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朝日真也の魔導科学入門  作者: Dr.Cut
第二章:雷神鉄鎚-5『Golden Sun and Silver Moon』
53/91

53. 飲食店に於ける写真及び値段表示の重要性を示唆する事例の一例及び大人よりもより影響が大きいと思われる子供を対象とした駄菓子類に限って明らかに有害そうに見えるというパラドックスに対する前向きな解釈

「……酷い目に遭ったな」


 とある王都の昼下がり。

 閑散とした裏通りをフラつく足取りで歩みながら、朝日 真也は吐露するかのようにそう呟いた。 

 この国では異質な(・・・)黒髪は散々に乱れ、物理学者たる彼を象徴する白衣は明らかに着崩れている。

 ……なにやら台風にでも遭遇したかの様なヒドイ有様ではあったが、彼がこんな状況になってしまっているには、一応のところ極些細な(・・・・)理由があったりもする。



 ――話は噴水前広場での一件に遡る。

 魔導研究所に戻らなくてはならない時間まで少々の余裕があった真也は、取り敢えずは昼食でも済ませておこうかと思い立ったのだが……大学教授時代から食事になどほぼ頓着してこなかった彼である。彼が特務教諭として働き始めてからというもの、昼食と言えば商店街の惣菜か研究所の食堂、もしくは全く取らないなんていう残念な3択の日々を送ってきたのであって、とてもじゃないがこの“小さなお客様”が満足しそうなレパートリーなんか思いつかなかった。

 否。それ以前に、そもそもこの世界に来てから僅か3週間(謹慎があったので実質2週間以下)の彼がこの街の飲食店など大して把握している筈も無い。

 よって彼は、このお子様の好きな場所にでも入ってやろうかとも思ったのだが……ちびっ子曰く、どうやら彼女もこの街に来たばかり(越してきたばかり?)らしく、飲食店の場所なんか真也以上に知らないと仰るのだから彼は本当に困り果ててしまった。


 仕方がないので適当に王宮の近くでもぶらつきながら、適当に飲食店を探すことにした真也。

 大通りからちょっと裏手に入った辺りで、見覚えのある学生が何人かレストランらしきモノに入っていくのを見つけた彼は、後を追うようにしてソコに入ってみる事にしたのだが――。



 ……結論から言う。これがマズかった。

 簡単な気持ちで店に入った真也とちびっ子を出迎えたのは、フカフカの赤絨毯とシャンデリア、そしてとてもフォーマルな黒服ウェイターだったのである。店の真ん中では立派なドレスを着た美人が歌を歌っていて、客の何人かはシャンパングラスを片手にソレを見ていた。

 一瞬だけ、不思議そうに首を傾げた真也。

 でも、まあ。見知った学生が何人かランチを食べているし、きっとこの世界ではこういう飲食店が珍しくは無いのだろう、などと勝手に解釈しつつ、真っ白なテーブルクロスが眩しい二人席へと招かれる事にした。


 メニューに値段が書かれていなかったのが不便ではあったのだが、まあ魔導研究所の学生が来れる程度の店ならたかが知れているだろう、などとここでも深く考えずに軽く流した真也。メニューを見ても名前だけではどんな料理なのか全く分からず、やはり“写真”が無いのは不便だな、などと思いつつ、適当に何品か注文してみることにしたのであった。

 ちびっ子も脚をブラブラとさせながら、八重歯の可愛らしい笑顔でケーキを注文していたらしかった。



 ……高さ2メートルのケーキに彼が卒倒したのは、その僅か15分後の出来事であった。



 そう。この時の真也は完全に失念してしまっていたのではあったが、魔導研究所の学生達とは即ち“富裕層の平民と貴族の御曹司達”だったのであって、一言で言えば上流階級のおぼっちゃまお嬢様方だったのである。ゾロゾロと運ばれて来る三ツ星レストランもかくやというキラキラオーラを放つ料理達を見て、流石にそろそろ自らの失策に気づき始めた真也。

 今ならまだ断れるだろうか、などと思案し初めた彼が見たのは、運ばれて来る皿の一つ一つに片っ端からフォークを突き刺しては味を確かめている黒髪八重歯の勇姿であった。

 彼女は料理を一口口に運んではルビーの様な赤目を真ん丸に見開きながら感激し、トロけそうなエンジェルスマイルを浮かべては2メートルのケーキをペロペロと舐めていく。

 観念した真也に出来たのは、これらの値段が彼の常識の範疇に収まるように祈りながらちびっ子が手を付けた料理を順次処理していくことだけであった。





 持ち合わせの十倍の支払いを求められた。





 あまりにぶっ飛んだ金額に、伝票を二度見と言わず三度見くらいしてしまった真也。

 シックな厚紙に羽根ペンで書かれたその数字を何度も何度も確認しながら目を擦り、天才と呼ばれた頭脳をフル回転させて打開策を考えた。

 いや、まあ。状況はどう考えても絶望的ではあったのだが、それでも、こんな事態があの真紅の少女に知れたら本気で処分(・・)されかねない。

 よって彼は、天才物理学者としての知識を総動員してひたすら考えに考え抜いたのである。

 ――そして、その時。

 真也は、自体を把握したらしいちびっ子が、ニッコリと笑いながら自分を見ている事に気が付いた。


「あ、大丈夫ですよ?

 わたし、お金もってますから」


 天使の様な笑顔でちびっ子は言う。

 否、天使の様なという表現でも生温いだろう。この時の真也には、この年端も行かない少女こそが、本物の天使か女神様の様にすらも思えた。

 そう。よくよく見てみると、この少女の着ているゴシック調のワンピースは中々に良い作りをしているようだし、もしかしたらどこか良い所のお嬢様なのかもしれないのである。

 期待を込めた視線で見つめる真也に、少女はチロリと八重歯を覗かせながら、笑顔で右手を差し出した。

 小さな小さなその手の平には、キラリと輝く“1フェオ”が乗っていた。

 真也は少女を抱え、電光石火の速さで店から逃げ出した。


 “食い逃げだぁぁああああ!!”という悲鳴に、“殺せぇぇぇええええ!!”という物騒な掛け声。背後から飛んでくる刃物を躱し、時折飛んでくる魔術を守護魔の魔法防御で打ち消しながら全力で駆け抜けること、約2分。彼とて決して足が遅い方では無いのだが、包丁をベロベロ舐めながら追い縋るコックの親父は何故か異常に速く、またちびっ子を抱えている事もあってかかなりの苦戦を強いられる羽目になった。空気拳銃で応戦しながら逃げたのだが5分もしない内に追いつかれるだろう、と確信した真也は、閑静な住宅街に見覚えのある看板が掛かっているのを発見し、急いでそこに逃げ込む事にしたのである。



 彼が入ったその店は、いつか彼が“不死鳥の羽根ペン”を手に入れた際に崩壊した“魔装屋ギル”であった。初見の際はボロボロだった筈の店内は綺羅びやかに修復され、店主の男もフォーマルな宝石衣装を見に纏っている。


 ――尤も、コレは彼にとってはもう見慣れた光景であった。

 真也が召喚された翌日に発生した、あの武の国の二人による襲撃事件。時計塔から見つかった“埋蔵金”により、最も被害が大きかったこの店は相当な額の補償が成されたのだという。

 また店主の男があの日のどさくさに手に入れた“武の国の通貨”は一部マニアの間ではそれなりに高値で取引されていたらしく、店主はそれを捌く事でかなりの利益を上げたのだという話だったが……まあ、これは真也が関知する話でもないだろう。


 重要な点は、一つ。あまり真っ当な商売をしているとは言えないこの店は真也にとっても都合が良く、最近では作った発明品を優先的に流通させる程度の良い“商売関係”を築いていたという事であった。

 “ガラの悪い”客には慣れていた為か、もしくは補償と商売関係と臨時収入によって結局は大儲けになった為か。店主の男も店を壊された事は特に恨んでいる様子も無く、今では真也を見る度に揉み手をしてくるくらいの関係にはなっている。

 特に目玉商品の“バイク”は中々に売れ行きが良く、店主の男は小さな貴族に匹敵する程の財を築き上げつつあったのであった。


 店に逃げ込んだ真也を追いかけ、猟奇殺人犯の如く包丁を振り回しながら迫るコック。異常な切れ味の斬撃(・・)によって後ろ髪を散らされ、“グヘヘヘヘ~ッ!!”という不気味な笑いと共に放たれる暗殺拳(・・・)を躱しながら店内を跳び回ること約5分。無邪気にきゃっきゃと笑うちびっ子を抱えながら空気拳銃で牽制を続けていた真也は、相変わらず我関せずの体で商品棚の整理に精を出している店主に助けを求めた。

 ――そう。つまりは“金貸してくれ”と。

 その言葉に、コクリと首を傾げた店主。彼は一度だけ不思議そうに真也を見ると、トコトコと店の奥へと引っ込んで行ってしまった。

 “逃げられた”と真也は思った。“いただきま~す!!”とコックが笑った。ちびっ子も無邪気に笑い、どさくさに紛れて真也の首筋を甘噛みしはじめた。チクチクと、小さな八重歯が頸動脈に突き刺さる。“ここまでか”と思った真也が遂に奥の手(・・・)を使おうかとした正にその時、響き渡ったのは“ドスンッ、ジャラジャラ”という大量の金が入った袋がテーブルの上に置かれる音であった。


 “あんたの取り分だ。遅れちまって悪かったな”


 ニッと、ニヒルな笑みを浮かべながら言った“ギルの店主”。

 少なく見積もっても1万フェオは入っていようかというその金袋は、店主曰く、真也がこの店に卸している発明品のバックマージンであるらしい。

 ――フッ、と。コックの顔がふくよかな仏顔に戻った。

 コックは袋から昼食の代金を抜くと、“まいどあり”と礼をし、トコトコと店の外へと去っていった。

 へなへなと、力なく床にへたり込んだ真也。

 楽しそうに、吸血鬼の如く首筋に吸い付いているちびっ子の頭を軽く撫でて落ち着いてから、折角の臨時収入(・・・・)なので護符(チャーム)などの補助魔装を何点か見繕い、袋の中の金貨を財布に詰め込めるだけ詰め込んで店を後にしたのであった。

 どうやらギルの店主とは、これからも良いビジネスが出来そうである。

 キャピキャピと笑うちびっ子の笑顔を眺めながら、真也はフッと口元を緩めたのであった。




「楽しかったですよ?」



 そんな些細な(・・・)騒動があった後の、閑散とした裏通り。

 先の真也の呟き、“酷い目に遭ったな”に対してちびっ子が答えたのがそんなセリフだった。

 首を傾げる真也に、ちびっ子はニマ~っと、なにやら含みのある笑みを浮かべながら続ける。


「つまらなくなんかなかったです~。

 お兄ちゃんといるの、すごくおもしろいですよ?

 さっきだって、お兄ちゃんスゴく必死でかわいかったです~」


 ムッフッフ~と、ちびっ子は大きな目を細めながら言う。

 ……これは、一応フォローでもしてくれているつもりなのだろうか?

 色々な方向に解釈出来そうなちびっ子の言葉だったが、どう解釈しても精神的なダメージは免れなさそうだったので真也は溜息を零すだけでスルーした。


 ――要は、散々な目にはあったが、どうやらこのちびっ子にはそんなドタバタこそが何よりも楽しかったということなのだろう。

 真也にしてみれば本当に散々ではあったし、某真紅の少女に知れたらナニされるか分かったものじゃ無い程の災難ではあったのだが……無邪気な笑顔を浮かべる子供というのはどうにも愛らしく、こうニッパリと笑われると、まああの程度の些細な事故(・・・・・)くらいはどうでもいいか、などと思えてしまうのであった。


「あ、そうです~。

 お兄ちゃん、魔導研究所で働いてるんですよね?

 やっぱり、魔導師さんなんですか?」


「いや、オレは物理学……っと、今は特務教諭って名乗るべきだったな」


「? ぶつ……なんですか?」


「……まあ、魔導師の逆の職業だとでも思っててくれ」


「???」


 動物型の透明パックに入ったジュースをチューチューと吸いながら、ちびっ子は興味深そうに話を振ってくる。

 因みにどぎつい原色(あか)で着色されたこのジュースは、先程見かけた寂れた売店でちびっ子自身が購入したモノであった。臨時収入もあったことだし、ジュースくらいなら(おご)ってやろうかとも思った真也だったのだが、他ならぬちびっ子自身に“あ、大丈夫です。お金持ってますから”と丁重にお断りされたのである。


 まあ真也とて、このくらいの子供が“自分のお金で買ったモノ”という意識に執着する気持ちも分からないでも無かったので、適当に“子供向けの駄菓子ほど身体に悪そうな着色が為されるのは何故なのか”などについて考察などしつつ、それでも着色料の取り過ぎで死んだ子供なんか聞いたことも無いので神経質になるだけ取り越し苦労なのだろう、などと解釈しつつ、思わぬ運動(・・・・・)で失われてしまった水分をポーションで補給しながらちびっ子のお使いが終わるのを待つことにしたのだった。


 ……余談だが。

 ピカピカの1フェオ(・・・・)を握りしめて店内に入って行った筈のちびっ子は、何故か真っ赤なパックジュースと2フェオ(・・・・)を持って帰ってきた。



 閑話休題。



「む~。よく分からないですけど、魔導師さんじゃないんですね。

 もしかしてお兄ちゃん、だから広場に居たですか?」


「そう言われると追い出された様に聞こえるが……。

 まあ実際は似たようなもんか」


「? 追い出されちゃったんですか?」


「……似たようなものだ」


 真也の"特務教諭"という役職は、もうかれこれ60年は空席になっている幽霊職であり、スケジュールの兼ねあわせの関係で彼が実験に使える様な場所は魔導研究所内にはほぼ残っていなかった。

 よってよっぽど危険な実験でもない限り、真也が実験をする時は街の適当な場所を使わなくてはならなくなっている――というのが表向きの理由。

 実際には、毎度毎度彼が引き起こしやがる大惨事のせいですっかり“危ない物”というイメージが国民の間に定着してしまいつつある科学技術のイメージアップを図る為の、性悪爺さんこと国王陛下の画策が裏にあったりもしたのだが……。

 まあ、コレは無垢な子供にわざわざ説明するべき事でも無いだろう。

 どちらにしても先の広場での保護者連中の反応を見る限り、あの爺さんの策は功を奏しているとは言い難いらしい。


 真也は、何やら慰める様に背中を撫でてくるちびっ子の手を努めて意識から排除しつつ歩みを進める。

 そうこうしている内に、彼らは寂れた商店街の様な場所に辿り着いていた。正門前商店街に比べるとどの店も明らかにこぢんまりとし、年配の方々が営業しているその様からすると、どうやらこの通りは古くから続く自営業がそのまま残っている区画であるらしい。

 確か魔導研究所に向かって歩いていた筈なのだが……道を一本間違えただろうか?

 やはり土地勘が無い人間が無闇にコックから逃げるもんじゃないな、などと思いつつ、来た道を引き返そうと踵を返した真也。

 ――と、その時。

 彼は、ちびっ子が赤目をキラキラと輝かせながらどこかを見つめている事に気が付いた。

 なんとなくちびっ子の目の先を追ってみる。



 ――駄菓子屋であった。



 地球では見たことも無い様な、しかし明らかに子供向けの格安菓子類を取り扱っているその店を物欲しそ~に見つめながら、ちびっ子は黒いお下げをピョコピョコと跳ねさせてウズウズしていた。


「……なんか食うか?」


「はいです~」


 白衣の裾にピッタリと張り付きながら、ちびっ子は太陽の様に眩しい笑顔で言う。

 その嬉しそうなオーラに急かされるかの様に、真也は目を細めて駄菓子屋の商品棚に貼ってある値札を眺めた。

 ――大方の商品は、1個10~50ヴァース程度といったところだろうか。

 まあこのくらいなら奢ってやるか、と思った真也が財布を取り出すと、


「あ、大丈夫です。お金持ってますから」


 その間に、ちびっ子はワンピースの裾をフワフワと跳ねさせながら店の中へと消えて行った。

 元気良く店内でクルクル周りながら、桃色のスライムの様な何かを手に取ってレジへと向かったちびっ子。

 店から出てきた彼女の手には、何故かピンクのスライムと5フェオ(・・・・)が握られていた。


「? どうしたですか?」


「…………いや」


 5枚に増えた(・・・)金ピカ硬貨をカチャカチャと鳴らし、スライムをみょ~~んと伸ばして頬張りながらちびっ子は言う。

 ……色々と突っ込みたいところはあったが努めてスルーし、真也は小さく溜息を吐いた。


「……まあ、アレだ。

 今更だが、勝手に昼食なんか食わせて良かったのか?

 よく考えたらお前の母親だって昼食くらい用意してるだろうし、オレと一緒に食べたってバレたら怒られそうだが……」


「…………」


 真也の問いを聞いた黒髪の少女は、ルビーの様な赤い瞳をスーッと細めながら、どこか寂しげな表情で口元を結んだ。

 まるで、何を言えばいいのかを突然忘れてしまったかの様に――。

 やがて少女は、言い難いコトを言い淀むかの様に、む~っと唸った。



「お母さんは居ないんですよ~」


「は?」



 少女は、ニコリと笑いかけた。

 彼女はただ、どこまでも当たり前の様に平然と言う。

 それは一切の哀しみを感じない、それがどこまでも“当たり前”だとでも言うかの様な、ただ懐かしむ様な感情だけが込められた声だった。

 少女は、目を丸くする真也の瞳を真っ直ぐに見上げながら続ける。



「お母さん、もうずっと前に死んじゃいました。

 お父さんはいますけど……全然家に帰って来なくて、いつも色んな女の人のところをフラフラしてますです~」


「…………」



 “もう2ヶ月くらい会ってないですね~”と、少女は続ける。

 目を細め、どこか寂しそうな表情で、それでも確かに笑いながら(・・・・・)

 母親には二度と会えず、家に帰っても父親は居ない。

 この少女はその事実を、それでもただ当たり前の様に(・・・・・・・)語っていた。


 ――なるほど、纏めてみればよくある話である。

 愛していた女が、或いはもう愛想を尽かしていた女が死んで、男がその悲しみを埋める様に、或いは首輪が外れた犬の様に別の女に手を出し始める。

 この子の父親がどっちなのかなんて知らないし、真也には興味も無かった。

 ただ一つだけ分かるのは。

 そのどちらの場合(ケース)にしても、おそらく、その男の感情はこの子になど向いていないのだろうという事だけであった。


 真也の頭には、噴水前広場で彼女が言っていた言葉がなんとなく過ぎった。

 ――“帰れないです”と言っていた。

 親に怒られるかもしれないから帰れと言った真也の言葉に対して、この少女は“帰りたくない”ではなく“帰れない”と言ったのだ。

 ……なんの事は無い。

 要するにこの少女には、そもそも真也と居ることを怒ってくれるような親自体が居なかったというだけの話。

 一番親の愛情が欲しい時期の筈の少女は、自分にソレが無い事を“当たり前”だと思わざるを得なかったというだけの事だったのだ。


「……悪かった」


 ――慰めるつもりも、同情するつもりも無い。

 朝日 真也は、自分がそんな資格のあるほど立派な人間では無い事を知っている。

 だからこそ、彼はただ一言だけそう言いながら、少女の黒髪をくしゃくしゃと撫でた。

 少女は宿を見つけた野良猫の様に目を細めながら、沈んだ空気を入れ替えるかの様に、よく伸びるスライムを丸ごと口の中へと放り込む。

 そして、何かを見つけてその目を輝かせていた。



 ――小さなアイスクリーム屋の屋台だった。



 地球のモノとは微妙に型やレパートリーが違ってはいるものの、何の冗談か、ソレは可食のコーンに球形のラクトアイスを乗せて売るというスタイルまでもが彼が良く知っている地球の文化に酷似している。

 真紅の少女曰く、コレも嘗て呼ばれた守護魔の世界にあった“郷土料理”を再現したモノらしいのだが……。

 真也自身は、もしやソイツは地球のアイスクリーム職人か何かだったのではないか、などと割と本気で考察していたりもする。

 ……まあ、ソレは今この場で思い返す程重要な点でも無いだろうが。


 考えるべきは、一つ。少女が喉に詰まらせないか心配になる程の勢いでスライムをモキュモキュと飲み込みながら、物欲しそ~な目でその屋台を見つめていたという点だけであった。

 ――金なら、無いことも無い。

 真也は白衣のポケットに入っている財布の重さを確かめながら、フッと口元を緩めた。


「よし、わびにアイスでも奢ってやる。何がいい?」


「あ、大丈夫です。お金もってますから~」


 真也が財布から金を取り出した頃には、少女は5枚の金貨をカチャカチャと鳴らしながら屋台に向かって駈け出していた。

 何気なく目に入ったファンシーなアイス屋の看板には、“シングル3フェオ、ダブル5フェオ”の文字が輝いている。


 背が足りていないのだろう。頑張ってショーケースによじ登り、張り付くようにしながら店員の親父に何かを注文した少女は、毒々しい赤紫色の光沢を放つ見た目ベリー系のアイスと5フェオを受け取ると(・・・・・)、駆け足で真也の下へと戻って来た。

 真也の半分も無い程小さなちびっ子の手の中で、10枚のコインがカチャカチャと良い音を鳴らしている。

 流石に持ちきれなくなったのか、ちびっ子はワンピースのポケットへと10フェオ(・・・・・)を仕舞っていた。

 ――真也は、深く何かを考え始めてしまった。



「? どうしたですか?」


「……なあ、ちびっ子。

 どうして買い物してるのに金が増えるんだ?」


「? 聞きたいですか?」


「…………。

 いや、やっぱりいい」


 本当は小一時間ほど問い詰めたい真也ではあったが、背後から聞こえてきた嗚咽のせいで思考を停止させざるを得なかった。

 だってアイス屋の店員が、まるで探偵に“犯人はお前だ”と言われた被疑者の様に泣き崩れ、レジに突っ伏しながら額をゴリゴリと擦っているのである。

 ……真也には、コレは触れてはならないモノである様に思えてしまってならなかった。


「む~、細かいコトは気にしちゃダメです~。

 ほら、お兄ちゃん。コレすごく美味しいですよ?

 ちょっと食べてみて下さいです~」


 コーンに乗ったアイスにペロペロと舌を這わせてから、ちびっ子は笑顔で真也にアイスを突き出してくる。漫画に出てきそうなくらいに極彩色のソレはパッと見少々グロテスクで、見方によっては解剖された動物の様に見えなくもなかったが、まあベリー系のアイスなど概してこんなものだろうと真也は流した。


 運動後で身体が熱かった事もあるし、折角の好意を無駄にするのもアレなので、ちびっ子からアイスを受け取ってチロリと舌を絡めてみた真也。

 凍らせたオレンジの様な柑橘系の風味と、脳天に突き刺さる様な強烈な甘ったるさが視界に星を飛ばす。

 ……何故子供という生き物は、こうまで甘味以外の味覚が存在しないのだろうか。

 真也は、苦笑いしながらちびっ子へとアイスを返した。


「……変わった味だな。何味だ?」


ボゼ(・・)です~」


「? なんだって?」


「だから、ボゼ(・・)です。

 お兄ちゃん、知らないんですか?」


「…………。

 ……ああ、ボゼ(・・)な」


 ――スルーした。

 流石に彼も、一々材料を気にする様な繊細な神経の持ち主では異世界では生きていけないという真理をそろそろ学びつつある。

 なに、大した事では無い。察するに、きっとフラン“ボ”ワー“ズ”か何かの略なのだろう。確かスペルがframboiseだったはずだから、boseでボゼだと考えるとそれなりに説得力のある仮説なのではなかろうか。

 ……この世界の文字がアルファベットでは無いという事実を、真也はこの時ばかりは忘れる事にした。


「――あ、お兄ちゃん。

 ちょっとお顔下げて下さいです」


 極めて前向きな解釈に努めようとしている真也に、少女はトロけそうなアイスをブンブン振り回しながら言う。

 放置して白衣にアイスをぶち撒けられる事を恐れた真也は、中腰になって少女と目線の高さを合わせることにした。

 黒を基調としたワンピースである為か、胸元から腰まで一直線に連なった綺羅びやかなボタンが却って強調されている。

 水晶かダイヤを思わせるボタンに太陽光が反射して目が眩み、真也は咄嗟に目を閉じてしまった。

 その直前に見えた少女の表情は、まるで最高に楽しいイタズラを思いついたような、正に小悪魔としか表現出来ない様な笑みで――、




 ――柔らかい感触が触れた。




 湿った、プルンとしたナニかが頬に吸い付き、チュプチュプと音を立てる。

 髪らしきモノがチクチクと鼻の頭に触れて、溶けたお菓子の様な甘い匂いが鼻腔を擽った。

 状況がわからずに疑問符を飛ばす真也に追い打ちを掛ける様に、柔らかくて小さな舌の感触が更に頬をなぞっていく。

 ソレが唇の端に触れた時、事態を把握した真也は漸くゆっくりと目を開けた。

 ――視界に入ったのは、満面の笑顔。

 イタズラが成功した快感に恍惚として、トロけきった様な少女の顔が、すぐ目と鼻の先で笑っている。


「お行儀悪いですよ~?

 ホッペさんにアイスなんか食べさせちゃ勿体無いんですから~」


 少女は明らかに笑いを噛み殺しながら言う。

 どうやら、頬に付いたアイスを舐め取ってくれたらしい。

 少女がアイスを食べていた為か、真也の頬は舐められる前よりもずっとベトベトになってしまっていたのだが――まあ、子供にそんな分別を求めるのも酷だろうか。

 何はともあれ、ナニが一番問題かと言うと……。


「……ホッペにアイス、な」


 真也は、呆れた様に少女の頬を指差した。

 年齢を考えれば当たり前のことではあるのだが、この少女の口は小さい。

 それこそ、一般的な大きさのアイスなんかまず頬張れないくらいにあまりにも小さ過ぎた。

 よってそんな彼女がアイスが溶けない様に必死になってカブりついたりなどすると、その問題は必然的に発生してしまうワケであって……。


 えーと、ナニが言いたいのかというと。

 つまり少女の顔は、頬どころか鼻の頭やら口端やらあちこちがスゴイ事になっていたという事である。


「え? 本当ですか?」


 真也にソレを指摘された少女は、一瞬だけ恥ずかしそうに頬を染めた。

 だが、それも本当に一瞬で、直ぐに袖で頬を拭おうと腕を上げ――。

 そこで、はたと何かに気が付いたかの様に動きを止めていた。

 また例の、ニマ~っという、非常に危険な笑みを浮かべている。

 少女は真也へと更に顔を近づけて、小さなほっぺたをクイっと向けた。


「舐めて下さいです~」


「は?」


 真也は、疑問符を飛ばした。

 彼女がナニを言っているのかよく分からず、コクリと首を傾げてみる。

 少女は無邪気な(・・・・)笑顔を浮かべながら、ニッパリと、


「え~? だってわたし、お兄ちゃんのお顔キレイにしてあげたんですよ~?

 なのにお兄ちゃんは、わたしのお顔はそのままにしちゃうんですか?

 そんなのズルいです~」


 “だから、舐めて下さいです~”と、少女は更に顔を近付けてくる。

 ――その距離、凡そ5cm。

 それはもう、ちょっと舌を伸ばせば触れるくらいの近さに少女の頬が寄せられた。

 脳に突き刺さる様な、あの甘ったるいアイスの匂いがハッキリと分かる。

 ……まあ確かに、このままにしておくのもあまり宜しくないかもしれない。

 真也は、軽く肩を竦めた。


「ああ、分かっ……」


 真也は舌を伸ばしかけて――。


 そこで、ふと気が付いた。

 目の前には、ぷっくりと柔らかそうな少女の頬がある。

 彼女が横向きに頬を突き出している為か、顎のラインや小さな耳の形までもがハッキリと見えて、二つ縛りの片方が真也の頭にピョコピョコと触れていた。

 アイスの様な、お菓子の様な甘い匂いがするが……まあ、それはあまり重要では無いだろう。


 問題なのは、一つ。少女の向こうの、文具店なのか古本屋なのかも判断しかねる様なボロ屋の向こうに、微かに人影が見えた事であった。

 服装からすると、魔導師だろうか?

 距離が70メートル程開いている為か背格好はよく分からず、ローブの色もハッキリとはしない。ただ、随分と年季の入ったボロボロのその布地を見る限り見習い魔導師とは思えず、ましてや真也の生徒でも無い事だけは確かだった。

 黒い装束を纏ったその人影は、まるで路地の影に紛れるかの様にして、しかし明らかにこちらを観察しているのが見て取れる。

 その気配は、真也に草本の影に潜んで獲物を狙う肉食獣を連想させた。


 ――自分がサボっていないか、魔導研究所の職員が確かめに来たのかもしれない。

 広場での一件からもう随分と時間が立っている事に気が付いた真也は、静かに顔を上げて姿勢を正すと、白衣のポケットからハンカチを一枚取り出して少女の顔をゴシゴシと拭った。

 あの“3グループニアミス事件”で彼女を汚してしまって以来、半強制的に持たされていた物である。

 黒髪の少女はどこか不機嫌そうに真也の顔を見つめていた様にも見えたが、直ぐに何かに気が付いたかの様に、ハッと息を呑んでいた。

 ポン、と。真也は少女の頭へと手を置いた。


「……悪い、もう戻らなきゃならないみたいだ。

 どうする? 研究所になんか付いてきてもつまらないとは思うが……。

 確か、アルに用があるんだよな? 

 重要な事なら代わりに伝えておいてやろうか?」


「えっと、はい。

 とっても大切なことでしたけど、もう大丈夫です」


 どこかトーンを下げた様な声で、少女は呟く。

 真也が横目で確認したその表情は、笑顔(・・)だった。

 まるで家族で遊園地に行った子供が帰り道に見せる様な、楽しかった一日の終りを理解して、そしてもうさっきまでの時間には戻れないと確信してしまった様な、そんな、どこか寂しげな雰囲気を湛えた笑顔である。


「だって……」


 ――いや。それではまだ足りないかもしれない。

 少女は確かに笑いながら、それでも間違いなく泣いていた(・・・・・)

 別れを惜しむ様に、或いは楽しかった(・・・)と懐かしむかの様に、これから先にはもう今以上に楽しい時間は訪れないとでも確信したかの様に、そんな、どこまでもどこまでも哀しすぎる表情で彼女は笑っている。

 真也には、その意味が分からなかった。

 人心に疎い朝日 真也という人間が、他人の、それもつい数時間前に出会ったばかりの子供の内心など理解出来よう筈も無いだろう。

 理解出来なかったので、真也は、なんとなく彼女の“痛々しい笑顔”から視線を上げた。

 彼の視線の先には死神の様なローブをはためかせる人影が立っていて、その右腕は、まるで天でも衝くかの様に高く高く掲げられている。

 無感情に、そして機械的に行われているであろうその動作に、真也は運動会でピストルを撃ち鳴らすスターターを連想した。

 人影は、ローブの影に隠れて見えない筈の口元を確かに吊り上げて、絶対に聞こえない筈の声をそれでも確かに真也へと理解させる。

 ――“殺れ”と。



「もう、手遅れですから」



 少女の声が聞こえたのと、その異変(・・)は同時だった。

 寂れた、年配の人々しか居なかった筈の商店街に、ガラスを釘で引っ掻いた様な悲鳴が木霊する。

 何かが砕ける音に、バリボリという骨が擦れる様な音。軟骨を噛み砕けばこんな音が出るんじゃないかと真也は思った。

 ――だが、ソレを詳しく分析している時間は彼には無い。

 四方八方から響く断末魔の声に紛れる様にして、或いは夜の闇を切り取って来たかの様に、自分と少女のモノを覆い尽くしてあまりある程に大きな“影”が、ユラリと背後に忍び寄って来たのを感じたからである。

 真也は撥ねる様に、しかしゆっくりと、確かめる様に背後へと振り向いた。



 ――“異形”が居た。



 浅黒く、そして子供の頸動脈でも噛み切ってその中身を前進に浴びたかの様な、どこまでもどこまでも赤黒い肌。全身の筋肉は耕し終えた畑をそのまま縦にしたみたいに隆起して、その全体に走るミミズの様な血管はビクンビクンと脈を打っている。人間の頭ほどもあろうかという腕は胃袋を裏返して貼り付けたかの様にヌラヌラと光る粘液に塗れ、そんなモノが昆虫の様に身体から6本も生えていた。それぞれの腕には太陽光をギラギラと反射する、ハンマーやドライバーやノコギリを思わせる無骨な解体用工具が収まっている。

 ――丁度、どれも人間大の木材を分解するのに便利そうな大きさだった。

 体長(・・)3メートルはあろうかというその“異形”は、魚のエラを血管ごと引剥した様に充血した様なガラス玉の瞳で、それでも確かに殺意を込めて、ハッキリと真也を、いや、その隣に佇む少女だけを見ている。

 見ているだけで吐き気を催す程に醜悪なその“異形”は、唇なんかとっくに腐って溶け落ちているクセに、その端を確かに吊り上げていた。

 そして――。

 人間の頭なんかスイカの様に砕いてしまうであろうその鉄鎚(ハンマー)を、何の躊躇も無く少女の黒髪目掛けて振り下ろした。

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