7. 問題無く会話が成立しているという問題に対する疑問点の提起と言語の理解は必ずしも意思疎通の可能性を意味しないという事実の実例を用いた証明
魔法円から放たれた橙赤色の閃光は、世界から色を奪い去った。
正面では雷が雲ごと落っこちてきたかの様な爆音が鳴り響き、この世界の理に適応出来なかった異界の物質は、黄金の砂塵と化して虚無へと帰っていく。
サラサラと、まるで砂城が涼風に攫われるかの様に。
妖精の鱗粉が、夕焼の空に拡散していくかの様に。
一瞬だけ少女の瞳に映ったその光景は、この世の果てを見ている様に綺麗すぎて、息を呑まずには居られなかった。
瞬間。少女の全身に走ったのは、電流。
――熱い。
許容量を超えた負荷が掛って、全身の神経が悲鳴を上げているのがわかる。
感電した脊髄は爆発して、その衝撃で漂白される頭の中。
一瞬、脳が溶けてしまったのかと思った。
全身の力が一気に抜けていく感覚に、気が狂いそうになる。
意識してもいないのに、背筋は痙攣したみたいにガクガクと震え始めた。
何度も持って行かれそうになる意識を無理矢理に繋ぎ止めて、腰砕けになりそうな身体を気力だけで支える。
もう少し。
せめてもう少しだけ、意識を保ちたい。
頭が真っ白になるような混乱も、今だけは忘れる事にする。
少女はただ、この瞬間を一秒でも長く記憶していたかったのだ。
やがて、ゆっくりと熱は牽いていく。
穏やかな火照りが残る身体に、冬夜の空気が心地良く染み渡る。破裂しそうに脈打つ心臓と、激しく酸素を求める肺が憎らしかった。全身の痙攣は暫く収まりそうには思えなかったけれど、少女は気力だけで健在を示そうと努めた。
だって、チラチラと明滅する視界では、もう霞が晴れ始めている。
期待にその小さな胸を膨らませた少女は、初めて見る異世界からの訪問者に、無様な姿など見せたくは無かったのだ。
―――――
視覚が戻ったその瞬間、朝日 真也を襲ったのは言語を忘れる程の異常事態だった。彼にしてみれば、まず何に対して驚けばいいのかが分からない。その頭は酷く混乱していて、遂に自分はボケたのではないか、などと自身の年齢を忘れた疑問を持ってしまった程である。ドロドロになった頭の中は、まるで遠心分離器に掛けられた培養細胞だ。
落ち着いて、一度状況を整理してみよう。
努めて冷静を演じながら、彼は錆び付いた思考をゆっくりと回し始める。
痺れたような脳を覚醒させ、記憶を辿る。
今日の出来事を順次思い返していくと、自分は確か実験施設に居た筈だ、と、彼は割と確信を持ってそう考える事が出来た。それより後の記憶は存在しないし、何より左の足首には、灰色の亀裂に挟まれた時の圧迫感が未だにリアルに残っているからである。
だがそうだとすると、この状況は一体どう説明されるべきであると言うのだろうか。
今の彼の視界には、無数の本だけが映っている。
視界の端から端まで、見渡す限りの本、本、本、本の海。彼が居るのは、どうやら少しだけ開けた区画の様で、一番近い本棚からも少しは距離があるのだが、離れているのに視界を埋め尽くせる程に大量の本が存在しているという事実が、彼により一層の不気味さを感じさせた。それらを収納している本棚は、冷静に考えると、どう見ても縮尺がおかしい。
10メートルはあろうか。
月灯りに照らされた本棚はまるで高層ビルの様で、中には遥か天井付近にまで到達している物もある。
あれでは、一番上の本を活用するのはまず不可能だろう。
何しろ、利便性が悪すぎてあまりにも意味が無い。
ならば、誰が何の目的で生み出したモニュメントだと言うのだろうか。
やはりこれも、彼の理解の範疇を超えてしまう。
分析するほどに理解不能な状況に、彼の困惑は増してゆく。
全てを放棄したくなる感情を論理で封殺し、少しでも現実的な解釈を探そうと、彼はガタつく神経細胞をフル回転させて考え続けた。
「…………」
――そう。一番あり得そうな可能性として、ここは図書館ではないのだろうか。頭上を見上げると、意匠を凝らされた天蓋のステンドグラスはアカデミックな高級感を醸し出しているし、遠目にしか確認は出来ないものの、本の山には長い年月を経て酸化した紙独特の色合いを持つ古書も混じっている様に見える。
……利便性には難があるが、おそらくはどこか、歴史のある大図書館なのだろう。
さて。しかしそうなると、次は何故自分がここに居るのかという疑問へと至る。少なくとも、彼の記憶にはこんな場所は存在しない。つまり自らこの場所に足を運んだという可能性は、(彼自身が密かに解離性障害や夢遊病等を患っていたので無い限り)却下していいだろう。何者かによって連れ去られたと考えるのが自然である。
もう一度、天蓋を見上げる。
ステンドグラスから視線を逸らすと、部屋の上部にはガラス張りの小窓の様な物が幾つも見受けられた。そこから覗く空は暗く、星々が白銀の装飾品の如く瞬いている。その様子から彼は、自分が拉致されてから、少なくとも10時間以上は経過しているだろうと予測した。加えて視界に入る星の数とその鮮明さから、ここは相当な僻地であろうとも当たりをつける。
まあ。現時点では、あくまでも推論の域を出ない仮説には違いないのではあるが……。
朝日 真也は、自らの推論に確証を持つ事は出来なかった。思いつく限りで一通り現状を分析してはみたものの、今は全てに於いて圧倒的に情報が不足していたのである。根拠も無く推論だけで結論に至るのは、科学者としては愚の骨頂であると彼は信じていた。今はただ、少しでも深く辺りを観察して、情報というピースを掻き集める事が最重要課題であると考えていたのだ。
さて、それでは思考の材料となり得る存在が他にあるのかというと――、
「……ハロウィンならもう終わったぞ?」
彼は、自身の目前に立ち尽くしている“ソレ”へと声を掛けた。
先程から妙に気になって気になって仕方が無かった“ソレ”は、彼には自分よりも僅かばかり年下の少女の様にも見えた。しかしその格好は、つい無意識に考察を後回しにしてしまったという事実が示唆する様に、非常に奇抜な物であった。
少女がさも当然の様な顔で着込んでいるのは、まるで鴉みたいに真っ黒なローブである。頭をすっぽりと覆っているのは、もう“いかにも”な感じのトンガリ帽子。しかも、その下から見える髪は赤かった。林檎よりも、なお一層鮮やかな真紅である。
……生物学的に考えて、まさか地毛ではあるまい。
染めていると解釈するのが妥当だろう。
「…………」
彼の問いに、少女は答えなかった。
彼の足元を見つめるのは、熱に浮かされたかの様に上気した顔。御伽噺から抜け出して来たかの様な可愛らしい顔立ちの彼女は、今にもとろけてしまいそうな表情で、床の一点をジッと見つめている。
激しく上下するその肩からは、必死に呼吸を整えている様子が見てとれた。
――不意に、目線が交錯した。
カラーコンタクトでも入れているのか、宝石の様に綺麗な、翠色の瞳が青年の方へと向けられる。気が強そうなその視線は、まるで何かを堪えるかの様に潤んでおり、見つめられると不覚にも身体の芯を加熱される様な錯覚を覚えた。花弁の様に紅い唇から断続的に漏れる白い吐息は、彼女の押し殺す様な呼吸音と重なって妙に生々しく感じられる。こちらの声など、まるで聞こえてはいない様子である。
青年は少女の呼吸が整う迄、ついその様子に見入ってしまった。放心しかけている彼をよそに、やがて目を閉じながら大きく深呼吸をした少女。少しは落ち着きを取り戻したのか、コホンと一度咳払いをする。彼女は見るからに具合が悪そうではあったが、フラつく身体を気丈に支え、仕切り直すかの様に起伏の控えめな胸を張った。
「…………っ!!」
少女の容姿に目を奪われていた青年は、状況を冷静に分析し直して冷や水を浴びた様な緊張感を覚えた。先程までの自らの思考を思い出して、多少の羞恥とそれを遥かに上回る程の自己嫌悪が頭を埋め尽くす。
――考えるまでも無い。
自分が拉致された場所に都合よく佇んでいる彼女は、おそらく、と言うか間違いなく今回の事件の重要参考人だろう。彼女が何者なのかは現時点では断定不能だが、この事態について何らかの情報を持っている可能性は極めて高い。
なら今は、彼女の容姿などに意識を割いている暇など一切無い筈ではないか。
持ち前の学者頭で意識を凍らせた真也は、少女の言葉を一言一句聞き逃すまいと神経を集中させた。
全ては、理解。
状況を正確かつ完璧に把握し、最善の行動を選択してゆく為に――。
……どこで間違えたのだろうか。
少女はやがて、ようやくその可愛らしい口元を動かし――、
「今晩は、異界の住人さん。
あたしは召喚主のアルテミア・クラリス。
早速だけど、貴方の事を教えてくれない?」
「…………………………」
理解………………、出来なかった。
あまりにも理解不能な単語の羅列すぎて、聡明な筈の彼の処理能力は一瞬にして限界値を振り切った。
このままでは毒伝播にやられると思った彼は、取りあえず一度、思考を強制終了して再起動を試みる事にした。
「…………」
再起動後、正常に終了されなかった彼の精神はプログラムの再構築に失敗したようだ。崩壊したデータがバグを量産し、とうとう暴走を始める。下手をするとハードディスクのバックアップデータまで失われそうな勢いで、集積回路はオーバーヒートした。
あの少女は、ナニを言い出しているのだろうか。アレだろうか。あの少女には、精神病的な妄想癖でもあるのだろうか。それともアレだ。実は今のはペルシャ語か何かで、ソレを自分の耳が聞き間違えただけなのであろうか。そうだ。きっとそうだ。何故か日本語に聞こえる外国語などザラにあるではないか。もしくはアレだ。今のが日本語であったと仮定するのならば、きっと方言がキツすぎて聞き取れなかったんだろう。そうだ。そうに違いない。おそらく“異界の住人”とか聞こえた単語は、“(この村)以外の住民”と言ったのを、イントネーションの違い故に聞き間違えただけなのだ。いや、ホント。だって、そうとでも考えないと説明が付かない。
――と。そこまで思考した彼の脳は、何か重要な単語をスルーした気がした。
“精神病の異常者”
この単語は、この状況を説明するキーワードになり得る物ではないのか。
模造刀の様に鈍い閃きを得た青年の頭脳は、その唯一のとっかかりを元にして考察を開始した。
例えばそう、こういうケースはどうだろうか。
亀裂に足を挟まれた自分は、なんとか自力で脱出する事に成功したとする。
その後、最寄りの中継点から地上へと避難した。
そこにいたのが、その“異常者”。経緯は不明だが、その逞しい妄想力を行使すれば、人間一人を誘拐する動機くらいにはなり得るのかもしれない。おそらく、自分はその異常者に連れ去られたのだろう。自分にその時の記憶が無いのは、まさか拉致される時に薬でも嗅がされたからなのか。
――彼は少女の言葉を、もう一度詳しく分析する。
・異界の住人
・召喚主
・貴方の事
少なくとも、彼にはそう聞こえた。
これが正しかったとすると、妄想の内容にはある程度の推測が成り立つだろう。
つまり彼女は、こちらを異界の存在であると考えている。“召喚主”という単語から察するに、自分は彼女に召喚された存在という事になっている筈だ。
「…………」
……いや、これは無理があるだろう。
彼は小さく首を振った。
真也の容姿はどこからどう観察しても明らかにホモサピエンスであるし、路上に居た人間をいきなり異界の存在であると考える可能性は、いくら異常者でもそう高くは無いだろう。
ならばもっとあり得そうな仮説は、
“犯人は、地上に逃げた真也を悪魔召喚用の生贄として拉致した。
丁度今儀式が終わり、この少女は生贄の身体に悪魔が降臨していると考えている”
こんな所ではないのだろうか。
なるほど。確かにこれならば、少女の格好や床の絵画にも完璧な説明がつく。
つまりこの少女は、黒魔術にでも異常にのめり込んでしまった残念な子なのだろう。
真也はそう結論付けた。
「…………」
さて。しかしながらそうなると、この少女は今回の拉致事件の加害者であるという事になるのだろうか? 目の前の少女の体格では、男一人を担いで誘拐など出来る訳が無いので、おそらくは複数犯の内の一人であると考えられる。立場は主犯か、或いはただの構成員か。状況は前者を、彼女自身の年齢は後者の仮説をそれぞれ支持してはいるが、現時点では犯人が複数犯であるという事以外は分からない。
視線を再び少女に送る真也。
少女は訝しむ様な目線を投げかけながら、“どうかしたの?”などという問いを発している。おそらくは、先程の誇大妄想的かつ電波的な質問に対する返答が無い事を怪しんでいるのだろう。どうかしているのは明らかにそっちだと言うのに……。
自分は、果たして生きて帰れるのだろうか。
生贄にされたという事は、自分はやはりこの少女に食べられてしまう運命にあるのだろうか。
……“世界の黒魔術とその儀式”。もっとちゃんと読んでおくべきだったのだろうか。
…………いや、まあ。絶望が深まっただけな可能性が高いワケではあるが。
真也の思考は堂々巡りを繰り返していた。
――繰り返す。
根拠も無く推論のみで結論に至るのは、科学者としては愚の骨頂である。
―――――
さて。そんな真也の不穏な思考など露と知らず、また知り得る余地も無い少女は、好奇心に満ちた眼差しで自らの呼び出した“魔人”を観察していた。魔導師特有の、未知の存在に対する好奇心が彼女の胸を高鳴らせる。まるで新しく覚えた魔術を初めて使う時の様な、知的な興奮に満ちた思考で、少女は初めて見る自らの守護魔を深く深く観察していた。
彼が纏っているのは、処女雪を思わせる程に真っ白な装束だった。その丈は妙に長く、(座り込んでいる為にはっきりとは分からないが)立ち上がったら彼の膝くらいには届くかもしれない。上着というよりは、外套と表現した方が正しい様な服である。
彼はその長衣を、前のボタンは留めずに羽織っていた。内側から覗く、ラフな印象を受ける黒いシャツが、上着の白と強いコントラストになっている。見た事も無い様な彼の服装は、それだけで彼がこの世界の外から来た存在である事を証明するのに充分な材料となっていた。
目線を上げて、彼の顔をよく見てみる。
先ず目を引くのは、その黒真珠みたいに真っ黒な瞳だろう。微かな憂いを含んだ双眸が、絹糸の様な黒髪と相俟って不思議な印象を与えている。髪も瞳も真っ黒なんていう人間は、少女はあまり見た事が無かった。でも、悪い印象では無い。珍しいけれど、とても綺麗な色をしていると思う。
彼の目線は鋭かった。
まるでナイフの様に、あるいは翼竜の牙の様に、触れた物全てを切り裂く様な洞察眼。それは魔導師という職業にある少女には見慣れた目線であり、同時に使い慣れた視線でもあった。彼女はそれだけで、彼が自分と相通じる世界を知っている存在だという事を直感する。
彼はどの様な世界から来た人なのだろう?
少女は、まるで夢を見る様に思いを馳せた。
守護魔はそれぞれ、皆異なった異世界から召喚されるという。
例えば薬の調合技術が発達した世界や、龍よりも強力な魔獣を手懐けた世界など、彼らが元々住んでいた世界には、おおよそ人間が考え得る全てのバリエーションがあり得るのだ。守護魔が常理の外の存在と称えられる所以はここにある。この世界に無い知識や技術という物は、それ自体が黄金よりも価値がある宝物だ。
早く、その声を聞かせて欲しい。
未知に触れる悦びを待ちきれない。
少女の小さな胸は、果てのない好奇心ともどかしさで押し潰されそうになっていた。
「…………?」
――と。少しばかり思考が暴走を始めた所で、少女は奇妙な不安感に苛まれた。
冷静になって、その理由を探ってみる。
幸か不幸か、原因は直ぐに分かった。
少女は、既に二度ほど彼に声を掛けた。
自分が何者なのかも教えたし、それでも彼が何も言わないので、気遣いの言葉も投げかけてみたつもりである。そう、少なくとも少女は、青年に“話し掛けて”いるのである。
それにも関わらず、少女は彼の声を聞いていない。少なくとも、少女には聞こえていなかったのだ。彼は少女の存在を無視するかの様に視線を落としたまま、まるで苦痛を堪えているかの様に眉間に皺を寄せて、微動だにせず座り込んでいる。
もしや、何か彼の気分を害する様な事でもしてしまったのだろうか?
少女の疑念は募っていく。
……と。そこまで思考したところで、少女は何か重要な単語をスルーした気がした。
“苦痛を堪えている”。
これはもしや、彼の現在の状態をそのまま表現した物なのではないだろうか。
冷静に頭を冷やしながら、少女は先程までの儀式を反芻してみた。
先ず、場所は見ての通りに自宅である。少女の知る限り、霊地としての格は五級に届くかどうかというところだろうか。簡潔に述べれば、普通の土地である。
次に彼女自身のコンディションは、まあ最悪だったと思う。
何しろ、昨日の今日で連続して行った儀式だ。
魔力の使い過ぎで疲労はピークを通り越しているし、睡眠も栄養も絶望的に足りていない。本音を言えば、今すぐにでも柔らかいベッドに倒れ込みたいくらいである。
使用した魔法円、には、なんだか多少の違和感があった気がした。ソレが何かは分からなかったけど、何か嫌な予感はしたのである。
……只の勘だと言う事無かれ。一流の魔導師たる彼女の勘なのである。
普通なら、到底無視していい様な物では無い。
「…………」
儀式の内容を思い返していくに連れて、少女の顔からはサーッと血の気が引いていった。
背筋に、イヤな汗が、滴る。
そう。要するに、今回の儀式は儀式とも呼べない程に不手際続きであったのだ。彼に異常が有ればそれは当然であり、どちらかと言うと、寧ろ異常が無い方が異常だとすらも思えてくる。
もう一度、彼を見る。
氷の様な双眼と、再び視線が交錯した。感情があまり顔に出ない性質なのか、彼はずっとポーカーフェイスだったが、その目線からは怒りと不安がやんわりと伝わって来ている様な気がする。
つまり、彼をそういう精神状態にする様な異常が発生しているという事なのだろう。
少女はそう分析した。
――言語。
それは前提となる一般常識が共通項として存在して、初めて会話を成立させ得るコミュニケーションツールである。
常識に一切の共通部分を見出だす事が出来ない二人がそれを使用した場合、待つのは時間なる貴重な資源の浪費という悲劇のみである為、ここから暫しの間ご鑑賞に耐えない凄惨な光景が続く事をご辛抱頂きたい。
「大丈夫? もしかして、どこか調子とか悪いの?」
「――――?
いや、体調は問題無いな。
……強いて言うなら、気分が最悪なくらいだ」
「……気分が悪い?
もしかして脳に障害でも出てるんじゃ――。
ねえ、大丈夫なの!? 頭とか痛くない!?
自分の世界の事はちゃんと思い出せる!?」
「…………。
これで、聞き間違いの可能性も消えた訳か……。
ああ、全く問題は無い。
むしろ、イタいのは君の頭の方だろう」
「あたしの頭……?
ああ、召喚時のアレの事ね。
大丈夫。確かにちょっとキツかったけど、もう大分治ったから」
「……治ってない事が証明されたな」
「大丈夫よ。
本当に、ちょっと疲れてるだけだから。
そういう貴方こそ、本当に身体には異常が無いの?
気分が悪かったりとか、記憶が無くなってたりとかしてない?」
「……お陰様で気分は最悪だし、拉致される前後の記憶も飛んでいるんだが」
「じゃあ異常あるじゃない!!
ちょっと!! 隠さなくていいから正直に言ってよ!!
自分が何者だとか、元の世界がどんな所だったかとか、ちゃんと全部思い出せるの!?」
「元の世界というからには今の世界があるのかとか、どう考えても君の方が異常だろうとかツッコミ所がありすぎるが……。
……それを正直に言っても仕方がないんだろうな。
いいだろう。
そこまでオレの素性が知りたいのなら教えてやる。
オレは朝日 真也。
大学で素粒子論を研究している物理学者だ」
「…………へ?
大……ぶつ……?」
「……オレのどこが大仏に見えるんだ?
朝日 真也。物理学者だと言っている。
いいか、落ち着いて聞いてくれ。
オレは君が呼び出そうとしたモノじゃないし、そんなモノは何所にもいない。
君の儀式には、何の意味も無かったんだ」
「…………は?
ま、待ちなさいよ!! じゃあナニ!?
あんたは自分が守護魔じゃ無いって言いたいわけ!?」
「守護魔?
ああ、成る程。君はそれを呼ぼうとしたのか。
……ご覧の通りさ。オレはそんなモノとはまるで無関係だ。
納得してくれたか?」
「出来るわけ無いでしょ!!
あんたが守護魔じゃ無いんなら、あんたは何所からどうやって涌いてきたっていうのよ!?」
「オレをここに連れて来たのは君たちだろう。
オレがどうやってここに来たのかなら、君たちの方が詳しいんじゃないのか?」
「じ ゃ あ あ ん た が そうじゃないのっ!!
逆に守護魔じゃないって言うんなら、あんたは一体何者だっていうのよ!?」
「朝日 真也。
物理学者だと言っているじゃないか」
「だぁれがそんな意味不明な単語を聞いたのよっ!?
あんた!! 召喚時に頭でもぶつけてどうにかなったんじゃないの!?」
「……なっ!!
ちょっと待て!! どうりで頭がボンヤリすると思ったら――!!
オレは気を失ってる間にそんなに強く頭をぶつけていたのか!?
ナニしてくれてるんだ!! 幾ら生贄だからってぞんざいに扱いすぎだろう!!」
「バッカじゃないの!? 知らないわよそんな事!!
大体!! せっかくあたしが気遣ってあげてるってのに、あんたはナニをさっきから意味のわかんない事ばっか言ってるわけ!?」
「ふん。貴重な体験だな。
なにしろここ数年、オレにバカなんて言える人間はいなかった。
まあ使う分には構わないが……。
その単語を使う時は、相手を見てからにするべきだな。
オレみたいな物理学者相手に使うのは、自らの愚かさを露呈する事になるぞ?」
「あたしがその魔導師よ!!
大体、バカにバカって言ってナニが悪わけ!?
トロールの方がまだ物分りがいいってもんよ、このバカ!!」
「……さっきからバカの一つ覚えみたいにバカバカと。
いいか。こういうのはな、バカって言う方がバカなんだ!!」
「あっ。今5回バカって言った。
ほ~ら、やっぱりあんたがバカじゃない。
バカって言った方がバカなんでしょ?」
「君も今4回言ったぞ!! 累計すれば8回だ!!
大体、オレがさっき言ったバカの内2回はただの――」
「はい、6回目。
そうやって直ぐにムキになるのが、バカのバカたる所以っていうかさ~」
「子供か君はっ!!
ああ、そうか成る程な。確かに、君はまだまだ十分に子供だった。
ムキになって相手をしたオレは、まあ確かにバカだったかもしれないな。
子供は子供らしく、こんな時間まで夜更かししてないで、さっさと布団に入って寝ろっ!!」
「はあ!? あたしの何所をどう見たら子供だっていうのよ!?
大体、あたしが子供だって言うんならあんただって――」
……カオスであった。
“聡明な”彼らの意思疎通は、最早小学生の口喧嘩レベルにまで退化しているという事実を、果たして彼ら自身は理解しているのだろうか。
手持ちの前提に一切の共通項が存在しない彼らは、お互いの間に存在する致命的なズレに全く気付けない。
「いいか!? とにかくオレは!! 君の呼ぼうとしたモノとは全然!! 全く!! これっぽっちも関係の無い!! まともな人間だ!!
わかったなら、さっさとオレを解放――」
「出来るわけないでしょっ!?
あんたみたいなまともじゃないやつ――」
「何一つまともじゃない君がそれを――!!
……って、待て。今何て言った?」
それは、果たして彼らを哀れんだ何者かからの天啓だったのか。
青年は、漸くその“違和感”に気が付いた様だ。
少女に向けられる表情が、突然蒼白な物へと切り替わる。
「――――?
なんて言ったって、あんたみたいなのを野放しにしとくわけには――」
「……待て!! もっとゆっくり話してくれ!!」
目を丸くし、思案する様にして答えた少女。
おそらく、自分が何かおかしな事でも口走ったと思ったのだろう。
彼はその声を遮りながら、怖気を含んだ声で復唱を催促した。
「だ~か~ら~、あんたみたいに常識の無い奴を――」
「な…………!?」
――そして、凍りついた。
困惑に溶解されていた脳細胞が活動を止め、色を抜かれたままに冷凍される。
少女が次に何と言ったかなど、青年には理解できない。
否。そんな事に余分な意識を割いている余裕など彼には無かったのだ。
少女の体現したその現象は、彼にとってそれ程までに不可解な物だったのである。
――発声と口唇が一致していない。
それが、彼に未曾有の困惑を与えた違和感の正体であった。
青年の見る限り、少女の言葉は、まるで洋画の日本語吹き替え版の様に声と口の動きがバラバラに見えたのである。
――最新鋭の翻訳機でも使っているのだろうか。
いや、有り得まい。
言語の性質上、如何に優れた翻訳機であろうとも話し手が一文を発声し終わるまでは翻訳など開始出来ない筈だ。
目の前の少女の様に自らの声を完全に日本語に置換するなんていうのは、技術云々の問題では無く原理的に不可能なのである。
困惑した彼の思考は、背筋に這い回る悪寒と共にその答えを弾き出した。
「……単刀直入に聞きたい。
この場所がどこの国のどこなのか、簡潔に教えて欲しい」
青年は、少女の口元から目を離さずにそう質ねた。
少女の言葉を、一言一句聞き逃さない為である。
彼は漸く、今の自分が先の想定よりも遥かに異常な事態に巻き込まれている事を理解し始めていた。
少女は、一瞬だけ口籠った様に見えた。
突然の問いに、彼女も困惑ているのだろう。
いや。もしかしたら、気を悪くしたのかもしれない。
出会って僅か数分ではあるが、少なくとも彼は、彼女と自分の相性はおそらく最悪の部類に入るであろう事を十二分に自覚していた。
――だが。最悪、真面目に答えなくてもいい。
何か意味のある単語を話してくれるのであれば、まだ考察の余地はある。
少女の口元から淡雪の様な吐息が漏れた。
それが溜息だったと気付くのに要した時間は、1秒。
その意味については考察する事なく、真也は少女の言葉だけに意識を集中させる。
やがて、少女はその花弁の様な唇を開き――、
「ここは、あたしの家。
“銀の国”一番の魔法使い、アルテミア・クラリスの自宅よ」
はっきりと、口唇と一致しない声でそう告げた。