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朝日真也の魔導科学入門  作者: Dr.Cut
第二章:雷神鉄鎚-5『Golden Sun and Silver Moon』
54/91

54. 人類史に於ける黄金の価値の必然性及びnが2以上の自然数の時y=nxならば常にy>xが成り立つという基礎的な整数問題の解に対する新しい解釈

 ――嫌な音が、響き渡った。

 腐ったトマトを踏み潰した様な、或いは空っぽの紙風船でも握り潰したかの様な、生理的な不快感を呼び起こす雑音。

 白銀に煌く路面には赤黒い粘液がぶち撒けられて、石畳の隙間を縫う様に汚らしい染みがドロドロと滲んでいく。


 その様子。少女の手から取り落とされたアイスが地面に落ち、ビチャリと弾け飛んで原型を失っていく音を、咄嗟に少女を腕の内に庇って伏せた朝日 真也はその背後に聞いていた。


 咄嗟に振り返る。

 怯えた様に胸の内に縋りつき、少し力を加えれば折れてしまいそうなくらい細い腕で、それでもしっかりと自分の身体にしがみついてくる少女。その背に腕を回し、抱えながら、背後に在る“異常”との間に身体を入れて分かつ様にしながら、真也はゆっくりと首を後ろに向けた。


 解剖学教室の様な有様だった。

 染み一つ無かった白銀の石畳には赤黒いヌメリがテラテラと光って、ソレが腹をメスで掻っ捌かれた小動物か何かを連想させる。

 ――いや、連想で済ませるのはあまりにも平和ボケが過ぎるだろうか。

 一応のところ、少女に怪我は無い。もしかしたら倒れ込んだ拍子にどこかをぶつけたり捻ったりくらいはしているかもしれないが、少なくとも血を流しているようには見えなかった。

 だが、それはあくまでも真也が彼女を抱えて伏せた結果としてそうなっているというだけの話であり、あとコンマ数秒でも反応が遅れていたら、事実彼女はああなって(・・・・・)しまっていたのだろう。

 ――なんのことは無い。

 あの、生き物と形容するのも悍しい姿をした怪物は、あんな鋼鉄でもペシャンコにしてしまいそうな大袈裟なハンマーで、この少女の小さな身体を本気で壊しに来たというだけの事。

 そのあまりにも非現実的な事実に、真也は知らず息を呑んでいた。


 そして、次瞬。

 真也は“内蔵”としか形容出来ないくらい柔らかそうな、そして異常なまでに隆起した太い腕が、ゆっくりゆっくりと持ち上がっていくのを視認した。


「――――っ!!」


 撥ねる様に立ち上がり、咄嗟に背後へと跳躍する。

 ギラギラと下品に光を反射するノコギリの刃は、白衣の裾を引き裂きながら先程まで真也が乗っていた石畳に深々と食い込んだ。

 金切り声を思わせる、耳障りな金属音が鼓膜を叩く。

 肉を引き摺る音に身震いしつつ尚も後退る彼に向けて、異形の怪物は(きり)や金槌を振りかぶり、更に続け様に振り下ろした。


「の――――ッ!!」


 左腕一本で少女を抱えたまま横っ跳びでソレを躱しながら、真也は右手でホルスターから空気拳銃を抜き放つ。

 打たれた石畳から金工工場の様な雑音が聞こえる中、意識もしていないのに手は動き、真也はほぼ条件反射的なクイックドローで肉襦袢の様な土手っ腹へと銃弾を叩き込んでいた。

 ――グジュリ、という嫌な音。

 風船の様に膨らんだ皮膚にポッカリと空いた虫食い穴からは、腐った果実酒の様にドロドロとした汚泥が零れ出す。

 とてもじゃないが、生き物の体内を流れているモノには思えなかった。


 だが、悪夢はソレに留まらない。

 腐って溶けた豚肉を蛆が這う様な、生理的に不快感を覚える水音。

 真也がソレを聞いた頃には、“異形”の腹に空いた穴からは刺胞動物の触手を思わせる薄紅色のヒモがウゾウゾと蠢き、不味いモノを飲み込んだクラゲの様に“異物”たる弾丸を吐き出してしまったのだ。

 真也は訝るように、或いは自らの混沌とした内心を吐露するかの様に、舌打ちした。


「……変わった体質の持ち主みたいだな。

 ちびっ子、このマッチョは親戚か?」


魔導兵(ゴーレム)です~。

 土魔法で動く、地の国の人造兵士さんですね~」


 皮肉げに問う真也の声に、少女は妙に落ち着いた様な間延びした声で答える。

 しかしそれは、安心しているというよりも諦めた様な昏さを孕んだ声だった。

 だが、今それはあまり重要な要素(ファクター)では無いだろう。

 否、今はそんな事に注意を払っている時間が既に惜しい。

 真也は少女の口にした単語を頭の中で数回反芻し、理解してから、それだけを頼りに意識を自我の奥底へと埋没させた。

 そう。もしも今聞いた単語、“土魔法”が間違いで無いとしたら。

 その対処法は、自分の頭の中に存在していなくてはおかしいのだから――。


「アル、知恵借りるぞ!!」


 意識の奥に繋がる細い糸を通して、“彼女”の持つ膨大な魔導のデータバンクへとアクセスする。

 それは彼にとっては、この世界に来てからもう数えきれない程に繰り返して来た作業だ。

 今となっては、こうして目前の脅威(バケモノ)を意識に収めながらでも行う事が出来る。


 ――土魔法、魔導兵(ゴーレム)、地の国。


 たった3つの単語(ヒント)による検索は、“彼女”の圧倒的な量の知識から洪水の様な応答(レスポンス)を引き出した。

 あまりの情報量に、脳の神経回路が焼き切れる様な錯覚。

 脳内を蹂躙される感覚に頭痛を覚えながらも、真也は掘り起こした情報を逐次整理し、打開策を探っていく。


魔導兵(ゴーレム)――。

 土の精霊の加護を受けて動作するその者の特徴は、土の精霊の誇る驚異的な回復力に――違う、どうでもいい。

 超回復による肉体強化。打撲、裂傷、凍傷等に対する強い耐性。剣で切られた程度の傷なら直ぐに回復――違う、これじゃない。

 歴史、文化、作成方法、材料、発祥、原理、推測と仮説……って今はコイツの食生(こうぶつ)なんかどうでもいいんだよ!!」


 最早暴力と呼べる程の情報量に視界が歪む間にも、魔導兵は的確に真也の腕の内に居る少女だけを狙ってくる。

 3枚の刃物が空を切り、真也の胴体ごと少女の首を切断しようと振り下ろされた。

 真也はそれを辛うじて交わしたが、右側から叩きつけられたハンマーに腕を掠められた。

 当たってもいないのに白衣が裂け、ピーラーを充てられた果皮の様にインナーの布地が捲れ返る。

 ――あと数センチ深かったら、捲れていたのは自分の皮膚(・・)だっただろう。

 ベロンと剥けた皮の内側に筋繊維が覗くその光景を想像して、真也の背筋には嫌な汗が滴った。

 本能的な恐怖を意識的に封殺しながら、彼の脳は半自動的に情報を処理し分析していく。


「――駆動原理、構造、対処法……土魔法の……あった、これだ!!

 魔導兵とは500年前に地の国に呼ばれた守護魔が、狼霊級土魔法に素体となる生き物を核とする事で改良を施した物。しかしその性質は、未だ土魔法の特性を色濃く受け継ぐ。

 ――土の精霊は火の眷属。

 よってその加護を転用する事で動作させている魔導兵は、土魔法の(コア)となっている心臓を焼かれるとその動きを停止する。

 なるほど、弱点は“火炎魔法”か!!

 了解、さすがはマニアック15歳だ!!」


 暴風の様に工具を振り回す魔導兵。

 その前に悠然と立ちはだかり、真也は少女を腕から下ろして庇うように背後へと隠した。

 最早枷にしかならない空気拳銃をホルスターへと戻し、勢い良くその左腕を振りかぶる。

 ――不安気な少女の視線を背後に感じた。

 無理もあるまい。彼我の体格差はどう軽く見積もっても100kg以上。

 増してやあれだけの凶器を振り翳し、更に小型とはいえ拳銃の一撃すら無効化する化け物とあっては、常識の内では真也に打つ手などある筈も無い。


「安心しろ、ちびっ子」


 しかし真也は振り返らず、不敵な笑みを作りながら。

 ただ、ニヤリとした声でそう答えた。

 握り締められたその左拳からは、眩い橙赤色の燐光が漏れていく。

 それはさながら、夏の夜空を彩る花火の如く、或いは冬の早朝を彩る朝焼けの如く――。


「火炎魔法は得意分野だ!!」


 敵影を真っ直ぐに見据えながら、真也は断言する。

 その声に、とうとう彼を目的達成の為の障害と判断したのか。

 魔導兵は、遂に真也自身に向けてその節榑(ふしくれ)の様な6本の腕を振り被った。

 6本の触手を背後に伸ばした様なその動作に、真也は獲物に喰らい付こうとしているイソギンチャクを連想する。

 ――だが、真也は引かない。

 その悍しいまでの(ぼうりょく)を前にして、それでも彼は揺るがない。

 何故なら彼は、自らの左手には目の前の怪物を焼き払うだけの“必殺”が宿っている事を知っているのだから――。


 この世界に召喚されてから3週間。

 彼とて決してサボっていた訳では無い。

 特に謹慎中に少女から受けたスパルタ気味の“短期集中魔術講座”によって、今の彼は初めて魔術を覚えた時の5倍を超える射程で火炎魔法が使えるようになっていた。

 そう、彼の初期火炎魔法の5倍(・・)の破壊力。

 即ち――、



「いっけぇぇぇぇええええええ!!!!」





 10センチ(・・・・・)――!!





「…………」


「…………」


「…………」



 ……魔導兵は、6本の腕を振り下ろした。



「のわぁぁぁぁああああッ!!??」


 間一髪、大蛸に襲われたエビの様に背後へと飛び退いた真也。

 ノコギリが前髪を僅かに散らし、ハンマーが鼻の頭を掠めていく。

 あのコックとの特訓(・・)が役に立った形であった。

 ほぼ尻餅をつく様な形で、非常に情けない格好になりながら、それでも命からがら彼は後退る。

 筋肉を引き千切る勢いで方向転換し、立ち上がると、真也は少女を抱きかかえて脱兎の如く逃走を始めた。



「なんですか、お兄ちゃん。

 今のペチっていうの、なんだったんですか!?」


「致命的な被害とか言ってるからコレでもいけると思ったんだよ!!

 何が致命的(・・・)だナニがぁぁぁぁあああああッッ!!」


 自らの明らかな火力不足を棚に上げ、真也は奇声を発しながら走りに走る。

 一度だけ振り返った彼が見た魔導兵の被害は、胸の辺りが微かに焦げる程度のまごう事無きかすり傷であった。あの身体を覆う粘液は可燃性なのか、多少表面にチリチリと引火している様に見えなくも無いが、あれ程までに分厚い筋肉の鎧の前ではどう見ても蚊に刺された程度にしか感じてはいなさそうである。

 ……いや、まあ。そもそもアレに痛覚なんてモノがあるのかどうかからして良く分からないのだが。

 “ああ、今日はなんか走ってばっかいるな”などと暢気な呟きを零しつつ、あの体格なのに何故か自分とほぼ同等の速さでジリジリと距離を詰めてくる魔導兵から逃れようと、真也は更に両足に力を込めた。


「ちびっ子、しがみつけ!!」


 ――このままでは追いつかれる。

 頭のどこか冷静な部分でそう判断した真也は、左腕一本で彼女の身体を支えるべくそう指示を出した。

 少女が母親に抱きつくコアラの様に真也の首に手を回し、腕に掛かる柔らかい体重が少しだけ軽くなる。

 真也はそのまま右手をホルスターへと忍び込ませ、振り向きざまに空気拳銃を引き抜いて背後へとその銃口を突きつけた。

 理性を失った猪の様に、一直線に駈けてくる魔導兵(まと)へと照準を合わせる。

 ――そして、発砲音。

 風船に穴を開けた様な軽い音が3度響くと同時、アダマスの弾丸が標的に向かって宙を駆け、2発が外れて1発が敵の右脚大腿部へと吸い込まれた。


「ダメです!! お兄ちゃん!!

 魔導兵は心臓を焼かないと――」


「大丈夫だ!! 分かってる!!

 今はコレでいいんだ!!」


 不安気に抱きつく力を強めてくる少女に、真也は全力疾走で悲鳴を上げる肺に酸素を捩じ込みながらそう叫ぶ。

 ――肉を引き摺る音は尚も響いてくる。

 当然だろう。何しろ、こんな豆鉄砲同然の銃弾どころか剣での斬撃ですら致命打にはならないと知っている(・・・・・)あの魔導兵が相手なのだ。

 あの怪物は、恐らく脚に開いたあんな小さな穴などほぼ意にも介さずに、先のリプレイの如く、噛み終えたガムの様に傷口から弾丸を吐き出して後を追って来るに違いない。

 ――そう。ほぼ(・・)意にも介さずに。


「……やっぱりな」


 肉の音が徐々に遠ざかって行くのを感じ、余裕を得た真也は一度だけ振り返った。

 先程まで5メートルも無かった彼我の距離は、今では優に15メートル以上は開いている。当然だ。先刻の走力差から鑑みるに、敵の移動速度は子供を抱えた真也よりも僅かに速い程度。いかに銃弾が致命打にならず、そしてほぼ(・・)効果が無い代物だったとしても、足した値が0で無い限りは間違いなく走行時には枷となる。

 そして徒競走のタイムがほぼ互角なら、銃瘡というハンデを貰った今、真也があのバケモノに追いつかれる道理などありはしない。



 朝日 真也は物理学者だ。

 物理学者とは前線で戦う勇猛な戦士でもなければ、剣など届かない程の遠距離から敵を打ちのめす魔術師でもありはしない。

 彼の本質はそこ(・・)では無いのだ。

 喩え肉弾戦であんなバケモノに敵わないとしても、あんなバケモノを焼き尽くす程の魔術が使えなかったとしても、そんな些細な要素(ファクター)は恥じる対象にもなりはしない。


 ならば、話は簡単。

 彼の仕事はこのままなんとか距離を保って走り切って、魔導研究所の中にでも逃げ込む事だけである。

 そうすれば後は本職たる魔術師や騎士連中、そして大魔導たる“あの少女”が、あんな肉の塊などあっという間に処理してくれるだろう。

 ――目的地までの距離は数百メートルか、或いは数キロか。

 いずれにせよ、たったそれだけの距離をこのちびっ子を抱えて逃げ切るだけで、万事は全て丸く収まる。



 収まった、筈なのに(・・・・)――。



「ウソ、だろ……?」



 背後から迫る魔導兵の視界から逃れるべく、手近な曲がり角へと逃げ込んだ真也。

 その瞬間、彼は信じられないモノを目にする羽目になった。

 ――魔導兵だ。

 たった今まで確かに背後に居た筈の筋肉のバケモノは、何の冗談か、曲がり角を曲がった真也を待ち伏せるかの様に、或いは通過不能の壁として立ちはだかるかの様に、今確かに真也の目の前へと佇んでいたのである。


 奇妙なのはそれだけでは無い。

 今目の前に佇む魔導兵には、“傷”が見当たらなかった。

 土手っ腹に空けた筈の虫食い穴も、幹の様な脚に通した筈の風穴も、胸元の極些細な火傷の痕すらも、まるで始めから存在しなかったかの様に完全に消え失せてしまっている。

 そして何より奇妙な事に。いつ持ち替えたのか、6本の腕に持つ凶器はその形までもが様変わりしてしまっていた。

 一瞬、自らの記憶違いや迷走を疑った真也だが――ソレは無いと直ぐに思い直す。

 何しろ背後からは、目の前に佇む肉の壁とは別に(・・)、今も確かに肉を引き摺る様な耳障りな雑音が響いているのだから――。

 その意味を悟った瞬間、彼は理解したくもない事実を嫌でも認めなくてはならなくなった。


 ――ゾロゾロ、グズグズと音が響く。

 まるで墓場に埋まっていた亡者の群れが一斉に起きだしたかの様に、或いは日陰に隠れていた陰性の昆虫が一斉に活動を再開したかの様に、辺り一面から響き渡る肉を引く音の大合唱。

 それも、十や二十という数では無い。

 ある者は路地裏から、ある者は道のサイドに立つ文具店の中から、ある者はまたある者の影から這い出る様にして、正に“湧く”という表現が相応しいまでの自然さで真也の視界へと侵入してくる。

 無感情に、無秩序に、しかしある種の統一性を感じるその動きに、真也は地に落ちた(エサ)に群がる蟻の大群を連想した。


「馬鹿な……。コイツらが全部地の国(・・・)謹製だって?

 敵は9人までしか来れないって話じゃなかったのか!?」


 そう、あり得ない。こんな悪夢の様な状況はあり得てはならない。

 この世界の国境を象徴する虹の橋(ビフレスト)のシステムが正常に機能しているのなら、一度に越境可能な人数は最大で9人までの筈なのだ。

 それ以上の人数を無理に通そうとすれば橋の番人(ヘイムダル)による“諜報の秘術”によって感知され、隣接の国々から総攻撃を受ける羽目になる。

 銀の国が持つ“橋”は、武の国と氷の国、そして大陸中央の“果ての無い平原(ヴィーグリード)”に繋がる3つであるという。

 なら、例えこの魔導兵達がその3つの橋全てを用いて同時に渡ってきたなんていうかなり無理のある仮定をしたとしても、最大で27人までしかこの場に居られる筈が――。


「27、()……?」


 そこまで考えたところで、真也は酷い寒気を感じた。

 人造兵士(・・・・)だというこのバケモノ達。

 明らかに人間をモチーフにしながらも生物として無理のある醜悪なフォルムに改悪され、剰えあんな不気味な触覚が6本も生えているというその異形。

 ならば――。

 果たしてこの意思も理性も感じない、僅かに人間の面影が見られる程度でしか無い人形達は、果たして人間としてカウントされるのか、と……。



 ――つまりは、ソレが答えであった。

 馬がそうでない様に、或いは怪鳥(グリフォン)魔犬(ガルム)が恐らくは人数になどカウントされない様に、あくまでもモノ(・・)として扱われる恐れを知らない異形の兵団。

 単純な命令しか熟せないが、しかし指揮官以外の人間を“カウント”に入れる必要の無くなる、虹の橋の抜け道を突いた裏技。

 これこそが、嘗ての守護魔が伝えた自立起動魔導兵(ゴーレム)の作成技術を発展させてきた“地の国(ノームズアシュ)”の強みであった。



「――――っ!!」



 そして、彼らは人波(・・)に飲み込まれる。

 機能しているのかも疑わしいガラス玉の瞳で監視され、動きもしない腐敗した唇に嘲笑されながら、たった2人の人影は容易く凶器の蠢く渦中へと囲まれていく。

 ――無理もない。

 先刻、たった1体の魔導兵を相手にすら逃げる以外の選択肢が無かったのだ。

 これだけの怪物に囲まれて抗う術など、果たして彼らのどこに残されていようか。

 ソレが分かったからこそ――、


「ちびっ子、しっかり掴まってろ!!」


 ――彼は、逃げる(・・・)


 凶器の射程圏内に捕えられるに先んじて、真也は白衣のポケットから1枚の紙切れを取り出した。

 大きさはA4コピー紙くらいのものだろうか。

 綺麗に四つ折りにされたその上質紙には、しかしオレンジ色に煌く魔法円が描かれ、その内に無数のエニュール文字がレリーフを刻んでいる。

 取り出すのに1秒、開くのにコンマ5秒。迫る凶器を視界の端に収めながら、しかし真也はソレをただの情報(・・)としてのみ処理し、石畳に紙切れを貼り付ける。

 肉塊として2つの標的を解体すべく、無慈悲に凶器を振り上げる魔導兵達。

 目と鼻の先に迫るその“死”を間近に見据えながら、真也は左手を白衣のポケットに滑り込ませ、“その魔装”を取り出した。


解放(jara)!!」


 そして、空間が歪む。

 世界を構成する大地がその異常に耐え切れぬとばかりに悲鳴を上げ、オレンジの燐光を吐き出しながらその在り方を変えていく。

 ――“不死鳥の羽根ペン”。

 対象が魔法金属である場合に限り、書き込んだ魔法円と文字列に対応して思い描いた通りの自由加工を可能とする、嘗て銀の国に召喚された守護魔が産み出したと伝わる奇跡のツール。

 それは彼がこの世界に来てから最も馴染み深い道具の一つとなった、“魔法使いの筆記具”であった。

 原則として金属の伸び縮みにしか用を為さないその魔装は、しかし防壁から石畳に至るまでその全てが金属(アダマス鉱)で出来ているこの街に限っては絶大な威力を発揮する。


 無論、“不死鳥の羽根ペン”は本来戦闘用の武器なんかでは無くただの金工道具に過ぎない。使用に際しては変形後の形状を制御する為の魔法円を前もって準備するという手間(・・)が絶対条件であるし、武の国の武装姫の様に、詠唱も術式の構築も無しに瞬時に思い通りの形状に加工出来る程に汎用性に富んだ道具などでもありはしない。

 最も簡単な形状である“刺”を作る為にも、一つにつき5秒。まともな形や大きさを望もうとすれば、どんなに単純なモノでも30秒以上の準備時間が必要になる、剣の一太刀に比すればあまりにも愚鈍な魔具だろう。

 ――それは、到底こんな戦闘(極限状態)で使える代物では無い。

 そこで彼が用意した、そのギャップを埋める為の補助魔装こそがこの“ 護符(チャーム)”であった。


 “護符”とは、一言で言えば魔法円を記憶しておく為の装置である。

 例えば、火炎魔法を学んでいる学生が簡単な火を出す魔法円を用いての魔術の発動を練習していたとしよう。

 彼、または彼女にとっては勿論その“魔法円の作成”も修練の内には入るのだが、逆に言うと、彼らが魔法円の作成方法さえ完璧に習得してしまったら、今度は修練の度に一々自分の手で魔法円を作成する作業なんか時間の無駄以外の何物でもなくなってしまう。

 そして多くの場合、魔術師にとっては魔法円の作成よりもその使用の方がずっと難しいのである。

 そういったケースに於いては、予め使うべき魔法円が作成された状態で用意されていれば、自ら魔法円を用意する手間が省けて“使用”の練習だけに集中出来るようになるだろう。


 ――そう。つまるところ、護符の用途とはソレであった。

 初歩的な講義で習う様な、汎用性は高いが簡単な術式に限って記録しておける、どこの魔装屋でも安価で取り扱っている一般的な“文房具”。

 流石に複雑な陣を効力を保ったまま記憶しておく事は、現在の技術では魔術大国・銀の国をしても難しいのではあったが――。

 それでも、単純かつ単一な術式に限るとはいえ一々描かなくても羽根ペンが使えるというメリットは中々に大きく、そして真也にとっては寧ろそれで十分(・・・・・)であった。


 燐光と共に大地が発光し、真也の足元が円形の舞台となって上へと伸長する。

 地を這う蟻を嘲笑うかの如く、アダマスのステージが二人の人影を天高く持ち上げていく。

 標的を失った軍勢の凶器は柱を叩き、鼓膜が突っ張る様な雑音を派手に打ち鳴らした。

 それは(さなが)ら、彼らの飛翔を祝福する鐘の音の如く――。

 密度が下がっていたからだろう。

 少女を抱えた青年が3階建ての服屋の屋根に飛び移った時、魔導兵の怪力で打たれたアダマスの柱は根本から歪んで倒壊した。



―――――



 ――コインの音が響いた。

 飛び移った時の衝撃を殺しきれなかったせいか、揺さぶられた少女のポケットから金貨が数枚落ち、蒼白く煌く屋根の上に散らばっていく。

 縦に落ちたのだろう。その内の1枚は軽い傾斜のついた屋根の上をコロコロと転がって、そのまま3階層下の地面にまで落下していった。

 蟻の群れに落としたビスケットの様に、キラリと輝く光はどんどん小さくなり、直ぐに大群の中へと埋もれて見えなくなる。

 その光景に自分自身の姿を重ね、戦慄しながら、真也は火の着いた様に熱い呼気を吐き出した。


 黒髪の少女は正面から真也に抱きつき、縋り付く様に彼の首元へと顔を埋めている。

 緊張感からか微かに汗ばんだ少女の腕は、しかし怯える様にしっかりと真也の後ろ首に固定されていた。

 首元に掛かる熱い吐息に、この少女が生きているという事実をはっきりと認識させられる。


「む~、とうとう追いつかれちゃいましたね~……。

 あの妖怪爺さん、相変わらず手が早すぎです~……」


「妖怪爺さん?」


 他人事の様な、そしてそれ故にどこか諦めた様な少女の声。

 確かめる様に聞き返す真也の声に、少女はゆっくりと顔を引き、真也の目を真っ直ぐに見ながら頷いた。


「――お兄ちゃんも知ってますよね?

 地の国の大魔導、“魔王”・タイタニウスです。

 わたし、狙われてるんです~……」


 “もう5日くらい逃げてます~”と少女は付け加える。

 無理矢理感情を押さえ込んだ様な緋色の瞳で、吐息の掛かる距離から、真っ直ぐに真也の瞳を覗き込みながら。

 それは、触れば崩れてしまいそうなくらいに弱々しい表情で――。


「……事情は?」


「……言えません。

 言ったら、多分……。

 お兄ちゃんは、わたしを嫌いになっちゃいますから」


 ――まるで、ソレがあのバケモノ達に追い回されるより恐ろしいとでも言うかの様に。

 少女は真っ直ぐに、しかし怯えた瞳で、不安を必死に押し殺した表情で真也の顔だけを覗き込んでいた。

 ――“望んでいなかった”と。

 その今にも泣き出しそうなくらい哀しい、そして寒さに凍えた様な目は、自分はこんなコトを望んでいたワケでは無かったのだと、必死で訴えている様に壮絶だった。


「――――」


 そして、少女は。

 全てを諦めたかの様に、フッと口元を緩めていた。

 後首に回された小さな手に力が篭り、少女の顔が再び首筋に埋まる。

 まるで寂しさや哀しさを紛らわせるかの様に、少女は細い身体で、それでも精一杯の力を込めて真也の身体に縋りつき、温もりを確かめる様に頬を擦った。

 力を込めすぎているせいか、寒がる様に震えている少女の背に、真也は優しく手を回す。

 ――役不足かもしれないが、せめて安心出来る様に、と。

 そして少女は、そっと真也の耳元に顔を寄せて、


「……もう、大丈夫です。

 銀の国の大魔導さんに会えれば、なんとかなるかもって思いましたけど……。

 もう、無理みたいですから」


 本当に、全てを諦めた様に。

 そんな、どこか他人事の様な言葉を漏らしていた。



 そっと、真也の胸板に小さな手が置かれる。

 優しく抱き留めていただけだったからか、少女が軽く力を込めただけで、彼女の小さな体はスルリと真也の腕をすり抜けた。

 ダンスのステップの様に、自分の足で屋根に立った少女はクルリと回り、風に靡いたゴシック調のワンピースがフワリと揺れる。

 そして少女は、明らかに必死になって笑顔を作った(・・・)


「……お兄ちゃんは、逃げて下さい。

 お家に帰って、ご飯を食べて、シャワーを浴びてゆっくり寝て下さいです。

 それで……、今日あった事は、全部忘れちゃってください。

 あの妖怪爺さんが狙ってるのは、わたしだけですから。

 わたしがいなくなれば、お兄ちゃんはもう安全なんです~」


「…………」


 ――一瞬、彼には少女の言葉が理解出来なかった。

 眼下に広がるは異形の軍勢。

 アレらはあんなふざけた形の凶器を6本も持っていて、そして大の男の真也でも、正面からでは一体たりともどうにも出来なかったバケモノ達なのだ。

 アレらがこの少女に対してどんな行動を取るのかなど、真也は初見で既に知っている。


 潰れたアイスの残骸がフラッシュバックした。

 外側のコーンが弾け飛んで、中身が漏れてグズグズの“ゴミ”へと変わってしまった脆いお菓子。

 真っ赤な汚濁がテラテラと光って、見方によっては酷くグロテスクで気味が悪い有様だった。

 この少女だって、ソレは見ていただろう。

 この少女だって、アレらの前に出ていけば、自分がそうなってしまう(・・・・・・・・)と分かっている筈なのに――。

 それでもこの少女は、今がどうしようもない状況で、もうどうにもならないと悟った様に、どこまでも儚く笑っていた。

 こちらの身を案じる様に、どこまでも可憐に、そして哀しげに笑っていた。


「……大丈夫です。

 きっと、お兄ちゃんの思ってるほど、ヒドいことにはならないですから」


 少女は、こちらの憂いを絶つ様に――。


「今日一日、楽しかったですよ?

 本当なら、もうちょっとだけ一緒に居たかったんですけど――もういいんです。

 わたしは今日のこと、ずっと忘れませんから。

 ずっとずっと覚えてますから。

 ……だから。それだけで、もういいんです」


「…………」


 朝日 真也には、この少女の置かれている状況なんか分からない。

 偏屈で人間嫌いという人格を育み、人心というモノに致命的なまでに疎い彼には、出会って僅か数時間の少女の事情など悟れる筈も無かっただろう。

 ――だが。

 そんな歪んだ人格を持つ彼だからこそ、はっきりと分かってしまう気持ち(・・・)もある。



 ――どう過ごしてきたのだろうか。



 遠い昔に母を失い、父親にも関心を持たれず、守ってくれる大人なんか誰も居なかったという少女。

 “言いたくない”ではなく“言えない”事情を背負わされ、挙句あんな悍しいバケモノに追い回される羽目になったという、か弱い一人の女の子。


 “帰れない”と言っていた。

 アルに会えないと知った時、彼女は今にも泣き出しそうな、壊れそうなくらい弱々しい表情を見せていた。

 仕事が終わるまで一緒に居ていいと言った時。

 彼女はあんなにも嬉しそうな、本当に最高な笑顔を浮かべていた。


 あの時の少女は――。

 一体どういう気持ちで、何を諦めて、何に対してあんな笑顔で微笑んだのだろうか。


 “楽しかった”と言っていた。


 安直にレストランなんかに入ったせいで食い逃げする羽目になって、危うくコックに殺されかけたなんていう、笑い話にもならない様なドタバタ。

 しかしこの少女は、それを“楽しかった”と言って笑顔を零したのだ。

 ――その笑顔の裏には。

 そんなこと(・・・・・)で心底楽しいと思えてしまう彼女は、いったい今までどうやって過ごして来たというのだろうか。

 両手で数えきれる程度の年齢で、それでもそれら全てを当たり前(・・・・)の事として割りきってしまった少女。

 こうして、泣き言一つ言わずにあんなバケモノ達の前に出ていこうとしている彼女の目には、この世界がどんな風に映っているのだろうか――。


 偏屈で、人間嫌いで、歪んでいるからこそ。

 朝日 真也には、それ(・・)が分かる。


「……穏やかじゃないな」


 真也は、一言だけそう呟いた。

 あまりにも不格好で、下らない、醜悪な現状を揶揄するかの様に――。

 縋る様に見詰めてくる赤い瞳に、彼は小さく首を振った。


「生憎と、オレはこんな性格だ。

 他人の事情なんか知ったことじゃないし、興味も無いんだ。

 ――言っちゃ難だが。それはちびっ子、お前も例外じゃない。

 お前がどんな事情を抱えてて、どうしてあんな連中に狙われてるのかなんて些末事(・・・)は、オレは聞くつもりも無ければ聞きたくも無い」


 どこから持ってきたのか。

 下界に亡者の如く群がる魔導兵達には、10メートル近くもある巨大な梯子を担いだ援軍が加わっていた。

 屋根の下で上がる悲鳴と足音を鑑みるに、建物の中から登ってきている連中も居るらしい。

 ――もしもあの連中の2~3体にでも囲まれれば、それだけで自分達(・・・)は為す術も無く挽肉にされるだろう。

 ソレを理解した真也は、オレンジに輝く羽根ペンで、一心不乱に屋根へと図形を描き込み始めた。

 迷い無く、憂い無く、慣れた様に、レリーフを思わせる微細な文様が白銀の屋根を覆うように産み落とされていく。


「オレはこんな性格(・・・・・)だ。

 人間になんか興味も無いし、そんなモノの名前なんて無価値な情報に脳容積を浪費するつもりも毛頭無い。

 この世界の情勢にも、事情なんてものにも興味が無ければ、そのタイヤキ大魔王(・・・・・・・)とかいう爺さんの事なんか知りもしない。

 ――今オレの前にある要素(ファクター)は、この上なくシンプルだ。

 ヒトの形をした生き物(バケモノ)が、子供(ガキ)一人嬲る為にアレだけ群れてるのが、吐き気がするほど気持ちが悪い――」


 陣の敷設が終わる。

 完成された魔法円はそれそのものがある種の芸術品の様な存在感を主張し、羽根ペンの魔力に惹かれてオレンジの燐光を鈍く吐き出し始めていた。


 ――そして、少女と目が合う。

 “逃げられないですよ”、と。

 “死んじゃいますよ”、と、赤い瞳が不安気に訴えてくる。

 真也は少女の視線を無視しながら、たまたま目に入った、屋根の上に転がっていた“ソレ”を拾い上げた。

 少女のポケットから取り落とされた、黄金色に煌く“1フェオ硬貨”である。


「ちびっ子。

 (きん)に価値があるのはどうしてだと思う?」


 ――魔導兵が現れた。

 梯子を使って登ってきた1体に、3階の窓枠から身を乗り出してよじ登って来る3体。

 合計4体の魔導兵が、銃弾でも殺せない異形の怪物が、血に飢えた亡者の様な足取りでユラリユラリと屋根に這い上がって来る。

 ――まだ早い。

 それを理解していた真也は、その全てを視界の内側に収めながらも、迎撃行動を一切取らずに少女の下へと歩み寄った。

 丁度いい位置にある少女の頭に、ポンと左手を置く。

 硬貨を右の親指に乗せて、コイントスの要領で空へと飛ばす。

 蒼白い陽光を反射した金貨は、自らの存在を誇るかの様に見事な黄金色に明滅していた。


(Au )っていうのはな、自然界では絶対に化学反応を起こさない元素なんだ。

 他の金属が化合物としてくすんだ状態で発見される中、喩え周りの岩石が風化して朽ち果てたとしても、単体で綺麗な黄金色で在り続ける。

 だから、文明を興したてで金属の精錬なんかろくに出来なかった人類でも、ソレが価値のある物だって認める事が出来たのさ。


 ――初めて見たヤツは驚いただろうな。

 周りの石屑が雨風に削られて、風化と化学反応でボロボロに崩れていく中。

 叩いても焼いても砕いても、何百年経っても変わらない、永久に輝き続ける物があるってんだから」


 それは喩え、自然(せかい)の全てを敵に回したとしても。

 あまりにも圧倒的な戦力差で打ちのめされて、味方なんか一人も居ない、あまりにも絶望的な状況に置かれたとしても――。


「多勢に無勢だ、勝てとは言わない。

 だから、せめて負けんな。

 そいつら全部を相手にして、それでもお前が負けなかったら。

 寄って集って束になって、それでもお前一人にも勝てなかったのなら――」


 魔導兵が完全に屋根へと登り切る。

 醜悪な4つの異形は、たった2人の人形(ヒトガタ)を四方から囲み、今にも粉微塵に分解せんと刃を振りかぶっている。

 白い青年は、ただ不敵な笑みでそれを見据え――。


「――お前は、そいつらの誰よりも。

 ブッチギリで最強だ」


 轟音と共に空を切る、24の凶器の群れ。

 その刹那、紛れる様に屋根に落ちたコインが澄んだ音を鳴らしたと同時に。

 白銀のキャンバスに描かれた無数の魔法円が、詠唱に呼応して一斉に光を放った――。

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