3. 物理学者・朝日 真也の序論
退屈な講義の時間も終わりを告げ、青年はいつもの如く講堂から廊下へと足を向ける。
頬を掠める真冬の空気に顔面の神経が麻痺したかの様な錯覚を感じながらも、彼は窓から覗く曇り空を見上げて思考した。
この日本という島国の大部分は、気候区分的には温帯とかいうなんとも暖かそうな名前の地域に属しているらしい。しかも地球温暖化は刻一刻と深刻化しているらしく、近年はこの国も半亜熱帯化しているとかなんとかと、最近のニュースで騒がれていた事をふと思い出す。
しかしそれにも関わらず、身を切るこの真冬の空気は今年も変わらず刺す様に冷たく、外気に肌を晒す事を憂鬱にさせるのは一体どういった物理法則が働いているというのであろうか。
通常であれば、我ら日本人は温室効果ガスを排出した挙句ご丁寧に空気まで温めるという、ヒーターなる地球に対する拷問器具を心置きなく使用する事によって、この“暖冬”を温室でヌクヌクと乗り切るのだろう。
しかしながら地方大学のキャンパスであるこの場所は、どうやら暖房器具の設置は講堂だけで手一杯というほどに資金面での問題を抱えているらしく、一歩廊下に歩み出れば、隙間風として吹き込んだ外気がまるで河川敷を歩いているかの様な錯覚を齎してくれるという、なんとも素晴らしい環境が完成してしまっているという事実は最早ご愛嬌か。
いっその事、火事でも起きてくれないだろうか、などと不謹慎な発想が青年の頭を掠めたりする。
一時凌ぎとはいえ常夏の如く暖かくなりそうではあるし、その派手な酸化反応によって発生した二酸化炭素が少しでも地球温暖化を促進してくれるのであれば、この狂った寒さも多少なりとも“まし”になるに違いない。
なに。オンボロで隙間だらけの木造校舎は、それはそれはよく燃えてくれる事だろう、などと多少デンジャラスな方向に思考が走り出したところで、青年は一度深呼吸をして深く考え直してみる事にする。
冷静に考えると、校舎が無くなった場合には色々と面倒臭い事態が発生しそうな気がしないでも無いし、地球温暖化が進行すれば、今度は夏場に後悔する事が目に見えている。
それはそれで都合が悪い気がし始めた青年は、世間一般が騒ぐ地球温暖化の有害性に多少の猜疑心を挟みつつも、取り敢えずは地球を大切にしようと後ろ向きな決心を固めてみる事にするのであった。
ふと。そこまで思考したところで、先程講堂で見かけた女子のグループが、雑談をしながらこちらに向かって来る様子に目が留まった。
自分は厚手のジーンズでも十分に寒いというのに、脚を真っ赤にしながらもミニスカートを履き続けている彼女達の逞しさを尊敬しつつ、青年は一刻も早く冷凍庫の様な廊下から抜け出そうと歩を速めるのであった。
―――――
暖房器具の稼働する室内に入ると、現代文明の素晴らしさを実感する。
青年は外気よりも大分暖められたその部屋の空気を肌で感じ、ホッとしたかの様に溜息を吐きながら辺りを見渡した。
部屋には誰もいない。
コンクリートの打ちっ放しの壁は、まるで覆い隠されるかの様に大量の数式が書かれた紙に埋れ、壁際の本棚には辞書よりも分厚い洋書が所狭しと鎮座している。
並べられたタイトルの数々からすると、どうやらここは物理学部の研究室であるらしい。
ならば青年は、部屋の主に何らかの用があって訪れた学生であると解釈するのが妥当だろうか。偏屈で知られるこの学部の教授に私用で会いに来たというのであれば、彼は割合変わり者の部類に入ると言えるのかもしれない。
しかしそれにしては、
青年の態度には些か違和感があった。
ノックも無く堂々と部屋に侵入して来た彼からは、部屋の主に対する敬意というか、敬いの気配というものが全く感じられないのである。
気怠そうに溜息などを吐きながら、差して広くも無い室内を我が物顔で闊歩して行く。
剰え彼は、部屋の奥にある教授の椅子へと無断で腰を下ろすと、デスクの上に脚を組んで踏ん反り返った。普通ならばどんな叱責が飛ぶかわからない振る舞いである。
そう。青年の腰掛けているデスクのプレートが、彼自身の名前を記してさえいなかったのであれば――。
――さて。
いいかげん読者の方々を置いてけぼりにしそうな状況が羅列され始めている為、この辺りで本章の冒頭から電波な思考を繰り返している彼の素性について簡潔に述べておこうと思う。
青年、朝日 真也は、才能に満ち溢れた物理学者であった。
僅か8歳にして相対性理論を理解し、12歳にして博士号を取得した彼は、17歳の今となっては、日本最年少の大学教授としてその名を知られている。
しかしながら彼の才能は、物理学者という職業を選択した彼にとっては幸運と言えたかもしれないが、同時に彼自身にとっては最大の不運とも言えた。
一言で言えば、才能が人間性を駆逐してしまったのである。
職業とは、自己の生き甲斐を形成する上で中々に重要な要素であると言われている。多くの人間は、理想的には、自己の性格ややりたい事、またどのような方面から誰の役に立ちたいのかなどを吟味しながら、自分の意思で将来の進路を決定していくのだろう。
しかし彼の場合は、そのステップが皆無であった。
幼少の頃より物理学の才能に秀でていた彼は、彼自身も含めて誰一人疑いの余地すらも無いままに、物理学者となる事が決定付けられていた。また彼自身も物理学という学問に少なからず楽しさを感じていた為に、自らがそういう進路に進む事に一切の猜疑心を挟む事も無かったのだ。
そこに社会に貢献しようだとか、人の役に立つ研究をしようなどという大それた大義名分が無くとも、誰一人として気にする者はいなかった。
結論として、彼は人々の生活に貢献する事の強いられる大学教授という職業に就いてから、ようやく自らが“人間嫌い”であるという事実に気が付いたのである。
人間は面白味が無い、と彼は考えている。日々教科書の中身を反芻するだけの、機械の如き単純作業を求める社会。ソレを形成している社会人達は、正直何が面白くて余生を浪費しているのか理解し難いと彼は感じてしまうのだ。
その社会に育てられた次世代も、面白味に欠けるという点では劣らないだろう。均一であれ、従順であれ、されど既存の社会を脅かさない程度に創造的であれと教育された若者達は、結果として思考能力というモノを奪われた状態で社会に放りだされてしまう。
そしてなお残念な事に、この社会は若者に夢を懐かせる程、彼らに優しくは無いらしい。
師よ喜べ。貴方の社会は、貴方が死ぬまで安泰だ。
物理の研究は面白いと、彼は純粋にそう思う。宇宙の最果てでも変わらずに成立する、美しい数字で綴られた至高の芸術。エネルギーと質量の等価性を理解した幼き日の憧憬を忘れる事が出来る程、彼は歳を重ねてはいなかった。
自らの叡智が偉大なる先人達の思想を超え、新たな真理を見い出した時の高揚は、彼の心に静かな戦慄を与えてくれた。
だが、人に貢献するのは面白く無いのだ。
自らの至った神秘が彼らの様な退屈な人間達の利益になるのかと考えると、彼はどうしようもない嫌悪感に苛まれる。それは、ある種の我儘なのかもしれない。しかし彼は、その我儘を我儘として納得し、諦めるには余りにも若すぎた。
遣り場の無い憂鬱を感じた青年は、一度大きく息を吐いて気持ちを落ち着かせる。微かに暗くなった視界を誤魔化すかの様に、彼はデスクにある黒表紙の本を手前に蹴り寄せた。
「?」
黒い革表紙の本を開き掛けたところで、彼の行動はけたたましいノックの音に遮られた。
――来客だろうか。
時間帯からすれば学生の可能性が高いのではあるが、取り敢えずは職務に見合った体裁を整えようと、彼はデスクから脚を下ろして姿勢を正した。
「どうぞ」
デスクから軽く土埃を払い、適当に整頓しながら返事を返す。散らばった書類を束ねた瞬間、扉はまるで跳ねるかの様に開け放たれ、挙動不審な女が研究室へと侵入してきた。
クリクリとした大きな目と、背中まである黒髪が印象的な、大人しそうなイメージの学生である。アホ毛、というのだろうか? 頭頂部では、一部の黒髪が万有引力の法則に打ち勝っている。真也はその女を、いつも自分の講義を最前列で聴いている真面目な学生の一人であったと思ったが、名前まで記憶してはいなかった。
「名前と用件を簡潔に述べてくれ。
私は今、気分が優れない」
背もたれに身体を預け、腕を組みながら偉そうに告げる17歳。
彼は“今”と言ったが、それは正確な表現では無いだろう。
人間とは立場や場面によって異なる態度や言葉遣いが求められる生き物であるが、彼には態々他人の為に同じ意味の語句を複数記憶して脳容積を無駄に浪費するなんていう文化は、理解し難い苦痛として感じられるのである。
つまりは今現在の様に、他人の為に自らの時間と労力を空費しなくてはならない状況においては、彼は“常に”気分が優れないのだ。
尤も、彼も自身の立場を保つ為にはそれが必要不可欠であり、また若輩の身で反感を持たれる事なく人の上に立つ為には人並み以上の一般教養が求められる事くらいは理解していたので、日常の職務に於いては、全力で私情を殺して“教授”であろうと努める事に異議は無いのではあったが……。
女は真也が名前を尋ねると、少しだけ不機嫌そうに眉を寄せた。
しかしそれも一瞬で、次の瞬間には寂しそうに肩を落としていた。
「すみません、相川 愛です。
えーと、先程の講義の問題を解いたので採点していただきたいんですけど……」
「…………?」
三日連続で母親に素麺を出された小学生の様なその表情の意味が、この時の彼には理解出来なかった。
しかし、実は真也が彼女に名前を尋ねるのは今月これが6回目であり、同様にしてほとほと人の名前を覚えない彼が、一部からは一般教養に欠ける非常識人間であるという反感を既に存分に買っているという事実を知ったら、彼はどういう反応をしたのであろうか……。
「そうか。多分解けて無いから、明日の授業の時にでも持って来てくれ」
そんな周囲の評価など知る由も無く、真也は女生徒の胸元に抱えられたレポートの枚数を目で数えながらそんな指示を淡々と告げた。
女生徒はアホ毛をピョコピョコと跳ねさせながら、パタパタと慌てている。
「き、教授!! せめて見てから判断していただけないでしょうか!!」
「仮想粒子の質量を実数領域に限定した覚えは無い。
場合分けが完璧であるなら、レポート3枚では収まらないさ」
女生徒の反論を一蹴してそう告げる偏屈教授。
その手は既に先程開きかけた本に指を滑り込ませている。
女生徒は、呆気に取られた様子でポカン口を開けて固まっていた。
ほにゃんと項垂れながら、頭を抱える様な仕草で下を向く。
おっとりとした彼女の雰囲気と相俟って、その仕草は随分と可愛らしいのだが、青年の視線は本に向けられていた為に意味を成さなかった。
「あう~……、引っ掛け問題だったんですか?
道理で教授の問題にしては簡単すぎると思ったんですよー」
「引っ掛け問題なんてのはこの世には存在しないそうだ。“不勉強故の勘違いを作成者のせいにするとは何事か”と、前に同僚が熱弁していたな。
……それに、私はそこまで難しい問題を出しているつもりは無いぞ?」
「えーっ。去年の期末で平均点19点のテスト作って、学長に大目玉食らったって聞きましたけどー?」
厭味な禿げ頭の説教を思い出して、真也は眉間に皺を寄せた。
因みにこの大学では、講師が本試験の半分の時間で解ききれる問題というのが期末試験の難易度の目安となっている。学長に唾を飛ばされて怒鳴られながら、“あんたの大学が三流なだけだろ”などと呟いた彼のぼやきを、聞いた者がいたのかどうかは不明である。
話はここまでだ、とでも言う様に背凭れに体重を預け、本を両手で構えた真也は、目の前の女生徒が何やら不穏な動きをしている事に気が付いた。
レポートと荷物を抱えながら、チョコチョコという表現がピッタリな足取りでデスクへと近付いて来る。
次に、無言で真也の表情をチラチラと伺いながら、デスクの上に教科書やノート、筆記用具等を並べ始めた。
「……何をしている?」
しばらくその様子を伺っていた真也は、女生徒が壁際から自分用の椅子をヨイショヨイショと引き摺って来るのを見て、抑揚の無い声でそう聞いた。
ニッコリと微笑みながら、ペコリとお辞儀をする女生徒。
「えーと。さっきの講義で分からない所があったんで、教えていただこうかな、って。
お時間、よろしいでしょうか?」
ダメですか? なんて柔らかそうな頬を掻きながら首を傾げる。
なにやら順番が逆なのは天然なのか、それとも暇を見越しての抗議の意味が込められているのかは判断しかねる所である。
「……どこだ?」
立場上、教えを請われれば断る訳にはいかない青年は、先程の“退屈な講義”の続きをしなくてはならない事に若干の憂鬱を感じながらも、読もうとした本を床に置いて椅子を引くのであった。
―――――
「ありがとうございました!!
スゴくよくわかりました!!」
窓から差し込む明かりが茜色に変わり始めた頃、女生徒は漸く気が済んだのか、筆記用具をペンケースにしまいだした。
慌ただしく、カチャカチャと、蛍光ペンを1本しまってはシャープペンを3本落っことすという様な手際で片付けていく。
一瞬だけペンケースの中身が見えて、何故シャープペンが10本も必要なのかという素朴な疑問が湧いた真也ではあったが、せっかく途切れてくれた会話を再開させる事にも抵抗があったので口に出す事は自重した。
ピンクのクリアケースをひっくり返し、中身の教科書を盛大に床にぶち撒ける女生徒。
流石に見かねた真也が手伝おうかと手を伸ばした所、彼女はあたふたと挙動不審な動きでそれを制止したので、手持ち無沙汰ながらも彼は、彼女の残念な手際を観察しているしかなかった。
……冷静に考えると、女性の鞄の中身に男が触れるというのは何かと問題なのかもしれないと、空いた時間で生徒の思考に対する推論を立てる物理学部教授。
そこまで適当な仮説を構築した所で、真也の頭には女生徒の思考に対してある疑問が浮上した。
「……何でオレなんだ?」
「へ?」
「失言だった。
何故態々私に教わりに来たのかと聞いた」
咄嗟に地に戻ってしまった口調を静かに言い直すと、真也は自らの感じた疑問を女生徒へと投げかけた。
何しろ、彼は自らの性質をよく理解している。
最良の選手が最良の監督になれる訳では無いとある種のスポーツでは言われている様に、真也もまた、人に物を教える事には酷く不向きな性格の持ち主であったのだ。
……いや、冗談抜きで。おそらく今日の講義に出席していた生徒の中にさえも、物を教えるという技術のみに焦点を当てれば、彼よりも優秀な人材などいくらでもいるだろうと自負する程の腕前である。
それにも関わらず、目の前の女生徒が態々自分に教えを請いに来るというメリットが、彼には思い付かなかったのだ。
真也の問いに対して、女生徒は少しだけ思案する様な仕草を見せていた。
そして次の瞬間には、バツが悪そうに目を伏せて、俯いた。
「……すまん、忘れてくれ」
女生徒の様子が気になった真也は、よくよく考えると、今の質問がかなり高圧的な意味合いにも取れる事に気が付いて訂正した。それに冷静に考えると、生徒が講師に教えを請うのは当然であると言えなくも無い。
真也が軽く溜め息を吐きながら目線を逸らそうとした時に、彼は自分を見つめる女生徒の視線に気が付いた。
「……朝日教授に教えて頂きたかったんです」
「……は?」
言葉の意味が理解出来ず、真也はポカンとしながら疑問符を飛ばした。
彼には、彼女の言葉の意味が理解できなかったのだ。
なにしろ彼自身は、それには何のメリットも無い事を痛いほどに実感している。
ならば彼女が自分に教えて欲しいと思う理由など、どこにもあろう筈は無い。
そのどうしようもない矛盾を解決する手段を見出せなかった彼は、暫しの間硬直するしかなかった。
女生徒は、ただ真っ直ぐな視線を向けている。
「だって教授。そんなに若いのに教授で、“素粒子の魔法使い”なんて呼ばれてて、ホントにスゴイ人じゃないですか!! わたし、スゴく尊敬してるんです!!」
女生徒は一際高く声を上げながら、ハッキリとそう口にした。
青年を見つめる茶褐色の瞳からは、偽り無く憧憬の念が見てとれる。
――そんな彼女を見た青年は、まるで肺を圧し潰される様な圧迫感を感じた。
「……へ? あれ!? い、いえ。えーと、その……。
し、失礼します!! また宜しくお願いします!!」
真也の顔色を観察した女生徒は、それだけを慌ただしく告げると、まるで台風の如く部屋から去って行った。途中でコードに2回程躓いて、金属製の扉に頭を打ち付けて行った。果たしてよっぽど慌てていたのか、それとも普段からああなのか。
「……ネームバリューを過信すると、真実を見失うぞ?」
室内に無遠慮に吹き込む冷気。
開けっ放しにされた扉を閉めようと立ち上がりながら、真也はそんな呟きを誰にともなく零していた。
――買い被りである、と彼は思う。
尊敬していると彼女は言った。
誰かの為になりたかった訳でも無く、ただ我が儘に生きて来ただけの自分に対して、彼女は尊敬していると言ってくれた。
自分は彼女が思っている程立派な人間では無いと自覚しており、尚且つ並べての人間を嫌っている青年にとって、彼女の様な教え子を見る事は、どうしようも無く心苦しく感じられる。
「オレだけは尊敬するなって話だよ。
オレは、人間なんか尊敬しちゃいないんだからな」
外界へと繋がるその鉄板を固く閉じながら、自嘲気味にそう付け加える。
先も無く、愚かで、酷く退屈な世界を呪いながら。
――未来は明るい物では無いという。
複雑化し過ぎた経済は僅かな軋みで暗期に入り、増えすぎた人口は世界各地に歪みを生み、貪欲な経済成長に痛め付けられた環境は既に虫の息である。
人類は彼が嘗て信じていたよりもずっと愚かで、遥かに我が儘な生き物であるという事実を、今の彼はよくよく理解している。
彼に“こんな人類にならば貢献する価値は無い”と判断させたファクターの一つである。
彼自身は、それでもいいと思っていた。
だって他人がどうなろうと、どんなにおぞましい絆で繋がっていようと、自分には一切関係の無い事ではないか。自分も我儘な人類の一員であるかと思うと嫌悪感も感じるが、それで罪悪感を感じる価値が有る程、人類は上等な存在では無いと彼は感じている。
人に対する興味を無くした彼には、
狭い研究室と酷い退屈だけが残った。
「…………っ」
先程よりも更に視界が暗くなったのを感じた彼は、理由の無い疲労を感じながら自らのデスクへと座り直した。まるで振り払うかの様に、先程の黒表紙の本を床から持ち上げて、開く。
タイトルは、“世界の黒魔術とその儀式”。
彼が読み始めたその本は、天才の名を欲しいままにしている物理学者には到底似つかわしく無い異物であるかの様に思われる。
しかし、彼にもある程度の言い分はあった。
近年、人間というモノに心底愛想を尽かし始めた彼は、人類史のある地点において、一度は“人間外のモノ”として扱われた存在に興味を持ち始めていたのだ。
彼らがどういった経緯で“そういったモノ”にでっち上げられたのかには、ケースバイケースで様々な理由があったのだろう。
しかしながら“そういったモノ”として扱われていたからには、もしかしたら、彼らは自分が嫌悪する人間とは違う“何か”を持ち合わせていたのではなかろうか、と。
真也は、そういった自分の理解の外にある存在に、一縷の期待感の様なものを感じていた。
「なになに、ここより遠い異国には……」
適当な興味を持ちながら、適当に字面を追う。
のめり込み過ぎる事も無く、特に感慨を覚える事も無く、それでもせめて暇潰し程度にはなればと期待しながら――。
――それは、遠い昔のお話。
そのカテゴリーに分類される存在は、呪文一つで火炎を放ち、無生物に命を吹き込み、異界から悪魔すらも召喚してみせるという。
嘗ては遠く実在していたとされる、遠い遠い神秘の担い手――。
「……バカか、オレは」
禍々しい黒表紙の洋書を半分ほど流し読みした所で、青年はポツリとそう零した。
青年は、科学を知っている。
火炎とは燃焼反応であるから可燃性物質が無ければ成立しないし、異界から悪魔を召喚するなんていうのは、原子論、及びエネルギー保存則に反する重大な“ルール違反”であるという事実を、青年はよくよく理解している。その本の信憑性の無さを、青年は痛い程によく痛感している。
「……末期だな」
憂鬱な気分で付け加える。
天才発明家トーマス・アルバ・エジソンは、晩年には心霊研究に打ち込んだ事で知られている。もしや彼の発明王も、自分と同じ様に人間に対する愛想という物を尽かしていたのではあるまいか、などと取り留めの無い思考が彼の頭を過る。
そうだとするのであれば、自分は歴史的な天才の晩年と同じ境地にまで至ったと少しばかり誇らしい気持ちになる反面、現在の自分の年齢を思い出して酷く鬱になるのを彼は感じた。
一度自分の脳年齢を測ってみようか、などと思い至り、脳トレは科学的根拠無しとしたイギリスの研究チームの統計などがなんとなく頭を過ぎったりする。
「……さてと」
一度大きく深呼吸をすると、真也はデスクから適当なペンを手に取り、その本の適当なページに記されていた適当な図形を一つ選び、適当に自らの左掌へと書き込んだ。
「魔術、か。これで火炙りにされた時代があったっていうんだから、人類は大分賢くなった方なのかもな」
皮肉気に呟きながら、青年は後日の実験予定表へと目を通し始めた。