86. 肉弾戦を基本戦術とする戦闘民族国家の首都に於ける大規模魔力排斥術式の存在とその効力の確認及びどう考えても明らかに問題が発生していると思われる同国王族の婚姻条件に対する調査報告
「申し訳ありません、言い忘れていましたね」
しれっとした顔でやってきたウェヌスの一言を、アルはリズミカルに上下する両肩を抑えこみながら聞いた。口にするのも憚られるような姿の、物言わぬ屍(死んでない)と化してしまった青年の顔面を踏んづけながら、「ナニが?」と、アルは視線だけで人でも殺せそうな形相で聞き返す。
「……いえ」
街の上空を先導していたウェヌスは、アルの真也に対する“教育”が終わった頃に戻って来たのだった。どうやら、案内するべき二人がついて来ていない事に(やっと)気が付いたらしい。わざわざ迎えに来てくれただけ親切ではあったものの、いつも通りのアルと真也のやり取りを見て、なにやら呆れたように額に手を当てたりもしていた。
とにかく。疲れた顔で頭を抱えるウェヌスは、乗ってきたグリフォンの首筋を撫でて、小さく息を吐いてから、続けた。
「この街の全域には、強力な魔力排斥の結界が構築されているのです。
――銀の国王都の真逆の術式、とでも言えば良いのでしょうか。
この街の内部では、魔術師の能力は三割ほど低下します」
あくまでも、一般論としての話ではあるが。
この世界に於いては、各国はそれぞれの国民性に合った機能を街に付加するという例が、往々にしてあった。特に首都ともなれば、それは更に顕著となる傾向があると言って良いだろう。
例えば魔術大国たる“銀の国”では、王都は街そのものが巨大な魔法円を形成し、人工の霊地として魔力の濃度を高く保つ仕掛けが施してある。お陰で同街の中では、魔導師の能力は魔術の発動速度からその威力まで、ほぼ全てに渡って三割ほど増強されると考えて良い。
この構造のお陰で、世界最高クラスの精鋭魔導師部隊・“王宮魔術団”を抱える銀の国の国軍は、(魔術の効かない、“守護魔”のような例外が無い限り)シルヴェルサイトの中で他国の軍隊に遅れを取るような事態は、まず起こり得ないと言われている程なのだ。
ウェヌスによると、武の国の王都にも似たような防護策が備わっているという事であった。
“戦士の国”である武の国民は、基本的に魔術よりも拳や剣で戦う事を好む傾向がある。軍隊では魔力の殆どを身体強化・及び敵の魔術の無効化に充てる訓練をしており、白兵戦で敵をねじ伏せるという戦術を採用している、という話すら、アルはどこかで聞いた覚えがあった。(先天魔術の使用すら最小限というのだから、もう筋金入りの脳筋集団だと言って良いだろう)。
本丸たる王都を魔力排斥の術式で覆っているのは、ある意味では当然の防護策の一つだとも言える。魔力が少なければそれだけ過ごし難くはなるが、“日々是鍛錬”の為と考えれば、この国の変態達なら寧ろ喜んで了承してしまっていることだろう。
そこまでを理解して、アルはローブの裾に目線を落として顔を赤らめた。恐らくは先の醜態が、彼女の中で相当な黒歴史に昇華されつつあったのだろう。「うわ、一生の不覚だわ……」と、アルは肩を落として、鬱々としたオーラを全身から発散し続けていた。
とはいえ、タネが割れてしまえば話は簡単であった。
基本的に魔力は、水や空気の様に、多い場所から少ない場所へと流れ出す性質があるものだ。つまりバイクが止まってしまったのは、魔力の薄いヴィーンゴルヴに近づいたことで、外界への魔力放出量が無意識的なアルの供給量を上回ってしまったのが原因だと考えられる。バイク自体の魔力集積術式は“最果ての丘”を基準として組んである為、極端に魔力の少ない霊地に置いたら、逆に魔力が流出してしまうという事は十分に起こりえる話であった。
またアル自身の魔装たる弓矢だって、基本的には魔力を放出する事で膨張する魔法金属で造られているのだ。不用意に魔力のより少ないヴィーンゴルヴの中心部に近付けば、それは勝手に“解放”されてしまう事だって有り得るというものだろう。
「――って、ちょっと待って」
そこで、アルは不意に表情を強ばらせた。ゾッとするような悪寒が、背筋を這い上ってきたからであった。それは別段、この街の中で自身の能力が落ちる事を不安がった、という訳では無い。それよりも、もう少しだけ遠回りな話。以前最果ての丘でウェヌスから耳にした、その時ですら十分以上に驚いた“あの話”に思い至り、底知れない戦慄を覚えたのが原因である。
アルは、完全に伸びている真也の顔から足をどけて、二歩三歩と街の中に向けて歩を進めた。彼女が向かう先には、子供たちがチャンバラごっこをして遊んでいる、岩がゴロゴロと転がっている空き地がある。
その岩の中の一つ。一際大きな、小さな家ほどもありそうな褐色の岩を見咎めたアルは、周りに危険が無い事を確認してから、その右腕へと魔力を収束させた。「命ず」と、慣れ親しんだ詠唱で精霊に命じ、右腕を強力な坑魔術結界で覆う。
「侵攻せよ、炎の巨人。虹橋を渡りて世界樹を焼け」
詠唱は、唄うように。本来なら十人が連携し、分単位の予備動作が必要となる術式をたった独りで組み上げた少女は、膨大な炎の魔力を外界から汲み上げ、それを体内を走る霊道の中で加速させ、その一連のトランスが彼女の翡翠色の瞳のハイライトを僅かに変えて、
「始祖の炎帝!!」
“銘”の詠唱と共に、指先から解き放った。
完全に発動させれば火龍のブレスをも凌駕する、軍隊すらも吹き飛ばす威力の大魔法・“帝霊級火炎魔法”の業火が、雷鳴のような轟音を纏いながら標的となった大岩へと駆け抜ける。
小型の太陽のように赤く燃える巨大火球は、舗装もされていない土の道路を抉り飛ばしながら岩に吸い込まれ、瞬き一回の間に熱量の全てを標的の内部で爆散させていた。岩は箱詰めのダイナマイトで発破をかけられたように無残に飛び散り、その成れの果てたる細々とした破片が、呆れる程の間を空けて地面にパラパラと降り注いだ。
その破壊力が、あまりにも圧倒的に過ぎたからだろうか。空き地でチャンバラごっこをしていた子供たちが、呆気にとられて暫し口を開けていた。
だが、流石は彼らも“強さが全て”の戦闘国家・武の国の一員という事なのか。クレーターと化した大岩跡とアルの姿を見比べて、誰からともなくキャッキャと騒ぎ立てていた。子供たちの瞳には、掛け値なしの尊敬の色が込められていた。
子供たちの態度は、決して大袈裟な物では無かっただろう。アルの放った大魔術は、事実として称賛されるに値するレベルの物だったと言える。強力な魔力排斥の術式が組まれたこのヴィーンゴルヴで、先天魔術のバックアップも無しに“帝霊級火炎魔法”を成立させ得る魔導師など、恐らくはこの世界でも数えるほどしか居ないに違いない。
そう。例え実際に成されたその威力が、シルヴェルサイトでのそれに比べて、遥かに削がれてしまっていたとしても――。
「……、ウェヌス」
その事実を理解したからこそ、アルは独り、決して渋い面持ちを崩す事をしなかった。
完全に消滅してしまった、岩の跡。家の一つくらいなら軽く吹き飛ばせた、そして、その程度の威力に収まってしまった自分の魔術の威力を目にして、だからこそ彼女は許せなかったのだろう。
――以前、ここで同じランクの大魔術を放ったという、緑の髪を持つ“彼女”の話を聞いていたから。
アルはウェヌスに視線を送って、聞いた。
「あの奴隷女。
ホントに、ここで“聖域の風帝”をぶちかましたの?」
「ええ、間違いありません」
ウェヌスからの返答は、肯定だった。恐らくはアルの心情を察した上で、しかし一瞬の逡巡を見せる事すらも無かった。
それから、付け加えた。
「そして、中央闘技場の半分を消し飛ばしました」
「…………」
アルは渋面を一層濃くし、街の中心と思しき方角に目をやった。そこにはアルが吹き飛ばした岩とは比べ物にならない、あまりにも巨大で荘厳なコロッセオの数々が乱立している。
中央闘技場の大きさは、あれらの五十分の一も無いとでも言うのだろうか? 全力疾走したら壁にでもぶつかってしまうような、そんなショボいサイズだとでも言うのだろうか?
まさか、そんな冗談は無いだろう。
あれらを半壊させるほどの巨大竜巻。“彼女”が放った聖域の風帝の規模とは、一体どれほどのものだったというのか――。
「……正直、ナメてた」
もう一度だけ自分が吹き飛ばした岩へと目をやり、アルは小さく舌打ちした。
「あの女――、マジで化け物じゃない」
恐らくは。それは、彼女のプライドを深く傷つける事実だったのだろう。
勿論、弁明しようと思えば、彼女にはいくらでも手段がある。例えば彼女が競おうとした相手――ウラノスはほぼ間違い無く風属性先天魔術によるバックアップを受けているのだから、先天魔術無しで魔術を放ったアルと直接に比べるのは不公平だとか。
或いはアルと同じ大魔導級の魔術師たるメルクリウスとて、嘗てこのヴィーンゴルヴにて戦闘行為を行った際には、魔力欠乏による“重さ”を少なからず負担に感じていたらしい、という事実を彼女が知っていれば、それは多少の慰めにもなったのかもしれない。
魔力が薄いが故の負荷を、そのまま受け取ってしまっていたメルクリウスに比べて、その負荷を無意識下で完璧に調整してしまい、だからこそ逆に辺りの魔力量が低下している事を見落としてしまったアルは、ある意味では、自身の魔術の練度を完璧に証明してみせたと表現する事も出来ただろう。
だが。それでもアルは、魔術でウラノスに“負けた”という感覚を拭うことが出来なかった。
それは客観性や理性では無く、恐らくは彼女自身のプライドの問題だったのだろう。
――“銀の国の大魔導、アルテミア・クラリスは、この世界で最強の魔法使いである。”
そのたった一点を証明する事のみを理想としてきた、彼女だからこそ。
それがどんな形であれ、こと“魔術”に関する事で誰かに負けるのは、絶対に認める事は出来なかったのだ。
「……そろそろ、向かいましょうか」
思いつめた表情で考え込むアルに、ウェヌスは移動を促した。アルの心象を察して気を使ったようにも見えたが、アルはそれをわざわざ斟酌したようにも見えなかった。
ただ、死体の様に力無く倒れ伏したまま、ギャアギャアと喚くグリフォンに啄まれている真也にツカツカと歩み寄り、「いつまで寝てんのよ!! ほら、立つ!!」と、不機嫌そうに促したあたり、あまり気にしてもいないのかもしれなかった。
……取り敢えず。生死の境を彷徨わされた挙句、いきなりそんな理不尽な起こされ方をした真也には、多少の同情の余地が無い事も無いとは必ずしも言い切れなくは無さそうな気がしないでも無かったのではあったが(諸説有り)。
とにかく。そんな銀の国の二人のコミュニケーションを眺めていたウェヌスは、そこで、不意にネプトの声を聞いたようだった。ウェヌスが目を向けると、グリフォンを降りてから通りの見張りを頼んでいた青い従者が、「ウェヌス、来たぜ!!」と声を上げて手招きしている。
タイミングが悪かったのか、思ったよりも時間が掛かったと言って良かっただろう。
ウェヌスが目をやった先では、30ラド程の先から、武の国で広く利用されている大猪・グリンブルスティが、ギラリと光る牙を剥きながら爆走してきていた。
「……ウェヌス。あんた、ナニしてんの?」
アルが疑問の声を上げたが、今のウェヌスにそれに答える余裕は無かった。
ウェヌスは両の腕を、真っ直ぐ右の下段に下ろしていた。両手の周囲では黄金色の光の粒子が舞い落ちて、それが彼女の白いドレスに潜り込み、中から七色の偏光を放つ白い鋼を引き出していく。最強の魔法金属の名をほしいままにする、“オリハルコン”と呼ばれるその物質は、ウェヌス自身の先天魔術によって瞬く間に加工され、彼女の身の丈程もある巨大なハンマーへと変化した。
アルと真也が、その一部始終を不思議そ~な顔で見ていた。
目を見合わせる彼らを完全に無視しつつ。白いドレスの武装姫は、綺麗なブロンドの髪を陽光に靡かせながら、ナニか貨車のような物を引きながら走ってくる、見るからにヤバい目をした大猪に正面から間合いを詰め、
「やぁぁぁぁぁあああああ!!!!」
……奇声とも取れる、気合と共に。
バカみたいに大きなハンマーを、その脳天目掛けて、思いっきり振り下ろした。
ドッゴォォォォオオオッッ!! という派手な音に、アルが驚愕に目を見開いた。
彼女の翡翠の瞳が見詰める先では、脳天に大鎚の一撃を叩きこまれた大猪が白目を剥き、グラグラと足元をフラつかせながらバタリと左に身体を横たえてようとしているところであった。
勢いがついていて、いきなりは止まれなかったからなのか。倒れた猪の巨体は、後ろに引いている貨車のような車を巻き込みながら滑り続け、喉に悪そうな土煙をブワワッと巻き上げた。
猪の手綱を握っていたと思しきオジサンが、操縦席から思いっきり投げ出されて、土塗れになりながらゴロゴロと地面を転がっていた。どうでもいいが、(流石は武の国民ということなのか)格闘家ばりに見事な回転受け身であった。
「やったか?」
「手応え有りです」
そんな事を言いながら、武の国の“筋肉”二人は“一仕事終えた”といった顔で、爽やかにハイタッチを決めていた。真也はポカンと口を開け、その様子を唖然としながら見ているようだった。“ソレ”を努めて無視しつつ、アルは武の国の二人に詰め寄って、ビシっと人差し指を真っ直ぐに伸ばした。その先では舌をダランと出した猪と、転がってしまったオジサンが倒れている。
「ナニしてんのよバカァ!! いくら王女だからって、やって良いことと悪いことがあるでしょうが!!」
「? 当然ではありませんか。寧ろ王女であるからこそ、責任や義務といった物も、往々にしてこの背に伸し掛かるもので――」
「スゴい立派な事言ってるけどこれっぽっちも説得力がないってのよ!!
なに? あんた、あの人になんか恨みでもあるわけ!?
そんなワケ無いわ、だってあんただもん!! ちょっと強そうなのが走って来たから、なんか気分でぶっ飛ばしたとしか思えないもん!!」
あれ!! あれ!! と、アルは小刻みに痙攣する大猪と、その隣で頭を振って土を払っているオジサンをもう一度指さして言った。哀れな被害者らしきオジサンは、猪のあまりにも見事な昏倒ぶりに一瞬、驚いたようにも見えた。しかし騒ぎ立てるアルと、その隣に立つ白い王女様の姿を見るなり、得心したといった様子で「うむ」と頷いていた。
オジサンの様子に、アルが語調を弱め、首を傾げた。オジサンはパタッと立ち上がり、商売人に特有の営業スマイルで、ニカッと眩しく微笑み掛けてきた。
「おや、王女様でねーっすか。相変わらず、見事な腕前で――」
「お久しぶりですね。最後にお会いしたのは、いつでしたでしょうか?」
「グリフォンが育つ前っすから、だいたい六、七年前でさぁ。さて、本日はお城までで宜しいんで?」
「はい。客人も含めて、四人でお願いします」
ウェヌスとオジサンのやり取りに、アルは真也と顔を見合わせ、首を傾げあった。どうもオジサンの醸す雰囲気からは、別に王女であるウェヌスに萎縮しているという訳でも無く、さも“ぶっとばされたのが当たり前だ”とでも言いたげな色が感じられたからであった。
「……あー、嬢ちゃん達は知らねぇと思うけどよ。このオッサン、な、」
そこで、ネプトが頭を掻きながら、どこか疲れた顔で続けた。
「……、運送業なんだわ」
そう言って、ネプトは更に補足した。
曰く。建物の密度が薄いヴィーンゴルヴは、密集建築型のシルヴェルサイトに比べると街の面積が広く、つまりは人を運ぶ為の交通網がそれなりに発達しているとのことらしい。目の前のオジサンの職は、言わばそういう事なのであった(真也は「この世界流のタクシー業みたいなものか」と唸っていたが、アルにもその辺りの概念は多少は理解が出来る)。
そしてこの“武の国”に於いて、最も広く使われている地上用の騎乗生物こそ、目の前で伸びている大猪・グリンブルスティであるという。馬よりも速く、また遥かに力が強いので重宝されているらしいのだが――そこは、まあ。流石は筋金が入りまくりの戦闘国家・武の国というべきか。一つだけ欠点と呼べるものが、無いこともなかった。
――つまりは、自分を止められる人間の言うことしか聞かないというのだ。
当然ながら、武の国に於いて運送業に従事する人間には、先ず何よりも、馬より速くそして力強い体長5メートルの猛獣・グリンブルスティを倒せるだけの戦闘能力が求められる。そこからして既にイロイロと間違っているような気がしないでもないが、別にそれさえ解決すれば、全ての問題に終止符を打てる訳では無い。
ネプトがウェヌスから聞いた話によると、このグリンブルスティという大猪は、自分よりも弱い人間を運送しろ言うと、例え運送業者の命令だろうとヘソを曲げるような、妙なプライドを持っているらしいというのだ。具体的に言うと、十分な戦力が無い人間の前では、決して止まってはくれない。そのクセ猪だけあって頭が悪く、人間の顔なんか十分以上覚えていられないというのだから、これはもう、本当の本当に困ったものだ。
……えーと、つまりナニが言いたいのかというと。
このグリンブルスティによる運送業者を利用する場合には、利用者は先ず、グリンブルスティを力ずくでぶっ飛ばすところから始めなくてはならないという事である。
一連の説明を、真也とアルは、共に沈鬱な面持ちで黙って聞いていた。一旦落ち着くように、深く深くため息を吐きあってから、不意に気になったのか、真也が「……で、これはオレ達もやらなきゃ駄目なのか?」と、心配そうに訊いていたようだった。
「いえ。グリンブルスティは誰にやられたのかも記憶出来ないので、一回の打倒で一行まで有効です」とは、その大猪と非常に気が合いそうな王女様・ウェヌス談。
その解答に安心する反面、こんなしょうもない事で一々安堵してしまっている事に、この国に毒されつつある事を悟って真也とアルは再び大きなため息を吐いた。
ネプトが、「気持ちは分かる」とでも言いたげに肩を竦めていた。
「それでは、行きましょう。グリフォン程ではありませんが、グリンブルスティの足なら、直ぐに城に着く筈ですから」
恭しく頭を垂れるオジサンを労いつつ、ウェヌスはグリフォンに命じて先に発たせ、猪が立つと同時に起立し始めた貨車改め客車の中へ入っていく。
オジサンに真也たちのバイクと荷物を荷台に積むように頼み、彼女はアルの方に振り向いて、ふと思い出したように笑みを零した。
「――武の国へようこそ。今夜限り、我々は貴女達を歓迎します」
営業スマイル的な意味もあったのかもしれないが。
相変わらず、六国に名高いことも頷ける、白薔薇のような美貌の笑顔だった。
……、少なくとも、笑顔だけは。
―――――
ガタゴトと五月蝿い客車の振動に揺られながら、朝日真也は窓から流れ行く街の景観を眺めていた。
恐らくは、この国が銀の国よりも温暖で湿潤な気候帯に属している事が関係しているのだろう。目につく建造物は一見しても窓が多く、時折見かける木を編んだような壁や屋根は、とても風通しが良くて涼しそうである。イメージ的には、日本の木造家屋と東南アジア辺りの建築を足して二で割り、全体的なデザインを洋風に変えた感じだろうか。気密性が高い建物が多い銀の国とは、この点で言っても非常に対照的に思われた。
猪に引かれる客車は、真也の視界に景色を流す為にひた走る。見る間に建物の密度が明らかに増していき、人通りが増えていくところから、間違い無く街の中心部に向かっている事は真也にも実感できた。
建物が増えていくにつれて、今度は通りにポツポツと、真っ昼間だというのに燃え続けている燭台のような物が増えていく。あれらには、何か儀礼的な意味でもあるのだろうか? 真也には少しだけ気にもなったが、その頃から身体の重さが更に増してきたように 感じられたので、特に尋ねようとも思わなくなった。こんな、動くだけでも億劫なくらいに重いのに、平気な顔で剣の稽古に勤しんでいる街人達に唖然としたからでもある。
「……真昼間から、こんな場所で連中はナニをしてるんだ?」
だから真也は、取り敢えずこちらの問いを優先しておくことにした。
「恐らくは、本番に向けての鍛錬でしょう」
真也の視線の先を追って、ウェヌスが答える。
そして、事も無げに付け加えた。
「もうすぐ、“選定の剣技会”の第一回予選が開かれますから」
「“選定の剣技会”?」
真也は聞き返した。気になったからというよりも、会話でもして、少しでもこの“重さ”を紛らわせたいという意思が感じられる声色である。
ネプトが、ナニか思い出したく無い事でも思い出したように、眉を潜めていたような気がした。
だが「そうですね」と、ウェヌスが思い付いたような口ぶりで顎に手をやったので、真也はそちらに集中する事にした。
「興味があるのなら、出場してみてはいかがですか? いえ、心配は無用です。試合では模造刀の使用が義務付けられてはいますが、魔術の使用は禁じられていませんので。中々に厳しい戦いになりますが、真也さんの扱う“奇妙な理”なら、万が一ということも――」
ウェヌスは、ともかくそんな提案をした。……途中途中で、明らかにネプトの様子を伺っていたのが、真也には気にもなったが。
当のネプトは腕を組み、目を閉じたまま無言だったのだが――しかしそんな彼らのやり取りに、真也はどこか只ならぬ気配を感じ取ってもいた。
――チラリ、と。真也は、アルの顔色を伺ってみた。
真也の隣に座るアルは、真也と反対側の窓を眺めていたので、表情までは分からなかった。が、心なしか、というか間違い無く、ギリッとその奥歯が音を立てるのを真也は見た気がした。
……真也は、心の中で絶対の決意を固めた。
「……遠慮しておく。大体、近いって言ったって、まさか明日明後日の話でも無いんだろ?
どんな大会だか知らないが、長く居座ってまで参加する価値があるとも思えないな」
「――、そうですか。まあ、当然の話でしたね」
特に残念とも思えない様子で。しかしどこか不安げに目を泳がせながら、ウェヌスは言う。
そして横目で、不満気にネプトの横顔を伺いながら、よく見なくては分からない程度に頬を膨らませて、続けた。
「そうですね。では次回の“本戦”が行われる折になりましたら、是非ともいらっしゃって下さい。
ご安心を。もし突然心変わりされた場合でも、ちゃんと“飛び入り参加枠”というものが――」
「やめとけ!!」
そこで、いきなりネプトが割って入った。
……一体、どのような心境からなのだろう。身を乗り出して叫ぶネプトは、見るだけで萎縮させられそうな、鬼気迫る表情をしていた。人心に疎い真也にすら、疑うべくもない。ネプトは今、本気で真也に“やめろ”と言っているのが一目で分かる。
そして、ネプトはハッとしたように、席に腰掛け直した。
「……、悪いことは言わねぇ。白いの、飛び入り参加枠だけは、絶対に、やめとけ」
「…………いや、初めからそんな物に出る気は無いが」
痛々しい表情で忠告するネプトから目を逸らし、真也はなんとなくネプトの隣に守られる、白いドレスの王女様の様子を伺った。清楚可憐なお姫様は、翠色の瞳を少し細めて、しかしハッキリと“やめろ”と言ったネプトに、どこか満足そうな笑みを浮かべてもいた。
……、何故だろうか。今の瞬間、この主従の間でナニか致命的な行き違いが起きたような気配が、事情を一切知らない真也にもヒシヒシと伝わっていた。
真也は、動かすのも億劫な身体を伸ばして、肺から二酸化炭素を吐き出した。
「オレは物理学者なんだ。どうひっくり返したって、そもそもが“剣技”なんて柄じゃないだろう。
……てか百歩譲って“剣技”はいいにしても、“選定”って一体ナニを選定する会なんだ?」
「“婚約者”よ」
口に出すのも不愉快そうな声で言ったのは、アルだった。
気怠そうに、人差し指をネプトの隣の席に向ける。
「……コイツのね」
「は?」と。真也は、アルの一言に間の抜けた声を上げた。
それは別段、理解出来なかったからではない。否、“強さが全て”の戦闘国家・武の国で、王族の結婚相手を探す為に武闘大会を開くのは、寧ろある程度は自然な流れだとも言えるだろう。
よって真也に理解出来なかったのは、単純に先の提案の意味であった。
「……どうして、そんな大袈裟な大会が必要になる?」
先ほどウェヌスは、真也にその“選定の剣技会”に出場しろと言った。それはつまり、真也に“自分の婚約者争いに参加しろ”と言ったのに等しい。……いや、まあ。明らかにナニか別の意図があったコトは見え見えだったのではあるが。しかしそんな事情を抜きにしても、もしも選定の剣技会が婚約者選びの場であるのなら、先の提案は冗談でもおかしな話になるだろう。
改めて確認するまでも無く、ウェヌスは器量の良いお姫様である。理知的な印象を与える切れ長の目に、スッと通った鼻梁。薄い化粧が施された頬は、彼女生来の白い肌に、分かるか分からないか程度の微かな朱を差している。
あくまで真也自身の基準を当てはめれば、という前提ではあるが。ウェヌスの容姿は、もうこれ以上は望めないのではないか、と思ってしまう程に整っていると言えるだろう。オマケに武の国の王族の第一王女という家柄を持ち、更に強さが全てというこの国にあって、一国最強の戦闘能力を誇る“大魔導”という条件まで揃っている。
――結婚相手など、引く手数多である筈だ。(頭以外に)これといった弱点も見当たらない彼女は、選ぼうと思えば、それこそどんな高望みだって許されるだろう。そんな彼女の結婚相手が、まだ“決まっていない”なんて事態が、本当に有り得るものなのだろうか?
真也の意を察したように、ウェヌスはキュッとその双眸を閉じて、プルプルと両の肩を震わせた。
「相手が……、いないのです……」
そして、沈鬱な表情で。苦虫でも噛み潰したような顔で吐露した。
その一言は、真也の予想を一撃で粉砕して太平洋に撒き散らす物であった。
「? それは――」
「話は簡単ではないのです。
……先ほどお話した、柵に関わる事、とでも言いますか。
武の国の王族の婚礼には、それはそれは厳しい条件がありまして――」
「……120パーセント予想出来るけど聞いてあげる。なに?」
「無論、私よりも強い事です」
「……ブレないな、この国は」
真也は頭を抱え、血が溜まってきた脚を動かし、組み直した。いい加減、彼女の文化についても少しは分かってきたらしい、が、そんな自分に逆に嫌気が差してしまったのだろう。
真也は、面倒臭そうに肩を竦めた。
「でもその条件、よく考えたらかなり厳しくないか?
だって、ほら。あんたの剣の腕って、確か――」
「……ええ、そうです。自慢ではありませんが、私と比肩し得る腕を持つ男性は、今の武の国には一人も居ませんでしたからね。
――そもそも、“武の国の王族を単騎で倒せ”という条件に無理があるのです。
お陰で武の国の王女は、強くなくては男性の気が引けないと教えられながら、強すぎても嫁の貰い手が居なくなるという矛盾を常に抱える事に――」
「…………」
「母上の時など、凄惨たる状況だったと聞いています」とウェヌスは続けた。
曰く。彼女の母親は大狼の異名で恐れられた女傑であったらしい。
歴代武の国王族でも屈指の実力を誇ったその“大狼”は、“選定の剣技会”では毎度、他を寄せ付けぬ圧倒的な戦闘能力を見せつけ、勝って勝って勝ち続けた。その戦いぶりがあまりにも圧倒的過ぎた為か、“このままでは永遠に世継ぎが生まれない”と、心配した当時の宰相が一計を案じた程である。
結局。最後には国中の猛者を闘技場に集めての“無差別バトルロイヤル形式”にすることを承諾。“討ち取った者を伴侶とする”という条件の下、それでも怒涛の如く押し寄せてくる男たちをバッタバッタと薙ぎ倒し続け、7日後にようやく、最後まで闘技場に立っていた若手の騎士と添い遂げる事を了承したのだという……。
「……凄まじい話だな」とは、脳髄から燻ってきた強烈な鈍痛に眉間を捻った真也の言。
どこか投げやりな態度に思えるのは、きっと、おそらく、もうツッコむだけ無駄だと察してしまったからなのに違いない。「しかし、まあ。大変なのは、よく分かった」と、呆れがちな様子でコメントしていた。
「要するに、実質は政略結婚みたいなものなんだな。
なるほど。流石に一国の王女ともなると、相手を選ぶ自由がある訳でもなし、か」
「いえ」
しかし、真也の解釈に対するウェヌスの返答は、またも予想の遥か上を行く物だった
白いドレスの武装姫は、ニコリと、白薔薇を思わせる大輪の笑みを咲かせて、続けた。
「最終的に、婚姻を申し込んだのは母上の方だったと聞いています。
実のところ、当時の父上はまだ若く、剣の腕も母上には遠く及ばなかったそうなのですが――。
三桁近く昏倒させられても、決して折れる事無く向かってくる父上の心の強さに打たれ、試合の最中に心を射止められてしまったようですね。
――“選定の剣技会”に於いては、そういった事例が往々にしてあるそうです。
その話を聞いてからというもの、“選定の剣技会”の会場で、いつの日かこの心を射止める程の猛者と相見えることが、私の幼い頃よりの一番の――」
「……アル、明日は一刻も早くここを出よう。この国、もう嫌だ」
ツッコミが追いつかない程の史実と現実に、生粋の物理学者たる真也は疲れた顔で頭を抱える。
対するウェヌスは、少しばかり話しすぎたと思ったのか、気恥ずかしげにコホンと咳払いをしていた。
「……まあ、これは貴方に言っても仕方のない話でしたね。
とにかく。王族の婚礼には、色々と厄介な事情がある事を分かって頂ければいいのです。
――まったく。待てども待てども、骨のある男性は現れませんし。ようやく“それ”が可能な男性に出会えたと思っても、その方の方が乗り気であるとも限りませんし――」
ウェヌスがなにやらブツブツと言っていたような気がしたが、真也は特に、それ以上聞こうとも思えなかった。聞く気が起きなかった、とも言える。それは単純に、これ以上“恐ろしい話”を聞くのに耐えられなかった、というのもあるだろうし、魔力濃度が低下し続けることによる全身の圧迫感が、そろそろ地味に辛いレベルに達しつつあったというのも理由の一つだっただろう。
真也は全身の倦怠感を振り払うように深呼吸をして、そろそろ見飽きてきた自分の席側の窓から、少しの間反対側の窓へと視線を移す事にした。
その時、なんとなく。窓の外を眺めているアルの横顔が、目に入った。
――ふと、気になったのだ。
この国に入ってから、だろうか。いや、もしかしたら、もっと前からだったのかもしれない。でも、少なくとも真也が気が付いたのは、この国に入った頃からだった。
彼女――アルの様子は、やはり少しだけおかしいように思えた。具体的に何が、という訳でもない。だが真也には、なんとなく、今のアルの行動は、一つ一つが妙に上の空のように思えたのだ。
例えば、そう。先刻の、バイクが止まった時の騒動だってそうだろう。
アルテミア・クラリスは、魔術に関しては間違い無く天才だ。彼女より魔導の才に秀でた人間は、まず考えられないのではないか、と思われる程である。
――そんな彼女が。いくら気を緩めていたからといって、辺りの魔力量を致命的なまでに減少させてしまうヴィーンゴルヴの術式に気付かない、なんて事態が、本当に有り得るものなのだろうか? バイクの残存魔力量がゼロになるまで気付かず、そして止まってしまった原因を究明している時に、しかもその事実に思い至らないまま、無防備にも魔力量がより少ない街の中心に向けて歩き出す、なんてことが、本当に有り得るものなのだろうか?
真也には、そうは思えなかった。アルの実力に絶対の信を置いているからこそ、普段の彼女なら、先刻程度の異常には気付くなという方が難しいようにすら思えた。
――何かが、おかしいような気がした。
胸の奥には、歯車が軋んでいるような錯覚が蟠る。もしかしたらそれは、本当は何でも無い事なのかもしれないし、或いは真也自身、実はもう分かっている事なのかもしれない。
重くなっていく身体に働きが鈍った真也の脳では、今は明確な解答を打ち出す事が出来なかった。
街並みを眺める翡翠の瞳も、何も教えてくれそうには無かった。
結局、グリンブルスティを止めてから30分前後程度で城に辿り着くことは出来たらしい。城は街の中心部に聳える、簡素な造りをした白い塔で、遠目に見える四つの塔に、東西南北の四方を囲まれる形になっているらしい。
景色を眺めながら、巨大なコロッセオと一連なりになった城の門を潜るうちに。物珍しさに紛れて、小さな違和感など、いつの間にかどこかに行ってしまっていた。
だが。耳鳴りの様に響く、歯車が軋む嫌な音だけが、暫くの間、真也の中から消えてくれる気配が無かった――。