37. ヒッグス場が及ぼす湯川相互作用と呼ばれる力による質量の発生機構を考慮した異次元生命体間の体重及び身体能力の差異に対する理論物理学的仮説と異界の少年による大気熱膨張を利用した短距離飛行実験
「うお!? んだありゃ!?
変身? 変身ってヤツ!?
うっひょ~!! ハンパね~!!
あのネェちゃん、マジ頭ハンパねーわ!!
……沸いてんじゃね?」
隣で行われる戦闘の成り行きをチラリと見つつ、赤い少年はケラケラと嗤いながら嘯いた。
軽口を叩きながらも、引き金に掛けられた指は止まらない。
火炎銃の銃口は、男に向けて火を吹き続けている。
「素っ裸の姉ちゃん連れて来たてめぇがソレ言うか?
敵地でアレは正気じゃねぇぞ。
来世じゃ服くらい買ってやれ!!」
「んあ? ああ、無理。意味ねー。
ナンか知んね~けどさ。スッゲー暑がりなんだわ、アレ。
そんで、しかも露出狂。変態女。死んでも治んねーよ」
炎を切り裂きながら迫り来る男から、少年はバックステップで距離を取った。
赤髪を靡かせながら観客席の石柵の上へと跳躍し、礫の様に火炎弾を浴びせかける。
プラズマの紅焔は燭台の炎と共にコロッセオを照らし、男の碧色の鎧を鈍く光らせた。
轟々と飛来する炎の音に、斬撃の風切り音が重奏を奏でる。
振り翳す剣で紅焔を悉く切り裂きながら、男は野性味のある眼光を強めた。
「余裕だな」
「あん?」
軽薄に応えながら、銃を操る少年。
男は独り言の様に続けた。
「あの鎧は見かけ倒しじゃ無いぜ。
武装姫ってのは伊達じゃなくてな。
正直な話が、俺でも斬れねぇ。
余裕かましてる暇があったら、さっさと助けに入ってやったらどうだ?」
「はぁ? 有り得ねェ事抜かしてんじゃね~よ。
メル嬢が負けるかタコ助」
掘削機の如く火炎弾を弾き飛ばし、踏み込んだ男の斬撃が少年の乗った柵を捉えた。
――剛剣一閃。
金属音と共に白刃が瞬いた次瞬には、石造りの柵は真っ二つに切り裂かれて砕け散る。
だが、それも少年の身体には届かない。
軽業師の様に回転しながら宙を舞った少年は、男の斬撃を避けながらその身を星空に高く躍らせて、再度舞台の上へと降り立った。
男の頭上を通過する際には、空爆の様に弾丸を見舞っていくオマケ付きである。
男はその半数を足運びで躱し、残り半数を切り裂いてやり過ごしながら、自らの攻撃圏外へと逃れた少年へと構えを直した。
「どういう意味だ?」
「そのまんまだよ。
アレのドSっぷり嘗めんな。
剣どころか、許しが無きゃ髪一本触らせねー女だぜ?
始めっから、テメェのご主人様にゃ勝ちなんかね~の、っと!!」
四隅に飾られた燭炎に祝福されるかの様に、少年の赤髪が銃撃の熱風に靡く。
男は飛来した5つの火球に難無く刃を合わせながら、同時に視界の端にて戦闘を繰り広げる2人の大魔導の姿を認めていた。
青髪の皇帝は鎧の隙間を穿とうと、ウェヌスの関節部分に重点的に例の“穴”を作り出している。
だがウェヌスもさる物で、敵の魔術の気配を感じた瞬間には構え、足運びを僅かに変え、最小の動きだけでその攻撃を防いでいた。
それもその筈。オリハルコンの鎧の前では、僅かでも隙間を外れれば武器など何の役にも立ちはしないのだ。敵の攻撃を無効化するには、ウェヌスは軽く身じろぎするだけで良い。
鎧の防御を頼りに、赤銅のマントへと突進するウェヌス。
しかし剣戟を放とうと構えた次瞬には、既に敵は遥か後方へと移動していた。
男には魔術の知識など皆無ではあったものの、それが距離を無視して自らの居場所を変える性質の業である事は見て取れた。
――絶対防御と瞬間移動。
それはどうにも、お互いに決め手を欠いた戦いに見えた。
「……消耗戦になるな。
ま、そんじゃ問題ねぇか。
何しろあの姫様、体力だけは有り余ってるからな。
放っときゃあと3日は戦ってるだろ」
「ハッ!! 3日くらいでナニほざいてんだ!?
メル嬢なんかなぁ!! 放っときゃ1週間は拷問してるぜ!?
おれっちが言うんだから間違いねぇ!!」
炎の弾丸が瀑布の様に雪崩れ込む。
ネプトはその全てに神速で剣を合わせながら、マルスとの距離を詰めるべく前進した。
ジワジワと、しかし確実に距離を埋め、間合いに捉えたと感じた瞬間に一気に踏み込みを掛ける。
マルスはその剣戟を闘牛士の様にヒラリと躱すと、跳躍して距離を取りながら再び火炎弾を浴びせかけた。
青髪の男は繰り返す徒労による憔悴すらも見せぬままに、再び赤髪の少年へと構えを作り、笑みを浮かべた。
「……どっちにしても、だ。
こっちのが早く片付くな」
「ヒュ~。同感だね~。
どう見ても、テメェが先にくたばるもんな~っと!!」
軽口を叩きながら、少年の指は再度引き金を引いた。
口元には余裕の笑みが浮かんでいる。
1発、2発、3発――円筒の銃口から射出されるのは12発の火炎弾。
男はその位置を頭抜けた動体視力と銃口の向き、少年の目線から感じ取り、寸分違わず刃を合わせながら再度距離を詰めた。
銀の国での一件より、既に3桁近くも繰り返された動作である。
同じ動作であれば、今になって男が討ち漏らしを貰う事などまず有り得まい。
――そう。同じならば。
12発目の弾丸が放たれたその瞬間、男は少年の口元が悪鬼の如く吊り上ったのを見た。
「――――に!?」
積み重ねた戦闘経験から確かな不吉を感じ取った男は、咄嗟に前進を止めて背後へと飛び退いた。
同時に、銃口が12回目の火炎を射出する。
今までと同じ大きさ、熱量を持っている筈のソレは、しかしこれまでの物とは明らかに質が異なっていた。
――速い。
後発だった異質の紅焔は、先駆する4つの火炎弾を瞬く間に追い越し、飲み込みながら、男の喉元へと突き刺さる様に飛翔してきた。
咄嗟に剣を振り翳し、同じように消滅させにかかる男。
「痛――ッ!!」
標的が頭部に迫り過ぎていたが故に剣戟が揮わず、掻き消しきれなかった紅焔の破片が額へと跳ね、前髪を焦がしながら男の皮膚にケロイドを作った。
「か~っ!! おっし~!!
相変わらず勘だけは良いでやんの」
揶揄する様な声が響いた。
額の火傷を擦りながら、苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべる男。
男の眼光を飄々と受け流しつつ、少年は胸がすいたかの様に笑い声を上げた。
「気づいたかよ、青ゴリラ!!
おれっちだってよ~。この一週間、別に寝てたワケじゃねぇんだぜ~?」
少年は火炎銃の引き金に指を引っ掻け、クルクルと回しながら嘯く。
溶解された額の痛みを拭いつつ、男は静かに理解した。
――成程。言われてみれば道理である。
前回の時点で既にあの武器を作り上げていたあの敵が、わざわざ前回と同スペックの武器しか作らない訳が無い――。
「ケケケ!! そ~ゆ~コト。
バッテリーの関係で威力調整はまだだけどよ~。
最大速度は前にぶっ壊れたヤツの6・割・増し!!
ちょいと手加減してやってたら気付かなかったか?
ケケケ!! ハッズカシ~の!! チャンピオンなのにな~?」
男は奥歯を鳴らした、
――6割増し。
先の高速弾は、男の見立てでは精々4割増し程度だと思ったが――。
少年の声に虚勢の色は無い。
つまりは、あの銃の速度にはまだ上があるという事なのだろう。
そして、厄介なのはそれだけでは無い。
恐らくは今の一撃で、敵は自らの火炎弾が男を殺すに十分足る殺傷力を有すると確信してしまった筈だ。
最高速を撃てば対処のしようがない、とも。
そして少年の笑みは、事実勝利を確信した者にしか浮かべえない程に嗜虐に満ちた物であった。
「リクエストがあるなら聞くぜ~?
ほら。焼いて欲しいトコ順番に言えや。
片っ端から消し炭にしてやるからよ!!」
クルクルと回転を続けた火炎銃の柄が、再び少年の左手に収まった。
掌からは橙赤色の燐光が漏れ出し、少年が火炎銃にナニかを蓄えている様がまじまじと見て取れる。
――次こそ、手加減なしの最速弾が来る。
先ほどよりも更に速い火炎弾。
初見の6割増しの速度を誇る炎の弾丸。
常人ならば、恐らくは回避どころか視認すら出来ない速度のソレは、青い鎧ごと男の身体を骨まで焼き尽くすことだろう。
それを確認した男は――。
「……悪いな、ガキ。
時間切れだ」
ニヤリと笑ってから、消えた。
―――――
「は――――?」
そして、少年は目を丸くした。
粉雪の様に飛び散る粉塵だけを残し、突如として視界から消失した、青い鎧。
少年は呆けた様な声を零しながら、反射のみでその姿を探した。
――否。探せなかった。
消えた男の姿を探し始めた頃には、ゴウという風鳴りの音が、既に頭頂にそば立つ耳の真上を通過した後だったからである。
「おっと。チョイと上だったな」
「に!?」
真隣から、声が聞こえた。
驚愕に目を見張り、視線を右に流した少年。
そこに聳える鎧姿が目に入り、少年の体毛はあまりの怖気に逆立った。
青い男はそこに立ち、振り抜いた剣の回転を利用しながら構えを取り、既にその刃を大上段に振りかぶっていたのである。
「――――っ!!」
生存本能だけで背後に跳躍し、少年は男から距離を取った。
同時に少年の積み重ねた戦闘経験は、回避しながら左手で最速弾での追撃までをも紡ぎだす。
放つは3撃。至近距離から放たれる、回避不能の3条の炎閃!!
――だが。
それらが、それらよりも尚速く振り出された男の剣戟によって残らず切り裂かれたのを見た瞬間、少年の意識はとうとう凍りついた。
「ふざけろ――」
悪態を吐きながら、少年は悴む手で次弾を放とうと銃を構えた。
無感情な貌で、ユラリと構えを作る男。
跳躍した少年の身体が5メートルは離れようかとした次の瞬間、敵は少年の眼前に幽鬼の如く立ち、同時にその剣を振り抜いていた。
反射のみで地へと転がり、少年は敵の攻撃線を間一髪で避ける。
白刃が再び少年の頭部を再度掠め、一房の赤髪を火の粉の様に散らした。
烈火の様に睨み付けながら、少年の口からは悪態が漏れ続ける。
「ざけんじゃねぇっ!! 何だそりゃ!!
テメェ!! 前と全然動きが違うじゃねぇか!!」
口元に獰猛な笑みを浮かべつつ、男の剣戟が迫る。
少年が5メートル先で地を蹴ったのと同時に、男の右足はチェス盤模様の舞台を鋼の足で踏み抜いた。
踏込みは真実の意味で地を抉り、粉砕した床板を巻き上げながら男の身体を弾丸へと変える。
男はその巨躯からは想像も付かない程の速さで地を駆けると、距離をとる少年に倍する速さで間合いを詰め、更に追撃をかけてゆく。
少年の額を掠めた、燻し銀の鈍い閃き。
舞い散った髪は、先刻よりもその量を増していた。
一撃を重ねる毎に、剣戟の距離は少年の本体へと近づく。
枷を外された様に動く身体に振り回されながらも、男は着実にその動きを制御し始めていた。
驚愕し、蒼褪めた少年の貌。
「気のせいだろ?」
振りぬいた腕の下にその姿を認めつつ、男は一言、少年の疑問に答えを返した。
間一髪で距離を取ろうと努める少年に、男は更にたたみ掛ける。
王女の采配は正しかったのだ。
昨日から丸一日以上にも及んで続けられた、拷問にも等しき連続戦闘。
しかしそれを乗り越えた現在、彼がこの世界にて積んだ戦闘経験は確実に慣れを齎し、ここに至って遂に彼の動きを流麗な物へと改善するに至っていたのである。
――否。事実は、寧ろ取り戻した、と表現するが正しいか。
男の動きは、確かに彼が元の世界に居た頃の物に近づきつつあったのだ。
無論、それは瞬時に変化を生む類の要素では無い。
今こうして動けているのであれば、彼はこの戦闘の初めからこの動作に耐えるポテンシャルを持っていた筈なのである。
だが、それならば男が今まで手を抜いていたのかというと、実はそういう話でもない。
少年にとっては、序盤に余裕を見せ過ぎたのが仇となった形である。
連続戦闘によって動きが鈍っていた男の身体は、軽い運動を熟した事によって整理運動が成され、今漸く大会での経験値をそのまま生かし切れる状態になり始めていたのだ。
異世界人として並外れた身体能力を誇り、同時に守護魔の超回復能力までをも手に入れた男の身体は、少年との戦闘の最中にも確かに疲労の回復を続けていたのである。
勿論。いかに回復したと言っても、今の男のコンディションは全快には程遠い。
疲労に疲労を重ねた今の状態では、彼の能力には心身共に少なからぬ制限が掛っていると見て間違いは無いだろう。
だが。それを差し引いても尚、今の男の身体能力はこの世界に来てからの最大値を優に上回る程になっていた。
疲れていても尚、今の彼は大会を経験する前よりも遥かに強い。
それこそ。今ではあの武装姫とて、魔法剣無しでは彼には太刀打ちし得ぬ程に――。
「クソが!!」
急激な身体能力の上昇と、動作の向上。
敵の急激な戦闘能力の変化に呑まれた少年は、再度悪態を吐きながら敵の攻撃を回避した。
しかしその声は、先ほどまでとは僅かにニュアンスを異にした物に思われた。
躱し切れなかった剣風が腹部を抉り、血飛沫が少年の視界を覆った。
――問題無い。
この程度ならば1時間で治る事など、皇帝による連日の拷問を乗り切った少年は熟知している。
痛覚を無視しながら地を転がり、床を踏み抜いた少年は、男を睨みながら奥歯を鳴らした。
「白々しいんだよテメェはぁ!!
慣れたのがテメェだけだと思うんじゃねぇぞ!!」
勝負を決めようと、黙したままに剣を振る男。
眼前にて振るわれる白刃を映したまま、少年は激高しながら地を蹴り抜いた。
小さな身体が、垂直に跳ね上がる。
斬撃に靴の底を削られながら、しかし少年の身体は羽でも付いたかの様に空中へと舞い上がった。
それは、まるで重力を冒涜するかの様な天への飛翔。
男は飛んだ敵を目で追い、10メートルを優に超える程の“上空”へと視線を向けた。
――星々の海を泳ぐかの様に、少年の身体が真夏の夜空に浮いている。
男の予想よりも遥かに緩やかな放物線を描きながら、少年の身体は確かに空へと浮いていた。
脚力のみで空を飛んだ少年の動きは、しかし魔術でも手品でもありはしない。
これこそが少年がこの世界に来た為に獲得した、男の身体能力と対極に位置するとも言える“性質”だ。
“アボガドロの法則”と呼ばれる物がある。
これは“同圧、同温、同体積の気体は同数の分子を含む”という化学の大原則であり、更に汎用的に解釈し直すのであれば、物質の質量とは即ちそれを構成する分子の質量の和に等しい、というあまりにも当たり前に過ぎるルールである。
具体例を出すのであれば、1molの酸素分子を集めたとすれば、我々の宇宙ではその総質量は常に約32gになるという事だ。
だが。これはあくまでも我々の世界に於ける観察結果に他ならない。
宇宙より更に視野を広げ、異なる理が支配する異界へと目を向ければ、1molの酸素が常に32gの質量を持っているとは限らない事に気づくだろう。
質量の発生機構については、まだハッキリとした証明が成されている訳では無いが――。
一説によると、我々の存在する空間は“ヒッグス粒子”という未発見の素粒子によって満たされており、それらから物質が受ける“湯川相互作用”と呼ばれる抵抗が物体の“動かしにくさ”として現れている物だ、とされている。
水を満たされたプールを歩く時を想像するとわかりやすい。
水中では陸上よりも身動きが取りにくいという経験則は、誰しもが間違いなく知っている自明の事実だろう。
現代物理学に於いては、この“場に満たされたナニかから受ける抵抗”こそが質量なのだと解釈されている。
ここで重要な点が一つ、ある。
今我々は陸上と水中を比較して考えたが、条件はこれ以外にもまだ考え得るという事だ。
例えば陸上にしても、まだそこには空気があり、即ち空気抵抗が存在している。
もしも我々が真空中で行動すれば(生存できるなら)その方が遥かに身動きし易いだろうし、もしも水の代わりに蜂蜜でも満たしたプールで行動すれば、それは水中よりも遥かに行動しにくい場になるだろう。
そして幸か不幸か、全宇宙をヒッグス粒子に満たされた世界に生きる我々は、自分たちが居るのが水中なのか、空気中なのか、或いは真空中なのかを判断する術を持たない。
比較対象が存在しないからである。
だが。逆に言うと、それは我々よりも身動きがし易い宇宙に生きる生命体が存在しても何ら不思議は無い、という意味にはならないだろうか?
――結論を述べる。
少年・マルスが生まれ、育った世界とは、つまり“そういう世界”であったのだ。
ヒッグス場が物質に及ぼす抵抗がこの時空よりも弱く、全ての素粒子、ひいては彼を構成する全ての元素の質量までもが、この時空よりも遥かに小さな世界だったのである。
彼の世界に於いてあくまでも“当たり前”であったその事実は、しかし世界を渡り守護魔となった現在、差異が彼自身の常理を外れた身軽さという“性質”として現れるに至っていたのだ。
少年の体重は、この惑星上での重量に換算して5kgも無い。
上空へと飛翔を果たした赤い少年は、男の頭上から最速の火炎弾を乱射した。
人間の体構造は、頭上に強い攻撃を放てる様には出来ていない。
少なくとも、剣でどうにかする方法など無い。
地上の身体能力では少々遅れを取ると認めざるを得ないが、しかし軽量によって制空権を抑えられる以上、勝負の分はまだ少年にあるだろう。
男は火炎弾を捌き、躱しながら、落下の瞬間を待ち構えている。
敵が攻撃の届かない、空を舞う小鳥であるのなら、地に落ちた瞬間にこそ仕留める機会を見出すのは道理だからである。
――7メートル。
――6メートル。
――5メートル。
如何に軽量と言えど、流石にその密度は大気を下回らない。
少年の身体は、着実に万有引力の法則による支配を受け落下を始める。
――4メートル。
――3メートル。
高度を下げる毎に銃口が近づき、弾丸の体感速度が増してゆくデスゲーム。
蒼赫の距離が5メートルを切った時点で、既に男は火炎弾を凌ぎ切れなくなっていた。
プラズマの飛沫が飛び、跳ね、男の顔を焦がしてゆく。
切り裂ききれなかった弾丸が腕に触れ、肉の焼けた匂いを夜のコロッセオに撒き散らした。
黒ずんだ額からは血が流れ、燃える様な赤い線を男の頬に描いている。
それでも、男は退かなかった。
例え少々の傷を負おうと、次瞬に敵を仕留め得るならば何ら鑑みるに値しない些末事であると、獣染みた彼の蒼眼が示唆している。
これは、言わばチキンレースだ。
先に退いた方が敗北する、命を張った度胸試し。
ならばここで退くなどと、仮にも“英雄”なんて大層な称号を貰った今、男にとっては有り得まい。
――2メートル。
少年が剣の間合いに捉えられる。
一太刀、その腹に男の剣戟が叩き込まれれば、勝負はそれで終わるだろう。
そして人体の構造上、空中から降ってきた少年にそれを回避する術など無い。
男の口元は、確信した勝利によって僅かに緩んだ。
それは、間違いの無い真理だったろう。
「誰が――」
標的が、この少年でさえなかったのなら――。
「落ちるかバカヤロォ!!」
男の表情が驚愕に歪んだ。
落下してきた少年が発した、破裂音と眩い閃光。
否。それは少年自身が発した物では無い。
少年の履いていた硬質の靴が火を吹いた事による爆発音とその光だった。
身体を男の剣に斬り裂かれようとしたその刹那、少年は靴に仕込んだ新たな“武器”を発動させ、再度その身体を空中に跳ね上げたのである。
「なんだそりゃ!?」
靴の底から噴出される、小さな炎。
その反動で再度天に飛翔し行く敵の姿を見送りながら、男は驚嘆の声を上げた。
少年の顔が満足げに緩み、してやったりとその瞳が歓喜に揺れる。
そう。この状況は、少年が既に想定していた物だったのだ。
自らが身軽さという性質を備えている事を一早く悟っていた少年は、この世界に召喚された極めて初期の段階から、既にその理を最大限に御する事を考えていたのである。
少年が僅か数日で生み出した兵器は、計4種。
プラズマの弾丸を射出する火炎小銃と、巨大火球を放つ火炎大砲。
この二つは少年の世界の武器をこの世界の理を用いて再現した物ではあったが、同時に他の兵器が使えないという弱点を補う為の苦肉の策でもあった。
作用反作用の法則が存在する以上、体重が僅か5kgしか無い少年は、実質的に“反動”が存在する武器を(実用的な範囲では)一切使用する事が出来なかったのである。
火炎という無反動の武器を選択したのは、半ば消去法による消極的な決定であったとも言える。
そして、彼が生み出した三つ目の武器。
性質が持つ弱点の克服では無く、寧ろ長所に焦点を当てて開発した道具こそが、この“火炎靴”であった。
自らの軽量から跳躍という長所に思い至った少年は、この世界に於ける自分の活路は空中戦にこそあると考えたのである。
5kgfの物体を10メートル跳ねあげるのに必要なエネルギーは、(この星の重力加速度が地球と同じだとすれば)僅かに500J。これは一般的なピストル弾薬の運動エネルギーにほぼ等しく、逆を言えば、仮にこの少年が我々の世界のピストルを地面に向けて撃ったとすれば、それだけで彼の身体は10メートルの上空に跳ね上がる事を意味している。
少年の出自は、火炎や爆風に関する技術が発達した世界だった。
自らの体重が極端に軽減された事を悟るや否や、彼が即座に爆風による空中移動という思い付きに至ったのは道理と言えるだろう。
彼の開発したこの“火炎靴”は、彼の持つ火炎銃と同等の機構によってエネルギーを抽出する能力を有する。
違うのは、火炎銃が炎を遠方に射出するのを目的としているのに対して、火炎靴は靴底の内部に炎を維持し、空気を熱膨張させる事によって“爆風”を生み出す事を目的としているという点だろうか。
無論。それはこの世界の常人が使っても精々バランスを崩す程度の火力でしかない。
――だが。
しかし少年が空を舞う為には、それだけで十分に過ぎた。
事実。彼はこれを用いて銀の国の時計塔に窓から侵入している。
少年は、驚くべきバランス感覚でクルクルと宙を舞う。
火炎銃の銃口は男に向き、安全圏から必殺の機を伺っていた。
彼らの距離は、現在凡そ9メートル弱。
これだけ離れていれば、ネプトは無傷なままに火炎弾を切り裂いてしまうだろう。
それが分かったからだろうか。
マルスも銃を構えたまま、落下するに任せて時を待っている様であった。
炎の翼を得た敵を見据え、ネプトは小さく舌打ちをする。
――あの敵は落ちてこない。
ネプトは黙したままに、敵が二度と自分の攻撃圏内には踏み込まない事を悟った。
ならばこの先は、敵の空爆に晒されながらジリ貧になるしかあるまい。
空を舞う翼を持たない以上、彼にとってそれは確定した未来である。
そう。
それが、彼でさえ無かったのなら――。
男は素早く剣を鞘に納めると、右手を強く握って拳を作った。
上空に大きく振りかぶり、まるで瓦割りの名人の様に強く、鈍い音を響かせる様に、チェス盤模様の舞台を殴りつける。
守護魔の怪力で殴られた舞台は陥没し、太い幹の様な彼の腕はその根元までが大地に飲み込まれた。
次いで、左腕を振りかぶった青い守護魔。
現象は繰り返され、ネプトの両腕は完全に舞台に埋まり込んだ。
その行動を上空から眺めていた、赤い守護魔。
マルスは幼さの残る顔立ちに凶悪な笑みを張り付けた。
――床板でも投げるつもりか。
悪くは無い手だろう。
否。この状況では、もうそのくらいしかネプトに有効打は無いのである。
無論、マルスとてみすみすソレを食らう様なバカでは無い。
この距離からの、しかも重力に逆らった上方への投合など火炎靴の空中移動で十分に躱し得るだろうし、そもそも投げられた床板を打ち抜けば済む話である。
少年は火炎銃の引き金を引こうと狙いを定め――。
完全に、思考を凍りつかせた。
「は――――?」
轟音と共に、揺らめく大地。
空間がねじ切られたかの様な、或いは歪んだかの様な違和感が視界に生じ、不快感を覚えた少年は咄嗟に目を擦った。
――それは、果たしてどんな錯覚だったのか。
10メートルもの上空から見下ろしていると、少年にはコロッセオのステージが半分、まるで生き物の様に脈を打っている様に見えたのである。
少年の困惑が強まる。
夜景にボンヤリと輝くその景色に、彼の背筋には確かな悪寒が這い回る。
そして、次瞬。それは決して見間違いなんかでは無かった事を理解した。
舞台が、割れた。
直径にして100メートルを超えようかという、コロッセオの舞台。
何の冗談か。石造りの筈のそれが男の両腕だけで十分の一程も砕かれ、直径10メートルに迫る巨大な瓦礫板と化して動いていたのである。
パキパキという、軽い音。
ゴリゴリという、鈍い音が響く。
闇夜に蠢く魔獣を思わせる巨大な瓦礫は、その頭を大男の腕に抱えられ、燭台を倒しながら脈動してゆく。
「うぉぉぉぉおおおおおおおおお!!!!」
雄叫ぶ様な、力強い咆哮。
ソレが闇夜に響いた瞬間。
――舞台は、持ち上がった。
直径10メートルの石板は男の腕にその土台を掴まれ、まるで聳え立つ塔の様に少年の隣にまでその射程を延ばしていたのである。
無論、男にはそんな物は振れない筈だ。
仮に持ち上げる事が出来たとしても、“反作用”が存在する以上、本質的に人は自分よりも重い物を振る事など出来ないのである。
だが。男とてそれは感覚として理解していたらしい。
驚くべき事ではあるが。男は瓦礫を右腕一本だけで持ち上げていた。
左手は足元の舞台を掴み、身体を固定する事で支点を作っている。
――これならば。力さえ足りるのなら、十分に振れる。
空を飛びまわる少年を、十分に叩き落とす事が出来る。
青い英雄は、まるで世界の物理法則そのものをねじ伏せるかの様に、悪魔の様な力で右腕に掴まれた巨塔を振り回し、舞台に足をめり込ませながら空中に舞う少年へとそれを振り下ろした。
「って、んだそりゃぁぁぁぁああああ!!」
左下から迫り来る石の大剣。
舞台は風鳴りの音を高く鳴らしながら、少年を粉砕しようと空を切った。
――回避は、無理だろう。
火炎靴で避けるには、対象があまりにも大きすぎる。
津波を横に走って避ける様な物だ。避けられない。
ならば――。
「嘗めんなッ!!」
マルスはその背に担いだ身の丈程もある大筒を取り出した。
――火炎大砲。
彼が生み出した中で、現在最大の瞬間破壊力を誇る“兵器”である。
ベルトを外して肩に担ぎ、セーフティを外す。
カバーを空け、左手をトリガーに装填し、迫る瓦礫へとその標準を向ける。
頭程も口径のある砲身が禍々しい輝きを放ち、数秒後に約束された破壊に向けて歓喜した。
「のやろぉぉぉおおおおおおお!!!!」
絶叫と共に解き放たれる、災禍の巨大火球。
嘗て銀の国の時計塔に引導を渡した炎の鉄槌が、男の振り翳した石剣に向かって振り下ろされ、爆風と衝撃波が伝播して標的を内部から崩壊させてゆく。
砕かれた石柱は細かな瓦礫となって飛び散り、マルスの身体に軽い打撲を残しながらその役目を終えた。
生まれた大量の瓦礫は空中で拡散し、石礫の雨となってコロッセオに降り注いでゆく。
――これほど障害物が多い中では、火炎靴による跳躍は危険だろう。
そう判断した少年は、大きめの瓦礫を蹴って男と距離を取りながら、猫科の小動物の様な俊敏さで舞台の上へと舞い降りた。