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朝日真也の魔導科学入門  作者: Dr.Cut
第一章:イクリプス-1『守護魔召喚』
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5. 人間が一日に感じる不幸という概念に対するPETWHAC的解釈を考慮した確率論

 とある地方の学園都市。

 その郊外にひっそりと佇む、コンクリート製の地味な建物。傍目から見れば、それはどこかの建設会社の物置の様にも映るだろう。


 しかし見物人がそういった先入観と共にその建物に足を踏み入れたのであれば、次の瞬間には内部に設置された数多の機械と資料の数に言葉を失う事は間違い無い。

 実はその建物は、地下の巨大実験施設へと繋がる出入り口なのである。



 レプトン衝突型主線形加速器。

 リニアコライダーとも呼ばれる、電子と陽電子を加速・衝突させる事によって一時的に宇宙初期の超高エネルギー状態を再現する物理実験装置。

 それがこの施設に製作された器具であった。


 線形加速器、と言えば、前時代的で小規模な装置と考える方も多いだろう。確かにこれまで、事実として高エネルギー加速器と言えばCERNのLHCに代表される様な環型が主流であった。


 しかし近年の加速器の超高エネルギー化に伴い、物理学者達は従来の環型加速器では、現段階以上に粒子の速度を上げるのはコスト面から難しいと判断し始めた。速度が大きくなるにつれて、シンクロトロン放射によるエネルギーロスが桁外れに増大する為である。


 “これ以上のエネルギーを環型加速器で実現しようとするのならば、地球の外周に加速器を作らなくてはならない”、などという冗談も有るくらいであり、つまり近年では、LHCを超える高エネルギー粒子衝突実験を可能にする加速器は、現実的には線形でなくてはならないという見解が大多数の物理学者達の総意を占めている。


 加速器設計の国際協力チームが世界中で研究を進めている、そんな最新鋭の物理実験装置。

 この学園都市の地下20メートルに存在するのは、そのうちの一つであった。


 街を貫き、遥か西へと伸びる地下トンネルは全長約45kmにも及び、35000台近い超伝導空洞が衝突時には理論上18TeV付近のエネルギーを実現する怪物マシンである。



 そんな巨大装置の入り口。

 殺風景な倉庫の如きその建物に、足を踏み入れる一つの影。

 未だ皺一つ無いその幼い顔立ちは、ともすればその施設の正体を知らずに興味本位で忍び込んだ学生とも解釈されかねないだろう。

 しかしその青年が放つ気怠そうなオーラは、未知の建物の内部に興味を踊らせた子供の物とは到底思えず、また彼の身を包む純白の装束は、彼がその若輩に過ぎる年齢とは無関係に自然界の神秘を司る聖職にある者である事を示唆していた。



「…………」


 いかにも不機嫌そうな態度で、ふてぶてしく建物に入ってきた青年。電子機器がこれでもかと備え付けられた部屋に侵入し、まるで何かを物色するかの様に辺りを見回している。


 そこはかとない不快感が見受けられる双眸が、ホワイトボードの前のデスクに留まる。

 そこに丸めてあったタオルを発見し、彼は安堵したかの様に溜息を吐いた。(かじか)んだ手でそれをとって、ゴシゴシと頭や顔を拭き始める。

 青年の髪は、何故かバケツでもひっくり返したかの様にグッショリと濡れ、物理学者のトレードマークである白衣からは、黒いインナーが透けて見えていた。



 ――さて。

 なにやら散々な様子の青年ではあるが、取り敢えずは一度、今朝より彼の身に起きた出来事の数々をダイジェストでお浚いしておくとしよう。



 この日の青年、朝日 真也は最悪だった。


 彼は今朝、何故かいつもよりも不自然に清々しい気分と共にレム睡眠域から現実世界へとその意識を引き戻された。睡眠中に見ていた物語は、覚えている限りでは大して素晴らしい物でも無く、どちらかと言えば悪夢に分類される類のモノであったので、目が覚めたのはまあいい。と、彼は思っている。


 だがそこで、夢物語のエンディングテーマとしてすっかりお馴染みになった例の電子機器が生み出す雑音を未だに聞いていないという事実に気が付いて、彼は奇妙な不安感に襲われた。


 枕元の定位置にて時を刻んでいる筈の、文明の利器の代表選手を見上げてみた青年。

 その精密機械が起床予定時刻の丁度5分前に燃料を使い果たしていたという事実を観測し、寝起きの為にエンジンのかからない彼の脳細胞は凍りついた。



 熱力学の第二法則は正しかったと確信する。

 永久機関は作れない。



 朝食を摂らず、身嗜みも気にせずに家を飛び出した青年は、この施設へと向かう道中で突然の豪雨へと見舞われた。雪や(みぞれ)でないだけましであった、と、青年はなるべく前向きな解釈をするように努めている。

 しかしながら真冬の雨は想像以上に彼の体温を奪い、持ち前の聡明な判断力を鈍らせた。


 氷が混じっていないのが不思議なくらい冷たい雨の中、信号という信号には全て引っ掛かり、ふと隣を走り去って行ったタクシーに乗ろうと右手をジーンズのポケットに忍び込ませた時には、財布と携帯を家に置き忘れて公共交通機関は疎か同僚にすらも頼れないという新事実を発見してしまった。



 一文無しで昼食をどうしようか、などと肩を落として思考する彼の隣を通り過ぎる大型バス。その巨体と自分の間に大きな水溜りができているのを確認した彼は、既にこれ以上濡れ様がないという程にグッショリと濡れた身体で反射的に後方へと飛び退いた。

 2歩下がった所にあったのは凍結した路面。

 早朝に、近くの団地に住むお婆さんが打ち水をしたらしい。

 壮大に足を滑らせながら前方の水溜りへと滑走し、顔面を地に打ち付けながら泥水を啜るという漫画みたいなアクションをこなしてみた青年であった。


 “地球温暖化を促進させなくては。一刻も早く”

 口に入った泥を吐き出しながら、彼は恨み言の様なスローガンを誰にとも無く呟いた。



「まったく、なんて日だよ……」


 白衣を脱いで、シャツの下から身体を拭く青年。

 捲られたインナーの下から覗く体には、脂肪の少ない肌に薄っすらと腹筋の形が浮き出ている。

 線の細い顔立ちで、ともすれば中性的とも形容されそうな容姿の彼ではあったが、日頃から田舎道を徒歩通勤している為か、その身体は割と健康的だった。


 髪の水分を拭き取り、八つ当たりするかの様にジーンズに付いた泥を擦り落とす。

 あまりにも連続して降りかかりすぎた災いの数々にどうしても納得がいかず、彼は自らの運勢という物に対して科学的な見地から推察しようと、凍り付いた思考に冷静さを求めてみる。


「ふむ……」


 不運について考察を始めた青年は、不意に以前読んだ科学啓蒙書の筆者が提唱していたPETWHACという概念を思い出した。



 PETWHAC(Population of Events That Would Have Appeared Coincidental)とは、日本語に言い換えるのであれば、“本来は偶然に過ぎないのに何か関係がある様に見える事象の集合体”の事である。


 例えばある日、とある主婦が、夫が免許証を忘れたまま会社に出勤した事に気付いたとしよう。彼女はすぐさま夫の携帯に電話をしたが、繋がらない。仕方ないので彼女は、免許証をエプロンのポケットに入れて、夫が帰って来てから渡す事に決めたとする。


 その日の午後、病院から掛かってきた電話を取った彼女は青褪めた。午後2時半頃に夫が事故に会い、先程息を引き取ったと言われたからだ。彼女はその報告にショックを受け、エプロンのポケットに入れていた免許証の夫の写真を見て涙を流したとする。


 さて、もしもここで免許証番号の下4桁が1430。つまりは夫が事故に会った時刻と一致していたりした場合、彼女は血が凍りついた様な驚きを味わう事になるのだろう。


 この話は十分に不幸な運命の範疇に入るとは思われるが、あえて感情を捨てて批判するとすれば、これは果たしてそれほど数奇な確率なのであろうか?


 例えば今回のケースであれば、免許証番号の下4桁が夫の亡くなった時刻である午後3時20分を示していたとしたら彼女はもっと驚いただろうし、また夫が事故に会ったのが4月30日であったとしても彼女は驚きを得る事が出来たかもしれない。

 また免許証番号は12桁あるので、赤斜線で区切られた中四桁が事故の時刻を示していてもよかった筈であるし、その数字が0130であったりしたならば、彼女は自分が免許証を発見してから約1時間30分後に夫が事故に会った事に因果を感じたかもしれない。


 この様に、本来は人間の死亡時刻とは何の相関性もあり得ない免許証番号などという数字の羅列であっても、受け取り手が拡大解釈を繰り返す事によって何らかの関連性がある様に感じられる事があるというのがPETWHACという概念のあらましである。この集合は、人間の解釈の仕方によって無限に増え続ける。


 占いは信じている人にしか効果が無いとは良く言ったものだ。なにしろ、信じていない者は“数奇な出来事”の集合を無理矢理広げたりする事は稀であり、結果としてPETWHACの規模は小さくなるのだから。


「…………」


 さて、それでは彼自身が本日経験した不運という物が、果たしてどういった確率で起こる物なのだろうかという事を考えてみよう。


 例えばそう、目覚まし時計の電池切れである。

 今回は起床予定時刻の5分前に電池が切れていたが、別に時計が止まるのは50分前でもよければ5時間前でも結果は変わらなかっただろう。目覚ましをセットする時刻を1時間程間違えていたとしても今朝と同じ結果に至っただろうし、もっと言えば二度寝やアラームスイッチの押し忘れも今日と同じ結果を齎すファクターになり得ただろう。


 その後巻き込まれた豪雨にしても、一体年間のべ何百万人の日本人が同じ状況に陥るというのか。特に今朝の自分の様に天気予報を見る時間も無かったのであれば、傘を持たずにその渦中に放り出される確率も高まろう。

 財布や携帯にしても同様だ。

 またそういった差して珍しくも無い偶然の重なりを“不運”として認識してしまえば、注意散漫になって氷に足を取られる事もあるだろうし、今日の自分が“不運である”という認識は更にPETWHACの規模を拡大させるという悪循環を生むだろう。



「はぁ…………」


 一度大きく息を吐きながら、冷静に戻った頭で、先程までの自己の短絡的思考を反省してみる。


 そう。結局は、この程度の不幸が連続する事など大して珍しい事象でも無いのである。

 これらの現象には、何の連続性もありはしない。

 否、自分でその発生確率を悪い方向に跳ね上げたとすらも言える。


 厄日やら不運やらが根拠も無く思考回路に上るあたり、やはり自分もまだまだ未熟だな、などと、彼は眉間に指を当てる様な仕草をしながら自嘲した。



「…………?」



 その時彼は、自らの手の臭いに違和感を覚えて目を丸くした。青年の掌からは、なにやらまるで雨上がりの農村地帯の様な臭気が漂っていたのだ。


 目線を、ゆっくりとタオルに移す。


 よくよく見ると、そのタオルはまるでペスト患者の様にあちこちを真っ黒な斑点に覆われ、全体的にジットリと湿っていた。丁寧に述べるのであれば、あまり清潔であるとは言い難い。


 偶々手にとったタオルがカビの温床になっている確率にPETWHAC的解釈を求めようとした青年は、先程ソレで顔を拭いた事を思い出して取り合えず床へと叩き付けた。いい音が響き渡る。小走りでシャワールームへと向かいながら、タオルを放置した職員には後で苦情を訴えてやろうと心のメモに予定を書き記す彼であった。



―――――



 お湯で洗い流した黒髪を白い布で脱水しながら、青年は再び精密機械の並ぶ部屋へと足を運ぶ。

 因みに現在使っている布は、仮眠室に積んであったシーツを勝手に拝借した物である。清潔な布がそれ意外に見つからなかったのだから仕方ない、と、彼は自分に言い聞かせてみる。なに、熱めのお湯で洗ったのだから、きっと直ぐに乾いてくれるに違いない。


「それにしても……、

 職員はどこに行ったんだ?」


 誰もいない部屋を見回しながら、ポツリとそんな呟きを零す青年。頭が冷静に戻るにつれて、今度は実験の予定時刻を過ぎているのに誰も現場にいないという事実が彼を焦らせていく。



 高エネルギー加速器を用いた粒子衝突実験。

 宇宙初期の原初の火の玉、ビッグバンのエネルギー状態を再現するこの実験は、成功すれば質量の発生機構やダークマターの正体に迫れる可能性を秘めており、また極小のブラックホールを生み出す事によって余剰次元を確認出来る可能性もある。

 そして本日、真也は素粒子論の専門家の一人としてこの場に呼ばれていたのである。


 彼は、職員の行方について何か手掛かりが残されてはいないかと、湯冷めしそうな身体に鞭を打って辺りを見回した。


「……?」


 ふと、実験装置の気圧計に目が留まった。

 装置に近づき、目を細めて数値を読み取る。

 その値を理解した瞬間、彼は大きな失望感と脱力感に襲われた。


 一度目を閉じ、大きく深呼吸をしてから、もう一度だけ視線を装置へと向ける。


 しかしそんな事で目の前の精密機械が仕事をやり直すなんて事はある筈も無く、やはり目を閉じる前と同じ数値を示しているのであった。



「……成る程な、これは駄目だ」



 状況を察して呟く。


 装置の示している気圧は、一週間排気していた割には異常な程に高かったのだ。

 排気系統のトラブルか、はたまた装置のどこかに亀裂でも走っているのか。まあ大型加速器が故障する事など、世界的に見てもよくある話である。

 どちらにせよ、研究所の職員達はこのトラブルを解決する為に加速器の点検でもしに地下に降りているのだろうと彼は解釈した。


「まったく、実験が中止になったなら一言連絡でも……。ってしたんだろうな。オレのミスだ。

 まあ、なんにしても、装置の点検をするなら電源くらい切ってけって話だよな」


 適当に愚痴を零しながら、操作パネルにあるスイッチを落とす真也。地下への入り口に掛かっているヘルメットを被り、階段前の扉へと手を伸ばす。

 その瞬間、なんとなくドアノブに掛けた左手の平が目に入った。



「…………。

 はぁ…………」



 憂鬱そうに、更に大きな溜息を吐く。

 彼の掌には、昨日描いた落書きが、未だにはっきりと残っていたからである。


「やれやれ。

 まさか適当に取ったペンが油性だったとはな。

 全く、つくづくなんて日だよ……」


 袖で手を隠しながら、重苦しい扉を開く。

 彼は何の疑問も危機感も持つ事無く、奈落に続く様な地下への階段へと消えていった。




 再び無人となったコントロールルーム。

 そこには、加速器が稼働している事を示す赤ランプだけが、煌煌と光を放っていた――。

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