56. 少々強行気味な緊急時に於ける異世界の物理定数の連続計測実験及び原生地の異なる2個体間の同一環境下に於ける適応能力及びその手段の差異に端を発する2人の異世界人達による魔術使用能力計測試験
――青年は数字の世界を駆けていた。
白銀の街並みに重なる様にして、無数の数式が浮かんでいる。
酒場の梁や書店の柱、蒼白く輝く石畳からその上を駆ける異形の怪物達に至るまで、その全てに銀白色の数字が重なり、自己主張するかの様に踊っては流れていく。
それは青年にとってあまりにも自己の深い所にまで馴染んだ、視覚化出来る程に確固たるイメージを持った世界の方程式達だった。
星屑の様に瞬く数式は無意識化で演算処理が為され、たった一つの“解”を生み出すべく改変されていく――。
「お兄ちゃん!! 左!! 来てます!!」
少女の声に従い、虚空に浮かぶ方程式の一つに項が追加された。
五感から入る情報を元に仮定された構造が、数値化された状況によって立式され、演算されてゆく。
――左方の路地から迫る5体の魔導兵。目算約7秒。
経路Bに8本の柱を加算して減速後、補正値は22秒と推定。項を確認。左方に民家、後方に強度が減少した石畳、右方に炎上中の古本屋。その裏には護符を敷設済み。
青年が持つたった一つの才能に追従し、半自動的に“解答”が導き出される。
「お兄ちゃん!!」
「問題無い」
切羽詰まった様な少女の声。
青年はただ冷静に、揺れる事すら無く笑みを返し、
「それは、既に計算済みだ!!」
青年の声とその“異変”は同時だった。
左方から追い縋る魔導兵達の前で石畳が凹み、陥没したのだ。
それは無理な膨張によって強度を失ったアダマス鉱が自らの密度を回復しようとひしゃげ、縮み、底なし沼の様に作用して魔導兵達を呑み込んだ結果だった。
――“異変”はそれに留まらない。
古本屋の裏手に貼り付けられた護符が“不死鳥の羽根ペン”に共鳴して発光し、壁の体積を上方へと爆発的に増大させる。
バランスを崩した古本屋は、通りとの接合部を始点にテコの原理で横転し、既に地盤が緩くなっていた石畳へと土砂崩れの様に崩落してゆく。
既に腰まで地面に埋まった標的にそれが避けられる筈も無く、5体の魔導兵は燃え盛る古書を被って炎に包まれた。
「!? また――!?
お兄ちゃん!! これ、何なんですか!?
どうして、こんな――」
「逆だ」
青年の首越しにその光景を見ていた少女が、困惑した様子で問う。
コアラの様に抱きつき、至近距離から鼓膜を叩く少女の声に。
青年は全力疾走で上がる息を押し殺し、一言だけ続けた。
「そうならないワケが無いんだ」
――物理学。
それは、万物全てを司る学問である。
世界に遍く凡百の言語などとは一線を画し、美しい数字で綴られたその方程式は宇宙の最果てでも変わる事無く成立し、神であろうとも逆らえはしない。
故に。物理学者たる青年が視界に踊る方程式を“そうなる”様に綴り直したのなら、その結果として世界は間違いなく“そうなる”様に改変される。
それは未来予知にも似た、この世で最も確かな“絶対”の一つ。
喩え対象が悪鬼であれ羅刹であれ、聖人であれ菩薩であれ、彼の計算式に組み込まれれば、その全てが例外無くそうなってしまう。
――既に確定している結果など、態々確認する必要も無い。
まるでそう断言するかの様に、彼は白銀の建造物が自重で崩壊する断末魔を聞きながら、しかしその一部始終を一切目に映す事すらしなかった。
それは宛ら、運命を司るというノルンの如く。
無数の方程式が流れ行く白銀の街を、白い青年は駆け抜ける――。
―――――
『どうした? 何が起きている?』
「分かりません。
どうやら“標的”に加担している者が居る様で……」
『加担だと――? それがどうした!!
貴様にどれだけの魔導兵を預けたと思っている!?
“標的”には軍隊が付いたとでも言うつもりか!?』
「いえ、お聞きの通り“鐘楼”は鳴らされておりません。
加担しているのは白衣を着た男が独り。
“標的”はその男に抱えられ、未だに無傷のままに逃亡中です」
『馬鹿も休み休み言え!!
先刻より通信が途絶えた魔導兵が何十体いると思っている!!
これだけの被害を齎している障害が1人だと!?
説明しろサタン!! その敵とは何者だ!!』
「はい、敵は――」
大通りからは外れた、寂れた商店街に佇む書店の陰。
闇に溶ける様にして物陰に隠れ、“王”と通信を交わす黒い男は困惑していた。
“王”の叱責に対して、では無い。
これだけの魔導兵を率いながら、未だに“標的”にかすり傷一つ付けられない自らの不甲斐なさに対して、でも無い。
差し向けた魔導兵を通して届けられる、“敵”の情報。
その内容があまりにも、馬鹿馬鹿しいくらいに常理を外れていたが故に、である。
――“何が起きているのか”。
実際のところ、その問いに対して解答を欲していたのは男の方である。
魔導兵の視界から次々と頭の中に流れ込んでくる、あまりにも突拍子も無い情報の数々。
それらがあまりにも、信じ難い程に常軌を逸した物であったが故に、男の意識は混濁し、そして凍結されてしまっていた。
それは、信じられない光景だった。
動きは凡庸。戦士や軍人などとは程遠い、平和ボケした一般人としか思えない様な出鱈目な対処。
それでも。ガラス玉の瞳から送られてくる視界に映るその青年は、一個中隊に匹敵する程の異形の軍勢と、間違い無くたった一人で渡り合っていた。
それも。
どう考えてもあり得ない形で――。
あの敵に力は無い。
腕力だけを見れば、そこらの一般人と変わらない程度のものだろう。
――だが。
敵が左手を掲げると山程もある瓦礫は宙に舞い、まるで巨人にでも踏み潰されたかの様に建造物が崩落した。
あの敵に速さは無い。
俊敏さを売りにする獣に比すればあまりに愚鈍。あくまでも人間の域を出ないその足は、如何に死力を尽くして走ろうとも肉体強化を施された魔導兵に太刀打ち出来る物では無い。
――だが。
追いかける兵団は時を止められたかの様にあの敵には追いつけず、敵は手を足元に振りかざしただけで5メートルはある屋敷の上へと“飛翔”した。
あの敵は魔導師ですら無い。
敵が時折行使する魔術には戦霊級ほどの魔力も含まれてはおらず、その威力は、下手をすればそこいらの子供にすら劣りかねないという酷いもの。
――だが。
敵が手を翳した先では屋敷を安々と吹き飛ばす程の巨大火球が生まれ、十を超える魔導兵が瞬く間に炎の海へと消え失せた。
この報告を聞いた人間の、果たして何割がまともに取り扱おうか。
そして信じる人間は、そのうちの果たして何割なのだろうか。
これほどの惨状がたった1人の、何の特異性も無い人間によって齎されているなどと、一体どこの常識ならあり得るというのか――。
『敵は、何だ?』
「…………」
黒いフードの男は、一度だけ小さく息を呑み。
「……敵は、“化け物”です」
――戦慄する様に、そう報告した。
―――――
橙赤色の燐光と共に、白銀の建物が崩壊してゆく。
驚きは無い。感慨も無い。違和感も無ければ不思議も無い。
計算された位置を伸ばされ、強度が失われ、そして数式通りのモーメントを加えられた建造物はそれそのものが巨大な鉄鎚となって、眼前に蠢く“項”を塗り潰してゆく。
倒壊の方向から仮定される内部構造。可能性は大小含め38通り。
続けて同一型の建造物を別方向から更に倒壊させ、そのモーメントから内部構造を更に推定。パターン5が最も誤差が少ない。タイプDの建物の内部構造を以下パターン5として立式。計算結果を定数として公式に組み込む。事態を計算し、標的を演算し、試算を並列化して再計算を行う。
左方から追い縋る3体の魔導兵。右方から更に2体を確認。合計5つの“項”を追加し、値を補正して再計算。現在地から約4メートル先の民家の屋根まで“橋”を作成。強度は魔導兵3~4体分と試算。梁の角度を演算し、崩落方向を北方12~20°の域に収める。約5秒後、左右の5体は火の海に落ちるので計算式より除算。前方に待ち伏せる8体の計算に戻る。先刻式に加えた20枚の護符を展開して右前方の建物を分解。崩落させる事で運動を停止させる。避難経路を導出。屋根の上へと移動。
「――――っ!!」
そして、青年は目を見開いた。
――“待ちぶせ”を確認したのだ。
“橋”を上って向かう先。
屋根の上に7体の魔導兵が佇んでいる。
彼は、新たな項としてそれを計算式に追加し、
「――勝てないと思ったか? ちびっ子」
正面に聳える異形の壁を確認したのか、腕の中の少女が息を呑んだのが分かる。
真也は左手で少女を抱えながら、右手で白衣から10枚の護符を取り出し、
「そう思ったのなら覚えておけ。
オレは物理学者。魔導師の逆の生き物だ」
屋根の上に踏み込むと同時に、その全てを足元に貼り付けて言霊を唱えた。
自らを囲む様にしてバラ撒かれた護符が発光し、ミルククラウンの様に変形した屋根が魔導兵と真也の間を分かつ障壁となって視界を遮る。
無論、こんなモノには大した強度は無い。
魔導兵の怪力で殴られればそれこそ飛沫の様に粉砕されてしまう様な、紙くず同然の見せかけの壁。
――そして。
それは、体積を奪われた屋根そのものに対しても同義である。
「お前がそれを“当たり前”と言うのなら、そんな下らない常識は今この場で破壊してやる!!」
魔導兵が凶器を振り下ろし、金属の音を高く打ち鳴らす。
その音と“異変”は同時であった。
真也を囲む円形の領域が、体積を奪われた屋根の一部が真也自身の体重に耐え切れずに陥没したのである。
屋根に穴が空き、標的が建物の中へと落下した事で、魔導兵達は盛大に空振りながら味方同士で斬り合い、同士討ちした。
民家の一階に落下した真也は、そのまま走って玄関から外へと飛び出した。
民家の壁を伸長させ、自分と逆方向に“横転”させながら――。
屋根の上で刃物を食い込ませ、もがいていた魔導兵達は、それだけで真也と反対側の通りへと落とされ、燃え盛る書物に突っ込んで燃え尽きた。
視界に走る方程式が告げた計算結果からそれを読み取った真也は、微かにその口元を緩めた。
――朝日 真也に力は無い。
それこそ、腕力だけならそこらの一般人と変わらない程度だろう。
だが、彼にはこの星の持つ物理法則を加算する術がある。
速さが足りなければ思考を肉体の数倍の速度で走らせ、魔力が足りないのなら自然界に存在する別の力を借り受けて利用する。
力で劣ろうとも、速さが足りずとも、魔術など扱えなくとも、そんな些事は彼にとって何の問題にもなりはしない。
それが現象であるのなら、どんな神秘だろうと、物理学者たる彼はそれを道具の一つへと堕としてしまうのだから――。
まるでそう断言するかの様に。
世界は白い青年の思うがままに計算され、この世界が誇る魔導という名の神秘はその演算の中へと巻き込まれていた。
民家を出た真也は、通りの両端に連なる民家の壁を幾つか崩して通路を潰すと、暗く狭い裏通りを走りぬけ、正門前の大通りへと躍り出た。
瞬間、彼の目の前に現れたのは開けた公園で、先刻実験を行った噴水前広場であった。
彼にとっては、もう随分と見慣れた景色の一つである。
故に、この瞬間。広場を見た真也は、自らの視界に酷い違和感を覚えていた。
――“土”だ。
石畳から防壁、建物に至るまで、その全てが白銀色のアダマス鉱で構成されている筈の王都。
その中にあって、何の冗談か、目の前に広がる聳えるウェディングケーキの様な噴水の前には、ソレを覆い隠して余りある土の山が堆く盛り上がっていたのである。
その隣に深々と空いた、噴水が丸々と埋まってしまいそうな大穴に、真也は人間大に拡大された蟻塚を連想した。
土は相当な量があるのか。広場の半分が赤褐色に塗りつぶされ、まるでそこだけ墓場にでもなってしまった様に昏い印象を与えている。
だが、問題なのはそれだけでは無い。
否。それも十分に過ぎる程に奇妙な光景ではあったものの、今はそんな物事に気を配っている余裕など無かったと言った方が正しいだろうか。
何故なら、山の様に盛られた土塊の目の前には、見覚えのある一つの人影が佇んでいたのだから――。
擦り切れ、薄汚れたボロボロのローブに、表情が伺えない程に深々と被られた真っ黒なフード。
死神を思わせる痩身の男は、まるでその異常の起点となるかの如く、墓地の主の様に土に覆われた広場の中心に立ちはだかっていた。
左手を静かに掲げ、その掌に自らの異形を示す橙赤色の魔法円を輝かせながら――。
「子供を渡せ」
見えない口唇がそう告げる。
不気味なまでに静かで、無機質な、呪う様な不吉さを伴う声だった。
男の声に感情は無く、故に底の見えない湖底を覗き込んでいるかの様に、聞く者の恐怖を容赦無く呼び起こす。
「それは……」
真也は小さく、呼吸を整える様に息を吐いた。
冬季の寒さに冷やされた呼気は瞬く間に空気中で結露して、白煙の様に口元から漏れる。
腕の中で震える少女を抱えたまま、真也はただ、僅かにその口端だけを上げて――。
「あんたが親玉だって解釈で、いいんだよな?」
返答とその動作は同時だった。
真也は右手でホルスターから空気拳銃を抜き放ち、黒いフードを目掛けて引き金を引く。
風船が割れる様な、軽い発砲音は、3度。
銀の銃弾が3発放たれ、見えない螺旋を纏いながら標的に向かって宙を翔ける。
「闇の妖精よ、我が敵を討て」
それに応えるかの様に。
黒い男は静かに、囁く様にそう呟き――。
「――――っ!?」
――そして、真也は驚きに目を見張った。
確かに標的に向かって放たれた筈の3発の弾丸が、突如として目の前に現れた“土の塊”によって阻まれてしまったからである。
奇妙なのは、それだけでは無い。土塊には、顔があった。目も、鼻も、口まであり、どう考えても機能しない筈なのに、全体として確かに人間らしい造形を保っている。
それは凹凸の激しい見た目だけなら土偶の様にも見え、そのくせ造形だけはルネサンス期の彫刻の様に整った、筋肉の付き方までもが完全に再現された人間の模型だった。
だが、彼の驚愕は決して目の前に泥人形が現れた事そのものに対するモノでは無い。
否、それも確かに要因ではあっただろうか、何よりもその泥人形を見た瞬間に脳裏を過ぎった“彼女”の知識によってであった。
知識の奔流が、目の前に佇む土偶の正体を告げる。
――狼霊級土魔法・土塊兵。
先刻、魔導兵に関する知識を引っ張った際に、同時に流れ込んできた物だったのだろうか。
今の真也には、意識してもいないのに、ソレがこの世界の理たる魔術による現象なのだと一目で分かってしまった。
「土魔法――。
守護魔のクセに、魔術だって……?」
故に、真也は驚愕した。
恐らくは自分の火炎魔法の威力と比較し、あまりの格差に唖然として舌を巻いたのだろう。
ため息混じりに漏れた彼の声には、どこか疲れた様な色が滲んでいた。
呆気にとられる真也の白衣に向けて、土塊の兵士はアダマスの石畳を腐食させながら駈けてくる。
少女の知識によると、土塊兵とは土の精霊の力の一部を魔術的に処理した土へと宿す事で、無機物に生命を吹き込む土属性では基本的な神秘の一つ。特に戦闘用の物になると、触れただけで万物を溶解して吸収する力を秘めているのだという。
――つまりは。
あの悍しい土塊に触れられたら最後、人間の皮膚なんか簡単に腐り落ち、アレの一部として見事に輪廻転生を果たしてしまう。
故に真也は少女を地面に下ろし、庇う様にして背後へと押しやった。
ハッキリとした敵愾心を込めた瞳で目前に迫る土の死神を見詰めながら、真也はその左手を振り翳し――。
「悪いな」
ニヤリとした声と共に、消し飛ばしていた。
狼霊級相当の土魔法は、人間など水に落とした角砂糖の様に溶かしてしまうであろう土塊の兵士は、真也の身体に触れようとしたその瞬間、まるで彼の身体を避けたかの様にその土手っ腹に巨大な風穴を空けられていたのだ。
体内に爆薬でも仕込まれた様に弾けた土塊は、肉片を思わせるその破片を四散させ、舞い落ちる。
胴体を貫通された事で人としての形を保っていられなくなったのか、土塊の兵士は瞬く間にただの土へと戻っていった。
遮る物が何一つ無くなった、白い青年と黒い男の距離。
真也の左手に描かれた橙赤色の魔法円だけが、蒼白い陽光の中でその存在を誇る様に輝いた。
「オレも、“常理の外の存在”だ」
静かに、しかしハッキリと断言する。
フードに隠された男の表情は、真也には伺えなかった。
だが、僅かに驚いた様に息を飲み、同時に何かを納得した様な雰囲気を彼は感じた。
「“守護魔”――。
フン。道理で、と言ったところか」
――守護魔。
この世界とは全く異なる理を持つ別世界から召喚される、常理を外れた異邦人。
物理法則が異なるこの世界で生存する為に存在を補正されている彼らは、故に彼らの世界に存在した理でしか傷付けることが出来ない。
即ち、実質的にこの世界の理の粋たる魔術では、“魔力”の存在しなかった世界から召喚された彼らに影響を及ぼす事など出来ないのである。
守護魔を殺すには、守護魔の世界に存在している力を用いて攻撃する以外に無い。
真也と同様に守護魔である男は、それをよく理解しているのだろう。
男はくぐもった声で、しかし確かに笑っていた。
「だが――砕けば死ぬのだろう?」
「…………」
確信めいた声で男は問う。
――無理もあるまい。
何しろ、もしも真也の世界に“斬殺”や“刺殺”、“撲殺”という概念からして存在していなかったのなら、真也はそもそも魔導兵達から逃げる必要すら無かった筈なのだ。
無言を貫く真也に、返答など必要無いとでも言うかの様に。
黒い男の周りには、無数の土塊兵が亡者の様に立ち上がり始めていた。
その全てには、手に手に小石を固めて作った様な石斧やストーンナイフが握られ、良く訓練された軍隊の様に男の前に整列していく。
恐らくは、あれらで物理的に真也を排除する算段なのだろう。
――不公平にも、程があるだろうに。
射程10センチの火炎魔法しか扱えない青年は、熟練した魔導師の様な男の魔術行使に舌打ちしつつ、足元の石畳に無数の紙くずをバラ撒いた。
「解放!!」
「闇の軍勢、我が障壁を排除せよ!!」
――そして、“戦争”が始まった。
比喩では無い。もしもその光景を客観的に見る第三者が居たとしたら、それ以上にこの場を形容するに相応しい名詞を思いつく人間の方が稀だろう。
隊列を組んで迫る兵団を、白銀の槍が排撃する。
土塊の兵士が身体の半分以上を吹き飛ばされ、人間としての形状を保っていられなくなったかの様に、砕け散る。兵団に触れた槍の森はその全体が腐食して、溶ける様にその先端を地に落とした。
迫る第二波が槍の残骸を乗り越えようとして、地に埋まる。
沈んだ同胞を踏み越える様にして進もうとしていた第三波は、途中でその動きを停止し、黒い男の前へと立ちはだかった。白い青年が放った弾丸を身を呈して止める為の盾となる為だ。
盾の半数は白銀の槍にその頭を吹き飛ばされ、土に帰った。
噴水の音を掻き消す様に、2人の魔人は異界の理をもって互いを狙う。
黒い男が言霊を唱えれば白い青年が羽根を振り翳し、その度に黒赤色の兵団と蒼白く輝く槍の軍勢が鎬を削る。
地を覆う土と金属は、宛ら彼らの立ち位置を分かつ境界の様に見えた。
あまりにも対極的な風貌に身を包み、そしてあまりにも対極的な魔術を撃ち合う両者の戦いは、しかしその力に於いて完全に拮抗していた。
「ク――――」
だが。それが互角であればこそ、この場で精神的に追い詰められていたのは白い青年の方であった。
何しろこれだけの騒ぎが起きているというのに、敵襲を告げる“鐘楼”は鳴らず、未だに騎士団や魔術団が出てくる気配は微塵もない。
彼は、男がどうやってこの街に侵入したのかを知らない。
どこか警備が手薄なルートがあったのかもしれないし、もしかしたら何らかの魔術を使って警備の目を誤魔化しているのかもしれないが、そんな現時点では推測するしか無い事柄に意味は無い。
重要な点は、ただ一つ。
目の前に佇むあの黒い男は単体では無く、あの悍しい筋肉のバケモノ達を率いてこの場に立っているという事実である。
一応のところ時間稼ぎの防壁が機能している様ではあったが、それもあと何分持つのかなど分かったものでは無く、いつ背後から挟撃されてもおかしくない立場に今の真也は居る。
――長期戦はマズい。
真也は、なんとしても魔導兵どもが背後から駆けつける前に、短期決戦であの敵を仕留めなくてはならなかったのだ。
故に彼は焦り、背筋には嫌な汗が滴った。
「解放!!」
だからこそ、彼は賭けに出た。
不死鳥の羽根ペンを振り翳し、待機させていた護符を全て用いて、ここに至るまでに小出しにしていた数の10倍近い槍の軍勢を生み出したのである。
前線に居た土塊兵達はその圧倒的な物量に耐え切れず、その前身を蜂の巣の様に穴だらけにされて、霧散した。
――だが、それで終わりである。
地に貼りつけた護符を全て使い切った事によって、真也にはもう打つ手が無くなった。
土塊の軍勢は、既に伸びきった、強度を失った槍の壁なんか紙くずの様に打ち破り、10秒もしない内に真也へと凶悪な鈍器を振り下ろすことだろう。
そう、凡そ10秒後に――。
それだけの時間があれば、否、それだけの時間後ろの少女を守ってくれるのならそれでいい。
真也には、寧ろそれで十分であった。
真也は最後に、白衣のポケットに一枚だけ残った護符を自らの足元に貼り付けた。
それは槍を生み出す為の術式では無く、そもそも攻撃手段ですら無い。
ただ“ある物”を生み出すだけの、酷く簡単な術式である。
「解放!!」
――それは、“ステージ”だ。
断面積3平方メートル程の金属の柱を上方に伸ばすだけの、殺傷力なんか微塵もない、この上なく簡素な変形術式。
無論、それには殺傷力などある筈も無く、無限に生まれる土塊の軍勢を滅ぼせる筈も無く、しかし、代わりに真也からその必要性すらも奪う物であった。
3階の屋根に届く程に伸びきった金属の柱。
その上に持ち上げられた真也は、眼下に広がる土塊の大群を見下ろしながら、その頭上に向けて飛び降りた。
「なに――!?」
黒い男が驚愕の声を上げる。
それは真也の行動を理解出来なかったが故か、或いは理解してしまったが故か。
真也にそれを判断する術は無く、そもそも興味も無い。
彼はただ、無感情に“標的”となった男を上方から見下ろしたまま、鈍く光る銃口を黒いローブへと突きつけた。
――そう。
ステージの高さを利用して魔導兵の大群の頭上を飛び越え、土塊の兵士が防げない、黒い男の上方から――。
それが、彼の狙いであった。
土塊兵も、魔導兵も、突き詰めてしまえば魔術によって動いている人形に過ぎず、即ち指揮者が居て初めてまともに機能する道具であると言う事が出来る。
――即ち。
指揮者であろうあの男さえ仕留めてしまえば、話はそれで終わってしまう。
そして、土を媒体として使用する土魔法では、原則的に空中の敵に攻撃する手段は無い――。
一流の魔導師たる真紅の少女より知識の供給を受けている真也には、この極限状態にあってもそれがハッキリと認識出来ていた。
「闇の妖精!! 我が身を守る盾となれ!!」
真也の狙いを悟ったのか。
黒い男は右手を地面に振り翳し、口早に詠唱を行った。
それだけで男の周りの土が山の様に盛り上がり、真也との間を分かつ盾となって立ちはだかる。
男を覆う様にして生まれたソレは、宛ら土のドームであった。
あまり厚い様にも見えず、広範囲に広がり、しかし空気拳銃の銃弾を防ぐには十分であろうその規模から、真也はそれを土塊兵で十二分に銃弾を防げたという事実を頼りにした、強度よりも遮蔽範囲に特化したスクリーンであると判断する。
そして。
落下という短時間で彼が判断出来たという事実が示唆する様に、それは、彼の計算式によって弾き出された“解答”を逸脱する物では無かった。
空気拳銃からマガジンを外し、放り投げながら、真也は“その言霊”を口にした。
「形状変更!!
口径、30!! 銃身長、122mm!!
シリンダー内圧縮率、三倍化!!」
舞い散る燐光と共に白銀の空気拳銃が変形し、膨張し、大きさを変えてゆく。
それが終わるのを待たずに、彼はホルスターから別のマガジンを取り出し、再装填した。
今や完全に“別物”へと変化しつつある銃口が、蒼い太陽光を反射して鈍く光った。
――それは、アダマス鉱の体積の可変性を逆手に取った“裏技”だった。
予め7通りに解釈出来る様に魔法円を刻み、流し込む魔力量に応じて術式を選択するという階層化霊道の複数常駐化というシステムを利用した奥の手。
銃身の長さから口径、空気圧までを全て詠唱1つで変更してしまうという、この世界の理を用いたいわば“魔法銃”とでも呼ぶべき改良・試作品。
随所にアダマス鉱の変形術式を刻まれた彼の拳銃は、反動が少ない簡素な空気拳銃から、それこそハンドキャノンと呼ばれる程に大威力の大口径拳銃に至るまで自在にその形状を変える事が可能となっていた。
今回真也が選択したモデルは、“トカレフ”。
全拳銃の中でトップクラスの弾丸初速を誇り、無駄とも言える程に貫通力に特化した、マカロフの前身となった小口径拳銃である。
直径僅か7.6mmという狭い領域に、この時のみ3倍に加圧した300気圧の圧縮空気が全て籠められる――!!
「いっけぇぇえええええええええええ!!!!」
無理な体勢で撃ったためか。
引き金を引くと同時、強烈な反動に両肩の関節が悲鳴を上げる。
ミシミシと嫌な音を立てながら、骨がひしゃげて潰れる感覚がハッキリと脳に伝わって来た。
――だが。そんな事は些細な要素だ。
今の真也には、そんな下らない事象など気にするつもりも無ければ興味も無い。
何故なら彼が求めていたのは、ただ、たった1つの実験結果のみだったのだから――。
アダマスの弾丸が、立ちはだかる土塊の壁へと吸い込まれる。
――1秒遅れて。
壁に空けられた小さな穴から響いた男の声が、広場に満ちる噴水の音をかき消した――。




