80. 精神依存性と身体依存性及び致死量との比率から見たアルコールとその他のドラッグの相対的な危険性を根拠とした薬物規制の是非を考える上で忘れてはならない最も悲劇的且つ劇的な事例の一つ
意識を心地の良い微睡みの世界から引き戻してくれたのは、妙に冷たい朝の空気と、鼓膜を撫でる爽やかな小鳥の囀りであった。
一体、どこから差し込んで来ているのか。
蒼い太陽が全身に穏やかな温もりを与え、糊付けされたように重い目蓋に、ゆっくりと活力を取り戻していく。
「……、ん」
そんな何とも素晴らしい、否、理想的とすらも形容できる目覚めの感覚とともに。
白い青年・朝日 真也は、肺の半分程まで空気を満たし、戯れる様に小さな伸びを熟してみた。
崩れ去った壁から吹き込む高層の外気が、薄れつつある夏の香りと共に鼻孔を擽り、何ともいえない安寧な気持ちにさせてくれる。
――恐らくは、ここが彼の空中国家・天の国であるという事実も影響しているのだろう。
山の空気は美味しいとは彼の世界でも頻繁に用いられる表現ではあるが、首都の中央に聳える新樹・レーラズから吹き抜けた清涼な風は、更に別格なまでの爽快感をもって、頭蓋骨を内側からぶん殴られているかのようなこの酷い頭痛を、ほんの僅かばかりでも緩和してくれている。
「……、外気?」
ふと。
真也はナニか、今自分が捉えた情景には、とてもおかしな情報が混じっていたような気がした。
チラリ、と。フカフカの赤絨毯に仰向けに倒れたまま、視線だけをあちらこちらに向けてみる。
「……、…………」
どうやら、ここは昨夜晩餐会を執り行った天の国宮廷のサロンであるらしかった。
らしい、と曖昧な表現になってしまったのは、その場の光景が、彼の記憶の中にある件の綺羅びやかな談話室とは、どう切り貼りしても一致しないであろうほどに様変わりしてしまっていたのが原因である。
第一に、六角形をしていた筈の周囲の壁はその八割強が消し飛んでおり、周囲を囲む三色の塔が大パノラマの視界に見えている。
第二に、見るからに歴史的価値がありそうだった天蓋が砕け散って床に散乱。一部の破片らしき瓦礫が、一体どうやったのか、青い塔の天辺へと乗っかってしまっている。
第三に、あれほどフサフサしていた赤絨毯はその半分以上が真っ黒に炭化していて、八つ裂きにされた円卓の残骸らしきモノが、虚しくもその上に鎮座しておられた。
「……、…………は?」
真也は、首を傾げた。
鈍痛によって上手く回らない頭で、三秒くらい考えこんでみる。
考えてみて、やっぱり結論が出そうにない事を悟ったので、真也は取り敢えず、上半身だけでも起こしてから考察を続ける事にして――何故か、身体が起こせない事に気がついた。
別段、縛られているワケでも何でもない。
柔らかいナニかが身体にキュ~ッと張り付いて、真也の腹筋の動きを、何とも見事に妨害してしまっていたというだけのお話である。
「ムニャ……、チュ……。
ん……、し、ん~……」
「……、…………」
――アルであった。
一体、何のつもりなのだろうか。
赤髪翠眼な魔法少女は、半分乗っかるような感じで横にピッタリと抱きついたまま、ネコのように真也の首筋をペロペロとお舐めになっている。
時折寝息がスゥスゥと掛かって、湿った皮膚が冷たくってこそばゆい。
普段からこのくらい静かなら無害なのにな~、なんて本人が聞いたら確実に実害を生み出してくれそうな感想を内心で零しつつ、真也は取り敢えず、なるべく静かに少女の肩を揺すってみる事にした。
「アル。おい、アル。
起きてくれ、なんかおかしいぞ?」
「……、ふぇ?」
二三度小さく声を掛けたところで、少女はマヌケな鳴き声を零しながらピクンと反応した。
とはいえ、元々朝はあまり得意では無いアルである。
最早習慣となっている日常的な修練は別として、仕事の無い日の朝なんかはやっぱり昼近くまで寝ている、なんてことも往々にしてある彼女なのであるからして、幼児退行したのかと心配になるような声をウンウンと暫し漏らしていたかと思えば、再び眠りの世界へと旅立ってしまったようであった。
――全く同じやり取りを繰り返すこと、更に三回。
寝ぼけてグズる小学生のような声を漏らしながら真也の首筋を吸血鬼のようにチュウチュウと吸っていた少女は、四回目で(やっと)その翡翠のような二粒の瞳をパチリ、と見開いたかと思うと、コタツから出たばかりのネコのように、ン……っと軽快に伸びをして――。
「「……、…………」」
――目が、合った。
そこからの彼女は、速かった。
それはもう、人の動体視力では追いきれないくらいに速かった。
エジソンの電気椅子実験に使われたネコのようにバチッ、と目を見開いた彼女は、一瞬にしてその顔面を薬缶のように紅潮させると、プロボクサーも真っ青な勢いの神速のバックステップで一瞬にして飛び退る。
「!!?? ちょッ!! な、なななな、ナニしてんのよアンタ!!
へ? うそ、ちょっと!? な、なんであたし、アンタに、へ!?」
少女の声に、真也は答えられなかった。
……飛び退くと同時に顔面に捩じ込まれた三発の拳と鳩尾への肘打ちにより、胃を拗られたような息苦しさと悪化した頭痛によって悶絶していたからである。
涙目で蹲っている彼がチラ、と目を向けると、どうやら少し離れた場所では、武の国の主従が似たようなやり取りの真っ最中であるらしかった。
「……おい、白いの。
お前、何が起こったのか覚えてるか?」
条件反射的な王女の斬撃をなんとか躱したネプトが、何やらイロイロな物を押し殺したような声で問う。
「……ちょっと待ってくれ。
あー、なんかだんだん思い出してきたぞ。
確か――」
ボロボロに崩れ果ててしまったサロンの真ん中で、凶悪な頭痛を堪えながら。
真也は、静かに昨夜の記憶を辿り始めた。
―――――
「そろそろお開きの時間みたいだね。
――そうだ、みんな。
せっかくだから、最後にとっておきの物をご馳走するよ」
呉越同舟のどんちゃん騒ぎが一段落して、そろそろ日付も変わろうかという時間帯になった頃。
相も変わらず爽やかな微笑を浮かべておられたユピテルは、不意にそんな提案を切り出してきた。
訝るように顔を見合わせる参加者諸兄。
彼らがそれぞれ首を傾げていると、いつの間にやらサロンを飛び出していた風属性少女・ウラノスが、なにやら人が丸々一人入れそうな木箱の上に乗りながら、木枯らしみたいな勢いで窓から会場へと戻ってきたのであった。
「お待たせ~。
ユピ様。“とっておき”って、コレでいいんでしょ?」
「ありがとう、ウラノス。
面倒をかけてしまって、悪かったね」
エヘヘっと照れる少女の緑髪をクシャクシャと撫で、ユピテルは箱から円筒形の瓶を取り上げる。
見たところ、そのままズバリワインボトルのようであった。
ユピテルがオープナーで栓を開け、注ぎ口を傾けると、開花したての薔薇のような甘い芳香が立ち籠め、透き通る様なルビー色をした液体が9つ並んだグラスの中へと満たされていく。
「レーラズの実から作った神酒だよ。
味は、僕が保障する」
フッ、と。ユピテルは、見ただけで赤面が抑え切れなくなるような微笑と共にそう断じた。
ユピテルによると、これは彼の世界で広く飲まれていた果実酒を、この世界の食材を使ってどうにか再現した物であるらしい。
守護魔と召喚主の皆様が、興味深そうに目を見合わせる。
ユピテルはボトルの口を白いタオルで押さえると、それをコトリとテーブルの上に置き、神酒を湛えた9つのグラスを各人の手元に運ぶようにウラノスに頼んでいた。
「どれ。では、先ずは予から戴くとしようか」
ウラノスお得意の飛行魔術によって、滑る様に円卓を移動してきたグラスを手にとって、メルクリウスが言う。
嫋やかな指先にグラスの脚をコロコロと遊び、口元には挑戦的な笑みを浮かべていた。
「……初めに言っておくが。
我が家系では、酒には一家言あってなぁ。
そう簡単に合格点は出さんから、そのつもりでおるがよい」
相も変わらず偉そうに嘯きつつ、メルクリウスはグラスの口へと鼻先を近づける。
外套を羽織っただけの彼女の肩が、一度ゆっくりと上下した。
次いでグラスをクルリと回し、値踏みするように液体の色を確かめてから、コクリと一口、彼女は中身を唇の間へと流しこむ。
傍目にも一目で分かる、日頃から高価な酒を飲み慣れている人間の仕草であった。
「――――っ」
サファイアの様な彼女の双眸が、ビビッと大きく見開かれた。
そのまま無言でグラスを置き、口元をキュッと引き結びながら、彼女はいきなりヒュパンと虚空に消え去ってしまう。
「「「「?」」」」
一瞬にして空っぽになってしまったメルクリウスの席を、不思議そうに見つめる一同。大方、手品でも見せられたような気分だったのだろう。
だが、まあ。ある意味では、彼女の行動が逐一破天荒なのは予め折込済みでもあったらしい。
訝りながらも誰も大して気に留めた様子も無く、次いでグラスの脚をしっかりと握りしめたウェヌスが、それをクイッと傾けていた。
――瞬間。
彼女の翠色の双眸が、やっぱりパチリと大きく見開かれた。
「こ、コレは――、また……」
「すげぇ酒だな。こんな美味いの、俺の世界にも無かったぜ?」
感嘆の声を漏らすウェヌスに、ほぼ同時にグラスを傾けていたネプトが相槌を打つ。
よほど、美味しかったのだろう。
筋骨隆々な武の国の従者は、心底たまげたといった様子で、豪快にルビー色の酒をゴキュゴキュと喉を鳴らして呷っている。
そんな中、対面の座席からはヒュルリと軽快な口笛の音が響いた。
「よぉ、旦那ぁ。おれっち、あんたの事誤解してたわ。
いや、あんたのこたぁ大嫌いだけどよ。この酒だけは、マジ最高だわ」
マルスだ。
見た目小学校高学年~中学生くらいにしか見えない彼は、ニンマリと大きく破顔しながら、当たり前の様にアルコールを摂取してそんな評価を下す。
彼の育った文化を考慮するに、“酒は二十歳から”なんて日本的なモラルを元に考える事自体、きっとあまり意味が無いのだろう。
ユピテルの世界もその辺りの認識はけっこう甘かったらしく、彼は口々に語られる皆の感想に、嬉しそうに目を細めていた。
その隣ではグラスを勧められたウラノスが、チラチラと遠慮がちに目を泳がせながら、コクコクと中身を口の中に含んでいる。
その時。ドンッ、と、大太鼓を打ち鳴らしたような轟音がサロンに響き渡った。
――樽だった。
一体、どんな手品だったのか。
人一人が丸々入れそうな大きさの大樽が、突如として空中に現れたかと思ったら、それが円卓のど真ん中へと降ってきたのだ。
あまりの重さに白い円卓がグワングワンとたわみ、振動と共に食器やグラスが悲鳴を上げる。
倒れそうになった神酒のボトルを、ユピテルが咄嗟に手で庇っていた。
「喜べ、ユピテルよ。
貴様の酒は、予が賛辞を贈るに十分値すると見た。
これほどの酒を振る舞われて、なんの見返りも与えぬのでは皇帝の名が泣こう。
――これは予からの餞別だ。飲むがいい」
どこからともなく聞こえるメルクリウスの声と共に、大きめの樽ジョッキが9つ、円卓の上へと追加される。
次いでパチンと一回、指を鳴らすような音が聞こえたかと思うと、それぞれのジョッキの上にはポゥッと小さな穴が浮かんで、虚空からトポトポと琥珀色の液体を吐き出し始めた。
――どうやら、樽の中身を直接“転位”させているらしい。
各ジョッキが一杯になった辺りで、穴が消えてピタリと液体の放出が止まる。
「“黄金の林檎”から作った醸造酒。我が国の名産だ。
特に、この年の物は格別でなぁ。
この樽一つで、小さな城が建つ程の逸品だ」
いつの間にやら“転位”で自席に戻っていたメルクリウスが、得意げに言う。
未だ自分のグラスに残っていた神酒をコクリと口に含みつつ、彼女は愉快そうにクツクツと笑みを零していた。
「それでは、私からも」
そんなメルクリウスを見て、思い出したかのようにウェヌスが挙手する。
とっくに神酒のグラスを飲み干して樽ジョッキに移行しようとしていた彼女は、チラリとネプトに目配せをすると、持ってきていた件の旅鞄の中身をポンポンと取り出させた。
――なるほど。どうやら、あの謎の大荷物の中身は土産品だったらしい。
確かに仮にも王族が正規の晩餐に参列するとあっては、ある程度の献上品を持参するのは、ある意味では至極当たり前の礼儀であるとも言えるだろうか。
……某学者と魔女が何やらバツが悪そうに目配せをし合ったりしていなくもなかったが、端から液体物と言えば降魔聖水と消毒用のアルコールしか持ってきていない彼らには、やっぱりあまりにも関わりの無い話でもある。
“やっぱり荷物が軽すぎたか”、なんて彼らが肩を竦めている間に、ネプトは鞄の中からタバスコの様に真っ赤な色をした瓶を大量に取り出し、参加者それぞれの席の前に一本ずつ配り終えていた。
「武の国名産の龍酒、ドラゴン・ブラッドです。
滋養強壮と疲労回復に効果があるとされています」
栓を開け、(ナニから作ればこうなるのか)トマトジュースのように真っ赤な色をしたその酒を、空いていたグラスの中に注ぎ込みながら。
武の国第一王女様は、朗々と自らが持参した酒を他国の皆様に勧めていた。
―――――
「よ、デカブツ。そんじゃ、アレやんねぇか?」
酒が卓上に出揃ったのを見て取るや、マルスがニマッと大きく破顔した。
その指先には円卓の中央の大樽が聳え、視線の先にはネプトが居る。
「あん? なんだよ、ガキ」
「言わせんなバーカ。
男が酒樽の前でやる事なんざ、一つだけだろ?」
ニッシッシと、挑戦的に笑いながらマルスは言う。
対するネプトは、ニヤッと獰猛な笑みを返していた。
「飲み比べか。いいぜ、乗った」
狩猟に出る肉食獣のような声でそう答え、ネプトは円卓の中央にあった大樽を、片手で掴んで赤絨毯の上に下ろす。
その左手には樽ジョッキが構えられ、右手は拳を作って樽の上蓋へと添えられた。
同じく樽ジョッキを構えたマルスが、その正面に立つ。
「……やれやれ、マルスよ。
貴様、予の話を聞いていなかったのか?」
上蓋に拳を添えたマルスに、背後から憐れむような声が掛けられた。
神酒のおかわりを嗜んでいたメルクリウスが、不機嫌そうな流し目を送る。
「それは、樽一つで城が建つ程の銘酒だと言ったはずだな?
本来であれば愛玩動物の貴様はおろか、名のある諸侯でもそうそう飲む事は許されん代物なのだぞ?
それを貴様は、あろう事か無駄に流しのもうと申すのか」
水を差すようなメルクリウスの言に、“が”、と、小さくマルスが呻いた。
今更になって、自分の発言の迂闊さに気付いてしまったのだろう。
彼女の機嫌を損ねるとどうなってしまうのかを重々に理解していたマルスは、メルクリウスがスッと右手を挙げ始めたのを見て、咄嗟に首輪を庇って涙目になっていた。
――だが、メルクリウスは懲罰を加える事が無かった。
挙げられた手は思い直したようにクリアブルーの髪を梳き、その口元は慈しむような笑みを浮かべている。
「……まあ、今日くらいは無礼講にしてやるか。
よいな? やるからには、死んでも勝て。
負ければ懲罰があると思えよ?」
「っしゃぁぁあああっ!! ナイスだメル嬢!!」
メルクリウスの承諾を合図にして、マルスとネプトは同時に拳を振り上げた。
カコンッ!! といい音が木霊して、樽の蓋が中央から真っ二つに割れる。
赤と青の二人の守護魔は、中に満たされた琥珀色の液体の中にゴボリとジョッキを沈めると、腰に片手を当てながら、それを一気に飲み干した。
メルクリウスが言うだけあってこちらもかなりの上物らしく、大人と子供以上に体格差のある二人は、休みもせずにカポカポと大樽の中身を減らしていく――。
「……、…………」
その様子を、呆れたような顔で見つめていたのは真也だ。
彼の正面にはドラゴン・ブラッドの赤瓶と神酒のグラス、それから今現在“飲み比べ”に使用されている、氷の国謹製の琥珀色の醸造酒が、一切手付かずのままに置かれている。
それらとバカ騒ぎをしている二人の守護魔の間に視線を行き来させては、真也は渋い面持ちで頬杖を付いていた。
「……貴様は、飲まないのか?」
そんな彼に、サタンがジロリとした目を向けてくる。
真也は、憂鬱そうに肩を竦めて答えた。
「生憎と、常用するドラッグはアッパー系と決めているんだ。
ダウナー系は、酩酊感がどうも肌に合わなくてな」
朝日 真也は17歳という若さではあるが、同時に既に列記とした社会人でもある。
いかに彼が人間嫌いであるとはいえ、“大学”という名の社会で職務を熟していれば、どうしても断り切れない付き合いという物もそれなりに出てきてしまう物なのであった。
そして彼の同僚と言えば、それこそ皆一回りも二回りも歳が離れたオジサマオバサマ達なワケであって、その中には当たり前のように、未成年の彼にもお構いなしに酒を勧めてくるようなオッサン達も含まれている。
何はともあれそのような経験を何度か経て、最終的に彼が酒に対して得た結論が一つ。
つまりは、“これは無い”の一言なのであった。
自他共に才能を自覚している生粋の物理学者である真也としては、あの頭がグラグラして簡単な電磁気学の計算すら危うくなる感じというか、血の気が引いて胃の奥から吐き気がこみ上げる感じというか、脳細胞が逐一活動を停止していくようなあの感じが、どうしても好きにはなれなかったのだ。
高揚感が少ないクセに禁断症状が強い、ヘロインと同レベルの最悪のドラッグとはよく言ったものである。
「そういうあんたは、飲まないのか?」
「生憎と、酒は飲んだ事が無い。
この手の薬物という物は、一度でも使えば乱用せざるを得ないように出来ているからな」
問い返す真也に、サタンは金色の双眸を閉じながら不機嫌そうに答える。
だが真也には、その口元がほんの少しだけイタズラ気に緩んだようにも見えた。
「……と、言いたいところなのだがな。
まあ、このような席だ。一口くらいは、試してみるのも悪くはなかろう」
言いつつ、サタンは銀色の髪を軽く寄せて、琥珀色の酒が湛えられた樽ジョッキを手に取る。
真也には、その行動が少し意外に思えた。
先刻のサタンの言動から考えるに、恐らくは、この場で酒に手を付けるような事はまず無いと思っていたのだ。
先はこの場に守護魔が居る事が間違いだとまで断じたサタンではあるが、意外にも、実はこの世界での生活をそれなりに楽しんでいるのかもしれない。
サタンが味覚があるのか無いのか分からないような無表情でジョッキの中身を口に流し込んだのを見届けて、真也は視線を円卓に戻して、デザートのカットフルーツをパクリと一口、口に含む。
他国の守護魔と召喚主達は、それぞれが酒の味についてあーだこーだと議論しているようではあったが、それは真也にとってみれば対岸の火事のような物であった。
オレンジ果汁を掛けたメロンのような、爽やかな甘さが食後の胃に心地良い。
「…………」
ふと、その時。
彼は、ナニか隣が妙に静かな気がして目を向けた。
――アルだ。
彼女も、酒はあまり得意では無かったのか。
赤髪翠眼の魔法少女な彼女は、ローブの膝の上に乗せたドラゴン・ブラッドの入ったグラスに視線を落としつつ、どこか思いつめたような顔で俯いていた。
その表情が、不意に優しげに緩む。
「なんか、さ。思い出すね」
「――――」
アルは、懐かしむようにして言った。
独り言のように零されたその言葉は、しかし真也には、それだけで十分以上に意味が伝わる物だった。
綺羅びやかなサロンに、豪勢な料理。
出会って始めて迎えた“あの日”の夜も、確かに、青年と少女はこうして隣り合って座っていた。
「あの時はさ。あたし、あんたの事、ホントにどうしようも無いヤツだと思ってたんだ。
そりゃ、イロイロ頑張ってたみたいだし? ちょっとは見直したりとか、しなくもなかったけど……。
……変人だし。デリカシーのデの字も無いし、そのクセ妙に子供っぽくて意地っ張りだし、ほんとあたし、どうしてよりによってこんなヤツ呼んじゃったんだろ~って」
「……随分と、言いたい放題言ってくれるな。
まあ、敢えては追求しないでおくさ。
過去形で言ってるって事は、今は違うって事なんだろ?」
「へ? あはは、前言撤回。
やっぱり、今でもちょっとそう思ってるかも」
不貞腐れたように目を細める真也に、アルはおどけたように微笑みながら、グラスを膝の上でクルクルと回している。
やがてそれにも飽きたのか、おもむろにそれを唇へと近づけると、コクリと一口、中身を口の中に流し込んでいた。
「でも、何でだろ。
今は、それだけじゃなくて――」
言いかけた彼女は、そこで言葉を切る。
そして儚げに口元を緩めながら、ゆっくりと真也の方に顔を上げた。
「――シン。お願い、聞いてくれる?」
「――――」
彼女の表情は、今まで彼が見たどんな顔とも違っていた。
上気して、桜色に染まっている白い頬。特徴的な翠色の瞳は、雨にでも打たれたように微かに潤んで、彼でなかったら抱き締めずには居られないくらいの反則的な可憐さを醸し出している。
彼女の表情の意味が理解できず、ただいつものポーカーフェイスで停止していた真也に。
アルはまるで寄り添うように、コテン、と肩に首を乗せてきた。
「? アル?」
疑問符を浮かべる彼の首筋に、呼吸音と共に彼女の吐息が掛かる。
表向きはあくまでも疑問符ではあったものの、彼女からフワリ、と香るその匂いによって、彼は既にある種の確信に近いモノを得てもいた。
そんな彼をよそに、アルは更に近く彼に身体を寄せて、プルートがよくしているように、彼の頬にチュッと軽く唇を当てる。
そして――、
「あちゅい。冷ましてぇ」
「……、…………」
強烈なアルコールの匂いと共に、彼の仮説を決定的に“証明”してくれた。
――チラリ、と、目線を円卓の上へと向けてみる。
真也は、初めは彼女が持っているグラスは一杯目だと思っていた。
きっと彼女は酒が苦手で、だからあまり飲む気にもなれず、グラスだけを手に持ったまま途方に暮れていたのだろう、と。
だが、違った。
よくよく見ると、彼女の目の前にあったドラゴン・ブラッドの瓶は、明らかにグラス一杯じゃ足りない量が減っていたのだ。
なるほど。どうやら、彼女は既にけっこうな量をお飲みになっておられたらしい。
いや。それは、いい。それだけならば、まだ理解出来る。
だが――、ちょっと待て。この少女は、アルである。
あの、幼い頃より味覚がアレになるほど魔術薬を呷り続け、若干15歳にして大魔導なんて称号まで得てしまった、天下無双の怪獣少女アルテミア・クラリスさんである。当然にして、ちょっとやそっとの毒物なんかじゃ動じないような、それはそれは素晴らしい薬剤耐性をお持ちだろう。
そんな半分人外な彼女が、果たして今更、アルコールを摂取した程度でどうにかなってしまうモノなのだろうか?
「……、…………」
真也は、そっと円卓に手を伸ばした。
アルがピッタリと引っ付いているために動きにくい事この上なかったが、今はあまり気にしないようにして、動かせる範囲で何とか右腕だけを上手く使う。
自分用に配られていたドラゴン・ブラッドの赤瓶を取り上げ、なるべく音を立てないように気をつけながら、自分用のグラスにトプトプと注いでみた。
血のように毒々しい赤色を発しているソレを見つめること、約2秒。
真也は意を決した様にふぅっと一回息を吐き出し、そ~っと、アルをなんとかずらしながら、飲み口に左手を翳してみる事にした。
「……、燃焼」
――ボウンッッッ!!!! と。
素晴らしい勢いで火柱が上がった。
その綺麗な綺麗なオレンジ色の発光を呆然と眺めながら、真也の背筋には、じっとりとイヤな汗が滲んでいく。
(ぜ、絶対飲み物じゃない)
流石は強さが全ての変態国家・武の国謹製の銘酒であった。
酒にまで度数しか求めないなんて、一体どこまで筋金を入れまくれば気が済むのだろうか。どう考えたって香りや深みの方が重要だろうに。
真也は、あまりにも律儀過ぎる彼らの文化に蹴りを入れたくなった。
最早燃料なんじゃないかと見紛うほどのアルコール兵器に彼がバカみたいな表情で固まっている間にも、事態は刻一刻と悪い方向に進行していた。
おそらくは、左手を前に出す為にアルをずらしたのが不味かったのだろう。
気がつくと膝の上には妙に柔らかい重みがあり、目を向けると、いつの間にかアルが真也の膝の上に跨る形になっていて、(よっぽど暑いのか)起伏の少ないローブの胸元をパサパサとやっていた。
「しん~。あんたものみにゃさいよぉ」
そんな恐ろしいセリフを吐きながら、アルは飲みかけのドラゴン・ブラッドが入ったグラスを真也の唇に向けて突き出してくる。
真也は首を曲げるだけでなんとかそれを回避したが、迂闊にも呼吸を止めていなかった為に、軽くその香りを吸い込んでしまった。
あまりに強烈なアルコール臭に、クラッ、と、一瞬だけ確実に意識が飛ぶ。
――アル、コレをよく飲もうと思ったものである。
……いや。きっとまた、自分なら大丈夫に違いないとか、根拠の無い妙な自信でもあったのだろう。
真也もそろそろ、彼女という生き物の習性をほぼ完全に学びつつあった。
アルが、グラスの中身をもう一口口に含む。
“もうやめとけ”という、彼の心の叫びは彼女には届かない。
「ほらぁ、しん~。
のむの? のまなぃのぉ?
のめにゃいなんていわせなぃんらからぁ」
――いや、飲めないだろう。
何よりも君自身が、現在進行形でそれは“飲めない”モノである事を証明しているじゃないか。
そんな真也の客観的な分析を華麗に無視しつつ、アルは、何故か一瞬だけ不機嫌そうな顔をした。
でもそれも本当に一瞬で、次の瞬間にはフフンとイタズラ気に口元を緩めて、真也の胸板を人差し指でクリクリし始めた。
「あ~、わかったぁ。のませてほしぃんれしょぉ。
――もう、しかちゃないにゃぁ。
あんた、ほんとに、あたしじゃにゃきゃだめなんらからぁ。
ほらぁ。おくち、うごかさにゃぃでよぉ?」
もう呂律が回らなくなって、半分ネコ語になりつつある言語能力を用いて、彼女はナニかを言い始めた。
真也の理解や意思といったものを全て華麗に無視しつつ、彼女はグラスの中身を更に一口、その小さな口の中に流し入れる。
そしてそっと目を瞑りながら、華奢なおとがいを軽く上げて、ン……と唇を前に突き出してきた。
「……、…………」
そんな彼女の有様を見た真也の内心に訪れたのは、何故か“諦観”であった。
きっと、恐らくは。彼女が真上に乗っていて動けないという事もあり、かといって無理矢理に跳ね除ければそれはそれで恐ろしい目に合わされそうだ、なんていうイヤな推測もあって、言わばマングースと無理矢理戦わされるハブのような心境にされてしまったのが原因だったのだろう。
だから仕方ないか、と彼は思った。
上記のような理由も、間違いなくあるにはあるし。
それに、サタンが言ったように。確かに、このような席なのだ。
酒の酩酊感はどうしても好きにはなれないし、後で後悔するのは目に見えているが、だが、まあ。たまには、そんな日があってもいいだろう。
とはいっても。
彼女から直接貰ったりすると、後々イロイロと恐ろしい事が起こりそうなので、それはちょっと遠慮願いつつ。
真也はアルの手からグラスを受け取り、コクリ、と。
一口だけ、真っ赤な色をした酒を飲み込んだ――。
長くなりすぎたので切ります。
続きは明日投稿予定です~。