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朝日真也の魔導科学入門  作者: Dr.Cut
第三章:エーギルの晩餐会-1『天王からの封書』
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67. 共和制的封建社会に於ける奴隷階級出身の少女が宮廷に迎え入れられた際に経験した大貴族本家の女性との会談から見る現代地球に於いて最もポピュラーな童話のヒロインがぶつかったであろう困難に対する類推

 ところ変わって、ここは“太陽に一番近い国”・天の国(ソルヘイム)――。

 崇高なる貴族たちの国家として知られるこの地の国政は、“貴族の中の貴族”と賞される“三院議会”なる円卓によって執り行われていた。

 “火の民”、“氷の民”、“土の民”という三大門閥家の頭首達は、首都・エラルトプラーノの中心に聳える宮殿に住み、日夜行われる会議によってこの気高き国家の方針を決定してきたのである。


 宮殿とは表現したものの、この単語は、果たしてどれほどこの建造物の豪奢さを正確に伝えてくれるだろうか。

 アーチ状に湾曲した天蓋に描かれた、断片でも手に入れて売れば小さな城が立てられる程に意匠の凝らされた歴史画。その隙間を縫うようにして下げられた無数のシャンデリアは、その一つ一つが“晶龍”の水晶体を削り出して造られた逸品だ。材質だけで見ても、“虹龍”の水晶体から削り出した“ガラスの靴”に継ぐほどの希少さであり、更にシャンデリア自体の芸術的価値も含めれば、一つ一つが最早値段の付けようもない程に次元違いの高級品だろう。

 昼間から惜しげも無く着けられているその淡い灯りには、床という床を全て覆い尽くす程に長大な赤絨毯と、砕いた真珠を固めて作ったようにキラキラと光る白磁の壁が照らされている。

 “帝王晶石”で作られたその真珠色の壁は、1000年経っても全く色の()せることが無いと言われている。


 ――“貴族の国”である天の国が、更にその持ち得る贅の全てを集約した権威の象徴。

 そう考えれば、この宮殿が一体どれほどまでに常軌を逸した額の財を内包しているのかにも、ほんの僅かばかりは想像する術も見つかろうというものだろうか。

 この宮殿は確かに“天の国”という地上の国家の中に在りながら、しかし明らかに外界の全てと隔絶した、“貴い者達”のみが生きるべき聖域を形成していた。



「フンフンフフ~ン♪」



 ――さて。

 ところがこの、庶民どころか中位以下の貴族ですらも足を踏み入れるコトを躊躇するであろうほどに高貴な社交の場に、昨今ではとある一つの異分子が紛れ込むという異常事態が発生していた。

 活発そうな印象を与える、短めに整えられた緑髪に、首元に巻かれた赤いスカーフ。

 歳の頃は16~17くらいのものだろうか。

 しかし彼女の薄い唇や天真爛漫な表情、そして少し抜けたような、どこかぽややん(・・・・)とした雰囲気は、明らかに彼女が淑女よりも少女に属する存在であると証明するに足るだけの要素(ファクター)として機能している。


 ――天の国の召喚主・ウラノスである。


 鼻歌混じりに毛の長い赤絨毯を飛び跳ねていく彼女の挙動は、どう見ても明らかに宮廷貴族達の洗練されきった所作などとは程遠く、どちらかと言えば寧ろ山奥で育てられた野生児が原野を飛び跳ねる時のソレを連想させる。

 この宮廷を歩くに恥じないだけの、間違いなく超一級品と断言して何の問題もない程に高価な御召物を身に纏ってはいらっしゃるのだが、どうやら彼女の足運びは遺伝子レベルで“高級”だとか“高貴”だとかいう単語にはマッチしていないらしく、一歩踏み出す度に固い靴底や丈の長いドレスの裾がゴリゴリと床に擦れ、毛の長い高級絨毯から赤色の糸クズをバラバラと空間にまき散らしていた。


 ……絨毯を作成した職人に見られたら、5~6発張られても文句は言えなかっただろう。

 彼女とてまさか、この城の内装が安物やイミテーションだと勘違いしているワケでも無いのだろうが……。恐らく、というか間違いなく、彼女程度がイメージ出来る“高価”とは、話題の中心となっている“ブツ”に比べるとケタ違いと言うのも生温い程に乖離したナニかなのに違いない。

 今しがた彼女が抉り込む様に踏んだ刺繍一つを取っても、もしも彼女が実際の値段を聞いたとしたら、恐らくは目玉が飛び出るどころかカノン砲の如く射出された挙句、第三宇宙速度を超えて宇宙の彼方へと飛び去ってしまったに違いないのである。



 だが、まあ。きっと、それも無理からぬ事だったのだろう。

 何しろ彼女は、三大門閥家のような大貴族の令嬢どころか、そもそも貴族の家の出ですら無く、正確に言えば市民ですらも無い。

 ――そう、彼女は“風の民”。

 火でも氷でも土でも無く、そして、そのどのコミュニティよりも遥かに地位の低い、この国では人間としてすら扱われない第四の民。

 ……端的に言えば、“奴隷階級”出身の少女なのであった。


 運命の悪戯とは、なんと数奇なものなのだろうか。

 物心がついた頃には既に用途を定められ、そして抵抗の意思すら持つ事の無いままにソレを“大切なコト”として守るように生きてきた彼女は、彼女自身すら想像も出来なかったような偶然の重なりによって、今ではこんなに豪奢な宮廷の天辺へと祭り上げられる羽目になってしまっていたのである。

 尤も、その辺りの事情は少々混み入ってくることが予想されるので、この場で敢えて述べる事はしないが――。



「でっきた、できた~♪」



 ――さて。

 しかしながら、そんな、まるでシンデレラ・ストーリーをそっくりそのまま再現したかの様な奇妙な運命に見舞われた彼女は、この日はなにやら随分とご機嫌な様子で廊下をピョンピョンと跳ねまわっていた。


 誤解の無いように述べておくと、いくら彼女が宮廷の所作など毛ほども知らないような、言わば“原野育ちの生え抜き雑草”のような少女だからといって、普段なら流石に宮殿の中を無造作に跳ねまわる程にガサツではない。

 彼女がこうして、なにやら頭の中身が自らの属性を象徴しているとしか思えない程に自由気まま且つお気楽に跳びまわっているのにだって、実は極々些細な理由があったりもするのだ。



「ユっピさっまと~♪

 ユっピ、さっま、と~……」



 人よりも随分と豊かな感情を表現する事の出来る(顔に出やすいとも言う)、天真爛漫で少し抜けた顔立ちをほんのりと朱に染めながら、ウラノスはモゴモゴと口の中でナニかを呟いた。

 両の脚はカモシカの様な軽快さで前へと動かしつつ、しかし表情だけはまるで夢でも見ているようになりながら、彼女は自分の両手の間に収まっている“ソレ”へと視線を落とす。


 ――ケーキである。


 幾つもの傷痕が痛々しく残る彼女の両手の間には、大きいながらもこの宮殿に存在するにはあまりにも不恰好で、ところどころ白いクリームが剥げてしまっているスポンジの塊が収まっていた。

 ……お世辞にも、美味しそうな見た目をしているとは言い難い代物である。

 だが、それでも。もしもその制作過程を知る者がソレを見たとしたら、恐らくは、最低でも2つか3つくらいは賞賛の言葉を掛けずにはいられなかったことだろう。


 何しろコレは、誰に頼んだのでも、誰に作ってもらったのでも無い。

 他でもない彼女自身が、今朝方から頑張りに頑張って、一から作り上げたものなのである。

 それもこの一週間くらい、毎朝毎朝太陽が上る前から練習して、ようやく“ケーキに見える”レベルにまで辿り着いた、涙ぐましいまでの努力の結晶なのだ。


 円柱形のスポンジに塗られた生クリームの真ん中には、砂糖菓子で出来た小さなプレートが刺さっている。

 可愛らしい花柄の模様が付いたソレには、いかにも覚えたてといった感じの拙い筆跡で、“ゆぴさま、いっかげつおめでとう”の文字が描かれていた。



 ――そう。この日は、彼女が“彼”を召喚してから一ヶ月目に当たる、正に記念すべき祝日なのであった。



 無論、今まで“幸せ”の基準そのものがヒトとはズレてしまったような人生を生きてきたウラノスだ。

 彼女にしてみれば、自分みたいな子が“彼”を呼んで、しかもこんな豪華なお城に住んでいるだなんて、やっぱりまだまだ現実味が湧かないし、夢でも見てるみたいで、常に頬をつねっていないと落ち着かないような話でもあったのだけれど――。

 喩えソレを差し引いたとしても、こうして“彼”といっしょに時間を重ねているんだという事実を自覚すると、やっぱりソレはどうしようもないくらいに幸せで、彼女の頬はついついほにゃんと緩んでしまう。


 ――自分なんか、あと100回生まれ変わったって、全然“彼”になんか吊り合わない事は自覚しているけれど……。

 それでも、喩え分不相応だったとしても、こうして“あの人”の為にケーキなんかを作れて、そして“あの人”と一緒の時間を過ごせるのだと考えると、今までそんなに好きじゃなかったこの世界だって、彼女には一分一秒ごとに感謝しても全然足りないくらい素晴らしいモノに思えてしまうのであった。



「…………。ボク、死んじゃうの、かな?」



 踏まれ慣れ過ぎた雑草根性に、生来の情緒不安定さも手伝ったのだろう。

 なんかこの一ヶ月で、もう一生分どころか来世の運まで使い果たしてしまったような気がしてならなかったウラノスは、なんとなくそんな鬱な呟きを漏らしてしまった。

 ……尤も、流石に死にはしないまでも、彼女の胸の奥には決して小さいとは言い切れない不安が無いこともなかったのではあるが。


 なにしろ、これまでは完全に管理されきった“飼料”しか与えられてこなかった彼女なのである。どうやら長年に渡る重度の“食事制限”は、彼女を随分と燃費の良い身体に変えてしまっていたらしく、お陰様で毎食ごとに現れる夢の様な美味しさのフルコースを遠慮無く堪能し続けてしまったりとかすると、その“大食”という大罪のツケは容赦なく見えない部分から彼女の身体を蝕んでいってしまうワケであり……。



(……………。

 だ、ダイエット、するもん。

 明日から、絶対、タイエットするもん!!)



 “ウラノス、重くなったかい?”なんて、万が一彼に言われたら自殺モノの破壊力を誇るセリフの到来に恐怖しつつ、また古今東西全異世界のダメな女性達が、恐らく誰もが一度は思った事のあるであろうスローガンを深く心に刻みつつ。

 緑髪の少女は、宮廷の廊下を春一番の疾風の様に駆けていく――。




 ――ある意味で言えば。

 この時の彼女は、今の自分にはもう運なんか欠片も残っていないというその事実を、言葉に出すまでもないくらいヒシヒシと感じてしまっていたのかもしれない。

 否、それでは少々語弊があろうか。

 本当は、彼女だって分かっていたのだ。

 自分の人生が、こんなに順風満帆にいくワケが無い。

 自分の人生とは、幸せがすぐ手の届くところまで迫った時に限って、他の人よりも遥かに高いハードルが、必ず目の前に立ち塞がるように出来ているモノなのだというコトを……。



「――――っ!?」



 ――ドッ、と。

 “彼”の私室に向かっていた筈の彼女は、最後の曲がり角を通り過ぎようとした正にその瞬間に、壁の影からニュッと伸びてきた足に躓いて頭から床へと突っ込んだ。

 咄嗟の事だったので、受け身を取るコトにまで気は回せなかったけれど――それでも、毛の長い赤絨毯が下に敷かれていたおかげか、ぶつけた身体はそんなに痛くない。


 でも、彼女にとって本当に大切なのは、初めから傷だらけの自分の身体なんかじゃ無かったのだ。

 反射的に上げた視線の先には、クリームが剥げかけた“例のもの”が落ちていた。

 銀色の皿に乗った、不恰好な白い塊が、少しだけ崩れていながらも、まだなんとか“見られる”レベルでポツンと床に乗っかっている。

 毛の長い絨毯がそっちにも幸いしたのか、或いは倒れるときに、自分の身体よりも優先して掛けた風魔法の影響なのかは分からないけれど――それでも、彼女が作ったケーキはまだ不恰好な形を保ったまま、確かに彼女が作った形のままでそこにあった。



 あった、筈、なのだ。



「あら?」



 ……曲がり角から出てきた“その人物”が、高そうな履物を纏った足をその上に乗せて、体重を掛けるようにグチャリと踏み潰すその瞬間までは。



「あ…………」



 どこか状況が飲み込めていないような、色を無くした顔で呆然とその様子を眺めるウラノス。

 “その人物”は、長いマツゲの奥のクリクリとした瞳を細めて、見下すようにしながらこちらを見下ろしてくる。

 そして、ロールの掛かった桃色の髪を大きく肩の後ろへと払うと、今にも泣きそうな顔になっていくウラノスを満足そうに眺めながら、化粧の濃い顔をクスリと上品に歪ませた。



「やだ、ゴミ踏んじゃったみたい。

 まったく、今日は最低な日ですわ」


「あ、あああ、あ……」



 ウラノスは、まるで言葉を覚えたての幼児のように、あうあうと口をパクパクさせていた。

 だが、それは怒りとか哀しみとか、どうにもそういった次元の感情から発せられたモノであるようには見えない。

 彼女の顔は真っ白というべきか、真っ青というべきか、とにかくヘビに睨まれたカエルという表現がこれ以上無いくらいにフィットする程に凄惨な色を発してしまっている。

 ――この比喩は、恐らく的を射ていただろう。

 なにしろ“この人物”こそは、彼女にとっての正に“ヘビ”。つまりは、天敵に当たってしまう人物だったのだから……。

 そう。この高慢ちきとタカビーが服を着て歩いているような、見ているだけでも目が痛い“彼女”こそは――。



「え、エウロパ、炎民、議長……」



 悪夢にでも(うな)されているように、ウラノスは“彼女”の名前を口にした。

 ――炎民議長・エウロパ。

 三大門閥家が一つ、“火の民”を統べる大貴族の本流であり、同時に“三院議会”の円卓に着くコトを許された貴族たちの大ボスの一人であり……そして、何故かウラノスをいびり倒して悦に入っている、彼女がこの世界で最も苦手とするお局様なのであった。


 容姿に関して言うのであれば、とにかく“いかにも”といった風体だ。

 今日も彼女は、好んで身に纏う“火の民”を象徴するド派手な赤ドレスを着込んでいるし、髪型はこの“貴族の国”でも殆ど見かけないような桃色の縦ロール。身体に悪そうなクスリの入ったチョココロネみたいだ、などと、ウラノスはいつも見る度に思ってしまう。

 他にもいつも通り、美術館に建って(・・・)いても全然違和感が無いくらいに綺羅びやかな首飾りや髪留め、指輪なんかもイロイロ付けていたりはするのだが――それだけイロイロくっつけても“負けない”くらいの貫禄を持っているあたり、こんな性格でもやっぱり貴族さまなんだな~、などと、生粋の“風の民”な少女・ウラノスは見る度に気圧されてしまう。



「――ねえ、ウラノス?」



 そんなコトを考えている彼女に向かって。

 若き炎民議長は、今しがた踏み潰したケーキの残骸に不愉快そうな目を向けつつ、その中に紛れていた砂糖菓子の板を発見してピクンと眉を跳ねさせた。

 キツそうな印象を受ける双眸の間に、2本の縦ジワがキュッと寄る。


「……まさか、とは思いますけど。

 貴女、こ~んな汚らわしいモノを“陛下”のお口に入れるつもりだった、なんていいませんわよねぇ?」


「あ……ぅ……」


 エウロパは、目の前の人間全てを跪かせてきた者だけが纏い得る、あまりにも圧倒的な威圧感を纏った声で続ける。

 ウラノスは、俯いて呻くコトしか出来なかった。

 緑髪の少女は俯いたまま、まるで今の言葉で夢から現実へと帰ってきてしまったかのような表情で、キュッとその薄い唇を噛み締めている。

 そんなウラノスの態度を、果たして肯定と取ったのか。

 エウロパは目を丸くして、グロスの眩しい口元をわざとらしく手で隠した。


「まあ!! なんて恐ろしい事を考える子かしら!!

 汚らしい奴隷の分際で、畏れ多くも陛下のお口にゴミを入れるつもりだったなんて。ナニを触ったかも分からない、奴隷の手で捏ね回されたゴミなんかを召し上がって、陛下がお身体でも壊されたらどうするつもりだったのかしら」


「…………っ」


 ヒクッ、と。ウラノスの喉が、小さくしゃくり上げる様な音を鳴らした。

 果たしてそれは、流石のウラノスも、今の物言いにはほんの少しの反意を持ったからなのか。

 或いは生粋の“風の民”である彼女は、心のどこかで、エウロパの言葉を“正しいこと”として認めてしまっていたからなのか――。

 そんなウラノスの心情など斟酌することすら無く、エウロパはまるで汚い物にでも触るように彼女の緑髪を摘みあげると、俯いたままのその頭をクイッと持ち上げた。

 まるで、“許可無く目を逸らす事すら不敬に当たる”とでも言うかのように。


「ほらぁ。分かったなら、ちゃんと謝らないとダメでしょう?

 “身分も弁えず、陛下にゴミなんかを召し上がらせようとしてすみませんでした”、ってね」


「…………ッ。ゴミ、なんか、じゃ……」


「聞こえませんわ。

 ウラノス。貴女、家畜以下の“風の民”の分際で、“炎民議長”のわたくしに口答えするつもりなのかしら?」


「――――っ!!

 ご、ごめんな、さ……」


 “その肩書き”は、彼女にとって果たしてどれほど大きなモノに映っていたのだろうか。

 緑髪の少女は、本当に小さな子どもにでもなってしまったかの様に、今にも泣き出す寸前の様な表情になって、エウロパから向けられる蔑みの視線に肩を震わせている。

 ――だが。それでも。

 恐らくは、もしも“その先”を言ってしまったら、自分の中でナニか決定的なモノが折れてしまうような、二度と“彼”の隣に居られなくなってしまうような、そんなどうしようもない恐怖感を抱いたのだろう。

 ウラノスは謝罪の言葉を途中まで述べながら、しかしそれ以上言葉を続ける事は無く、ただ赦しを乞う様に目に涙を溜めて、怯える様にエウロパの顔を見返していた。


「…………」


 エウロパは、心底苛立たしげな顔になった。

 彼女にしてみれば、“炎民議長”の自分に対して“奴隷”の彼女が、言動一つ思い通りにならないだなんて、赦せる事じゃなかったのだろう。

 ――喩えそれが、もうとっくに“その立場”から解放されていて、今や炎民議長である自分よりも重要視されている“国の要”なのだとしても。


 だが。喩えエウロパがどんなに苛立ったとしても、公的にウラノスに“懲罰”を与える事の出来ない今の状況では、これ以上続けてもウラノスに望んだ言葉を強要することは難しい。

 炎民議長は一度だけ、憎々し気にウラノスの首に巻かれている赤いスカーフを睨みつけてから、まるでゴミでも投げ捨てるかの様にウラノスの緑髪を解放した。



「……まあ、いいでしょう。

 まったく。折角の履物が汚れてしまいましたわ」


「…………」



 明らかに故意に踏んでおきながら、クリームと赤い糸くずに塗れた靴に、心底不快そうな視線を向けるエウロパ。

 彼女は物憂げな表情で、深く深く溜息をついてソレを見ている。

 そして、どこかホッとしたように胸を撫で下ろしているウラノスの顔の前に、当たり前のようにその靴を突き出した。



「ナニをポケっとしているのですか?

 ほら、さっさと舐めなさい」


「へ? ふ、ふぇ!?」


「聞こえませんわ。

 いいですか? 貴女の汚らしいゴミのせいで、このわたくしの履物が汚れてしまったのですよ?

 ――奴隷のあんたは、舐めて綺麗にするのがせめてもの礼儀っていうものでしょう」


 最後の方は声色すらも変えながら、エウロパは疑問すら許さない程の威圧感でウラノスに命令する。

 ビクリ、と。ウラノスの肩が、怯えるように跳ね上がった。

 緑色の瞳が、只々恐怖に揺れている。


「で、でも……。

 ボク、も――ウッ!?」


 ――ドッ、と。

 鈍い音と共に、固い感触がウラノスの腹に食い込んだ。

 業を煮やしたエウロパが、彼女の腹を蹴りあげたのだ。

 床に這いつくばっていた少女の身体は、蹴りの衝撃を受け止めきる事が出来ずにドサッと横倒しになり、ゴホゴホと咳が止まらなくなってしまう。

 そして、床にうずくまっている彼女を、更に足で蹴って仰向けにしてから。

 エウロパはウラノスの腹を、硬質の素材で出来た靴でギュッと踏みつけた。



「……陛下があまりにも慈悲深いからって、何か勘違いしているのではなくって?

 いい? 貴女は頭の天辺から爪の先まで、そ~んなに汚れ切った、汚らしい家畜なのですよ?

 そんな穢らわしい貴女に、陛下がほんの僅かでも、愛着を持って接しているとでも思って?」


「――――ッ」



 グリグリと鳩尾(みぞおち)にねじ込まれる靴の感触に、ウラノスの喉がヒュウヒュウと苦しげな音を奏でる。

 ――肉体的な苦痛も辛くはあったが、しかし本当に苦しかったのは、そんなとっくに“慣れた”感覚なんかじゃなかった。

 エウロパから浴びせられる容赦のない言葉こそが、本当の意味でウラノスの心を抉っていた。



「陛下が、本気で貴女を愛玩しているとでも? そんな訳がありませんわ!! 陛下が貴女に甘いのは、貴女が陛下の生殺与奪を握っているから!! そうでさえなければ、貴方のような汚らしい家畜を、どこの物好きが相手にするんですの?

 ――あぁ、可哀想な陛下!!

 薄汚い奴隷と、喩え間接的にでも繋がりを持っているだなんて、それだけでも毎秒ごとに耐え難い悍ましさを感じていらっしゃるでしょうに!!

 それなのに、立場も弁えないこの亜人は、何を勘違いしたのか――」


「……な……で……」


「?」


 刺す様に心を抉ってくる、炎民議長の言葉。

 ウラノスは腹に靴を食い込まされたまま、震えるような声で言葉を絞り出した。

 ポタポタと、目元から横に流れた透明な雫が、残酷なくらい豪奢な赤絨毯を湿らせてゆく――。


「それ、以上……言わないで。

 お願い……。なんでも、する、から……。

 それ、以上、は……」


「…………、分かればよろしいのですわ」


 エウロパは、ようやくウラノスの腹から足を退けた。

 そして、その足が下げられる気配は無い。

 10秒程、だろうか。暫しの間、地べたに這うようにして呼吸を整えていたウラノスは、ゆっくりとした動作でエウロパの足元に跪くと、クリームと糸屑まみれの靴を、そっと両手で支えた。

 いつもの天真爛漫な彼女からは想像もつかないくらい、本当の意味で色をなくした無表情で――。



 ――結局は、こういう事なのだ。

 ウラノスは、噛み締めるように心の中で頷いた。



 奴隷階級、風の民。

 彼女は元々、生まれた時にはもう用途が定められていた、こうして権力のある人間に使われる事が“当たり前”だと決められた存在だったのだ。

 彼女は、こういう扱いには慣れている。

 いや、こんな扱いだけじゃない。物心つく前から経験してきた、もっと色々な仕打ちに比べたら、このくらいはまだ全然序の口にも入らないと言えるだろう。

 ――これは、絶対に誰かがやらなくちゃならない役割で、それが回ってきたのがたまたま自分だった。

 ――だからこそ、自分がその役目を果たすのは、きっと意味がある事に違いない。

 彼女は、今までずっとそう信じて生きてきた。



 ――“一番弱くて、だから一番大切な階級”。

 母は、いつも口癖の様にそう言っていた。



 だったら、やっぱり逃げるコトなんか出来ない。

 喩え“彼”がどんなに優しくて、この一ヶ月がどれほど夢の様な時間だったとしても。

 それは決して、今まで生きてきた自分が消えて無くなった事を意味する訳じゃないのだ。

 今まで自分が果たしてきた“義務”に、それでも意味があったと考えるのなら。

 やっぱり自分は、絶対に“そこ”を勘違いなんかしちゃいけない。


 ヌルヌルとした、気持ちの悪いクリームの感触を薄手の手袋越しに感じながら。

 ウラノスは、ただ静かにそうとだけ思っていた――。

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