39. 様々な異世界に於いて一般的に見受けられるとある階級の少女の言動に対する権力者達の反応及び異界の青年が披露した世界の生態系に少々影響が大きそうに思われる奇妙な武器に対する観察と考察
その夜、ウラノスは文字通りの意味で舞い上がっていた。
発端となったのは、二日前に自室でイチゴショートを頬張っていた彼女に“氷民議長・イオ”が届けた火急の知らせである。
“氷の国の赤い守護魔が出向準備中。
狙いは武の国王都・ヴィーンゴルヴ。”
天の国は貴族の国だ。
貴族の条件とは、即ち誰よりも“知っている”事。
幼い頃から国の代表としての教養を叩き込まれる貴族達は、確かに能力面で極めて優秀ではあるものの、しかし数の上で有象無象の被支配階級には遥かに劣る。
暴れ出すと恐ろしい民衆という獣を御する為には、まず誰よりも国と世界を知り、情報というエネルギーを御するだけの掌握力が要求されるのである。
故に天の国は、6国の中でも特に策謀と間諜に長けた国となった。
各国の裏に手を回し、根を回し、内部の情勢を知って情報を制御する術に非常に秀でるようになったのである。
その情報収集能力は、深さという点に於いては音に聞こえし銀の国の魔導王には及ばぬものの、しかし“広さ”という点に於いては、あくまでも一個人でしか無い彼を遥かに凌ぐ程の物となっていた。
今回の報も、氷の国に送り込まれた間諜が齎したモノであった。
遥か氷の国より飛来した使い魔が伝えた、氷の国の守護魔の姿と、その狙い。
犬の様な耳を生やしたその魔人が手にしていた地図には、間違いなく果ての無い平原を通るルートでのヴィーンゴルヴへの道のりが描かれていたのだという。これは事前に聞いていた氷と武の守護魔の関係の険悪さとも一致しており、最早疑いの余地など無い事柄であった。
そして、そんな事態を“彼”が見逃す筈も無い。
情報を得た“彼”は即座に武の国へと“調停”に赴く意思を示したのである。
しかし、それには少々の問題もあった。
ヴィーンゴルヴへの距離は、氷の国からも天の国からもさほど変わらない。
そして氷の国は、この世界最速の騎乗生物・魔犬を持っているのである。
いくら力強い天の国の翼竜でも速さでは敵わないし、そもそもウラノスは翼竜になんか乗ったことが無い。
一流の騎手に頼んで運んでもらう事も出来なくは無いが、流石に二人も三人も人間を背に乗せた状態では、とてもじゃないが間に合うとは思えなかったのだ。
よってウラノスは、乗り物での移動を諦めた。
“彼”はともかく、自分が貴族用の豪華な竜籠に乗っているところなんか全然想像出来なかったし、そもそも彼女本人が頑張った方が遥かに速かったからである。
ウラノスは神樹から適当な葉を一枚狙って頂戴すると、拙い言葉で何とか三院議会の貴族達を説得し、意気揚々と先天魔術を使って“彼”と共に大空へと舞い上がった。
初めて見る高層からの眺めに、外の景色。
頬を撫でる爽やかな風に、ウラノスの胸はどうしようもないくらいに高揚した。
遠征という名目を考えると少し不謹慎にも思われたが、正直に言うと、彼女にはそんな事なんかあまり重要では無かったのだ。
いや、まあ。彼が争いを止めたいと言うなら勿論協力したいのだが、それでも、この日の彼女はそんな事なんか全然気にする余裕なんて無いくらいに有頂天だったのである。
――彼と、二人きりでの国外旅行。
最高だった。
旅なら窮屈な衣装も着る必要なんか無いし、お目付け役の執事にお小言を言われることも無い。堅苦しい社交界でギクシャクする事も無ければ、貴族のみんなにいびられることも無いのである。
しかもそれが“彼”とたった二人での空の旅だなんて、それはもう、考えただけで神様こんなに幸せでいいんですかって飛び跳ねたくなるくらい、彼女にとっては最高だったのだ。
出発前には“エウロパ炎民議長”にはギロギロと睨まれたし、帰った後はかなりイジメられそうでちょっと憂鬱にもなるけれど、それでも、そんなことなんか全然気にならなくなるくらいに、その日のウラノスは舞い上がっていた。
果てのない平原を突っ切るよりも死の国を経由した方が、偏西風の関係で楽だという進言もあった。
でも、どうせだったら不気味で有名な“黒の凍土”よりも壮大な平原の方を眺めたい。
彼女が敢えて貿易風に逆らうルートを選んだのはご愛嬌だったろう。
ウラノスは、小さな家のリビングくらいは面積のありそうな葉っぱの上で“彼”と身を寄せ、自慢の先天魔術を使って一日と半分、仮眠と休憩を挟みつつ飛び続けた。
――結果として。
彼らは今、その場所へと至っていた。
「うわ、噂には聞いてたけど――。
見て見て、ユピ様!! ヴィーンゴルヴって、ホントに闘技場ばっかりだよ?
灯りが夜空みたいに光ってる!!」
虹の橋を越えて飛行を続けること、実に5刻。
2人の男女を乗せた広葉の船は、目的地の上空をユラリユラリと泳いでいた。
人が二人乗ってもビクともしない頑丈さは神樹の葉自体の強度に頼むところが大きかったが、鳥の様に自在に飛び回れるのは彼女お得意の風魔法のお陰である。
葉そのものに飛行魔術を掛け、広い表皮に風を当てて帆のようにする事で、一切の魔法を無効化する筈の“彼”までをも空に浮かべているのだ。
昔からこっそりと、貴族のみんなの目を盗んで空を飛んでいた事が報われた気分で、ウラノスはちょっと嬉しくなった。
緑の船は、星の海を航海してゆく。
眼下に広がる白磁の街並みは、南半球に位置し、現在は真夏に当たるこの国の熱波を象徴するかの様に、轟々と燃え盛る燭台の炎に照らされている。
高貴で煌びやかな天の国首都の外観とはまた違う、どこか無骨で質素にも思えるその異国の景観は、しかし深く洗練された“何か”によってウラノスの目を強く惹きつけていた。
「うん。確かに綺麗だね」
どこか透明な声で、“彼”はそう答えた。
“彼”は身を乗り出すウラノスの腰に手を回して支えながら、複雑な面持ちで夜空の様に煌く街並みを見下ろしている。
少女がキョトンと首を傾げていると、“彼”、ユピテルはどこか寂しげな雰囲気で言葉を続けた。
「綺麗な街だよ。
闘技場の造りも、装飾も、凄く洗練されている。
……争いごとに使うには、勿体無いくらいに、ね」
「あ……」
ウラノスは、“彼”の言わんとする事を理解した。
そう。この人の平和主義は、それはもう筋金入りなのである。
彼は、争いを好まない。
ホントは誰よりも強いのに、他人の怪我ひとつ許せない様な、本当に優しすぎる人なのだ。
そんな彼なら、いくら綺麗に作られていても、確かに“人が怪我をする場所”なんかを見ていい顔をするはずが無かったのである。
“乱暴な娘だと、思われたかもしれない”。
ウラノスが不安に駆られてオロオロしていると、彼は彼女の体を引き寄せ、ポンと頭に手を置いた。
「大丈夫だよ。
あの綺麗な建物自体は、素直に素晴らしいと思ってる。
それに――。
僕達は、こんな物が必要無くなるように“お願い”をしに行くんだからね」
ほっそりとした彼の指先が、少女の緑髪を撫でていく。
空の上に二人だけって事自体どうにかなりそうなのに、そんな事をされると、それだけでウラノスの頭はトロンと溶けそうになった。
カクン、と、一瞬だけ葉のバランスを崩しそうになる。
心臓は街中に響きそうなくらいバクンバクンと脈を打って、顔は熱帯夜が裸足で逃げ出すくらいにカ~っと熱くなって、頭の中ではホント神様今まで悪口とか陰口とか散々言ってゴメンナサイ本当にありがとうございますとか絶叫したい様な、そんな感情がグルグルと回り始めていた。
ウラノスは、取り敢えず、首元の赤いスカーフに鼻の頭まで顔を埋める事にした。
――ドンッ、と、大きな花火が打ち上がった。
街の中心部に聳える、鋼がキラキラと飾られた白塗りの塔の前当たりで、空を焼き尽くしそうなくらい大きな火の玉が弾け飛んだのだ。
――熱帯夜の星の海に、“花火”。
シチュエーション的には最高だと言えなくも無いが、今のがそんなロマンチックな代物で無い事くらいは、花火なんか殆ど見たことの無い彼女にも一目で理解できた。
あんな、触れただけで生き物を骨まで焼き尽くしてしまいそうな暴力的な炎は、決して人を楽しませるために上げられた物ではあり得ないからである。
その考えを裏付けるかの様に、火の玉を受けて粉々に砕けた石柱が、まるで火山灰か何かの様に一際豪華な闘技場の上に降り注いでいた。
「ユピ様、今の――」
「気になるね。行ってみようか」
神妙な面持ちで頷き合う。
ウラノスは恍惚に溶けた意識を切り替えると、右腕にて緑光を放つ魔法円に魔力を流し込み、爆音の元へと風を強めた。
――繰り返しになるが。
この日のウラノスは、本当の意味で舞い上がっていた。
もともと、あまり上等な教養を身につけているとは言い切れない彼女である。
6大国の冷戦だとか、他国への遠征なんて言われてもあまりピンとこなかったし、そんな事よりも“彼”と二人きりで遠出出来る事の方が彼女にとっては遥かに重要な事項だったとしても、まあ仕方の無い事柄だったであろう。
そんな彼女が、仮に、本当に仮にだが、あまり深く考えずに空気の読めない発言をしてしまったとして、それを果たして誰に責める事が出来ただろうか。
……結論を述べれば。
この日の彼女は、色々な意味で飛んでいたのである。
―――――
夜気に澄んだ翠の双眸は、夜空に浮かぶ闖入者の姿を映していた。
白雲を纏った紅月を背に、一枚の木の葉が浮かんでいる。
踊る様にして天を舞う葉は、しかしその実非常識な程に大きい。
頭だけを出してこちらを見下ろしている彼女が小人でないなら、あの葉は人が4人は大の字で寝られる程の面積があるだろう。
それ程までに巨大な葉など、ウェヌスは天の国の神樹を除いて他に知らなかった。
ならば、話は単純だ。
おそらく彼女は、天の国からこのヴィーンゴルヴまで、遥々とあの葉に乗って飛んできたのだろう。
――バカな。
ウェヌスは、客観的な見地から自らの頭に過ぎった考えを否定した。
風魔法とは、4属性の中で最弱の属性を示す名である。
精霊に魔力という名の糧を与え、その見返りとして力を借り受けるという魔術の定義に於いて、精霊の力と性質はそのまま魔術としての能力に影響している。破壊と想像を司る火の精霊が、自らが産み出した眷属たる土の精霊に対して致命的な破壊力を誇る事などは、正しくその最たる例と言えるだろう。
同様にして怠け者で気分屋という性質を持つ風の精霊の力を借り受ける風魔法は、遍在する精霊という存在の力を借りるという魔術の定義の中にあって、しかしその全てを御する事は決して出来ないと言われている代物なのである。
魔力を提供すると、その半分以上を思い思いの用途に無駄遣いしてしまうからだ。
これはほぼ全ての魔力を“加熱”に使用する火の精霊と比較すると最早話にならない割合であり、要するに、風魔法とはそのくらい燃費が悪い魔法なのである。
故に風魔法を扱い切るには、風の精霊によるロスを補って余りある程の魔力を掌握し切るだけの、圧倒的な魔力の集積能力が必須とされた。
言うは易いが、しかしその実情は難いどころの話では無い。
何しろ風属性基本魔術の“軽量化”でさえも、常人ならば5刻と維持出来ずに霊道が焼け付く。“飛行魔術”の域になれば領域そのものに陣を刻まねば常用する事などままならず、狼霊級以上に至っては、最早適正の無い者が扱おうとすれば激痛に発狂する程の魔力が要求されると言われているのだ。
つまるところ、風魔法の使用には、他属性の同ランクに比して常に2つか3つは上のランクの魔術を行使する程の、甚大な負荷が付き纏うのである。そしてそれでも尚、“風”という現象の性質上、その威力は同ランクの他属性魔術と比べて随分と控えめな物となる。
――そう。
あの少女が乗っているのが仮に神樹の葉だとしても、まさかそれで天の国から飛んできたなどという可能性はあり得ないだろう。
あんな巨大な物体を媒体に飛行魔術を行使すれば、常人ならば5分ともたずに魔力が限界容量を突き抜け、焼け付く様な激痛と共に発狂している。
“果てのない平原”を魔術を用いて飛びきるなどというのは、それは正気の沙汰どころか、最早人間では無く竜種や怪鳥などの一部の魔獣種にのみ適応される話なのである。
彼女が真っ当な人間なのだとしたら、そんな事態はあり得てはならない。
混沌としたままに戦慄するウェヌスの内心を気にも止めた気配も無く、少女の緑髪は月明かりの中で、じゃれる様にフワフワと揺れていた。
「みんな~!! ちょっと待っててね~!!
今そっち行くから~!! 戦っちゃダメだよ~?」
「…………」
――ガクリ、と、ウェヌスは肩から力が抜けるのを感じた。
突然上空に現れた第三者が、戦闘中の自分たちに声を掛けている。
これは、いい。とうに武闘大会が終わった今、あの少女の目的など自分達を置いて他にあり得ないからである。
だが、このあまりにも気の抜けた様な、間の抜けた声はなんなのだろうか。
あの緑髪の少女がこちらに投げかける言葉には、敵意どころか死合いの緊張感や切迫感といったものすらも、微塵も含まれてはいなかったのである。
それは、まるで公園で遊んでいる子供達の和に加わろうとしているちょっと抜けた子供の様な、殺伐としたこの場にあって何の冗談かと呆けそうになる程に場違いな物に思われた。
――しかしこの場には。
不運にも、この手の冗談を冗談として流し切れない性分の人物が居た。
「……予に指図。それも上からとはな」
瞬帝、メルクリウス・フィンブルエンプである。
若き皇帝は艶かしく揺れる青髪をフワリ、と耳の後ろに寄せると、まるで羽虫でも見る様に目を細め、声のトーンを落とした。
「頭が高いぞ、下女」
続く言葉は一投と同時に放たれた。
皇帝の右手が虫けらを払う様にヒョイと揺れたかと思うと、瞬きの内に指の間に挟まれていたダガーが一本、消失する。
「あっ!!」と、夜空から降ったのは微かな悲鳴だった。
ダガーに切り裂かれたのか。
少女の首に巻かれていたスカーフが、白雲渦巻く月光の中にフワリと舞う。
ズルリ、と、少女の身体が葉から転がり落ちる。
よほど大切な物だったのだろうか。
緑髪の少女は宙に浮く葉から落下しながらも、空に舞い踊るスカーフをハッシと掴み、見目にあわあわとしながら飛行魔術で減速してコロッセオの上に降り立った。
「きゃ……!!」
……運が無い性質なのだろう。
少女は足元に散らばる瓦礫に足を取られ、ズルッと尻餅を着いていた。
「フミャ!!」なんて踏まれた猫のような声を上げながら、口を結んで痛みに耐えている。
ウェヌスは、そこはかとない頭痛を覚えた。
燭台の炎が、闖入者の容姿を更に鮮明に映し出した。
王女の視線の先では、15歳くらいの、髪の色を除けばどこにでも居そうな少女が、目端に涙を湛えて臀部に手をやっている。クリーム色の、少々地味な印象を受ける旅服には切られた部分は見当たらず、怪我をしている様子は無かった。
どうやらメルクリウスは、今の一投を本当に様子見のつもりだけで放ったらしい。
少女を葉から落とし、這わせる事だけが目的だった、というところだろうか。
だが――。
「は!! ハハハハハハハッ!!!!
これは滑稽だ!! 天の国に、緑髪!!
まさかとは思ったが、そのまさかか!?」
少女の風貌を見咎めた皇帝は、腹を抱えて笑い出していた。
口調こそ笑ってはいるものの、しかし感じる色には歓喜も嘲笑も含まれてはいない。
――それは、“狂笑”だった。
自らの逆鱗に触れたものに向ける、掛け値なしの怒りの発露。
青髪の皇帝はまるで蛆でも見るように目を細めると、スカーフを失って顕になった、ボロボロの少女の首筋へと顎を突きつけた。
「……貴様、“解放奴隷”だな?」
独白する様な重みを伴った、艶のある声。
しかしそこには、人が人に向けるモノとは到底思えない程の侮蔑が含まれている。
「緑髪の、奴隷――?
なるほど、“風の民”ですか」
確かめる声は王女の物だ。
皇帝の揶揄により、彼女もこの少女の素性に思い至ったのだろう。
少女は俯きがちに口を噤みながら、露出された首筋を両手で押えている。
自らの首を絞める様な、傍目には自虐的にも映るその行為は、しかしこの場にあっては肯定以上の意味合いを示していた。
――奴隷。
他の多くの異世界でそうである様に、この世界にも奴隷階級は厳然として存在していた。
その立場に置かれる理由は様々だという。
先祖が背信したか、権力闘争に敗れたのか、或いは他国から攫われてきたのか。
どういった経緯でそう決まったのか、までは分からない。
ウェヌスが知っているのは、緑髪を特徴として最弱属性の風魔法にしか適正を示さない“風の民”という民族が、貴族の国たる“天の国”に於ける奴隷の代表的な“銘柄”になっているという事実のみである。
音に聞こえしその用途は様々だ。
家庭に於ける家事手伝いから、生活格差が激しい天の国で最下層としての、“家畜”としての第一次産業。
……現実としては、こういったまともな用途に使われる方が少数派かもしれない。
廃棄物処理をしながらスカベンジャーとして生きる物から、疫病感染者の埋葬を生業とする物に、富裕層の愛玩として弄ばれる物。
煌びやかな貴族社会の皺寄せとして、奴隷階級たる彼らには、それこそありとあらゆる“汚れ仕事”が回ってくるという。
否。そも人間扱いなどされていないのだから、“仕事”などという名称からして不適だろうか。
天の国の国内で、そして時には大規模な人身売買組織によって国外にすらも秘密裏に売り買いされる、“言葉を話す家畜”。
それが奴隷階級、“風の民”に対する、この世界の人間の一般的な認識であった。
この少女が今までどのようにして“飼われて”きたのかを、ウェヌスは知らない。
この少女がどういう経緯を経てこの場に居合わせたのかなど、彼女は想像出来ない。
仮にも一国の王女としてこの世に生を受けたウェヌスには敵国の、それも一奴隷の経歴など知る術は無かっただろう。
そして、それ以上に――。
「亜人の分際で――」
今王女の隣で感情を剥き出しするこの皇帝には、そもそもそんな事を斟酌するつもりすら無かった。
「貴様は誰に指図したぁ!!!!」
怒号は天に残された葉を震わせる程に高く響いた。
月光を遮る流雲の下、燭炎を反射した刃が閃き、皇帝の右手から虚空へと消え失せる。
――次瞬、3条のダガーが少女の元へと降り注いだ。
1つは右目を抉り、1つは肺に突き刺さり、また1つは変色した少女の首筋から頸動脈を切り裂く軌道。
皇帝の怒りに呼応するかの様に、狼霊級相当の冷気すらも纏いながら致命的な距離に転移した刃は、無防備にへたり込む少女の身体などズタズタに切り裂くに違いない。
そう。
「待ってくれないか?」
この場に“彼”さえ居なかったのなら――。
一瞬の出来事だった。
ダガーが放たれる直前、空から舞い降りてきた、1つの人影。
緑衣を靡かせながらコロッセオに降り立ったその影は、黄金の残照を残したまま、音一つ鳴らさぬ所作で大地へとその左手を触れた。
――瞬間、その場は異界へと変貌した。
降り立った影が触れた、石造りの舞台。
それが眩い燐光を発したかと思った時には、既にそこは無骨な闘技場などでは無くなっていたのである。
王女が認識できたのは、どこまでも鮮やかな、鮮やかに過ぎる緑の色彩。
何の冗談か。
人影と少女を中心として、半径約2メートル。
目を奪う程に青々しい草本が、鬱蒼と生い茂っている。
それはまるで、瞬きの内に砂漠にオアシスを作るという神の奇跡の再現の如く。
人影が手を触れたその領域には、天上の楽園とでも形容すべきほどに見事な庭園が広がっていた。
――そして。
神の奇跡であったのなら、その領域を人の敵意ごときが侵す術などありはしないだろう。
皇帝の放った3つの銀閃は、突如大地から伸びた蔦に、葉に、そして樹木によって打ち払われ、転移を果たすと同時に粉砕されていた。
怒りに震える皇帝の顔が、憎悪に歪み、引き攣った。
「……だから、どうした?」
独白は一瞬だ。
メルクリウスは右手をマントの裾に掛けると、一息の元に脱ぎ捨て、乱暴に振り抜いた。
闘牛士を思わせる優雅な所作と共に、赤銅の布地がコロッセオに振るわれる。
王女の顔が驚愕に染まった。
彼女が見たのは、マントの内に秘められたダガーが弩の如く空中にバラ撒かれ、その全てが虚空に溶け失せる瞬間だったからである。
瞬間、武装姫は、先ほどまでの戦闘はこの皇帝にとって遊びですら無かった事を知った。
放たれた刃の数、優に3桁。
矮小な人の身に刺しきれぬ程の刃の雨が、時間と距離を跳躍し、生身の人間へと降り注ぐ。
それは処刑と表現するのも生やさしい程の、人間二人を殺傷するにはあまりにもオーバーキルな虐殺劇だった。
だが――。
「……残念だよ」
絶望すべき人影の返答は、何故か皇帝を悼むモノだった。
再度大地が放った、一際深い、そして眩い燐光。
青々とした草本が光り輝き、一面に紅く綺麗な薔薇が咲き誇った。
――それが、一瞬の出来事。
咲き誇る花々は瞬きの内に散り、夏風に揺れて花吹雪が舞い踊る。
庭園の中心に佇む二人を包む様に舞う、花弁のカーテン。
その最中。
花吹雪を浴びた皇帝の刃は、その全てを残らず粉砕されていた。
「な――――!?」
皇帝の貌が、今度こそは驚愕に染まった。
敵を切り裂いた筈の刃はそこには無く、目に映るのはただ、煌びやかな銀の粉塵。
花吹雪に包まれ、ナニカによって粉微塵にされた刃が、まるで粉雪の様に舞い散っている。
瞬間、花弁の乱舞する庭園が、皇帝にはキラリと光った様に見えた。
「!! ウェヌス――!!」
焦りを伴った、青い従者の声が響く。
――王女がそう認識した時には、既に全てが終わった後だった。
初めに王女の瞳が捉えたのは、撥ねる様に伸びた蔦に腹部を打たれ、人形のように跳ね飛ばされる赤い守護魔の姿。
犬歯の覗く口からは吐血が撥ね、10メートルも飛ばされてから更に2度3度と地を跳ねていた。
――生暖かい、ヌメリ、という嫌な感触。
頬に、気味の悪いナニかがこびり着いたのが分かる。
咄嗟に右手でソレを拭うと、王女の手の平はまるで手品の様に色が変わってしまった。
片手で拭いきれぬ程の、夥しい量の血液が、潰れたトマトの様にベットリと張り付いている。
赤い守護魔のモノでは無い。
「グ……」
それは、王女を庇う様に前方に立ち、全身を“ナニか”によって穴だらけにされた彼女の従者のモノであった。
「な……」
一切の思考を感じない、王女の声。
独白の続きは何故、ではない。
オリハルコンの、世界最強の鎧を纏って尚、アレを受けてはただでは済まなかったと彼女は本能的に察知してしまっていた。
彼がそれを分かった上で、尚も王女を庇うために前に立ったのだという事も。
守護魔は召喚主無しでは生存出来ない。
ならばこそ、彼は無条件でウェヌスを守らなくてはならない立場にある。
それは、彼も王女も重々に承知している。
――血液がドクドクと流れていく。
王女は、良く知っていた。
――王女の目から見えない位置の、しかしその深さを十分に物語る出血量のソレが、毒々しい色の血溜まりを石造りの舞台に広げていく。
王女は、彼が、そんな義務などとは別のところで自分の為に戦ってくれる事を知っていた。
――砕けた鎧の、蒼い残骸が、だらしなく垂れ流される赤黒いソレに飲み込まれてゆく。
蒼白になった彼女の頭を埋めたモノは、疑問だった。
強い、あまりにも強過ぎる、純粋な疑問。
赤の守護魔の火炎を切り裂き、塔に埋もれても尚健在だった筈の、“彼”。
その彼が、今、たった一瞬で命に関わりかねない程の深手を負っている。
ならば。
彼は一体、ナニをされたのか――?
王女の疑問に答えたのは、他ならぬ従者自身の身体だった。
「あ゛、アァァァアアアアァァァアアアアアアアアアアア!!!!」
彼の口から漏れたのは、悲鳴だった。
まるで全身の皮膚を食人虫にでも食い荒らされているかの様な、聞いた者が戦慄を堪え切れない程の苦痛の表現。
否、である。彼の皮膚は、真実の意味で食い破られていた。
夥しい数の“芽”が、彼の皮膚を突き破り、生き物の様に伸張している。
――生き物と形容した様に、その成長速度は異常だった。
出来の悪いオムレツの様にグズグズになった彼の皮膚から、昆虫の触角の様に蠢動する芽が、モゾモゾにょきにょきと生えている。
伸びた根は皮膚の下に潜って筋肉を侵し、血管をズタズタにし、尚も貪欲に栄養を吸収しながら組織の中を掘り進んでいる様だった。
従者の身体の向こうに見える庭園には、まるで訓練された銃撃部隊の様に、ズラリと柱頭が整列している。
「そんな……。
まさか、そんな事が……」
それで王女は、先の攻撃の正体を理解した。
アレは、“種”だったのだ。
何の冗談か。あの花々から射出された種は、至近距離に現れた皇帝のダガーをピンポイントで狙い撃ちにし、粉微塵にしたばかりでなく、その流れ弾のみで彼の鎧を砕き、これだけの致命傷を負わせていたのである。
――流れ弾だけで、この殺傷力。
全身から芽を生やし、傍目に滑稽にも映るであろう彼の姿は、しかし楽観していられる容態などでは勿論無かった。
青い従者は破れかぶれになりながら傷口を抉り、身体を侵食する芽を体組織ごと抉り出している。
ブチブチという嫌な音を響かせながら、血液と脂肪層が混ざったピンク色の粘液を飛び散らせていく。
腹の傷は特に深いらしい。
滴り落ちる液体には臓物の欠片も混ざっている様に見えた。
――苦しむ彼に向けられる、敵の左手。
花吹雪のカーテンの向こうから、魔法円の描かれた腕が伸び、彼に向けて何かを放り投げた。
放心して動きの鈍った王女が反応するより尚早く、3つ程の種が彼の前で炸裂する。
黄金色の粉塵が撒き散らされた瞬間、更に驚くべき事は続いた。
種の中身が彼の全身を包むと同時に、無数の芽は支配された様にあっさりとその成長を止め、ボトボトと地面に溶け落ち始めたのである。
そして、手品の様に彼の傷までもが再生を始める。
グチャグチャで目も当てられない程だった彼の傷がモコモコと蠢き、血は止まり、燐光と共にカサブタが形成されていく。
その破壊と再生が、僅か5分にも満たない間の出来事だ。
あまりの事態に、ウェヌスは今度こそ言葉を失い、放心する以外に選択肢を持たなかった。
「てめぇ……。女に危ねぇもん向けてくれるじゃねぇか」
表面上は治っているが、しかし内蔵を抉られたダメージは大きいのだろう。
ネプトは片膝を着き、苦しげに掠れた声色で呟いた。
青い瞳は、正面に。
人影を覆い隠す花吹雪へと向いている。
「……感謝するよ。
君が止めてくれなければ、僕はまた殺してしまうところだった」
聞き入ってしまう様な美声と共に、風が吹き抜けた。
正門から吹き込んだ夏風がコロッセオの中に渦を巻き、庭園を覆う花吹雪を遥か上空へと巻き上げる。
――その中心。
緑衣を風に靡かせて、佇む人影は真っ直ぐに青い従者を見詰めていた。
王女は従者を背後に控えさせる様に、彼の前に歩み、その人物と視線を合わせた。
「私は武の国の第一王女、ウェヌサリア・クリスティー。
貴方の名は?」
「ああ、済まない。先に名乗らせてしまったね」
しなやかな、細い指先が、月明かりに濡れる黄金の髪を梳く。
蒼天を思わせる碧眼が、大人びた顔立ちにどこか無垢な印象を加味し、しかしその混在が神々しいまでの美貌として彼の表情を演出している。
――到底荒事に向いているとは思えない、息を呑む程の美丈夫であった。
だが、その纏う空気は尋常では無い。
向かい合っただけで全ての生き物に格の違いを悟らせる程の、圧倒的なナニかを、その青年は確かに持ち合わせている。
それこそ、自らの従者を這わせたことにすら、王女がすんなりと納得させられてしまう程に――。
それで、王女は確信した。
彼こそが、天の国が呼び出したという、最強の守護魔――。
「僕はユピテル。
今日は、君たちの争いを止める為に来たんだ」
涼やかな美声は、底知れない戦慄と共に月夜に響いた。