52. 魔導研究所所長の日常的な職務内容と現代日本に於いてはほぼ絶滅しつつある前時代的な教育手法の異世界に於ける現存を示唆する事例及び多くの場合予知能力の正体になるとされる経験則に関する調査報告
修練場の片付けが終わったのは、時計がとっくにお昼の時間を回った後だった。
丁度座学のコマの入れ替え時なのか。魔導研究所の廊下には見習い魔導師達が雑談をしながら行き交い、講堂からも微かに談笑の音が漏れている。
今日はもう講義が無い、荷物を纏めて帰途に着こうとしている魔導師達もまばらに見られる様だった。
――極々いつも通りの光景。
特に何の変哲もないその日常を流し見る様にして眺めながら、アルテミア・クラリスは自室に向かって歩みを進めていた。
一体何に使うのか。デフォルトの仏頂面でブーツの音を響かせながら歩く少女の右手は受け皿の様に真上へと向けられ、その上には総重量10kgはあろうかという大量の書類が乗っている。それは初めてその様子を見た者がいれば、この細腕のどこにそんな力があるのかと疑わずには居られない様な光景だっただろう。
しかし一見すると奇妙な手品の様にも見えてしまうその様は、観客がある程度の魔術の素養さえ備えていれば彼女の腕には殆ど力が入っていない事に気付けたかもしれない。
事実、重たい筈の書類はまるで空気が抜けかけたゴム風船の様に少女の手の平にくっついたり離れたりを繰り返している。
一流の魔導師たる彼女は、重たい資料全体に簡易的な軽量化術式を施すことで、大の男でも息を切らすほどの重りを平然と運んでいたのであった。
先の修練で過激な運動でもしたのだろうか。
額にじっとりと滲む汗を、少女は左手に収まった薄紅色のタオルで拭っている。
季節的にはまだまだ冬とはいえ、気密性の高い魔導研究所内の暖かさが災いしたのだろう。大魔導たる少女を象徴する漆黒のローブは、一般の魔導師達が身に着けるモノに比べると作りがしっかりしている為か生地が厚く、一度体温が上がるとどうしても汗を引かせるのに苦労が伴うのである。
……敬愛すべき創世の大魔導様が決めた風習ではあるのだが、コレばっかりはいつか絶対に何とかしなくちゃならないな~、などと誰にとも無く決意を新たにしつつ、また今夜の“入浴”でゆっくりと汗を流す事を楽しみになどしつつ、少女は気怠そうな雰囲気で廊下を歩んでいくのであった。
廊下は、相もかわらずガヤガヤとした雑踏に包まれている。
古今東西どの学び舎でも大して変わらないであろうその平凡な光景は、実は少女にはあまり馴染みがあるモノでも無かった。
何しろ15歳にして魔導研究所の所長職に就いている少女である。
彼女が“学生”としてこの場に立っていた時間は、この“平凡”に馴染む為にはあまりにも短過ぎた。
だからだろうか。学生達がこうして雑談をしている光景を見ると、決して自分がその輪に混ざれる事は無いと理解していて尚、つい話の内容を耳に入れようとする癖が付いてしまったのは――。
尤も。その癖をもし指摘されたとしても、意地っ張りな彼女は決して認めようとはしないのだろうが……。
歩くだけで割れていく人波に無感情を装った瞳を向けながら、少女はすれ違いざまに雑談の内容を聞き流していく。
その姿は、もしも客観的に見ている人間がこの場に居合わせたとしたら、まるで想像の中だけでも彼らの輪に加わろうとしている子供の様にも見えたかもしれない。
自身の顔色の微妙な変化になど終ぞ気づかず、少女は無意識の内に何でもない日常へと耳を傾ける。
聞こえてくる話はどれも他愛無く、そして彼らの人生を反映しているかの様に多彩だった。
今朝の新聞のニュースがどうだとか、ヴルがひれ伏して謝っていたらしいとか、マーニの新作ケーキが絶品だとか、或いは〇〇と××が付き合ってるだとか講師の△△が結婚するらしいだとか――。
講義の復習らしき内容を話し合っているあの集団は、近く小テストでも控えているのかもしれない。
もしもテストなんかに関係無く勉強しているとしたら、それは中々に感心な学生達だな~、などと、少女は決して届かない景色を眺めているかの様にフッと口元を緩めるのであった。
「おい、聞いたか?」
「うん、聞いた聞いた」
「ビックリだよね~」
危なげ無く、軽量化を掛けた書類を抱えながら少女は歩く。
特に意識した訳でも無く、彼女の耳は生徒達のそんな声を拾っていた。
――有名人のスキャンダルでも発覚したのだろうか?
あの“放蕩爺さん”がまたナニかやらかしたのかもしれないな~、などと適当に解釈しつつ、廊下の端でヒソヒソと話している生徒達の視界の外を、少女は特に気にした風も無く向かって歩き去ろうとして、
「まさかアルテミア所長が浮気されてたとはな」
「うん。勇気あるよね、特務教諭殿」
「ああ。こりゃバレたら修羅場だぜ?」
――ズル、と。盛大に床へとずっこけていた。
バラバラと、大量の資料が辺りにぶち撒けられる。
その音がよっぽど派手だったからだろうか。
ハッとした様に硬直した生徒達は、一瞬だけ少女の姿を確認すると、サッと目を逸らしながらそそくさと歩き去ろうとした。
「……待って、というかマジ待ちなさいちょっと!!
あんたたち!! 今の話、詳しく聞かせなさい!!」
神速で立ち上がりながら、吠える様にして少女は言う。
魔導研究所所長の剣幕を前にしては、当然ながら見習い魔導師程度に逆らう術などありはしない。
コッソリと立ち去ろうとしていた愛すべき三人の生徒達(女子1名、男子2名)は、少女の声にビクッと肩を震わせると、何やらヒドイ失敗をしてしまったとでも言わんばかりの苦笑いで振り返った。
不機嫌そうに細められた翡翠の視線に射抜かれて、叱られた子供の様に萎縮する3人。
初めは誤魔化す手段をあれこれと考えていた様にも見えたが、相手が悪いと諦めたのか、直ぐに揃って息を漏らしていた。
「その、とても言い難いんですが……。
4番街の“ソール”っていうレストランがあるじゃないっすか。
あそこ、今おれらの間で流行ってるデートスポットなんすけど、さっき特務教諭殿がそこで昼食を取っているのを見たってヤツが何人か居て……」
「テーブルの影になってよく見えなかったらしいんですけど、なんか2人席に座ってたらしくて、注文の内容からして相手は女性だったみたいで……」
「そ、それに、僕も今講義の質問をしようと思って探してたんですけど、この時間になってもまだ戻ってないって……」
「…………」
――レストラン?
――ただでさえ減給と借金で家計がスゴイ事になってるのに、あのバカが昼間からレストラン?
――それも、女と二人きりで?
色々と見逃せない点があった気がしたが、もっと見逃せない点があったので少女は努めてスルーする。
そして肩やら拳やらをワナワナと震わせながら、大きく大きく息を吸い込んだ。
「ソコじゃ無いッ!!
う、ううう浮気って!!
そ、それじゃまるで、あたしとシ――あ、アサヒ特務教諭が……」
「えーっ!? 所長!! ソレはいくらなんでも今更過ぎますよ!!」
口元を手で隠しながら、目を丸くして言う女生徒。
男子二人も、何故かうんうんと頷いていた。
その反応がわからずに目を細めた少女。
女生徒は更に続ける。
「だっておかしいじゃありませんか!!
男嫌いで有名なあの所長が、亡命者の男を家に上げてるなんて!!」
「行き場を無くした野良犬に屋根貸してあげてるだけじゃない!!
それに、アイツはこの国の出身じゃ無いんだから、あたしが何とかしてあげなきゃ宿一つ……」
「だ、だだ、だって、所長!!
この前仕事中に特務教諭殿に声を掛けられた時だって、怒る前に一瞬すごく嬉しそうな顔……」
「してない!! してないったらしてないッ!!
誰があんな常識知らずに……ってそうだ!!
あ、あああんた達、確か調合学閥でしょ!?
ちょっとエーテルの使用を控えなさい!! アレ幻覚作用があるから!!
うん、そう!! 幻覚幻覚!!」
先の修練の火照りがまだ残っているからだろうか。
少女は明らかに赤面した顔で、しかし必死にナニかを否定しながら、散らばった資料に風魔法を掛けて手元に掻き集めていた。
2言程詠唱しただけで、大量の資料は再度少女の右手へと収まって、
「……で。なんであんたは、さっきから目を伏せて黙ってるの?」
一向に自分の顔を見ようとしない、何故か俯いたままに黙っている“一人称が僕の男子生徒”へと声を掛けた。
「い、いえ。だ、だだ、だって……」
男子生徒は吃りながら言う。
熱でもあるかの様なその仕草に、訝しんだ少女は男子生徒の顔を下から覗き込んだ。
――ピクンと、男子生徒の肩が跳ね上がる。
見るからにいっぱいいっぱいな彼の表情は、明らかに何かを堪えている様であった。
やがて真っ直ぐに目を見詰めてくる少女の視線に耐え切れなくなったのか、男子生徒はキュッと目を閉じながら、まるで吐露するかの様に……。
「だって。所長と5秒以上目を合わせた男は、魂吸われるって噂が……」
「…………」
――ピキッ、と。
何かが凍りつく音が聞こえた気がした。
「バカ!! そんなの迷信だ!!」
俯く男子生徒の声を遮る様に、“一人称がおれの男子生徒”が入ってくる。
彼は萎縮する“一人称が僕の男子生徒”の肩にポンと手を置きながら、
「所長の呪いがそんなもんで済むわけねーだろ。
そりゃ触られた男は去勢されるの間違いだ」
「えー? ウチは裸を見た男の目は潰れるって聞いたよ~?」
「…………」
ワイワイガヤガヤと、何やら事実無根の噂話を始めた3人組。
曰く。所長は歳を一桁誤魔化してるだとか、月明かりを浴びると火龍に変身するだとか、小さな子供が大好物だとか、所長に噛まれると所長化するだとかなんとか……。
はぁ……、と。
少女は、聞いてしまった者が憐れになる程の、深い深い溜息を吐いた。
「命ず!!」
会戦を告げる狼煙の如く、書類を頭上高くに放り投げた少女。
最早人間離れを通り越して悪魔じみた速度で右手に魔力が収束され、僅か1字の詠唱で戦霊級相当の火球が3つ、3指の先から3人へと飛び出る。
一人称が僕の男子生徒は氷属性の先天魔術でソレをなんとか相殺し、女子生徒は咄嗟に張った抗魔術結界で上手く防ぎ、そしてもう一人の男子生徒は、同じく抗魔術結界で防ごうとしたが防ぎきれずに火の玉が腹に直撃していた。
ローブに火が着いて、ゴロゴロと転げまわって鎮火しようと必死になっている。
「今のを防ぎ切れないのは修行不足!!
あんた、後で補修!! もう絶対補修!!」
落ちてきた書類を再度手元に収めながら、少女はキッパリと言い放つ。
その様子を見ていた生徒たちの何人かが“嫉妬だ!! ジェラシーだ!!”とか意味の分からない事を言い始めたので、少女は再度書類を頭上へと放り投げた。
廊下に溢れ返っていた生徒達は、それだけで正に脱兎の如く、転がる様にして講堂の中や別階層へと避難していく。
3人組も、負傷した1人を抱えて飛ぶ様にして少女から離れていった。
――半径、凡そ10メートル。
一瞬にして人影が消失してしまった。
「…………なんか、イライラする」
独りぼっちになった廊下で、ポツンと呟く。
――いくらなんでも、今のはちょっとやり過ぎだっただろうか。
いや、まあ。魔導師とは即ち兵役も兼ねる危険な職なのであって、実践ではあの程度の火球が防げないようでは死ぬだけなのだし、こうしてたまに学生の練度を確かめる事は魔導研究所の創設以来脈々と受け継がれてきた(スパルタ)教育の一貫でもあり、つまり彼女の職務上は寧ろ推奨されている行為ではあるのだが……。
でも、いつもよりもつい力が入ってしまった事は否めないだろう。
少女は、自分でも理解出来ないモヤモヤが胸の辺りにつっかえているのを感じていた。
「いや、でも……。まさか、ねえ?」
自分自身に呆れたとでも言わんばかりに、少女は苦笑いする。
――そう、まさかなのだ。
少女はあんなバカの事なんかなんとも思ってないし、アイツも自分の事なんかなんとも思ってないだろうし、だから少女は、やっぱり全然イライラなんかしていないのである。
そう。そうに違いないのだ。
だって、まさかアイツに限って、自分以外の人間と昼食なんか食べるワケがないし、アイツが誰かをデートに誘うところなんか想像もつかないし、何より、異世界人のアイツに限っては、そもそもまともな恋愛感情なんてモノがあるのかどうかも疑わしいのである。
だから、そう。今少女が否定しようとしている事なんか、どれ一つをとっても、1ミリたりともあり得る訳が無いのだ。
そう、絶対に、無い。
無い、筈なのだが……。
「……なんだろ」
装飾付きの窓枠の外に覗く、白銀の街並み。
今も彼が居るかもしれないその場所へと目をやりながら、少女はなんとなく呟いてみた。
「なんか、ものすごく嫌な予感がする」
強烈な悪寒に、ブルリとその身を震わせる。
“異世界人とは独りにするとろくな事をしない生き物である”という事実を、この時の少女はつい失念してしまっていたのであった……。