70. 各国の大魔導と守護魔達の平時に於ける日常生活及び天の国より届けられた封書によるそれらへの影響を考察する為の観察記録
――武の国王都・ヴィーンゴルヴ。
悠久の歴史を刻んだ、白塗りの王塔の最上階に備えられたバルコニーにて、ウェヌサリア・クリスティーは渋い面持ちで唸っていた。
日々の修練によって鍛えられた、純白のドレスの袖から伸びるスレンダーな腕。
その先に伸ばされた指先を、自らの使い魔たる群青の鳥の頭に当てつつ、そこから流れ込んでくる“敵地の情報”の数々に、彼女はどうにも堪え切れないほどの頭痛に苛まれる。
イヤな汗が滲む額を軽くタオルで拭ってから、彼女は自らの視界と使い魔の視界との接続を緩やかに絶った。
「? どうした? なんか動きでもあったか?」
“挨拶”によって散らかった私室を、お決まりの廃品箱と箒で片付けながら、青の守護魔・ネプトが問う。
はぁ……、と。ウェヌスは、何か堪え難い感情でも吐露するかの様な面持ちになりながら、深いため息を吐きつつ続けた。
「ハーレムが……」
「は?」
「…………」
切れ長の瞳を2秒くらい閉じて、キュッと口元を結ぶウェヌス。
一度だけコホンと咳ばらいをしてから、彼女は切り替える様に続けた。
「……いえ、なんでもありません。
視察の結果、でしたね。
“天の国”にて、国王の親衛隊が組織されました」
明らかに意図的に私情を籠めない様に努めた声で、王女は自らの従者に告げる。
先月の“選定の剣技会”の折り、意図せず“最強の守護魔”・ユピテルの実力を見せつけられる羽目になった彼女は、彼らを最も警戒するべき敵と定め、今日に至るまでずっと天の国勢の監視を続けてきたのであった。
結果はあまり実のある物とも言えなかったのだが――それでも、こうして午後の休息時間に天の国の動きを自らの従者と話し合うのは、ここ最近のウェヌスのライフワークの一つとなっていたりもする。
「親衛隊? そりゃずいぶん唐突だな。
平和主義の“あの男”が、なんでまた――」
「……いえ、ユピテルは親衛隊の存在を知りません」
「?」
ウェヌスの言に、訝る様に首を傾げるネプト。
白い王女は再度、本当に酷い頭痛でも堪える様な渋面になって、ため息でも漏らす様に詳細を述べた。
「“親衛隊”とは言っても、実態はユピテルのファンクラブです。
炎民議長のエウロパを筆頭に、特権階級の女性たちを中心に構成されており、主な活動内容はウラノスへの嫌がらせと、彼女をユピテルから遠ざけるための――」
「何してんだ、あの国は……」
王女の頭痛の理由を理解したのか、ネプトも呆れ返った様に頭を抱える。
“分かってくれて安心した”、とでも言いたげに、ウェヌスはより一層深いため息を吐いて続きを告げた。
「実際問題、ユピテルほど好条件の男性など、あの国の価値基準から考えれば他にいませんからね。
十も二十も歳の離れた男性との政略結婚も珍しく無い“天の国”で、器量も良い上に“国王”という地位にあるユピテルの存在は、彼女たちにとっても一生に一度あるかどうかのチャンスなのでしょう」
「…………」
“まったく。男性に筋力と武芸以外を求めるなんて……”とウェヌスは続ける。
本当に小声だったのでやっぱり何も聞こえなかった事にしつつ、ネプト呆れた様に頭だけを抱えていた。
「――続けます。
もう一つ、こうした宮廷の女性たちの暗躍の裏で、各門閥内では逆にウラノスの心を射止めようとする者達の動きもあるようです」
「ウラノス――ってーと、あの緑髪の嬢ちゃんか。
そりゃ……、いくらなんでも、無理じゃねーか?」
以前一度だけ見た、ウラノスのユピテルへのゾッコンぶりを思い出しながらネプトが言う。
無論、元の世界に居た時から戦と鍛錬に明け暮れてきた彼とて、その手の事にそこまで鋭いわけでも無かったのではあるが――それを差し引いても尚分かってしまうほどに、“それ”が無理である事は誰の目にも明白な事実であった。
ウェヌスは、小さく首を振って答える。
「コストとリターンの問題でしょうね。
ウラノスの意向をコントロールするというのは、そのまま天の国の全権を掌握するも同じですから。
各門閥内の貴族達の中には、身内きっての色男を募り、万が一にでも彼女の心を射止める事が出来れば儲けもの、程度に考えて策を打つ者も少なくない様です。
なの、です、が……」
「?」
そこで言葉を切ったウェヌスは、今度こそ本当に頭が痛くなったとでも言いたげな表情で、眉間の辺りをグリグリと指で弄り始めてしまった。
――1分、経っただろうか。
もう口に出すのもバカバカしいとでも言わんばかりの表情になって、吐露する様な口調で続きを述べた。
「天の国の常識に則って、そうして任を任される男性は全員が名門の貴族です。
これまで同じ貴族の淑女達を相手にしてきた彼らに、“風の民”出身のウラノスの気を引く方法などそう分かる筈も無く……。
……多くの者は何故自分が“風の民”なんかを、と途中で匙を投げ、また残った少数の中には、ウラノスの気を引こうとしている間に、“飾らない”彼女の為人に魅せられて本気になってしまう者がチラホラと……」
「マジで何してんだ、あの国は……」
“繰り返しますが、当事者の二人のみこれらの動きを知りません”と続けるウェヌスに、ネプトはどこの海溝よりも間違いなく深いため息を漏らしたのだった。
「王女様、お時間宜しいでしょうか」
――と。二人がそんな会話を交している間に、私室の扉がノックされた。
ウェヌスが短く許可を出すと、妙齢の女性が慎み深い動作で入ってくる。
尖った眼鏡が理知的な印象を醸す彼女は、王女がとても良く知る人物であった。
「これは、宰相殿。何か急ぎの案件でしょうか?」
――武の国宰相・ネイト。
“強さ”が全てとされる武の国にあって、数少ない力よりも知恵が重要視される役職にある人物であり――つまりは、この王宮で唯一王族への“挨拶”を省略する事が許されている女性でもある。
それを知っている王女は、私室に剣も持たずに現れた彼女に特に気を悪くした様子もなく、軽く会釈をしただけで要件へと話を移した。
宰相は一瞬だけ(本当に、誰にも分からないくらい一瞬だけ)、王女の隣に居た青い従者へと目をやったようにも見えたが……彼女はあくまでも生真面目な佇まいを崩さぬまま、シックな印象を受ける上着の内ポケットから封筒を取り出して頷きを返した。
「はい。今朝方、“天の国”より封書が届きました。
こちらがそうなのですが……」
「分かりました。それではネイト宰相、読み上げて下さい」
「…………」
クールな印象を受ける顔立ちに、僅かに渋そうな色を浮かべる宰相。
しかしそれは、別段手紙を読み上げろと言われた事に気を悪くした訳では無い。
この王女様が三行以上の活字なんか読めない事くらい、王女の公務を補佐し続けてきた彼女にとっては、もうとっくの昔に慣れ親しんだ普遍的事実だからである。
よって宰相がどこか不機嫌そうになったのは、別に王女自身が原因なのでは無く、その隣に岩の様に居座っている“ある男”のせいなのであった。
「……何を、しているのです?」
「?」
低い声で、青い従者に宰相が問う。
首を傾げる従者を冷たく睨みつけながら、彼女は静かに続けた。
「礼節を弁えて下さい、異国民。
王女様は、今から封書の内容を確認したいと仰っているのです。
従者は席を外すのが摂理というものでしょう」
「ん? ああ、悪い。
俺の地元にゃ、あんまそういう堅苦しいルールってのが無くてよ」
「……相変わらず、口の利き方もなっていませんね。
咎める時間も惜しいので、手早く退出なさって下さい」
「…………」
辛辣な宰相の言葉に、ネプトは辟易したように肩を竦めた。
――屈強なる武術王国・武の国。
仮にもあの“選定の剣技会”にて並居る猛者たちの頂点に立ち、あわや最強の王女様にすらも手が届くかという成績を残したネプトにこういう態度を取る人物は、強さが全てとされるこの国ではかなり少数派に入ると言って良いだろう。
無論、名誉や名声といった物に対する欲というものをあまり持ち合わせないネプトである。
こうしてこの国での“礼節”を教えてくれる人物は、素直に自分の為になると思っていたし、更には彼女の言の根本にあるのは王女への敬意である事も分かっていたので、彼は別段気を悪くする事も無かった。
「ネプト、構いません。
どの道、貴方にも関係する事でしょうから。
宰相殿も、どうか理解して下さい」
軽く手を振って退出しようとした時、彼を呼び止めたのは王女だった。
彼女は思慮深く、そして聡明そうに見える(あくまでも見える)顔立ちを凛と引き締めながら、静かな面持ちで二人を制す。
――敬意を払われるべき王女自身がそう言うのなら、まあ話は別だろう。
一応、念のため、確認する様に宰相に目を向けたネプト。
「…………、了解、しました。王女様が、そう仰るのなら……」
忌々しそうにしながらもそう答えるネイト宰相。
明らかに奥歯を鳴らしたようにも見えたのだが――まあ、こう言ってくれているのだから、下手に気にするのも野暮というものなのだろう。
そう判断したネプトが居直したのを見て取って、宰相は手紙の封を破り、軽く書面に目を這わせ始める。
そして、何故か疲れ目を休ませる様に眉間にシワを寄せると、押し殺した様な声で言葉を繋いだ。
「…………、前半は、定型句的な挨拶なので省略します。
要件は――」
―――――
“獰猛なる氷河帝国”・氷の国――。
銀の国を始めとする、北半球の温帯地域に春の息吹が吹き抜け始めたこの頃になっても、一年のほぼ全てを雪と氷に覆われるこの地の気候は未だ厳しい。
冬季に比すれば量を減じたとはいえ、水晶の輝きを持つ宮殿の中庭にも未だ残雪が数メートルもの厚さで体積しており、ほんの僅かばかりでも湯を零そうものなら、モウモウと立ち上る湯気によって瞬く間に視界を失うのは必定だろう。
その想像に律儀にも従ったのだろうか。
モウモウと燻る、白煙の様な湯気に覆われた宮殿の中庭。
赤の守護魔・マルスは、ジリジリとにじり寄ってくる“その人物”から逃げる様に後ずさって距離を取っていた。
「むっふっふ~。
マルスくん、今日こそは逃がしませんよぉ。
めいいっぱいモフモフしちゃいますよぉ」
見ているだけでも背筋が寒くなるほどに邪悪な笑みを浮かべつつ、両手をワキワキさせながらマルスを壁際に追い詰めていく彼女は、名前をフォルといった。
栗色の三つ編みとそばかすが印象的な、メルクリウス付きの宮殿召使いをしている女の子である。
……女の子、という表現が適切な年齢かどうかは微妙なところではあるが、このおっとりとした小動物を大人の女性と表現するのは些か不適切だろう、とマルスは思っている。
「フォル、テメッ、もう始めと目的変わってんじゃねぇか!!」
「え~? なんにも変わってないですよぉ。
だって、“ご主人様”に言われたんですもん。
“あの不潔なバカ犬を、今日こそは徹底的に洗ってしまえ”って」
「風呂くれ~自分で入れるっつってんだろぉ?
つーかテメ、どさくさに紛れてナ~ニトンデモねぇ暴言吐いてんだ?
あんま調子こいてっと犯すぞゴラァ!!」
「ひぇッ!? だ、だだ、だって“ご主人様”が!!
わたしじゃなくて、“ご主人様”がそう言ってたんですよ~!!
ゴメンなさい許して下さいゴメンなさいゴメンなさい犯さないで下さいごめんなさぃ」
根は小心者な性質なのだろう。
とうとう我慢の限界にきたらしいマルスが犬歯をむき出しにして凄むと、フォルはトリップ状態から戻って来た様に目を見開いて、次の瞬間には雪の積もる地面にピッタリと貼り付いてビクビクと震え始めてしまった。
舌っ足らずな口調と相まって、マルス的にはなんとも嗜虐心を唆る仕草ではあったが――まあ、下手に刺激して病気が再発してもアレなので、今は触れない事にしておく。
「じゃ、風呂はおれっち一人で入っから。あと宜しく」
ヒラヒラと、軽薄に手を振って去ろうとするマルス。
途端、フォルは冷水を浴びた様に真っ青になって、少年の華奢な身体をヒシッと羽交い締めにした。
「だ、ダメです!! それはダメなんですよ~!!
だ、だだ、だってマルス君!!
昨日だって、入ってからたった4分23秒で出てきたじゃないですか!!
ちゃんと洗わないと、ご主人様が……」
「な・ん・で・テメーはおれっちの風呂の時間測ってんのかな~?
白状しろテメェ昨日どこに居やがったぁ!!」
「あぅ、と、とにかくダメなんですよぉ。
ちゃんと洗われてくれないと、スゴくタイヘンなことになるんですからぁ」
「タイヘンなことぉ? へっ、上等だっつの。
こちとらあの変態女の我侭で慣れてんだ。
今更テメェごときの脅しなんざ効くかっつの」
“じゃあな”と手を振り、赤い少年は去ろうとする。
その後ろには、今にも泣き出しそうなくらい、酷く沈んだ表情のフォルが取り残された。
彼女がそうしていた時間は2秒か、果たしてそれ以下だったのか。
正確な秒数を数えていた人間なんかもちろん居なかったが――確かな事は、一つ。彼女がメイド服のポケットから、何やら重たそうな金属の棒の様な物を取り出し、それをカチャカチャと回して伸ばしていたという事である。
――白い青年が見れば、恐らくは“警棒”と形容しただろう。
栗色三つ編みな召使・フォルは、伸ばしきって70cmくらいの長さになったそれをミョ~ンと後ろに振りかぶると、素早く、しかし少年に気付かれないくらいの静かさを含んだ(恐らくは痛くしない為の厚意によって)所作で、少年の首筋へと振り下ろした。
「マルスくん……。ご、ゴメンナサイ!!」
「は? ごめギャァァァァァァァアア!!??」
瞬間、マルスの口からはこの世のものとは思えない悲鳴が飛びでた。
電流である。赤い少年・マルス首には、嘗て某白い青年の居住区を訪れた際の“貢物”によって、衝撃を受けると電流を流す首輪が着けられていたのだ。
フォルの振り下ろした警棒は、トロい彼女の性格からは想像もつかないくらい正確に、マルスの首に着いたそれだけを捉えていた。
「ぎゃ!! ば!! あばば!! じょ、ゔぉッ!! やべ――!!」
マルスは潰れたカエルの様な声でもがき続ける。
彼の嗚咽は電流の余韻による物なんかではもちろん無く、もっとずっとシンプルな理由による物であった。
――簡単に言えば、フォルは止まらなかった。
目をキュッとつむり、唇を結んで涙を堪えながら、ゴメンナサイゴメンナサイと言いつつ何度も何度もマルスの首輪を殴り続けている。
カンカンカンカンというその金属音は、聞くものが居れば鍛冶屋のテコ入れでも連想したかもしれない。
警棒が一回首輪を打つ度にマルスの身体はビクビクと跳ね、面白い悲鳴が壊れたオモチャの様に漏れていく――。
「っで!! ふぉ、フォル!? す、ストップ!! ストップ!!
もういい!! もういいから!!
止め――ブ!? 待ペ!! 待ぺ!! そこ首輪じゃバビ!! おべっびぼあばば!!」
少年の体勢が崩れ始めた為、徐々に打点が上がって今では完全にマルスの頬を打っているフォルの警棒。
そのおかげで、皮肉にも電流が止まって自由になった右手で彼女の打撃をハッシと掴み、マルスは左手でフォルの顔面をガシッと掴んだ。
――所謂、アイアンクローの状態である。
眼球の横の、頭蓋骨の薄い場所にゴリゴリと指を減り込ませつつ、マルスはフォルが静かになってくれるのを少し待った。
「……で、言い訳は?」
「だ、だだ、だって、ご主人様が。
“遠慮はするな、やるなら思いっきりいけ”って……」
「素直で結構なこったなぁコンチクショウ!!」
マルスが怒鳴りつけながら手を離すと、フォルは力が入らなくなったのか、腰でも抜かした様に雪原へとへたり込んだ。
“あぅぅ、ゴメンなさいゴメンなさい”なんて平謝りしながら、目尻の端に薄っすらと涙を貯めてマルスを見上げている。
「…………」
その姿を見ていると、マルスは、何やらモゾモゾとした嗜虐心が沸き上がってくるのを感じた。
――フォルは、まあ、どちらかと言えば容姿は整った方だろう。
“武の国”のお姫様や、“銀の国”の魔女っ子に比べると、流石に薔薇と野花という印象を受ける、というのがマルスの個人的な印象ではあったのだが……まあ、それでも、彼の私見で見れば、フォルとてまあまあ及第点であると言っても間違いでは無い。
そして、何より。こうしてタレ目の端に涙を浮かべておどおどしている彼女の仕草は、彼にはまるで、自分に“いじめて下さい”と言っているようにしか思えなかった。
「ニッシッシ……いいぜ~。
そこまで言うんなら、洗われてやろぉじゃねぇの」
瞬間、彼の脳裏には素晴らしいアイデアが閃いた。
そのあまりにも素晴らしい悪戯に、ついつい最高に意地の悪い笑みを隠しきれなくなってしまう。
内心も知らずに“へ!? い、いいんですか!?”なんて喜んでいるフォルに、マルスは言外に試す様な色を含ませながら嘯いた。
「でもよぉ、おれっちばっか洗われんのはやっぱ癪だよなぁ。
よし、しゃ~ねぇわ。フォル、テメェもおれっちが洗ってやらぁ」
「あ、そうですよね。やっぱり……って、え? へ!?」
一瞬だけ安心した様な顔になって、すぐに赤面してあたふたし始めたフォル。
――こういう反応が、マルスには堪らなかった。
人間、人を辱めるのと人から辱められるのでは、味が全く違って感じられるものなのである。
「んだよぉ、おれっちの厚意が受け取れねぇってか?
ほらほら、洗うんだろぉ? お礼におれっちも洗ってやっから、テメェもさっさと脱ぎやがれ!!」
「――――っ!!」
ひぅ、と小さく喉を鳴らし、小柄な自分自身の身体を両手で抱くフォル。
丸っこい瞳は赦しを乞う様にあうあうと泳いで、小さな口は羞恥を堪える様にパクパクと開閉を繰り返している。
暫しの間、彼女はそうして放心していたようにも見えたが……。
やがて、彼女は真っ赤な顔を俯かせながら、蚊の鳴くような声で――、
「わ、わたし……。
ご主人さま、みたいに……、キレイ、じゃ、ないですよ……?」
――と、そんな事を言った。
“おお”、と、驚いたのはマルスだ。
彼にしてみれば、フォルがこうして狼狽えてくれればそれで満足であり、同時にこれで引き下がってくれれば儲けもの、くらいに考えていた訳であって、そういった意味で言えば、フォルのこの反応は彼にとっては予想以上の収穫だったと言って良いだろう。
――お? マジで?
――え? これ、マジいけんじゃね?
ニッシッシ、と。この世界に来てからというもの、あまり浮かべる機会も無くなっていた悪鬼の笑みをその顔に張り付かせつつ、マルスは最後のひと押しを加えるべく言葉を模索して――、
「……ほう。愛玩動物の分際で、予の下僕に手を出すか。
やはりこの辺りで一度、本気で去勢を検討するべきかもしれんなぁ」
「――ごベバっ」
――メリッ、と。
その後頭部に、固いヒールの感触を食い込ませていた。
“氷の瞬帝”・メルクリウスである。
恐らくは、今回のこの一連のやり取りも、彼女には“転位”によって筒抜けだったのだろう。
少年が何やら色々と文句や弁明、そして命乞いをしていた気がしたが全て無視し、青髪の皇帝は愛すべき自らの“愛玩動物”を、グリグリと雪の積もった地面にねじ込む感触を暫しの間楽しんだ。
いやはや、“因果応報”とはなんともよく出来た格言である。
「…………」
――5分、経っただろうか。
顔面の半分が雪に埋没し、呼吸困難に陥った赤い少年がビクビクと痙攣を始めた頃。
不意に、メルクリウスはほぼ全容を露出している自らの脚を少年から退けた。
「――――?」
フォルが、不思議そうに首を傾げる。
恐らくは、この皇帝が一度始めた“仕置き”をたった5分程度で止めたことに少々の違和感を覚えたのだろう。
埋まった少年をそっと引っ張り出し、モフモフの赤髪に沢山ついた雪なんかをパタパタと払ったりなんかしつつ、フォルはメルクリウスをチラチラと見上げる。
そして、その時。フォルは、皇帝が何に意識を奪われたのかが分かった。
――郵便だ。
この世界の伝書によく使われる使い魔が、1羽。その足に封筒を1通抱えながら、冬晴れの空を切り裂く様な軽快さで、自分たちの頭上をグルグルと旋回している。
やがて使い魔は、メルクリウスが完全に自分に注目している事を理解すると、ボトリとその封筒を空から落下させ、そのままどこかへ飛び去っていった。
「黄金刺繍の風切羽に、王華の紋――“天の国”の使い魔だな。
はて。ヤツも、漸く予の軍門に降る心構えが出来たということなのか……」
落下中の封書を手元に転位させ、メルクリウスが呟く。
“私書封印”を軽く集中するだけで破り、中の書状を取り出した彼女は、一枚目は飛ばして初めから“要件”だけを読み始めた。
――ニヤリ、と。その口元が、確かな愉悦の色に歪む。
「……ユピテルめ。舐めた真似をしてくれる」
―――――
「“天の国”からの、封書、ですか?」
――“光無き地底都市同盟”・地の国。
砂漠地帯の地下に無数に存在する都市の一つ。
“修練場”と呼ばれたその建物の中にて、王より課せられた魔術の修行を淡々と熟していたサタンは、王が口にした言葉を反芻する様にそう尋ねた。
かれこれ2時間は維持していた、直径3メートルはあろうかという火球を一旦虚空に消し去りつつ、滲んだ汗を擦り切れたローブの袖で拭う。
「ハッハッハッハッ!! ああ、そうだ!!
これがまた傑作でなぁ!!
貴様も一度、目を通しておくがいい!!」
「……奴らは、どうやってこの場所を特定したのですか?」
「んん? いいや、特定してなどおらんさ」
腑に落ちない表情で問うサタンに、王は口に加えた3本の葉巻を軽く吸い尽くしながらバンバンと手を叩いて答えた。
「そこがまた傑作でなぁ!!
儂らの居場所が分からんと諦めたのか――彼奴ら、同じ手紙を紙吹雪の様に、この“地の国”全土にばら撒いておるそうだ!!
儂の手元にも、既に他27通ほど届いておる!!」
「…………」
ほれ、と。懐から大量の手紙を取り出して見せる褐色の老人。
何やら酷い頭痛を覚えたサタンは、口直しに立派な上質紙に記された“敵”の要件を頭から読み始め……やっぱり逆効果だったようで、1分ほど色素の無い銀髪にクシャリと指を絡ませていた。
それでもめげず、最初から最後までなんとか書状を読み切った彼は、おそらくこの手紙を目にした誰よりも評価されるべきだっただろう。
「……いかがなさいますか?」
「――面白い!! 乗ってやれ、サタン!!」
豪快に笑う召喚主。
黒の守護魔は、ただ不敵な笑みだけを浮かべて頷いた。
「我が王の仰せのままに」
―――――
――その日。
天の国より届けられた1通の封書は、各国の大魔導とその協力者達の間に色々な意味での衝撃を走らせることになったという。
『――つきましては。
銀の国召喚主、アルテミア・クラリス様。
並びに守護魔、アサヒ シンヤ様。
他六国の召喚主、及び守護魔の皆様を、
一週間後に天の国にて催す“晩餐会”に招待したいと思います。
――天の国国王・ユピテル――』
「……穏やかじゃないな」
“究極の異文化交流”が、幕を開ける――。