26. 魔導研究所所長による異世界人への魔術指導及び現代物理学と魔導理論の成立と相違点に関するとある物理学者の考察
――突然だが。
朝日 真也は、才能に満ち溢れた物理学者である。
僅か8歳にして相対性理論を理解し、12歳にして博士号を取得した彼は、17歳の今となっては、日本最年少の大学教授として地方大学にその席を置いていた。専門分野は素粒子論全般。最近では、特にヒッグス場をゲージ場的に捉える事によって湯川相互作用をゲージ力と統一的に扱おうという試みに尽力しており、文字通りに万物が内包する質量という性質の発生機構を解き明かす事は、爆発事故に巻き込まれるその瞬間まで、彼の中では最もホットで重要な位置を占める感心事の一つであったと言えるだろう。
朝日真也は、才能に満ち溢れた物理学者である。
有り体に言えば、天才であったと言い換えてもいい。
天才とは、脳の偏りによって齎される一種の欠陥であるとも言える。
サヴァン症の例を考慮すれば大方の推測が成り立つ様に、天才とは多くの場合、一つの才能に秀でる対価として数多の機能を前世に置き忘れた患者なのである。
そういった意味で言っても、彼は天才と形容されるのに些かの不都合も無かっただろう。
彼を構成する要素とはずばり物理学における頭抜けた才能であり、それが全てであったとすらも言える。幼少の頃から物理学という単一の用途にのみ秀で、その他に対する関心を失った、ある意味では人格破綻者とでも言うべき人形。彼にとっての感心事とは、つまり自らを収める宇宙の運行についてであり、つまり自然界に存在する、至高の数式で綴られた方程式のみであったのだ。
故に朝日 真也は、自身の才能の不足という状況について考察する事など一度たりとも無かった。彼にとって興味の全てとは自然界の理であり、つまりそれ以外の事象は全て関与するに値しない些末事だったからである。ならばこそ、唯一関与するに値するその分野で既に圧倒的な才覚を誇っていた以上、自らの才能の限界などという物について考察する機会などあった筈も無い。
――無論、世界は広い。彼とて真摯に探し、世界中に目を向ければ、自分よりも才能のある存在を見つける事は容易だっただろう。もしも彼が、ほんの少しでもそういった外の世界に目を向けるだけの人間性を備えていたのであれば、彼とてここまで偏屈とした人格を形成する事はなかったかもしれない。もしも、彼がほんの僅かでも他者に対する優越感や劣等感を抱く事が出来る人間であったのであれば、彼も人並みの挫折や達成感といった感情を経験する事が出来たのかもしれない。
しかし人間という生き物にほとほと無関心であった彼は、不幸にも自らの才能を他者のソレに比する、などという行為に関心を持つことすらも無かった。彼にとって必要であったのは、自然の発するメッセージを過つことなく受け取る為の能力であり、決してそれ以上の物では無かったからである。彼は例え、視界に映る全ての人間よりも自分の才が秀でている事を知ろうと、逆に視界に映らないどこか遠くに、自らよりも優れた受信機がある事を自覚しようと、その事に対して考察することに時間を空費することなどなかった。
詰まるところ、朝日 真也には努力をして何かを成し遂げた経験という物が無かった。
彼が自らの労力を費やす分野とは、それ即ち彼にとって興味のある物事意外ではあり得ないからである。興味のある分野なのだから、仮に何日か徹夜で研究室に詰めなくてはならない様な状況が続いたとしても、それは彼にとって決して苦では無く、苦行というニュアンスを含む努力という名詞は適さない。
彼の発明王、トーマス・アルバ・エジソンは、天才とは1パーセントの閃きと、99パーセントの努力であると言った。この言葉は非常に有名に過ぎるが、彼が原文に於いて努力に当たる単語にeffortやendeavorでは無くperspiration(汗)を充てたのは、この場合の努力が必ずしも本人にとっての苦難を意味しない事を含んでいたのではないか、と真也自身は解釈している。
繰り返しになるが、朝日 真也は才能に満ち溢れた物理学者である。
彼にとって興味のある事柄、つまりは時間を費やすに値する事柄とは自然界を司る物理法則の発掘であり、彼はその一点においてのみ、正に比類なき才能を誇っていた。
故に彼にとって劣等感や努力などという概念はまるで縁の無い事柄であり、つまりは17年に渡る彼の人生に於いて、終ぞ経験する事が出来ない現象であったのだ。
――さて。その事を是非とも念頭に置いた上で、ここからの彼の様子を観察して戴きたい。
場所は修練場と呼ばれた部屋がある廊下の突き当たり。
埃っぽくて薄暗く、訪れる人間も少ないであろうその一角において、朝日 真也は低い声で唸っていた。眉間に皺を寄せ、たまにソレを指先でグリグリと弄っては、思い出したかの様に左手を前方へと突き出す。たっぷり数秒程考え込む様な仕草を見せ、力む様に腹筋に力を入れたかと思えば、次の瞬間にはフラストレーションを爆発させるかの様に頭を掻き毟る。
「く……っ。また、ダメか……」
額に汗を浮かばせつつ、科学者特有の洞察眼に殺気を漲らせながら、彼は前方にある何かを全力で睨み付けていた。親の仇を見るようなその視線を追うと、10メートルくらい先には一本の空き瓶。廊下の突き当たりの窓枠に、飲み終わったポーションの入れ物が、差し込む陽光を受けてキラキラと輝いている。ビンの口には、乾燥したコルク栓が、押し込まれる事も無くただ上に乗っていた。
人気の無い一角で、空き瓶を睨みながら、謎の悪態を零す白衣の青年。
……傍目から見れば、かなり危ない人状態になっていると言えなくも無い。
最も、確かに彼は常識的な人間性の持ち主であるとは言い難いものの、決して世間一般が想像するところの変質者の類ではない事は既に皆さんもご存じの通りだろう。
彼がこんな残念な状況に陥ってしまっているのには、一応のところそれなりな理由があったりする。
――話は数刻前に遡る。
青年に魔術を教える事を約束した少女は、早速にして一番簡単なモノを試してみようという提案を持ちかけた。曰く、どの程度魔術の才能があるのかを知らなくては教えようが無い。実際に使うところを見て、どの程度のモノであるのかを見極めたい、という事らしい。
少女の真意は測りかねたものの、まあ教えてくれるというのであれば断る理由などどこにも無いため、青年は快く少女の提案を受け入れることにした。
暫し、何故かもじもじとしながらむ~っと唸っていた少女は、そのうち意を決したかの様に咳払いをすると、おずおずと青年に向き直った。
「――そ、それじゃ、教えるね?
始める前に言っとくけど、魔術っていうのはね。イメージが凄く大事なの。
魔力集積能力の個人差を除けば、術者がどれだけハッキリとイメージ出来るかによって、威力が9割は決まるって言われてるんだから。
今から簡単な火を出す魔法を教えるけど、出来るだけはっきりとイメージできるように頑張ってね?」
「いや、それはいいが……。
アレだ。お手本とか見せてくれないのか?
どんな事が起きるのか知らなきゃ、想像しようも無いんだが……」
「ダメ。同じ火っていっても、どうせあんたのイメージする火とあたしのイメージする火は微妙に違うんだから、あたしのイメージがあんたにとって最適とは限らないでしょ?
だから、初めの一回だけは、絶対に自力で作んなきゃダメなの。
……大丈夫よ。心配しなくても、ちゃんと誘導してあげるから。
………………あんまり、やりたくないけど」
「…………?」
何故か口籠っている少女が気にはなったが、まあ説明自体には納得したので彼は頷く事にした。
確かに彼女の言う様に、同じ火と言われても蝋燭の火をイメージする人もいれば、人魂の様な火を想像する人もいるかもしれないし、もしかしたら、ナトリウムの炎色反応を想像する人もいるかもしれないからである。
本質的に、人間のイメージなど千差万別な物なのだ。
明確にイメージする事が現在の命題となっている以上、少女の火を見た先入観でイメージに影響が出ては、確かに彼自身にとって最適なそれを作り上げたとは言い難いだろう。
真也がそんな解釈をしていると、少女は躊躇するように視線を泳がせながら、上擦った声で口を開いた。
「……それじゃ、教えるよ?
ほ、ホントに、教えるから、ね?
――先ず、左手をこう、前に構えて。
ううん、もうちょっと下。
余計な力が入らない様に気を付けてね。
うん。肘も、もうちょっとだけ曲げた方がいいかな」
「こうか?」
対面する様に立っている少女を模写するかの様に、真也は脚を肩幅に広げ、右足を半歩下げ、左腕を前方へと突き出した。少女はまるでダンスの稽古か何かの様に、型とズレているらしい部分を手で引き、正しい位置へと誘導する。
真也には、なぜ魔術に姿勢が関与するのか甚だ疑問ではあったものの、折角教えてくれている少女の気勢を削ぐ気分でも無かった為に、黙って言われるままに誘導される事にした。
――余談ではあるが。魔術は本来、利き手で行使するところから始めるのが一般的らしい。
狙いを定めたり腕を動かしたりするのだから、まあ当然と言えば当然だろう。
真也は右利きである為、本来であれば右手を構えるのが初めの一歩だということなのだが、しかし守護魔である彼の場合には、どうやらそう簡単にはいかない様だった。
何しろ真也の場合、魔力を集めているのは体内の集積器官では無く、左手に輝く魔法円なのである。少女によると、霊道の無い守護魔の体内には魔力を効率的に運ぶための回路が無く、左手で集めた魔力を右手に運んで使用するのはほぼ不可能であり、万が一出来たとしてもかなり効率が悪くなることは間違い無いらしい。
……つまり真也は、仮に魔術を習得出来たとしても、永久に、左手の、しかも魔法円の上という非常に限られた領域でしか魔術を行使し得ないという事になる。
「うん、OK。
それじゃ、初めにちょっと条件があるんだけど……。
あたしの声をちゃんと聞いて、絶対に逆らわないって、約束してくれる?」
「? いや、まあ。
そりゃ教えて貰うんだから従うつもりだが……。
わざわざ約束する意味があるのか?」
「――いいから。
あたしの声だけを聞いて、あたしがいいって言うまで、絶対に逆らわない。
あたしの声だけを聞いて、あたしがいいって言うまで、他の事はなんにも考えない。
魔術を教える前には、約束しなきゃダメなの。
ほら、約束。するの? しないの? どっち?」
「……まあ、いいか。
君の声を聞いて、指示には従う。
あと、他の事は考えないって約束する。
――これでいいのか?」
少女の言葉はいまいち要領を得なかったが、まあソレが必要ならと、彼はあまり考えずに頷いた。多分、伝統的な儀式みたいなモノなのだろう、などと解釈してみる。
国王陛下も、魔導師は約束を大事にする生き物だと言っていたし……。
真也がそんな事を考えていると、
「――うん、OK。
それじゃ、さっそく一つ目だけど……。
その姿勢のまま、絶対に動かないでね?」
「――――?」
少女はそんな事をいいながら、彼の左腕を引き寄せる様にして歩み寄り――。
――強く、その身体を抱きしめた。
「――は?」
暫し、何が起きたのか分からずに放心する青年。
そんな彼をよそに、少女は更に強く、きゅ~~っと彼の身体を抱きしめる。
抱きしめながら、彼の胸板に顎を乗せて、ゆっくりと顔を見上げてきた。
「――そう。そのまま、動かないで。
そのまま、あたしの目を見ててね。
あたしがいいっていうまで、絶対に逸らしちゃダメ」
「ちょ、ちょっと待て!! いきなりナニを――」
「いいから!! あたしの目を見るの!!
目を逸らさないで、あたしの目だけを見る。
そのまま、あたしの声だけを聞く。
今は、あたしの事しか考えない。
――約束、したでしょ?」
「――――っ!!」
先の約束を思い出して、青年は一応のところ口を噤んだ。
完全に想定外の状況ではあるものの、確かに、約束してしまったものは仕方がないからだ。
青年は黙ったまま、少女の翠色の瞳を覗き込んで集中した。
少女の瞳が、まっすぐにこちらを見上げている。
間近で見ると、堪らなくなる程に魅力的な少女の顔立ち。
首筋に吐息が掛る度に、甘い香りが脳髄を直撃して、彼女が異世界人だという事実を忘れてしまいそうになる。
昨夜の晩餐会の時にも思ったが、ぷるんと柔らかそうな唇も、宝石の様な翡翠の瞳も、それこそ何度見ても慣れない程に可憐に過ぎた。
仄かに上気し、桜色に色づいた頬を見ていると、先の指示なんか無くても、他のコトなんか考えられなくなってくる――。
「――そう、そのまま。そのままだからね?
あたしの目をまっすぐに見るの。
見詰めながら、ゆっくり、意識を広げていって?
身体から伝わる、あたしの体温に、ゆっくり意識を向けていくの」
ピッタリと密着しながら、囁く様な声で指示する少女。
努めて冷静を演じ、まっすぐに少女の目を見たまま、言われるがままにゆっくりと意識を広げていく。
微かに上気した、雪の様に白い肌。
翡翠の瞳から視野を広げると、目を奪う程に艶やかな真紅の髪が飛び込んでくる。
黒い帽子の下に覗くソレが、少女が呼吸し、身を捩る度に揺れて、柔らかい匂いを漂わせる。
まるで、強いアルコールの様だった。
彼女の髪の匂いを嗅いでいるだけで、クラクラと、平衡感覚を失いそうな錯覚を覚える。
ソレを無理矢理に理性で押さえつけながら、青年は少女の指示に従おうと努力した。
確か動かないで、まっすぐに少女の目を見る。次はゆっくりと意識を広げて、その後は――。
「――――っ!!」
想像した瞬間に、卒倒しそうになった。
――この状態で、彼女の体温に意識を向ける。
コレは、健全な男子としては、倒れずにはいられない程の拷問ではあるまいか。
いや、まあ。彼女は異世界人なんだし、全然問題なんかある筈が無いのではあるが、でも、何故か、とにかく今ソレをすると物凄くヤバい事になる気がしたのだ。
――だが彼は、先ほど少女には逆らわないと約束してしまっている。
青年はなるべく何も考えないようにしながら、無心になって彼女の体温へと意識を移動していった。
……無心では少女の事しか考えないという約束には反するのだが、今そこまで要求されるのは、流石に難易度が高すぎるだろう。
青年は、言われた通りに少女の体温に集中した。
体温を感じようと意識を向けると、否応なしに彼女の身体の感触も分かってしまう。
少女の身体は、それはもう、どうにかなりそうなくらいに柔らかかった。
温かさと、柔らかさと、いい匂いが同時に伝わってきて、まともに意識しているだけで脳が沸騰しそうになる。
これだけ密着していると、ローブ越しでも分かってしまう、小ぶりな胸。
小さいくせに、理解できない程に柔らかいソレが、ゆっくりと、生々しい呼吸音に合わせて上下している。
胸が下がる時に、首筋をくすぐる彼女の吐息が、致命的なまでに彼の精神を侵食していった。
「体温、意識、できた?
温かいのとか、心臓の音とか、ちゃんと伝わってる?
――伝わってたら、頷いて?」
……既に限界が近いというのに、少女は、そんな追い打ちをかける様な質問をしてくる。
トびそうになる意識をなんとか繋ぎ止めて、青年は、なんとか数センチだけ顎を上下させた。
それをどう理解したのか。少女は、その花弁の様な唇をフッと緩ませていた。
「……やっぱり、不安?
絶対に逆らわないって約束させて、なにさせられるのか、やっぱり不安なの?
――大丈夫よ。大丈夫……。
あんたが嫌がることなんか、絶対しないからさ。
あたしも、あんたの嫌がる事はしないって、約束する。
……ただ、ね。あたしの声を聞いて、ちょっとでも楽にイメージしてほしいの。
魔術はね、リラックスして、自然体で練習するのが一番なんだから」
一言、一言、言い聞かせる様に、少女は囁く。
吸い込まれそうな程に透き通った、翡翠の瞳。
少女の両手が、ゆっくりと腕に移動し、左手を包み込んだのを感じた。
人差し指の感触が、手の平の魔法円に触れ、つつーっとなぞっていく。
少女の指が皮膚を撫でる度に、神経には強烈な電流が流された。
何度も跳ね上がりそうになる背筋を、青年は気力だけで押し留める。
「――ね。心の中で、もう一回復唱してみて?
あたしの声だけを聞いて、他の事はなんにも考えない。
あたしの声だけを聞いて、あたしの言葉だけを聞いて、他の事は考えない。
……復唱。できたら、頷いて?
あたしの声だけを聞いて、他のことは考えない。
――さっき出来たんだから、できるよね?
できたら、コクン、て、頷いてみて?
あたしの声だけを聞くって、心の中で言えたら、頷いて」
少女は、先ほどまでよりもずっとゆっくりとした言い方で、もう一度約束を求めた。
翠色の瞳が、まっすぐにこちらの目を見詰めている。
見ているだけで吸い込まれそうな、透き通った瞳が、まるで心の奥底を覗き込む様に、ジッとこちらを見詰めている。
見ているだけで吸い込まれそうな、翡翠の瞳。
青年は魅入られたかの様に目線を外せず、気が付くと、コクリと頷いていた。
「――うん。頷いたね?
あたしの声だけを聞くって、頷いたよね?
今の、コクン、ていうの、“約束”だよ?
この国ではね。“約束”は、全部、本当になるの。
魔法使いとの約束は、全部、本当になる。
約束したから、ここからは、本当に、あたしの声しか聞こえなくなるの。
あたしの声だけが聞こえて、身体は、あたしの言う通りになる――」
――魅了の魔法でも使われているのだろうか。
少女の瞳を、瞬きもせずに見詰めていると、それだけで意識が溶けていく様な感覚に襲われた。
優しげな少女の声が聞こえる度に、不思議と、頭がぼんやりしていく様な――。
「……大丈夫。難しいことじゃないから。
ただ、ね。ちょっとだけ、力、ぬいてほしいの。
疲れて、ベッドに倒れるみたいに、フって。
あたしの手、左手、包んでるの、わかるでしょ?
うん。そのまま、あたしの手の温度、意識して?
ポカポカ、温かいの、分かるでしょ?
分かったら、フって、力、ぬいてみて?
――ダメ。目はそらさない。
あたしの目、見てて。
目、閉じちゃダメだよ?
まばたきしないで、ジッと、あたしの目を見るの。
まばたきしないって、頷いたよね?
そう、そのまま、目を見てて。
あたしの手、どんな感触?
あたしの手の温度、分かるよね?
分かったら、力、フって、ぬいてみて?
温かい温度が、あたしの手から、ゆっくり、伝わってるよ?
温かくて、ポカポカするから、力がぬけるの。
一日頑張って、疲れきって、ベッドに倒れ込むみたいに――。
あたしの手の温度に、集中するの。
そのまま。そのまま……。
力、ふわって、抜いてみて? 大丈夫。大丈夫だから……。
だから、ね? 身体から、力、ぬいてみて?」
少女の手から、じんわりと、ゆるやかな熱が伝わって来るのがわかる。
鈴の様な、澄んだ声が頭に響く度に、脳にかすみが掛っていくような感覚を覚えた。
翠の瞳は、まるで何かを吸い取る様に、まっすぐにこちらの目をみつめている――。
「……まだ、力、残ってるよね?
あたしの声、ちゃんと聞いて?
全身の力が、ふわって抜けて、頭の中が、とろんてなるよ。
あたしの声、聞こえてるでしょ?
力が、ふわって抜けて、頭の中、とろ~ん、て。
大丈夫。倒れないように、ちゃんと支えててあげるから。
だから、ね? あたしを信じて、ゆっくり、力、抜いてみて?
そう、そのまま。体の中が、わた菓子になったみたいに、ふわって、力が抜けるよ?
体が、わた菓子になったみたいに、ふわって、軽くなる。
体の中が、わた菓子になって、ふわって、力が抜ける……」
瞬きすら出来ずに、真也は少女の瞳だけをみつめていた。
見ているだけで、意識が吸い込まれる、透き通った、翠色の瞳。
心地のいい声が頭に響く度に、脳が芯から痺れていく様な錯覚を覚える――。
「だめ? まだ、力、抜いてくれないの?
……緊張、してるのかな。
――深呼吸、しようか。
ゆっくり、吸って。
ゆ~っくり、息を吐くの。
あたしに、呼吸、合わせてみて?
吐くときに、余計な力も、一緒に出てくよ?
すって……、はいて……。
すって……、はいて……。
そう、そのまま。
すって……。はいて……。
うん、いいよ。
すって……。はいて……。
もっと……。もっと……。
すって……。はいて……。
そのまま。もっと。深く沈んで。
あたしの声が、聞こえなくなるくらい、もっと、深く……」
聞いているだけで落ち着く、いつまでも聞いていたくなる、優しい声色。
それはまるで、心地のいい子守唄の様だった。
脳の深いところに響く様な、聞いているだけで安心する声。
瞳に魅入って、声を聞いているだけで、頭に霞が掛っていく――。
「リラックス、できた?
身体の力、全部抜けてるの、分かる?
――分かる、よね。
その感覚、すごく大事だから、ちゃんと覚えてね?
それじゃ、イメージして。
周りから、ちょっとづつ温かいのを借りてきて、それを一カ所に集める感じ。
――ううん、急いじゃダメ。
ゆっくり、ゆ~っくり、でいいから。
最初だし、目を閉じた方がやり易いなら、それでもいいよ。
目、閉じてみて? 瞼の力をふっ、て抜いて、ゆっくり、目を閉じるの。
瞼の重さにまかせて、ふっ、て、力ぬいて、目を閉じるの。
うん。そのまま……。そのまま……」
声に促される様に、ゆっくりと、瞼から力を抜く。
視界が暗くなると、先ほどまでよりなおはっきりと、少女の声が耳に届いた。
脳髄の痺れが、どんどん強くなっていく――。
「――目、閉じたね。
目を閉じるとさ。身体の中に、熱いのが流れてるの、よく分かるでしょ?
トクン、トクン、て。心臓の動きに合わせて、身体を巡ってる。
熱くて、トロトロしたの、身体の中を巡ってる。
ソレから、温かいのを借りて来て、ゆっくり、ゆっくり、一カ所に集めるの。
ゆっくり……、ゆっくり……」
声に促されて、身体の中に意識を向ける。
体内には、温かいナニかが流れていた。
左手を包み込む、温かい手の感触。
その体温に意識を向けると、トクン、トクン、という脈拍がはっきりと分かる。
少女の体温が、どんどん、はっきりと伝わって来る。
「だんだん、温かくなってきたの、分かる?
日向ぼっこしてるみたいに、身体が内から温かくなってきたの、分かるでしょ?
もうちょっと……。もうちょっと……。
お湯に包まれてるみたいに、温かいのが、じんわりじんわり芯に集まってくる。
そのまま。そのまま。じんわりと、温かいのが、集まって来る」
身体が、芯から痺れ始めた。
鼓動と共に体を巡る熱が、意識の集中と共に一点に集まっていく。
手の平が、どんどん温かくなってきた。
その熱が際限なく高まっていって、刺す様な刺激となって神経を感電させる。
手の平が熱くなって、溶けそうになる。
「――わかる? 中から熱いのが来たの、わかる?
わかるよね? 温かいのが、熱いのが、ぜんぶ一カ所に集まって来る。
そう、そのまま。そのままだよ? イメージして? 燃えるよ? 温かいのが熱くなってきて、ソレが一気に外に出る。出来た? いくよ? イメージして? 赤くて、熱い火の玉。燃えるよ? 燃えるよ? 熱いのが集まってきて、そのまま、外に出る。あたしに合わせて、声をだして。火が付く。口にすると、一気にそれが燃え上がる。詠唱して。詠唱して!! 燃えるよ? 燃えるよ? 熱いのが集まってきて、外にでる。そのまま。そのまま。言って!! 言って!! 発火!!」
少女の告げた言霊をリピートする。
口に出す瞬間、少女は左手から手を離し、魔法円を露出させた。
焼けそうに熱い左手が突然外気に晒されて、その温度差がパルスとなって中枢神経を駆け巡る。その強烈な電流を意識の外に追いやりつつ、彼はその呪文を口にした。
――瞬間、スパークする視界。
脳の中枢から捻り出したかの様な、強烈な電気信号が、爆発する様に神経中を駆け抜け、掌の一点に向かって疾走していく。身体を内側から火で炙られる様な感覚に、青年は悲鳴を上げそうになった。気合でソレを噛み殺して、無理矢理力を抑え込む。コンマ2秒後、電流はとうとう終点へと達した。
――バチン、という音。
強烈な静電気にでも会ったかの様な痛みが掌に走り、筋が切れたかの様な音が耳に届く。
「――――っつ?
成功……した、のか?」
無数の星が飛び回る視界。
未だに焦点の合わない両目。
脳が麻痺した様な気分の悪さを我慢しつつ、真也は目を開けて自らの左手を見詰めた。
左手の上には、微かに白煙が上がっているのが見える。
――深い、深いため息が聞こえた。
いつの間にか、2歩ほど離れたところに立っていた少女へと視線を移す。
見ると、彼女は真也以上に強烈な頭痛でも感じているかの様に、疲れ切った表情で頭を抱えていた。
「……あんたさ、ある意味すごいわ」
心底呆れきったかの様に言う少女。
気怠そうに目を伏せたまま、ゆっくりと、その右腕を前方へと伸ばした。
「……発火」
先の呪文と、全く同じモノを口にする。瞬間、少女の掌の上にはビー玉くらいの大きさの火球が生まれていた。オレンジ色の火の玉が、シャボン玉のようにユラユラと揺らめきながら、掌の上に漂っている。やがて小さなシャボン玉は、転がる様にして少女の人差し指へと登ったかと思うと、水滴が跳ねる様にして空中へと浮かび上がった。
10cmくらい上昇したところで、ガラス細工の様にパンッと消失する。
……なるほど。お世辞にも成功したとは言えない出来であったらしい。
青年は、まだぼんやりしている頭を再度振りつつ、先の醜態を誤魔化すかの様に人差し指を立てた。
「……アル。
分かってると思うけどな。
オレは、魔法を使うのは初めてなんだ」
「……あたしにとっても初めてよ。
ここまで丁寧に誘導されたのに火の粉も出なかったのは、あたしが知ってる中じゃあんただけなんだから……」
まるで初めて0点の答案を見た優等生の様に、少女はもう一度、深々と溜息を吐いた。
それはもう、グランドキャニオンを彷彿とさせるくらいに深い溜息だった。
なるほど。どうやら少女は、よっぽど懇切丁寧に教えてくれていたらしい。
それで火の粉も出なかったのが初めてだと言うのならば、確かにこんな顔をされても文句は言えないのかもしれない――。
「……というか、アル。今のなんだったんだ?」
そこまで考えた青年は、先ほどのアレを思い出して首を傾げた。
少女はバツが悪そうに目を伏せ、頬を染めながらそっぽを向いた。
「……ナニよ。
接触と視線交差による思考誘導なんか、ま、魔術指導の基礎の基礎じゃない。
そ、そうよ。あたしは魔導師…なん…だから。あのくらい、全然……、なん…とも…………」
口ではそんな事をいいながらも、後半になるほど、少女の顔はみるみる薬缶の様に紅潮し、最終的には完全に下を向きながら煙でも出しそうになっていた。
……どうやら、やった本人も相当に恥ずかしかったらしい。
その様子を見た青年は、ほんの些細な事が気になった。
「……因みに君、どのくらいの頻度でこういう指導をしてるんだ?」
「……う。に、2回か3回しか、したこと、ないわよ。
だって、所長のあたしが教える様なヤツは、普通は基本なんか完璧に出来てる上級者ばっかりだし。人数も多いから、一人一人個別に誘導してる時間なんか無いし……。
……貴族が多いから、あたしに触られるの、よく思わないヤツも多いし」
ブツブツと呟くようにして言いながら、少女は肩をプルプルと震わせ始めた。
その肩が、震えながら5センチほど上昇する。
羞恥に潤んだ瞳が、キッと青年の顔を睨み付けた。
「……もう。
あーっ!! もう!! だからやりたくなかったのよ!!
言っとくけど、今までの3回だって、相手はみんな女だったんだからね!?
何であんたは男なのよ!!
何であんたは男なんかに生まれてきちゃったのよ!!
あたしの純潔返せバカァァアアアアア!!!!」
「待て待て待て待てちょっと待て!!
君の言いたい事は全く分からんが、取りあえず落ち着いて話し合おう!!
だから先ずその拳は――ヘブッ!?」
――何かが吹っ切れたかの様に大暴れを始めた少女。
半分錯乱しながら拳を振り回す彼女を宥める為には、青年は僅か10分の間に27発の右ストレートと15発の左フック。6発のハイキックと1発のアッパーカットというキックボクサーも真っ青なラッシュのフルコースをお見舞いされなくてはならなかった。
何はともあれ、回復が早いのが今の真也の強みである。
……いや、まあ。果てしなく何かを間違えている気はしたが、それでも傷が早く治るというこの体質のおかげで、目を覆いたくなるほどの打撲や流血も、5分も待てば動ける程度には回復してはくれた。
とにかく彼に言えるのは、漸く正気を取り戻した少女が、まるで何事も無かったかの様に話を再開したという事実だけである。
「……まあ。とりあえず、今ので感覚は掴めたでしょ?
一応確認するけど。あんた今、自分の中に流れてる魔力は分かる?」
「…………」
……色々と言いたい事はあったものの、今はまあ気にするまい。
真也は確認するかの様に目を閉じてみた。
結果は――なるほど、確かに分かる。
意識して体の中へと集中すると、確かに左手から温かい感覚が伝わってきて、それが全身に巡っているのが分かった。
「うん。なんとか擬似的な霊道は把握できる様になったみたいね。
それじゃ、もう一回さっきのをやってみて?
初めは苦しかったと思うけど、一回魔力の流れる感覚を覚えたら、もう随分楽に出来る筈だから」
少女に促されて、真也は再び左手に意識を集中させた。
先ほどの激痛を知っている為に一瞬だけ躊躇したが、それでも今度こそはという挑戦心が先に立ち、再び神経に電流を流す。少女の言う通り、今回は少女の誘導無しでも、魔力が集まっていく感覚を明確に意識する事が出来た。意を決して、再び先の銘を詠唱する。
「発火!!」
――ペチ、と、驚くほどにショボい音が聞こえた。
静電気としか思えない程度の火花が一瞬だけ散って、瞬く間に虚空へと消えてしまう。
……少女の溜息が、とうとうマリアナ海溝に匹敵する程に深くなってしまった。
「……シン。分かったでしょ?
だからさ。あんた、才能無いんだって……」
少女の声を聞こえなかった事にして、真也はもう一度腕に魔力を流した。
神経が痺れる様な錯覚が起きた後に、火傷しそうな程の熱が魔法円に集中する。
詠唱を完了させると、今度は弾ける様な音が響いた。
火打石を擦ったくらいの火の粉が舞って、一瞬のうちに消え失せる。
真也は、口元を緩ませた。
「火――」
「……火が出た、とか言ったら殴るから」
「…………」
真也は、肩を竦めて沈黙した。
―――――
さて。そんなこんなで、良くも悪くも魔術の才能という物がはっきりしてしまった真也は、少女によって即刻修練場からこの廊下の端へと移動させられる羽目になった。
少女曰く――
「中で練習したい? 何言ってるのよ!!
あんたみたいなド素人が、真っ当な修練場で練習なんか100年早いの!!
あと20分もすれば見習い魔導師達でごった返すんだから、線香花火なんかが混ざってたら邪魔なだけじゃない!!」
――との事である。
確かに、真也自身が講師を務める講義に足し算が出来ないようなヤツが混じっていようものなら、彼は間違いなくそいつを廊下へと締め出すので、まあ火花しか出せない自分が廊下に出されたのは当然であるのだと、彼は一応のところ納得をしてはいる。
取りあえず結論として言えるのは、少女は彼をこの最果ての一角へと隔離した後、窓際にあのポーションの空き瓶を置き、10メートルくらい手前にビンを二つ立てて境界線にしながら――、
「じゃ。あたしはちょっと用事があるから、あんたはここで適当に練習でもしてて。
ここから魔術を使って、あのコルクを床に落とすの。
もしもそれが出来たら、あたしも、もうちょっとくらいなら教えてあげるから」
――と言って王宮の方へと去って行ったという事実である。
それから数刻に渡り、青年は掌から線香花火を出しながら、殺気を漲らせた視線で空き瓶を睨み付け続けている。
「燃焼!!」
3桁目に届こうかという青年の詠唱は、掌の上に1センチ以下の、本当に小さな火の玉を作り出した。しかしいざソレを瓶に向けて放とうとした瞬間、火の玉は当たり前の様に虚空へと消滅してしまった。
――余談だが、彼の言霊はここに至るまでに5回ほど改変されている。
何度か続けていくうちに、詠唱とは自己暗示、つまりは術者が現象をイメージし易くすることを目的とする行為であり、よって想像し易ければ何でもいいという事実を思い出したからである。
……少女にバレたらまた殴られそうな物ではあるが、まあ指示は魔術でコルク栓を落とせという事だけだったので、文句は言われないだろうと彼は前向きな解釈に努める事にしている。
「……ダメか。
どうしても射程が10センチを超えない……」
零れた弱音はあまりにも悲痛であった。
ついでに言うと、射程10cmというのも大負けに負けた上での四捨五入である。
正確に言うのならば、2cm以下ならまず成功するが、5cmを越えたあたりで成功率が半分を切り、7cmになるとその成功率は1割も無くなる。火球の移動距離が10cmに到達した事など、それこそ本当に一回しか無かった。
有効射程:2cm。
火力:火打石。
……どんな一発芸だというのか。
こんな物、はっきり言ってライター程度の役にも立ちはしない。
「…………」
――そう。火が出る事に感動するよりも、役に立たないという落胆の方が遥かに強い。
本音を言うと、朝日 真也にとって魔術とは、決して道具の域を出る存在では無かったのだ。
彼が魔術を学ぼうと思ったのは、確かに知的好奇心も少なからずあったものの、それ以上に帰還の為の足掛かりになると思われたからなのである。つまり彼にしてみれば、帰還の為の方法を魔術的に行う事が出来ればそれでいいわけであり、別段それ以上の物を望んでいたわけでもない。
「はぁ……」
そこまで考えたところで、真也は再び底知れない頭痛を覚えた。
そう、その魔術的な帰還の方法というのが問題なのである。
少女曰く、守護魔の召喚とは奇跡に匹敵する類の、本当に無茶苦茶な召喚術であり、つまりは魔導の最高峰の一つなのだという。
帰還した守護魔の前例がない事を鑑みても、その術式が召喚よりも簡単だとは到底考えられないワケであり、つまりソレは、少女クラスの魔導師が本気になってようやく行使し得る魔法である事を意味している。
……その少女ですらも一度召喚に失敗しているという事実を知らなかったのは、彼にとって果たして僥倖だったのだろうか。ともかくとして彼に言える事は、線香花火程度の火力しか出せない彼には、少女クラスの魔術を行使するのは最果てのクエーサーに行く様なモノであり、尚且つ自力で帰還などを考えるのは、最早観測限界を超えて宇宙空間を突き抜けるくらいに果てしない道のりである、という事である。
いや、まあ。ここは異世界なんだから、彼が帰るには、本気で宇宙空間なんか突き抜けなきゃダメなワケではあるが……。
「痛――っ!! 流石に痛くなってきたな」
集中状態を維持しすぎた弊害か、或いは、異物である魔力に対する拒絶反応だったのか。真也は頭を締め付けられる様な頭痛と、火傷したかの様な神経の火照りを感じ始めていた。
額の汗を拭い、大きく息を付きながら、ヘバる様にして床へと座り込む。
アダマス製の床から伝わる、ひんやりとした感触が、熱を持った体に心地よかった。
「魔術……。精霊、か」
乱れた呼吸を整えながら、真也は少女の言葉を復唱して思案した。
少女曰く、魔術とは精霊との契約であり、魔力を彼らに捧げる対価として力を借りる行為、らしい。
物理学者としての彼は、勿論そんな不完全な理論体系は否定して然るべきであると考えていたのだが――、
しかし実際に魔術を使ってみると、実は意外と精霊理論もバカには出来ないのではないか、などと考え始めていた。
アインシュタインの一般相対性理論では、重力を時空の曲りとして扱う。
質量が存在する場では時空が歪み、ユークリッド幾何学が破綻してリーマン幾何学で扱われるべき世界になるとするのは、一般相対性理論の主な概念の一つと言っていいだろう。
しかし、この質量による時空の歪みという物を、視覚的に正確にイメージして理解する事は非常に困難を極める。体積が3次元の世界に属する存在である我々は、4次元的な場の変化を記述する術を持たないからである。よって多くの相対性理論の入門的な解説書では、3次元空間を2次元平面として捉え、空間をゴム膜の様なモノであるとして時空の歪みを視覚的に理解させる手法を取っている。
ならば精霊とやらも、これと似たようなものであるとは考えられないだろうか。
多くの人々にとって、目に見えない放射線や素粒子が確たるイメージを伴わない存在である様に、この世界の多くの人々にとっても、確たる実態を持たない魔力という概念は理解する事が非常に困難を極めたに違いない。魔力が魔術という現象を引き起こすとしても、何故そんな現象が起きるのかを、おそらくは理解出来なかったのだろう。
だから、精霊というその原因になる物を想定する事によって、自らが起す現象について一応の説明を付けた。
ましてや魔術とやらは、先ほど思い出した知識によると、術者のイメージがそのまま成功率や規模に直結しているらしいのである。詠唱なんて自己暗示染みた工程を入れているのも、おそらくはソレが一番の理由なのだろう。掴みどころのない現象を把握し、納得してイメージする為には、確かに精霊とやらを想定する事は実用上非常に役に立ったに違いない。
「…………」
おそらくこの魔術という分野は、物理学の様に観察と分析を繰り返す事で発展した分野では無く、ひたすらに実用を追い求める事によって成長してきた分野なのだろう、と彼は解釈する。
そこに真実はどうなのか、なんていう無駄な考察は存在しない。
実際問題として、精霊を信じる事によって効率よく魔術を運用する事が出来るのであれば、それを事実として認め、納得し、使用していけばいい。
それで実際に魔術が使えるのだから、真理など追い求める必要はどこにも無い。
――おそらく、魔導師の在り方はそういう物なのだ。
……最も、ソレを客観的に分析出来てしまう時点で、精霊を信じる事で効率を上げるというロジックは真也自身には成り立たないワケではあるが……。
「……やっぱりか」
――5分が経過した。
そんな取り止めのない事を思考している間に、彼の身体は既に回復してしまっていた。
焼ける様だった神経はあっという間に熱が引き、頭蓋に棘が生えたかの様なあの頭痛も、今ではウソの様に治まってしまっている。
ここまで来ると少々不気味ですらあったが、今の真也は痛みや怪我という物に関しては素晴らしい回復力を誇っているらしい事が改めて証明されたわけである。
まあ、他の化け物も皆そうである可能性は否めないワケではあるが……。
「……どうするか」
呟きながら、手元の本へと視線を落とす。
そこに書かれた知識を思い出しながら、青年は少々思案してみた。
因みに、この本は少女が参考までにと置いて行った魔導の入門書であり、勿論彼にとっては初見である。
よって思い出しながらというのは、あくまで感覚的な比喩であって事実では無い。
例え真也がソレを“思い出す”という感覚を伴って認識していたとしても、ソレが彼にとって未知の知識であるという事実に揺るぎは無いからである。
――何が言いたいのか分からないと言う方。正しい反応であると確信を持って断言しよう。
何しろ真也自身も、初めにその事に気が付いた時には、かなり面喰った程である。
話は、少女が王宮に発って間もない頃に遡る。
少女が置いて行ったこの本の中身をチェックしていた彼は、不意に、自分がその内容を既に知っている事に気が付いたのだ。否、知っているというよりも、既視感と言った方が正しいかもしれない。文章を目で追っていく毎に、まるで幼い頃に読んで内容を忘れていた絵本を読んでいるかの様な、“あれ? コレ、なんか見た事あるぞ?”という懐かしい感覚に襲われたのである。
そして次瞬、彼は直ぐにその理由に思い至った。
そう。おそらくは、彼がこの本を読めるというその事実が、既にその原因に違いないのだ、と。
――つまりは、少女との“知識の共有”である。
彼女に召喚されたあの夜、彼女は言語などの基本的な知識は彼女の知識が補間する事になっていると説明した。つまり彼が今、この世界の人間と意思疎通が出来ているその理由は、彼女の頭の中から“言語”という知識を借りているからなのだ、と。
考えてみれば、この時点で既に予測できた事態ではある。
何しろどんなに難しい専門書であろうとも、それらは突き詰めれば、結局は“言語”によって記されているモノに違いはないのだから。つまりは、もしもあの少女がソレを読める、否、“理解している”という状態にあるのであれば、その知識は真也と共有されていても何ら不思議は無いのである。
感覚的には、“ど忘れ”が一番近いかもしれない。
そうと意識しなければ知っている事そのものを忘れている程にヒドイ物だが、しかしソレを理解しようと努めながら意識を向けると、まるで随分昔に暗唱した教科書の内容を諳んじるかの様に、スムーズに知識を引っ張り出す事が出来る様であった。
――否。それだけでも十分に便利なのだが、話はソレに留まらない。
現在彼と知識を共有している、あの真紅の少女。
国一番の魔導師だと自称するだけあって、どうやら、彼女は本当に只者では無かったらしい。
この知識の共有という裏ワザに気が付いてからというもの、真也は魔導書へと目を向けながら、しかし意識は自己の内面へと向ける様にしていた。
すると彼女の知識というバックアップが、予想よりも遥かに強力である事が判明してしまったのである。
……具体的に言うのならば、この程度の初歩的な魔導書であれば、初めの数行も読めば一章分に相当する内容を脳が勝手に思い出してくれる程である。
“火炎魔法”という単語を見ただけで、そこからその発生原理やら歴史、成立などの知識が汲めども尽きぬ程に脳内から溢れて来て、辞書を直接引いているかの様な情報量に呆気に取られずにはいられない。
50パターンくらいある“炎の魔法円”の術式表を見た瞬間、派生とアレンジを含めてその10倍くらいの形式を既に暗記していた事に気が付いた時には、真也も最早呆れを通り越して妙な感動を覚えてしまった程である。
いやはや。全く、なんとマニアック――もとい勤勉な15歳なのだろうか。
真也は、講義の最中に集団感染の如く居眠りを伝播させる自らの教え子たちを思い出し、100分の1でいいから見習わせてやりたいな、などと皮肉混じりに思ってしまった。
因みに、科学に関する知識量ならば彼とて全く引けを取らない程のマニアックさではあるのだが……、この際、ソレには敢えて触れないのが華だろう。
ともかくとして、今の彼に言えるのは、少女が置いて行った5冊の魔導書の内容を把握しきるには、精々15分もあれば十分であったという事である。否。それどころか、今ではその内容から派生する応用知識まで脳内に流れ込んできている始末であった。この分だと、知識だけならば、一週間もあれば並の魔導師を圧倒する事は容易に違いない。
――もっとも、知識だけなら、だが。
どうにもこの魔導という分野は、知識と実用ではまるで別物らしかった。
初めの頃こそ、練習していればその内コツでも掴めるかもしれないと楽観視していた彼も、流石にもう、今のまま続けていても10メートルの射程は絶望的である事を理解してしまっている。それに、彼が使っている魔力とは生命維持装置の電池の様なモノなのだから、このまま無駄に使い続けるのも少々不安には感じるし……。
……まあ少女曰く、精霊級や帝霊級でも使えば別として、線香花火程度では誤差にもならないらしいが。
「…………」
さて。しかしそうなると、そろそろ何か革命的な解法でも見つけなくてはならない時期に来ているのは間違いが無い様だ。
だが……、あるのだろうか? 異世界から来て、魔術に馴染みの無い自分が、あの真紅の少女の様に魔術を行使する方法。弓矢を火龍に変える程の大魔術を紡ぐ、あの少女に追い付く方法が――。
「――――? 弓矢?」
そこまで考えた瞬間、青年の頭には天啓が閃いた。
「待てよ――? よく考えると、確か道具を使うなとは言われなかったよな?
アルの指示は確か、“魔術であのコルクを落とせ”、だけだった筈だ。
それに、確か魔導師には“魔装”とやらが付き物で、魔装は才能に合わせて選ぶ物なんだから――」
脳内にインプットされた情報が無意識に演算処理を始め、音を立てながらたった一つの回答に向かって疾走を始める。否、この時の彼には、少女が本気でその一つの回答を示唆していた様に思えたのだ。
……いや、思えてしまったのだ。
若き天才物理学者は、少女が全く想定すらしていなかった速さで、ななめ45°の方角に駆けだした。
逆チートスキル・“一周してバカ”発動です。