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朝日真也の魔導科学入門  作者: Dr.Cut
第二章:雷神鉄鎚-4『Day Hard』
41/91

41. 発刊年月日が少々古い為にかなりの情報の吟味と取捨選択が必要とされたとある魔導の参考資料を用いた魔導研究所所長による新任特務教諭への休日夜を利用した特別講座

 少女の家で過ごし始めてから何日目の出来事だっただろうか。

 その夜、朝日 真也は月明かりの下で読書に耽っていた。

 彼が静かな面持ちで目を滑らせていくその本は、片手で摘むには少々分厚い革表紙の古本で、少女の家に山と存在する魔導書の中でも特にアダマス鉱の自由変形について記してあるモノである。

 不死鳥の羽根ペンが魔力を開放する仕組みと初級火炎魔法の類似点についての考察と、それを応用して予め魔法円を材質に刻みこむ事によって羽根ペンを使わずに意図した単一の形状に変形させるという術式について述べてあり、その利便性の高い発想が少なからず彼の興味を引いたのであった。


 壁際に備えられた魔法光源の灯りを頼りに、若き科学者は黙々と未知の知識に触れる。

 内面に渦の様な思考の流動を伴い、しかしその天啓の様な閃きすらも決して面には出さない彼の慣れた仕草は、傍目には完成した一枚の絵画の様な静粛さを伴って見えただろう。

 憂う様に目を伏せ、寡黙に文面へと思考を集約させながら、彼の細く繊細な指先は薄茶けたページを這ってゆく。


 どれほどの時間が経っただろうか。

 暫しの間ページを捲る以外の音が存在しなかった図書館に、パタン、という本の表紙を閉じる音が響いた。

 どうやら、切りの良いところまで読み終えたらしい。

 読後の心地よい余韻に浸るかのように、真也はなんとなく遙かな天蓋へと目を移し、肺いっぱいに空気を満たしてみる。

 嗅ぎ慣れたインクの芳香ごとソレを大きく吐き出すと、呼気に含まれた水分は拡散と同時に結露して、天蓋に嵌められたステンドグラスを薄っすらと白く染めた様に見えた。

 近くを見つめ続けたことで疲弊した毛様体筋に休息を与える為に、細まった彼の焦点は部屋の遠くを眺めてゆく。


 ――その場所は、少女によってベッドから蹴り落とされたあの初夜に、彼が安息の地を求めて彷徨っている間に偶然見つけた一画であった。

 居住領域からは、直線距離にして凡そ20メートル程だろうか。

 10メートル近い、高層ビルのような本棚が立ち並ぶこの屋敷の中に於いて、更に一際多くの本棚が密集している区画。イメージ的にはビルの合間を走る路地か、或いは受ける圧迫感からは洞窟という形容も可能だろう。

 幅そのものは、この屋敷の一画としては特に広いとも狭いとも言えない。独りで陣取る分には本をソファー代わりにして寝そべっても差支えは無いが、二人以上で集まるには少々狭苦しいという、なんとも微妙かつ絶妙な容積を誇っている空間である。

 過ごすならば独りに限るであろうその狭さは、しかし偏屈かつ人間嫌いというパーソナリティを育んだ彼の嗜好はピタリと嵌ったのであった。


 特に最高だったのは、この場所が屋敷の壁に当たる部分に位置しており、更にこの部分の壁だけ何故か総ガラス張りになっているという点である。

 この屋敷に設置されている“魔法光源”は前時代的な蝋燭よりは遥かに安定した光を供給してくれているのだが、それでも真也が現代日本で慣れ親しんだ蛍光灯やLEDライトの灯りに比べると、流石に少々見劣りすると言わざるを得ない。壁いっぱいの窓ガラスを通して差し込む薄紅色の月明かりは、彼が夜の読書に耽るのを慎ましくも鮮やかに補助してくれていたのである。

 ……まあ、壁がガラス張りになっているお陰で室内の熱が素晴らしい勢いで外部へと流出してしまい、結果として呼気が白く染まるほどに室温が低下してしまっているという事実は少々いただけない要素(ファクター)ではあったが。

 真也の体感では、このあたりの室温は凡そ10~15℃といったところだろうか。

 召喚された翌日に彼がこの一画に残っていなかったという事実が示唆する様に、容積はともかく気温を鑑みれば、今の時期のこの場所は長時間の滞在には適さないらしかった。

 無論、彼とてそれは重々に承知している真理であり、そもそも彼も初めからこの場に長時間居座るつもりなど毛頭無い。

 このところ些細な変更点(・・・・・・)のあった風呂事情によって芯まで火照り切った身体を冷ましに来ただけなのであって、読書は本来そのついでだったのである。

 少々肌寒いこの空間も、今の彼には汗を引かせる為にずいぶんと便利な心地よさである様に感じられていた。


「……で」


 天蓋の鑑賞にも飽きたのだろうか。

 ステンドグラスから正面へと視線を戻し、真也は謎の呟きを零した。

 オレンジ色の照明に照らされた黒い瞳が、正面に聳える本棚の陰へと向けられている。


「君は、いつまでそんなところにつっ立っているつもりなんだ?」


 不満気に目を細めながら、彼は更に続けた。

 彼の視線の先にはやはりこの屋敷を埋め尽くす本棚の一つがうず高く聳えており、それ自体は、地球の常識で考えれば奇怪でこそあるが大した問題では無いだろう。彼も、流石にこの屋敷の奇抜な内装にはもうそろそろ慣れつつあった。


 ……問題なのは、棚の隙間から覗く本棚の向こうから何故かやたらと目立つ赤い髪がピョコンと覗いているという点である。この物置もかくやという図書館の中で、あんな鮮やかな色彩を放つ髪の持ち主になど、真也には一人しか心当たりが無い。


 真也の言を聞き止めた赤髪は、一瞬だけピクリと跳ねた様にも見えた。

 だが、すぐに観念したかの様に「あはは……」と気まずそうな誤魔化し笑いを浮かべながら真也の前へと現れた。

 完全に予想はしていた事ではあったが、流石に真也は小さく息を漏らさずにはいられなかった。


「……異世界人(オレ)の生態に興味があるのは分かる。

 未知の生命体に知的好奇心が刺激されるのは道理だからな。多少気は散るが、見られているからといって別段気分を害するようなことは無いさ。

 観察するなら、もっと近くから見てくれても構わんが?」


「ナニよ。お楽しみ中みたいだったから、気を使ってあげたんでしょ?

 あんたみたいなバカのライフワークなんか調べたって、見習い魔導師の教材にもならないってのよ」


 淡々と、しかしどこか棘のある声色で告げる真也。

 そんな不尊な彼の物言いが気に触ったのだろうか。

 湯上りで少々紅潮した肌を月明かりに染めつつ、少女は不満そうな表情で答えた。


「? 生態観察以外に、一体何の用件があるっていうんだ?」


「……毎度の事だけどさ。あんたの頭の中ってマジでどうなってんのよ。

 湯上りで気を使ってあげたって言ってるんだから、用件なんて1つか2つくらいでしょ?」


 少女は呆れた様にため息を吐くと、右手に持っていた薬瓶をポンと放り投げ、2言ほど何かを呟きながらパチンと指を鳴らした。

 無造作な放物線を描きながら回転飛行していた瓶は、指の音を聞くと同時にピタリと空中に静止し、滑るような滑らかさで泳いで真也の手元へと収まる。

 どうやら、飲み物(ポーション)を持ってきてくれたらしい。

 湯上りで少々喉が乾いていたこともあり、真也はソレをありがたく受け取ると、蓋を開けて中身の青透明の液体を口へと流し込んだ。

 さっぱりとした甘みが、心地よく身体に染みてゆく。


「ふん。お礼くらい言いなさいよね?

 全く、あんたってヤツはいつもいつも……」


 不機嫌そうにブツブツと、しかしどこか心地よさそうな口調でそう愚痴りながら、少女は当たり前の様に真也の隣へと腰を下ろした。

 左手に持っていた自分用の薬瓶をポンと開けて、中身をコクコクと飲み始める。

 少女の体格は地球の女児平均と比しても少々小柄な部類に入ったが、それでもこの一画は二人で座るには少々手狭であるらしく、彼らの肩同士は静かに触れ合った。


「で? 今日はナニ読んでたの?

 ……ああ、魔力操作術式を応用したアダマス鉱自由加工の手動化ね。

 ソレ中盤くらいの基本魔法円を覚えるのがちょっと面倒いけど、後半の変化系統別階層化霊道を使った単一変形術式の複数種常駐化って発想がけっこう面白かったよ?

 護符(チャーム)に記録しとける術式は原則一つだけだけど、その一つを最大7通りに解釈出来る様に階層化して刻んで、使用目的に合わせて流しこむ魔力量で陣を選択するってヤツ。その著者、こういう肌理細かいアイデアは流石って感じかな」


「ん? ああ、やっぱり君も既読だったか。

 10ページ目辺りからなんとなくそんな気がしてたんだが、やっぱりそうだったんだな」


「? “そう”って、ナニが?」


「……君の勤勉さに感心したんだよ。

 ところでだが、この『“常駐化”の際には実在先天魔術を有詠唱術式によって再現の上で過不足無い濃度の魔力を用いて術式を馴染ませる。但し魔法円を刻む位置は視認出来る範囲に限るべき』というのはどういう意味なんだ?

 不死鳥の羽根ペンの最大有効射程は、最大で100メートル以上なんだろ?

 だったら、別段視認出来る位置に施術を限定する必要は無い気もするんだが……」


「ふ~ん、いいところに気づくじゃない。

 確かにあんたの言う通り、今じゃ視認不可の位置に魔法円を敷設するのも一般的だよ?

 でもね。この本が書かれた当時には、アダマス鉱をそこまで複雑な形状に加工する必要性自体がまだ無かったの。

 単純な形状に加工するだけなら表面に陣を刻むだけで事足りるから、魔力充填の位置を補正する難易度を考えたら、わざわざ目の届かないところに書きこんでまで陣そのものを簡略化するっていうメリットがあんまり無かったってワケ。

 ほら、ココ。『更に我はアダマスのより複雑かつ煩雑な形状を生み出すに当たり、83の驚くべき施術方式を確立するに至った。しかし残念ながら、此等の形状を利用する術を我は知らず、何よりもこの場に記しきるには余白が少なすぎる』って書かれてるでしょ? 今の一般的な解釈だと、この83の施術の内72の術式は――」


 身を寄せて件の本を覗き込みながら、少女は参照部分に人差し指を這わせてゆく。

 身体を冷やし過ぎたのだろうか。

 フリル付きのネグリジェ越しに伝わる少女の体温が、青年には妙に熱く感じられた。


「……ってなるからさ。

 だから、降魔聖水の調合を少し変えて、ここを――」


 身を乗り出して、手元の本の解説を続ける寝間着姿の少女。

 狭く、静かな空間で密着しているからだろうか。

 触れ合う肌からは、彼女の鼓動がトクン、トクンと響いてくる様な気がした。

 髪からか、それとも彼女の身体からなのか。

 イチゴの様な、或いは柑橘系のようにも感じられる良い匂いが、少女の髪が揺れる度にフワリと香る。


「――ってなるわけ。

 どう? ちょっとは分かった?

 もうちょっと詳しく知りたいなら、魔導研究所に最新の論文がいくつか置いてあるけど……って、あんた聞いてる?」


「ん? ああ、問題無い。

 要するに、この本は古すぎるから参考程度にしとけって事だろ?

 資料を参照する時にはよくある話じゃないか」


「うわ、スゴい適格かつ身も蓋もない言い方。

 まあ合ってるけど……って実はあたしの説明聞いてなかったでしょ!!

 信じられない!! 人に質問しといて話を聞き流すとか、あんた一体何様なワケ!?」


 冷静に分析する青年の言葉に一度は納得させられそうになった少女だったが、しかし今の解釈には少女の説明に対するフィードバックが一切無かった事に気がついたようで声を荒らげた。

 疲れた様に息を吐いた真也。その態度が気に触ったらしく、少女は彼の胸元をポカポカと叩いてくる。

 少女の癇癪をどうどうと宥めつつ、真也は再びポーションをコクリと呑み込んで喉を潤した。

 出会って数日とはいえ、24時間同じ空間で生活していれば、この程度のスキンシップはまあ日常風景にもなるものである。


「……ふん。まあ、別にいいけどね。

 どうせ休み(・・)が終わったら、研究所でたっぷり扱いてやるつもりなんだし」


 一通り青年に罵声を浴びせた少女は、少し落ち着いたのかそんな事を言って、


「それで? あんたは何でまた、こんなトコに独りで居るのよ。

 本くらいリビングでゆっくり読んだらいいでしょ?」


「……独りになっちゃ悪いのか?」


「へ……?」


 不意に発せられた青年のその一言に、突如冷水でも浴びたかの様に表情を固めた。

 真也は、小さく息を吐く。


「どうにも昔から、たまに独りにならなきゃやってられない性分なんだ。

 まあ本などどこで読んでも大して変わらんのだろうが、それでも独りで読める場所があるならそれに越したことは無いだろう。

 まあ、少々寒いのがいただけないかもしれんがな。

 わざわざ君の前で読む必要も特に無いじゃないか」


 青年は他意無く、何でもなさそうにそう告げる。

 おそらく、それは本心からの彼の言葉で、虚飾は全く無いのだろう。

 人間誰だって、たまに独りになりたい時くらいある。

 いや、寧ろそういうプライベートな時間は本来あって然るべきものだし、人によっては何よりも大切に思うことなのかもしれない。

 少女だってそれくらいは分かるし、そのくらいは簡単に納得した事だっただろう。

 ――先の、彼の目さえ見ていなければ。


 虚無的な瞳だった。

 本を読み終わり、本棚の裏に居た少女に誰何を発したときに彼が向けてきた視線には、そんな自分の時間を持ちたいなどという小さな理由とは全く別次元のナニかが含まれていた様に感じてしまったのである。

 まるで生命体の存在してはいけない氷河の海に入ってきてしまった生命(いのち)に、こっちには来るなと吹きつける吹雪のような。そんな、酷く冷たいナニカも触れてしまった様な気がしたのだ。


 だから、彼の一言は少女を酷い不安に駆り立てた。

 この青年は、本心ではやはり自分に召喚された事を恨んでいるのではないのかと、少女はそんな不安を強く抱いてしまったのである。

 勿論、少女だってわかっている。

 少女はこの青年を一方的に呼び出し、命を盾に他国の異世界人達との殺し合いを強要している身だ。表面上は普通に接していたのだとしても、この青年が自分に嫌悪以外の感情を持つ事などまずありえないのだと、少女の理性は確かにそう理解している。

 それでも――。

 それでも、身勝手かもしれないけれど、一緒にバカみたいな騒ぎを起こして、こうして一緒に夜を過ごしている相手が本当に本心から自分を嫌っているのだと思うと、少女にはそれがどうしようもなく悲しい事に思えてしまった。

 だって、これではまるで――。


「……オレが君を恨んでいると思っているのなら、それは酷い誤解だぞ」


 少女が表情を歪めていると、彼はそんな不安を軽く打ち砕くかの様に淡々と告げた。


「……ウソでしょ」


「? 嘘なんかついてどうするんだ?」


「ウソ!! だってあんた、あたしのせいで家族とも友達とも離れ離れになって、挙句死ぬ様な目に合わされてるのよ!? これで少しも恨んでないだなんて、あんたがそんな聖人みたいな性格してるワケ無いじゃない!!」


 少女は言った。

 彼の言葉に反応して、反射的に。

 今までずっとずっと不安に思っていた事を吐露するかの様に、少女は彼にその問を投げかけた。

 ――そう。恨んでいないワケが無い。

 自分が逆の立場だったら、絶対に恨むだろうし、そして悩んでいると思う。

 彼だって表面上の態度だけは普通に接してくれているだけで、本心では、きっと何度自分を殺したいと思ったか分からないに違いないのだ。

 なまじ彼との日々を心地よいと感じ始めていたからこそ、彼の心に対するその不安だけは、彼女の心に強く蟠っていた。

それを、


「恨むわけ無いじゃないか」


 彼は、簡単に打ち砕いてみせた。

 その時自分がどんな顔をしたのか、少女には分からない。

 分からないけれど、ただ、きっとバカみたいに口を開けてポカンとしていたのだとは思う。


「確かに面倒だし、御免被りたいとは思うけどな。

 でも、それで君を恨むっていうのは筋違いだろう。

 オレは聖人なんかじゃ勿論無いだろうが、同時に君に八つ当たりするほど子供でも無いつもりだぞ?」


 一切の虚飾を感じない、透明な声で彼は言う。

 それが何故か、少女にはどうしようも無いくらいに嬉しく感じられてしまった。

 こんな酷い立場にされてしまって、それでも自分を責めないでいてくれる彼の優しさが、ずっと独りで過ごしてきた少女の心には酷く暖かく感じられたのである。



 ――ソレを知らなかったのは、少女にとって果たして僥倖だったのだろうか。

 家族も、友人も、ひいては人間という生き物そのものも、彼にとっては少女が思っている程に興味のある対象になどならなかったという事を。

 そして恨みという感情は、本質的に人間が人間に対して向ける物である。

 同じく知人を殺されるという事象に於いても、人為的に殺された場合と野生動物に襲われた場合では感情の温度が変わってしまうであろう様に。

 彼が恨んでいないという事実の根底には彼が少女を人間として見ていないという前提があり、そして仮に少女を人間として見ていたとしたら、朝日 真也はこうして少女(にんげん)と寄り添うような事などまずしない人間であるという事実を――。


「……ありがと。

 あんたって、さ。強いよね」


 自分と彼の間に横たわる温度の差異に、この時の少女は未だ気付いてはいなかった。



「月、綺麗だよな」


「うん……」


 苦笑し、そしてどこか自嘲する様に、真也はそう呟いた。

 ポーションをコクリと飲み込み、少女も小さく相槌を打つ。

 目線を総ガラス張りの窓の外に移し、二人は天空に漂う赤い月を見上げた。

 初夜よりも少しだけ蝕の進んだ天体が、穏やかな灯りを灯しながら微笑みかけている。


「あんなに綺麗なのに、さ。

 月って、どうしてあんなところにあるんだろ」


 微睡む子供の様な、透明な声色。

 どこか壊れてしまいそうな儚さで、少女はそう呟いた。

 フッと口元を綻ばせる。


「あたしね、月ってけっこう好きなんだ。

 この丘は、空が綺麗に見えるからさ。

 まだちっちゃかった頃からね、この窓から、よく独りで月を眺めてたの。

 今日のあんたみたいに、本を読むのにもお世話になったしね」


 ――小さな頃から、ここで独りだった。

 少女はその事実を、特に何でも無い事の様に告げる。

 そして、静かに目を伏せた。


「でも、ね。月を見てると、ちょっとだけ不安になる時もあってさ。

 あんなに綺麗なのに。手を伸ばせば届きそうなのに、あたしがどんなに頑張っても、絶対に届かない。絶対に、この手に掴む事なんか出来ない。

 ……高慢かもしれないけど。あたし、自分を天才だと思ってるからさ。

 その気になれば伝説の魔法使いにだって追いつける、追いついてみせるんだ、なんて本気で思ってて、今でもそうなんだって信じてる。

 ……でも、こうやって眼の前に自分の限界を突きつけられたりすると、ちょっとね」


 それは、どんな表情で言ったのだろうか。

 目を伏せ、顔を伏せた少女の表情は、真也から伺う事は出来ない。

 彼女がどんな風に過ごしてきたのか。そして、どんな思いでこんな独白をしているのかなんて、彼には知る由も無い。

 ただ、彼女の声が今にも泣きそうなくらいに弱々しい物だったという事だけは、人心に疎い真也にもはっきりと分かってしまった。

 そして、少女はおちゃらける様に苦笑した。


「……なんてね。

 大丈夫。あたしも、流石にもう子供じゃ無いからさ。

 こんな当たり前な事くらいで不安になったりなんてしないよ。

 今のは、ちょっと言ってみただけ」


 どこか沈んだ空気を入れ替える様に、少女は笑顔で言う。

 顔を上げた少女は、本当にいつも通りの、気が強そうで可憐で快傑な表情をしていた。

 それは少女が本当にそう思っているのかもしれないし、未だに抱えている幼き日のナニカを誤魔化しているだけなのかもしれない。

 真也に、それを判断する事は出来なかった。

 ただ。この少女が不安なんか無いと言うのならばそれでいいのだと、真也はぼんやりと月を眺めながら思っていた。


 その夜にあった出来事は、突き詰めればそれだけである。

 この時だけは、いや、もしかしたら次の日一日くらいは覚えているかもしれないけれど、精々一週間もすればお互いの記憶から消えてしまう程度の、本当に他愛の無い日常会話。

 ――だからこそ。

 この時の彼らは、まさかコレがあんな一日(・・・・・)の幕開けになるだなんて、全く予想すらもしていなかったのである……。


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