66. 予知学閥による大雨暴風注意報に端を発する実験日の変更申請と家屋の損壊を防ぐ為に敷設されたあまり重要であったとは思えない防護策及び二人の大魔導による水面下での極めて高度な魔術的攻防
5日目くらいには、こんな事もあった。
その日、予定よりも早く仕事を片付ける事が出来た赤髪の魔法少女・アルは、真也も予定していた実験がキャンセルになった事もあり、おやつ時くらいにはもう三人で最果ての丘の自宅に帰ってきていた。
本来なら自分の仕事が終わったくらいでは帰れないのが魔導研究所の所長という立場であり、この日も本当ならまだ研究所に残っているのが普通ではあったのだが――まあ、予知学閥の総論で、“午後から天候が急激に悪化する兆しあり”なんて言われたのではどうしようも無い。
より詳細を述べるとすると、真也の実験がキャンセルになった直接の原因もこの予測にあったりした。
そんなこんなで半ば避難するかのように自宅へと帰る羽目になった少女は、時間が余ってしまった事もあり、念のため屋敷の危なそうなところを補修しておこうかと、老朽化が進んでいる部分に簡易的な強化魔法を掛けておこうという結論に至ったのだ。
まあ、このお屋敷は下手な城に匹敵するくらい(無駄に)頑丈に出来ているし、予知学閥は“当たったらいいな~”なんてブツブツと、年がら年中大真面目に祈っている連中だったりするし、正直に言えば、少女も半分以上は徒労に終わるだろうな~、などと思ってはいたのだが……。
さて。なにはともあれそんなこんなで、無駄に広いお屋敷の外周を、回れる範囲だけカバーした少女が、ようやく家の中に戻って来た頃。
不運にも彼女は、“あのバカ”の私室的扱いになっている区画から、妙なヒソヒソ声を聞いてしまったのだった。
「ちゅ、ぴちゅ……。
……ん、おいしいです~。
思ったよりも、トロトロしてるんですね~」
「…………」
――何、してるんだろ。
なんだか少々気になった彼女は、なんとなく、もうちょっとだけ耳を澄ましてみる事にした。
「あっ――。なんかタレてきちゃいました。
お兄ちゃん。コレ、どうすればいいんですか?」
「ん? ああ、前に街でアイス食ってたろ?
アレと同じ感じで――って待て待て!! その舐め方はヤバい!!
それだともっと垂れて――」
「………………」
――なに、してるんだろ。
「あんっ。む~、ホッペについちゃいました……」
「――ったく、だから言っただろ。
ちょっと待ってろ、今……」
「あ、大丈夫です~。
このくらいならナメちゃいますから。
ん。やっぱりおいしいです」
「いや、でもな……。
やっぱ、ちゃんと拭いとかないと――」
「…………、………………」
――ナニ、してるんだろ。
少々気になってしまった少女の頭の中では、なにやら色々な憶測と推測が、光速に近い速度でグワングワンと回り始めた。
幼い頃より“天才魔導師”として持て囃されてきた少女である。
只でさえ常人よりも随分とよく出来ている彼女の頭脳は、更にこの瞬間のみ、あの白い青年すらも遥かに上回るほどの猛烈な演算機能を発揮して、僅か数秒の間に三桁近い仮説を立ててはその全てを瞬く間に検証してみせた。
――結論は、“多分、無い”。
そう、まさかなのである。
いくらアイツがバカで常識知らずでどうしようもない変人だからといって、まさか、“ソレ”だけは絶対に無いに違いないのだ。
――うん、無い。常識的に考えて、“ソレ”だけは、絶対に無い。
そう、きっとそうなのだ。だって、アイツだって、常日頃から言っていたじゃないか。
そう、確か――、
“アル。科学者というのはな、常識を破壊する職業の事なんだ。”
「――――っ!!」
――ダッ、と。気がつくと、少女の両脚は恐ろしい速度で地面を蹴っていた。
視界の中をまるで障害物の様に聳える本の山を蹴り飛ばし、本棚の隙間に身を滑り込ませながら、少女の身体は黒い弾丸となって“あのバカ”の声がした方角へと図書館を駆ける。
走行時間は数秒か、あるいは十数秒だったか。
それすらもカウントする余裕の無いままに、少女は“あのバカ”のためにわざわざ拡張してあげた居住領域へとカモシカのように身を躍らせ、呼吸すら整えずに視界を遮るヴェールのような本棚をターンした。
その先で彼女が目撃したのは、二つの人影。
暫く前に、彼女自身が“持っているように”と言付けたハンカチを右手に構えた姿勢のまま、ベッドの端に腰掛けて驚いたようなポカン口でこっちを見ている“あのバカ”と。
その隣に寄り添うように座って、鼻の頭やら口端やらに、ナニヤラ妙にトロリとしたナニかを沢山付着させたまま、その顔を“あのバカ”へと突き出している、某黒髪八重歯な侵略者の姿であった。
「な……ッ!?」
――瞬間、確実に彼女の中でナニかが切れた。
頭の中は真っ白なのか真っ赤なのか、もう色すらわからないくらいにチカチカと明滅して、力が入りすぎた右腕は引きつけを起こしたみたいにガクガクガクガクと痙攣を繰り返す。
怒り故なのか、もしくはソレすらも超えたナニかが原因なのか。
彼女の周りに散乱した古本は、漏れた炎の魔力だけでメラメラと自然発火すらも起こし始めていた。
そんな彼女を見つけたらしい“あのバカ”は、妙にキョトンとした雰囲気のまま、平然と口を開いて――。
「ん? ああ、アル。調度良かった。
良かったら、君も一緒に……」
「ワケないでしょナニしてんのよこの性犯罪者ぁぁああああッッッ!!!!」
よく状況が理解出来ていなかったのか、未だにポカンと首を傾げたままだった彼の端正な顔に、少女はプロボクサーが本気で弟子入りを考えるくらいに凄まじい速さの右ストレートを叩きこんだ。
ドッゴォォォッ!! と、彼女の体重からは想像も出来ないような凄まじい効果音が、強くなり始めた外の風鳴りの音を掻き消すくらいの重低音で図書館の中に響き渡り、彼の身体が交通事故の様にぶっ飛んでベッドごと後ろにひっくり返る。
そのあまりの衝撃に一瞬、確実に白目を剥いた彼が再び意識を取り戻した瞬間に見たのは、まるで幽鬼の様に自分の上にのしかかり、メラメラと地獄の業火を纏った右拳を頭上に振りかぶっている赤い少女の姿であった。
そして、少女は。イヤイヤと首を左右に振っている彼の抗議を完全に黙殺しつつ、そのどんな拷問器具より恐ろしげな拳を、彼の顔面へと思いっきり振り下ろした。
それはもう、反撃どころか反論の余地すら与えぬままに、あのお腹の色に少々問題があると言わざるを得ない少女・プルートですら近づけないほどの剣幕で、殺さないのが不思議なくらいの勢いで殴りに殴りまくったのである
……結論から言えば、この日の出来事は例の予知学閥の予測のせいで帰らなくてはならなくなった彼が、時間があって手持ち無沙汰だったので“ソフトクリーム”を自作してみた、というだけの話であり、また折角なのでプルートに食べさせて感想を聞いていた、というだけの非常に他愛のないモノであったりする。
どうやらこの世界のアイスの主流は、件の“ボゼ味”のアイスよろしくシャーベット系であるらしく、そういえばコーンの上に柔らかめのクリームをとぐろ状に巻くタイプの“ソフトクリーム”は見ていないな~、などと思ってしまった彼が、牛乳? をベースにしてなんとか再現出来ないか、などと思い至ったというのが真相なのであった。
無論、三割くらいは彼の普段の行いにも非が無いとも必ずしも言い切れなくはない気がしないでもないのではあったが……。
今回に限って言えば、彼はあまりにも不運であったとしか言えなかっただろう。
「う……。だ、だから悪かったってば!!
だ、大体、あんたが、紛らわしいコト、言う、から……」
誤解が解けるまでに7回ほど生死の境を彷徨った彼にさんざん平謝りした後、尚もジト目で睨んでくる彼の視線に絶えられなくなった少女が、つい漏らしてしまったのがそんなセリフであった。
青年はようやく傷が塞がり始めた自らの頬を軽くさすってから、しかしまだ明らかに納得がいかない様子で、ヤレヤレと両手の平を上に向けた。
「……オレがナニを言っても聞かずに、一方的に殴りまくりやがったクセにまだそんな言葉が出せるのか。
いやいや、恐れいった。まったく、大した大物だよ。君は。
てか紛らわしいって、君はいったいナニをどう間違えたんだ?」
「…………」
「……何故、そこで黙る」
「………………」
不満気な真也の問いに、少女は複雑な表情のまま、む~っと言い淀んでそっぽを向いていた。
どうやら、完全に黙秘を貫く姿勢でいるらしい。
そんな彼女とは対照的に、今回彼女を修羅へと変貌させる為の一役を担った黒髪八重歯なゴスロリ少女・プルートは、随分とご満悦な様子に見えた。
プルートはムッフッフ~と、明らかに含みのある笑顔を浮かべながら、ニマニマとアルのことを見詰めている。
「…………何よ。その、イヤ~な笑顔は」
「べっつに~、何でもないです~」
プルートは、わざとらしく明後日の方向へと視線を逸らしながら言う。
そして踊るようにクルクルと回りながら、床にアグラをかいて座り込んでいる真也の脚の間に、スッポリと収まった。
「お兄ちゃん、お耳かしてくださいです~」
「ん? どうした?」
少々癇に障るプルートの行動ではあったが、現在絶賛意気消沈中であるアルには具体的にソレを阻止するだけの気力が無い。
それをいいことに、プルートは甘えるようにピットリと真也に寄り添ったまま、耳元にヒソヒソ話でもするように唇を近づけた。
「聞いてください~。
お姉ちゃんは~、実はすーぐ“そういうコト”を考えちゃう、とってもエッチな子だったんですよ~。
ウブなふりして、頭の中ではいっつもそういうコトを妄想してる~、すっごくイヤらしい子だったんです~」
「――――ッ!!」
――ベリッ、と。アルの右手が反射的にプルートをひっぺがし、まるで砲丸投げのような投合フォームで華麗に空中へと放り投げた。
あわや飛距離10メートルを超そうかというその強肩に、真也が驚きに目を見張る中、空中を飛行しているプルート目掛けてアルの右手が構えられ、cenという詠唱と共にプルートを丸呑みに出来る大きさの火球が轟々と燃え盛って宙を駆ける。
ドンッ、と。火球は空中で弾け飛んで、プルートの幼い身体を包み込むようにして盛大に爆散してみせた。
“ああ、今のは狼霊級だな~”、などと、少女の放つ火球を客観的に分析できるようになってしまった真也がここに居る。
「……アル、虐待だぞ」
「アレをガキ扱いするのが間違ってるッ!!」
一応保護者としてボソリとコメントしてみる真也に、行使したての火炎魔法の余韻からか、フーッ、フーッと息を荒げて爆散した虚空を睨み続けていたアル。
――尤も、流石に大魔導を名乗っているだけあって、このちびっ子さんも只者ではないらしい。
どのような手段を使ったのか。並の魔導師の全力にも等しい火炎魔法の直撃を受けた筈の八重歯な幼女は、気が付いた時には真也の脚の間にスッポリと収まって、いつもの無邪気な笑顔でニパッと笑っていたのであった。
――こんなコトもあった。
あれは、いつの事だったのだろうか。
プルートが来てから何日目だったのかは真也自身ももう忘れたが、確か妙に寝心地の良い夜の出来事であったと彼は記憶している。
その日、実験と補講が重なって全身に疲労が蓄積していた彼は、夕飯を食べて風呂に入るなり倒れ込むようにして自分の区画にあるベッドに潜り込んだ。
前日が少々寝不足気味だった事もあり、彼は布団に入るとほぼ同時に、泥酔のような深い微睡みの世界へと落ちて行ったのである。
心地の良い意識の遊離を楽しんでいた時間は数十分だったか、或いは一時間程度は継続していたのか。
顕在意識を休息させていた彼に、ソレを判断する術は無かったが――。
温かい、ぬるま湯に浮かんでいるかのような錯覚を覚えていた彼の意識は、不意に、今自分が感じている温もりと心地よさの中には、どうにも布団の感触とは明らかに違う柔らかさが紛れている事に気が付いたのである。
「…………?」
不思議に思った彼は、自分の身体の真上に乗っているプニプニと心地の良い“ソレ”に手を伸ばし、半ば以上無意識のままに抱き寄せてみた。
――ぬいぐるみ、だろうか?
マシュマロのように柔らかく、弾力のある“ソレ”には、どうやら絹糸のようなモノが沢山くっついているらしく、胸元に寄せるとチクチクとした何かが鼻の頭に当たってくすぐったい。溶けたお菓子のような、嗅いでいるだけで平衡感覚を失いそうなくらい甘ったるい匂いが、逆に麻痺したかのように重い脳髄に覚醒を促してきた。
覚醒直後に特有の、乾燥して眼球と瞼がくっついたかのような錯覚が残る両目を緩やかに開け、彼は自分の真上から暑いくらいに温かすぎる温度を染み込ませてくる“ソレ”が何かを確認してみる事にした。
「――お兄ちゃん。
お兄ちゃん、起きてますですか?」
「…………、………………」
――瞬間。
彼が目撃したのは、地球ではウサギかRPGの妖魔くらいにしかお目に掛かる事の出来ない、ルビーのように真っ赤な瞳であった。
……一体、何のつもりなのだろうか。
黒髪八重歯な少女・プルートは、仰向けになった真也の丁度真上に重なるようにして布団の中に潜り込み、視界いっぱいに顔が映るくらいの至近距離から彼の顔を覗き込んでいたのであった。
「……ちびっ子、ナニをしている?
てか、今が何時だと――」
「しっ。お兄ちゃん、大きなお声出しちゃダメです。
お姉ちゃん、おきちゃいます~」
問いかけた真也の唇に、ピトリと人差し指を置いて続きを封じつつ。
プルートは少し神妙な、どこか縋るような表情で俯いた。
「眠れないんです~……」
プルートは、しゅんと肩を落としながら続ける。
彼女によると、いつもは真也が眠るまで隣に居てくれるから安心出来るのだが、今日は疲れきった真也が自分のベッドに直行してしまった為、寝付く為の切っ掛けを失ってしまったらしい。
それでも今日の真也は少し疲れているコトを知っていた為、なんとか自分で寝ようと努力してはみたらしいのだが……一人でベッドに横になっていると、このお屋敷がなんだかちょっぴり怖く感じてしまって、とうとう居られなくなって来てしまったのだと言う。
「お兄ちゃん、おねがいです~。
今日だけは、いっしょに寝させてくださいです~」
「…………」
事情を話し終えたプルートは、パチンと可愛らしくもウインクなどしながら、聞いただけで糖尿病になりそうなくらい甘ったるい声で懇願してきた。
「…………、戻ってくれ」
「え~? お兄ちゃん、ヒドイです~。
わたし、寂しいんです~。
ヒトリじゃ寝られないんです~」
「いや、戻れ」
……少々冷たくも思える真也の返答ではあったが、しかしこの件について彼を責めるのは少々お門違いだと言えるだろう。
何しろ、彼は“感じた”のだ。
理性か本能かは彼にもよく分からなかったが、このお化け屋敷のような図書館に独りで寝るのが怖いと宣っているこの少女が“魔法光源”の灯りも点けず、あろう事かたった独りでこうしてこの布団に潜り込んできたというその事実に、彼は強烈な違和感を覚えてしまったのである。
――そう。
どう考えてもこのちびっ子さんは、明らかに“ぶって”いる。
わざとらしいくらいに庇護欲をそそる瞳で縋ってくるプルートに、胸の奥にチクリと刺さるモノが全くなかったワケでも無い真也ではあったのだが、ソレと“あの少女”に対するリスクを瞬時に天秤に掛けた彼は、懇切丁寧にお断りする事にした。
「む~……。お兄ちゃん、そんなにお姉ちゃんがイイんですか?」
あまりにも真也の返事がつれなかった為か、プルートは不機嫌そうに柔らかそうな頬を膨らませた。
しかしそれも一瞬で、次の瞬間にはニマ~っと、背筋がゾクリとするくらいに妖艶な笑みをその幼い顔立ちに貼り付けた。
――子供とは、果たしてこんな表情が出来る生き物だったのだろうか。
獲物の首筋を狙うヴァンパイアのようなその瞳と目を合わせていると、真也は、まるで自分がこの幼い少女に手玉に取られているような錯覚すらも覚えてしまう。
「お兄ちゃん……。
いっしょに、寝させてくださいです~。
そ・の・か・わ・り……」
プルートはアメ玉を転がす様な声で言いながら、まるで首筋に吸い付くかのように、そ~っと、その小さな唇を真也の耳元へと近づけた。
「……お兄ちゃんの好きなコト、なんでもしていいですよ?」
囁くような、本当に聞こえるか聞こえないかくらいの声で言うプルート。
真也は再び襲ってきた眠気に目を擦りながら、自らの首筋に埋まっているプルートの頭に、ゆっくりその視線を流した。
「……なんでもって?」
「ムッフッフ~。
お兄ちゃんは~、わたしにナニをしたいんですか~?」
――寝かせてほしい。
それ以外に、今の真也が求めるモノなど何も無い。
そんな真也の内心を知ってか知らずか、プルートは真也の上でなにやらモゾモゾと身体をクネらせていたかと思うと、不意に彼の首筋に埋めていた顔を上げた。
そのまま上体を起こし、掛け布団すらも後ろに追いやって、彼女は真也に馬乗りになるような姿勢で顔を覗き込んでくる。
「……知りたく、ないですか?
この世界の子が、お兄ちゃんの世界の子と、同じなのか、とか……」
恥じらうように、或いは少しだけ照れるようにして、プルートは言う。
天蓋のステンドグラスから差し込む、この世界に特有の真紅の月光のせいだろうか。
プルートの頬はほんのりと薄紅色に色付いて、ルビーのような赤い瞳すらも、いつもよりも更に澄んだ光を湛えているように見えた。
恐らくはアルが選んだのだろう、ファンタジー世界のお姫様が着ていそうな、フワフワとしたフリルが沢山ついた桃色の寝間着。
さっきモゾモゾとやっていた時にナニかしたのか。彼女の上着の前ボタンは全て綺麗に外されており、カーテンの隙間の様に縦に開いたその奥からは、月明かりに染まった白い肌が艶やかに覗いている。
就寝時の為か、彼女が腰まで届く長い黒髪を解いているという事もあり、この時の真也には、この幼い少女が、自分の知っているちびっ子とはまるで別人のようにすら思えてしまった。
「――――ッ!!」
――つい、彼は呼吸を止めてしまった。
否。少しでも呼気を零してしまったら、自分の精神がどうなってしまうのか、全く予想がつかないところまで彼は一瞬にして追い込まれてしまったのだ。
爆発しそうなくらいにドッドッドッドッと早鐘を打つ心臓に、情けないくらいに大量の汗をダラダラと垂れ流す手の平。
普段彼が前面に押し出している“理性”などとはまるで別の、生物としての根本に組み込まれたプログラムが、疲労しきっていた筈の彼の思考を一瞬にして白く塗り潰していく。
……だが、それは。
決して彼が、このつるぺたでお子様で且つ完全に異生物に当たる少女に欲情していた、などという事象を示唆するワケでは無い。
「………………」
パジャマの前半分をはだけて、未だ全くと断言しても良い程に起伏の見られない胸元を露出しているプルートの、更に向こう。
本棚の影が月明かりを遮る、一際深い暗がりの奥から、なにやら白い腕のようなモノがニュニュニュ~~~っと伸びているのが原因なのであった。
腕は単独では無い。右と左、合わせて一対あり、その先端にくっついた二つの手には、どうやら太めのロープのようなモノが握られているらしかった。
――パシーンッ、パシーンッ、と。
まるで乗馬用のムチの様に軽快な音を響かせながら、ロープは二つの手の間で張り詰めたり緩んだりを繰り返している。
そして、やがて。プルートがそっと目を閉じ、その小さくも可愛らしい唇をチョコンと突き出して、ゆっくりと顔を近付けてきた頃。
闇の底から伸びる謎の腕は、とうとうそのロープをヒュンヒュンヒュンヒュンと振り回して、先端の輪っかのようなモノをプルートの胴体へと引っ掛けたのだった。
――プルートが、消えた。
ぶっといロープが彼女の胴体に巻き付いたと思った時には、もう既に全てが終わった後だったのだ。幼い少女の小さな身体に食い込んだロープは、目を閉じて唇を突き出したままになっている彼女をそのままの姿勢でヒュンと空中に引っ張りあげ、あれよあれよという間に暗闇の奥へと引きずり込んでいく。
まるで、ホラー映画のワンシーンのような手際の良さであった。
あまりの恐怖にガクガクと震える真也をあざ笑うかのように、暗闇の奥からは哀れな少女の悲鳴のような叫び声が響いてくる。
「な、なにするですかお姉ちゃん!!
やめてくださいです~!!
ヒトリは怖いです~!!」
「あんたも十分怖いから大丈夫。
大体ね、こっちもいい加減あんたの本性分かってんのよ!!」
「……む~、ひどいですー。
お姉ちゃん、わたしみたいなちっちゃな子をカンキンするですか?
ぶっちゃけ地獄に落とされても文句言えないレベルのど外道ですー」
「感知結界20個外して偽装陣まで仕掛けた挙句、夜中に男のベッドでパジャマはだけてるヤツをガキとはいわないッ!!
いいから来るの!! 速くッ!!!!」
そんな会話を交わしながら、ズルズルと引きずられるように遠ざかっていく少女たちの声。
……なるほど。どうやら裏では、真也などには及びもつかないくらいハイレベルな魔術的攻防が繰り広げられていたらしい。
まあ少々気にならない事も無いが、真也にとって魔術は完全に専門外ではあるし、またアルの感知結界やら何やらを分析できるくらい魔術の実力が上がっているワケでも無いし、自分が気にしても仕方のないコトなのだろう、などと彼はあまり深く考えない事にした。
まあ、何にせよ。
取り敢えずは、これで――、
「シン。あんたには、あとで話があるから」
……済むわけが、なかった。
まあ、兎にも角にもそのような経緯があり、苦労が全く無いと言えば嘘になってしまうだろうが、しかし特筆するほど耐え難い要素は今のところまだ見つかってはいない。
プルートの性格に極々些細な問題があったり、或いはアルの機嫌に更に極些細な問題が起こったりしている以外は、特にこれといった蟠りも無く、三人での生活はそれなりに上手く回っていると言えるのではないだろうか。
一週間前の大規模な襲撃事件を最後として、地の国の連中どころか他の守護魔や召喚主が攻め込んでくるワケでも無く、真也は流血が絶えないながらも比較的安寧な異世界ライフを甘受し続けていたのであった。
――そして、だからこそ。
この時の彼は、そんな何気ない日常の裏で“あんな事件”が発生しつつあったなどと、全く知るよしも無かったのである……。