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朝日真也の魔導科学入門  作者: Dr.Cut
第一章:イクリプス-1『守護魔召喚』
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8. 異世界の少女の体格から見る異世界人に対する分類学的仮説及び異次元生命体とホモサピエンスに隔たる生物学的距離に対する考察

 その後の少女による状況の説明は、青年の思考回路をブッ飛ばすのに十分に足る程の破壊力を誇っていた。


 彼の、まるでホイホイに掛かった黒害虫みたいに動きが鈍くなった思考では上手く理解する事が出来なかったものの、取り敢えずは分かった範囲で無理矢理にでも少女の話を要約するとするのならば、どうやらこの場所は彼が元居た世界とは全然、全く、究極的に別の世界に存在しているらしく、魔法なんていう冗談みたいな物がごく一般的に浸透している国らしい。

 また、少女はどうやら本物の魔法使いらしく、なんらかの目的があって、彼女にとって異世界人であるところの彼を召喚術によって呼び寄せたとかなんとか……。



「冗談……だよな?」



 取り敢えず、頬を抓ってみた青年。

 足りないと思ったのか、拳を作って思いっ切り殴り付けてみる。視界に星が飛んだ。果たして痛みで夢と現実の区別が付くというのは本当なのかという疑問が衝撃の後になって浮かんだが、もしも嘘であったのならば、初めにこの仮説を提唱した人間には同じ痛みを味合わせてやらないと気が済まないと彼は思う。


 揺れた脳を覚醒させる為に、目線を床に落としながら2、3回頭を振ってみる。

 何故かあちらこちらが煤けた床には、少女曰く“守護魔の召喚陣”が薄っすらとした燐光を放っていた。



 ふと。彼は燐光に紛れるかの様にして一冊の本が落ちているのを見つけた。

 けして分厚いとは言えないその本は、一見すると海外のペーパーバックの様にも見える。

 所々に焦げ目が付き、ページは全体的に反り返っていた。

 真也は、なんとなくその本を手に取ってみた。

 煤を払い、ページの反りを膝で伸ばしながら、まじまじとタイトルを確認する。



 “超簡単・自宅で出来る火炎魔法”



「…………」



 悪夢の様なタイトルに頭痛を覚えながら、真也は反射的に目を擦った。

 しかし見た事も無い筈の文字で綴られたその題名は、彼には確かにそう読む事が出来た。

 ――まるで見た事の無い文字の筈なのに、である。

 暫く魂の抜けた様な顔でそれと睨めっこしていた彼だったが、取り敢えずは中身を確認してみようと、興味と恐怖の赴くままにページを開いてみた。


 “火炎魔法とは四大精霊の内の一体、火の元素を司る精霊の力を借りて行う神秘の総称であり、その性質は彼の者の精神を反映した――”


 書いてある事は意味不明だったが、どうやら中身も言語としては問題なく読むことが出来るらしかった。



「なんで読めるんだ?」


「当たり前じゃない。

 あたしが読めるんだから」



 戸惑っている青年の様子をジッと観察していた少女は、彼の疑問にさも当然であるかの如くそう答えた。答えを聞いても腑に落ちない様子の青年。少女は更に補足する。


「守護魔はね、召喚された時点で召喚主と知識を共有するのよ。つまり言葉とか、文字とか、そういう必要最低限の知識は、あたしの知識が補間する事になってるってわけ」


 得意気に語る少女の口唇と一致しない声を聞きながら、青年はその意味するところに頭を捻っていた。

 詳しい事は分からないが――要するに彼女の頭と自分の頭には何らかの回線の様な物が繋がっていて、それで情報をやり取りしている、という事なのだろうか?

 ……害とか、副作用とか、無いのだろうか。

 原理も理屈も意味不明ではあったものの、深く考えると寒気がしそうだったので、真也はあまり気にせずに次の疑問に移る事にした。


「……君から見て、オレは今どう話している?」


 あくまでも少女の言葉を鵜呑みにするのなら、という条件付きではあるが。

 真也がこの世界の言葉を理解できている理由は、この少女の知識を借りているからなのだという。彼女が日本語を話している様に聞こえるのも、原理は不明だが、彼女の言葉を彼女の知識を用いて翻訳して聞いているからなのだ、と。

 だがそうなると、今度は自分自身に対しての疑問が湧くというものだ。


 少女は小首を傾げている。

 恐らくは、今の質問の意図を図り兼ねたのだろう。

 真也は補足した。


「オレには君の口唇と発声が一致していない様に見えているんだ。

 おそらく君は君の世界の言葉を話しているのだろうが――。

 オレにはそれが、オレの世界の言葉として聞こえている。

 じゃあ、オレは今何語を話しているんだ?

 君にも、オレの口と声はバラバラに見えているのか?」


「ああ、そんなこと。

 大丈夫。ちゃんとあたし達の世界の言葉を話せてるし、口と声もピッタリ一致してるから」


「…………」



 “それは大丈夫じゃない”。

 真也はガックリと項垂れながら頭を抱えた。


 もしも少女の言葉が本当なら、真也は今日本語を話しているつもりであって日本語を話せていない、という事ではないか。これでは“知識の共有”とやらをなんとかしない限り、今すぐ元の世界に帰ったとしても支障が出るだろう。

 まあ。実はこれが壮大なるドッキリ番組であり、現在の彼の醜態がカメラに収められているという可能性も、未だに彼は捨てきれなかったわけではあるが……。


「……なによその目。

 大体、あんたもあたし達の言葉を話せた方が都合がいいでしょ?

 もしもあんたが自分の世界の言葉なんか使ってたら、あんたの言葉が分かるのはあたしだけじゃない」


 少女は、特に悪びれた様子も無くそう語る。

 確かにそれにも一理あるかもしれないが――。

 彼にしてみれば、この世界の他の人間と意思疎通を図る必要性があると考るだけ憂鬱にしかならなかった。


「…………」


 ……本当に、どうでもいい事ではあるが。

 彼女は最初、彼の事を“貴方”と呼んでくれていた筈である。

 しかしどうやら先程の口論以降、呼称を“あんた”で固定するつもりでいるらしい。

 ニュアンスの違いまで捉えて翻訳してしまうこのシステムが、なおいっそう彼には不気味であった。



「それじゃ、次はこっちの番ね。

 あたしにも、あんたの事を教えてくれない?」


 頭を抱えたまま眼を伏せていた真也。気が付くと、目の前には少女の顔があった。彼女は腰を曲げ、覗き込む様な姿勢で彼の顔を見つめている。まるで悪戯を思いついた子供の様に細められたその瞳は、どこか楽しげに感じられた。


「教えるって、何を?」


「別に。なんでもいいよ?

 あんたの世界がどんな所だったとか、どんな特殊な技術が発達してたとか、あとはあんた自身の特技とか、特殊能力とか――」


 息のかかりそうな距離から発せられる、嬉々とした少女の言葉。

 真也は目を丸くしながら、腕を組んで暫し思案していた。

 こういう質問は、何でもいいというのが一番困る物なのだが……。

 さて――、



 Q. 世界がどんな所だったか?

 ――太陽系第三惑星、地球。

 70億人にイジメられている可哀想な星。

 ……却下だろう。



 Q. どんな特殊な技術が発達していたか?

 ――パッと思い付くのは、コンピューターネットワークだろうか。

 家で椅子に座りながら遠隔地の人々との情報のやり取りを可能にした偉大なる発明品であり、引きこもりとニートの産みの親である。

 ……これも却下だろう。



 Q. 真也自身の特技や特殊能力。

 ――これはなんとかなりそうであった。

 何しろ真也の特技は、“物理学”。この一点に尽きると言ってもいい。

 さて、それではこの自らの世界が誇る叡智をどう説明したものだろうか。

 真也は辺りを見回して、暫し具体例を逡巡した。



「そうだな。先程も言ったと思うが、オレは物理学者なんだ。

 さて。それでは物理学とは、具体的に何が出来るかというと言うとだな……。

 ――あの本棚を見てくれるか?」


 不意に、真也は少女の背後に存在する一際高い本棚を指差した。

 少女はつられる様に、好奇心に満ちた眼差しを彼の指先へと向ける。

 その目からは、異世界の人間が披露するであろう神秘への期待がありありと伺えた。

 そんな彼女を視界の端に納めつつ、真也は自信に満ちた声で言葉を繋いだ。



「仮にあの本棚の高さが10m、この星の重力加速度を地球と同じ9.8m/s^2とした場合、あの天辺から落ちた本が地面に着くまで約1.4秒かかる」


「…………」



 この星の空気抵抗係数がいくつか分からなかった為、そこは省略して計算した。

 平方根も面倒なので、重力加速度を10m/s^2として計算したおまけ付きである。

 反応が無いので、何となく、真也は少女の背中にその視線を移した。

 彼女の小さな背中は、何故か、全く微動だにしていなかった。

 ……まるで、何かの化石の様である。



「…………」



 嫌な、沈黙だけが、やたらと煩かった。



「ねえ……」


「ん?」



 やがて少女は顔を伏せたまま、ユラリと振り返った。

 その肩は、何故かワナワナと震えている。

 ――そんなに感動してくれたのだろうか?

 真也は感心した様に、満足気にウンウンと頷いていた。

 やがて、少女は口を開き――、



「……だから、ナニ?」



「…………」



 少女の声は震えていた。

 それはもう、主要動が到着する前の初期微動の如く、妙に静かで嫌な震えであった。

 真也は腕を組みながら、無言でその声を聞いていた。

 少女の肩が上がり、肺一杯の空気が満たされていくその様子を、ただただ静かに観察していた。


「なぁにが“約1.4秒かかる”よっ!!

 高い所から物落としたら、地面に落ちるのは当たり前でしょぉがっ!!」


「待て待て待て待てちょっと落ち着け!!

 かのアイザック・ニュートンはその単純な事実からだな――」


「どこの暇人よ!! そいつ!!」


「暇人とはなんだ!!

 彼がニュートン力学を完成させなければ、現代の物理学は――」


「だから!! なんの役に立つのよ!? それはッ!!

 ちょっと!! なんか他に、もっと凄い事出来ないの!?」


「仕方ないだろ!!

 大体、君の言う通り“魔力”なんて力が存在するんなら、この世界の物理法則はオレの世界とはまるで違うじゃないか!!

 全部の数値を一から調べ直さなきゃならないし、そもそもオレの知ってる物理法則がこの世界でも成り立っているか分からないんだ!!」


「待ちなさいよ!!

 じゃあナニ!? さっきのアレ、意味ない上に間違いかもしれないっていうの!?

 信じられない!! ナニよそれーっ!!」


「君には知的好奇心という概念が無いのか!?」


 爆発したかの様に捲し立てる少女と、それを全力でいなす青年。

 広大な図書館に罵詈雑言の嵐が巻き起こり、心なしか室温は2℃程も上昇した。

 2人は一歩も引かずに口撃を打ち合い、それはお互いの息が切れて深呼吸が必要になるまで続いた。



「……はぁ!! ふぅ……!!

 ね……、ねえ……」


「な……、なんだ……?」



 肩で息をしながら、少女は苦し気に声を発した。

 青年も、額に汗を浮かばせながら返答する。



「あんたさ。もしかして……、物凄い役立たず?」


「…………。

 ……まあ、否定はしない」


 真也は嘆息する。

 何しろ、物理法則が違う世界なのだ。定数なんか重力加速度から測り直さなくてはならないし、“ゲージ理論”などの現代物理学はおろか、そもそも“光速度不変の原理”や“慣性の法則”などの常識的な定理がちゃんと機能しているのかも疑わしいのである。

 ――要約すれば。

 彼の持つ知識はソクラテスの時代にまで退化せざるを得ない、という事であった。


「どうするのよ!!

 あたしが何の為にあんたを呼んだと思ってるの!?

 あんたがそんなんじゃ、あっという間に他国の連中に殺されてお終いじゃない!!」


「……は? 殺される?」


 不吉極まりない単語を聞いた気がして、真也は反射的に目を見開いた。

 その行動は、意図せず少女の容姿をより詳しく彼の意識へと伝える。

 柔らかそうな、彼の世界では見かける事も無い、真紅の髪。

 翡翠色の大きな瞳は人間離れして美しく、少女自身の内心の強さを現すかの様に真っ直ぐにこちらを見つめている。

 皺や染みとは無縁の瑞々しい肌は、まるで透き通る様に真っ白で、先程の口論の余韻が残っているのか仄かに桜色に色付いていた。



 ――彼は、その動きを止めずにはいられなかった。

 呼吸すらも忘れ、少女の容姿にただ見入る。

 どうしても聞きたい、聞かなくてはならない疑問が、彼の頭を埋め尽くしていたからである。



「う……。

 ……な、なによ。

 言いたい事があるんなら、はっきりと言いなさいよ!!」


 青年の視線に気が付いた少女は、居心地が悪そうにしながらも語調を強めた。

 その言葉に言質を取った青年。

 彼女は、言いたい事は言えと言う。

 つまり、“この疑問”を口にしてもいいという事なのだろう。

 彼は、そう解釈した。


 真也は、視線を少女の顔から20°程下げた。

 ローブに包まれた身体の一部を深く深く観察し、自らの脳に去来した命題を知識を用いて肉付けした。



 ――収束進化という言葉がある。


 これは祖先の異なる生物が、類似の環境に生きる事によって似た形質を持つ様になる事例を指し示す用語であり、例えば哺乳類なのに鳥類の様な翼を持つ蝙蝠。または哺乳類なのに魚類と見分けの付かないクジラやイルカがその代表例となる。

 要するに、裏を返せば例え人間でなくとも人間と類似の環境で進化した生物がいた場合、その生物は人間と似た形質を持つ様に進化する可能性もある事を示唆する生物学用語なのではあるが、彼の持った疑問は詰まるところこの言葉に集約され――、



「まさか君、哺乳類じゃないのか?」



 ……少々さびしい少女の胸部を見詰めながら、青年は真顔でそう言った。


 一瞬、ポカンと口を開けた少女。

 青年の言葉の意味が理解出来なかったのか、少し逡巡する。

 その間約3秒。

 直後、少女の目は吊り上がった。

 雪の様に白い肌は見る見る内に薬缶の様に紅潮し、花弁の様な唇はわなわなと震え出した。


「……ど」


「……ど?」


 謎の呟きを漏らしながら、少女は右腕を大きく掲げた。

 右手の甲に描かれた刺青の様な紋様は赤い閃光を放ち、周辺では陽炎が立ち昇る。

 彼はそんな彼女の様子を、先程の謎の言葉について推察しながら見つめ続けた。

 やがて彼は、思い至ったかの様に手を打った。



「ドラム――」

「どういう意味よ!! ド変態!!」



 巨大な火球が、青年の身体を呑み込んだ。



―――――



「……やっちゃった」


 すっかり色の消えた右手の魔法円を見つめ、少女はそんな嘆きを零した。

 この場合、漢字を当てるとすれば“殺っちゃった”が正しいだろう。

 まるで焼夷弾でも落とされたかの様に立ち昇る粉塵と、燃えながら宙に踊る書物。それらが今起きた惨劇の全てを物語っていた。


 ――火炎魔法・“始祖の炎帝(ムスペルヘイム)”。


 “帝霊級魔術”に分類されるこの大魔法は、別名“焼夷の紅炎”とも呼ばれている。ただでさえ四属性の中で最も攻撃力が高いとされている火属性の、さらにその上位魔法というだけあり、その威力たるや完全に発動させれば火龍(サラマンダー)のブレスを上回る火力にまで至るという軍用魔術である。


 当然その魔力の消費量もバカにはならず、また修練場を頻繁に焦土に変える危険魔法である事でも魔導師連中の間では有名であり、簡潔かつ端的に表現するのであれば、間違っても自宅でたった一人を相手に使用する様なレベルの魔術では無いという事である。



 ――癇癪持ち。

 少女はそれが自分の悪い癖だと自覚してはいたが、同時に最早治らない天命の様な物であるとも諦観しているのであった。



「散らかっちゃった。

 まったく、つくづくなんて日よ……」


 ガックリと項垂れながら、少女は大きくため息を吐いた。

 ――今更になってだが、僅かに罪悪感は湧いて来る。

 いくら失礼で役立たずでどうしようもない変人だったからと言って、何も焼き殺す事は無かったのではないか。

 いや、まあ。殺ってしまったものは仕方ないのではあるが……。


 さて、死体をどう片付けたものか。

 きっとこの塵のカーテンの向こうには、先程の高級使い魔の仲間入りを果たした、ウェルダンなアレの亡骸が――、



「……成る程な。

 これでドッキリの可能性も消えたわけか」


「…………へ?」


 少女は、つい間抜けな声を上げてしまった。

 視線を上げて、声の聞こえた方を見る。

 粉塵が漸く治まったかと思うと、その向こうからは、先程と全く変わらない様子で座り込む青年の姿が現れた。その服には焦げ目一つ無く、彼を中心とした床は、そこだけがまるで切り抜かれたかの様に一切の被害を免れている。

 ハッと口元を抑えた少女。

 まるで何かを思い出したかの様に、猫の様な双眸をなお見開いた。

 そして次の瞬間には、バツが悪そうに明後日の方向へとそれを逸らした。


「……そうだった。

 あんた、ヘッポコでも一応守護魔だもんね。

 魔法は効かないんだ」


「……詳しく事情を聞きたいな。

 オレを爆破した理由も含めて」


 不満気な気配を隠そうともせず、青年は少女をジロリと睨み付けながらそう言った。

 爆破された理由に気が付かない辺り、彼はかなりの大物である。


「……なによ、自業自得じゃない。

 ま。あんたが守護魔だってはっきりしただけ儲けもの、って事にしとくけど……。

 あんたさ。左手に魔法円が焼き付いてるでしょ?」


 少女に指摘され、青年はハタと自らの左手を確認してみた。

 ふと、掌へと視線を落とすと、先程までは先日自分で描いた落書きと重なっていて気が付かなかったが、確かに床の図形を縮小コピーした様な図形が描かれ、橙赤色の燐光を放っていた。


「簡単に言うとね。ソレがあんたの存在を補正して、この世界の理が適応されないようにしてるのよ。あんたの世界には魔法なんか無かったんでしょ? 守護魔は、守護魔が元々居た世界の理でしか傷付かないってわけ」


 少女の説明を聞くなり、青年はあからさまに表情を歪めた。

 誰がどう見ても、一発でそれと分かる苦悶の表情である。

 彼にしてみれば、落書きが物理法則を歪める世界なんていうのは悪い冗談でしか無いのだろう。


 だがそれは、決して少女の言葉に否定的であるという意味では無かった。

 彼女の説明は、確かに、彼が先程から感じていた矛盾に一つの解答を示していたからである。



 ――何故、自分が生きていられるのか。



 先程の考察からも明らかな様に、この世界の物理法則は真也のいた時空とはまるで異なっているのだろう。だが真也の身体は、そもそも彼の世界の物理法則によって形成された物なのである。


 例えば重力が地球の10倍の星で生存出来る人間はいないだろうし、電磁気力が強い相互作用よりも強い世界に行った人間は、陽子や中性子の単位までバラバラに飛び散ってしまうだろう。

 人間とは、地球上での生活を前提として進化してきた生命体なのだ。

 宇宙空間や他の惑星に行くのでさえ大げさな宇宙服を必要とするのに、それが物理法則の違う異世界に飛ばされたりした場合、その結果は言わずとも明らかだろう。

 つまり物理法則の違うこの世界において真也が生存していられるという事実は、そのまま彼の存在を維持する何らかの要素が存在している事を示しているのである。


「ま。取りあえず、それが消えたらあんた死ぬから。精々頑張って守りなさい」


 落書きが生命維持装置であるという事実に悪夢の様な頭痛を感じながらも、取り敢えずは少女の言葉を“仮説”として受け入れておこうと、真也は深く嘆息するのであった。



―――――



「……で?」


 少しの沈黙が続いた後、青年は仕切り直すかの様に口を開いた。

 その声は低く、怒りとも不安ともつかない重さを含んでいる。


「……で、ってなにが?」


「わかるだろう?」


 頭上にクエスチョンマークを浮かべながら、少女は聞き返した。

 青年は目を閉じ、眉間に皺を寄せながら付け加える。


「オレがどういう状況にあるのかは、まあ大体理解した。

 ……仮定の話だけどな。

 だが、どうしてオレがこんな状況になっているのかがまるでわからない。

 一つ目、何の為にオレを呼んだ?

 二つ目、オレはいつ元の世界に帰れる?

 三つ目、殺されるってどういう意味だ?

 肝心な事を、君はまだ何一つ説明してないじゃないか」


「ああ、それはね……」


 何かを言おうとした瞬間、少女の動きが停止した。

 彼女は気分が悪そうに呻きながら、ゆっくりと自分の額に手を当てた。

 よろよろと、千鳥足で三歩下がる。

 まるで貧血でも起こしたかの様な青い顔で、身体からはフラリと力が抜け、ぺたりと床にへたり込んだ。


「大丈夫か?」


「ごめん、ちょっと限界っぽい……。

 流石にさっきの魔法でキャパ超えちゃったみたい。

 悪いけど、その説明はまた明日でもいい……?」


 青い顔で床にへばりながら、俯きがちに自らの不調を訴える少女。

 翡翠の瞳は微かに潤んで、上目遣いに青年を覗いている。

 ――無理も無い事である。

 先日の失敗に、魔道研究所の激務。睡眠と栄養の不足に、先程の大儀式。終いには2度に及ぶ帝霊級魔術の発動となれば、最早人間が体験していい負荷では無い。気力でなんとか意識を保ってはいたものの、身体の方はとうに限界を通り越していたのだろう。

 立ち上がる事も億劫であった少女は、ベッドの方に移動して来てもらう事にした。

 既にオーバーワークで熱を持っている神経に鞭を打って魔力を流し、辛うじて飛行魔術を発動する。

 ベッドはまるでホバークラフトの様に、床から数ミリだけ浮き上がって少女の目の前に滑って来た。


「冗談……、だよな?」


 堪らないのは真也である。

 彼の立場からすれば、つまり彼女は、自分を勝手に拉致した挙句にろくな弁明も無く放置しようとしているのだ。しかもその理由となった疲労の最後の一押しが先程の殺人未遂であるというのならば、最早怒り以外の感情を抱く方が難しい。


 そんな彼の言葉を無視しながら、少女はサッサと就寝の支度を始めていた。少女の異様を際立たせていたつば広の帽子と、厚手のローブを床に脱ぎ捨てる。

 ローブの下に着込んでいたのは、少女の肌と溶け合うかの様に白いインナーだった。少し短いワンピース丈のキャミソールであり、少女の太腿を申し訳程度に隠している。肩口や首回り、背中の部分は大胆に開いており、少女の白磁の様な肌が艶やかに覗いていた。

 どこまでも白いその出で立ちには、彼女のトレードマークの真紅の髪がとても良く映えていた。


「……おい」


 少し語調が荒くなった青年の声を意識に登らせる余裕は無く、少女は足に纏わり付くブーツを踵を踏む様にして脱ぎ散らかした。黒革で編まれたその履物は、耐久性という意味では申し分無いのではあるが、少女にはその通気性の悪さが普段から甚だ不満であった。ついでに、妙に足が疲れるのもいただけない。ベッドに倒れこみながら、少女はニーソックスも足先だけで脱ぎ捨てた。


「おーい……」


 段々と声に覇気が無くなって来た青年をよそに、少女はいそいそとベッドへ潜り込んだ。真冬の夜気に冷やされて、それは少し冷んやりとしていたけれど、酷使しすぎて火照った身体には何よりも安らぐ安息の感触であった。聞こえて来る声に背を向ける様にして、少女は呼吸を鎮めながら目を閉じた。



「…………」



 真也はその様子を見ながら、ただただ途方に暮れていた。

 先程から何度か声をかけた。

 でも、反応は無い。

 では、途方に暮れる以外にやる事は無いだろう。

 彼は、まるで諦めたかの様に溜息を吐いた。



「……わかった、説明は明日でいい。

 それで? オレは今日、何所に寝ればいいんだ?」


「……へ?

 ん…………。

 そんなの、どこでも……いいじゃない。

 すきなトコで、寝なさいよ……」


 今回の質問には、なんとか答えてくれた様である。

 呂律の回らない、舌ったらずな声色が、気怠そうな背中から返される。

 真也はその声を聞いて、やれやれといった様子で肩を竦めた。



 靴を脱ぐ青年。

 少女に負けず劣らず気怠そうな雰囲気を醸し出しながら、いそいそと少女の隣へと潜り込む。枕は少女が抱え込んでいた為に、布団の一部を丸めてそこに頭を乗せることにした。布団を被った時には、まるで苺の様ないい匂いが、フワリと彼の鼻腔を刺激した。


「まったく。こっちは起きたばっかりで、全然眠くなんかないんだけどな。

 まあ、時差ボケを治す為だと思って我慢するよ」


「……ん。

 あんた……。

 にゃに、いってるのか……。

 ぜんぜん、わかんない…………」


 もう意識が半分ほど眠っているのだろう。

 少女は、やけに近くから聞こえる青年の声を、特に何の疑問も持たずに聞き流――、



「……って!?

 ちょっと待ったぁーーーっ!!」



 ……せなかった。

 大慌てで近場にあった布団と枕を抱え込めるだけ抱え込み、脱兎の如くベッドの端へと飛び退く少女。陶器の様に白い肌は耳まで真っ赤に染まり、その人差し指は青年に向けられてワナワナと震えていた。


「……どうした?」


「ど、どぉしたじゃないでしょっ!?

 な、ナニをあんたはっ!! さも当たり前の様にあたしの隣に潜り込んでるのよっ!?」


「? “好きな所に寝ろ”、と言われたんだが」


「あ、ああ、あたしのベッドはダメに決まってるじゃない!!

 あ、あんたっ!! あんたの世界には、デリカシーって概念が無いわけ!?」


 目を白黒させながら、火でも着いたかの様に大騒ぎする少女。

 その様子を、真也は心底不思議そうな顔で見つめていた。

 少女としてはその態度がまるで理解出来なかったのではあるが……。

 ただ、何となく物凄く不穏な気配だけは感じていた。

 やがて彼は、相変わらずのポーカーフェイスで口を開き――。


「何を言っている?

 この状況で、どこにデリカシーなんて概念が関与するんだ?」


「は……?」


 ――固まった。

 あまりにもぶっ飛んだセリフすぎて、少女の頭は一瞬で真っ白になった。

 突き出した人差し指をどう引っ込めるのかも忘れて、少女はまるで埴輪の様に硬直してしまった。

 青年は、淡々と補足する。


「あのな、考えてもみろ。

 確かに外見は多少似通ってるかもしれないが……。

 ここが物理法則の違う別世界だって言うんなら、オレ達は完全に別種の生命体じゃないか。

 それともこの世界では、ゴリラやチンパンジー相手にもデリカシーを論じるのか?」


「う……。そ、それは……」



 当たり前の様にそんな分析をかます白衣の青年。

 その言わんとする事をなんとなく理解した少女は、次の瞬間には凄まじい葛藤に苛まれる事になった。



 ここは、怒る所なのだろうか?

 いや、でも。怒るとしたら、一体何に対して怒ればいいんだろう。

 彼の言葉は、理屈的には、まあ間違ってないと言えなくもない気がする。

 と、いうか、正しい。

 確かにコイツが異世界人だって言うのなら、コイツは自分とは違う生き物なワケで……。

 ……いや、違う。一番の問題はそんなコトじゃ無くて、コイツの見た目が、どう見ても“人間の男”にしか見えない事で、しかも、なんか、贔屓目に見なくてもちょっといいんじゃないかな~なんて思ってしまう様な外見の生き物だって言う事でってイヤイヤそうじゃ無い。コイツは自分とは違う生き物なんだから、仮にも年頃の娘である自分が同じベッドで寝るとかマジあり得ない――ってあれ? イヤイヤそうじゃ無い!! そうじゃ無いの!! ってか何でコイツは、初対面の女の子と同じベッドに入って平然としてるワケ!? コイツの世界って、そういう概念が無いの!? いや、まあ、無いのなら仕方ない――ワケ無い!! ここは自分たちの世界なんだから、やっぱりこいつもこっちの常識に倣うべきで、男の子と女の子は別々に寝るのが当たり前ですよ~って教えてやるべきで、いや、でもコイツには、そもそも女の子だって思われて無い様な気が……ってちょっと待った。ソレ、何かちょっと悔しくない? コイツが全然そんなコトを意識して無いのに、自分だけが“そういうコト”を考えてる、とかって思われるのは、何か物凄く悔しい事なんじゃないだろうか? うん。悔しい。その上コイツに“ほう。この世界ではサルを相手にそういうコトを考えるのが常識なのか。それとも君だけか? いや、大した嗜好の持ち主みたいだな”なんて言われたら、多分、発狂する。――あ、ヤバい。なんか、自分でもマジでナニするか分からない。多分、コイツを殺して自分も死ぬ。


「…………」


 自問自答の果てに思考が暴走状態に突入した少女は、やがて真っ赤に紅潮した顔を隠す様に目を伏せながら、おずおずと口を開いた。


「…………よね」


「……ん?」


「そ、そうよね~!?

 き、 気にする方が、おかしいのよ、ね!?

 い、いい、いいわ。

 す、すすっ、好きな所で寝なさいよ!!」


 震えた声でそう喚き散らした少女は、錆びたゼンマイ人形の様にギクシャクとした動きで布団を引きずったかと思うと、青年の隣へパッタリと戻った。

 カチンコチンに身体を強張らせながら、チラリと、視線を隣に送ってみる。

 隣に寝そべる黒髪の彼は、何の動揺も見せないポーカーフェイスのまま、天蓋のステンドグラスを物珍しそうに見つめていた


 少女は、青年から目を逸した。

 クルリと彼に背を向けて、ドクドクと脈打つ心臓の音が聞こえない様に、ベッドの端まで身体をズラした。

 彼との間に開いた布団の隙間から、冷たい冷気が吹き込んだけれど、それを寒いと感じる余裕なんか彼女には既に無かった。

 火が出そうに熱い顔を、なんとなく布団に埋めてみる。


「それはよかった。

 この寒さの中、床なんかに寝たら凍死しかねないからな」


 少女の背後からは、全く変わらない彼の声色が響いてきた。

 多分、こいつは本当に何とも思っていないのだろう。

 少女には心底からそう感じられ、色々な意味で精神力を消耗する羽目になった。


 やたらと熱を帯びてしまう顔が、悔しい。

 自分の心臓を殺したくなったのは、少女にとってこれが初めての経験だった。

 隣から伝わって来る彼の体温からなんとか意識を逸らそうと、少女はなんとなく今日の出来事を思い返してみる。

 すると、“その事実”に思い至って、脳が溶けた。



 ――今日、シャワー浴びてない。



 ドクン、と、耳の奥で心音が聞こえた。

 頭の中がとろけそうなくらい真っ白になって、一瞬で自分がどこに居るのかも分からなくなる。取り敢えず少女は、殆ど反射的に、ベッドから落ちそうな程端にまで身体を寄せていた。


 今からでも、浴びた方がいいのだろうか?

 いや、多分、無理。今シャワーなんか浴びたら、間違い無く途中で倒れる。でも、浴びないと、それはそれで恥ずかしくて死ぬ。少女は頭がおかしくなりそうな羞恥の中、自分にそんな思いをさせている元凶を、取り敢えず心の中で100回ほど罵倒してみるのだった。


 少女の頭は、既に半分以上パニックに陥っていた。

 異常な量のアルコールが血液に融解したみたいに、赤い視界がグワングワンと回り出す。

 取り敢えず、何か別の事を考えなくては、と思った。

 そうしないと、秒単位で脳細胞が死んでいってる気がしたのだ。


 “別の事”。

 知能指数が恐ろしい事になり始めた頭をフル回転させて、少女は必死に、何か別の事を考える。

 ――と、その瞬間。少女は何か重要な事を忘れている気がした。


「……名前」


「は?」


 ポツリと、呟く。

 青年には背を向けたまま、呼吸を殺す様にして、少女は独り言の様な声で続きを言った。


「……あんたの、名前。

 まだ、ちゃんと聞いてなかったでしょ?

 あんた、変な奴だけど……。

 いつまでも“あんた”じゃ具合が悪いじゃない」


「……朝日 真也。

 まったく、勝手に拉致した割には随分な言い草だな」


「あさ……しん?

 ……長いから、シンでいい?」


「たった6音節だ。

 さっきから君のヒアリングには問題があるとしか思えない」


 相変わらず不遜な真也の返答を聞いて、少女は頭の中でカチン、という音を聞いた。聞き取れなかったのは彼の名前が聞き慣れない発音であった為なのだが、どうやら彼はそんな事はお構い無しらしい。どうも彼とは、永久に性格が合わない運命にあるようだ。少女は、一度仕返しでもしてやらないと気が済まないと思った。


「……ちょっと。

 そういうあんたはあたしの名前、ちゃんと覚えてるんでしょうね?」


 青年の方に向き直りながら、胡乱気な瞳でジロリと睨む少女。

 青年は一度、流し見るかの様に横目でその視線を受けたが、直ぐにまた天蓋の装飾の鑑賞へと戻った。


「悪いが、偉人の名前以外は3音節以上覚えられた試しが無いんだ。

 ……長いから、アルでいいよな」


「ほら、みなさいよ。

 あんただって人の事言えないじゃない」


 フフン、と、小馬鹿にした様な、勝ち誇った様な声色で言ってやる。

 今の台詞に妙な引っかかりを感じながらも、漸く言い負かした事に多少の満足感を感じながら、少女はようやくその目を細めた。

 スッキリしたのだろう。

 少女はゆっくりと、その翠の瞳を閉じようとし――、


 そこで、気が付いた。


 何時の間にか、自分は彼に触れる程近くに寄っている。

 シャワーは、浴びてない。

 そう考えると顔から火が出そうで、そんな自分でも分かるくらい真っ赤な顔は彼の方を向いていて――。


「……?

 どうしたんだ? アル。

 眠いんじゃなかったのか?」


 そしてこのデリカシーの欠片も無い男は、そんな、誰にも呼ばれた事がないような、馴れ馴れしい呼び方をして、ちょっといいかな~、とか思ってしまった綺麗な顔が、吐息が掛かる程近くからそんな自分を見つめていて――!!


「あ……」


 何かが、ショートした。

 頭の中が焼け付いた様な感覚がした途端、視界が急速にブラックアウトしていく。


「……ん?

 ああ、やっぱり寝るんだな。

 それじゃ、お休み」


 そんな間の抜けた声を聞いた瞬間。

 少女の“最悪な日”の記憶は、そこでプッツリと途絶えたのだった――。

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