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朝日真也の魔導科学入門  作者: Dr.Cut
第三章:エーギルの晩餐会-2『trouble and travelers』
72/91

72. 果ての無い平原に生息する大型の爬虫類に分類されると予想される生命体の体色及び生息環境から想像される当然の帰結について考察する為の先人による尊い資料を根拠とした人体実験

 果ての無い平原は、六枚花弁の花の様な形状をしたこの大陸の中心に広がる大草原地帯である。

 内陸部の宿命と言うべきか。西側に天の国を眺めるこの平原は、偏西風を同国の数千メートル級の大山脈によって遮られる関係上、基本的に年間を通して降水量は少なめに保たれているらしい。

 特に冬入りの頃に訪れる乾季には、平原の中央部は大規模な干ばつに見舞われる事も間々あり、それが凶悪な魔獣種が闊歩する事に次ぐ、この平原に人が住むことの出来ない理由のナンバーツーなっている、と、真也は出発の前にアルから話を聞いていた。


 ――だが、それも乾季が明け、間もなく雨季に移り変わろうかとしているこの時期になっては穏やかなものである。

 おそらくは極地域から流れこんで来ているのだろう。

 冬季に氷雪として蓄えられた水分は、春の訪れと共に雪解け水へと変わって地下へと染みこみ、どのような地理的要因からか、果ての無い平原の随所から湧き水という形で噴き出してきているようであった。


 そんな期間限定の湧水帯の一つ。

 この時期の“果ての無い平原”では特に乾燥した、ケッペンの気候区分的に言えばステップ辺りに分類されそうな、平原中央付近の泉の畔にて。

 真也たち四人は、夜間の休息を得るためのキャンプを張っていた。


「おう。モモ肉、もう焼けたぜ」


 自身の倍ほどはあろうかという、大トカゲの巨大な脚部を火で炙りながら言ったのはネプトだ。飛び出た大腿骨を混紡の様に握り、アルの起こしている火炎魔法の火に翳しながら、焼き加減を調整する為にクルクルと器用に回している。

 アルが火を止めると、ネプトは砂地に直に肉を置き、ノコギリの様にギザギザとしたナイフでそれをケバブの様に何切れか削ぎ落とし始めた。

 赤い肉汁がジュワッと滴り、芳醇な脂の匂いが辺りに立ち籠める。


「……ゴメン。あたし、もういいわ」


 ゴリゴリと削られ、携行していた銀皿に山盛りにされていく肉を見ながら、陰鬱そうに零したのはアルだった。

 その顔色が少し悪く見えるのは、おそらく気のせいなんかじゃないのだろう。


「ん? そうか。

 そんじゃ、ほら。白いの――」


「……いや、オレもいい」


「? んだよ、だらしねぇな。

 ちゃんと食うもん食わねぇと、力つかねぇぞ?」


「…………」


 そうは言われても、いらない物はいらないのだから仕方が無い。

 別にトカゲの肉がグロテスクだからとか、味が酷く悪いから、なんて理由では無い。

 否、先刻ネプトが仕留め、このキャンプ地まで軽々と引き摺ってきたこのトカゲ肉は、寧ろ野生のモノにしては非常に美味な部類に入ると言えるだろう。

 肉質は見た目に反して柔らかく、多少クセはあるが、噛む度に染み出してくる肉汁の旨みは病み付きと評価して差し支えない。この辺りの土壌に塩類が多く含まれている為か、肉そのものにも天然の塩気があり、焼きたての薫りと合わさって非常に食欲をそそっていた。


 ――そう、そそっていた(・・)

 いま皿に盛られているのと同じモノを、まるニ杯平らげさせられるその時までは。



「…………」



 チラッと、真也はネプトの隣に目を向けた。

 乾燥した、粒の細かい砂に覆われた大地には、肉を削がれて骨だけになったトカゲの腕が転がっている。

 つい先程、同じようにアルが火を入れて焼き、この四人で食べ切ったモノだった。

 ……サラダも主食もデザートも無く、ひたすら肉のみを山盛り二杯。

 いくら美味だと言っても、これで三杯目に突入しようと思える猛者なんか、少なくとも学会には滅多にいないだろう、と真也は思っている。

 どうやら魔導師会にも滅多にいなかったらしく、真也よりも小柄なアルなどは、皿一杯を平らげたところで“うっ……”なんて呻きながら口元を押さえて黙ってしまったほどだ。


物理学者(オレ)はデスクワークなんだ。

 力がついても、頭が退化しては本末転倒なのさ」


「そうかぁ? 頭デッカチでも、良いことねぇと思うけどよ。

 ま、お前がそう言うなら別にいいけどな」


 青い男は、そう言って少し残念そうに息を吐く。

 そして、肉の乗った皿をキャンプの中心にある岩の上に乗せると、自分はトカゲの大腿骨を掴んで、そのまま骨付き肉を貪るようにムシャムシャと齧り付き始めた。

 豪快に肉汁を跳ねさせながら、肉が見る見る小さくなっていく。


 ――どうして、自分より大きなモノが食べられるのだろうか。


 物理学者たる真也は、ネプトの体内に於ける“質量保存の法則”について極些細な疑問なんかを抱いたりもしたのではあったが――同時に彼がこことは更に異なる時空から召喚された“守護魔”である事を思い出して、やっぱり気にするだけ無駄なのだと諦めた。

 きっと、アレである。解剖して詳しく調べれば解明できるかもしれないが、真也には十分な医学の知識が備わってはいないし、やっぱりよく分からないかもしれないし、きっとどうにかなっているに違いないのである。


「――――?」


 そんな事を考えながら、真也が汲み置きした湧き水で喉を潤していたとき。

 ふと、奇妙なモノが目に留まってしまった。

 ――お姫様だ。

 白いドレスを着た武の国の大魔導・ウェヌスが、どこか不満そうに眉を寄せつつ、物欲しそ~な目で円陣の中心にある岩の上を見つめている。

 否、より正確に言うと、岩の上に乗っている何かを眺めている形であった。


「ネプ助。姫様、肉追加らしいぞ」


「ん? ああ、悪い。気付かなかったわ」


 ――まあ、無理は無かっただろう。

 何しろ、ウェヌスの皿の上にはまだ肉が少し残っている。

 別に“おかわりは全部食べてから”、なんて小学生のようなルールを定めた輩がこの中に居るわけでは無いが、ネプトにしてみれば、わざわざウェヌスに肉を分配しなくてはならない程に切羽詰った状況でも無かった、というのは確かだった。

 いや、まあ。肉は少しでも減らしておいた方が害獣を誘き寄せる危険性も下がるし、彼女が積極的に食べてくれるのなら、感謝こそすれ別に誰も文句を言うような話でもないのではあるが。


「っ、な、なんですか、人を大食らいのように。

 べつに、私は――」


「ねえ、それさ。

 せめて、その手を引っ込めてから言わない?」


「…………」


 バツが悪そうに俯きながらも、ウェヌスの手はまるで別の意思が宿ったかのように皿を受け取り、二又のフォークでパクパクと肉を口に放り込み始めていた。

 ネプトが食べまくっている為に目立たないが、実はこの姫様の食欲もかなりのモノである。既にアルの倍、健康な男児の真也と比べても1.5倍程度の量は楽に食べているように見えた。

 このスレンダーな体型の、一体どこにそれだけの量が入るのか。

 真也も、ついつい彼女の腹部をマジマジと眺めてしまったほどである。


「――か、体作りは、戦士の基本なのです。

 ええ、そうです。武の国の王女として、大食は誇りこそすれ、決して恥ずべき事柄ではありません」


「…………。

 ま。別に、あんたの国の習慣なんか知ったことじゃ無いけどさ」


 湧き水を沸かしたものに、紫色の木の実を絞って入れながら、諦めとも呆れともつかない声でアルが言う。

 一見するとブルーベリーの様にも見えるその木の実は、確か“ラナの実”とかいう果物で、強い消毒効果があるので重宝されているという話だった。

 守護魔である真也と違い、この世界の感染症に罹る可能性のある彼女が、生水に当たらないようにする為に銀の国から持ってきたモノだ。


「…………」


 ――と。

 ラナの果汁を入れた湧き水を、コクリと口に含んだ時。

 何故か、アルがキュッと眉根を潜めて黙ってしまった。

 不味かった、というわけではないだろう。

 彼女の目は、まるで何かに気付いたような、或いは今更それに思い至ったような表情で、どこか不安そ~に、捌かれた大トカゲの方を向いていたからである。



「……ねえ、そういえば、さ」



 確かめるような表情で、なにやら念を押すようにして彼女は続ける。



「なんか、あんた達がさも当然のように捌いてるから、つい騙されてたけど……。

 コイツ(・・・)って、本当に食べても大丈夫なヤツなわけ?」


「……、…………」



 真也は、胃の奥の温度が5℃くらい下がったような気がした。



 ――チラッと、トカゲを見てみる。



 そう、トカゲだ。それはもう、地球流に表現すれば“紫色のティラノサウルス”と表現できそうなくらいに大きいが、真也の目の前にあり、そしてたった今口にしたばかりのソレは、確かにまごうこと無きトカゲだった。

 ――トカゲなら、基本的に毒は無い。

 そう。確か、地球に現存するトカゲで毒を持つとされているのは、アメリカドクトカゲとメキシコドクトカゲ。あと、コモドオオトカゲが毒を持っているとか持ってないとかで数年議論されていたような気がしないでも無いが、大多数のトカゲには毒が無く、基本的には可食であると考えても良いだろう。


 だが、それはあくまでも地球での話。

 あんな青々とした草の茂っていた草原で、尚且つこんなに目立つ紫色をしている生き物が、果たして、本当に、全く毒を持っていない、なんてことが、間違い無く言い切れるのかどうかと聞かれると……。



「アルテミア、知っていましたか?」


「?」



 銀の国の二人が、顔を青くして暫く黙っていると。

 白いお姫様は、まるで“そんな事も知らないのか”とでも言いたげな様子で、随分と得意気に人差し指を立てた。



「焼けば、なんでも食べられるそうです」


「ウソつくなバカァッ!!」



 ブンッ、と。癇癪を起こし、白い王女(バカ)に向かって空っぽの銀皿をぶん投げるアル。

 だが、そこはそれ、流石は武の国の武装姫といったところか。

 ウェヌスは飛んできた皿の底を二又フォークの柄で軽く叩くと、そのまま大道芸の様に柄を皿の底に引っ掛けて、クルクルと回して勢いを殺した。

 どこか勝ち誇った顔をしている脳筋姫に、魔術という名の次弾を放とうと腕を振り上げるアル。

 放っておいても二次災害に巻き込まれるだけだと思った真也は、必死になってその小さな大怪獣さんを羽交い絞めにして宥めることにした。


 ……相変わらず、自然界では絶対に顔を合わせてはならない二人である。

 こうして四人でキャンプを張っているのだって、あくまでも今回の旅の目的が“晩餐会”であり、ユピテルの手前ここで戦闘をするワケにもいかず、またそれなりに厳しい旅路であることも予想された為に、今だけは四人で居た方が何かと利が大きいと(主に、二人のご主人さまを宥め賺した守護魔の二人が)判断したのが理由ではあったのだが――。

 正直、今更になって。真也は、自らの判断が実は大きな失策だったのではなかろうか、などと後悔し始めてもいた。


「安心しな、嬢ちゃん」


「?」


 念のために胃洗浄でもしておこうか、などと、真也が割りと本気で思案し始めた頃。

 ネプトが、鎧の腰に付いた小袋から一枚のメモのようなものを取り出した。


「サイクロプスのオヤッさんから借りた、食える魔獣のリストだ。

 ほら、コイツってこれだろ? ちゃんとここに載ってるぜ」


 開かれたメモを、ざっと流し見てみる。


『◎:食えるやつ

 ○:食えるけどマズいやつ

 △:食えるけど腹壊すやつ』


 メモは以上の、この上なくシンプルな三つの項目に分かれており、ネプトが指さしている、このトカゲっぽく見えなくもない、なんか不気味な造形をしたよく分からない紫色の染みの上には、確かに二重丸が華々しくも鮮やかに輝いていた。

 ……なるほど。どうやら武の国民は、本当に焼けば何でも食べるらしい。

 “食えるけど腹壊す”とは、一般的には“食えない”と言うのではなかろうか、などと、真也は彼の武術王国に於ける食文化について極々些細な不安なんかを抱いたりもしたのではあったが――まあ、気にしても頭痛以外に得るモノは特に無さそうでもあるので、真也はやっぱりあまり気にしない事にした。



「さて。それでは、食事も済んだことですし、私は身を清めて来ます。

 ネプト、警護をお願いしますね」


 そんなやり取りをしている間に、どうやら王女様も、ようやく空腹が満たされてくれたらしい。

 恐らくは、水浴びをして汗を流しに行くのだろう。

 ウェヌスは、彼女らしい白いハンカチで軽く口元を拭うと、椅子代わりに座っていた岩から立ち上がり、小さなカバンを持って水辺の方へと足を向ける。


「――、待ちなさい」


「?」


 ――と、その時。

 王女の背に向けて、何故かアルが静止の言葉を投げた。



―――――



 改めて見た泉の水は、少女の想像よりも随分と透き通っていた。

 この時期限定の湧き水である為か。泉には生き物も無く、水底には水草一本生えてはおらず、どこまでも透明な浄水に、満点の星明かりだけが映っている。

 “あのバカ”は土壌の栄養分がどうだとか、フィルター効果がなんだとかブツブツと呟いていた気がしたけれど――よく意味も分からないし、興味も無いので、少女は特に気にしないようにしていた。


 浅瀬を砂で区切った湾に腕を構え、慣れ親しんだ詠唱を熟す。

 右腕の霊道に炎の魔力を流し、放つと、泉の水は見る見るうちに温まり、1分もしない間に濛々とした湯気を立ち籠めさせ始めた。

 軽く、足先を入れて確かめる。

 どうやら、上手く屋敷で使っている浴槽と同じくらいの温度に出来たらしく、露天の心地よさも相まって、少女はついついため息を漏らしてしまった。

 自らの隣にある“イヤなの”は努めて意識しないようにしつつ、少女――アルは、色々な所が小柄な自分の身体を、ゆったりとお湯の中に沈めていく。


「泉をわざわざ沸かすなんて――少しばかり、退廃的に過ぎませんか?」


「…………」


 “イヤなの”が、声を掛けてきた。

 金髪翠眼の、武の国第一王女。

 ウェヌスが、少しだけ距離を開けるようにして、アルの向かいの端に身体を浸している。


「……ナニよ、悪い?

 武の国だって、まさかシャワーからお湯くらい出るんでしょ?」


「当然です。しかし――流石に、それとこれとは一緒にできません。

 我が国では、水に浸かるのは精神統一の意味合いの方が強いですから。

 わざわざ水温を上げて入るのは、軟弱者のする事と揶揄されます」


「…………」


 わざわざ刺々しく言ってやったのに、ウェヌスは平然と答えてくる。

 聞き方によってはイヤミに感じない事も無いその返答は、しかしあくまでもウェヌスらしい、他意無く事実のみを告げる、生真面目過ぎる声色だった。

 マナーを教える母親のようなその態度が、アルには余計に癇に障る。


「あぁ――、なるほど」


 歩数にすれば、二歩も無いくらいの距離。

 でも、絶対に歩み寄ろうだなんて思えない距離を隔てた先で、ウェヌスが感嘆するように声を漏らした。


「でも、これは――。確かに、なかなかに心地の良いものですね」


 ゆったりと、気を休めるかのように身体を伸ばす武装姫。

 アルは“そう、良かったじゃない”なんて素っ気なく言いつつ、不機嫌そうに見せる為にわざと眉を寄せてやった。

 ……あいつが持ち込んだ習慣を褒められて、ちょっとだけ誇らしく思ってしまった気がしたのは、やっぱり本当に気のせいだったに違いない、とアルは信じている。



 アルが、犬猿の仲とも言えるウェヌスと一緒に水浴びをしなくてはならなくなった理由は簡単だ。

 先刻、真っ先に泉に向かおうとしたウェヌスに、


「どうして、あたしが!! よりにも、よって!!

 こんなヤツが入った後の泉に入らなきゃならないのよ!!」


 ――と、他ならぬアル自身が不満をぶち撒けてしまったのが原因である。

 それは、確かに紛うこと無きアルの本心(・・)ではあったのだが……、あまりにも歯に衣着せずに叫んでしまったのは、本当なら顔も見たく無い筈の相手と同じ食卓を囲まなくてはならなかった事へのストレス、というのが主な要因であったとアルは分析している。

 きっと、自分でも知らない内に、溜まりに溜まっていた我慢がとうとう爆発してしまったのに違いない。


 当然、ウェヌスは頬を引き攣らせた。

 初めは口喧嘩から始まったのだが、段々と押し合いへし合いの肉弾戦へと移行し、終いには剣戟と魔術が飛び交い始めた辺りで事態を重く見たらしい守護魔の二人が止めに入る、なんて事態に発展するくらいまでには、この戦闘狂なお姫様も頭にきていたらしい。


 色々とあったが、要点は一つ。

 食べ残しの肉を狙っていた魔鳥の群れが引き返す勢いでヤンヤヤンヤと大暴れをした二人の議論(・・)は、いつの間にか、“それなら、二人で入ればいいんじゃないか?”なんていうワケの分からない提案を飲む方向で纏まってしまった、という事であった。


「――――っ」


 本当に、最悪の結末になってしまった、とアルは思っている。

 まったく。どうして自分が、こんなバカの代名詞みたいなヤツと、一緒のお湯で身体を洗わなくてはならないのか。

 バタバタと揉みあっている間に埃塗れになってしまったし、長旅で一刻も早く汗を流したくて仕方のない状況だったから、ある意味では仕方のない事だったのかもしれないけれど――何の解決にもならない、こんな方法を提案してきた“あのバカ”には、今度はどんな制裁を加えてやろうか、なんて、アルは割りと大まじめに検討していない事も無かったりはする。



「落ち着いて、いるのですね」


「?」


 ――ふと。

 気を紛らすように、そんな事を考えていると。

 ウェヌスが、なにやらよく分からない事を言ってきた。


「……いえ、なんでもありません。

 ただ。貴女は、男性の目というものを極端に嫌う性質の持ち主だと聞いていたものですから」


 首を傾げて見せると、ウェヌスが妙にソワソワした様子で明後日の方向を向く。

 彼女の目線の先には、簡単な仕切りがあった。

 携行していたウェヌスの剣を骨組みにして、防寒用のシーツを被せただけの、酷く簡素な目隠しである。

 恐らくあの向こうでは、今も青い従者・ネプトが見張りに勤しんでいる筈だが――。


「真也さん、と言いましたね。

 彼は、その――ふ、不埒な事は、しないのですか?」


「――――っ」


 その言葉で、漸くアルは、ウェヌスが何を気にしているのかを理解した。

 その心配が、ちょっと有り得ないくらい、あまりにもバカバカし過ぎて、アルはついムッとなってしまう。


「あいつが覗きでもするんじゃないか、って? バカじゃないの?

 あいつに限って、そんな事するワケが無いじゃない」


 そう、あり得ない。

 あいつが、コソコソと自分たちの入浴を覗いてくるだなんて、そんな事は絶対にあり得るわけが無いのだ。



「? ずいぶんと、信頼しているのですね」


「当たり前でしょ? だって、ありえないもん」



 アルは、自信満々に言ってやる。

 そう。あまりの憂鬱さに俯いて、陰鬱に肩を落としながら、ため息でも漏らすかのように鬱々と……。



「……アイツは、ね。わざわざ覗いたりなんかしないで、普通に入って来るのよ。

 それで、思いついたように首を傾げて、あたしの胸をマジマジと見ながらこう言うの。

『随分と控えめだが、それはちゃんと成すべき機能を備えているのか?』ってね」


「…………、苦労、して、いるのですね」


 ウェヌスが、深々とため息を吐いて目線を落としたのが分かった。

 どうやら“そのこと”に関してのみは、細身でスポーティーな代償として、必然的に余分な脂肪の蓄えが無い彼女も、少なからぬ共感を抱いてしまったらしい。

 “分かってくれたようで安心した”、と。アルは、少しだけ下がってきている水温を調節し直しながら眉を寄せるのだった。



 ――瞬間。一際、強い風が吹き抜けた。



 この辺りが、昼夜の寒暖差の激しい平原中央部付近である為か。

 昼間とは打って変わった冷たい風が頬を刺し、泉の水に波紋を作る。

 目の前を見えない壁のように区切っていた、薄くて白い湯気も完全に取り払われて、一瞬だけお互いの姿がハッキリと見えてしまった。


「――――っ」


 改めて見た、一糸纏わぬ武の国第一王女の姿に。

 アルは、胸の奥を抉られる様な思いになった


 しっとりとした水気を含んだ、ブロンドの髪。

 長く、金沙を散りばめた様に美麗なその装飾が、月と星の灯りに煌めきながら、身体のラインに沿うようにして流れている。

 白く、しなやかな肢体に付着した水滴までもが、砕いた水晶を散りばめたような幻想的な意匠となって彼女の容姿を引き立てる。

 ――その、どこまでも真っ直ぐで、侵し得ないとすら思える姿に。

 だからこそ。アルは、ため息を堪える事が出来なかったのだ。


「? どうかしましたか?」


 ウェヌスが、人の気なんかまるで知らない様子で聞いてくる。

 気付いていないみたいなので、分からせるように、アルは2歩だけ、距離を埋めるようにウェヌスの方へと近寄った。

 左の、脇腹の辺り。第五肋骨のある辺りに手を当てて、撫でるように軽く触る。


「――――っ!!」


 ウェヌスが、恐らくは神経を突き刺した刺激によって顔を顰めた。

 でも、それも本当に一瞬で、瞬きした後には、もう何事も無かったかのような無表情を作って(・・・)いる。

 そんな、下手に隠すような彼女の態度に、アルは脳の奥が更に冷え切っていくのを感じた。



「……バレないとでも、思った? バカにしないでよ!!

 これ、すごい高度な治癒魔法で表面だけ覆ってるけど、皮の下はグチャグチャでしょ?

 なに? あの蟲の大群、そんなに手強かったわけ!?」


「貴女こそ、バカにしないで下さい。

 あの程度の戦闘で傷を負う程、私の技量は低くはありません。

 これは――」


 ウェヌスが、言いよどむ様に言葉を切る。

 アルは、その目が心の底から恥じ入るように流れたのを見逃さなかったが――。

 白い王女は、アルがそれを気にするより前に、吐露するように続けた。



「これは一昨日の鍛錬で、自分で付けた傷です」


「っ」



 ――呼吸が、止まったかと思った。

 驚いた理由は、理解できなかったから、ではない。

 “やっぱり”と。そう、すんなりと納得してしまった自分自身に、他ならぬアル自身が誰よりも驚いていた。

 白く、同性のアルから見ても十分以上に綺麗な、でも脇腹と同じような違和感が所々に見える肌を撫でながら。

 フッ、と。ウェヌスが、どこか自嘲気味な微笑を浮かべる。



「武の国の王族が、“長髪”でなくてはならない理由を知っていますか?」


「…………」



 勿論、知っていた。

 武の国での長髪とは、即ち圧倒的な強さ(・・・・・・)の証だ。

 武具どころか服装、髪一本の重さにまで細心の注意を払うべき戦場に於いて、敢えて枷になる長い髪を靡かせるという身嗜みは、凡百の使い手とは格の違う強さを持つが故に可能な姿として武の国民には認知される。

 どれほど血風舞う、地獄の様な戦場に立とうとも、傷や汚れを纏う事無く映える、純白の装束と長い髪。

 強さが全てと信じて疑わない武の国の人間には、故にその姿は眩い、絶対的な王者の象徴として、憧憬の目を向ける価値がある者と映るのであった。


 アルは、その話を当然のように知っていた。

 いや、忘れる(・・・)わけが無かった。

 無論、内心でどう思っていようとも、アルにはそれを口に出そうとは絶対に思えなかったが。


「だから、なんなの?」


「同じことです。

 武の国に於いて、王族とは“絶対的な強者”でなくてはなりませんからね。

 日々の修練とて、未熟な(・・・)私の腕では、流石に無傷で済ませるのは難しいのですが――。それでも、いつまでも傷から血を流して呻いていては、それこそ王族の沽券に関わるのです」


 ウェヌスは、それがさも当たり前のように語る。

 ――それは、どれほど辛かったんだろうか。

 おそらくは、物心がつく前から。王族としての強さを身に付ける為に、血の滲むような修練を自らに課して、でもその苦しさを顔に出す事は、絶対に許されない。

 どんなに身体の中を痛めつけられても、表面だけは綺麗に取り繕って、求められる王族としての姿を義務付けられる生き方――。



「…………」



 そう思っていると、いつの間にか、アルは自分の右手をジッと見詰めていた事に気がついた。

 この手は、今でも鮮明に“その感触”を覚えている。

 ――以前、時計塔が倒れてきた時に、偶然握ってしまったウェヌスの手。

 細く、彼女のイメージからは意外なほどに小さかったその手は。

 小奇麗な彼女の容姿からは想像もできないくらい、豆とタコでガチガチだった。



「安心して下さい」


 そんな、尋常ではない積み重ねの全てを、一切おくびにも出さないで。

 王女・ウェヌスは、どこまでも不敵な笑みだけを浮かべて言い切った。


「貴女が、納得できないと言うのなら。

 私は、未来永劫に無敗で在り続けましょう」


「――言ってなさい。

 そのうちあたしが、言い訳も出来ないくらいキッチリ負かしてあげるから」


 それはきっと。傍から見れば、随分と奇妙で意味不明な会話に見えたのかもしれない。

 それでも。月だけが見守る、夜の泉で。

 翡翠の瞳を持つ武の国の王女に、暫くの間、アルはどこか親しみの込もった微笑を向けていた。

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