63. 異なる技術基盤の上に成り立った入浴器具を使用するという前提に立った上での異世界に於ける小児の一般的な自立的入浴可能年齢に対する比較的考察及び就寝時に適すると判断された子守唄代わりの時間外講義
~~トロール、雄叫ぶ~~
本日夕方頃、王都郊外・ナタリーの農村地帯にて、発見された“ヴル”が拳を振り上げながら叫び声を上げているのが確認された。
早朝から監視を続けていた騎士によると、午前中の間ピクリとも動かずに顔から謎の液体を流し続けていたヴルは、日が傾き始めた頃から徐々に身体を痙攣させたり嗚咽を強めたり祈る様に手を組んでは太陽を拝んだりといった異常行動が目立ち始め、太陽が沈んだ瞬間に、とうとう拳を天高く突き上げてヴォ~!! ヴォ~!! という奇声を発し始めたのだという。
居合わせた専門家によると、本来夜行性である筈のヴルが太陽を直視するというのは極めて稀な事であり、視覚系に異常をきたす疾患を患っている可能性もあるとして注意を呼びかけている。
魔導研究所の方では液体の鑑定結果がまだ出ていないとの事であり、真相の究明が急がれるところである。
「いや~、おでれ~ただ~。王都゛の方がらでっげ~音゛さしてっからちぃと見でみだらよぉ、ムッギムギの巨人さ壁がら頭だしででノッソノッソノッソノッソ歩いでんの!! “ぶる~”はヴォ~ヴォ~言っでズンダカズンダカ踊ってっし、ムッギムギは背中がら火ぃ噴きながらバッサバッサバッサバッサやってっし、いや~、おったまげただ~。どころで姉ちゃんもムッギムギだけんど、オメエさんあれの母親かなんがけ?」
などと、土地の所有者の男性は相変わらず意味の分からない供述を繰り返しており、“ヴル”から何らかの病原菌が感染している可能性も有るとして我々は騎士団に隔離を要請している。
付近の住民によると、ヴルは完全に太陽が沈んだ後、輝きはじめた月をまるで創世の大魔導・ユミル様にでも会ったかの様な目で拝み始め、劈く様な大声でわんわんと泣き始めたのだという。また、その後は奇声を発しながら踊る様に何度もグルグルと回転し、まるでスキップするかの様な動きで果ての無い平原方面に向けて去って行ったとの事であり、不気味な事件ながらも当面の危機は去ったものとして付近の警戒レベルは現在では僅かに下げられているらしい。
余談だが、大型魔獣との意思疎通が出来る先天魔術を持つという少年の話によると、ヴルが漏らしていたヴォー!! ヴォー!!という雄叫びの意味は「自由だ……。自由だァァァァァァァ!!!! ありがとうございますありがとうございます明日からはもう真面目に生きますほんとスンマセンでした姐さん」になるという。
〈シルバー・タイムス夕刊より〉
―――――
三人が屋敷に辿り着いたのは、そろそろ日付が変わろうかという真夜中の事であった。
時間的に考えれば地球の常識的にもこの世界の常識的にも良い子はとっくに寝ていなくてはならない頃合いではあるのだが、異国のお子様を教育する“特使”とやらに任命された筈の青年と少女が、いきなりこんな保護者失格級の大失態をやらかしてしまっているのにも実は極々些細な理由があったりもする。
――話は審問会が終わった直後に遡る。
国王陛下の上手な執り成しにより、良くも悪くも“死の国の大魔導の監視”という役割を担う事によって減給や罰金、そして謹慎といったいつもの処分を免れる事が出来た真也とアルは、帰途に着く前にプルートを連れて正門前商店街をぶらついていた。
新しく増えた住人の生活用品を買い漁る為である。
一応のところキャパシティと本と用途不明な魔術雑貨だけは売るほどある彼女のお屋敷ではあるのだが、流石に女の子1名が追加となると色々と入用になるモノもあるかもしれず、帰る前に適当に買っていった方が無難だろうという方向で話が纏まったのであった。
そんなこんなで、先ずは適当に着替えや寝間着から買おうかと手近な衣料店に向かった青年と少女と幼女の三人組。いつもの様に行く先々で客が脱兎の如く逃げ出したり某黒髪の幼女が「お洋服えらんでくださいです~」と白衣の青年をさり気なく下着売り場に連行しようとして赤髪の少女にドツカれたり、或いはそんな彼女達の一部の下着の必要性に対して極些細な疑問を提示してしまった白い青年がどんな格闘技の試合でも間違い無くゴングが鳴るレベルの猛ラッシュによって地に倒れ伏したりといった大変賑やかな買い物風景が見られたりしたのではあるが、それは、まあ、それほど長く続かったのであまり重要な事では無いだろう。
要点は、一つ。二人の少女が適当に着替えや寝間着といった衣類を見繕って店を出てきた頃、外でポーションを飲みながら待っていた白い青年が、バッタリと、見覚えのある男に出くわしていたという事である。
ラフな印象を受ける白シャツに黒の長ズボンを穿いたその男は、真也には昼間に実験に協力してくれたとある酒場の店主に見えた。
店主の男は、何故か、真也を見るなり一瞬だけギョッとして目を見開いた様にも見えたのだが――しかし、所々血痕が付着した真也の白衣と、そして店から出てきたゴスロリワンピースな女の子が無事である事を確認するなり、どこかホッとした様な穏やかな表情になった。
「……旦那、少し飲んで行きませんか?」
軽く懐を確かめた男は、そう言って目の前にあった“ポーションバー・マーニ”の看板を指さしたのであった。
マーニは、地球で言うところのカフェバーの様な形態の飲食店であった。
“ポーション”をメインとした嗜好飲料やカクテルの様なアルコール飲料、そして簡単な軽食や夜食まで取り扱っている、喫茶店とバーの中間的な雰囲気を持つオシャレな趣の人気店である。
アルによると、味の割には安価な事から幅広い層の住民に人気を博している店であり、かく言う彼女もここの新作ケーキとやらを一度食べてみたいと思っていたらしい。
……とは言っても、始めはアルもあまりノリ気では無い様子であった。
当然である。何しろ彼女と店主の男は全く面識が無いわけであるからして、そんな人間から意味不明な誘いを掛けられてホイホイ着いて行く様な人間は、お人好しがどうという次元以前に最早危機管理能力に問題があると言わざるを得まい。
――彼女だけでは無い。
店主の男とあまり深い関係を持った覚えが無かった真也も、いきなり食事に誘われては、流石に無警戒とまではいかなかったらしい。
店主の男が「今日は奢りにしときますよ」と甘言を宣ったり、或いは某黒髪八重歯な幼女が“新作ケーキ”という言葉に目を輝かせたりしてさえいなければ、恐らくは丁重にお断りしていたに違いないのである。
「……別れた妻が居ましてね。
まあ、私が臆病だったのが悪いんですが……」
シックな印象を受けるカウンター席に着き、青ポーションベースのカクテルを注文した店主の男が神妙な雰囲気で言った第一声がそれだった。
……尤も、今回に限って言えば相手が悪い。
店主とは初対面のアルや、まだまだお子様なプルート、そしてそもそも他人の事情になんか大して興味を抱けない性質の真也がいきなりそんな個人語りをされても熱心に耳を傾けるワケも無く、折角奢ってくれると言うのだから遠慮は要らないとばかりに、彼らはマウマウ鳥のソテーやらモニ肉の野菜巻やらオススメケーキ三種盛りやらと好き勝手な注文をする事に夢中になっていた。
唯一幸いだったのは、当の店主の男がすっかりハードボイルドモードに突入しており、且つあまりにも速攻で出てきたカクテルのグラスをカラカラと鳴らしながらソレに視線を落としていたという事だろうか。
とにかくとして、店主の男は聞き手の反応などまるで知る由もないままに、なにやら長々と独白を続けていたのであった。
「……いえ、大した事情なんかありません。
初めは妻の為にって始めた店の筈だったんですがね。
バカな男が、いつの間にか妻より店を守る事に必死になってたってだけの、本当に大した事の無い話です」
「思えば、いい機会だったのかもしれませんね。
……まったく、私にはもうあの店しか無かったってのに、景気よく火なんか着けてくれまして。はは。今じゃもう、かえって清々した気分ですよ」
――どうやら、料理が来たらしい。
ポーションをコクコクと飲んでいた青年と少女と幼女の三人組は、静かにフォークやらナイフやらスプーンやらを取り上げると、味の予想やら食べ方やら素材の正体などについてヤンヤヤンヤと会話を交わしつつ、パクパクと摂取に取り掛かっていた。
店主の話を聞いている気配は無い。
「ああ、金なら心配しないで下さい。
奇特な客が居ましてね。燃え残りの安酒を引っ張り出したかと思えば、そいつを“30万フェオ”で買って行きやがったんです」
「何でも私は、今日からはナニをしてもツキにツキまくるとかって言われましてね。この金は、後の為の投資だとかって言いやがるんですよ。
……ま、酔っぱらいの戯言だとは思うんですがね。でも、どうせあぶく銭なら、景気よく使ってやった方が気楽ってモンでしょう。
何より、こんな大金持ってるなんて、臆病な私にゃ耐えられません」
――“これ、スゴくおいしいですよ? お兄ちゃんも、ちょっと食べてみてくださいです~”。
幼女がすくっと立ち上がり、そっと青年の膝の上に跨りながら、甘えたような声でスプーンを突き出す。
折角なので戴こうか、などと思ったのか、青年がゆっくりと口を開くと、“こら!! 食事中は座っておとなしくするの!!”などと怒鳴った少女が幼女の首根っこを捕まえて席に連れ戻した。
幼女の頬がプクッと膨れ、少女の食器が不機嫌そうに音を立てる。
……繰り返すが、店主の話を聞く者は居ない。
「本音を言うとね、少しホッとしてるんです。
旦那が居てくれなきゃ、私は今頃、本当にどうしようもない所まで落ちてたかもしれません。
……実は私にも、その子くらいの息子が居ましてね。
まったく、最低な事をしてしまう所でしたよ」
「その点、旦那。アンタは立派だ。
赤の他人の子供を、自分がそんなになるまで守り抜くなんて、中々出来る事じゃあ無い。
――お陰で、思い出したんですよ。
とっくの昔に忘れてた、何か大切な――」
――店主の言葉は、ドッ、ガチャガチャ、という、ナニかが弾ける音と割れる音によって遮られた。
不思議に思った店主が顔を上げると、オシャレなカウンター席は何故か途中から陥没する様に割れており、いつの間にやら来ていた料理が店の床に食器ごと散乱している。
その惨状を挟んで、黒髪の幼女は小悪魔の様な笑顔でなにやら誰かをからかう様な事を口走っており、赤髪の少女はナニかを否定しつつ白い青年に指を突き付けていた。
少女の手に収まったフォークが、何故かトロトロと溶け出している。
――瞬間、店内に響き渡った客の悲鳴。
どうやら、4人組の為に働いていたステルス効果が、今の爆音でとうとう切れてしまったらしい。
彼らが誰なのかを知ってしまったらしい客達は、殆どがその場に現金を置き、脱兎の如く店から逃げ出して行ってしまった。
「店主」
ため息を吐く様な声が聞こえた。
店主の男が目を向けると、ポーションを飲みながら肩を竦めて座っていた白い青年が、バーテンからなにやらナニかの見積り表らしきモノを受け取っている。
「さっきの言葉に、間違いは無いな?」
―――――
バカ高い業務用のカウンターをキャッシュで立替えてもらい、心置き無く食事を終える事が出来た真也は、満腹の腹をさすりながら“ポーションバー・マーニ”を出た。
暖房の効いた店内に居たからか、冬場の夜気が食後の身体に心地良く染み渡る。
ちびっ子関連の荷物は当たり前の様に全て持たされてしまっているのだが……そんな事があまり気にならなくなるくらい、金の心配をしなくて良い外食というのは、彼にとってなんとも心休まるモノであった。
……いやはや、やはり食事というのはこうでなくてはいけない。
間違っても、値段不明の高級料理店に特攻し、祈りながら食物を胃に突っ込む行為を指すのでは無いのである。
ちなみに、店内でもなにやら騒がしく揉めていたらしい二人の大怪獣は、今ではお互い無言のままに真也の後ろに付いてきている。より具体的に述べると、某真紅の少女はなにやら不満気な視線で真也とちびっ子を交互に睨んでおり、黒髪のちびっ子はその様子を悪戯っ子の様な視線でニマニマと見ていたりするのだが、それは、まあ。具体的な破壊活動に出ない限りは、そこまで重要な事でも無いのであまり気にする必要は無いだろう。
審問会からこっち、妙に不機嫌そうに突っかかって来るアルが気になっている真也だったりもするのだが……。
なんとなくソレを指摘した時のアル曰く、
「べ、別に!! だって、あたしはあんたの上司で、このガキンチョを育てなきゃなんない特使なのよ?
部下が性犯罪にでも走って、悪い影響でも受けたら大変じゃない!!」
――との事らしい。
色々と言わなくてはならない事がありそうな気がした真也ではあったが、下手に詮索すると先刻のカウンター破損よろしく無駄に被害が拡大しそうな気がしないでも無いのでこれも今はスルーする事にする。
これからの日常生活に極些細な不安を覚えたりもするのではあるが……いや、まあ。逆に言えば、それはある意味その程度の事なのであった。
店主の男は、既に隣には居ない。
どうやらさっきの言葉には本当に虚飾が無かったらしく、少々軽くなった懐を擦りながらため息を吐いていた彼は、しかし同時にどこかホッとした様な表情を浮かべてもいた。
よって別段、これは彼がカウンターを弁償させられた事に怒って帰っただとか、そんな突発的な理由によるモノでは無い。
詳細を述べると、マーニを出た時に見かけた1人の女性と、その隣に連れられた1人の少年を見ながら、
「レイ……? レイ!!」
などという謎の呟きを残して駆け寄って行ったというのが真相である。
勿論、朝日 真也という人間は、彼の事情になんか興味も関心も抱かない。
どこかで見覚えのある少年を抱き締めた店主の男が、どこか複雑な表情をしながらソレを見ている母親となにやら真剣な雰囲気で話をしている、などという現象が視界の端に入ったとしても、別段その内容にまで意識を向けようなどと思える人間性の持ち主では無い。
強いて言うのなら、男が“心を入れ替えて、一からやり直したい”と言ったりとか、母親が“店が燃えてしまったと聞いて、心配して探していた”と言ったりだとか、或いはその様子を目を丸くしながら見ている少年の笑顔だとか、そんな、極々断片的な情報がなんとなく感覚器官を通じて入って来たというだけの話である。
よって、この時に彼らと交わされたやり取りは、彼にとって別に特筆すべきモノでも無い。
――少年は親しげに声を掛けてきたが、母親には相変わらず蛇蝎の如く嫌われた。
――店主の男は涙顔で、何故か真也の手を取って感謝してきた。
――レイ少年がプルートを見て顔を赤くしたり、アルの顔を見て悲鳴を上げたりしていた。
その程度の、本当に何でもなく、そして理由もない日常風景でしか無い。
ただ、一つだけ。
「旦那、店が直ったら来て下さいや」と言う店主の男に、真也は“世の中には、一つ貸して骨までしゃぶるのがやり口の爺さんが居るから気をつけろ”なんて、少し皮肉で自嘲気味な忠告を残しておいたりした。
―――――
さて。兎にも角にもその様な経緯があり、今が夜中であるとはいえ、彼らに残された仕事など後はもう風呂に入って寝るくらいなモノであるという現状がここにあったりする。
本の山が、お化け屋敷の様に見えて怖いのか。
屋敷のあちこちを妙にソワソワした様子で見回していたプルートを居住領域にまで連行し、ダイニングテーブルに座って少し休憩していた真也(プルートの荷物を整理しようとしたところ、袋を開けた瞬間に少女の拳を貰った為にやる事が無くなった)。
妙に手持ち無沙汰な彼がシャワーや浴槽を造っているアルへと視線をやると、不意に、彼女を見詰めるもう一つの赤い瞳の存在に気が付いた。
――プルートである。
黒髪八重歯な少女は、テキパキと呪文を詠唱して天井からニョキニョキとシャワーを伸ばしている赤髪の大魔導さんの仕事を見詰めつつ、何かに思い至ったかの様にニパッと笑い掛けてきた。
大粒のルビーの様な赤い瞳が、イタズラな色を湛えながら真也を捉える。
「お兄ちゃん」
「? どうしたんだ?」
真也の問いに、プルートはどこか含みのある笑みを返した。
無邪気な、内緒話でもする様な仕草でパチンとウインクなどしつつ、その目をチラッとシャワーの方に向ける。
「シャワー、いっしょに浴びませんか?」
「は?」
――瞬間、真也の思考が確実に一周した。
“国外追放された挙句に殺されかけ、ついには敵国に幽閉されてしまった女の子”。
そんなしんみりしたバックボーンは、一体どこに行ってしまったというのだろうか。
ゴスロリワンピースで八重歯な少女は、妙に甘ったるい声でそんな事を言いつつ、ピトリと真也の腕にしがみついた。
「おねがいです~。
わたし、お兄ちゃんといっしょじゃなきゃダメなんです~」
「……いや、ダメって事は無いだろ。
風呂なんか独りでも――って、そうか」
丁重にお断りしようか、などと思ったところで、真也はふと彼女の言わんとする事に思い至った。
――そう。彼女・プルートは、見たところまだ小学校低~中学年くらいのお子様なのである。
子供にとって、独りで風呂に入るのは確かに一大事だと言えるだろう。
勿論、17歳で独身物理学者の真也は、一般的な子供の成長過程になどあまり明るくは無い。ましてや地球では無いこの世界の子供が、一体いつ頃から独りで風呂に入るのが普通なのか、などという、ファミリーな情報など言うまでも無く知らない。
強いて言うのなら、真也個人の経験からすれば、確か5~6歳くらいの時にはもう独りで風呂に入っていた様な記憶もあるのだが――しかしこの世界のシャワーは魔力式の為、地球のソレよりも少々使用法が複雑なようではあるし、特にプルートの髪は少々長めで洗いにくそうな事もあり、この子がまだ独りで風呂に入れないとしても、それはそこまで無理のある話であるようには思えなかった。
ならば確かに、この子を育てる為の“特使”とやらに任命されてしまった以上、この子の身体を入浴時にケアするのは、まあ国王陛下直々に仰せつかった“任務”であると言い換える事も出来るだろう。
真也は、極めて客観的にそう結論づけた。
「仕方無いな、それじゃ……」
――瞬間。
ゾクリ、とした、壮絶な悪寒が彼の背筋を貫いた。
それはまるで、絶対に選んではいけない選択肢を間違って選んでしまったかの様な、凄まじい怖気。医療ミスに気付いた医者が覚える危機感がこんなモノなのでは無いか、などと、真也は漠然と連想した。
――いや、断じてそんなに生易しいモノなどでは無いだろう。
これは、そう。アレである。思い出されるのは、以前、アルによってこの世界に召喚された翌日に交わされた“あの”やり取り。武の国のお姫様に出会う直前に感じた、何者かに命を握られているという事実を認識した者のみが感じ得る、あまりにも確実な死の恐怖である。
異常な程にドッドッドッドッと早鐘を打つ心臓。
冷凍庫にでも突っ込まれたかの様な異常な寒気に鳥肌が立つが努めて理性で押し殺し、真也は、ゆっくりと、本能が訴える危機の方角へと首を回した。
ギギギ……と音が鳴りそうな頚椎を捻った先では、どうやらシャワーを作り終えたらしい某真紅の少女が、静かに目を伏せながら真也の左手に宿る魔法円を指さしている。
「……シン。
ソレをしたら、マジで消すから」
抑揚の無い声で、少女が言う。
あまりの恐怖に膝が震えそうになったが思考から排除しつつ、真也は努めて冷静を装って首を傾げた。
「……? なんでだよ。
だって、風呂に入れないわけには……」
「そ、ありがと。今まで楽しかったわ」
少女の右手にパアッと収束していく魔力を確認し、真也は全力で首を横に振った。
――いや、まあ。流石にコレは、冗談だとは思うのだが……。
彼と彼女の力関係で、彼女があんなにマジな目でこんなコトを言い出すと、やはり真也の立場的にはあまり笑えたモノでも無いのである。
しかもこの少女、けっこう有言実行だったりとかもするのである。
取り敢えず、今のは冗談だったのだと本気で少女に弁明しつつ、同時に彼女のコレも冗談だったのだと何度も自分に言い聞かせつつ、真也は咄嗟にプルートから距離を取った。
「――ったく。お風呂なら、どう考えたってあたしが入れるべきでしょ?
ほら、あんたはさっさと自分のシャワーに行った行った。
プルート、あんたはあたしとこっち。服はそこの籠の中ね」
フンと鼻を鳴らしながら、アルはそんなコトを言ってシッシッと手を振る。
アルに背を押されているプルートが、なにやら随分と不満そうな目でこちらを見てくるのだが――まあアルがこう言っている以上、真也には反論する意味も権利もありはしない。
「分かった。それなら、後は君に任せるが……。
ところで、そのちびっ子の服の事なんだが」
着替えを取りに行く為に一旦自分の区画へと向かいつつ、真也は簡潔に気に掛かっていた疑問点を述べる。
「なんかフリルもボタンも沢山付いてるみたいなんだが、オレ達の服と一緒に舐めさせても大丈夫なのか?」
「う~ん、たぶん大丈夫じゃない?」
少女は、少し考えてから頷いた。
「ほら、前に正装で試した時も問題なかったしさ。
量的にも、3人分くらいなら、十分明日の朝までには舐め終わってると思うよ?」
「そうか、それは助かる。
オレも白衣の血を落としておきたかったしな」
――なるほど、なんとも便利なモノである、と、真也は改めて感心した。
初めて聞いた時には真也も少々戸惑ったが、どうやらこの世界の洗濯機兼乾燥機というモノは、地球のソレに比しても随分と強力で汎用性に富んだモノであるらしい。
生粋の地球人である真也としては、未だにこの少々不気味な慣用表現には慣れないのではあるが――いやはや、ソレを差し引いたとしても、この世界の一般的な衣類の洗浄技術というモノはなんとも素晴らしい――、
「? なんですか?
お兄ちゃん。ナメさせるって、いったい何なんですか?」
「…………、アル?」
――真也は、思考を中断した。
どうやら、知らないところで少女との間には計り知れない齟齬が発生している可能性に思い至ったらしい。
疑問符を浮かべる真也に、アルは「? ナニよ、そんなの――」などと平然と説明を始めようともしたのだが、どうにも聞く勇気が湧かなかったので、この命題の解決はまた後日という事でお願いしておく。
……尤も、どうしても気になってしまったらしい某黒髪のロリっ子は、アルにそっと耳打ちして貰ったりもしているのだが……。
どんどん渋い顔になっていった彼女は、段々となにやらとっても嫌そうな表情なんかを浮かべつつ、最後にはむ~っと眉をハの字に下げて黙ってしまっていた。
真也は、この謎はそっと胸の奥に閉まっておこうと決意した。
「む~……ウワサ以上です~……」
「? ウワサ?」
ケース・スタディを一般化して考える事の危うさについて真也が考察していたりすると、プルートはそんな呟きを零していた。
プルートの言葉を反芻したアル。
疑問符を浮かべる彼女を真っ直ぐに見詰めつつ、プルートは、どこまでもどこまでも無邪気な笑顔でニパッと笑った。
「はい~。銀の国の大魔導さんは~。
趣味の狂った変態女だって――」
「……プルート。あんまり舐めてると、マジ閉め出すから」
「こわいです~。お兄ちゃん、助けてです~」
チロリと八重歯を覗かせつつ、トットットッと真也の方に駆けて来ようとするちびっ子。
……無論、3歩踏み出したところで赤髪の魔女っ子にその首元をムンズと捕まれ、ズルズルと引きずられる羽目になっていた。
「いやです~!! お姉ちゃんコワイです~!!」などと言ってバタバタ暴れるちびっ子を押さえつつ、アルが「ちょっと、シン!! あんたからも何とか言ってよ!!」などと睨みを効かせてくる。
どうやら不干渉は貫けないらしい、と判断した真也は、軽くため息なんかを吐きつつ、静かに何とか言ってやる事にした。
「いいか? ぷ……プル……」
――そこで、彼ははたと首を傾げた。
だが、無理も無い。他人になどあまり興味を抱けない性質であり、同時に物理学に特化した頭脳を形成したこの青年は、基本的にヒトの名前を二音節以上覚える事が出来ないのである。
ソレは勿論、純真無垢な態度で自分に縋ってくる無邪気なちびっ子相手にでも容赦なく適応される法則なワケであって、つまりナニが言いたいのかというと、今日一日これだけ色々なコトがあったにも関わらず、彼は目の前の彼女の名前を呼ぶ事すら出来なかったという事である。
彼がちびっ子の名前すら覚えていないというその事実に、真也とちびっ子の間には思いも掛けず気まずい雰囲気が漂い始めてしまっていた。
気まずそうな空気を醸しているのは、真也だけでは無かった。
アルも、どうやらここに至って彼のその“性質”を思い出してしまったらしい。
プルートから見れば、今までベタベタ甘えていた相手が自分の名前すら覚えていなかった、などという、大変にショックが大きいであろう事実を図らずも突きつけてしまった事に、アルも少なからず心を締め付けられる様な感覚に苛まれていた。
「お兄ちゃん……」
そんな、なんとも言えない重苦しい雰囲気の中。
渦中の少女・プルートは、その小さな身体をゆっくりと起こすと、トコトコと青年の側に近づいて顔を見上げた。
ニパッと、天使の様に眩しい笑顔を浮かべてみせる。
「プルちゃんでもいいですよ?」
「――よし、じゃあプルちゃん。
いいか、こういう時は――」
「却下ッ!! シン!! あんたはそこでコイツの名前100回復唱!!
プルート!! あんたはこっちであたしとお風呂!! 速く!!」
……“プルちゃん”は、何故かモノスゴイ剣幕の少女によって、シャワールームへと連行されて行った。
―――――
長かった一日もこうして終わる。
いつもとは少しだけ違った雰囲気の中、新しく増えたベッドの近くに腰掛けつつ、真也は精神に休息を与えるかの様に静かに息を吐き出した。
天蓋のステンドグラスから差し込む、穏やかな月光に照らされた一角。
今日一日を乗り切ったという事実が、今日一日も生き延びたという充足感が、張り詰めていた彼の緊張の糸をほんの僅かばかり緩めてくれる。
真新しいシーツを被ったベッドの中には、昨日までは顔を合わせた事もなかった幼い少女がスッポリと収まっている。
枕が変わると眠れない性質なのだろうか。
黒髪の少女は少しだけ緊張した面持ちで、顔の下半分を布団の中に埋めながら、そっと真也の顔を見詰めていた。
「お兄ちゃん」
「? どうした?」
「いえ、その……。
おねがい、聞いてくれませんか?」
「? お願い?」
「はいです~」
縋る様な甘い声に、真也は少しだけ苦笑した。
「一緒に寝ろ、って要件なら却下だぞ?
アルに消されかねないからな」
少し先回りした様な返事ではあったが、彼のこの返答には根拠が有った。
布団を含めた生活用品は、一応は商店街で一式買い揃えてある。
だが彼女・プルートはまだまだ小さな女の子なワケであるからして、喩え新しい布団を買ってきてベッドを用意したとしても、こんなお化け屋敷みたいなお屋敷で独りで寝るのは少々気が進まないらしかったのだ。
よって、風呂あがりに当たり前の様に真也のベッドに侵入しようとしたプルートが、「独りが怖いなら付き合ってあげるから!! ほら!!」などと言われつつ強制的にアルのベッドに連行される、などという一幕が見られたりしたのではあったが――。
結論から言うと、真也はコレを却下した。
何しろ真也は、初夜にアルと同衾した経験から、彼女と同じベッドに入った人間がどういう目に会うのかという事実を既に把握している。
よって、こんな子供にまで同じ憂き目を見せるのは憚られたのであった。
勿論、だからといって真也とプルートが同じベッドで寝る事など、某上司で特使で召喚主な少女は決して許可などしなかった、というのも確かなワケであり――。
結局は、“プルートが眠るまで隣に座っている”という条件で、二人の少女はどうにか納得したのであった。
真也の返事を聞いたプルートは、「わかってます~」と、少しだけ残念そうに苦笑した。
「お話、してほしいんです」
どこか遠い景色でも眺める様に、プルートは言う。
尤も、朝日 真也は生粋の物理学者だ。
自分が大して面白い話も出来ないコトを知っている真也は、誇張も虚飾も一切無く、自分は子供に語って聞かせる様な物語を話せない事を告げる。
――だが。
プルートは、まるでそれが本当に大切な事なのだとでも言うかの様に、それでもいいのだと頷いた。
子供に特有の大きな瞳が、自然光の穏やかな灯りの中で儚げに揺れている。
そして、「おとぎ話じゃなくてもいいんです~」と続けた。
「お兄ちゃん、違う世界から来たんですよね?
わたし、ソレがすごく気になるんです。
お兄ちゃんの世界は、どんな所だったんですか?
お兄ちゃんは今まで、どんな風にして過ごしてきたんですか?」
プルートは、まるで夢の登場人物にでも話しかける様な調子で言った。
――異世界の話。
召喚主として異世界人を召喚した筈の彼女は、そんな何でもない筈のコトを、まるで本当に大切な事であるかの様に尋ねてくる。
それは、或いは、彼女はそんな些細な事も話せないまま“彼または彼女”と別れる事になってしまったという意味なのか。
真也は、自分は彼女に同情する必要も、その権利も無い事を知ってはいたが――しかし同時に、彼女が今求めている事くらいなら、自分に出来る範囲の事なのだと納得する事も出来た。
「そうだな……」
少しだけ、頭の中を整理する。
――確かに寝る前の話し手としては、ある意味自分は最高の人選なのかもしれない。
そんな考えに苦笑しながら、彼は皮肉げにその口元を緩ませた。
何しろ、現役大学教授の話とは最強の催眠術である。
講義を開始した瞬間から、彼の声を耳にした学生達がカクカクと、まるで何かに取り憑かれたかの様に首を揺らし始めるというその腕は、異世界に渡った今でも決して衰えたモノでは無い。
「――5分で寝かせてやる」
小さな椅子を静かに引き、真也は口元緩ませる。
異界の月明かりに照らされた、いつもより少しだけ暖かくなった図書館の中。
遥か故郷の記憶を辿りながら、白い青年は、まるで夢でも見ている様に穏やかな気分で語り始めた。
――たまには、こんな夜があってもいいのかもしれない。
懐かしむ様に、或いは微睡む様に。
この新しい住人に語って聞かせよう。
遠い遠いどこかの世界の、よくある数奇な夢物語を――。