50. 銀の国が誇る自国の首都を他国の攻撃から防衛する為の保守的な手段による善良な一般市民に対する弊害と警備の問題点及び目立たない格好故に逆に明らかに目立つであろうとある異次元生命体によるその観察記録
それは、爽やかな冬の匂いが薫る朝の出来事だったという。
澄み渡る様な青空が広がる早朝、いつもと同じ様に持ち場たる王都の正門前へと訪れた門番の青年は、何やら呆然とした顔つきで立ち尽くす事になった。
深夜に降った小雨のせいだろうか。雲を突く様に聳える、龍種の牙ですらも傷一つ付かないとすら形容される王都の防壁は、今日も静かな存在感を誇示しつつ、しかしその全身を曇らせる様な結露に濡らしている。
心地良い冷気を醸す銀面が、蒼い朝日を乱反射して鈍く光っていた。
――そう。この壁は雨が降ろうが槍が降ろうが動じない、世界最強の隔壁だ。
魔術大国・銀の国が誇るそのあまりにも不動に過ぎる偉容は、しかし外界と内界を完全に別の世界として隔てる事によって、つまりは外の世界の全てを内と切り離す事によって内包するモノを守るだけの“障害”でもある。
当然ながら、障害は意思を持たない。
銀の国がその象徴として世界に誇るこの白銀の防壁は、訪れる者が悪鬼であれ羅刹であれ、聖人であれ菩薩であれ、その全てを分け隔てなく遮断する。
それが訪問者の性質など一切加味しない、ただ単一の役目としてこの防壁に与えられた機能なのだから、当然と言えば当然の話だろう。
故にこの王都に居を構える住人は、老若男女の隔たりなく全ての住人が何よりも“門限”を重視していた。
これも、ある意味では当然の成り行きである。
何故なら門とは即ちその出入り口を閉める事によって内部を守る為に存在する器具なのであって、年がら年中開けっ放しになんかしてしまえば、“悪しき敵国の蛮族ども”がいつ何時神聖なる国家の懐へと忍びこむか知れたものでは無いのだから……。
つまるところこの都市の門は、定められた時間を除いては如何なる人物がその正面に立とうとも決して開くことなど無かった。
伝説に聞く創世の大魔導の秘技には100の顔を自在に使い分ける禁呪もあったとされているし、そんな極論に限らず、そもそも時間外に門を叩く様な“怪しい人物”の為に戸口を開くなんて事は正気の沙汰では無いからである。
それは喩え、門を叩いたのが最果ての丘に住む魔導師や王宮に住むことを許された高貴な大臣様、そして、たまたま門の外に取り残されてしまっただけの“善良な市民”であろうとも例外では無く……。
「おはようございます~」
跳ね橋が開いたばかりだったのだろう。
門番の視線の先にある木目の壁が、ゆっくりゆっくり前に倒れ、ガコンという音を響かせる。
その鈍く大きな雑音の中にも、幼い子供に特有の甲高い声は良く通った。
青年の目に映ったのは、たった一人でそこに立つ子供の姿。
跳ね橋の向こうに、20メートル程の距離を隔てて、小さな女の子が無垢な笑顔を浮かべながら佇んでいる。
歳は、両の指があれば十分に数えきれる程度だろうか。
この国では珍しい、絹糸の様な黒い髪を赤いリボンで2つ縛りにしたその少女は、大粒のルビーの様な瞳をイタズラ気に細めながら、呆気に取られている門番の青年の顔を真っ直ぐに見つめている。
一体、どれくらいの間あそこに佇んでいたのだろうか。
開かれたばかりの跳ね橋をトコトコと駈けてくる少女が纏う、ゴシック調のファンシーなワンピースは、朝露の為か全体的にシットリと湿っている様に見えた。
保護と排斥は等価である。
内に存在するモノを死守するためだけに存在するこの偉大な防壁は、内に存在するモノに与える安心感に比例して、その壁を超えて内に入ろうとするモノ達の目には底知れない絶望感を齎す。
そう。例えば門の外に遊びに行った子供が運悪く道に迷ってしまったり、遊びに熱中しすぎて時間を忘れてしまったり、或いは何か人に言えない様な失敗をしてしまって、親に怒られたくなくて家に帰れなかったりなんて事情があれば、彼らが王都の門前に辿り着いた頃にはとっくに門限を過ぎているなんて事態もあり得るだろう。
そうなれば、普段自分達を守ってくれているこの障壁は、交渉の余地すら無い悪魔の様な顔で彼らを睨みつける事になる。
実際そういったケースは、この街では年に何回か恒例行事の様に発生しており、門の外にはそういった“時間外の来訪者”を一時的に保護する役目を担った騎士の駐屯所も何個か設けられているくらいである。
尤も。それはそういった施設の存在を予め知っている人間に対してしか意味を成さない条件であり、もしも、万が一何の知識も無い子供がたった一人で外に取り残されてしまうなんていう事態が発生した場合には、この少女の様に門の外で一晩中雨風に吹かれながら朝を待っている……なんて光景も、年に1回くらいは見られない事も無いのであった。
かく言う門番の青年も、実は子供の頃には1度だけ同じ経験をしたことがあったりもする。
この真冬の寒空に一晩佇んでいたのなら、さぞかし彼女の身体は冷え切っていることだろう。
生憎と渡せる布を一切持っていなかった鎧姿の青年は、いつもの爽やかな笑顔で財布を取り出すと、“これで温かいスープでも買いなさい。もうお父さんとお母さんを心配させる様な事をしちゃダメだぞ?”と和やかに言いながら、少女に1フェオを渡した。
「はい、ありがとうございますです~」
少女は目を細めてニパッと笑いながら、ペコリとお辞儀をする。
元気よく顔を上げた少女の口元からは、可愛らしい八重歯がチラリと覗いていた。
門の外に一晩取り残された子供は、大抵の場合この世の終わりの様な号泣と共に発見されるのが常なのだが――それだけにこの少女の無垢な笑顔は、青年の心をなんとも和ませたのであった。
……同時に、この後彼女を待ち受けるであろう両親による“通過儀礼”を考えると、青年は少しだけ心痛を感じたりもするのではあったが。
そんな彼の老婆心になど気づいた様子も見せずに、少女は無邪気に飛び跳ねながら門の中へと入って行った。
「あ。すみませんです、お兄さん。
一つだけ聞きたいんですけど……」
――と。
苦笑しながら少女を見送る青年に、少女は何かを思い出した様にクルリと振り返ると、
「“銀の国の大魔導さん”のお家って、どこにあるですか?」
「――――?」
門番の青年は、首を傾げた。
“銀の国の大魔導”と呼ばれる少女になら、彼には勿論心当たりがある。
否、彼だけではあるまい。おそらくこの街に住む殆どの人間は、最果ての丘に住む“赤髪の魔女”の話くらいは常識として知っているだろう。
――そう。それほどまでに、“彼女”の知名度はこの街では高かった。
そしてソレに反比例して、普段から何の躊躇も無く火球を乱舞させる“彼女”の人気は、その顔を見ただけで泣き出す子供が居るくらいに低かった。
ほぼ毎日の様に“彼女”と顔を合わせている門番の彼は、流石にそこまで彼女を嫌っても恐れてもいなかったが……。
それでも、流石にこんな小さな女の子が“彼女”の家の場所をわざわざ聞こうとしている事には少々の違和感を覚えた。
「…………」
――だが、まあ。
門番たる彼の仕事は“怪しい人物”の排斥と善良な市民の保護なのであって、それには適度な道案内くらいは勿論含まれている。
よって彼は、“彼女”が住む丘を指さしながら優しくその住処を教えてあげる事にした。
「む~……。ちょっと遠いんですね~。
わかりました、街の中で待ってみますです。
ありがとうございましたです~」
拙い言葉ながら、女の子は精一杯の礼を尽くして言う。
最後に天使の様な笑顔を零し、黒髪赤目の女の子は朝日に煌く白銀の街へと消えていった――。
その光景を木々の隙間から眺める男が居た。
否、“眺める”という動詞すら本来なら適さないだろう。
銀の国の王都・シルヴェルサイトは深緑の草本が覆う開けた草原と崖の様な山岳を分かつ場所に位置しており、その周囲には林どころか小高い木すらも殆ど目につかない。
よって今男が佇んでいる様な、人の姿を隠して余りある程の木々を目にする為には王都の正門から直線距離にしても5km以上を隔てなければならず、実際に男と正門の間には優にそれ以上の距離が開いている。
ならばこそ、喩えその男が正門前の光景を正確に把握していたとしても、肉眼で俯瞰するという意味合いの強い“眺める”という単語をこの場で用いる事には少々の躊躇が伴うだろう。
そして常理の内に立つ人間には到底不可能であろうその行為を平然とやってのけた、という事実が示唆する様に、その男が醸す雰囲気は余りにも常軌を逸した物であった。
男は“影”だった。
昼間でも薄暗い、鬱蒼と生い茂る木々の間に佇む男の姿は、真実の意味で虚ろなままに木陰に融け合っている。
否、それも無理からぬ事だろうか。
細く、細身で、病的なまでに痩身に映るその男は、生きた人間の醸す躍動感や鼓動といった気配を一切醸さないまま只そこに在る。
間近に立たれても気付けないのではないか、とまで思える程に希釈された存在感しか放たないその“影”は、加えて、尚も人間としての在り方を消し去るかの様に、全身を漆黒の装束に隠していた。
――真紅の少女のものと同色のその服装は、しかし妖しさの中にもどこか可憐な印象を伴う彼女とは似ても似つくまい。
男の装束は薄汚れ、擦り切れ、継ぎ接ぎされた布地の隙間からボロボロの糸が何本も飛び出て風に揺らめいている。
男の表情は伺えない。
全身を夜気の様な闇色の装束に包んだその男は、まるで全てを見通す筈の太陽の監視からすらも逃れる様に、深い深いフードの下へとその顔を隠してしまっている。
フードの下の素顔が髑髏だったとしても納得してしまいそうな程に不吉なその在り方は、死者の魂を地獄に連れ去るという死神の様にも見えた。
「標的が王都に逃げ込みました」
“影”は淡々と、感情の篭らない声でそう呟く。
十分な大きさと共に発せられた筈のその声は、しかしどこまでも掠れ、没個性的で、平坦とした、人間味の一切感じられない物であった。
――声に答える者は居ない。
物理的に彼の声を聞き咎める事の出来る位置には、彼以外の人影は一人たりとも存在してはいない。
「了解しました。では、予定通り地下水路より内部に潜入します」
存在しない誰かとの会話は続けられる。
恐怖とは、多くの場合未知より生じる感情だ。
余りにも朧で、虚ろで、色が無く、それ故に理解出来ないその“影”の在り方は、それそのものが凝縮した夜の闇の様に見る者の不安を煽る。
「――はい、必ずや成功させてご覧に入れましょう。我が王よ」
見えない筈の口元が吊り上がった様に感じたのは、果たして目の錯覚だったのか。
木陰よりも尚深い影にその身を埋没させ、暗がりに融ける様にフードを被り直す黒い男。
薄汚れた布を引くその左手には、彼自身の異形を示す橙赤色の魔法円が輝いていた――。