体の重さは随分と改善されるという事になるからだ。
……そういえば、某脳筋姫はそんな事は一言も教えてくれなかった事を真也はなんとなく思い出す。勤勉で秀才肌に見える目の前の宰相と見比べて、一瞬、本当に彼女がウェヌスの座学の師なのかどうか怪しくも思えたのだが――そういえば、ウェヌスの口調はどことなくネイト宰相に似ているな、なんて事に思い至って、やっぱり何らかの師事はしていたのかもしれないという結論に至った。そんな非常にどうでも良い事柄をツラツラと思考しながら、真也はカップをソーサーに戻して、気怠げにソファーから立ち上がった。
執務用のデスクの上には、ちょうど燭台が一つ設置されている。試しにそれを吹き消すことで、自分の身体にどの程度の影響があるのかを実験しておきたくなったからであった。
「言い忘れていましたが――」
ネイトの声を聞き流しつつ、真也は執務用のデスクに近づいて、燭台に立てられた五本の蝋燭の内、一番吹き消し易い位置にある頂点の蝋燭に、勢い良く息を吹きかけてみた。
蝋燭は呼気に煽られて、一瞬だけ大きく揺らめいた。が、何故か消えるには至らず、直ぐに元の形に戻ってしまった。
それで真也は、一回目よりも更に強く、蝋燭の火を目掛けて息を吹きかけてみることにした。仮にも十七歳の、健康な男子の肺活量で吹かれた呼気である。炎は先ほどよりも大きく揺らめいて、蝋燭の本体も僅かばかりだがグラリと揺れたように見えた。
だが、それでも何故か火は消えなかった。火は確かに横に伸びてはいるのだが、伸びるばかりで根本の太さは変わらず、直ぐに元の形に戻ってしまうようであった。
真也は訝しげに眉を寄せながら、ネイトの方に向き直った。
「個々の蝋燭は、それ自体を吹き消す事は出来ないようになっています」
ネイトは自分のカップにポットの中身を継ぎ足しつつ、続けた。
「武の国が誇る、“消えない蝋燭”の技術を聞いたことはありませんか?
この街には東西南北の四隅の塔と、そしてこの王塔。計5つの塔の頂点に魔力を直接集めている“種火”の燭台があり、そこから街中に供給される魔力によって、個々の蝋燭は半永久的に燃え続けるという仕掛けが成されています。
つまり蝋燭を消したいのであれば、各塔を一つ一つ最上階まで上り、一本一本種火を消して回る以外にありません」
「個々の蝋燭を消したところで、その影響など知れていますしね」とネイトは続ける。
詳しい原理は分からなかったものの、真也はなんとなく、目の前の蝋燭が栓の無い蛇口のような物なのだと解釈した。5つの塔の頂点にある種火――まあ、要するに給水ポンプが動き続けている限り、個々の蛇口を塞ごうとしても上手くはいかない。街の魔力排斥術式を何とかしたければ、ポンプそのものの動きを止める以外に無いということなのだろう。
真也がそう理解したところで、ネイトはカップに蜜を注いでから、真也の方に向き直って口元を緩めた。真也には、それが妙に挑戦的な笑みに見えた。
「先ほど仕掛けをお教えした際、貴方は少し意外そうな顔をしましたね。
説明した理由は至極簡単です。タネが分かっても、実際にどうにかする事は不可能だからですよ」
半身でソファーに腰掛けつつ、ネイトはカップを口に運んで説明した。
曰く。5つの塔の最上階にある種火は、それぞれが強力な防護結界に護られており、それを突破して燭台そのものを停止させるには帝霊級以上の物理的な破壊力が必要であるらしい。(“物理的な”と前置きしたのは、魔力排斥術式が展開されたヴィーンゴルヴ内に於いて、単純な魔術的攻撃で帝霊級相当の威力を生み出す事が実質不可能な為)
これだけなら不可能とまでは言えないが、更に各塔の種火は互いにリンクし合っており、一つの燭台が消えても数十分で再燃を始めるように計算されているとのことであった。つまりヴィーンゴルヴの魔力排斥陣を無効化しようと思えば、互いに数キロも離れた5つの塔の、更に最上階に設置された全ての種火を、低魔力故の高重力場を走り回って、数十分以内に全て消しきらなくてはならないという事になる。
無論、一部の怪物染みた人間たち――例えば大魔導のランクにある者たちなら、或いはそういった事も可能なのかもしれない。しかし実際問題として、これが可能なレベルの使い手たちなら、こんな面倒な真似をして種火を消さなくとも、そもそも魔力量の低下など自分たちで調整出来てしまう話でしか無い。要するにこの街に掛けられた術式を無効化出来る者は、そもそも無効化する必要が全く無い人間だという事なのだ。
「挑戦するのでしたら、ご自由にどうぞ。我々武の国民は、高みに挑む強者を妨げるような真似はしません。――尤も、低魔力を苦に思う程度の方が成功したというお話は、一度も耳にした事がありませんが」
ネイト宰相は勝ち誇ったような顔をして、カップを口元に傾ける。
――なるほど、中々上手く出来ているものである。
真也は呆れがちに肩を竦めつつ、同時に、今夜はやっぱり寝苦しい夜になりそうだという事実に些細な憂鬱を感じつつ、そろそろ部屋を後にすることにした。これ以上この場に居ても、どうやら生産的な事柄は無さそうだという予測が立ったからであった。
「……、逆に」
だからその問いは、本当に意味が無い事だった。ここで彼女に聞いたところで、結論が出るはずも無い、酷く非生産的な問い。しかし真也は、何故か彼女に聞かずには居られなかった。
執務室の出入口の前に立ち、ドアノブに片手を掛けながら。真也は不審げに眉を寄せるネイト宰相の目を見て、独り言のように訊ねた。
「さっきの質問なんだが――。
例えば、例の第二王女様が生きていたとして。その王女様自身は、どんな風に思ってるんだろうな。居場所なんか無いって分かった上でも、やっぱり故郷には戻りたいって思うものだと思うか?」
「……、お部屋は最上階に用意してあります。詳しい場所は使用人に尋ねて下さい」
今度の質問には、ネイト宰相も答えなかった。
結局、その後は重い身体を引き摺りながら部屋に這い上がり、そのまま夕食時まで一眠りすることになった。ゾンビのような足取りでベッドに倒れ込んだ真也を見つけて、アルが情けないだのへっぽこだのと詰りながらウリウリしてきたようにも思えたが、どうやら真也が本当に辛そうだという事が分かると、少しだけ寝かせてあげようという結論に至ったらしかった。
それでもアルは、部屋から出ていくつもりは無いようだった。彼女にも自分の部屋が宛てがわれている筈だが、どうやら独りでそこに戻る気分にはなれないらしかった。身体の負担がピークに達しつつあった真也はよく分からなかったものの、微睡みの中で一度だけ見た彼女は、どこか寂しそうな表情で、ひっそりと窓の外の景色を眺めていたように思う。
少し慣れてきたのか、一眠りして起きる頃には身体の調子も大分良くはなったが、ベッドの隣で椅子に腰掛けていたアルは、寝付く前と殆ど同じ姿勢で居続けていたように思えた。
――本当なら、何かしてやるべきなのかもしれない。
一瞬だけそんな考えが脳裏を掠めたが、真也は約束の時間であることに気が付いて、「おはよう」とだけ告げて夕食に行こうと促した。それきり、アルもいつもの自分を取り繕ったように見えた。
余談だが、夕食はバカでかい魔獣を丸焼きにし、適度に塩を振っただけのモノが出てきた。
美味かった。