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朝日真也の魔導科学入門  作者: Dr.Cut
第四章:ニヴルヘイムの亡霊-1『血の約束』
88/91

88. 武の国の史実に記録される天候不順に端を発したクーデターの最中に起こったとされる武の国第二王女の失踪事件に関する史実の上では未解明且つ不明とされている事実に対する最も真実性の高い調査記録

 どこで間違えてしまったのだろう、と少女は思った。

 この日だって、いつもと何も変わらない、ちょっとした冒険の一日で終わる筈だったのに――。


 お城を抜け出すまでは、確かにいつも通りの週末だった。お昼を過ぎた頃、いつも自分を見張っている守衛さんは、交代してご飯を食べる為に、十秒くらい部屋の前から居なくなる。見張りが居なくなれば、簡単に部屋から抜けられる。回廊の右の突き当りにある通風窓から、窓枠と排水管を伝って二階下の兵士詰め所に忍び込める。

 ――ここまでは、いつも通り。


 最上階の王族用のフロアさえ出てしまえば、後は簡単だ。壁に掛けられた夜光鳥の絵の後ろから、お城でも殆ど知っている人のいない隠し通路に入って、そのまま一階の大階段の裏へ。コッソリと宰相のオジサン(・・・・・・・)の部屋に忍び込んで、デスクの上の本の山をよじ登れば、採光窓から外に出られる。

 採光窓の外に、見張りは居ない。この時間帯、ここの兵隊さんが週末には必ず居なくなる事を、少女は自分の部屋のバルコニーから確かめて知っていた。ドレスの裾を縛って、植え込みをくぐって柵を越えれば、そこはもう中央闘技場帰りの人々でごった返す人混みだ。誰も自分が紛れている事になんて気が付かないだろう。

 そうやって、少女はこの日もお城を抜け出し、いつものようにコッソリと王都の街並みへと繰り出していた。


 武の国の人々は、みんな本当に戦いが好きだ。それはこの国を作ったのが、世界で一番強くて偉い王様だったかららしい。嘘か本当かは分からないけれど、お城で読まされた本には、確かにそんな風に書いてあったのを少女は覚えていた。強い人ほど偉いのは当たり前で、だから王族は誰よりも強いのが当然で、つまりお父さんとお母さんは、この国で一番強い人らしい、ということを、少女は今までずっと教えられて育ってきた。

 ……いや、まあ。自分が“大嫌い”と言うだけで半泣きになってしまうあのお父さんを見ていると、少女にはイマイチ真偽の程が疑わしくも思えるのだけれど。


 とにかく。戦いが大好きな人たちが多い、この武の国のことだ。王都・ヴィーンゴルヴでは、週末には必ずと言っていいほど武闘大会が開催されている。お城の前には一番大きな“中央闘技場”がくっついているから、少しはそっちにも手を割かなくてはならないし、だからお城の警備は、週末にはどうやったって少しだけ手薄になるのだった。少しお城の事情に詳しい者なら、子供だって簡単に抜け出せてしまうのは、先に少女自身が示した通りである。

 特に最近は雨が多く、各地で土砂崩れが頻発しているせいで、お城に残っている兵隊の数もいつもより減っていた。“中央闘技場”から帰省していく観客たちが、いつもよりもどこか気を緩めているように見えるのは、多分そのせいだろう。兵隊が少なければ少ないほど、より簡単にお城から抜け出せるので、直接の被害が無い少女としては、不謹慎にもそれを有難いとも思ってしまうのだけれど――。

 最近は少しだけ静かになってきたように思えるお城や、少し活気が無くなったように見える闘技場の客数を見ると、少女は少しだけ不気味に感じなくもなかった。


 人の流れに沿って少し歩くと、王都の子供たちが集まる公園がある。闘技場の試合を見られた子はここに来て、見られなかった子に試合の中身を話すというのが、この辺の子供たちの間では暗黙のルールになっていた。

 そして、それはこの日も同じだった。数十人の子供たちがそれぞれのグループを作って、遊具で遊びながら、興奮混じりに精一杯の言葉を尽くして試合の熱狂を説明しようと努力していた。


 少女はその中でも、一番人気の遊具を押さえているグループに駆け寄って声を掛けた。気心知れた友人たちが、いつものように片手を上げて、少女の名前を呼んで手招きしてくる。少女と同じ、5~6歳くらいの子供たち。女の子よりも、男の子の方が多かった。

 彼らはこの公園で遊ぶ子供の中では、決して最年長のグループという訳では無かったが、一番人気の遊具に集まっていても歳上のグループが文句を言ってくる気配は無かった。以前この遊具を独占していた意地悪グループは、半年前に少女がグーパンチで黙らせていた。だから今や少女にとって、“本当の自分”を知らない子たちと気楽に遊べるこの公園は、一番平和で気を休める事が出来る場所になっていた。


 ――少女はこの公園が好きだった。


 少女は王族だった。誇り高いこの武術王国・武の国(ウォルヘイム)で、常に“最強”である事が義務付けられる、最も苦しくて尊敬される一族に生まれた子供。来週やっと六歳だというのに、お城では短剣の訓練と模擬試合を、毎日毎日吐いて倒れるまでやらされている。

 とは言っても、少女自身は、それがまだ(・・)気楽な話である事をよく知っていた。

 それは少女が王族の第二子――つまりは、第二王女だったという理由もある。どこの王族だって、第一子の教育にはつい力を入れ過ぎてしまうものだ。姉が今も兵舎で実践訓練をして、宰相のオジサンに執務の流れを聞いて、ネイトのお姉ちゃんに座学を見てもらって身動きも取れない事を思うと、少女は自分がどれだけ甘やかしてもらっているかがよく分かる。

 自分が姉と同じ立場だったら、きっとこうしてお城を抜け出す事も出来なかっただろう。

 そのかいあってと言うべきか、姉は年齢差・体格差を差し引いても、少女ですら全く歯が立たないくらいに強くなっていたのだが。


 それは裏を返せば、少女は姉ほど期待されてはいない、という意味にも取れたかもしれない。そう考えると、少女は自分のプライドが少しだけ傷つくようにも思えたが、でも姉が贔屓されるのは、ある意味では当たり前の事なのだとも少女は割りきっていた。

 魔術という神秘の理が支配するこの世界。ある程度いい家柄の家庭に生まれた子は、鑑定系の先天魔術を持つ魔術師によって、生まれた瞬間に自らの先天魔術を占われるという慣習がある。そしてお母さんから聞いた話によると、姉のそれは、過去数百年の王族と比べても飛び抜けた物だったらしい。

 実際、姉は一昨年、既にその先天魔術(ギフト)を発現させていた。詳しい話は教えてもらえなかったので、少女には仔細は分からなかった。が、とにかくそれは凄まじい物だったらしい。姉の先天魔術を見たらしい兵士たちの反応は、興奮したように歓声を上げるのと、青い顔で固まるので両極端だった。


 たった数年しか歳の離れていない姉は、そうやってどんどん先に進んでいく。

 それに比べて少女は、未だ自分の先天魔術すら発現させてはいなかった。当然、それがどんな先天魔術なのかだけは、既に占われている。でも誰も、決してそれを少女自身に教えてくれる事は無かった。

 予め先天魔術の能力だけを聞いても、思わぬ悪影響が出ることがある。

 この世界ではそんな俗説が誠しやかに信じられている事もあって、子供が自分で“気付く”までは、先天魔術の銘は本人にすらも秘密にされることになっている。これは少しでも教育に力を入れている家庭なら、どこでも教育方針としては極一般的なものであった。


 つまるところ、今の少女に出来るのは、夢をみることだけだった。

 魔術という神秘の理が支配するこの世界。人間には誰にだって、生まれる前から与えられたすごい力が備わっている。自分の才能(それ)が姉に匹敵するほど凄い物である事を、少女は心から願っていた。いつか自分の先天魔術を発現させて、ずっと姉の指導にかかりきりだった兵士たちや宰相、お父さんにお母さん、そしてネイトのお姉ちゃん。その全員の目を自分の方に向けさせることが、今の少女にとっての当面の目標だった。

 それから――。もちろん、いつかはあの姉と肩を並べて、逆に頼られるくらいになりたいというのが、少女にとっての一番の野望でもあったのだが。

 そう、今すぐには無理でも、いつかは――。


 とはいえ、それはあくまでも“いつか”の話だ。いつも肩肘張って、気を抜かずに訓練だけに勤しむなんていうのは、まだ五歳の少女には流石に荷が重かった。

 誰にだって息抜きは必要だ。特に少女は、いつもお目付け役の大人たちに囲まれている、王女様なのである。いつでも誰にでも堅苦しい対応をされるからこそ、本当の自分を知らない街の子と、気のおけない付き合いが出来る場所は大切で、だから大好きだった。

 ここに来るようになる前は、王族に義務付けられる長い髪だって、全然似合ってなんかいないと思っていたし、嫌だった。正直に言えば、邪魔だとすら思っていた。でも仲間たちがかわいいと言ってくれたから、少女は好きになれたのだ。

 この公園は王女では無い、“子供”としての少女の宝物で、そして全てだった。


 お城を抜け出していられる時間は長くない。あまり遅くなると言い訳が出来なくなって、心配症のお父さんが、またお節介にも街中に捜索命令を出してしまうだろう。だから少女が彼らと遊べるのは、時間にして数十分程度の話だった。他愛のない話をして、他愛のないゲームをして、そして、他の子たちより少しだけ先に家に帰る。これが、少女のいつもの週末の過ごし方。

 それでも彼らは、週末しか一緒に遊べない少女を自分たちの仲間として受け入れてくれて、帰り際には“またね”と声を掛けてくれる。そんな何でもないやりとりが、少女には心の底から嬉しかった。その些細な暖かさは、この日も何一つ変わる事が無かった。

 ――つまるところ。

 この日はそんな、いつもと何も変わらない、平凡な一日で終わる筈だった。

 そしてここまでは間違い無く、少女にとっていつもと同じ週末が流れていた筈だったのだ。



 ――気付いた時には、その日常が幻だったように壊れていた。

 まるで、だまし絵でも見せられたような感覚。今まで見ていた景色がクルンとひっくり返って、見たくもなかった裏側を見せられたような感じ。悪い夢だと思った。夢なら覚めて欲しいとも願った。でも鼻腔を貫く鮮烈な臭気だけが、それが現実の物である事を否が応にも主張していた。


 いつもと同じように、植え込みの影からお城の中に戻ろうとした時。ふと、嫌な臭い。ツンとした、吐きそうな程の異臭がしたのに気がついて、少女は何となく城門の方に目を向けた。その時目にした“異変”に、少女は咄嗟に悲鳴を飲み込んだ。


 白亜の城の正門。まだ少女には開けられない、やたらと重い大扉の前には、普段から二人の守衛が立っている。王族が住まう城の正門を任されているだけあって、腕も確かな二人だった。武の国の軍隊でも既に上位に食い込む実力を持つ姉が、実践訓練で一方的にやられているのを、少女は何度となく見た事があった。


 ――なら、これは一体、どういう事なのだろう?

 いま少女の目の前には、その二人が倒れて動かなくなっていた。見間違えかと思って、少女は何度も目を擦って、何かが変わるのか確かめてみた。その度に目に映る光景はどんどんと鮮明になっていって、あの二人が倒れているのではなく、斃れて(・・・)いることがよりハッキリと分かってしまった。


 一人の顔は、黒焦げだった。焼き過ぎたバーベキューみたいに炭化した皮が破けて、中からピンク色の生肉が零れている。落とし穴みたいに落ち窪んだ眼窩の中では、白く茹で上がった目玉がゼリーみたいに弾けて、ドロドロした中身が血の涙と一緒に両目から流れていた。疫病に罹ったみたいに水ぶくれに覆われた舌が、その涙を舐め取ろうとするように、デロンと口の端から飛び出ていた。

 奥に倒れているもう一人を見ようとして、少女はやめた。殆ど同じ姿にされてしまっているのが、一瞬見ただけで分かってしまったからだった。これ以上見ていたら、流石に吐くと自分でも分かった。手足はもう、情けなく震えてしまっている。仮にも武の国の王族として、これ以上の無様は晒せないと思った。


 足が、勝手に門から遠ざかり始めていた。

 一歩、二歩、三歩。歩数を増やす毎に速く、そして大きく。気が付いた時には、少女は植え込みを飛び出して、城から遠ざかる方向に駈け出していた。あっという間に息は上がって、疲れとは別の何かが胸の奥を締め付けていくのを感じた。


 街中がざわめいているように思えた。五月蝿い耳鳴りを黙らせるように、あちこちから悲鳴と怒鳴り声が頭蓋骨の中に響いてくる。倒れている燭台があった。壁が砕けた喫茶店があった。瀕死の兵隊を取り囲みながら、“城に賊が入った”と騒ぎ立てる野次馬たちの声を聞いた。


 逃げなければ、と少女は思った。賊は城に侵入した。城は王族が住んでいる場所。だったら狙いは王族に違いない。自分も狙われているに違いない。だから、城に戻るのは危ない。

 勿論少女は、咄嗟にそこまでの事を考えた訳では無かった。門の前で見た二つの“アレ”が目に焼き付いて、消えてくれなかっただけだった。一刻も早く、一歩でも遠くアレから離れなくては、自分もすぐにああなって(・・・・・)しまうという、直感に近い強迫観念が頭を占めていた。


 どこをどう逃げたのか、なんて分からなかった。そんな事なんか、真っ白でフワフワになってしまった少女の頭では、考えている余裕なんか1ミリも無かった。ただ人混みから離れて、お城から遠ざかる方向へ。裏道に入って、近づかないようにと言い聞かされていた汚らしい路地を突っ切って、奥へ、奥へ、奥へ――。

 飲食店の裏のゴミ箱を蹴り飛ばして、シャムの尻尾を踏みつけながら、迷路のような細道をジグザグに突っ切った。


 嫌な気配があった。

 後ろから、明らかに足音が近づいてきている。初めは気のせいだと思ったけど、そうじゃない。これだけ走って、何度も何度も曲がったというのに、音は徐々に近づいてきていた。

 明らかに、音の主は自分を追いかけてきていた。


 間違い無く“賊”の仲間だと思った。だから、逃げなければと少女は思った。右に曲がって、左に曲がって、閑散とした大通り目掛けて飛び出す。その瞬間、目の前にヌッと大きな壁が現れた。

 少女は全力疾走の勢いのまま、その“壁”に強く額を打ち付けた。視界にチラチラと星が飛ぶ。何事か分からないまま、少女は“壁”がニュッと手を伸ばして、自分の身体を抱え上げたのが分かった。壁だと思ったそれは、鎧を着た男だったのだ。少女は我を忘れて金切り声を上げ、暴れた。


「王女様、探しましたよ!!」


 宥めすかすような声を聞いて、少女はハッと息を止めた。“賊”の仲間にしては、妙に声色が大人しい。不審に思って顔を上げると、銀板鎧を着ているその男は、走り疲れて上がった息を隠そうともせずに、真っ直ぐに少女の顔を覗きこんでいた。

 男の鎧に見覚えがあったので、少女は拍子抜けして暴れるのをやめた。男の格好は、紛れもなく、この街を守る警備兵のものだった。


「良かった……。王宮に賊が侵入したというお話はご存知ですね? 王女様の姿がお見えにならないとのことでしたので、街中に捜索の命が下りたのです。

 ――まったく。あまりお転婆なのも感心はしませんよ」


 警備兵は、呆れ顔の中にもどこか安堵の色を滲ませて言った。どうやら非常時に王女が城に居なかったので、警備兵たちが街中を探して回っていたということらしい。考えてみれば、当たり前の話であった。城の前に死体が転がっている時に、仮にも王女が街をほっつき歩いているのを見たら、それは警備兵なら誰でも追いかけて保護しようとするだろう。先ほどから追いかけられていた足音の正体は、つまりはそういう事だったのだ。


 納得した少女は内心でホッと胸を撫で下ろし、次には酷い脱力感を覚えた。安心したのと徒労感で、頭も身体もグルグルに掻き回されているような感覚だ。全身からドッと力が抜けて、今地面に下ろされたら、そのままペタリとへたり込みそうな予感すらあった。



 ――ビチャッ、と、顔に湯滴が飛び散った。


 お湯は酷く生温くて、そして生臭かった。鉄サビというか銅というか、長年使って朽ち果てた剣とか鎧とか、そういうのが発していそうな、嫌な臭い。咄嗟に反射的に無意識的に顔に飛び散ったソレを拭うと、ソレはお湯のクセに妙にヌルヌルしてベトベトして一部がすぐに固まっていくような感触で、ふと見た手の平は赤くて赤くて赤くてどこまでも真っ赤に変わっていた。


 兵士の顔を見直した。さっきまで安堵したように微笑んでいたその顔は、左右の筋肉が不対象に動かされたみたいに引き攣って、二つの眼球がグルンとひっくり返って白目を向く。青紫色の唇が、水揚げされた魚のようにパクパクパクパクとナニかを呟いていた。

 そのまま視線を下に、下に――ああ、これはいったい何の冗談なのだろう? 兵士の首には、いつの間にか蛇口が出来ていた。喉笛の真ん中に細長い何かの先端のようなモノが生えていて、そこからドボドボピューピューと穴の空いたワイン樽みたいに、止めどなくお湯が溢れてくる。


 兵士の頭が転がった。左に大きく、ゴロリと。頭は地面に引っ張られるようにしてぐんぐん落ち始めて、まだ半分繋がっていた肉とか筋とか皮とかをミチミチと引き千切りながらゴトリ、と音を鳴らして泥まみれになった。

 その瞬間、少女を抱え上げていた腕が抜け殻になったみたいに力が抜けて、少女の身体もベチャリと地面に投げ出された。


 頭を無くした兵士の身体が、腐って赤黒く変色して腐臭を放つ切り口を見せながら、崩れ落ちる。

 その向こうに、もう一人男が立っているのを少女は見た。黒いローブを着た、魔導師風の男だった。ゾッとするような無表情。明らかに武の国の兵士じゃない。男は薄緑色にぼんやりと光る土塊の剣を持って、真っ直ぐに少女の方を見据えていた。剣の先に赤いモノと腐った肉片がくっついているのを見て、それで少女は、やっとそれが“蛇口”の正体だったのだと気が付いた。


「エピメテウス!! テメェはそれ無闇に振り回すなっつってんだろがよ!!」


 背後から声が聞こえた。それ自体は驚くことじゃない。だって“蛇口”になってしまった兵士に保護された後も、足音だけはずっとずっとずっと聞こえ続けていたのだ。ただ、それは自分を保護しようとしている別の兵士のものだと思っていたから、気にも留めようとしなかっただけ。だから“蛇口”になってしまった兵士にも、特に自分が追いかけられている事を言おうとは思わなかっただけ。だってずっと自分を追いかけてきてくれたのは、目の前の兵士と同じように、兵士を“蛇口”にしてしまったあの土の剣を持っているヤツみたいなのから、自分を守ってくれる筈の味方の筈なのだから。


 でも、違った。振り返った先に居た男は、見たこともないような毒々しい色のコートを着て無精髭を生やしていた。明らかにこの辺りに住んでいる者の格好じゃない。何より男からは、土の剣で兵士を突き刺した男と同じ臭いを感じた。まるで自分を見ていながら、自分を無視して別の何かを見ているような、そんな背筋が寒くなるような気配。

 そして次に男が言った一言で、それは確信へと変わった。


「大事な“商品”に傷でも付いたらどうするつもりだテメェは!!」


 一瞬、少女は何を言われたのかが分からなかった。男は明らかに少女を見て、指差しながら、ハッキリとこう言ったのだ。――“商品”だと。さっき公園で、みんなと一緒に飲み食いしたお菓子やジュースと、同じモノだと。そして男が怒っているというその事実が、今の言葉が冗談でも何でもないことを示していた。

 土の剣を持った男の方も、「そのくらいの加減はしてるつもりだ」と答えた。「見ろ、傷ひとつ無い」と付け加えた。

 それで、少女は気が付いた。さっきの、自分を見ているのに、明らかに自分を見ていないような目。あれは、そう。自分を人ではなく、“物”として見ている目だった。商売人が自分の店の商品を眺めるような、そんな粘ついた無関心だけを含んだ目だった。


 狭い路地の出口と入り口から、二人の商売人はゆっくりとにじり寄って来た。考えている余裕なんか無かった。悔しさや怒りよりも、まず恐怖があった。

 だから、少女は動いた。コートの男が手を伸ばしてきた時に、一気に駈け出して、男の股間を思いっきり蹴り上げてやった。「ウッ」と苦しそうに呻きながら、男は身体をくの字に折り曲げた。あとは、追い打ち。王族の嗜みとして、脚には短剣が一本隠してある。使い方は、歩き方を覚えた頃から毎日毎日吐くまで練習させられてきた。大丈夫、やれる、やれる、やれる――。


 そう思った時には、身体が宙に浮いていた。肺を握り潰されたような苦しさに、呼吸が止まる。兵士の血で出来た水たまりの上をゴロゴロと転げ回って、それでやっと、少女は自分が蹴り飛ばされたのだと気が付いた。


「――のガキッ!!」


「……言っただろ? 甘っちょろいこと言ってるから、そういう事をされる」


 ――なんだ、と呆れた。

 大人二人に囲まれたら、五歳の子供がどんなに頑張ったって、どうにもならない。少し(・・)短剣の練習をしていたくらいじゃ、何も変わらない。思い上がりだったのだ。

 コートの男は目をつり上げて、睨みながら寄ってきた。呻いて這って逃げようとしたところを、長い髪を鷲づかみにされて、顔を思いっきり殴られた。何度も、何度も――。

 ほっぺたが腫れて、唇が切れた。口の中が血だらけになって、鼻血と混じったよだれが口から垂れた。


「……おい、商品に傷を付けるなと言ったのはどこの誰だ」


「いいんだよ。しっかり“教育”しといた方が価値も上がるってもんだろ」


「無意味だと言っているんだ。どの道、今回は“付ける”んだろう?」


「――っと、そうだったな。忘れるところだ」


 頭がガンガン痛くて、目が回る。耳鳴りも五月蝿かった。でも、男たちが何かを言っているのだけは分かった。

 コートの男が、服の中から何かを取り出した。チャリッ、と擦れる、金属の音。重そうな鉄で出来た、輪っかのように見えた。視界がチラチラして、よく見えない。

 赤く痛む眼の奥に力を入れて、男が手に持っているその輪っかをよく見て、見て――そして、ゾッとした。


 少女は、その輪っかを昔話の挿絵で見たことがあった。あれは、そう、確か昔ユミル様に歯向かった“風の民”という人たちが、それからバツとして身につけなくてはならなくなったという首輪だった筈だ。魔力が込められた輪は重く、痛々しく首に食い込む。一度付けられたら自分では絶対に外せなくて、ちょっとでも魔力を使おうとする度に、爪をペンチで剥がされるような激痛が全身を襲うようになる、という話を、少女は脅かし混じりに大人から聞かされたことがあった。でもまさか、王族の自分がそれを見る日が来るなんて、少女は夢にも考えたことが無かった。


 嫌だ、と思った。嫌だ、嫌だ、嫌だ――。涙が溢れるくらい、ただ嫌だった。

 だってアレを付けられたら最期、もう“魔術”を使えなくなってしまう。――“先天魔術”が目覚める事が、無くなってしまう。

 お父さんにもお母さんにも構ってもらえない。兵士たちや宰相を見返すことも、ネイトのお姉ちゃんが自分を見てくれることも無い。お姉ちゃんに認めてもらって、頼ってもらって、頑張ったねって褒めてもらって、頭を撫でてもらうことも無くなってしまう。

 ――嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。


 少女は、強く藻掻いた。手足をバタつかせて、力の限りに。そのか弱い抵抗は、魔導師風の男に両腕を押さえつけられて完全に無視された。コートの男は粘ついた笑みを貼り付けながら、悪魔の輪をパカリと広げて、それを真っ直ぐに少女の首筋に近づけてきた。


「ま、気にすんな。ちょ~っとお父さんとお母さんから離れて、優しいオジサンの所で暮らすだけだから。そういう人生も、ありっちゃありでしょ」


 冷たく悍ましい鉄の感触が、喉元に触れる。首筋を噛み切られたみたいに、全身から血の気が引いていくのが分かった。そして、その瞬間。抵抗を続けていた少女の視界は、白く暗転し、途切れた。



 ――それが、9年前の出来事。

 その年は雨が多く、各地で土砂崩れが頻発し、国軍の多くがその救助の為に王都から出払っていた。結果手薄になった城に急襲を仕掛けた精鋭部隊によって、三人の王族が殺害されたと目されている。

 その内の一人。綺麗な赤髪が特徴的だった第二王女の遺体は、未だ見つかってもいないという――。

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