55. とある個人経営の酒場の店主の協力を得た地の国の誇る魔導兵の耐久性及び思考ルーチン完成レベルを測る為の不死鳥の羽根ペンを用いたアダマス鉱自由変形を応用した可燃性溶液の爆破実験
正門前商店街の雑踏からは少し外れた、寂れた個人経営の店が立ち並ぶ裏通りに佇む小さな酒場。
小洒落た“Bar”などという単語ではなく敢えて“酒場”という単語で形容された様に、粗雑な木製の客席が備えられた狭い店内は、今にも酔っぱらいの鼻歌や笑い声でも聞こえてきそうなくらいに雑多な印象を醸している。
しかしそれも、人気を無くした今となっては静かなものである。
そして、まるでその寂れた店内が醸す廃墟の様な雰囲気が一層の不気味さ演出しているとでも言うかの様に。無数の酒瓶が立ち並ぶカウンターの影に張り付く様にして蹲りながら、その男は震えていた。
男はこの店の店主であった。
薄汚れた白シャツに、シックな印象を受ける黒いエプロンというその服装は、見方によってはウェイターにも料理人にもレジ係にも見えただろう。
そして、それはある意味では当然の事とも言えた。
普段から大して客など入らない上に狭いこの店では、わざわざそんな雑事の為に人など増やさずとも、その全ての役を十二分に一人で熟せるからである。
実際、男は今までずっとそうやってこの店を切り盛りしてきたし、それはこの日も何一つ変わる事の無い日常風景である筈だった。
そう。“あの瞬間”までは――。
結論から言えば、男は自分の身にナニが起きたのか、未だに良く分からなかった。
そしてソレが理解出来ていなかったからこそ、恐怖に慄く彼の脳は、半自動的に今日の出来事を思い返していたのだった。
――この日は、そう。
確か男にとって、特に何の変哲も無い一日だった筈なのだ。
彼はこの日、いつもと同じ様に店を開けて、いつもと同じ様に特に多くも少なくも無い客を捌ききって、それで午後になって、いつもと同じ様に多少空いてきた店内を片付けながら一息吐いていた。
昼間から酒を飲む暇人な常連達を冷やかしながら、何故か入ってきた場違いな子連れの婆さんに茶など出したりもしつつ、極々いつも通りの日常を送っていただけの筈だったのだ。
そう。その筈、だったのに――。
それが狂ったのは、果たしてどの瞬間からだったのか。
一つ、確かに言えるのは。男の日常は、突如として“ソレ”が現れた瞬間に音を立てて崩れ去ってしまったというコトである。
いつどこから侵入してきたのか。店の奥にある酒蔵の方から、まるで影か幽霊の様にヌラリと現れたその“異形”。
腐って弾けた唇に、異常な程に隆起した筋肉、そして思い出すのも悍しい6本の腕を持ったそのバケモノは、恐ろしい6つの凶器を引き摺りながら突然客の居る店の中へと歩み入ってきたのだ。
――瞬間、店内はパニックに陥った。
あまりの恐怖に断末魔の悲鳴を上げる客達に、カラカラと響く食器やグラスが床板を叩く雑音。茶を飲んでいた婆さんが現れたバケモノよりもずっとバケモノみたいな顔で奇声を上げ、その(婆さんの)あまりの悍ましさに子供が失禁して2人の客が失神した。
人間には興味が無かったのか、或いは他に重要な標的でも居たのか。
バケモノは客や店主の男には一切の危害を加えずに店の外へと出ていったのだが……それで店内のパニックが収まるわけも無く、客は金も払わずに蜘蛛の子を散らす様に逃げて行ってしまったのであった。
だが、男にはそれを咎めるつもりなんか無かった。
否、今の彼にはそんな余裕なんかどこにも無かったのである。
何しろ、恐怖に慄いたのは客だけでは無い。
自分の店の奥から、突如として亡霊の如く現れた“バケモノ”。
近頃は敵国民からの襲撃事件が相次いで発生しているという事であるし、恐らくは“アレ”も悪しき敵国の蛮族どもが生み出した悪魔の化身か何かなのだろうが――しかし男にとっては、奴らの正体などどうでも良い事だ。
そんな自分には関係の無いコトなんかどうでもいいし、あんな生き物の用途なんて恐ろし気なモノは聞きたくも無かったからである。
店主の男はただ、ただその存在に酷く怯え、またどうして良いのかも分からずに、見た者の憐れを誘う程に震えていた。
――端的に言うと、男は臆病だった。
思いもしなかった危機に突如として襲われ、その結果として一瞬で意識を漂白されてしまう様な、どこまでも臆病で普通の一市民。
取り分けて不幸でも無能でも脆弱でも無く、かといって取り分けて幸運でも有能でも屈強でも無かった彼には、客の居なくなった店の扉に新調したばかりのアダマス錠を4つも掛け、カウンターをせめてもの盾にし、そしてただ息を殺しながら危機が過ぎ去るのを待つ事しか出来なかったのである。
店の外からは、未だに身の毛もよだつ様な悍しい音が響いていた。
密集した蛆が蠢動する様な粘音に、カラカラと凶器が擦れ合う死の予兆。
先程聞こえた、鐘楼を鳴らしたかの様な金属音は、まさかあの恐ろしい凶器が誰かに向けて使われたというコトなのだろうか?
だとしたら、ソレはなんと不幸な事なのだろう、と男は思う。
あんなバケモノどもに襲われるだけでも絶望的だというのに、それに加えて“アレだけの数”である。
おそらく、その“誰か”はもう生きてはいないに違いない。
鍵を掛ける際に見てしまった、通りを埋め尽くす程の異形の軍勢を思い出し、男はジワリと胃酸が込み上げてくるのを感じた。
「…………」
そして、反面。
男は、自らの胸の内に込み上げてくる感情には黒い安堵が混ざっている事にも気付いていた。
――そう。何しろ、もしそれでその“誰か”が死んでくれたのなら、標的を仕留め終えたアレらは自分に危害を加えずに帰ってくれるかもしれないのである。
無論、アレだけの数だ。まさかその標的が1人や2人というワケも無いのだろうが……しかし、所詮男はしがない酒場の店主である。
アレらが一体どこでどれだけの人数を虐殺するつもりなのかは知らないが、こうして隠れている分には、おそらくその中に自分が含まれる事は無いだろうとも期待する事は出来た。
つまるところ。
その男はどこまでも普通で、どこにでも居る様な、そしてどこまでもどこまでも臆病な一市民だった。
人並みの優しさや良心、正義感を備えてはいるが、しかし自己の安全や安泰を犠牲にしてまでソレを行使しようとは思えない様な、そして同時に自分にそんな力や義務なんか無いという事もとうの昔に悟っている、極々普通で平凡な一般庶民であったのである。
――ドスリ、という音が響いた。
まるで、砂のたっぷり詰まった頭陀袋が空から降ってきた様な音。
腹腔に響くその落下音に、男は反射的にその身を縮こまらせた。
あのバケモノどもが、鈍器でも振り回しているのだろうか?
近くで、遠くで、通りのそこかしこから何か重い物が叩き付けられる様な音が、今にも胃酸を逆流させそうな程に弱り切った男の胃に響く。
その音があまりにも鈍く、そして多かったせいだろうか。
それが“肉が叩き付けられる音”だと理解するのに、男は暫しの時間を要した。
そう。それはまるで、あの肉のバケモノどもが高所から地へと叩き落されたかの様な――。
「…………」
――いや、流石にそれはあり得ないだろう。
男は、小さく首を振った。
もしもこの“肉が叩き付けられる音”があのバケモノどものモノだとしたら、ソレを成している人物は、あんな並の人間の2倍はありそうな体格の連中を礫の如く放り投げている事になる。
そんなコトは、きっと人間に出来る所業ではない。
ならば、おそらくコレは、柔らかく弾力があるが肉では無い、何か肉に似た別のモノ落ちている音なのだろう。
もしかしたら王宮騎士団でも駆けつけて、あのバケモノどもに対抗しているのかもしれないと男は予想する。
肉らしきモノの落下音に時折混じる、ガラスが割れる音や金属の摩擦音から推測するに、どうやらソレはなかなかの激戦となっているらしかった。
「…………」
その音に、今更ながら少しでも戦況を確かめたいという真理が働いたのだろうか。
怯える様に腰を引かせていた男は、カウンターの下に空いた僅かな隙間から、窺い見る様にして狭い店内を覗き込んでいた。
――デモ隊にでも襲われたかの様な惨状だった。
荒れた店内には木製の椅子やテーブルが倒されたままになり、先程まで客が飲み食いしていた酒やつまみが板張りの床に飛び散っている。
あのバケモノどもが現れた時に客が蹴倒していったままなのだから、当然と言えば当然だろう。
金工技術が発達し、建物といえば内装から外壁に至るまで金属で造られるのが一般化しているこの“銀の国”ではあったが、やはり魔法金属の無機質な煌めきは無骨な酒場の内装にはそぐわないというのが男の持論だった。
よって店主の男は、“ウルズの泉”付近の森林から取り寄せたこの“聖木”で態々店の内側を装飾するという演出をしていたのだが……掃除の手間を考えると、どうにも今回ばかりは裏目に出た様である。
まあ、彼の“聖木”には魔除けの効果があるというし、もしかしたらあのバケモノが自分を襲わなかったのは、この店の内装が醸す“聖なるパワー”の賜物ではないのか、などと、藁にも縋りたい程に怯えきった今の男は割と大真面目に信じていたりもするのではあったが……。
男から見て左方向には同じく“聖木”で装飾された壁があり、僅か3~5メートル程度先にある正面の壁には今日のおすすめメニューを書いた掲示板。
その右隣には、客が入店する為の入り口兼出口があり、4箇所に眩いアダマス錠が輝いていた。
「…………?」
ふと。男が何気なくその扉を見た時――、
「誰かいませんか~?」
――ドンドンドン、と。
扉を叩く音と共に、何者かによる誰何の声が聞こえた。
小さな女の子の声だ。
まだ女性特有の張りが無く、そして甲高いその声色は、第二次性徴が始まる前の子供に特有の物に思われる。
――遊びにでも出かけていた子供が、逃げ遅れて外に取り残されてしまったのだろうか?
――ならこの子は今、あのバケモノどもからたった独りで逃げまわっているとでもいうのだろうか?
――あんな、こんな自分の鍛えてもいない身体なんか枯れ木の様にへし折ってしまうであろう、あのバケモノどもから――?
「…………」
男は、そう解釈した。
そして、そう解釈したからこそ。
彼はただ小さく首を振り、無言のまま床に貼り付いた。
――外の通りはうるさい。
あんな、何メートルも離れた店端の扉越しにしか聞こえない、蚊の鳴くような声など、もしも断続的に響くあの雑音のせいで聞き逃してしまったとしても無理は無いだろう。
今、たまたま店の奥に居た自分が、丁度あの子の声なんか聞いていなかったとしても、そんな偶然は誰一人責める権利なんか無いに違いない。
――そう。この音だって、もしかしたら隣の服屋の戸を叩いている音がここまで響いているだけなのかもしれない。
あの声だって、もしかしたら、半狂乱になるまで怯えきった自分の頭が生み出している幻聴なのかもしれない。
悪しき敵国のバケモノが、この“聖なるパワーを秘めた店”から自分を連れ出す為に罠を張っているだけなのかもしれない。
だとしたら、喩え“そんなモノ”の為に返事などせずとも、それは英断でこそあれ決して悪行なんかではないだろう。
「誰かいませんか? 誰かいないですか?
お願いします、お返事して下さいです~」
――ドンドンドン。
――ドンドンドン!!
叩く音は、どんどん大きくなっていく。
それに従い、少女の声もどんどん悲痛なモノへと変わっていく様に思われた。
――もしかしたらあの少女は、あのバケモノどもから必死に必死に逃げた結果、なんとかバケモノどもを引き離して、漸くこの店の前に辿り着いたのかもしれない。
――そして、もしかしたら、あの少女は今再びバケモノどもに追い縋られて、死に物狂いになっているのかもしれない。
――少女の背後には、あの悪魔じみたバケモノどもがゾロゾロと立っていて、今にもその小さな身体を挽肉にしようと凶器を振りかぶっているのかもしれない。
「…………」
“ならば、そんなものは幻聴だ”。
男は、震える拳を床に擦りながら更に首を振る。
――そう。あの扉の前には少女なんか居ないし、こんな声は存在していない。
存在しないモノの為に、この自らを守ってくれる最後の砦たる扉を開けて、あのバケモノどもに襲われるリスクを犯すだなんて、そんなモノは馬鹿のすることだろう。
自分は、あんな見ず知らず子供なんかの為に愚を犯す様な馬鹿では無い――。
「誰か!! 誰か居ないですか!? お返事してください!!
お願いです!! 居たらお返事してください!!
お願いしますです~!!」
切羽詰まったかの様に、少女の悲痛な叫びが鼓膜を叩く。
――うるさい、と男は思った。
ここは子供の来るところじゃないし、男はこんな子供のことなんか知らない。
ここはお前の来るところでも無ければお前のことなんか誰も呼んじゃいないし、自分は返事をするつもりも無ければこの扉を開けるつもりも無くお前を助けるつもりも無い。そこで死なれたら掃除が面倒だだからさっさと消えてくれお前を殺した後アレらがここに入って来たらどうしてくれるつもりなのだ――!!
「…………?」
男の祈りが通じたのかは分からない。
だが、その時。
突然、まるで息絶えてしまったかの様に、少女の声と扉を叩く音はピタリと止まり――。
「お兄ちゃん。ここ、お返事ありません」
「お? 留守か?
しめた!! ついてるじゃないか!!
解放!!」
……そんな男の声が聞こえた瞬間である。
狭い店内には燐光が舞い踊り、錠が4つも付いている筈の扉が、ガッコーンと勢い良く吹き飛んでいた。
(――って、ええええええええええええええええ!!??)
そして、店主の男はフリーズした。
――留守だって言ったのに。
――留守だって言ってたのに、わざわざバカ高いアダマスの錠前を4つも新調して閉じ籠ってたのに。
――あの、あのバケモノが怖いってアレ程言ってたのに。
なのに、なのにナニしちゃってるの“この人”ぉぉおぁぁぁああ!!
男は心の中で叫んだが、瞬間、彼はこの場に於いてそんなモノは大して重要でもなかったコトを知った。
否。それも問題と言えば問題ではあるが、この事実に比すればそんなモノは些末事にすらならない、と言った方が正しいだろうか。
――そう。男がその瞬間に認識した、扉を壊されただとかバケモノだとか、そんなのなんか全てがどうでも良く思えてしまうほどの、その“絶望”。
それは――。
「ん? なんだ、留守かと思ったら人居るじゃないか。
何で返事しなかったんだ?」
「あ、あああ、あああああああああ……!!!!」
青褪めた男は、ガチガチと歯を鳴らしながらも、しかし確かに“その人”の姿を認めていた。
……いや、認めてしまった。
“特 務 教 諭 殿”――。
3週間ほど前に悪しき外国から逃亡してきたと思ったら、その日の内にあの“魔女”を誑かして最果ての丘に寄生してしまったという“白い悪魔”。
王宮は頑として認めないが、あの“塔破壊事件”や“機械式騎馬の悪夢”、そして“像ピカピカ爆破事件”にも彼が関与しているというのは専らの噂である。
そんな恐ろしい悪霊が――。
そんな、目を合わせただけでどんな呪いを齎すか分からない程の怨霊が、今、この“聖なるパワー”に満たされた店内までをも汚染しようとついに我が店にまで――!! って踏むな!! その呪われた足で“聖なるパワー”を生み出す床板を踏むな!! パワーが!! パワーが穢されるぅぅぅううううう!!!!
そんな店主の心の叫びを華麗に無視しつつ、ズカズカと店内に入ってきた青年は、“フム、板張りの酒場か”なんて意味の分からないコトをなんか感心した様に呟きながら、無感情な目で荒れた酒場を観察していた。
「お兄ちゃん!! 外、集まってきてます!!
もう時間が無いです~!!」
不意に、入り口から外の様子を伺っていた黒髪の少女は、何やら酷く慌てた様子でそんなコトを言っていた。
黒いお下げ髪が、ウサギの耳みたいにピョコピョコと跳ねている。
ソレを受けた“白い悪魔”こと特務教諭は、数瞬だけ何かを考える様な仕草を見せた後、“ク……仕方ない。背に腹は代えられないか”などと何やら不吉な呟きを零していた。
――集まってきてる? え? ナニが?
――仕方ないって、今勝手にナニを諦められたのでしょうかこの御方?
顔色を無くす店主の顔を、青年は真っ直ぐに見つめ返した。
「店主!! 酒蔵から1番強い酒持ってきてくれ!! ありったけだ!!」
豹変した様な剣幕で睨み、そして叫ぶ青年。
彼は右手で腰元から金属の塊みたいな物を引き抜くと、ソレをカウンターの背後に並ぶ酒瓶群へと向けた。
「…………?」
そして。疑問符を浮かべる店主の背後で、ガラスが割れる音が響き渡った。
どの様な魔術だったのか。
金属塊から風船が割れる様な音がすると共に、カウンターの酒瓶はハンマーで叩かれたかの様にガチャガチャと割れ、派手な音を立てながら床へと落ちていく。
青年の突然の“凶行”に気付いて、より一層青褪めた店主。
彼は咄嗟に、ほぼ反射的に、“魔術”に巻き込まれない為にカウンターの外へと飛び出していた。
(――って、へ? な、ななななな何で!?
あ、あああああああ!? そ、そうか!! やっぱりそうなのか!?
み、みみ店を開けなかったコトを恨んでるのか!?
どんだけ酒好きだったのこの人!?
というかあのバケモノに気付かれるからお願いします空気読んでぇぇぇえええ!!!!)
尚も謎の魔術を連射し続ける“白い悪魔”。
あまりの恐怖に失禁しかけ、ガクガクと震え続ける店主をよそに、青年は更に金属の塊を向けて酒瓶を叩き割り続ける。
瓶から漏れた酒は滝の様に床へとこぼれ、カウンターの下の隙間から店内へと染み出していた。
ガラスの破片が飛び散り、店主の頬を掠めた。
「わ、わわわ、わかりました、分かりましたから!!
注文は確かに承りました!!
で、ですから!! ですから、どうか!!」
「頼んだぞ、急いでくれ」
宥める様な店主の声を、感情の読めないポーカーフェイスで受けた青年。
彼は軽く溜息を吐きながら、金属の塊を腰元へと戻した。
一先ずは安心した店主がホッと息を漏らす中、青年は軽やかにカウンターを飛び越えて、
「こっちの方が速いな」
……ドンガラガッシャーン、と。
酒の並んだ棚を勢い良く蹴倒した。
(いやぁぁぁぁぁぁああああああ!!
何でぇぇぇええええ!?
何でぇぇぇぇぇええええええ!!??
分かったって言ったのに!!
分かったって言ったのにナニしてるのこの御方!?
あ、あああ、そうか!! わ、分かったぞ!? さ、ささ酒を出すまで許さないってことなんだな!? そうなんだな!?
い、急がなくては!! こ、ここの、この“悪魔”がこれ以上店を荒らす前に酒を出さなくてはぁぁぁぁぁああああああ!!!!)
白い青年は、尚も床に落ちた酒瓶を一つ一つ確かめては割れていない物を手にとって更に叩き割っている。
ガシャガシャというその派手な音を背に聞きながら、男は半狂乱になりながら暗い酒蔵へと駈け出した。
―――――
「こちらが当店で一番強い酒にございます。
まさか、全部一人で飲まれるんで?」
要した時間は1分以内だっただろう。
店主の男は、カートいっぱいにありったけの酒を積み、ガラガラとソレを引きながら店内に戻った。
なるべく愛想良く、揉み手をしながら言う店主の男。
外の様子を伺いつつ、入り口付近の壁の方に大量の落書きみたいなモノを書き込んでいた青年は、振り返りながら不思議そうに首を傾げていた。
「それこそまさかだ。オレは一滴も飲むつもりなんか無い」
「?」
予想外の答えに、店主の男が首を傾げた時である。
“お兄ちゃん、来ましたです~”という声と共に、黒髪八重歯の少女が青年の腰にピッタリと張り付いた。
“来た? ナニが?”
店主の男は心底不思議に思ったが、ソレはわざわざ口に出すまでも無い問いだった様だ。
「…………」
……カラカラズルズルという不気味な音を響かせながら、夥しい数のバケモノ様が、列を成して“ご来店”なさったからである。
(――って、いやぁぁぁぁぁぁああああああ!!
いやぁぁぁぁぁぁぁあああああああああ!!!!
来ちゃイヤって言ったのに!!
イヤだってアレ程言ってたのにぃぃぃぃいいいいい!!!!
ナニ!? なんなのこの御方!? どうしてこんなの連れてきちゃうのねえ!!
ハッ!! そそそ、そうだパワーよ!! “聖木”の不思議パワーよ!! どうか私に力をぉぉぉおおおおおおおお!!!!!!)
心の中で絶叫し、号泣する店主。
そんな彼を尻目に、青年はカートから酒瓶を一本取り上げると、何の躊躇もなくソレを先頭のバケモノの頭目掛けて投げつけた。
派手な音と共に瓶が割れ、中身が降り注いで破片が飛び散る。
そのあからさまな“挑発行為”に、店主の男が蒼白になり、卒倒した。
――だが、バケモノは止まらない。
傷を負うどころか怒った様子も、それどころか意に介した様子すらも無く、ただ黙したままに列を成して店内に入ってくる。
そのあまりにも圧倒的な威圧感に、店主の男が死を覚悟したその瞬間、
「大丈夫だ。心配するな、店主!!」
「?」
腰に張り付く少女と、そして店主の男を守る様に、白い青年が前に出た。
――まさか、守ってくれるとでもいうのだろうか?
――街で悪魔と噂される、この青年が?
――こんな、一度は小さな少女すらも見捨てようとした、こんなに臆病な自分なんかを?
疑問符を飛ばし、しかしどこか期待する様な店主の目を受けながら。
その青年は、橙赤色の光を漏らす左手を振り翳し――。
「燃焼!!」
「…………」
……火炎魔法を行使して、バケモノに火を点けた。
アルコール度数の高い酒を被ったからだろう。
バケモノの身体が一気に燃え上がって、ぐらりと床に崩れ落ちる。
そして床に溢れていた大量の酒に引火して、店内は瞬く間に業火へと包まれた。
(聖木ぅぅぅぅぅううううううううう!!!???)
店主の顎が5cm下がった。
木製だったのが災いしたのだろう。
タップリとアルコール分を吸い込んだ木材は、バケモノの昏倒と共に一気にその発火点を超え、連鎖する様にして店内を炎に包んでいく。
火に弱い性質なのか、倒れた1体は暫し藻掻き苦しんだ後、直ぐにピクリとも動かなくなった。
しかし、敵は多勢である。
アルコールを被っていない後続のバケモノ達は、この程度の炎など恐るるに足らんとでも言うかの様に、6つの凶器で炎をなぎ払いながら店内へと踏み入って来た。
「……チッ、やっぱこうなるよな。
ちびっこ、主人!! こっちだ!!」
轟々と燃え盛る紅蓮の炎。
その綺麗な綺麗な色をガイコツみたいな顔つきで見つめる店主の手を、青年は勢い良く引っ張った。
店主が酒蔵に潜った時にでも確かめていたのか。
白い青年は店主の持ってきたカートを角度を気にしながら店の端へと追いやると、迷うコト無くカウンターの隣に設けられた裏口の戸を開け放って外の通りへと躍り出た。
(――って、ぃぃぃぃぃいいいいいいやぁぁぁぁぁああああああ!!??)
瞬間、店主の男は今度こそ本当に卒倒した。
――バケモノである。
裏口から外に飛び出した彼らを出迎えたのは、まるで待ちぶせでもしていたかの様に裏通りに蠢いている10体近くのバケモノ達だったのだ。
右に3体、正面に4体、左には同じく3体が居て、表から回ってきているのか、左方向からは更にゾロゾロと援軍がやってきている。
そして既に待ち伏せていた10体は、自分達目掛けて条件反射的に恐ろしい凶器を振り被り始めた。
――“死んだ。”
――“コンマ5秒後に間違いなく死んだ。”
店主が蒼白になる。
そして、まるでそんな彼を庇うかの様に。
白い青年は1歩前へと歩み出ると、1枚の羽根を翳し――、
「解放!!」
「――――!?」
右方の3体のバケモノを、瞬く間に吹き飛ばしていた。
派手に飛ばされたバケモノ達は、正面の4体へとぶつかり、姿勢を崩して倒れこむ。
店主の男に認識出来たのは、“槍”。
いつの間にか壁に張り付けてあった5枚の紙切れから、ハリセンボンの様に銀色の刺が飛び出て、3体のバケモノの身体へと突き刺さっていた。
尤も、槍にはそれほどの強度が無かったのか、3体のバケモノを突き刺したと同時にまるで飴細工の様に曲がって折れてしまったが……。
青年は少女と店主の男を強く引き、槍が折れて空いたスペースを突破しようと走り抜けた。
背後から異形の軍勢が迫る。
あの程度の傷など傷のうちにも入らないとでも言うかの様に、人間なら大切な臓器がある筈の場所を穴だらけにされても尚、3体のバケモノ達は傷をウゾウゾと蠢かせながら何事も無かったかの様に立ち上がる。
その様子を横目で見ながら、青年は白い装束から10枚以上の紙切れを取り出し、店の壁に沿って走りながら地面へとばら撒いた。
隊列を組み、猪の様に突っ込んでくる10体の異形。
“ソレら”が紙の上に乗った瞬間。
青年はソレらに向けて、更に羽根を翳して言霊を詠唱した。
地に落とされる様にして貼り付けられた紙切れから、無数の棘が水飛沫の様に飛び出て、10体の異形が裏口を挟んだ更に向こう側へと弾き飛ばされる。
一瞬、安堵した様に息を吐いた店主の男。
「あ、ああ……」
――だが、それだけだった。
やはり強度が足りないのだろう。刺はバケモノを飛ばしただけで安々と捩じ切れ、貫かれた連中は何事も無かったかの様に立ち上がって隊列へと戻る。
それどころか、店の中を通って来たバケモノまでもが正面の援軍に加わろうとしている様だった。
“戦力が違い過ぎる。”
しがない酒場の店主たる男にも一目で分かってしまうくらい、それは圧倒的な、そして絶望的な事実であった。
この青年は金属を変形させる魔装を持っている様だが、そんなちゃちな道具ではどうやったって奴らに致命傷を与えられず、そして奴らは何事も無かったかの様に隊列を組んで迫ってくる。
――否、それも当然だろうか。
あんな、どう見たって人間を壊す為だけに存在している様なバケモノどもを相手に、こんな年若い青年がたった独りで出来る事などたかが知れてる――。
曲がりなりにも歳を重ねた男は、その真理を重々に良く理解していた。
自らの限界という物を十二分に理解しているこの男には、それがどうしようもない“事実”なのだという事が痛い程に理解出来てしまっていた。
――圧倒的な力と数には抗えない。
故に、男は自分がソレらに追われるという事実に絶望する。
バケモノどもは、まるで訓練された軍隊の様に隊列を成しながら、とうに破壊された刺の水飛沫の真上を通過しようとし――、
「――悪いが。そこは通行止めだ」
――ズブリ、と。
まるで底なし沼にでも踏み込んだかの様に、その足を地面に減り込ませていた。
まるで手品の様なその“異常”に、男が驚きに目を見張る。
それは、果たしてどのような理だったのだろうか。
砕かれた刺の上を通過しようとしたバケモノ達は、まるでそこだけ地面がゼリーやカルメ焼きでもなってしまったかの様に、冗談みたいにその身を腰まで沈めてしまっていたのである。
そう。まるでそれは、強固な筈のアダマスの石畳が突然その強度を失ってしまったかの様に――。
先頭が“沈んだ”途端に後続が覆い重なる様にして飲み込まれていくその様は、男に水飴の中に落ちて藻掻く蟻の軍勢を連想させた。
“質量保存の法則”を知らなかった男には、白い青年がナニをしたのかなど知る由も無い。
青年はただ、ただ不敵に笑う。
「……“人造兵士”、か。
まさか人工知能って意味でも無いんだろうが……」
完全に凹んでしまっている石畳に埋まり、藻掻く様にして這い上がろうとしているバケモノ達。
先頭の一体が素早くよじ登ろうとしているその姿を無感情に眺めながら、青年は更に羽根を翳して言霊を唱えた。
店の壁に貼り付けてあった紙が燐光と共に槍を射出し、よじ登ろうとしていたバケモノの腹を貫通する。
しかしバケモノは意に介した様子も無く、傷を抉る事も顧みず刺を捩じ切りながら、寧ろ折れて先端の欠けた刺を命綱にして登ってきた。
――あのバケモノ達は、不死身だとでもいうのだろうか。
あまりの恐怖と、そして絶対に勝てないという絶望に、男は強烈な悪寒と吐き気に襲われた。
「――――?」
――だが、その時。
男は、“彼”の表情に目を見張った。
男と全く同じモノを見ている筈なのに、それに対する“彼”の反応はどこまでも冷淡で、故にどこまでも冷静に映ったのだ。
圧倒的な絶望を前にし、それでも青年は、それに小さく溜息だけを零し、
「発想は面白いが、思考ルーチンが杜撰に過ぎる。
――残念だが、評価は“D”だ」
そんな宣告と共に、青年が再度羽根を振り翳して“言霊”を口にする。
そして、その瞬間。
店主は目の前で起きた信じ難い事態に、完全にその意識を漂白された。
――店が、横転したのだ。
通りに舞い踊った燐光に惹かれる様にして、銀の国の建造物を象徴する白銀の壁が飴細工の様に湾曲して倒れ込む。
男がそれを認識した瞬間には、まるで雨で緩くなった地盤が土砂崩れでも起こすかの様に、或いは砂漠の流砂にでも引き込まれるかの様に、白銀の店が傾いてバケモノ達の頭上からグラリと倒れ込み始めていたのである。
――“異常”はソレに留まらない。
店が傾き始めた瞬間、刺が生えていた位置の壁から、強度を失ったその場所を突き破る様にして、何かがバケモノ達の上から突っ込んで来たのだ。
大量の琥珀色の液体が入った瓶を積載したソレは、男には自分が先刻用意した“店で一番強い酒”を乗せたカートに見えた。
カートはまるで図ったかの様に店の中から疾走し、そして底なし沼に嵌った様に藻掻いているバケモノ達の頭の上に衝突した。
衝撃で瓶が割れて、中身の酒が通りにぶち撒けられる。
そしてその酒の上に、店の壁に空いた穴から零れた“燃えている酒”が、まるで初めからそう決まっていたかの様に流れ込み、引火した。
「――――!!」
――瞬間、男は巨大な火柱を見た。
まるで攻城戦用の火炎樽でも投げつけたかの様な大火。
強烈な閃光が目を眩ませ、熱風が頬を掠めていく。
完全に潰された視界の中、残された男の五感は蟲が潰される様なキチキチという断末魔と肉の焦げる臭いを拾っていた。
男が再び目を開けた時には、隣に居た筈の青年と少女の姿はもう無かった。
代わりに男の隣にあったのは、丁度人一人が乗れそうなくらい断面積がある、金属の柱。
当の青年はいつの間にか隣の家の屋根の上に移動し、屋根を飛び移りながら走り去っていた。
「…………」
……残されたのは男と、燃え残りのバケモノの大群だった。
ソレらは崩れた店の隙間を縫う様にして未だに燃え盛る火の海から這い上がり、亡霊の様に男の前へと整列していた。
――“死んだ”。
あまりの恐怖に男は尻もちを付き、ガクガクと震えながら失禁した。
そんな男を無視しながら、いや、それどころかまるで見えてもいないかの様に、バケモノ達は上に伸びた柱にしがみついて登りはじめた。
しかし、柱は1人以上の体重を支えられるようにはなっていなかったのか。
3体のバケモノがしがみついて登りはじめた時、柱は中腹から折れて、当たり前の様に炎の海の中へと倒れ込んだ。
その様を視認したのか。バケモノ達は男になど目もくれず、炎の海を迂回しながら、ただ無機的に青年の後を追い始めた。
「あ、あああ……、ああああああああ………!!」
その一連の出来事を、どこかトンだ瞳で見つめていた男。
完全に処理能力を超えた事態の中、彼が理解した“真理”はたった1つだった。
――“見せしめだったのだ”。
あの、あの白い青年は、この緊急事態に子供を出汁にして店を開けさせて酒を飲もうとし、それを無視した腹いせにバケモノを引き連れて店を破壊していったのである。
街の噂なんか、あてにもならなかった。
あの青年は、断じて“悪魔”なんかでは無かったのである。
否、悪魔なんていうのはあまりにも可愛い表現に過ぎる。
僅か数分で店を破壊し、あんな人間では抗う余地すら無いバケモノどもと真っ当に渡り合い、そして、平然とこんな地獄を生み出してしまう様な存在。
そんな、呪われた“現象”を形容する言葉とは――。
「天…災……」
ダイイング・メッセージの如く、ボソリと呟く。
完全に焼け落ちた店と、無数のバケモノ達。
その惨状を目に収めつつ、男の意識はそこでプッツリと途切れたのだった……。