75. 魔術的及び身体能力的に一般平均の水準に収まるであろうロッククライミング初心者には到底不可能であると思われる難所の達人達による壁登とその困難さに見る文明の利器の大切さと利便性に対する考察
垂直の道を駆け上がる。
比喩では無い。我々が道を“人間が通行し得る場所”と定義するのなら、水平だろうが垂直だろうが、そこが人の駆け得る場所である以上、角度に関わらずそれは“道”としての条件を間違いなく満たす事だろう。
翼を持たない生き物は地に落ちる。その理そのものを正面からねじ伏せるかのように、純白の装束を纏った武装姫は、突き出した剣だけを足がかりに急勾配の“道”をひた走っていく――。
初めに地を蹴った瞬間から、果たしてどれほどの時が経過したのだろうか。
数分だったようにも思えるし、或いはまだ数秒しか経っていないのかもしれない。
“時計”というモノを持たない彼女にそれを正確に測る術は無かったものの、自らがその僅かな間に登り切った“距離”だけは、間違いなく彼女の視覚そのものがはっきりと捉えていた。
――優に60、否、80ラドは登っただろうか。
水滴によって滑る足場や、魔術を行使しながら崖を駆け上がる事による精神と肉体の疲労。
心身は常人ならば倒れかねない程の負荷に常に晒され続けてはいたが、しかし彼女が熟す日々の修練に比べれば、この程度ではまだまだ“温い”と断じて間違いは無いだろう。
羽根一枚と同程度の重量にまで軽量化させた自らの肢体を風雨に晒しつつ、彼女は自らの先天魔術によって生み出した剣の腹を、踏み抜く様に蹴り下ろして宙を舞う。
「流石ですね、ネプト」
砕け散る水滴を逆回しにしたかの様な流麗さで次の剣へと跳躍した彼女は、自らの従者に労う様な賛辞を口にした。
勿論それは、彼の技量を軽んじての言葉では無い。
“垂直”という方向への移動に於いて、甚大な枷になるであろう大柄な体躯。
加えて曲がりなりにも“軽量化”の術式に頼って脚力を補完している彼女に比べ、純粋に筋力のみで壁を登らなくてはならない彼の負担が、果たしてどれほどに大きな物なのか。
それら全てを経験則と勘から考慮した上での、それは間違いなく、彼女の本心からの賛辞であった。
王女の目線が向かう先。
青の守護魔・ネプトは、付かず、離れず、しかし王女に全く遅れを取らない間合いを保ちながら、手の指や足を、鉱物を多く含む筈の壁に減り込ませつつ、豪快に壁を跳ね上がってくる。
「……、良かったのか?」
王女のすぐ隣。
分厚く、強固な筈の大剣を大きく撓ませながら、会話に適した位置に着地したネプトが問う。
普段から、あまり無為な会話を持とうとしない性質の彼だ。
それがこのタイミングで問いを発したという事は、考えるまでも無く、“あの二人”についてのことなのだろう。
「構いません」
遥か下界に置き去りにしてきた“同伴者”の姿を、ほんの一瞬だけ脳裏に浮かべるかのようにしながら。
白装束の武装姫は、靭やかなその両脚で次への予備動作を行いつつ、しかし一拍も置かずにそう断じた。
「この程度の崖も登れぬような軟弱者なら、所詮はその程度だったというだけの話です。
それに……。貴方とて、あの手紙を字面通りに受け取った訳でも無いでしょう」
怜悧な印象を受ける双眸を細め、上方の“敵地”を見据えながら彼女は続ける。
彼女の立場からすれば、それは当然考慮して然るべき事柄であると言えただろう。
直接的にはたった一度しか顔を合わせていない上、その一度にて辛酸を舐めさせられた相手。
加えて六国が睨み合を効かせ合っているこの世界の情勢において、形式上の話とはいえ天の国の最高権力者に収まっている“王”の誘いに対して、完全に気を許そうだなどと思える程に彼女は平和ボケした神経を持ちあわせてはいない。
「ユピテル……、仕掛けて来ると思うか?」
「半々、というところでしょうか。
ですが、なにも仕掛けるのがユピテルの方であるとは限りません」
「? なんだ? こっちから仕掛けるつもりだってのか?」
真意を問うように、少々意外そうにネプトが問う。
“いえ”、と。ウェヌスは、静かに首を振って否定した。
「私とて、王族として最低限の礼儀くらいは弁えているつもりです。
彼らがあくまでも“晩餐会”の体を保とうというのなら、別段、こちらからその場を乱す意思などありません。
ですが――、もしも“あの男”が出てくるのなら、そう悠長な事も言ってはいられないでしょうから」
翡翠色の瞳に、僅かに翳りの色を含ませながら王女は答える。
それは、彼女がしばしば真紅の少女に向けるものとは明らかにベクトルの違う、傍目にも明らかな程に明確な“敵意”の色であった。
ネプトには、彼女がこういう感情を向ける名に、一つだけ心当たりがある。
「武の国元国軍総大将・カリスト、か。
お前がそこまで警戒するってこたぁ、よっぽどなんだろうな」
「? 彼の名に、聞き覚えが?」
「名前だけだ。詳しい事情は、誰も話そうとしやがらねぇ」
ため息混じりに、肩を竦めながらネプトは答える。
――カリスト。武の国で腕に覚えのある猛者なら、その名を知らぬ者は居ないという。
地位が高まる程にそれに応じた強さを求められる武の国という国家の常識にあって、何の冗談か、平民出身の傭兵でありながら王族に比肩する程の実力を持ってしまったという極めつけの“異分子”。
生まれた境遇故の使命感でも無く、また地位に応じて幼い頃より課せられた“義務”による努力でも無く、純粋に剣の腕一つによって国軍を任される程の地位にまで上り詰めてしまったという、武の国に於いては正に生ける英雄譚のような男だ。
“最強の剣士”という形容が使われる際は、武の国では暗黙的に彼の事を指す程だと言われている。
それがネプトが風の噂に聞く“その男”の素性ではあったが――、逆に言えば、皆が話す内容はそこまでなのであった。
それほどの男が、どうして今は武の国に居ないのか。
そして、何故その男の名が、王女が度々語る“天の国”視察の報告で出てくるのか。
ネプトは、その辺りの事情を誰からも聞き出す事は出来なかった。
まるで“信じたくない”とでも断じるかの様に、誰もが黙して語ろうとはしなかったのだ。
「……、実力は、確かでしょうね。
私の知る限りでは、魔術無しの戦闘では最強の猛者でした」
「でした?」
過去形で告げられた王女の言葉の意を汲み取ったかのように、ネプトが問う。
王女は、ただ頷くだけでそれを肯定した。
「9年前の動乱については、知っていますね?」
「まあ、あらましくらいはな」
ネプトは、鷹揚に頷いて肯定した。
――“9年前の動乱”。それは、随分と痛ましい事件だったらしい。
当時全幅の信頼を置かれていた国軍の精鋭部隊が反旗を翻し、白塗りの王塔に住まう王族の一家を襲撃したのだ。
ずっと機を狙っていたのか、或いは只の偶然だったのかは分かっていない。
“史実”として残っているのは、その年は例年よりも遥かに雨が多く、国の各地で発生していた土砂災害の救援の為に大部分の軍隊が出払っていたのが致命的になった、というその結果のみである。
王女・ウェヌスが存命であるという事実が示唆する通り、幸いにもそのクーデターは鎮圧されたようではあったが――、しかし、その被害は決して小さかったとは言えないだろう。
この事件で殺害されたと目される王族は、三人。
内一人は、未だ遺体も見つかってはいないという――。
「その部隊を率いていたのが、“彼”でした」
内容が内容であるためか、口に出すことを躊躇したネプトに、ウェヌスは事も無げに付け加える。
声色こそ平坦ではあったが、それはネプトに目を剥かせるだけの嫌な“事実”を孕んだものであった。
「おい、それは――」
「知っての通り、武の国に於ける王族とは“国家最強の一族”を指す言葉です。
通常であれば、いかに警備が手薄になっていたとはいえ、僅か一部隊程度が王族の牙城を切り崩す事などまずあり得ないのですが……。
……それを“成して”しまったのですから、彼の戦力は決して低く見積もって良いものでは無いでしょう」
まるで、言葉を止める事で私情が混ざることを恐れているかのように。
白い王女は、どこまでも機械的に声を続ける。
「尤も、それも過去の話です。
動乱の折、あの男は母上に左腕を切り落とされていますからね。
……尤も。代償として、母は首を落とされましたが。
どちらにせよ、あの男には嘗て程の戦力は無いと考えて良いはずです」
「なんだ、そいつは……」
ギリッ、と。歯が鳴る音が聞こえた。
否、聞こえたと言っては語弊があるだろうか。
辺りは、滝の水音が轟々と鳴っていて、うるさい。
故に音が聞こえた様に思えたのは、恐らくはそれを発したネプト自身の錯覚だったのだろう。
「ネプト――?」
「テメェの主裏切って、その首持って他国に尻尾振りやがったってのか?
虫酸が走るな。この世界にまで、そんな屑が居るとは思わなかったぜ。
どんな言い訳があんのか知らねぇけどよ、それは――」
そこまで言ったところで、ネプトは不意にその顔色を無くした。
背筋に走った計り知れないナニか故に、とうとう表情に出せる感情の域を超えてしまったのだろう。
そう、思い至ってしまったのだ。
使えるべき主の首に剣を振り下ろしたという“その男”。
自らの信念に掛けても絶対に許容できない、カリストと呼ばれた“その男”が、“それ”を成そうと考えた、その理由に――。
「まさか……」
嫌な想像が、強烈な不快感が胃酸の濃度を押し上げる。
何度か“それ”を否定しようとしてはみたものの、彼が今までに得た断片的な状況証拠は否応無く、ただ“その結論”を出させるべく彼の思考を誘導していた。
――“貴族の国”だという天の国。
――平民の生まれから傭兵となり、その腕のみで国軍の総大将にまで上り詰めたというその男。
――そして、今。天の国へと取り入り、事あるごとに決まり文句の如く“それ”を要求しているという、その男についての視察結果。
ならば、話は簡単だ。
“その男”が祖国を裏切って敵国へと取り入る動機となったモノ、それは――、
「金、だったってのか?
その野郎、まさか金の為に、テメェの主の首落としやがったってのか!?」
「…………」
ネプトの問いに、ウェヌスは今度こそ何も答えなかった。
無言のまま、しかしその“信じたくない”とでも言いたげな昏い目だけが、肯定以上の肯定となってネプトに真意を理解させる。
――ここが不安定な剣の上であったのは、幸いだったかもしれない。
もう少し足場が安定した場所だったなら、ネプトは自身が掴まっている崖の突起を握り潰して落下し、また一から登り直しになっていたかもしれなかった。
「……、いえ。彼に非はありません」
あまりの不快感故か、静かに肩を震わせるネプトに。
しかし彼よりも更に激昂すべき立場にある筈の王女・ウェヌスは、宥めでも皮肉でもなんでも無く、どこまでも冷静にそう断じていた。
「知っての通り、我が武の国では強さが全てですからね。
理由はどうあれ、あの男が母上を打ち負かしたというのなら、正義は彼にあったというだけの話でしょう」
全く感情の篭らない声で、王女は条文でも読むかのように淡々と続ける。
彼女にしては珍しく。どこか自嘲気味に、そして儚げな微笑を零しながら――。
「ウェヌス――」
「……私は、それを悪とは言いません。
そして、ならばこそ。喩え私が全く同じ事をしようとも、それは、誰に文句を言われる筋合いも無い事です」
「…………」
静かに告げられるウェヌスの宣誓に、ネプトは今度こそ何も言わなかった。
ただ、まるで何かを誓うかのように、或いは何かを諦めるかの様に、小さく鼻を鳴らすだけで話を切った。
“どんな事があろうとも、主の全てを尊守する”。
それが、今のネプトが心に決める、唯一つの行動方針なのであった。
「?」
――瞬間、ネプトは場の空気が変わったのを感じた。
断っておくが、周囲の景観に変化は無い。鉱物を含んだ周囲の岩は絶え間無く降り続ける水滴に濡れて滑りやすくなっているし、それを成した水滴自体は、壁登りを開始した瞬間から徐々に勢いを増しており、今となっては簡単な夕立程度の水量にはなってザバザバと二人の髪や衣装を濡らし続けている。
見る場所によっては虹くらい見えるのかもしれないが――しかし太陽の角度が問題なのか、そんな風流で趣深いモノなんかこの崖のどこを眺めたって見当たらず、まあ見慣れないながらもそこまで変わった景色は周りには無いと言ってよかっただろう。
奇妙な点は、一つ。
ネプトの目の前で剣の腹に佇んでいる王女様が、何故か、どういう訳なのか、唖然としたように切れ長の双眸を見開いて、金魚の様に口をパクパクと開閉させていることであった。
――寒くなってきた、というわけでは無いだろう。
少なくともネプトは、こんな水を浴びたくらいでこの王女様の健康が脅かされるだなんて、ちょっと一ミリたりとも思えそうに無い。
故に奇妙であったのは、それだけ頑健な筈の王女様が、まるで幽霊でも見つけてしまったかのような表情で、ネプトの背後に向けて人差し指を突きつけながらワナワナと震えているという事実のみなのであった。
このまま見ていても、何の解決にもならないと思ったのだろう。
ネプトは、確かめるように、或いは諦めるかのように、ゆっくりと背後へと振り返った。
「――、は?」
瞬間、ネプトは唖然とした。
自分の目撃したその光景が信じられなくて、否、信じたくなくて、只々呆然と視界に映る“それ”へと視線を向け続ける。
……“視線を向ける”と表現したように、恐らくは、ただ向けただけで理解までは至っていなかったのだろう。
「アル、おかわりいるか?」
「あ、うん。ちょっともらおかな」
この高層にあって、どうにも信じ難い程に呑気な声色。
それを発したと思しき“それ”は、妙に見覚えのある青年と少女の姿をしているように見えた。
四畳半くらいの面積はあるだろうか。立派で快適で大変に頑丈そうな、緑色の葉っぱのような何かの上に座り込みつつ、何やら水筒の中身のお茶らしきモノを飲んで寛いでいる。
……更に極めつけだったのは、その葉っぱにはご丁寧に“屋根”まで付いている事であった。
これまた葉っぱで出来ている三角形の大きな傘が、まるで振りかかる水滴から彼らを守るかの様に、寛いでいる二人の憩いの場の上へと大きく張り出して風流な水音を奏でており――、
「って、何だそりゃぁッ!?」
……ネプトは、魂の叫びを上げた。
「……なにって、ユピテルから支給された壁登用植物でしょ?
ほら、この封筒に入ってた」
ニュニュニュ~ッ、と伸長していく葉の上で胡座をかきながら、横目を向けてきた少女が懐からナニかを取り出して言う。
ネプトの記憶に間違いが無ければ、それは確かに、天の国の平和主義者から送られてきたあの封書であるように見えた。
少女が気怠そうに手紙を取り出し、指をさした先には、確かにこの崖らしき模式図と、種の使用法らしきモノがツラツラと綴られていたりもする。
「……ウェヌス?」
「そ、そういえば、宰相殿が何かを言っていましたね。
えーと、あれは、確か……」
「…………」
気まずそうに眉間をグリグリとやる王女様。
ネプトは静かに目を伏せて、酷い頭痛でも堪えるかのように頭を抱えてしまった。
怒りでは無い。この王女様に一つ以上の事を覚えろというのが無理なのは百も承知であるし、あの宰相殿が自分に言付けなどする筈も無いので、現在のこの事態は非常に論理的にして明快な帰結であることを彼はよく知っているからである……。
「し、仕方ないではありませんか。
言付けなど、3時間以上も覚えていては頭痛が起きるのです!!」
「……あの国はもうダメだな」
王女の弁明にそう呟いたのは真也であった。
ドバドバと降りかかる滝の水に濡れている武の国の二人を尻目に、白い青年はコクリと優雅に水筒で喉を潤しながら読書などに耽っている。
その隣の少女は、何やら得意げにフフンと鼻を鳴らしていたりもした。アルである。
「ね、ウェヌス?
実は、さ。この葉っぱ、もうちょっとだけ人数に余裕があるみたいなんだけど」
「あんたがどうしてもって言うんなら、乗せてあげてもいいけど?」などとアルは続ける。
それはもう、まるでついに仇敵を追い詰めた野良猫のような、眩しいばかりの勝ち誇りに満ちた表情であった。
複雑そうに唸ったのはウェヌスだ。
こちらは、まるで子供に自分の通信簿を見つけられたお母さんのような、心底悔し気で忌々しげな顔で、プルプルと両の肩を震わせている。
そして、やがて何かを決意したかのように、スゥッと息を吸い込んで息を整え始めてしまった。
「…………」
――そして、ネプトは確信した。
この王女様が、次にナニを言おうとしているのかを確信してしまった。
……まあ、無為だとは思うが異論は無い。
“どんな事があろうとも、主の全てを尊守する”。
それが今のネプトが心に決めている、唯一つの行動方針なのである。
故に彼は、王女に習って大きく吸い込むだけで不満も漏らさなかった。
「ええ!! 全く!! 全く問題がありません!!
自力で登った方が速いので、自らの意思でそうしているだけなのです!!」
「おうよ!! そんなチンタラ登ってられっかってんだ!!」
間抜けな効果音でも聞こえそうな勢いで伸びていく緑の蔦を睨みつつ、今代一の武闘派コンビは(無駄に)力強く吠える。
叫び、吠え、奇声を上げながら、彼らは先程にも増した速度で岩場を高速で駆け上がり始めた。
――だが、“引き離せない”。
高度が上がるに連れて滑りやすくなっていく岩。下がる気温に薄くなっていく酸素。蓄積してきた疲労感が全身にジットリと絡みつき、流石に脚の動きが鈍くなり始めた形だった。
極めつけだったのが、“敵”である蔦の伸長方法だ。
どうやら件の“怪物”は一般的な植物とは異なり、蔦全体が伸長する方式になっているらしく、伸びる程に速度が指数関数的に増大していっているらしかった。
「上等です、相手にとって不足はありません!!」
……果てしなくナニかが間違っているような気がしないでも無い王女様のセリフではあったのだが、今この場でそれにツッコむ気力のある輩なんか勿論居ない。
赤い少女が頭を抱え、白い青年がため息を吐いていた様な気がしないでもないが努めて無視しつつ、彼らは尚も剣の合間を跳躍していく――。
尚も脆くなっていく岩場。
薄くなっていく酸素。
崖の穴からニコニコと顔を出す魔獣たち――、
「ってなにぃぃいい!?」
そして、ネプトは卒倒した。
“魔獣”である。何故か、どういう訳なのか、“中型”と形容しても何の問題も無さそうな体長の魔獣たちが、元気よく穴から首を出してキョロキョロとこちらを伺っている。
翼竜が居る。火龍が居る。“災害級”に指定されているあの怪物・黒龍の子供らしきモノまでもが群れを成して、お昼時の孤児院の様な賑やかさでワイワイガヤガヤと鳴き声を大合唱させている。
それで、ネプトは漸く思い出した。
“天の国”。崇高なる貴族の国として知られるこの地のもう一つの顔とは、この世界最強の魔獣種たる“龍”の繁殖地であったというその事実を――!!
そして、気づいた。この壁の穴倉とは、彼らの絶好の繁殖場であったのだ!!
「ネプト、右に避けて下さい!! 殲滅します!!」
返答する暇もあればこそ。
ネプトが右に身を翻した瞬間、始祖の炎帝クラスの巨大火球が視界を潰し、剣ごと先刻まで彼らが居た位置の壁を溶解し尽くしていった。それは見違えようも無い、本家火龍の放つ強力なブレスである。
足場の悪い壁面を奇声を上げながら逃げ惑う彼の頭上から、更に休む間もなく襲い来る翼竜の鉤爪ととても痛そうな牙の数々。それを拳一つでネプトが弾き返している内に、いつの間にかその更に上を飛んでいた王女は、10匹近い翼竜の頭を次々と大鎚で殴りつけて鱗を僅かに凹ませていた。
尤も、流石に“飛行魔術”は彼女をしても負担が大きかったらしく、すぐに脂汗を流しながら崖下に落下しそうになっていたが……。
その手を取って引き戻しつつ、ネプトは腰元から短刀を取り出し、更に上へと一直線に駆け上がっていく。取り敢えずは武装姫の一撃を受けてもまだピンピンしている、あまりにも頑丈な鱗を持つ翼竜の一匹へと照準を合わせながら――。
――開戦の合図は、あまりにも豪快な斬撃音だった。
血風を舞わせながら堕ちていく、翼を切り落とされた翼竜の姿を横目で見やりながら。
武の国の姫と英雄は、絶叫しながら眼前に広がる圧倒的戦力へと突っ込んでいった……。
「うわ~……。あっち、スゴい事になってるわ……」
その様子を呆れたように眺めながら、真紅の少女は他人ごとの様にため息をついていた。
彼女の視線の先では、何やらよく分からない靄のようになってしまったナニかがモゾモゾと蠢いては飛び散ったり収縮したり拡散したりを繰り返している。
無論、それはそう見えているだけの話。
その実態は、最早“壁”としか見えない程の密集陣形でたった二人の人影に向かって襲いかかっている無数のドラゴンの翼や鱗なのであった。
時折聞こえる“ウォォオオオオ!!”とか“ヤァァァアアアア!!”とかいう掛け声を聞く限り、なんとか生きてはいるみたいだが……はたから見ている分には、ちょっとあんまりお近づきにはなりたくないような光景であった。
「こっちには一匹も来ないんだな。
この草、魔獣が嫌う臭いでも出てるのか?」
四畳半くらいの葉っぱをペタペタと触りながら言ったのは真也であった。
恐らく、隣の阿鼻叫喚状態があまりにも騒がし過ぎて、ちょっと読書どころでは無くなってしまったのだろう。どこか退屈そうにしながら、“伸び方からすると、植物ってより菌類っぽいな”などと呟きつつ、しげしげと葉っぱの葉脈なんかを観察していたりする。
――と、そんな事を考えている間に、ちょっとだけ向こうも“一段落”ついたようだ。
武の国の王女と英雄が、少しだけ薄くなった“壁”の向こうから、なんか鬼気迫る形相でこちらをちらりと睨んできている。
はぁ、と。真也は、呆れがちに肩を竦めた。
「なあ、あんたら。
意地張ってないで、いい加減こっちに来たほうがいいんじゃないか?」
「バカな事を!! この程度の試練、物の数ではありません!!」
「おうよ!! 戦場と比べりゃ屁でもねぇぜ!!」
戦場と比べなくてはならない時点で明らかに問題がある気がするのだが、ここは教えてやったほうが親切なのだろうか。
そんな事を考えつつも、まあ本人たちがそう言っているのなら強要してもアレではあるので、真也は適当に水筒の中身をコクリと飲みながら隣の“修羅場”を肴とすることにしたのであった。
チラリ、と。なんとなく隣の少女へと目線なんかやりながら――。
「……アル、助けてやろうとかって意思は?」
「やだよ。だって下手に手出して、こっちにまで来たら面倒だもん」
「……、だよな」
―――――
「ウォォォォァァァァァアアアアアアアッッッ!!!!」
「いやぁぁぁぁぁぁあああああああああッッッ!!!!」
――意味のある言葉を失ったのは、一体いつの瞬間からだったのか。
悪鬼の様な羽音と鳴き声のみが木霊する地獄絵図の真ん中で、二つの人形が縦横無尽に駆け回る。
既に全身は大量の水分によってグッショリと濡れてはいるが、果たしてそれが滝の水によるモノなのか、自らの流した汗によるモノなのか、或いはそれ以外の要因によるモノなのかを判別する余裕は彼らには無い。
剣や拳が振るわれる度に舞い散る血風と断末魔、そして独特の臓物臭に目を細めながらも、彼らは半ば無我の境地に至りながら視界を覆う“壁”を切り開いていく――。
――四桁に届こうかという魔獣。
――苔まで生え始めて、更にモノスゴク滑りやすくなっていく足場。
――そして、初期からは信じられない程の速度で伸長し続ける敵の蔦!!
それら全てに挑み、ねじ伏せるかの様な気合でもって、彼らの剣戟の音は更に激しさを増していく――。
そして、瞬間。彼らは、漸く頂上が視界に入ったのを捉えた。
目測、約100ラド。たった今眼下に置き去りにしてきた“雲”を抜けた先に、まるでこの世全ての雨をそこから放出しているかの様な豪快さの“滝の先端”を備えて、崖の頂上が不動の存在感を纏って彼らを待っている。
どちらとも無く頷き、彼らは隣に走る蔦を見た。
彼らよりも僅かに先、しかし体感的には遥か前方に、尚も加速しながら伸長していく“緑の怪物”の姿がある。
――勝てるか? 否、そうでは無い。
勝たなくてはならないのだ。
そうでなくては、ナニか大切なモノを失くしてしまうような気がする――!!
「う゛ェヌ゛すぁぁぁぁあああああああああッッッ!!!!」
ネプトが、奇声を発した。
はたから見ている分には“鳴き声”とか“咆哮”としか取れない様な、それは“疲労”などという小さな次元を通り越した者だけが発し得る、正に断末魔の叫び声であった。
――だが、そこはソレ。流石は以心伝心とも呼べる立場にある守護魔と召喚主というところなのか。
ウェヌスはネプトがナニを言いたいのかを(奇跡的に)理解したらしく、松枝の様に真横へと突き出された彼の右腕の上へと、まるで鳥の様な軽快さで(同時に鳥の様な奇声を発しながら)飛び乗った。
「ウ゛ゥォグゥォゥァァアアアアアアアッッッ!!!!」
――そして、“弾丸”が放たれた。
筋肉が力強く隆起した、ネプトの腕。その上に乗っていた白い王女が、現代日本だったら精神科に連れて行かれそうな彼の絶叫と共に、白い弾丸の如く崖の頂上に向けて射出されたのだ。
両腕にオリハルコンの双刀を構えた武装姫が、まるで“逃さないよ~”とでも言うかの様に目の前に立ち塞がる魔獣の群れを切り裂いていく。
あまりにも鋭利に過ぎる刃に守護魔の怪力による超加速まで得た彼女は、火龍のブレスを切り裂き、翼竜の爪を打ち砕き、黒龍の鱗すらも引き裂きながら、白い流星となって魔獣の壁へと風穴を穿ち、崖の天辺を通り越して遥か上へと消えさって行った。
そして、ネプトは隣の蔦を見る。
――目算、あと50。
正攻法で登っていては間に合わない。
それを確信し、しかし認められない彼は、奇声と共に崖を駆け上り始めた。
比喩ではない。持ち前の怪力を頼りに両の足を壁面へと埋め、腹筋と背筋で無理矢理に姿勢だけを保ちながら、文字通りの意味で崖を直角にゴリゴリと走り始めたのだ。
瞬く間に、物理法則など知らんとでも言わんばかりの気迫と共に蔦と並ぶ青い弾丸。
そんな彼の両隣から、王女によって穿たれた穴を塞ごうと、再度魔獣の群れが雪崩れ込むようにして迫ってくる。
「じゃむァダァアアアアア!!!!」
――信じられない現象が起こった。
青い鎧を纏った大男は、まるで万有引力の法則を冒涜するかの如く、両足を壁に埋めた状態から更に跳躍したのだ。
当然、物理法則は万物に対して平等に働くワケであって、両足が壁から離れた瞬間から、彼の身体は奈落の底に向けて落下を始める。
否、その筈だった。
彼が眼前に迫る黒龍の頭を片手で掴み、思いっきり崖の下へとぶん投げさえしなければ――!!
カウンターウェイトの射出によって無理矢理に上方への運動量を得た彼の身体は、更に常識外の身体能力によって加速を得る。
翼竜の背中を踏み抜き、火龍のアタマを蹴り飛ばし、崩落していく瓦礫すらも足場にしながら、青髪を振り乱しつつ巨体を天高くへと跳躍させ、間一髪で“敵”よりも早く崖の頂点へとその足を踏み入れる。
(まだだ!!)
――だが、彼は油断しない。
否、まだ油断できる状態などでは勿論無かったのだ。
それを理解していた彼は、視界の端に今正に崖の天辺へと登りきろうとしている“怪物”を捉えながらも、神経を一切緩めずに両腕を大きく頭上へと掲げた。
掲げたまま、降ってきた、しかし未だ空中に居た王女の足首をがっちりと掴み、そのまま一気に地上へと引き摺り下ろす。
無理な体勢で引っ張った為か、落下の衝撃は強く、ネプトは崩れるように転がって砂煙が上がる。
しかし姫には衝撃を与えぬ様に、その腕はしっかりと彼女の身体を抱え込み、汚れすら付けないように気を使った綺麗な転がり方を見せていた。
そして、漸く彼は口を開いた。
やっと上がってきた敵に向けて、“やりきった”という気持ちのいい笑みを浮かべながら、余裕たっぷりに告げてやった。
「ぜ、っぜェェッ。な゛、ごっぢの、ぼうが、ばやゴベバァァァッ!!!!」
「……ああ、分かった分かった。あんたは凄いよ……」
ピクピクと痙攣しつつ、並んで倒れ伏している2人に9割の呆れと1割の妙な尊敬なんかを抱きつつ。
白い青年は、汗一つ無い涼しい顔でそう言ったのであった……。
――天の国首都・エラルトプラーノは目の前だ。