28. 広義的な意味での地球外生命体の数々を代用した現代日本に於いて最もポピュラーなとある食料の再現を用いた飼料の作成による異次元生命体の保護と飼育及びその観察記録
廊下の修復が終わった頃には、空は既に茜色に変わり始めていた。
いや、終わった、という表現は些か適切では無いかもしれない。
何しろアダマスの床は、青年によって無計画かつ無遠慮に、しかも暴力的なまでにその体積を奪われ、殆ど壊滅状態になってしまっていたのである。修繕する為に山と積み上げられた資料と産廃、そして二人掛りの知識を総動員し、何とか元に戻そうと頑張ってはみたのだが……、調べれば調べる程に、ちょっと刺激を与えれば崩落しかねないくらい危険な状態である事が判明してしまった。よって二人は、取りあえずは山の様な産廃達を廃棄場へと運び、使えそうな部分だけを取り出して床の表面の隠匿に当て、せめて見た目だけでも何事も無かったかの様に見せかけておこう、という事で意見を一致させたのである。
なに。元から殆ど人なんか来ない一角だったらしいし、まあきっと問題は無いだろう、などと、青年はなるべく前向きな解釈に努める事にしている。目を凝らして見れば凹凸がハッキリと分かってしまうその廊下を眺めながら、少女はようやく、“異世界人とは独りにするとロクな事をしない生き物である”、という事実を理解した。
……いや、像とか薬とか塔とか塔とか塔とか。
殆ど地雷原状態になってしまった廊下に“危険・立ち入り禁止”の看板を立て終えた二人は、その足で正門前商店街へと向かった。昨日は結局買えなかった、青年の生活用品を買い揃える為である。夕暮れ時の商店街は混雑しており、青年は門限までに買い物が終わるのか、と少々不安に感じもしたが、一件目の衣料店に入った瞬間にソレが杞憂であった事を知った。
少女が店を闊歩すると、殆どの客は一も二も無くさっさと道を譲ってくれるからである。
いやはや。どうやら少女は、昨日の襲撃者との戦闘によって、また一段とその(危険物としての)名声を民衆の間に轟かせたらしかった。彼らの態度に気付いた少女が右手を挙げると、それだけで店内の客は脱兎の如く彼女の視界から消え失せた程だ。あっという間に閑古鳥が鳴いてしまった店内を見て、衣料店の店主がホロリと涙を流したという事実は秘密である。相変わらずの少女の怪獣ぶりに、青年は小さく溜息を吐いた。
――もっとも、実は逃げ出した客の内何割かは青年に対しても怯えていたのだが……他人の視線になどはほとほと無関心である彼には気付けなかった。昨日の一件が既に民衆の間に噂として広まりつつあった事など、この時の青年には知る由も無い事柄であった。
買い物は、二件目の店からは非常に慌ただしい物となった。
と、いうのも。衣類を買い終えた青年が、店を出た瞬間に目の前にあった鉱石店に目を留めてしまったのが原因である。青年があまりにも物珍しそうに眺めているため、少女もちょっとくらいなら見せてあげてもいいか、などという軽い気持ちで店内に入ったのだが、ここからこの天才物理学者殿は暴走を始めた。
少女自身は当然の様に知らなかったものの、この世界の鉱物の種類という物は、地球のソレに比して桁外れに多いのだ。後に青年は、それが原子間の結合に魔力が関与する事によって地球ではあり得ない構造を作るからである、という事実を突き止めるのだが、とにかくこの時の彼は、見たことも聞いたことも無い性質を持つ金属達を見ているだけで探究心という物がヒシヒシと刺激されてしまったのである。
一瞬にしてあの危険な“学者モード”に突入してしまった彼は、鉱石を一つ手にとっては店主や少女に詰め寄って性質を聞き出し、気になった物を見つけては買い物籠に塊ごと突っ込むという暴挙を仕出かし始めた。そこにきて流石に、少女も自らの行為が失策であった事に気が付き始めたのだが、その頃には青年は、既に“不死鳥の羽ペン”がアダマス鉱以外の魔法金属の加工にも使えるという話を店主から聞き出した後だったのだ。無論、このバ科学者がそんな面白そうなオモチャ、もとい研究材料をみすみす諦める筈も無く、結局少女は、籠いっぱいの魔法金属鉱石を大人買いどころか富豪買いのようにして買わされる羽目になってしまった。
幸いなことに今朝方、国王陛下に“当面の生活費の工面”という条件を飲ませておいた為、それだけの鉱石でもサイン一つで済んだ。
鉱石を買い終わった後も、青年の暴走は止まらなかった。
三件目に入った魔装屋では護符や降魔聖水などの珍しそうな“補助魔装”を買い漁り、四件目に特攻した農具店では、もう荷物を持ちきれないからなんて理由でリヤカーなんかを買いなさった。五件目に入った食料品店では肉や卵、野菜などをどんな生物のモノなのかを詳しく聞きながらリヤカーに突っ込み、六件目に入った工具店では、最早少女には用途すら不明な珍道具を買い集めていた。まあ、どれだけ買ってもサイン一つで済んでしまうので、少女も特には咎めなかったのだが……。
後に明細を見た国王陛下が、“やはりわしの目に狂いは無かったかのぉ”なんて呟く羽目になったという事実を知る者は居ない。
兎にも角にもそんな感じで、明らかにリヤカーの最大積載量を上回る程にモノを買い込んだ二人は、月が綺麗な真紅に色づき始めた頃、門限ギリギリで王都から脱出する事に成功した。あとはこの大荷物を、少女の館まで運び込むだけである。
――その時である。
正気を取り戻した青年が、自らの置かれている状況を理解して青褪めたのは……。
学者モードに突入していた彼は完全に失念していたものの、何故か、どういうワケなのか、この見目麗しき真紅の少女は、あの最果ての丘なんかにたった一人で住んでいらっしゃるのである。しかもこの世界には、アスファルトなんていう便利な物は当然の如くある筈も無く、門の外から少女の丘までは、土と草本の大地が嗜虐に満ちた表情を浮かべつつどこまでもどこまでも広がっている。
そう。つまり彼は、これだけの大荷物を背負ったまま、あの長い長い道のりを完歩しなくてはならくなったのである。
あまりの事態に、茫然自失の表情で立ち尽くすしかなかった青年。そんな彼を尻目に、少女はリヤカーの荷台にヒョイと飛び乗ると、荷物を背もたれにしながら寛ぎ始めた。彼女が何をしているのか理解できずに、何となく首を傾げてみた青年。少女はまるで妖精の様な笑顔でソレに答えると、
「じゃ、頑張ってね」
などと言いながら、丘の頂上、つまりは自らの館の方角をチョンと指差した。
この瞬間になって、青年は漸く、この少女がリヤカーを買うのに全く反対しなかった真の理由を思い知った。
「……アル?」
青年の口から、低い、低い声が漏れた。いや、まあ。元はと言えばすべて彼自身の荷物なワケだから、彼とて手伝え、とまでは言わない。それにいくら常識的な人間性を欠いている彼であっても、この可憐な少女に力仕事をしろ、と言い出す程の度胸は無いワケであって、そういった意味で言えば、まあ青年が苦労している隣で彼女が何をどうしていようとも、別段咎めるつもりも無い。
――無論、ソレがリヤカーの上でさえ無ければ、の話ではあるが。
更に一つ付け加えるのであれば、昨日から一生分以上に貰っている少女の鉄拳を思い返す限り、この少女に筋力が不足しているとは到底思えないワケで、それに元はと言えば、今彼がこんなモノを必要としているのはそもそも少女がこの世界に自分を拉致したからであって、そういう意味で言えば、やっぱり少女もちょっとくらいは運ぶのを手伝うべきではないか、などという感情が彼の中に芽生えたりしないこともなかったりはする。
青年がそんな事を考えながら恨めしそうな視線を向けていると、少女は何か集中する様な仕草を見せ、短く呪文を詠唱した。
「軽量化」
少女がそう呟いた瞬間である。あまりの重さ故に地面に沈まんばかりであった筈のリヤカーは、地面から数ミリだけ浮き上がったかと思うと、ピタリとそこで停止した。
目を丸くしている青年をよそに、少女はフフンと得意げに笑った。
「言っとくけどさ。
これだけの量の荷物に軽量化の魔法かけ続けるの、楽じゃないんだからね?
下りて手伝うと、集中が乱れてかえって重くなるかもしれないけど――、あんたはそれがいいの?」
「…………」
……こう言われてしまうと、青年としては何も言い返す言葉が無い。
渋々ながらも彼は、この時ばかりは少女の馬車を引っ張る馬に身分を落とさざるを得なかった。いや、まあ。少女のセリフは痛く正論である事は否めないのだが、何か騙されている様な気がしてならないのは本当に気のせいなのだろうか、などと、彼は後ろから聞こえる少女の快適そうな鼻歌を聞きながら思案するのであった。
―――――
少女の館に辿り着いた頃には、青年は既に肩で息をせんばかりに疲弊していた。
誤解してはいけないのだが、真也は別段、平均的な日本人に比べて体格で劣っているだとか、筋力が不足しているだとかいう訳では無い。無論、彼は生粋の物理学者である。普段からバランスの崩れた食生活や乱れた生活習慣を送らざるを得なかった彼は、確かに健康的な食生活を送り且つ運動部で日夜鍛錬に励んでいる、同年齢の体育会系の高校生達には体力面で少々譲らなくてはならないだろう。
しかし彼は同時に、運動不足が思考能力を低下させることを、一般論として重々に承知してもいた。よって彼は、起床と共に毎朝適度な運動を熟す事を習慣としていたのである。
これは異世界に拉致された後も目下継続中のライフワークであり、そういった意味で言えば、彼の身体能力は一般の高校生の平均値をクリアしている、と言っても問題は無いだろう。
ならば軽量化の魔法を掛けられたリヤカーを引きずったくらいで疲れる事もあるまい、などと思われるかもしれないが、実を言うと事はそう単純では無かった。具体的に述べるのであれば、その“軽量化の魔法”という名称が大きな落とし穴だったのである。
少女の掛けた魔法は、確かに荷物の重量を減らした。ソレには少女自身の体重も含まれており、結果として彼の引くリヤカーは、この星の重力という物の影響を殆ど受けなくなったと言って良かっただろう。しかし先日彼が行った塔破壊実験が示唆している様に、この世界に於いても、やはり“質量保存の法則”は成立していると考えられるのである。
……そう。つまり軽量化とは“重量”を減らす事は出来ても、“質量”を減らす事は出来ない魔法なのだ。
例えるのなら、そう。軽量化の魔法というのは、無重力状態を作り出す様な魔法だとでも考えて戴きたい。例えば宇宙空間に於いては、落ちるべき“下”など無いのだから、宇宙船内で手から離れた1kgの砲丸は、いつまでも空中に静止している様に見えるだろう。重量計の上で手を離したとしても、やはりその数値は0から動かないに違いない。
だがソレは、決して砲丸の“質量”が消えた事を意味しない。我々の宇宙には慣性の法則という物があり、運動の状態を変化させる為には力を加えなくてはならない、とするのは物理学の基本中の基本ではあるが、それはつまり、今ここに無重力中で静止している様に見える1kgの砲丸が存在するとすれば、それを動かす為には、我々は依然として1kgの重量を持つ物体を地球重力下で持ち上げるのと同等の力を加えなくてはならない、という事を意味しているのである。
えーと、つまり何が言いたいのかというと。少女の掛けた軽量化の魔法とやらの働きは、結局のところリヤカーから手を離しても丘をズルズルと逆戻りしない為のストッパーになる役割と、車輪が地面に沈んで回しにくくなるのを防ぐ程度の役割に留まり、端的かつ簡潔に述べるのであれば、青年は依然として平地でリヤカーを引くに等しい力を加え続けなくては坂など上れなかったという事である。
……薄々感じていた事ではあるが、王都から少女宅への坂というのは、どうも彼にとっては鬼門らしい。青年は、一刻も早く彼女の通勤事情を改善してやらねばなるまい、などと、買い込んだ大量の鉱石と工具に目をやりながら思案するのであった。
―――――
さて。そんなこんなで何とか少女の館へと帰還を果たした真也は、ここに至って予想外の窮地に立たされる事となった。
否、窮地なんて生易しいモノでは無いだろう。
何しろ彼にとってそれは、正に死活問題。文字通りに生死を賭した出来事であり、敢えて比較対象を出すのであれば、昨日のあの大男との一件なんか目じゃない程の災難であったのだから……。
先ず屋敷の大扉の前まで辿り着いた少女は、額の汗を拭いながら整理運動に励んでいた青年をよそに、扉を蹴破る様にして開けてから呪文を詠唱した。
軽く集中する様な仕草と共に、短く二言だけ唱えられたその言霊は、空間を僅かに揺らがせる様な錯覚と共に本の山に隠れた灯りを次々と灯していった。
一昨日の晩は点けていなかった様だが、どうやらこの屋敷にも灯りと呼べるものは設置されていたらしい。感心している青年に目をやる事も無く、少女は本棚の隙間を縫うようにしてヒョイ、ヒョイ、といつもの要領で居住領域までその歩みを進め始めた。
青年は山の様な本を押しのけながら、かなり苦労して台車を引いていかなくてはならなかったのではあるが、これはまあ、まだ災難などとは言わない。
次に青年がなんとか少女に追い付いた頃には、少女はベッドを中心として開けた居住空間の中に佇み、何やらまた呪文を詠唱しているところであった。どうやら、結局召喚に伴うアレコレで惨状を呈したままとなっていた本や瓦礫を片づけていたらしい。ついでに、青年が同居人となった事で手狭になった居住領域の拡大も図っていた様であった。
少女が一言呪文を詠唱する毎に、青年が3人掛りでも動かせない程の瓦礫が軽々と宙を舞い、隅の方へとどんどん積み重なっていく。その現象を見た彼は、不意に昼間自分が使った風魔法による超微風を思い出して、言い知れない敗北感の様な物を覚えたりもしたのではあったが、コレはまあ、まだ大した災難とは言えない出来事であっただろう。
――問題が起きたのはその後である。
未だ慣れない場所であるとはいえ、多少なりとも帰宅による安堵を覚えた青年は、身心を休ませるかの様にしてフウと小さく息を吐いた。そして少しだけ休息を取ろうか、などと今にもダイニングテーブルに腰を下ろそうとしたその瞬間、彼の耳は不幸にも、少女のその呟きを拾ってしまったのである。
「じゃ。簡単に作っちゃうから、待っててね?」
青年は、青褪めた。
少女の呟きの意味を理解してしまったが故に、彼の背筋にはゾクリ、とした悪寒が這い回り、あまりの恐怖に末期癌患者の如く膝が痙攣を始める。
――少女が家に帰って来て、作るモノ。
浴びるでも被るでも見るでも無く、彼女は今、“作る”と仰ったのである。
日が暮れて家に帰宅した人間が、先ず作るモノ。
そんなモノは一つしか無い。
夕飯、である。
青年は戦慄した。
彼の脳は何度も何度もその仮説を否定しようと現実逃避を繰り返したが、まるでそんな彼の努力を嘲笑うかの様に、少女は鼻歌と共に周囲のアダマス鉱からキッチンを作り上げてゆく。その楽しげな姿を見ているだけで青年の脳裏にはあの緑の粘液がフラッシュバックして、走馬灯と共にフラリと意識を失いかけた。
「あ、アル!! 一つ提案があるんだが……!!」
すぐさま、彼は説得を開始した。
キッチンに立つ少女の姿に今朝の光景がデジャヴして、そのトラウマが彼の声を1オクターブ程も上擦らせた。正直、今は彼女を直視しているだけでも舌が覚えてしまったあの禁止薬物の風味が何度も何度もリプレイされ、“危険危険危険危険”と本能が悲鳴を上げ続けるのではあるが、ここで退いては更なる大惨事を招くことは誰の目にも明らかであった為、彼はダラダラと脂汗を流しながらも、努めて冷静を演じながら少女に譲歩を求めようとした。
――無論、彼とて自らの内心を正直に告げる様な不手際はしない。
何しろ今回の説得対象は、癇癪が服を着て歩いていると言っても過言では無いこの少女なのである。もしも下手な事でも口走ろうモノなら――、
「……なによ。あたしの料理はそんなに不味いって言いたいワケ!?
折角あたしが作ってあげてるのに、味にまでイチャモン付けるなんて何様のつもりなのよバカ!!」
……などと理不尽な理由でボコボコにされた挙句、顎を固定されたままあの汚泥を皿ごと流し込まれかねない。
無論、そんな事になれば今度こそショック死は、免れないだろう。
故に、交渉には細心の注意が要求された。
「これから、料理はオレが作ろうと思うんだ」
「ほら、オレは特務教諭だろ?」
「オレは、料理のレシピも一種の知識だと思うんだ。
だったら、ほら。この世界に伝えるのは義務みたいなもんじゃないか。
それに君だって、オレの世界の料理に興味があるだろう?」
などと、彼は妥当性のある理論を思いつく限り懇切丁寧に、かつ彼女の機嫌を損なわない様に気を付けながら展開し、尚且つなるべく自然に振る舞いながら説得を続けた。
いや、まあ。声は多少不自然なくらい震えてしまっていたかもしれないが、この状況で声色まで自然に出来るヤツは、役者とか演技がどうとかいう以前に最早人間では無い、と彼は分析している。
あまりにも集中しすぎて、半ば無我の境地に達していたからであろうか。
正直に言うと、彼は交渉の内容を半分以上覚えていなかった。
ただ結論として言えるのは、彼は今少女の代わりにキッチンに向かい合い、そこを使用する事を認められた、という事実だけである。
――そう。遂に彼は、自らの手によって生存する権利を勝ち取ったのである。
背後に存在するダイニングテーブルからは、青年の説得を受けた少女が興味深そうな、しかしどこか訝しげな視線でこちらを見詰めており、依然として余談を許さない状況である事は否めないが、一応のところ最悪の事態だけは回避出来た、と言って良いだろう。
青年は、食材をキッチンに並べながら冷静に思考した。
――ここから先は、一切の不手際など許されまい。
ちょっとでもこちらの動きに不自然さでも感じたりしようものなら、この意地っ張りな少女の事である。
「ナニよ。あたしの方が上手いじゃない。
やっぱりあたしが作るから、あんたはそこで座ってて」
……なんて事を言い出しかねない。無論、その言葉は青年にとって死刑宣告に等しい。
調理実習をまともに受けて来なかった事が、心の底から悔やまれた。何しろ彼は、生粋の物理学者なのである。自炊と言えばカップ麺と卵掛けご飯くらいしか経験してこなかった彼にとって、今現在直面している問題は、あの超統一理論を3時間で完成させるに等しい程の超難問に感じられた。“料理は科学だ。料理は科学だ。料理をひっくり返せば理科になる”と心の中で何度も呟き、理科実験と調理の違いなど微々たる物だと信じる事でその不安を薙ぎ払う。
彼が用意したのは、丸っこい形のねぎと挽肉。パン粉に塩胡椒といった調味料。あとはボウルやフライパンなどの調理器具であった。材料は青年が先の商店街で買った物。調理器具は少女に頼んで飛ばしてもらった物である。説得に“家具の使い方を覚えたい”、という名目も含んでしまった為に、ここから先は少女の魔術には頼れなくなってしまった。
やり方だけは教えて貰えたが、コンロの炎も自分で調節しなくてはならないのである。
「確か微塵切りにした玉ねぎを炒めて、一回冷やす、だったよな?」
嘗て中学校で習った内容を諳んじながら、彼はまな板の上に玉ねぎを置き、やたらと切れ味の良さそうな万能包丁をトントンと押し込んでいった。左手を猫にするという基本は忠実に再現している。彼も、そこだけはよく覚えていた。
――余談ではあるが、玉ねぎとは言っても、やはり青年が地球で慣れ親しんだモノとは少々違っているらしい。未だ大量の玉ねぎが入っている包装には、“シクシクねぎ・中”などというふざけたタグが堂々と括り付けられていた。商店街で玉ねぎをくれと言ったところ、店主のおじさんは、何故か無言でコレを手渡してきたのである。
……明らかに顔が付いているのが少々気にはなったが、まあ形は確かに丸いのだ。きっと、ちょっと洒落た玉ねぎなのだろう、などと青年は解釈する事にしている。
切っている内に涙の様なモノを流し始めたのだが、多分、気のせいである。
きっとアレだ。汁かナニかが漏れているだけに違いない。
青年は微塵切りにしたソレを、フライパンでキツネ色になるまで炒めていく。
火加減を見ながら手を動かすのは少々難しかったが、何しろ今の彼は命がけである。
やってみると、火力の調節には意外と早く慣れる事が出来た。
炒め終わった“玉ねぎ”を氷の魔法円の描かれた冷却皿に移し、冷ましている間に挽肉をパックから取り出してボウルに移す。勿論、牛肉なんて都合のいい物が異世界でそう簡単に手に入る筈も無く、この挽肉を、肉屋の店主は“モニ”の肉を2回挽いた物だと説明していた。店主曰く、ソレは4本の脚と沢山の歯、それから4つの口を持っており、全身が白と黒のまだら模様で覆われている生き物なのだという。
4本の脚に白黒のまだらと言うのだから、きっとそれは牛の仲間なんだろう、などと青年は信じる事にしている。4つの口、というのは、きっと4つの胃袋の言い間違いに違いない。どちらも消化に関係する器官なので、きっと、守護魔の翻訳システムが少々誤作動を起こしただけなのだろう、などと彼は心の中で繰り返した。
……春になると羽化するという一言が少々気にはなったものの、まあ、アレである。動物の毛なんて季節によって生え変わる物なんだし、きっと、ソレを冗談めかして例えただけに違いないのだ。
「ふぅ……」
“モニ肉”をボウルに移した青年は、温度を確かめる為に指先で“シクシクねぎ”に触れてみた。
結果は――まだ熱い。
教科書に素直に従うのであれば、火傷防止と挽肉の風味を保つ為には、あと5分少々は冷ました方が得策だろうか。
……多少熱くとも、無視して肉に混ぜて捏ね回すくらいなら出来そうな物ではあるが、何しろ今回の目的はただ料理を作る事ではない。後ろに控えている少女に食べさせて、尚且つ満足させなくては、明日以降キッチンに立たせてもらえるのかすらも分からないのである。
「…………」
――そこまで思案した青年は、不意にその少女の反応が気になった。
シクシクねぎが冷めるまで、やることが無かった、という理由もあるだろう。
それにここまでの作業を見た少女が、何らかの不満を抱えたりしてはいないか、なんて事が気になったという理由も、間違いなくある。
どちらが正しいのかは彼自身にも断定できなかったものの、真也は何となく、かつさり気無く、後方のダイニングテーブル腰掛けている少女の方へと視線を送ってみる事にした。
「――――?」
急に振り向いたのが気になったのだろうか。
少女は一瞬だけ首を傾げる様な仕草を見せた気がしたが、あまり深く考えた様子も無く、乳白色のテーブルに肘を着いたままこちらを観察していた。
きっと、もうじき出来る異世界の食事の到着を心待ちにしているのだろう。
妙なくらいに大人しく、無言で青年が調理する姿を見詰めている真紅の少女。
言葉を交わさない分、青年の意識は自然、彼女の容姿に向いてしまった。
両掌に支えられた、むき身の卵の様な頬。すべすべと柔らかそうなそこから、滑らせる様に視線を上昇させると、宝石の様な翡翠の瞳と見つめ合う形になる。少女の瞳はちょっとだけ訝しそうな、しかし異世界の料理に興味深々といった様子で、真っ直ぐにこちらを見詰めていた。
「――――っ!!」
何故か、少々バツが悪くなって、青年は視線をシクシクねぎへと戻してしまった。
魔術練習の後遺症だろうか。
彼女と目を合わせているだけで、身体の芯を加熱される様なあの錯覚が、じわじわと冷静な筈の彼の精神を苛んだ。
――少女の瞳が、自分の方をジッと見詰めている。
その事実をハッキリと意識しただけで、料理の次の手順が思い出せない程に、脳の奥の方がジーンと痺れてくる。
彼女の視線を意識しているだけで、彼には自分の体温が上昇していくのが明確に分かった。
……本音を言うと彼自身、そんな自分に酷く困惑していた。
彼女はただこちらを見詰めているだけで、別段魔術か何かで圧力を掛けているわけでも無いのである。否、そもそも彼女が仮に魔術を使っているとしても、そんな物は青年には何の効果も齎さない筈なのだ。
何の種も仕掛けも無く、ただ見詰めているだけで体調に異常を起してしまう、少女の視線。
何故か動悸を起しそうになる心臓に手を当てて、深く精神を落ち着かせながら、青年は彼女の起している不可思議な現象の要因について暫し思案しなければならなかった。
考察する事、約三分。
彼は漸く、考え得る中で最も説得力のある原因に思い至った。
彼が今しているのは、料理である。
そして料理とは当然の事ながら、作った段階で全てが終了する行為では無く、完成品を誰かに食べて貰って初めて意味を成す概念であると説明する事が出来るだろう。
――そう。つまり彼が作っている料理は、今からあの少女が口にする物なのである。
吸い込まれそうな程に大きな瞳。月明かりから生まれた様な、目を奪う程に綺麗な真紅の髪。真っ白な肌は、それこそ触れれば溶けてしまいそうで、紅い唇のぷるんとした柔らかさは、直接触れずとも見ているだけで十二分に伝わって来る。
彼女の容姿は、それはもう、まともに見ると脳髄が揺さぶられるくらいに可愛いと言えるだろう。それだけは絶対に、客観だろうが主観だろうが関係なしに断言できる。
そして今、そんな彼が見たことも無いくらいの次元違いの美少女は、彼が作る物を口にしようとダイニングテーブルで待っているのである。おまけに彼女はただ待っているだけで無く、興味深そうな視線で始終、彼の料理する姿をジーッと見詰めているのだ。
……女の子に料理を食べさせるのも初めての青年が、この状況でまともに動作出来るワケが無い。青年はこの段になって漸く、自らの選択した行為の重大性に気が付いたのだった。
途端にやり難くなった作業に頭痛を覚えながら、青年は暫し自らの置かれた状況を思案していた。
考えてみれば、この光景の何と奇妙なことだろうか。
何しろ3日前までは包丁すら持たず、ポットと炊飯器以外の調理器具を使わなかった彼が、今はあんな可愛らしい女の子に手料理を振る舞おうとしているのである。
本当に、人生はどう転ぶか分かった物では――。
「……って、バカか。オレは……」
そこまで思考した青年は、自らの思考のあまりの酷さに気が付いて頭を振った。
底知れない羞恥と自己嫌悪が沸々と湧き起こってきて、精神が自殺したい程の鬱状態にまで沈着する。
彼が“シクシクねぎ”を切り終えていたのは幸いだっただろう。
もしも彼の手に包丁があったのならば、それで潔く自らの魔法円を削ぎ落して自決してしまっていたかもしれない。
とにかくとして今の彼は、そのくらい凄まじいレベルの精神汚染を感じていたのである。
……なんの事は無い。
一瞬でも、彼女を“女の子”と考えてしまった自分が許せなかったのだ。
そもそも“女の子”とは何なのだろうか。
無論、ソレはホモサピエンス雌性体の幼少期を指し示すのに用いられる呼称であると彼は定義する。ならば彼女が女の子なのか、という命題について考察すれば、答えは“否”と言わざるを得ないだろう。何しろ彼女は地球外の、そもそも世界すら異なるこの場所に生息している生き物であり、当然の事ながらホモサピエンスなんかである筈が無いからである。魔術講座の時にも地球人には無い臓器の名前を出されたし、いくら外見が可憐な少女にしか見えないとしても、一皮剝けば中身がどうなっているかなんて分かったものでは無いのだ。
「…………」
頭蓋を抉られる様な頭痛に頭を抱えながら、彼はどこをどう間違えてこんなバカげた思考に至ってしまったのかと自己分析を始めた。
原因としては、まあ。色々と考えられるのではあろうが、その中でも特に大きなウェイトを占めると思われる要因はアレだろうか。
――そう。要するに、アレである。
昨夜少女が晩餐会にて見せた、純白のドレス姿。アレが、非常に不味かったのだ。
例えば、そう。彼女が今着ている様なローブならば、いくら見た目がホモサピエンスに近かろうと、彼女が自分とは違う存在なのだと認識する事は容易だろう。何故ならばあんな服装は地球ではやはり異質なモノであり、そんな物を日常的に着る生き物は、どう考えても青年のよく知る人間などとは違う生き物に違いないからである。
だが昨夜の様に、この少女に綺麗なドレスでも着られてしまうと、途端にその事情は変わってくる。例えばドレスというカテゴリーに分類される衣装は、地球にも多く存在しているだろう。材質や仕立てを細かく見れば、地球製のモノとはやはり細部が異なるのだろうが、裁縫に詳しくない青年にしてみれば、昨夜の少女の服装はどう見ても地球で言うところの“ドレス”にしか見えない。
そう。つまりは彼女がそういった、青年自身の記憶にある様な衣装を着ると、その情報を処理した脳が、彼女が同族であると混乱を起してしまうのだ。
……要は、擬態と同じ理屈である。
増してや昨夜は、徹夜の上に次々と災難が降りかかり、つまりは酷く疲弊した状態であったのだ。そんな疲れて判断力が落ちた状態であんなモノを見せられては、確かに、脳が彼女の擬態を見抜けなくとも無理はないのかもしれない。
極めつけは、昼間の彼女の魔術指導である。青年にとってはアレが決定的だった。
彼はあの時、只でさえ昨夜の晩餐会で種の境界線を混乱し始めていたところに、その本人に身体の感触が伝わるほどピッタリと密着されてしまったのである。
彼女の行為は、彼女を異生物であると正確に認識出来ているのであれば、特に何の問題も無かっただろう。しかし、もしもほんの僅かでもこの少女を“女の子”であると錯覚してしまっていたのならば、やはりその事情は全く変わってくる。
あの指導に、致命的なまでに精神を侵食されてしまうのである。
吐息が掛かる距離で囁かれる甘い声に、真っ直ぐに視線を合わせる翡翠の瞳。彼女を“女の子”であると意識すると、彼女の髪の匂いや、どうしても分かってしまう乳房の感触などに、凶悪なまでにその理性を抉られてしまうのだ。
増してや、あの少女の容姿である。
現代日本の美的感覚から判断して、何の冗談か、どうしようもないくらいに魅力的であると断言出来る彼女の姿なら、密着されただけで意識を飛ばす男がいたとしても何の不思議も無いだろう。
幸いにして青年は、あのときはまだ彼女をハッキリと“女の子である”とは誤認してはいなかった為、そこまで顕著な効果は受けなかったが――。
つまりは、アレで完全に脳が誤解してしまったという事なのだろう。
今しがた陥っていた低レベルな思考は、きっとソレが全ての原因に違いない。
「はぁー…………」
自分自身に心底呆れきったといった表情で、彼は嘗てない程に大きなため息を吐いた。
何気なしに、シクシクねぎの入った冷却皿に手を触れる。
今の青年には、その器から伝わるヒンヤリとした感触が、自分に頭を冷やせとでも警告している様に思えてならなかった。
氷の魔法円によって冷やされた皿が左手の体温を奪うごとに、少しづつ、熱に浮かされたかの様な思考の温度が下がってゆく。
――そう、なんのことは無い。
別に彼は、女の子に手料理を食べさせるワケでは無いのである。
これは、そう。アレである。
アマゾンの奥地で新種の珍獣を発見した生物学者が、ソレを健康的に保護・飼育していく為に、適切な飼料を調合する様なモノなのだ。そこに脳が痺れる様な感覚とか、或いは体温が上がる様な感情を持ち込むのは、飼い犬に顔を舐め回されて興奮する異常性癖の変質者と何ら違いがない。
ならば彼女にそういう感情を抱くのは、全ての論理と倫理を統合して考えようとも、やはり根本から間違っていると言わざるを得ないだろう。今しているのは、あくまでも実験と観察に伴う作業の一つでしか無いのである。
「はぁー……」
もう一度だけ、深く溜息を吐いて思考を沈ませる。
どうやら彼女があまりにも人間っぽく振る舞う為に、脳が病的な誤認を起してしまっていただけらしい。
地球に帰ったら一度、自分の脳が正常かどうかを同僚の心理学者にでも相談してみるべきだろうか、などと思案したところで、彼はその予定を心のメモから削除する。
……精神科に送られるのが落ちだからである。
「…………?」
――と、そこまで思考した時である。
真也はなんだか、それはそれで中々に得難い経験である様な気がし始めた。
成程、未知の生命体が摂取する飼料を作成しているのだと考えると、それはそれで興味深い行為であると言えなくも無い。青年にとって生物学は、まあ完全に畑違いではあるものの、それでも未知の生命体の生態観察というのは、学者として心躍らせずにはいられない程の課題であると言って差し支えは無いだろう。
そんな結論に至った青年は、取りあえず、今の作業は学者として楽しんでおこう、という意見で納得した。
「――っと。そろそろいいか?」
思索に耽っている内に、シクシクねぎが冷めていた。
綺麗な飴色のソレが玉ねぎである事を信じて、彼はモニの肉が入れられたボウルへと足していく。確か次は、1カップのパン粉と卵を入れて、粘り気が出るまで捏ね回す、だっただろうか。モニの肉とやらが粘り気を出すのかどうかに少々の不安も覚えはしたが、取りあえずは試してから考える事にした。
日本で使われている計量カップなんて物は当然の如く存在しない為、目分量でパン粉を加えてから、用意してあった“ピョンピョン鳥の卵”を取り上げる。
真也はボウルの淵で卵殻に罅を入れて、肉とパン粉の塊の上にパカリと落とした。
……黄身が毒々しい緑色をしているのが少々気にはなるが、まあ卵は卵だろう。
何らかの理由(腐敗、細菌、突然変異など)によってこの色に変色しているという可能性も無くは無いが、まあ買ったばかりだし大丈夫に違いない、と彼は信じてみる事にする。
何しろ多少色が異なっていようとも、卵は卵なのである。
真獣類と有袋類を除く、陸上生活に適応した高等脊椎動物が等しく産み落とす、次世代を発生させる為の栄養の塊なのである。
「ん……?」
――と。
そこまで思案した真也は、少々気になった点があってその動きを止めた。
科学者としての思いつきが天啓の様に脳内を走り、ソレがたった一つの疑問に向けて収束していく。
「? どうかしたの?」
彼の異変に気が付いたのだろうか。
少女は真也の方を見詰めながら、不思議そうに首を傾げていた。
真也の目線は、彼自身の手元に落とされている。
深く考え込む様な表情で、たった今、自らが割ったピョンピョン鳥の卵の殻を見詰めている。
その様子に、なおも疑問符を強める少女。
彼はまるで、思い詰めるかの様に眉間に皺を寄せていた。
「いや、大した事じゃ無いんだが……」
平然とした声色で、彼は少女の方へと視線を戻した。
本当に些細な疑問なのか、青年の表情は本当に自然なままである。
そして、まるで明日の天気でも尋ねる様な感じで、本当に普通にこう訊ねた。
「君は、卵とか産まないのか?」
――青年は、粘り気が出るまで殴られた。
―――――
顔中から吹き出す血液が止まり、瞼の腫れによって失われていた視界が戻ったのを確認した後、真也は鼻の奥に感じる謎の熱さを我慢しながら料理を完成させた。
口内に吐き気を催す程の血の味が充満していたのが辛かったが、それでもやはり、今の彼の回復力は偉大であるらしい。
味見をする段になる頃には、何とか味覚を判断するくらいの機能は回復してくれた。
因みに察しの良い方はとうに気付いた事とは思われるが、今回彼が作ったのはハンバーグである。
無論、料理になんか慣れていない彼が、代用食材ばかりででっち上げて作っただけの料理である為、抜群においしい、なんて事は間違っても言えないレベルの代物であっただろう。だが彼自身が味見をしてみたところ、初めて一人で作ったにしては上出来だったのではないか、などと少々得意げに頷ける程度ではあった。
――端的に表現するのであれば、中学の家庭科ならば4が貰えるレベルである。
勿論、今回の料理の審査員は彼自身では無い。
味覚に少々問題があると言わざるを得ない、この少女なのである。
真也には、それはある意味、ミシュランの三ツ星シェフに合格点を貰うよりも遥かに困難な事である様に思えてならなかったのだが、まあそれは今更気にしても仕方の無い事でもある。
彼は、黙って審判の時を待つことにした。
少々形の悪い肉団子を切り分け、物珍しさからか恐る恐るといった様子でそれを口に運ぶ少女。彼女がソレをもぐもぐと咀嚼してからコクンと飲み込むまで、真也は戦々恐々としながらその感想を待っていた。
この少女の裁量一つで、青年の余命が問答無用で決まってしまうからである。
彼は塔の中で大男を罠に嵌めようとした時以上の、手に汗を握る程の緊張感と共に、一秒が十秒に感じられる程の戦慄の中、呼吸すらも忘れて少女の食事風景に意識を奪われていた。
そんな彼の内心を知ってか知らずか、少女は初めて食べる異世界の料理をゆっくりと味わい、飲み込んだ後も暫し余韻に浸っている様子であった。
まるでどう評価すべきか迷う様に、思案顔でハンバーグが乗った皿に視線を落としている。
その間ずっと、青年はあまりの恐怖に血が凍りついたかの様な錯覚を味わい続けていた。
無言で彼女の様子を見守る事、3秒。
やがて少女は目線を上げ、僅かに頬を緩ませながら――。
「――なんだ、普通においしいじゃない。
ちょっと物足りないけど、コレなら許容範囲かな」
と、彼にとって最高の生存許可を口にした。
感情があまり面に出ない性質の青年は、いつものポーカーフェイスで小さく頷くだけで返事としていたが、内心ではさぞ狂喜乱舞せんばかりに叫んでいた事だろう。否、それどころか、気を抜くとガッツポーズをしてしまいそうな腕を抑え込むのに必死だったに違いない。
大げさだと思われるだろうか。
だが命が繋がったという事実は、人間にとっては本来そこまで嬉しい物なのである。
もっとも少女は、本音を言うと、彼の作った料理がそこまでおいしいとは思っていなかったりしたのだが……。
“シクシクねぎ”は火の通りが足りてなくて少々辛いし、捏ね回されすぎた“モニ肉”は、まるで筋でも入ったかの様に固くなってしまっている。“初めてにしては上出来”と自評できた真也に対して、彼が初めてそれを作ったと知らなかった少女にとっては、それは贔屓目に見てもおいしいと言えるような代物ではなかっただろう。
だがそもそも、初体験なのは真也だけでは無かったのである。
この屋敷でたった一人で暮らしてきたこの少女にとっても、他人の、それも“男の子”の作った手料理なんか食べるのは、勿論初めての経験だったのだ。
無論、彼女とてプライドはあるので、その結果として生じた感情をわざわざ面に出す様な事はしない。
だがそれでも、なんだかちょっと嬉しくなってしまって、ついつい採点が甘めになってしまったというのは否めないだろう。
――自分の為に、誰かが料理してくれる。
そんな単純な事一つで、ここまでどうしようもないくらいに嬉しくなってしまうなんて、少女は今日この瞬間まで知らなかった。 彼女がつい頬を緩ませてしまったのは、料理の味そのものよりも、実はその感情によるところが大きかったりする。
何はともあれ、こうして日々の食事当番は青年が担当する事に決定したのである。