84. 銀の国辺境に於ける幽閉中の大魔導に対する非合法的組織の方々による協力を得た不可知的兵器を用いた非常に希少であると目される不確定先天魔術の実在とその効果を確かめる為の合理的な実験
大変長らくお待たせしました~!!
ただいまより、色々な意味で激動の第四章・ニヴルヘイムの亡霊、開・幕です!!
ギリギリでRは付かないと思いますけど、イロイロと過激なシーンとかも入ってくると思いますので、どうかごゆるりとお楽しみ下さい~。
信じる価値も無い絵空事だと思っていた。
銀の国辺境・ギムレーの宿場町の一角に、男は少女の姿を見咎めた。
少女はベンチに腰掛けていた。ベンチと言っても酷く粗末で、“木箱”と表現した方が相応しいような代物だ。恐らくは奥に見える“土産マセナ屋”の店主が、店に異国風の雰囲気を醸す為に置いたのだろう。お世辞にも実用を意図したとは思えない、荒い格子状の木板の上で、黒髪の少女は組んだ脚を落ち着かな気に揺らしている。
所作には何の奇異も感じなかった。
テポ味のマセナを口いっぱいに頬張るその少女は、幼さ相応に可愛らしく見え、故に辺りを歩いている他の子供に比べても異彩が無い。
確かに黒地にレースを基調とした服装や、紅玉のように赤い瞳、そしてこの地域に珍しい黒髪は、少々人目を引くかもしれない。だがそれは、あくまでも「少し変わっているな」と見る者に一瞬の逡巡を与えるのみであり、見物人の思考を長く束縛し得るまでに異質な物ではあり得ないだろう。
――そう、少なくとも。
通り向かいの宿屋の窓が反射する陽光に髪を濡らし、時折眩しそうに目を細めつつ、オレンジ色の生地に包まれた焼き菓子を頬張り続けるこの少女が。この世界を支配する魔導という理の頂点――大魔導の称号を持つ最高位の魔術師であるなどと、一足飛びに想像できる者が居よう筈も無い。
事実として男――アナンケ・エピメテウスとて、“司令”という形で事前情報を得てさえいなければ、全く気に留める事すらしなかったに違いなかった。
「む~……。やっぱり、ネモ味の方が良かったです~……」
お昼時を過ぎ、歩道の人通りもまばらになってきたせいだろうか。
物陰で息を潜めるエピメテウスの耳には、呑気な少女の独り言が、イヤでも鮮明に聞こえていた。その警戒心が抜けきったような少女の態度に、まだ自分という存在が気づかれていない事を確信して安堵する反面、何も知らないままに少女が辿るであろう運命を思うと、男はほんの少しの虚無感のような物も覚える。
尤も。彼がここに至るまでに積み重ねてきた“経験”は、“その先の事”を思い留まらせるにはあまりにも彼を歪ませすぎていたのだが……。
「――C班が配置についた。A班、B班、そのまま待機。
潜伏班が準備を完了次第、“標的”の抹殺行動に移る」
くすんだ外套の襟元に付けた、小さな穴が無数に空いた青バッジに向けて、エピメテウスは押し殺した声を吐き掛ける。この道具の名前は――さて、何と言っただろうか。馴染みの無い名称の故にエピメテウスの頭には残らなかったものの、道具など使い道さえ分かれば、名称に拘る必要性は大して無い。差し当たっては、魔力無しで扱える“念話”のようなもので、離れた人間との意思疎通を可能にする道具だという事だけわかっていれば十分だ。
各分隊に指示を終えたエピメテウスは、豊齢線の入り始めた口元の肉を引き結んで、哨戒するように“標的”の様を伺った。午後の気怠い陽気の故だろうか。少女は退屈そうにアクビをして、大粒の目をクシュクシュと服の袖で擦っていた。
その時、ジョゼがいつもの軽薄な笑みで自分を見ている事に気が付いた。
「……、やりにくいものだな」
シニカルに嘯き、エピメテウスはジョゼのニヤついた口元から目線を外す。
「どうだか」と、ジョゼは目を細めて、見透かすように口端を上げた。唇の端にゴテゴテと付けられたピアスが、チャリンと間抜けな金属音を立てた。
「旦那。別に、ガキを殺んのが初めてってこたぁ無いでしょうが。
五歳の王女バラした事もある人が、今さら何言ってやがんすか」
「……、言ってみただけさ」
茶化すように言うジョゼに、エピメテウスは低く喉を鳴らした。
自嘲気味で、ともすれば苦笑のようにも見える笑い方であったが、あまり思慮深いとは言えない質のジョゼは、大して気にした様子もないようだった。エピメテウスも、わざわざ説明するような事では無いと思っていた。
ジョゼとは、“前回の仕事”で知り合ってから三ヶ月程の付き合いになる。
酒癖が悪く、女絡みでたまに揉め事を起こす事を除けば、気立ても良く中々に雰囲気作りの上手い男だと言えるだろう。そのチンピラ染みたなりが示す通り、多少の倫理面での薄弱さは見られたが、寡黙なエピメテウスとは真逆の性質である為か、“仕事”では逆に馬が合った。
じき四十も後半になるエピメテウスにとって、ジョゼは親子程に歳が離れた青年でもあったが、だからこそ、実の親子のような愛着を持てる唯一の相手でもあった。
「――改めて、言っておくが」
気を引き締めるような声色で、エピメテウスはジョゼに言う。
「間違っても、“アレ”をガキだとは思うな。
“奴ら”と俺達は、生まれからしてもう“別の生き物”なんだ。
――化け物なんだよ、“奴ら”は。だからこそ、今回の仕事の中身はあくまでも――」
「“殺害”じゃなくて“暗殺”。奇襲掛けて、反撃させる前に瞬殺しろっつー事でしょ? もう何十回も聞いてるっつーの。
……ま、旦那の杞憂だと思いますがね。ほら、見てみなっつーのあの安心しきった顔。昼寝中のシャム殺すのと、さてどっちのが難しいか――」
「……、すぐに分かるさ」
ジョゼの軽口にも、エピメテウスの強張った顔付きは変わらなかった。
それは年齢からくる“経験”の差や、或いは彼らの根本的な性格の差異に起因するところも多少なりともあったかもしれないが、それ以上にエピメテウス自身の出自による要因が大きかったのだろう。
エピメテウスとて、嘗ては人並み以上に魔導を収めた、“魔導師”と呼ばれる存在の一人であった。魔術大国銀の国で、平民ながら比較的裕福な家に生まれた彼は、他の多くの者がそうするように、当たり前のように魔導研究所に通う学生として魔術を学んだ。人より少しだけ多くの事が記憶でき、人より少しだけ術の扱いに優れていた彼は、無い目的と自覚の無いプライドだけを持ち、特に何も考えるまでも無く魔導師という職に就いていた。
――その道を外れたのは、果たしていつの頃だっただろうか。
この“魔導”という分野には、どんなに努力を重ねようが絶対に届かない、自分には乗り越えられない“壁”がある事を悟った時か。或いは越えられない事を知りつつも、いつまでもその“壁”に挑み続けることの空虚さを悟った時だったか。
――或いは。
例えその“壁”に届かず、乗り越えられずとも、ほんの少しだけ道を外れれば、“壁”の向こうに居る者どもよりも大きな利を得る事など簡単だと悟ってしまった時だったか。
そのいずれか、或いは全てだったのかは当人すらも忘れたが、とにかく齢二十弱にして道を外れた彼は、今はこうして“壁の外”で利を得る事のみを目的として生きている。
故に彼が警戒を解かない理由には――或いは、もしかしたら――生まれながらにして“壁の向こう”にある存在への、僅かばかりの嫉妬や羨望もあったかもしれなかった。無論、相手が“大魔導”なら警戒してし過ぎるという事は絶対に無いし、(あり得ないとは思うが)“あの爺さん”から聞いた標的の持つ“銘”が事実であるのなら、それこそ決死の覚悟で挑んでも足りない相手だと言えるのではあったが……。
渋い面持ちのエピメテウスは、少女から目を離さぬように気を配り、左手でピン、と張り詰めた弦の調子を確かめた。長弓ほどの巨大さは無く、弦は小粋な引き金に連結されている。出来の悪いモデルガンの上に、鈍色の矢が番えられたようなその構造は、白い青年なら“ボウガン”とでも形容したことだろう。
だが最大で14連射が可能なように可動式の矢筒を装填され、何より二重*型に取り付けられた6本の弦が、たった1本の矢を加速するように意図された造形は、前述の器具を知る者には一種独特の禍々しさを感じさせるに違いなかった。
そして、それが今回の仕事に当たり、彼らの手に与えられた切り札でもあった。
――“それ”は、通称を“ウィザード・キラー”と言った。
嘗て地の国に召喚された守護魔が開発したとされる、“魔導師殺し”の非人道兵器である。
一般論として、高位の魔導師ほど魔力の流れには敏感だ。
特に“大魔導級”の魔導師であれば、(例え“魔導師”ではなく“魔術師”であれ)常に簡易的な感知結界・及び防護結界を身に纏い、外界の異変を感知して身を守ろうとする。それは並の魔導師なら、一日中常にジョギングし続けているように感じられる程の負荷だろうが――しかし持って生まれた規格外の魔力でもって、平気な顔でそれを成してしまうのが、この世界に於ける“大魔導”という怪物達なのであった。
だが、そんな化け物と言えど弱点と呼べる物はある。
例えば多くの場合、連中の扱う感知結界は、“魔力の流れを読む”事によって異常を察しているという点。特に今回のように、多くの刺客が街人に紛れて首を狙っている場合なら、更にその大多数が魔導を扱えないアウトローである場合なら、高性能の感知能力を持っているが故に、逆にその存在に気付く事が難しくなってしまうこともある。
エピメテウスの手にある切り札も、言わばそういった“意識の死角”を突いた兵器であった。魔力とほぼ相互作用しないシラド鋼を矢として使う事で、魔力の匂いを排除して、魔導師達の知覚の隙間へと潜り込む殺戮兵器。いかな大魔導級の防護結界といえ、“常備用”の簡素な物では、超高速飛翔する鋼鉄の鏃を防ぐ事は叶わない。たった一本の矢を放つ為に六本もの弦が用意されているのは、鎧のような魔導師の防護結界を、魔術を使わずに破る目的があっての事であった。
そのウィザード・キラーのレールの隣、大袈裟なハンドルを両手で回して、エピメテウスは六本の弦を慎重に引き絞る。常備用とはいえ、大魔導級の防護結界を破る程の威力を得る為の弦だ。下手に暴発させ、手に当たろうものなら指が飛ぶ。
歯を食いしばりながらハンドルを回し続けるエピメテウスの顔を、ジョゼが不思議そうに眺めていた。
「何してんすか?」
「左の宿舎の窓を見ろ。潜伏班の準備が完了した。これより作戦行動に移る」
「いや、だから弦。無駄に固いんだから、自動装填使えばいいでしょうに――」
「……自動装填は僅かに辺りの魔力を乱す。使うなら二射目以降だと言った筈だ」
エピメテウスの返答に、「へいへい、分かってまさー」と、ジョゼは大して真剣味の無い態度で応じた。ジョゼ自身が自分のウィザード・キラーのハンドルを回す気配は無い、が、それ自体は気にするような事でもない。元々、エピメテウスが打ち込む“一射目”を合図に、全方位から一斉掃射を掛ける手筈になっているからだ。勿論、ジョゼもその為の要員に含まれている。
ハンドルが付いているとはいえ、当たれば肉が裂けるほどの弦を引き絞るのは、近年筋力が衰え始めた彼には少々堪えた。汗を拭いながらなんとか装填を熟し、エピメテウスはゾロリと光る鏃の先端を、ヌラリと路地の影から前に伸ばす。
――静かな午後の町並み。一人残された少女。物陰から機を見計らう自分。
僅かばかりの既視感を覚え、エピメテウスは知らず口元を緩ませた。
「……な~に気味悪い顔してんすか。
殺しでハイになるにゃ、旦那は歳食いすぎでしょうに」
「なに、ただの思い出し笑いさ」
片目を瞑り、慎重に角度と距離感を測りつつ。
視界の端で首を傾げるジョゼに、エピメテウスはまた、あのシニカルで自嘲気味な笑みを浮かべて言った。
「――五歳の武の国王女をバラした。
そういえば、そういう話になっていたな、と思い出してな」
「――――?」
エピメテウスの言葉に、ジョゼは首を傾げたように思えた。だがピントを少女に絞ったエピメテウスの目には、結局その仕草が判別される事は無かった。
彼の視界の中心には、ウィザード・キラーの鈍色の鏃が青い陽光にギラリ、と光っていて、その先端が向く先に椅子に腰掛ける黒髪の少女の姿がある。少女は退屈そうに眉を潜めて、両手の間の焼き菓子を口に含む為に、一度だけゆっくりと頭を下げていた。
そして菓子を口に入れた瞬間、黒いお下げが付いた頭は再び上がり始めて、エピメテウスの視界はその様をスローモーションのように捉えていく。少女に向けられた殺人兵器に添えられた人差し指は、ユラリ、と、エピメテウス自身の意思とは関係の無い動きで数センチだけ内側に折れ曲がって、ナニかが弾けるような音、その直ぐ後に、空気を切るような軽い音がヒュンと小さく鳴り響いて――。
――あまりにも呆気なく、それは終わっていた。
引き絞られた六つの弓、六本の弦によって加速された亜音速の矢は、殆ど“無音”と言っていい風の音だけを響かせて、サクリと少女の喉笛を真横から食い破っていた。少女の首の真ん中に触れた鋼鉄の矢は、柔らかい土に釘を撃ち込んだようにゾブリ、とソレを貫通して、背後のマセナ屋のログウォールに大きな亀裂を入れる。
少女の喉笛から、血飛沫は上がらなかった。しかし、それは驚くような事でも無い。
壁に突き刺さっている、ウィザード・キラーの矢羽を見れば明らかであった。それは出来の悪い風車のように、大きく大きく螺旋状に渦巻いていた。無音・不感知に徹底的なまでに拘りぬいたこの兵器は、矢自体に強力な回転を加えることで空気を散らし、“異常”が標的に感知され難いようにするという構造を採用していたのであった。
そして。それは標的に命中した瞬間にこそ、傷口の血管を捻じ切り、捻ることで止血を促し、緩やかな出血しか許さないという結果を齎すことになる。非人道兵器と呼ばれる所以がそこにあった。この“破魔の矢”の直撃を受けた魔術師は、身体の中を捩じ切られ、致命傷故の激痛に呻きながらも、その後数分~数十分は絶命する事すら許されないのだ。
捻狂う矢に気道と脊髄神経と頚動脈をズタズタにされ、地獄の数分間とその後の運命が決まってしまった少女は、強張った顔と身体を動かしてエピメテウスの方に目を向ける。
「なんで」と。まるでそう訴えるかのように、少女の丸々とした瞳は、落ちそうなくらい大きく大きく見開かれていた。
――その右目に、追加の矢が吸い込まれた。
自動装填を起動したジョゼが、待ちわびたとばかりに、呆然とする少女に追撃を放った結果によるものであった。
「ヒュ~ッ、ありゃ即死ったろ」
「無駄口を叩かず手を動かせ。相手は大魔導級だ」
ジョゼに苦言を呈しながら、しかしエピメテウスにも、少女の絶命は確実に思えた。何しろ少女の右目に吸い込まれた矢は、今やマセナ屋の壁に墓標のように突き立っている。エピメテウスの放った第一射の、丁度隣の辺りであった。それは間違い無く、矢が少女の眼球を突き刺して脳を抉り、頭蓋を突き破って飛び出した事を示すものだった。
「各班、掃射を仕掛けろ。反応が無くなるまで、撃って撃って撃ちまくれ!!」
だが、エピメテウスは手を緩める事などしなかった。
それは、勿論、万が一の事を考えたのだろう。否、寧ろ万が一にでも息が残っていたら不幸だとでも言わんばかりに、自動装填を起動して矢を装填し直しつつ、周囲を取り囲む何十という刺客に紛れ、彼は機械のように引き金を引き続けた。
少女の両の脇腹に三本ずつ。鉛色の矢が服を切り裂き、少女の皮膚の内側へと潜っていった。高所に陣取った部隊から放たれた矢は、少女の大腿部をマチ針のように貫いて、椅子の木板に少女の身体を標本のように縫い止めた。砕けた石畳とその下の土が、埃となって辺りに立ち込めていく。椅子そのものが破壊されるのに従って、少女の身体も大きく傾いで、粉塵に塗れた焼き菓子が、フワリと儚げに宙を舞った。
――それはもう、暗殺とすら言えなかっただろう。例えるなら、射的ゲームの的そのものだった。
体中を何百という矢に貫通された少女は、糸の切れた人形のように崩れ、頭陀袋のように地面に落ちた。粉塵が酷いせいで、その姿ははっきりと見えない。だが、原型を留めているならそれは奇跡的だろう。九分九厘、どれがどの部分なのかも分からないくらい、凄惨に肉が飛び散ってしまっているに違いなかった。
「…………」
“仕事”を終えた事を確信したエピメテウスは、弓を下げてジョゼと顔を見合わせる。
どちらとも無く、二人は大きく息を吐いていた。
「……まったく、酷い仕事だ」
そして、愚痴るようにそう漏らして、
「本当です~。いたいけな女の子に、あんなにぶち込むとか、わたしでもちょっと引いちゃうくらいのド外道っぷりです~」
――すぐ足元から聞こえたその声に、エピメテウスは息を止めていた。
「な、ん……」
ジョゼが、表情を固めていた。死期が迫った病人のような、蒼白い顔だった。そして恐らくは、エピメテウス自身も同じ顔をしていると思われた。
――訳が分からなかったのだ。
ただ一つ、言える事は。彼らの認識など関係無く、無視するように、果たして少女はそこに居た。下げたばかりの、今しがた少女の身体を壊した筈の六本弓にピッタリと抱きつきながら、物珍しげにそれを小さな指先で弄り回していたのだった。
――重ねて言うが。エピメテウスには、訳が分からなかった。今目の前で起きている現象は、魔導という理を学んだ彼の目にさえ、あまりにも常軌を逸し過ぎて映った。
先刻の不意打ちに近い矢の雨を凌ぐ方法は、一流の魔導師の手腕をもってすれば、確かにある。――転位、幻惑、強力な防護結界。数は少ないが、幾つかはある。
だが――。目の前の少女が行ったのは、そのどれとも明らかに違っていた。
何故なら少女の服は破損していた。矢に貫かれた両脇腹の生地は垂れ下がり、下着も裂けて、背中の布地までもが弾けるように内側から外へと破れていた。
そう。エピメテウスらが放った矢は、確実に少女の身体を貫通した筈なのだ。
――だからこそ、あり得なかった。
“転位”を使ったのなら空間の歪みから一目で分かるし、幻惑なら、そもそも実体は別の場所にある為、服が破損することは無い。防護結界を使ったのなら、少女の遥か手前で矢は阻まれ、間違ってもマセナ屋のログウォールに突き刺さる事などなかっただろう。
そう。こんな、まるで矢に貫かれたにも関わらず、全く傷を負わなかったように見える魔術など、エピメテウスは見たことも聞いたことも無い。
冷えきったエピメテウスの視界の端で。ジョゼが、弾切れになったウィザード・キラーの本体を、大きく大きく振りかぶっていた。不思議そうに見上げる少女の頭を、今にもその鈍器で打ち砕こうとしているように――。
「やめろ」と言おうとしたのは、無意味だった。何しろそれは、あまりにもあっさりと、拍子抜けするくらい間抜けな音を立てて、玩具のように簡単に砕けてしまったのだから。
――振り下ろされた、鈍器の方が。
ジョゼが振り被った鈍器は、少女の頭に触れる寸前に砕け散り、無数の糸と金属と木片になって飛び散っていた。破片の多くは少女を決して傷つけない軌道で地に落ちたが、いくつかがあらぬ方向に暴れて、ジョゼの唇のから何か光る物を一つ千切り飛ばした。――ピアスだ。三つ並んでいた内の一つが飛んで、ジョゼの唇の端がパックリと裂けている。
「ヒッ」と呻きながら顔を顰め、ジョゼが口元に右手を当てた。その右手には、指が何本か足りていなかった。弾けた弦が手を三分の一ほど持っていった事に、ジョゼはまだ気づいてはいないらしい。結局、彼は地面に転がる破片の中に、爪の付いた肉のような物が何本か転がっているのを見つけて、そこでようやく悲鳴を上げた。
「む~……。お兄さん、わたしにそんな危ないの向けちゃダメです~。
――だって、そうなっちゃうんですから。
あの妖怪爺さん、ちゃんと教えてくれなかったんですか~?」
少女の声が、イヤに柔らかに鼓膜を撫でる。その声色は脳天気で、砂埃と血の匂いが燻るこの場には、酷く場違いなように思われた。
――そして、それは実際に場違いだ。
何故なら今、異常を察した各部隊が少女を取り囲み、再びウィザード・キラーによる掃射を仕掛けている。無数の矢が飛び交う死地の真ん中で、しかし一切の傷を負わず、当たる瞬間に矢の方が砕けてしまう少女の有様は、一種異様だとすら言えた。
「小娘……」
そこで、エピメテウスが動いた。ウィザード・キラーにしがみついている少女を引き剥がし、後ろ飛びで飛び退り、甲に黄緑色の魔法円が光る右手を地に這わせる。彼が触れた石畳は、ウィザード・キラーの流れ弾で砕かれていて、その下に枯れた土が大きく覗いていた。
「こういうのは知ってるか!?」
つまりは、エピメテウスの“先天魔術”にとても都合が良かったのだ。
彼の右手が触れた瞬間、土は大きく盛り上がってその形を変え、やがては彼の身の丈程もある大剣を形成した。黄土色の剣はその刀身に魔力を纏い、全体的にエメラルド・グリーンの燐光を発している。
――先天魔術・砂岩緑翠の大剣。土属性に特有の“腐食”の付加効果を持ち、ありとあらゆる固体――特に有機物に対して絶大な切断力を誇る、エピメテウスが魔導師であった頃より代名詞として扱われた戦用魔術であった。その白兵戦での使い勝手故に、彼は“土剣”の異名で呼ばれた事もある。
土塊の大剣を、少女は不思議そうに見上げていた。四方八方から飛ぶウィザード・キラーによる掃射を受け続け、しかしその全てを身じろぎもせずに砕き続ける少女。その脳天に、エピメテウスは慈悲無く必殺の剣を振り下ろした。触れる物全てを腐食させる黄緑色の剣は、軌道上を飛ぶ鋼鉄の矢を数本飲み込みながら、少女の頭蓋を蒸発させる為に空を切る。
――そして、砕け散った。
当然だ。砂岩緑翠の大剣のランクは、高く見積もっても狼霊級上位程度。この少女が本当に“大魔導”だというのなら、件の“不可思議な魔術”を抜きにしても、正面からその坑魔術結界を破れよう筈も無いだろう。彼自慢の剣は容易く砕かれ、ただの土砂の塊と化して弾け飛び、エピメテウスと少女の間に舞い散った。
そして、それで十分だった。
エピメテウスは左手をユラリと正面に突き出し、そして迷わず引き金を引いた。
――ウィザード・キラー。
繰り返しになるが、大魔導級の防護結界と言えど完璧では無い。人間が張っている物である以上、その強度は無意識的に“脅威”に対して照準を合わせるようになるのが常であり、即ち知覚できない物に対する脆弱さを孕んでいるという事を意味する。
だからこそ、エピメテウスは敢えて効かない先天魔術を見せた。少女の視界を塞ぎ、死角を作り出す為にそれを用いたのだった。魔導という道をとうに外れた彼にとって、この手の戦法は言わば常套手段だとも言える。
土のカーテンを目隠しにし、完全に少女の死角から放たれた鋼鉄の矢は、宙に舞う土砂を弾き飛ばしながら瞬き一回の間に少女を捉えた。高速回転する矢は土の雨に風穴を穿ち、エピメテウスにその向こうの様子、少女の胸の真ん中に矢が命中する様子の一部始終を、間違い無く彼の眼球に刻み込む。
だからこそ、その瞬間。彼は、ようやく自分が何を相手にしていたのかを知る事になった。
結論から言えば。鋼鉄の矢は少女の胸の真ん中を捉え、間違い無く服の生地に風穴を穿っていた。
――だが、それだけだったのだ。
矢はその下に包まれていた、少女の皮膚に食い込んでいったように見えた、が、矢が通ったその軌跡には、傷のような物は一切見つける事は出来なかった。
矢が貫いた筈なのに、矢は当たらなかったのだ。
鋼鉄の鏃は(当たっていれば)間違い無く少女の心臓付近を通過した筈だが、少女の身体を傷付ける事は出来なかった。少女を一切殺傷出来ないまま、ただただ彼女の服の背中部分の布地を破いて、そのまま遥か後方へと飛び去って行った。
エピメテウスは、こんな魔術は聞いた事も無かった。聞いたことが無かったからこそ、彼の頭には、不意に“あの爺さん”から聞いたとある銘の逸話が過ぎったのだった。
「……それが、“最高神の福音”か」
独り言のようなその声に、傷を負わない少女は、少しだけ表情を固めたように見えた。肯定とも否定とも言えない顔。だからこそ、エピメテウスにはそれだけで十分だった。
つまりは、“悟った”のだ。
「爺の戯言だと思っていた。絵空事だと思っていたよ。
――この目で、見るまでは」
事実を悟った彼の胸に去来した感情は、“感涙”だった。魔導という道を外れながら、しかし嘗ては一度魔導を修めた身故に、彼はこの少女という存在に深い感銘を受けたのだろう。だからこそ、彼は少女の頬に、確かめるように指先を当てた。
「なるほど――。あの爺さんが、欲しがるわけだ……」
ひたり、と。応えるように、少女は小さな右手をエピメテウスの頬に置く。その甲に光る、黒い魔法円から溢れ出た黒い光の粒子は、少女の指先を伝ってエピメテウスの全身へと広がっていった。
赤い目をした少女は、口の端から八重歯を覗かせて、一度だけニコリと微笑んだ。
「おやすみなさいです、オジサン。
いい夢がみられるといいですね~」
全身に登ってくる闇の粒子と、天使のような少女の笑顔。それが彼という存在が見た、最期の光景になった。
次の瞬間。アナンケ・エピメテウスという男は、確実にこの世界から“消滅”した。
―――――
――そして。“それ”はぬいぐるみのように、パタリと倒れた。
壊れたマリオネットのように地面に倒れた“それ”を、黒髪の少女・プルートは、何の感慨も無い瞳で眺めている。それは決して侮蔑的な意味合いでは無く、単純に意味が無い事を知っていたが故の対応であった。
何故なら、“それ”はもう違っていた。
落ちそうな程に眼球を剥き、全身がダラダラと滴る汗に塗れ、そしてガチガチと歯を鳴らしながら頭皮をガリガリと掻き毟るそれは、嘗てエピメテウスと呼ばれた男とは、完全に違った別のナニかだった。勿論、プルートは彼の名前を知らなかったし、特にこれから知る予定がある訳でもなかったのだが――。
何にしても、“司令官”(各人の服装や練度でなんとなく分かった)が倒れたのだ。これで、今回の襲撃はもう終了したと考えて良いだろう。明らかに数が減り、散発的になった矢の雨を無視しながら、プルートはフワリと後ろを振り向いた。
プルートの後ろには、二十を過ぎたくらいの青年が一人、蹲っていた。裂けた唇と欠けた右手をグッと押さえて、プルートと、その隣で痙攣する壊れてしまった何かを交互に見ていた。痛みを忘れたように呆然としている青年に、プルートは一度だけ、ニコリと笑い掛けてみせた。
その青年――ジョゼと呼ばれたその男が次に取った行動は、酷く簡単な物だった。短い付き合いの友人を偲ぶ事でも、義憤に駆られてプルートに攻撃を仕掛ける事でも無い。
――彼が行ったのは、“逃走”だった。指が無くなってしまった右手もそのままに、立ち上がる余裕も無く、四つ這いになって犬のように少女から距離を取る事だった。まだ血が止まらない右手の跡が、スタンプのように点々と、灰色の石畳の上に増えていった。
彼の行動それ自体は、間違い無く正しい物だったと言い切れるだろう。彼らのようなアウトロー達は、文字通り“生き残る事”を最重要に考えなくては生きていけない。“仕事”の遂行が不可能となったのなら、或いは命が危ないと確実に判断したのなら、義理もプライドもかなぐり捨てて逃げるのは、言わば彼らが生きていく上での前提条件とも言える。道を外れた者達だからこそ、コストとリターンを天秤に掛けて、常に最大の利益を得られるように行動しなくては自分の身すらも守れない。
――だからこそ。彼がそうなってしまったのは、正にただの不運だったと言えるだろう。
もしも彼――ジョゼが、ほんの少しだけでも魔術の心得があったのなら。
或いは少しでも力の流れを感じる才能があり、自分が逃げるその先に、怖気を覚える程の魔力が収束していくのを察していたとしたら。
或いは少しでも平時の精神状態を取り戻していて、その場に響いていたある人物の詠唱を、聞き逃していなかったとしたら。
少なくとも、彼がこんな結末を迎える事は無かったに違いない。
逃走を開始してから10メートル。ジョゼと呼ばれたその男は、自分の正面の石畳が、地下から現れた巨大な何かによってモコモコと隆起していく様を見た。何かがおかしいとは思ったに違いない。だが全力疾走していた身体がいきなり止まれる筈も無く、彼は何が起きているのかも分からないうちに、瞬く間に“壁”のようになった土の山に正面から突っ込む事になってしまった。そして、その瞬間。彼は、自らの生涯に幕を下ろす事になった。
敢えて一つだけ述べるとすれば。“悪魔の土”に触れた自分の身体が、煙を上げながら骨まで溶かされていく様を見ずに済んだという点に於いて、頭から土に突っ込んで即死出来たのは、せめてもの幸運だったと言えるのかもしれないが――。
プルートは、その様子を呆然と見詰めていた。一人の人間の頭が蒸発し、侵食した土が皮膚と筋肉と内蔵を溶解していく一部始終を、どこか悼むような視線で見続けていた。目の前で何が起きたのかなど、彼女にとってはわざわざ説明される間でも無い。
――精霊級土魔法・怪傑巨兵。完全に発動させれば城塞都市すら壊滅させる、この世界が誇る魔術という理の極致。詠唱した声の主に心当たりのある彼女は、そして何より“大魔導”として魔力の流れに敏感な彼女は、当たり前のようにその現象を理解していた。「でも――」と、だからこそ、彼女は眉を潜めて、む~っと唸った。
「前見たときより、ずいぶんちっちゃいです~。
あの妖怪爺さん、ちょっとわたしをナメすぎじゃないですか~?」
「ほほほ、そう言いなさるな。
彼奴の先天魔術は、準備に大層な手間が掛るからのぉ。
寧ろ今日日魔術を使えただけ、褒めてやらねばなるまいて」
プルートの声には、低く深い嗄声が応えた。果たしていつからそこに居たものか。隻眼の老人はプルートの隣に立ち、いつもと変わらない、浮浪雲のように掴み所の無い表情で怪傑巨兵を見上げている。ただし、平時とは少々違う点もあった。老人――ヘリアス王の右手には、杖代わりに地に突かれた一本の槍が握られていた。その槍の穂先を見つめて、更に機嫌を損ねたように、プルートは眉をハの字に下げた。
「……やっぱり、ヒドい爺さんです~。
わたし、今日も来るなんて、ぜんぜん聞いてませんでした。
聞いてなかったから、たくさんたくさんグサグサ刺されて、お洋服こんなにボロボロになっちゃいました。
“カンシチュウ”のわたしをほっぽって、しかも自分だけ遅れて来るとか、ちょっと信じられないくらいのド外道です~」
「ほほほ、それは困ったのぉ。
自分は見なくていいから、代わりにあの男の分を見ておいてくれと言ったのは、はてさてどこの小娘だったのやら……」
「…………」
恨めしそうに、そしてどこか気恥ずかし気に見上げるプルートに、老人は左手に持っていた包み紙をヒョイと投げて渡した。出来立てらしく湯気が出ているそれは、開いてみると新品のマセナだった。当たり前のようにネモ味だ。桜色のその焼き菓子をパクリと頬張り、プルートは美味しそうに頬を緩ませた。
「それで~。わたしを放ってまで見てたんですから、ちゃんと分かったんですよね?――お兄ちゃん、どうなんですか?」
「そうさなぁ――」
プルートの問いに答えながら、ヘリアスは地に突き立てた槍を大きく振り上げた。手首を返して穂先下げ、そのまま再び地面に突き刺す。その瞬間、穂先から蒼白い電光が飛び、それが蜘蛛巣状に石畳を駆けて、取り囲む人垣を強襲した。未だに六本弓のボウガンを構えていた分隊の何人かが、ドミノ倒しのようにパタパタと昏倒した。
「これから数週間――いや、或いは数月かのぉ。彼奴の選択によっては、あっさりと“そうなる”事もあるじゃろう。……歯車は、軋み始めておる。どこかに亀裂が入るのは、まあ時間の問題じゃろうて。
その結果、彼奴がお前さんの望む通りに“そうする”のかは、また別の問題のようじゃが――」
「む~……。信じられないくらい役立たずな言い方です~。
まったく。そんなインチキ占いみたいなのの、“ダイショウ”に――」
言い掛けたところで、プルートは一度言葉を切った。轟音が鼓膜を揺さぶったからであった。それは天高く振り上げられ、振り下ろされた怪傑巨兵の腕から、無数の礫砂が吐き出され、攻城用の投石器のように周囲一体に襲い掛かった結果によるものだった。
近くの宿屋の屋根に穴が空く。石畳が砕けて土煙を高く巻き上げ、逃げ遅れたアウトローの何人かにも直撃した。当然、標的となったプルートには、最も多くの石礫が命中していた。当たり前のように、それは彼女自身には当たっても当たらなかったが。
「……こんなに、使うことになっちゃいました。
ぶっちゃけ、ぜんっぜん割に合わないです~」
「ほほほ。まあ、仕方無いんじゃよ。異世界人の“相”は、それだけ読み難いものなんじゃて」
「む~」と、拗ねるように頬を膨らませるプルートは、なんとなく手に持っている焼き菓子を見やる。ネモ味のそのマセナは、先の石礫でボロボロに崩れて、所々シュウシュウと白い煙を上げていた。残念そうに肩を落として、「次はパプ味にして下さいです~」と、プルートは赤い目をした老人に言った。
そこで、彼女は遠雷のように大きな声を耳にした。
「やはり、この程度では効かんか。ああ、効かん。そうでなくては困る!!」
明らかにこの場に居ないその声の主は、しかし明らかに何かを通してプルートの姿を認識しながら、何らかの手段でもって声を届けていた。声に含まれる色は、“歓喜”だ。虚勢など一切含まれてはいない。発売前の玩具を見詰める子供のような、あまりにも純粋に過ぎる喜びの声だった。
プルートは、辟易するように、チロリと八重歯を出した。
「……わかってるなら、もうやめてくださいです~。
わたし、最近ちょっとキゲンが悪いです。本当に、少しだけですけど怒ってるんです。
だから――。もし、もうちょっとだけキゲンが悪くなったら、もしかしたら、ちょっと口で言えないようなコトもしちゃうかもです~」
「ブワッハッハッハッハッハッハ!! それは好都合だ!!
貴様とて、儂の目的などとうに知っていよう!!」
無慈悲な巨人を操り、ガラス球の瞳で眼下を睥睨しながら。
この場に居ない褐色肌の老人は、豪快な笑い声を響かせ、続けた。
「ああ、そうさ。奪えるとまでは思っておらん。まだその時では無い。
――だから。今はただ、この儂にもっと見せておくれ。
貴様のその、“最高神の福音”を――!!」
「――、わかりました」
嘗て目にしたよりは小さな、しかし未だ十二分の威圧感を纏う土塊の巨人。その腕が再び持ち上がっていくのを、真っ直ぐに見据えながら。魔性のように赤い目を細めて、プルートは答えた。
「わかりましたです~。わたし今、お兄ちゃんに放っておかれてひまですから。
とってもとってもひまですから、ちょっとだけなら遊んであげますです~。
――だから、ちゃんと楽しませて下さいね?
つまらなかったら――、食べちゃいますよ?」
口元に浮かぶその微笑みは、どこまでもどこまでも妖艶だった――。