表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
朝日真也の魔導科学入門  作者: Dr.Cut
第三章:エーギルの晩餐会-1『天王からの封書』
68/91

68. 天の国に於いて最も大きな権力を保有する人々による国家の運営方針及びそのトップの配偶者の選定に対する指定時間外の議論及び天の国国王による大胆な国策が為されるに至った経緯についての記録

「何をなさっているのですか、“王妃様”?」


「ふぇ――!?」


 ――ビクッ、と。少女の肩が、まるで冷水でもぶっ掛けられたかの様に跳ね上がった。

 ……先ほどまでの、自分の運命を悟ったような、どこか達観して諦観した様な雰囲気はどこに行ってしまったというのだろうか。

 情緒不安定な風属性少女・ウラノスは、背後から聞こえてきた静かな声に、目を丸くして完全に動きを硬直させてしまっていた。


 ギギギ……と。音が聞こえそうなくらい鈍い動きで、少女がゆっくりと背後に目を向ける。

 ――少年が居た。

 否、只の少年と言っては語弊があるかもしれない。

 何しろ、少年は“美少年”だった。

 サラサラで上品な印象を受けるオレンジ色の髪に、氷河の様に透き通った水色の瞳。黒に近いくらい深い群青色をした貴族服は、“氷の民”の人々が好んで身に纏う正装だろう。

 誰が見ても文句なしに“貴公子”と表現してしまうような、そのキラッキラな美少年は、どこか訝しそうな雰囲気を醸し出しながら、真っ直ぐにエウロパの足元に跪いているウラノスを見つめていた。


「い、イイイ、イオ、くん!?」


 半分くらい裏返った声で、ウラノスは少年の名前を口にした。

 ――“氷民議長”・イオ。

 エウロパの“火の民”と並ぶ三大門閥家・“氷の民”を代表する、三院議会の円卓に着くことを許された“頭首様”の一人である。

 ……ナニかの冗談みたいな話ではあるが、別に誰もふざけてなどいない。

 この、見た目14歳くらいの、ウラノスよりも更に歳の若い美少年こそが、比喩でも何でもなく紛うことなき天の国の“氷民議長様”なのである。



 この辺りの事情には、天の国が“貴族の国”であるという事実が深く関係している。

 少しばかり補則すると、天の国とは“貴族とそれ以外の間には文字通りに人間と家畜ほどの生活格差があり、同時に特権階級にある者達は、その地位に見合うだけの社会的責任を果たし、国を良い方向に導いていかなくてはならないとする思想が国民性の根底へと根付いている社会”を形成した国なのである。

 それは言わば、“ノブレス・オブリージュ”を地で行なっている人々の住む国であると端的に表現する事も出来るだろう。


 その辺りの思想には長短があり、一概に良いとも悪いとも断じる事は難しいのだが――要点は、一つ。人々の果たさねばならぬ義務が“地位”によって定められるこの国に於いては、道理として何よりも“血統”が重要視されていたという事である。

 貴族とそれ以外の人間が全く別の生き物として扱われるのと同様に、貴族たちの各門閥内に於いても本家と分家の間には更に明確な区別があり、つまりは本家に生まれた人間であれば、その年齢に関わらず分家の者達よりも自動的に地位が上になってしまうというのが、この貴族の国に於ける常識なのであった。


 勿論、三大門閥家どころか貴族の出ですら無い生粋の“風の民”・ウラノスには、その辺りの詳しい事情など知る由も無いのではあったが――。

 とにかく、彼女に分かるのは。どうやら“氷の民”の前頭首さんは随分と早世されたらしく、その跡継ぎであった目の前のオレンジ髪の少年・イオは、この国的には極々自然の成り行きを経て“氷民議長”の座に着いているらしいという事だけであった。


「…………」


 少女がそんな事を考えている間にも、イオは訝る様な視線で、足を突き出している炎民議長とその足元に跪いているウラノスの顔を交互に観察している。

 ――内心が見透かされそうな、氷みたいな瞳だった。

 容姿だけなら金色の髪に碧色の瞳を持つ“あの人”に近い感じだけれど(“あの人”に似てるというだけで、この子の器量の良さがよく分かる)、雰囲気自体は寧ろ銀の国で会った白いヒトに近くて、もっと小悪魔的で抜け目が無くなった感じだとウラノスは思う。


 イオは、はぁ……、と、まるで呆れた様に大きくため息を吐いていた。


「……また(・・)ですか、エウロパ炎民議長。

 貴女が王妃様に嫉妬する気持ちは分からなくもありませんが、自分のしている事を理解しているのですか?

 王妃様に対する非道は、そのまま陛下を貶める行為にもなるというのに……」


「フン。こんな汚らしい奴隷がこの宮殿に居座っていること自体、既に陛下に対する許し難い侮辱ですわ。

 ――それと、聞かなかったことにして差し上げますから、今すぐ訂正なさい。

 一体いつからこの“家畜”が、あのお方の王妃になったのかしら?」


「天の国の仕来(しきた)りですよ。

 キングに意見出来る女性は、古今東西クイーンと決まっていますから」



「…………」



 ――ギリッ、と。ウラノスは、頭の後ろの方から奥歯が鳴る音を聞いた気がした。

 もちろん、振り向けない。多分、いま“後ろのヒト”なんかと目を合わせたら、ゼッタイ呪われちゃう。うん、ゼッタイ石にされちゃう。

 そんなドラゴンに首筋をカプリとやられたモニの様な心境にさせられてしまった薄幸少女・ウラノスは、寒さに凍えた様にガタガタと震え、プルプルと肩を上下させる事しか出来なかったのだ。

 そんな彼女たちの心境を知らない素振りで、いや、明らかにわざと知らんぷりする様な仕草で、イオはウラノスの目の前に、いかにも紳士的な所作でサッと右手を差し伸べてきた。


「王妃様、立てますか?」


「…………」


 傷ひとつ無い、綺麗なその手を、ウラノスは取ろうかどうか少し迷った。

 それは別に、“風の民”の彼女がこの国最高位の貴族である彼に触れる事を躊躇った、というだけの話では無い。

 ――正直な話、ウラノスはこの子の事も苦手だったのだ。

 いや、まあ。流石に、いま真後ろで(きっと、たぶん)この世の何物よりも恐ろしい目をしている“炎民議長様”ほどでは無いのだけれど……。

 とにかく。ウラノスは彼のコト“も”苦手だったのだ。



 ――だって、この子。

 ナニを考えているのか、ぜんっぜん分からないのである。



 それもその筈。如何にイオが本家の嫡子であり、“氷民議長”という議席を正統に譲り受ける権利を持っていたからといって、こんな少年を一人で議席に着かせるなんて、まともな門閥内の貴族なら賛成するワケが無いのだ。

 実際、過去の事例でだって、彼のような若すぎる子供が頭首にならざるを得ない状況になってしまった場合には、“後見人”という形で派閥内の有力者が暫定的に助言をする形で議会を進行させていくのが常だったとウラノスも聞いている。


 ――それがこの少年は、ウラノスの知っている限り、後見人も付けずにいつもたった一人で議席に着いている。


 裏を返せばそれは、この少年には派閥内の貴族たちにそれを納得させ、更に海千山千の大貴族達と張り合えるだけの技量が、“血統”という基本要素の上に十分備わっているという事を示しているのだろう。

 ……そんな“神童級の天才少年”の頭の中なんか、議会どころか口喧嘩にすら勝ったためしの無いウラノスに、予測しろという方が酷な話なのであった。



 差し出された手を取ることも無く、戸惑う様に呆然としているウラノスの態度を、果たしてどう取ったのか。

 天才少年な氷民議長・イオは、とても歳下とは思えない程の、随分と凛々しくて大人っぽい仕草でフッと口元を緩めると、まるでダンスにでも誘う様な仕草でウラノスの右手を取った。

 そのまま、床に尻もちをつく様な体勢になっている少女の目の前に傅いて、優雅な仕草でそっと手の甲に口付けてくる。

 ――ピクン、と。ウラノスの肩が、電気でも流されたみたいに跳ね上がった。


「へ? へ!? ち、ちょっと、イオ、君!?

 き、汚い、よ……」


「呼び捨てで構いませんよ、王妃様」


「――――!!」


 ――“呼び捨て”。

 もちろんそんな“恐れ多いコト”をする度胸なんか少女には無いし、それにあたふた(・・・・)するのだって止められそうに無い。

 だって彼女の手袋は両方とも、炎民議長の靴を持っていたせいで、クリームに塗れてベトベトなのである。

 この少年の様な“住む世界が違うヒト”が、自分なんかにこんなコトをするなんて、それはやっぱり、何かヒドく間違っている様な気がしてならなかったのだ。

 そんな彼女の内心なんかまるで意に介した素振りも無く、イオはただ口元をイタズラ気に緩ませていた。


「それに、せっかく王妃様がお作りになられたケーキです。

 味わうのが貴女独りでは、少々寂しくはありませんか?」


「――――っ、あ…ぅ……」


 ――背中から這い上がったなんとも言えないモゾモゾ感に、今度こそウラノスは言葉を失ってショートした。

 何しろ、今までが今までだった彼女なのだ。こうして誰かに傅かれたり、或いは丁重に扱われたりするだなんて、どうにも収まりが悪いどころの話じゃ無かったのである。


 少年・イオは、いつもこんな感じで、奴隷階級出身の少女にも“貴族の淑女”としての対応をしてくれているらしいのだけれど……こんな、自分なんか様付けで呼ぶコトも恐れ多いくらいやんごとない(・・・・・・)ヒトに気を使われるなんて、やっぱり生粋の“風の民”なウラノスには、それはどうにも悪い夢どころの話じゃ無いように思えてしまってならないのであった。



(か、からかわれてる、よね? ボク、ゼッタイからかわれてるよね!?)



 ……いくら理性の冷静な部分がそう叫んでも、どうにも背中のモゾモゾ感は収まってくれる気配が無い。

 あまりにも慣れない感覚にイヤな汗を滲ませるウラノスには、こうなってしまうともう、幼児の様にあうあうと口をパクパクさせて放心する事しか出来ないのであった……。




「何の騒ぎかな?」




 ――と。そうこうしている間に、先程までウラノスが向かおうとしていた方角から、ゆっくりと誰かが歩いてくるのが分かった。

 本当に、本当の意味での“王子様”みたいなヒトだとウラノスは思う。

 ただ歩いて、こうして声を掛けるだけで、どこの誰にだって絶対に無視出来ないくらいの存在感を示してしまう、あまりにも圧倒的で優しげな声。

 はっとして目を向けると、緑の衣に金色の髪をした“あの人”が、どこか心配そうな瞳でウラノスとその周りを取り巻く惨状を眺めていた。


「あらぁ国王陛下、いらっしゃったのですか」


「…………」


 擦り寄る様にして真っ先に行ったのは、桃色チョココロネの赤ドレス・エウロパ炎民議長だった。

 誰がどう見ても、一発でそうと分かるくらいに完璧な上目遣いで、声のトーンまで1オクターブくらい上げながら、なんかイヤミなくらい完璧な営業スマイルを作っている。

 ……翼竜(ワイバーン)とか、飛んできて、蹴ってくれないかな。

 ウラノスは、一瞬だけそんな心の声がどこかから聞こえた気がして――もちろん口に出す度胸なんか無いので、やっぱりすぐ忘れる事にした。


「いえ、なんでもございませんわ。

 彼女が廊下にクリームを零してしまったもので、使用人を呼んで片付けさせようとしていたところなのです。

 すぐに綺麗にさせますので、どうぞ、陛下は私室にてお寛ぎくださいませ」


「…………、そうなのかな?」


 行儀良くスカートの端を摘み、ウラノスなんかには絶対に真似できないくらい優雅な仕草で、炎民議長は“彼”にお辞儀をする。

 “彼”・ユピテルは、炎民議長の弁明に軽く頷きを返しながら、真っ直ぐにウラノスの方だけを見てそう尋ねた。



「…………」



 ――コクン、と。ウラノスは頷いた。

 ……頷くことしか、出来なかったのだ。

 何故かは彼女自身にもよく分からなかったけれど、本当の事を“彼”に言ってしまうのは、ナニかどうしようもないくらい取り返しのつかない、とてもイヤな事に思えてしまったのである。

 エウロパ炎民議長が、横目でこっちを見ながら鼻で笑っていた。

 オレンジ髪の少年は暫くの間、確かめる様にウラノスの方を見ていたけれど、やがて何かを察したかの様に肩を竦めて、大きなため息をついていた。


「本当ですよ、国王陛下。

 使用人は僕が呼びに行かせました。

 間もなく到着する事でしょう」


「……そうか、分かった」


 少年の口から出た、流れる様な説明に、“彼”は静かな頷きだけを返し、


「お茶にしよう。

 ウラノス、付き合ってほしい」


 まだ床にへたり込んだままになっているウラノスの手を、なんの躊躇も無く真っ直ぐに取ってくれた。

 正直。今のウラノスの頭の中には、さっき炎民議長に言われた色々なコトがまだ渦を巻いていて、彼に触れられる事にちょっぴり複雑な気持ちにもなっていたのだけれど……。

 それでも“彼”は、一瞬の迷いすらも見せずにウラノスの手を取って、そのまま立ち上がらせてくれたのだった。


 ――自分みたいな子なんて、本当だったら、“彼”に声を掛けて貰う権利も無いことくらいは分かっているけれど……。


 それでも。

 この時の少女には、胸の奥から登ってくる気持ちがどうしようもないくらい暖かくて、暖かすぎて、それはどんなにどんなに頑張っても、ぜんぜん抑えこむ事なんかできそうに無かったのであった。



―――――



「……フン。相変わらず、ご機嫌取りご苦労ですこと」



 ユピテルがウラノスを連れ去った後の、宮殿の廊下。

 彼の緑衣が通路の奥に見えなくなり、念を入れて私室の扉が閉まる音がするまで礼の姿勢を保っていた炎民議長は、ずる賢いキツネでも見る様な顔で憎々し気に呟いた。

 キツそうな印象を受ける、マツゲの長い大きな目が、ゆっくりと隣の少年の方へと流れる。


「それとも貴方には、まさか本当に、あんなゲテモノ(・・・・)を愛玩する嗜好でもありまして?」


「それも良いかもしれませんね。

 恋愛感情とは、抱くものでは無く作るものですから。

 それに王妃様は、貴女よりはよほど可愛げのある女性だと思いますが?」


 風属性の少女が見たら失禁しかねないくらい恐ろし気な炎民議長の睨みを、全く意に介した素振りすら無く、氷民議長の少年は素知らぬ顔で返答していた。

 誰かを皮肉る様な口調である。

 ――勿論、エウロパにはそれが誰を皮肉ってのモノなのかが分かっていた。

 否、分かってしまうからこそ、彼女はこの小生意気な“氷民議長”を、常日頃から忌々しく思ってもいたのだが――しかし今回に限っては、どうやら彼女には少年の皮肉に対して言及するつもりは特に無いらしかった。

 今の彼女にはもっと、この少年よりも遥かに罰するべき対象が他に居たからである。


 エウロパは、大粒の宝石の様に丸々とした瞳に烈火の色を灯しながら、ユピテルの私室に続く曲がり角の方を真っ直ぐに睨みつけた。



「傭兵の分際で告げ口なんて、ずいぶんと慎ましい計らいをするのですね。カリスト(・・・・)!!」


「おや、ばれてしまったか。

 流石は三院議会の炎民議長。

 性根は腐っても鼻だけは効くと見える」



 叱責するようなエウロパの声に、曲がり角の向こうからは小馬鹿にした様な声が返ってきた。

 ――否。“小馬鹿にした様な”とは、あくまでも炎民議長の主観だろう。

 実際に聞こえたその声には、明らかに対象を小馬鹿にしながらも傍にはそう感じさせない、風に揺れる稲穂の様に掴みどころの無い音色が含まれていた。


 目つきの悪い、細身な男が曲がり角の影から現れる。

 “細身”とは言っても、それは彼が女性的な線の細さを持っていることや、或いは銀の国の白い青年の様に、あくまでも健康的な範囲に収まった体型をしているという事実を示唆しない。

 ――男の体型は、“武装”だった。

 敵対する者を殺す為に用いる以外の筋肉など、まるで(おもり)以外には成り得ないと断じるかの様な、一目で武具を獲物の体内に叩き込む為に最適化されたと分かる体躯。

 筋骨隆々な“青の守護魔”とは対極的に映る容姿ながら、しかし男の容姿には、見る者に間違いなく“彼”とは別方向に完成された戦士の物であると納得させてしまうだけの“何か”がある。


 紫電を思わせる、紫色の瞳と髪。

 解けば腰まで届きそうなその長髪は、“武の国”の強者が好んでする髪型の一つだろうか。

 ――だが、その髪質からは彼の国の“武装姫”の様に小奇麗な印象は全く受けない。

 中央から先広がりになり、所々が跳ねたその毛並みは、あくまでも“戦場”でも最低限の体裁を保とうと努力した程度の、獣の(たてがみ)の様に優美な荒々しさを伴った物だった。


 この天上の宮殿にあっては、風の民出身の少女よりも遥かに浮くであろう、動きやすさを重視したが故に粗雑に映る身軽な旅服。

 その左袖を注視すれば、あるべき物が無くてはならない場所が、有り得てはならない程にダブついている事に気づけるだろう。

 ――男は、隻腕(・・)だった。

 左腕を持たない、“隻腕の剣士”であった。


「どういうつもりなのか、と聞いているのですが」


「まあ、取り分けて理由は二つだな」


 四肢の一つが欠損した彼の雰囲気にも気圧されること無く、炎民議長は不愉快そうな体を崩さずに粛々と問う。

 カリストと呼ばれた紫髪の男は、曲がり角から出てきた姿勢のまま、エウロパの目すら見ずに鼻で答えた。


「一つはおれの雇い主からの指示だ。王妃殿の身辺警護を頼まれた。

 ナニを踏んだかもわからん貴様の靴なんぞ舐めて、王妃殿に身体でも壊されては堪らんからなぁ」


「――っ、言わせておけば。

 雇い主からの指示ですって?

 貴方は“召喚主”にすらなり損ねた役立たずでしょう。

 貴方の如き蛮族出の馬の骨を、一体どこの物好きが雇ったというのかしら?」


「我輩である」


 答える声は、エウロパの背後から聞こえた物だった。

 咄嗟に(と言っても、貴族の品を失わない優雅な所作で)振り返ると、エウロパの元へと歩み寄って来る初老の男性が目に入る。

 老いが必ずしも外見的な劣化を指す訳では無いと証明する様な、重ねた年齢に伴った貫禄を持ち合わせた紳士。陛下が来る以前なら、エウロパに対等な口を利き得た人間のうち最後の一人に当たる人物であった。

 口煩い父親にでも会った様に眉を潜めるエウロパに、初老の男性は右眼の方眼鏡を嵌め直しながら、叱責するかのように続けた。


「エウロパ炎民議長、正気の沙汰とは思えぬのである。

 今の王妃殿に逆らう事は、即ち陛下に仇名する逆賊も同じ。

 貴女とて、それがわからぬほど無能でも無いであろうに」


「…………、ガニメデ土民議長(・・・・)

 “逆賊”は、家畜にも等しい“風の民”の分際でこの宮殿に寄生している、あの汚らしい小娘の方ではありませんこと?

 このような“異常”を赦せだなんて、そちらの方が遥かに罪深い、この天の国への冒涜ですわ!!」


「分からぬのであるか?」


 スッ、と。ガニメデと呼ばれた男は、彫りの深い眼窩の奥に除く双眸を、猛禽の様に細めながら続けた。


「出自がどうであれ、今や王妃殿はこの国、いや、この世界で唯一、あの陛下に直接的な影響力をお持ちになられる御方なのである。

 それ即ち、貴女の言うところの“風の民”こそが、この崇高なる国家の全権を掌握する力を持っているも同じ」


「…………」


 たった一人の奴隷が、この“天の国”のどの貴族よりも遥かに大きな権力を、僅か一夜にして持ってしまった。

 その悪夢の様な事実を、初老の土民議長は私怨も主観も交える事無く只の事実として突きつけてくる。

 ――エウロパは、この男のこういうところが苦手だった。

 主観の入らない、お互いが共通認識として持つ常識としての“事実”のみを積み重ねていく論法ほど、反論しにくい物も無い。


「“天の国”は共和国です」


 エウロパが毛嫌いする様に黙していると、氷民議長の少年が澄ました顔のまま言った。


「本質的に、僕達の門閥の間には一切の優劣が存在しません。

 全ての門閥が等しく“貴い”とされているのですから、そこに優劣など付けられる訳も無いのですが……しかしそれ故に、僕達の議会はどうしても動きが遅くなってしまう。

 平時ならそれでも何ら問題は無いのですが、残念ながらこの世界では、百年に一度ほど、それでは少々困る事態が発生します」


「――“セトル・セトラの儀”」


 引き受けたのは土民議長だ。

 いつの間にか会話に適した距離にまで歩み寄っていた彼は、不快そうに眉を潜めるエウロパに、娘に教え聞かせる父親の様に言葉を重ねる。


「守護魔が齎す恩恵は、圧倒的である。

 常理を外れた異邦人たる彼らの知恵は、僅か一年で、文明を百年以上も進めてしまう場合もあると聞く。

 ……そんな劇薬の様な魔人が、六体。されば、これからこの世界に何が起こるかなど、わざわざ問うまでもあるまい。

 目まぐるしく動く世界情勢を前にしては、我々が持つ平時の制度では、到底対応しきれぬ場合も生じてくるだろう。

 故に――」


 初老の紳士は、エウロパの目を見直しながら、結論を導く様に断言した。


「我々は百年に一度、呼び出された守護魔を意思決定者としての“王”に据える。我ら三大門閥家が各個提示した方策を、我々同士で議論する事無く一つに絞る為の、神の如き裁定者として、な。

 貴女とて、それは納得していた筈である」


「…………。ええ、勿論ですとも。

 わたくしとて、その点に対して不満を述べるほど愚かではありませんわ。

 わたくしが納得していないのは、先ほどから貴方達が述べている“たった一点”についてのみなのです」


 声色だけは澄ましながら、しかしエウロパは明らかに頬を引き攣らせながら返答した。

 ……流石は貴族様といった感じの、大変に優雅な受け答えではあるのだが、導火線に火が着いた爆弾の様にしか見えないのは多分気のせいなんかでは無いのだろう。

 それを証明するかの様に、若き炎民議長はあくまでも優雅な仕草を崩さないまま、しかしその肺いっぱいに新鮮な空気をねじ込んだ。



「あんな、奴隷が!! この!! このわたくしをっ!! 差し置いて!!

 ユピテル陛下の王妃ですってッ!?

 あんな、あんっっっな頭が空っぽで!! どさくさに紛れてこのわたくしから召喚主の座を奪っていった盗人が!!

 よりにもよってあの御方の“王妃”ですってぇッッ!?」



 ゴウッ、と。荘厳な廊下に爆風の様な熱風が駆け抜けていった気がした。

 否、果たしてこれは気のせいと言って良いのかどうか……。

 高飛車で高慢ちきな生粋の“火属性”・エウロパ炎民議長は、胸の奥に抱えた計り知れない何かを撒き散らす様に全身から邪悪な魔力を立ち上らせ、桃色のロール髪からはパチパチと火の粉の様なモノまで舞い散らせてしまっていた。

 呆れた様に肩を竦める紫の傭兵と、“皮肉ったばかりなのに”とでも言わんばかりにため息を吐いているオレンジ髪の氷民議長に一回ずつ強烈な睨みを効かせつつ、炎民議長はその恐ろしい眼光を初老の土民議長へと突きつける。


「このわたくし以上に、あの御方に相応しい女などいませんわ!!

 大体、ガニメデ土民議長!! そも、あの奴隷に不満があるのは貴方の方ではありませんこと!?

 あんな、どこの馬の骨ともしれない傭兵を宮廷に迎え入れてまで、このわたくしから“召喚主”の座を奪いたがっていたのですものね。

 あの奴隷女が出しゃばらなければ、今頃はそこの木偶の坊を召喚主に仕立て上げ、間接的に陛下の参謀にでも収まっていた算段だったのではなくて!?」


「我輩は伝統に従って、“召喚主は門閥外の者から募るべきだ”と提案しただけである。

 生憎と、今代は我が国に“大魔導”がいなかった。

 仕方なしに、先天魔術の格と年齢的に貴女が有力視されてはいたが……。

 しかし、外部から実力者を招けたとあっては、わざわざ門閥の頭首自ら敵国の怪物どもの前に首を晒す必要も――」


「そんな些末事などどうだって良いのです!!」


 エウロパは、尚も土民議長を睨みつけて言う。


「――ええ、そうですわ。

 わたくしはあの方の寵愛を受けられるのなら、この地位も、貞操も、命すらも惜しくはありません。

 わたくしは、そこまで純粋に陛下をお慕い申し上げているのです!!」


 怒鳴りつける様な剣幕で言う炎民議長。

 怒りに燃える彼女の頭の中に過ぎっていたのは、先刻あの“風の民”の首に巻かれていた、あまりにも愛しい赤いスカーフであった。

 ――どうして“あの方”は、あんな汚らしい小娘の首に、わざわざ自らの装飾を巻く様な真似をしてしまったのか。

 ――アレを本当に受け取らなくてはならない人間は、あんな小娘などでは無く、この自分の筈では無かったのか。

 その、彼女の人生に於いて絶対に有り得てはならない不条理が、ただ炎民議長の頭の中を赤く染めていたのであった。

 烈火に染まった双眸のまま、炎民議長は“あの方”と小娘が消えた通路の奥を睨む。


「わたくしの邪魔をする者は、誰であろうと赦すつもりはありませんわ。

 特にそれが、貴族の出でもなんでもない、あんな亜人に等しき賤民とあっては!!」


「…………。我輩は、貴女の心の内にまで干渉する権利を持たぬ。

 貴女が王妃殿の反感を買いたいと言うのなら、我輩に出来るのは、“土民議長”として勝手にそれを利用させてもらう事のみである。

 ――元々、“三院議会”とはそういう間柄を指すのであるからな」


 あくまでも淡々と事実のみを述べつつ、ガニメデはエウロパを追い越して通路の奥へと歩いていく。

 そして、貴族服の胸元から握り拳程度の袋を取り出すと、すれ違いざまに壁際に佇む傭兵へとそれを手渡した。


「カリスト、ご苦労である。

 引き続き、王妃殿の身辺警護を任せる」


 手渡された袋には、いっぱいの鋳貨が詰められていた。

 この国でも比較的価値の高い部類に入るその貨幣は、総額にすれば馬車が馬付きで買える程の値になるだろう。

 その報酬を受取りながら、しかし隻腕の傭兵は渋る様にその眉根を潜めていた。


「……これだけか?

 土民議長殿。貴様は少しばかり、おれの剣を安く見積もり過ぎだな」


「王妃殿の腹部に汚れがあった。

 次に同じ事があった場合、基本給そのものを見直すと思っておいた方が身のためである」


「はっ、言ってくれる。

 そこの阿婆擦れが女でさえなかったら、追加料金次第ではこの場で斬り捨ててやるところなんだがなぁ」


 飄々と言うカリストは、エウロパが蔑む様に自分を見ている事に気がついた。

 その嫌悪感を顕にした視線に、口笛を吹いて肩を竦める。


「おぅ、怖い。

 女の嫉妬ほど醜いモノはないと覚えておけ」


「……、ガニメデ土民議長」


 薄汚い狗でも見るような目でカリストを睨んだエウロパは、しかし狗に吠えられた程度で激昂するのは自らの品位に関わるとでも思ったのか。

 絶対零度の双眸を一度閉じ、心身を整えてから、傭兵では無く片眼鏡の土民議長へと言葉を向けた。


「この傭兵崩れは、既に一度祖国を裏切っているのですよ?

 金の為に平然と主人を斬り殺し、その首を手土産に(・・・・・・・・)この国に取り入ったような恥知らずを、どうして貴方は信じられるのですか?」


「逆である。金で動く人間こそ、この世で最も信における」


「――――」


 ――それは、間違いなく一抹の真理を含んでいるだろう。

 常に巨額の資金を動かす“炎民議長”という地位にあるエウロパだからこそ、書類の上には載らない、感情や信念といった物を持ち合わせた人間の御し難さというのは身を以て理解出来ていた。

 尤も、傍からは理解出来ず、御し得ない、火のように強い感情こそが国を動かすべきだ、というのがこの若き炎民議長の持論でもあったのだが……。

 兎も角として。

 この傭兵の様に、純粋に金の為だけに動く人間の行動というものは、確かに強い信念を持った確信犯的人間たちよりは、まだ予想が立てやすいというのは事実だろう。

 そう。常に、満足がいくだけの金が用意出来るのなら――。



「…………」



 だからこそ、エウロパはすんなりと土民議長の言い分を納得する事が出来なかった。


 ――ウラノスを護衛させる、というのはまだ分かる。

 (恥ずべきことではあるが)彼女が実質的にこの国の全権を握り得る立場にあり、陛下に唯一直接的な影響力を持つ存在である以上、“天の国の貴族”として彼女を守る事は確かに道理に適っているからだ。


 ――あの傭兵をウラノスの護衛に付けた、というのも、まだ分からなくは無い。

 彼女を個人的に守ることで旨みがあるとしたら、それは護衛として接することで彼女に取り入る余地がある、というのが最も現実的な点であり、それなら複数人を護衛に付けて標的の心情を分散させるよりも、“召喚主”にすら成り得た強者を一人付けた方が、結果としては効果が高いと判断できるからだ。


 だが、一点。

 たったそれだけのメリットに対する、この土民議長の金払いだけは、エウロパにはどうしても理解する事が出来なかった。

 ――何しろ、こんな瑣末な一件に関わっただけで、馬車一台分の報酬だ。

 たかだか身辺警護の対価として払うには、如何な三院議会といえども、あまりにも破格にすぎるのではないか。

 否、或いは。この男の懐には、それを安々とばら撒けるだけの蓄えがあるという事なのか。


「……ガニメデ土民議長。

 貴方はそれほどの資金を、いったいどこから調達しているのかしら?」


「我輩とて門閥の長である。

 金策の中身は、我輩の一存で明かす事など出来ぬ」


 炎民議長の問に、初老の土民議長は整えられた口髭の下の口を僅かに緩ませながら答える。

 その眼窩の奥に覗く猛禽の双眸には、寒気がする程に強い意思の光を宿しながら――。


「なに。我輩にとっても決して安い出費では無いが、無意味に使っている覚えは無いのである。

 全ては、今代にて“浄場”を成す為なのであるからして」


「…………」


 ――“浄場”。それは、この国に根付く選民思想を最も端的に示す言葉の一つだ。

 この世界の全ての土地は、元来この世界で最も優れた階級である天の国の貴族の物であり、故に天の国の貴族達には、いずれは“悪しき敵国の盗人ども”を世界から浄化し、“在るべき姿”に還す義務があるとする、この国が冷戦を継続する理由の根幹となっている思想。


 無論、エウロパとてこの国に生まれ育った貴族だ。

 そんな“当たり前の考え方”など、物心が付く遥か前より、両親や教育係からごく自然に倣って来たことではあったのだが――ガニメデよりも随分と若い彼女は、この初老の男が瞳に宿す色と同じ物を持てる程には、まだ精神的に成熟(・・・・・・)してはいなかった。


 ――つまるところ。

 そういう意味で言っても、このガニメデという土民議長の男は、骨の髄まで天の国が誇る“貴族の中の貴族”なのであった。

 果たして、陛下に何か案件でもあるのか。

 ガニメデは、エウロパから見ても更に習うところが多く見える、貴族としての完璧な所作を崩さぬままに、真っ直ぐに通路の奥の方へと消えていった。


「……やれやれ、難儀な男だ。

 蛮族出(・・・)のおれには、あの堅苦しい狂信ぶりにだけはついて行けそうに無い。

 まあ、お陰様で随分と稼がせて貰ってはいるし、おれは金さえ貰えれば文句も無いんだがなぁ」


「……まだ、聞いていませんでしたわね」


「?」


 片眼鏡の男の後を追って、辟易した様子で通路に引っ込もうとした隻腕の男。

 その背に向けて、エウロパは一度だけ、確かめる様にして問うた。


「貴方の二つめ(・・・)の言い訳とは、なんですか?」


「――ん? はは、なに。

 そっちは本当に大したことじゃない」


 男は、自嘲気味に肩を竦めながら言う。

 訝る様に眉を潜めるエウロパに、彼は冗談めかしたように口元を緩め、続けた。



「おれが綺麗に着飾った薔薇よりも、そこいらの野花に心惹かれる、無粋な男だというだけの話だよ」



―――――



 “彼”に連れられて入った部屋は、もうすっかり見慣れた、でも居るだけで心臓が飛び出そうになるような空間だった。

 “国王陛下”の私室に相応しく、この宮殿の他の場所に比べても、更に豪華で絢爛に作ってはあるのだけれど……。

 凝った作りのシャンデリアやデスクなんかよりも、少女の目を引いていたのは部屋のあちこちに置かれた山のような観葉植物達だった。

 ――勿論、武器、なんかじゃない。

 純粋に人の目を楽しませたり、空気を綺麗にしたり、ハーブティーや薬になったりする様な、本当にただ人の為だけに彼が育てている植物達。

 寧ろこっちが彼の力の本当の使い方なのだと、ウラノスは彼の為人(ひととなり)から当たり前の様に納得していた。


 執務用のデスクの前を通って、バルコニーへと案内される。

 種々様々な高山植物が花を咲かせている中庭が一望できるそのテラスの真ん中には、大理石の様にピカピカなテーブルと椅子が置かれ、使用人らしき人々がテキパキと片付けに勤しんでいた。

 その中の一人。責任者らしき叔父様を呼び止めて、“彼”はお茶を入れて欲しいと頼む。

 畏まったお辞儀をした叔父様は、片付け中の使用人達を瞬く間に集めて、1分もしない間に部屋から(こぞ)って出ていった。


「悪いことをしたかな。

 なにも、全員で用意しに行ってくれなくてもいいのにね」


「…………」


 明らかに余計な気を回してくれた叔父様達の動きに苦笑しながら、彼はテーブルに残された幾つかの書類を束ねていた。

 どうやら彼が、ついさっきまでここに座って目を通していたものらしい。

 もちろん“国王”としての仕事用の書類だったら、いくら彼でも執務用のデスクでやるはずだし、使用人に片付けさせるなんて事は有り得ないから、恐らくは彼の個人的な資料なのだろうけど……。

 そこに書かれた絵図の様なモノが一瞬だけ目に入って、ウラノスの胸の奥にはチクリと刺さるモノがあった。



 ――そこには、見覚えのある街の景色が描かれていたのだ。



 オモチャの様に壊れてしまった複数の建物と、ポッカリと穴の空いてしまった巨大な防壁。黒竜に食い破られた獲物の皮膚みたいだ、なんて、規模が大きすぎてよく分からない少女は漠然と連想する。

 街の中を描いた図には、奇妙な姿をした6本腕の怪物の亡骸が山の様に倒れていて、その真ん中では黒いフードを着た人間らしき影と、それに立ち向かう白い服を着た青年の姿が描かれていた。

 そして、山よりも大きな巨人に向けて弓を引き絞る、見覚えのある少女の姿も。


 ――そう。

 争いたくないと、戦わないと約束してくれた筈の、“あの二人”の姿が――。


「……約束、したのに」


「いや、彼らは約束を破ってないよ」


 拗ねる様な少女の言葉に、“彼”はスッと目を細めながら答えた。


「この報告書によると、今回の戦いは“地の国”から仕掛けられたものらしい。

 彼らは約束通り、“ちょっかいを出されたから黙っていられなかった”ってことなんだろうね」


 “彼”はそれを仕方のない事として認めて、それでもとても哀しそうに言う。

 ――銀の国へと“お願い”をしに行った後の話だ。

 結局、彼女たちは“氷の国”に訪れる事は出来なかった。

 只でさえ極寒の上に、あの時はまだ真冬だった“氷の国”の帝都に行くには、夏季だった天の国から飛び出したままの彼女達の服装では寒すぎたのだ。

 しかも、ウラノスは“風属性”である。原理的に“氷属性”に弱いとされる風魔法を、あの極寒の氷の国で使用し続けるのは、いかに彼女の先天魔術をもってしても少なくない不安が付き纏った。


 仕方なしに、彼女達は氷の国の南端を飛ぶことで地の国方面へと抜ける事になったのだけれど――いくら天の国の諜報技術が優れているからといって、流石に砂漠で地下帝国を築いている地の国勢の居場所なんか、元々“武の国”に遠征に行くのが目的だった彼女達に分かる筈も無い。

 結局彼らは“氷の国”と“地の国”、そして存在そのものが不明とまで言われている“死の国”の召喚主達とは、何も話す事なんか出来なかったのだ。


 ――“地の国”の人たちとは、“約束”をしていない。


 ――“銀の国”の人たちは、襲われたから身を守った。


 だったら今回の事件は、確かに、間違いなく仕方のない事だったのかもしれないけれど……。

 それでも。本心では、彼はどうしてもそれを“仕方のない事”と割り切ることなんか出来なかったらしく、その綺麗な碧い瞳には、隠しようもないくらい哀しそうな色が浮かんでいた。


「……僕には、わからないよ。

 どうしてみんな、そんなに人を傷つけたがるんだろう。

 こんなの、お互いに辛いだけなのにね」


「…………」


 ウラノスは、何も言う事が出来なかった。

 ――気付いて、しまったからだ。

 彼の言葉は、手元の紙切れだけに向けられたものなんかじゃなくて、今日彼女にあった色々な事まで、全て悟った上でのものだという事に――。

 何も言えず、俯く様にしているウラノスを、“彼”はそっと胸元へと抱き寄せた。


「あ――」


「……君が聞かないで欲しいって言うなら、訳は聞かない。

 でも、せめて。傷付いた分くらいは癒させてほしい」


「――――っ」


 “彼”の胸から、温かい鼓動が聞こえてくる。

 優しい手の感触が髪を撫でると、自分の心臓が少しおかしくなるのがわかった。

 ――少女は、“風の民”。

 生まれた時にはもう用途が定められていた、誰かに使われる事が当たり前だと決められた存在。

 ただ、それでも。喩え、こうして気遣われる権利なんか欠片も無いと分かっていたとしても。

 この時の少女は、間違いなく、過去には想像した事すら無いくらいの、分不相応な幸せを感じてしまっていた。

 それが幸せで、幸せ過ぎて、それがダメな感情なのだと分かっていても、どうしても抑えこむ事なんか出来なかった。


「どうすれば、いいのかな。

 誰も傷付かない、みんなが笑って過ごせる世界にするには、どうすれば……」


「…………」


 なによりも安心できる“彼”の腕の中で。


 ――キュルルッ、と。


 少女は、自分のお腹のあたりから、なんか果ての無い平原あたりに住んでる不思議生物の鳴き声の様な、ちょっとモノスゴイ音を聞いてしまった。

 たぶん、ケーキを食べそこねた上に、ちょっぴり緊張してしまったのが原因だったのだろう。

 ……少女は、ちょっと本気で死にたくなった。


「ぷ、あは、あははははっ」


「あぅ……ゆ、ユピ様っ!!」


 “彼”が、心底おかしそうに笑っている。

 彼の笑顔は、それはもう、一瞬で意識が飛びそうになるくらい途轍もない破壊力だったけど……流石にこの状況でこんな顔をされると、少女は別の感情(主に羞恥)で本当に意識を飛ばしそうになってしまう。

 ――どうして自分って、こういう幸せな時に限って、必ずこんな目に会ってしまうんだろう。

 ちょっと、本気で神様に一回蹴りを入れたくなったウラノスだったけれど――彼がキュッと強く抱き締め直してきたので、やっぱり感謝なんかしても全然し足りないんだと思い直した。

 そして、彼は、


「そうだね。難しく考える必要なんか無かったんだ」


 少女の背に腕を回しながら、思いついた様にそんな事を言っていた――。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ