23. 異世界に於けるとある名著からの引用を利用した現代魔導理論の基礎的な定義の復習と移住者に見られる一般的な精神状態を齎す最も主要な要因に対するとある物理学者及び魔導師の見解の相違
(エドワード・R・パーシー著:近代魔導概論 第四刷より抜粋)
“精霊根源説”が説明するところによると、魔術とは四大精霊が持つ力の一部、又はその全てを借り受ける事によって行使される神秘の総称であると定義されている。
世界の森羅万象を司るとされる四大精霊。彼らは星の活力の具現たる魔力を糧として存在し、取り込んだ魔力によって様々な現象を引き起こす。気まぐれな風の精霊が立腹した際に巻き起こる嵐や、地の精霊と火の精霊が争った際に起こる火山噴火などはその代表例と言えるだろう。魔力を取り込んだ彼らが持つ、矮小なる人間などとは次元を別つ神秘の力は我々を畏れさせ、そして時には魅了する物でもある。
魔術とは、彼ら精霊に上質な魔力を捧げる対価として、彼らの持つ力をほんの少しだけ貸してもらう行為の事を指す。極論して言ってしまえば、魔術師とは精霊達へと食事を捧げる給仕なのである。
魔術は、力を借り受ける精霊の種類によって火、氷、土、風の4つの属性に分類されるのが通例である。それ以外の属性は俗に“亜種”と呼ばれ、全て4つの属性から派生した物であり、最終的には帰属して扱う事が出来る物であるとされている。
~〈中略〉~
さて。ご存知の通り、この定義に反する物が一つだけ存在する。
おそらくは貴方もお持ちであろう、“先天魔術”と呼ばれる魔術である。
この世に生まれ出でる以前に貴方が精霊より賜った贈り物たるこの才能は、一つだけ、貴方に術式の構築や詠唱を気に留めずとも紡げる高位の神秘を許可している。人が扱う魔術の正しい形である先天魔術を行使する上では、わざわざ言霊を用いて精霊に要望を告げずとも、彼らは貴方が何を求めているのかを理解してくれるのである。
よって先天魔術は、魔装と並んで魔術師の個性を決定づける最大の要素と言って良いだろう。
同時に、先天魔術は魔装を決定づける最大の要素と言い換える事も出来る。
この本を手に取った貴方が魔導師を志すのであれば、是非とも魔装の選択には気を配って戴きたい。魔装とはあくまで魔術を補助する装備品であり、そしてそれが補助する魔術とは、多くの場合貴方の先天魔術を指すからだ。
先天魔術の理解無くして、貴方は魔装を決定し得ない。
先天魔術の研鑽無くして、貴方は魔導師足りえない。
魔術師の身体は、たった一つの神秘を成し遂げる為に存在するのである。
貴方が魔導を志すのであれば、この不文律を決して軽んじてはならない。
――――――――――
王宮の生活とは何もかもが豪奢である。
まあ、人間とは立場に応じて相応の体裁を整える事が求められる生き物であり、また富裕層の人間が金を使わなくては国の経済は滞るのだから、つまりは贅沢をする事は王侯貴族の仕事の1つなワケであり、そういった意味ではこの国の貴族達は(1人の例外を除いては)十分にその職務を全うしていると言えるだろう。
何気なしにそんな思索を巡らせながら、朝食と呼ぶには余りにも豪勢に過ぎる食事を終えた真也は、使用人らしき女性から昨夜に修繕を頼んでいた衣服を受け取って部屋で正装を解いていた。
――余談ではあるが、使用人の女性とは言っても真也に比べれば遥かに歳上である。具体的にその容姿を述べるのであれば、50を過ぎたくらいの、眼鏡を掛けた、小太りのおばさんである。
まあよく考えるまでもなく、使用人と言えば普通は比較的年配の人間が就くのが一般的な職業なワケであって、特別な事情でも無い限りは、異世界でもそれはやはり同様の真理であったという事だろうか。
……若くて可愛らしいメイドさんなどという幻想が、一体どこから生まれた物であるのか。地球に帰ったら一度、某アニメの街の住人の思考回路を分析するように同僚の生物学者に頼んでみようかと、なんとなく頷いてみたりする真也であった。
完璧に“修繕”されたダメージジーンズを履き、昨日の血痕がまだ少し残っている白衣へと袖を通した頃、使用人のおばさんは謁見の間へと向かうように彼に告げた。どうやらヘリアス王が面会をしたがっているらしい。大方昨日はろくに出来なかった挨拶や任命式か何かなのだろう、などと解釈しながら部屋を出た彼は、回廊を歩いている内に矢鱈と目立つ例のとんがり帽子を見かけたので、後を追う様にして謁見の間へと向かった。
少女に続いて入った聖堂は、彼にとってはやはり何度見ても壮観だった。
蒼い日光が両サイドに空けられた採光窓から溢れ、どうやって洗浄するのかも分からない程に毛の長い赤絨毯を照らしている。昨夜の審問会より人数を減じたとはいえ、やはり十分な数の貴族達が周囲の椅子に厳粛に座っているその広間には、何故か、審問会の時よりも更に数を増した衛兵達が、まるで主君を守る様に佇んでいた。
しかしそんな厳かな空気の中にあろうとも、国王陛下は泰然自若にして不動であった。王座に佇む隻眼の老人は、まるで眠る様な静けさでただ座り、憂う様に伏せた灼眼を侵入して来た人影に向けている。
青年が大扉を閉めた音や、この場の厳かな空気、そして少女の挨拶を聞いても身じろぎ一つしないその風格は、やはりこの老人こそは国の最高権力者なのだと、白衣の青年に納得させるには十分に過ぎる材料となっていた。
昨日のボロ着とは似ても似つかない、身嗜みを整えた陛下の佇まいに妙な感慨を覚えながら、青年は少女の隣にまで歩みを進める。
既に傅いている少女の真横に立つと、彼には国王の隣に控える大臣が何かを囁いているのがわかった。
大臣は、まるで陛下に耳打ちするかの様に――、
「……国王陛下。
国王陛下、起きて下さい。
2人が参りました」
「…………」
……寝ていたらしい。
小太りの大臣に軽く肩を揺らされ、イビキを小さくくぐもらせたヘリアス王は、不意にその頭をカクリと落とした。青年はその様子に、打ち首にされた武者を連想してみたりする。
王はゆっくりとその隻眼を開きながら、口腔内がハッキリと観察出来る程の大欠伸をし、グリグリと目を擦った。
「おやぁ? お前さん達。
こんな朝っぱらから、何故にこんな所に集まっとるんじゃ?
朝食はまだだったのかぇのぉ?」
「…………」
寝ぼけたコトを抜かしているヘリアス王に、大臣達は背後から更に何かを耳打ちしていた。本当に小声だった為に、青年には何を言っているのかなど聞き取れない。しかしとぼけた様に生返事をしている陛下と対象的に、大臣達を包むゲンナリとした空気には何となく哀れみを覚えたりしてみた。
……本当に、この爺さんに頭を垂れる必然性があるのだろうか。この国の国民達の思考回路に著しい疑問を覚えたままに棒立ちしていた青年ではあったが、既に片膝を着いている少女や大臣達の睨みつける様な視線に気付いた為、取り敢えず少女に倣って片膝を着く事にした。
ふむふむと唸っていたヘリアス王は、暫くするとその姿勢を正し、何事も無かったかの様に座り直した。
「――さて、大魔導 アルテミア・クラリス。
それから特務教諭・アサヒ シンヤ殿。
昨日の働きは大義であった。
あ~、昨夜は十分に休めたかのぉ?」
コホンと咳払いをし、飄々とした体で尋ねる国王陛下。
“ええ、お陰様で。国王陛下も、随分とお休みになっておられた様で何よりです”。
……青年が口にしかけた皮肉は、少女の睨みによって止められた。
そんな彼の心中を知ってか知らずか、国王陛下はほうほうと続ける。
「それは何よりじゃ。
客人を疲れさせては王家の名折れじゃからのぉ。
――さて。今朝呼んだ理由は他でも無い。
一晩考えたんじゃがなぁ。
やはりお前さん達には、今回の件に関してちゃんとした褒美をやろうと思う」
「褒美……?」
予想外の言葉に、青年の目は丸くなった。
ツイと視線を少女に移すと、彼女も相当に意外だったのか、やはり訝しそうにその首を傾げている。
大臣達は既に知っていたのだろうか。昨日程明瞭に反対の意を示す者は無かったものの、やはりどうにも不満そうな視線で2人の若者を突き刺していた。
王は剽軽に笑いながら続ける。
「ほほほ、そう訝りなさるな。
まあ、わしにも良心の呵責という物はあってのぉ。
単騎であの“武装姫”を食い止めたアルテミアは勿論として、特にシンヤ殿。お前さんは、一応アレだけの金を寄付してくれた金主という事になっておるからのぉ。国の財政を援助した英雄から、給金を3回分も巻き上げたままでは、流石のわしもちょいと心苦しいんじゃよ」
「…………?」
青年はますます訝しげに首を傾げた。
“例の金は、王宮から特務教諭の任を得た青年が発掘した遺産であるとして処理をする”とは、確かに朝食の席で少女づてに聞かされた王の方針だ。流石にアレを貴族が溜め込んだ税金であると公表しては国民の反感は免れないらしく、また隠した犯人が貴族であるという決定的な証拠と呼べるモノも見つからなかった為に、苦しい言い訳ながらもそういう形にしておく事に決定したらしい。
それは青年にとっても、塔破壊の罪を免除するにはこの上なく都合が良い口実であった為に、まあ2つ返事で納得したのだが……。
しかし青年には、今の国王の発言には少々不可解なモノがあった。何しろこの性悪爺さんの事である。“埋蔵金”の発見は昨夜の待遇と塔破壊の罪の免除で帳消しだろうし、そもそも彼自身は、三ヶ月分の給料であの“不死鳥の羽根ペン”を売ってくれたのは破格だと納得しているのだ。ならばこちらが恩義を感じる事はあれ、国王が良心の呵責に苛まれる必然性はどこにも無い筈なのだが――、
「シン……。今の話、ホント?」
青年がそんなコトを考えていると、少女が脇から口を挟んだ。
何故か底冷えする程に声を震わせて、全身からドス黒いオーラを滲ませながら……。
青年が思案顔で目を移すと、少女の肩が5cm程上昇した。
「ふざけないでよっ‼
きゅ、給料の3回分って……‼
あんた‼ 向こう3年間ただ働きするつもりなワケ⁉」
「…………。
……年棒制だったのか」
……理解した。
そう言えば、特務教諭の給料が“月給制”であるなんて誰も言ってなかったなぁ、などと、今更ながらに自らに存在していた固定観念を認識して青年は感動してみたりする。成る程、コレがこの国の一般的な給与体制だという事だろうか。
あくまで大学教授の給料を参考にするのなら、という前提ではあるが、特徴教諭の年収は大凡800~1000万円程度であると推測するのが妥当だろうか。否、特務教諭が王宮直属の研究員である事や、その国家に対する重要性を踏まえると、それ以上の金額であった可能性すらも十分にあり得るだろう。
……3年分なら、ハッキリ言って家が建つ。
それも、かなり良いヤツが。
「国王陛下。
今更で恐縮ですが――」
「“ゆめゆめ忘れるなよ”、と言った筈じゃが?」
「…………」
……なるほど。
ある程度分かりきってはいた事だが、魔荷屋は再交渉を受け付けていないらしい。国王様ならあの羽根ペンなどいくらでも手に入る立場だろうに、それをここまで馬鹿げた値段で売りつけるとは……。
なんともこの爺さんらしいやり口に、青年は肩を竦めざるを得なかった。
「まあ、アレじゃよ。お前さんも知っての通り、我が“銀の国”は魔術師の国でのぉ。魔術師は、ほら。 約束だの契約だのを後生大事にする生き物じゃろ? つまりのぉ、この国では、1度交わした約束を反故にする事だけは認められておらんのじゃよ。
――まあその代わりと言っては難じゃが、ある程度の要望ならば聞いてやろうと思う。さて、何でも言ってみなさいな」
「……要望、ですか」
ヘリアス王の説明を話半分に聞きながら、取り敢えず羽根ペンと金の事に関してはもう諦めた青年。
隣から感じる少女の視線が痛かったがサラリと受け流し、彼はその“褒美”とやらにでも期待しようと、なるべく前向きな解釈に努めてみる。
さて、やはり今1番の要望と言えば――、
「駄目元でお聞きしますが……。
元の世界に帰して欲しい、というのはどうでしょうか?」
「それは――。
流石にちょいと聞けんかのぉ」
まあ、当然だろう。
何しろ青年は、地球の知識をこの国に伝える為に呼ばれたのである。まだ塔しか壊していない現状で帰還を許したのでは、何の為に召喚したのか分かったものでは無い。
青年が帰還する事が有るとすれば、その方法は2通りしかあり得ないのだ。それは、昨日に文部大臣から状況を説明された段階で既に理解している事実である。
「…………」
そう。シンプルに、方法は2通り。
端的に述べるならば、帰還を彼らに承諾して貰うか、或いは自力で帰るかしかあり得ない。
そのどちらを用いるにしても、或いは並列に事を進めるとしても、昨日の段階では時期尚早でしかなかったワケだが……。
青年は思案する。
もしかしたら、今は交渉するにはまたと無い好機なのでは無いのだろうか。
銀の国は魔術師の国。
魔術師とは約束を大切にする生き物。
王は今そう言った。
つまり一度“約束”さえしてしまえば、それがどんな物であれもう反故にはしない、と考えていいのだろう。
状況を静かに分析し、青年は小さく首肯した。
「……1つ、確認ですが。
貴方方が私をこの世界に喚んだ理由は、敵国が同じ様に異世界から協力者を喚び寄せているから。つまりは悪しき敵国から自国を守る為に、本当に仕方なく、苦渋の選択として私を連れて来た。
昨日私はその様に説明されましたが、その主張には変わりがありませんね?」
「…………? そうじゃが?」
ヘリアス王は僅かに眉を顰めながらも肯定した。
それに小さく頷きを返して逡巡する青年。
――もう1クッション。
青年はわざと不敵な笑みを作りながら続けた。
「敵国が異世界人を喚ぶから、私が必要になる。
逆に言えば、敵国が異世界人さえ喚ばなければ、貴方方も私を必要としない。
――つまり他の守護魔さえ居なくなってしまえば、特務教諭は向こう100年用済みなワケですね」
「……何が言いたい?」
回りくどい口調に業を煮やしたのか。
国王の隣に控えていた小太りの大臣が口を挟んだ。
――ここが勝負所か。
青年は努めて言葉を選びながら、鍵となるセリフを口にする。
「今回、私は一切の褒美を要求しません。
その代わりと言っては難ですが……。
1つだけ約束をして戴きたいのです。
“私が脅威となる敵国の守護魔を倒し、この世界に残る守護魔が私だけになった曉には、必ず私を元の世界へと帰還させる”、と」
青年は努めて平静を装って国王を見据える。
気づかれてはならない。
悟られてはならない。
知らないままに譲歩させなくてはならない。
今の条件のまま、一言一句違わぬ状態で約束を取り付けなくてはならない。
見えない緊張が青年を圧迫する。
王はただ無言で、聞いているのか聞いていないのか分からない様な顔をしている。ただ、まるで青年の中身を透視するかの様にその灼眼を細め、ジッとその機微を伺っていた。
ヘリアス王は、感情の窺えない表情で、ただ彼の黒色の瞳を覗き――、
「……謀ろうとするな」
(チッ……)
王の言葉に先んじて、横合いから声が掛かった。
これは王座の隣に控えていた、小太りの軍務大臣が発した物である。
予想外ながらも核心を突くその一言に、青年は舌打ちしながら表情を歪めた。
「特務教諭・アサヒ シンヤよ。
話をすり替えるならばもっと上手くやれ。
我々が問題としておるのは、“守護魔”では無く“敵国”の方だ。
貴様が帰還する日が来るとしたら、それは守護魔では無く“敵国”が倒れた時だ」
大臣は厳かにそう告げた。
帰還へのハードルが跳ね上がり、青年の涼やかな双眸には僅かに苛立ちの色が籠る。
否、その反応も当然だろうか。
何しろ青年にしてみれば、相手にするのが“守護魔だけ”なのか“敵国全て”なのかでは天と地程の差がある。
それは別に、個人では国を倒せない、などという一般論を述べているのでは無い。
彼自身に、敵国を打倒する為の知恵や力が不足している、などという事を述べているのでも無い。
否、確かにそういった要因も考慮に入れて然るべきではあろうが、それ以前に、この世界にはもっと確たる事実が存在しているではないか。
――そう。事実としてこの世界の国々は、今まで数え切れない程の守護魔を喚んで来たというのにも関わらず、現在まで冷戦という形でその均衡を保っているらしいのである。それは下手な仮定や仮説よりも、遥かに純然たる事実としてそこにある。
ならば例え、青年がたった1人で奮起したところで、そう簡単に情勢が動くと考えるのは、あまりにも楽観的思考に過ぎるだろう。
自分にだけはその力がある、と過信するのは、彼にはあまりにも傲慢な考え方であるように思えた。
憎々しい感情を押し殺している青年に対して、軍務大臣は“ハン”と小さく鼻を鳴らした。憐憫に細められたその視線には、言外に愚か者を揶揄する様な色が含まれている。それを好機と取ったのか。まるで昨夜の復讐だとでも言わんばかりに、周囲の大臣達までもが便乗し始めた。
「下郎の分際で国王陛下を謀ろうとしたのか⁉
身の程を知れ‼ この悪魔め‼」
「流石はあの銀蠅が喚んだ魔人だ‼
国王陛下‼ やはり斯様な無礼者は、隣の溝鼠共々奴隷に墜としてやるべきなのです‼」
「否々。いっそ希望通りに、サッサと魔界に追い返してやるのはどうですかな? 何しろ此奴は、既に隣の売女と一夜を共にしたそうではありませんか‼ これ以上この国に居座られて、妙な病原菌でもバラ撒かれたら堪りませんからな‼ ハッハッハッ‼」
「…………」
……野次は国会の華と聞くが、それはどうやら異世界でも共通の真理らしい。他にやる事とか無いのだろうか。真也は、政治家という存在につくづく嫌気が差し始めていた。
「いいじゃろう」
「は…………?」
しかしその暴言の嵐は、あまりにも剽軽な嗄れ声によって遮られた。隻眼の老人は困惑する大臣達をふむふむと眺めながら、まるで梟の様にほうほうと続ける。
「確約にまでは出来んがのぉ。
まあ、お前さんへの借りは小さいとは言えんし。
……何よりなぁ。どうにもお前さん、さっきからわしの“左眼”には、“長く国に居座られると凶”と映っておるんじゃよ……。
あー、まあ、なんじゃ。その時の状況次第じゃがなぁ、そのくらいの要望なら、まあ前向きに検討してやってもいいかと思ってのぉ」
国王の言い分は、青年にはイマイチ要領を得なかった。ただなんとなく、まるでこちらが国家転覆でも狙ってるかの様な、その物騒な言い回しはなんとかならないものか、などと心の中で呟いてみる。
……まあ、信じる人間も少なかろうが。
「「「…………」」」
「――って、アレ?」
しかし青年の予想に反し、何故か大臣達は青年に向ける態度を一変させていた。
具体例を上げるのであれば、ある者は完全に疫病神を見る目で青年に怯え、ある者はそんな疫病神を喚び寄せた少女に対して憤り、そしてまたある者は、その“魔界の悪魔”が自ら世界を去りたがっている事に歓喜している。
……この国王、副業で占い師でもやってるのだろうか。王様に対する青年の疑問は尽きない。
――でも、まあ。アレである。
王の思惑は分からないが、それでも帰還を許可してさえくれるのあれば、彼としては何の不都合もありはしない。
よって彼は――、
「感謝します。ヘリクツ王」
「「「「…………」」」」
……再び、無自覚にも、言葉という名の爆弾を投下してしまった。
「……ん?
なんだこの空――キッ⁉」
「お赦し下さい、国王陛下。
このバカには‼ 後で100回程‼ 復唱させてっ‼ 覚えさせますのでっっ‼」
掌底、裏拳、ボディーブロー。肘打ちで顎を撃ち抜いた後、脳震盪にフラつく青年を流れる様な動作で払い腰、という格闘ゲームも真っ青なコンボでK.Oしつつ、少女は国王陛下に頭を下げた。
呻き声をくぐもらせながらタップしている青年を海老反らせ、惨たらしくも関節技で締め上げている少女を微笑まし気に眺めつつ、王は尚も剽軽にその嗄れ声を発する。
「あ~。時に、アルテミアよ。
お前さんは、褒美はいらんのかえなぁ?」
「へ…………?」
老人の問いを聞いて、漸く青年の腰椎に休息を与える少女。青年が涙目で何かを懇願していたが気にせずに、締め具合を緩めながらも拘束は決して解かない、という器用な事をやってのけつつ、彼女は自らの要望を思案した。
「私は……」
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謁見の間を後にした青年は、少女に連れられる形で渡り廊下を歩いていた。その黒い瞳には微かに涙が滲み、老人の様に前屈した腰に当てられた手は摩擦熱によって患部を温めようと必死になっている。それはあまり感情が面に出ない質の彼にとっては、やはり許容量を超えた苦痛の訴えであると言えるだろう。
もしや自分は椎間板ヘルニアでも発症したのではなかろうか、などと自身の年齢を完全に無視した不安を懐かされつつ、青年は昨日発見した自らの体質について思いを馳せてみたりする。
昨日の事件で分かった事は、どうやら今の自分は、多少の裂傷ならば随分と早く治るらしいという事実である。おそらくは守護魔とやらになった事が何らかの要素として関与しているのだろうが……。どうもその原理は直ぐには分かりそうに無いので、今は保留にしておくべきだろう。
ただここで問題となるのは、仮に多少の裂傷ならば直ぐに治る身体になった、という仮定をしてみたとしても、果たして脱臼や骨折や椎間板ヘルニアの場合についてはどうなるのだろうか、という点である。これから先もあんな化け物達に襲われるであろう事を考えると、何らかの傷を負う可能性は十分に考えられるワケで、青年は他の怪我についても予め試しておきたい様なおきたく無い様な、或いは自分で試さなくても某真紅の少女が勝手に実験してくれそうだという事実に割と複雑な気分になってみたりする。
「…………(ブルッ)」
少女の右ストレートがフラッシュバックして、青年は知らず身震いした。
何しろ、12歳で博士号を取得した彼である。クラスメイトは殴り合いの喧嘩をするには遥かに歳上であったし、つまりは野蛮な暴力などとは無縁な人生を送って来たワケであって、端的かつ簡潔に述べるのであれば、人間(ホモサピエンスに限らない)から身体的苦痛を受けるなどという経験は、彼にとってそれこそ小学生以来の出来事なのである。
増してや自分と同年代の、(少なくとも外見は)可憐な少女に殴られるなどという経験はある筈も無く――。
……窓から吹き込む高層の風が、何故か矢鱈と冷く感じられるのだった。
青年の前で絨毯を踏み締めている少女は、何を思っているのか窓の外から見える街の光景を翡翠の瞳に映していた。しかし特に何かを見ているワケでは無く、頭の中で何かを考える為になんとなく眺めているといった体である。
青年も今は、少女には恨み言こそあれ会話するべき事柄も特には無かった為、連られる様にして何となく外を眺めて暇を潰す事にした。
窓の外から覗く街は、僅か1日で様変わりしていた。
秩序立っていた街並みは所々に綻びが生まれ、葉脈の様だった大通りは、まるで出来の悪いジャガイモみたいになってしまっている。
しかし街には、何故か昨日にも増して活気がある様にも思われた。
時間帯が違うという事もあるのかもしれないが、穴だらけの道や潰れた家の周りには大勢の人々が集まり、どう見ても乱痴気騒ぎとしか思えない様な格好で街の修復に精を出している。たまに荷台いっぱいに瓦礫を積んだ馬車が王宮の隣の方から来るのを見ると、おそらくは時計塔跡にも山の様な人数が集まっているのだろう。
どうやら時計塔の崩壊は、なにもこの街にデメリットだけを齎したワケではなかったらしい。考えてみればあれだけの建造物を再建しようと思えばそれなりの人手が必要になるのは当然であって、ニューディール政策の例に漏れず、国家事業規模の大工事は雇用を生み出し経済を潤す。
増してや、銀の国は魔術師の国である。青年が少女に聞いたところによると、この国の建造物は魔法金属で造られるのが基本である為に、建築は部品の加工から設計に至るまで専門の魔導師が行うのが一般的らしい。王宮のお抱えになるほどの実力が無く、知名度の低さによる依頼の少なさから貧困に喘いでいた魔導師達も人手不足故に駆り出され、またこの国では軽視されがちな力仕事の人間も多分に登用されるのはほぼ確実だという。つまり王都は、今や降って湧いた景気向上の兆しにフィーバーしていたのだ。
この好景気は、塔が完成するまでの数年は続く見込みらしい。
「あんたさ」
青年が適当な思索を巡らせていると、不意に少女が何かを呟いた。
青年は目線だけを少女に向けて、とくに意識もやらずに続きを聞く。
「せっかく国王陛下が褒美をやるって言ってるのに、あんなので良かったの?」
少女は視線を窓から外さずに、まるで独り言の様にそう尋ねた。
あんなの、というと、全ての守護魔を倒したら帰ってもいいという約束の事だろうか。
青年が質問の意図を掴めずにいると、少女は更に続けた。
「国王陛下。多分あれで、アンタの事けっこう気に入ってるよ?
ある程度の要望なら叶えるって話、嘘じゃ無かったと思う。
……貴族位くらい要求してやれば良かったのに。
上手くすれば、あの王宮にずっと住む事だって出来たんじゃない?」
「……そんな事か」
少女の言わんとする事を理解して、青年は軽く嘆息した。
要するに彼女には、青年が折角の立場確立の機会を不意にした様に思えたのだろう。なるほど、確かに昨夜垣間見たあの暮らしを考えれば、そういう意見もあり得るのかもしれない。
豪勢な食事に、豪奢な寝室。過ごす分には何もかもが高級ホテル以上で、あそこで過ごしていいと言われれば、それこそ文句の出る人間など居る筈も無いだろう。
だが青年は、それはあくまで昨夜1日で済んだから言える事だと考えている。窮屈な正装に、息の詰まる様な大臣達の顔。要するにああいう会食は、数年に1度くらいだから有難いのであって、毎日毎日経験してはただ息苦しいだけなのだ。
そもそも四六時中誰かに囲まれて生活するなんていうのは、青年の性格的に許容出来る物では無い。
何より――、
「あのな。オレは元の世界に帰るんだぞ?
この世界で偉くなってどうするんだよ」
青年は当たり前の様にそう答えた。
事実それは、彼にとって当然の答えである。
金も、地位も、例えどんなに手に入れたとしても、決して地球に持ち越す事が出来る物では無いのだ。ここでの生活を多少は楽にしてくれるかもしれないが、それでもすぐに失くす事が決定している物である以上、帰還への足掛かり以上に求める理由などありはしない。
「…………」
青年がそう言った瞬間、何故か少女は立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。
少々俯いている為にその表情は伺えないが、青年には、少女の佇まいには無色の翳りが含まれている様に感じられた。
「……あんた、そんなに帰りたいの?」
「…………?」
おかしな事を聞く。
何しろ青年は、一方的に拉致された上に生殺与奪を握られ、挙げ句の果てには化け物達と殺し合いを強要されている身なのである。(改めて列挙すると酷い立場である)
帰りたいと思うのは当然であろうし、むしろ留まりたいと思う理由を探す方が難しいだろう。
――少なくとも、彼はそう考える。
暫し困惑する青年。彼が目を丸くしていると、やがて少女はハッとしたかの様に息を飲んだ。
そして気まずそうな、或いはバツが悪そうな表情で目を伏せて、申し訳なさそうに続けた。
「……ゴメン、どうかしてた。
あんただって、家族とか友達とかいたんだもんね。
帰りたいって思うのは普通か……」
「…………は?」
納得した様な、少女の言葉。
しかしそれを聞いた青年は、今度こそ本当に呆然と目を瞬いた。
――家族。友人。
名称が異なるだけで、指し示すのはどちらも“人間”の事だろう。
そんなモノ、疎ましいとは思えど、恋しいと思う理由はどこにもあるまい。
仮にそういう関係にあるヒトが地球に存在していたとして、どうしてそれが、自分に帰りたいと思わせる要素になり得るというのか。
どうして少女は、そんな理解出来ない解釈で納得して、剰えあんなに申し訳なさそうな表情をしているのか。
青年には終ぞ、少女の思考を理解する事は出来なかった。
「そういう君こそ、随分と所帯染みてたな。
まさか“当面の生活費をお願いします”とは……。
そっちこそ、貴族位でも要求してやれば良かったんじゃないか?」
――問いを返す。
妙な霞が掛かった脳を覚醒させるかの様に、青年は話を変える事にした。
少女はゆっくりと顔を上げたかと思うと、自前の吊り目をなおも吊り上げて、刺々しくキッと睨んでくる。
「あんたね……」
……何が気に障ったのだろうか。
少女は突如大きく息を吸い込んだかと思うと、いつもの如く大音声で何かを喚き散らし始めた。
曰く“誰のせいだと思ってるのよ”とか、“あんたの給料が無くなったからでしょうが”とか、バカとかバカとかバカとかバカとか……。
そして最後に少女は、まるで締めくくる様に息を落ち着かせて、
「大体……。そんなの要求しても意味無いのよ。
あたしだけは、絶対に貴族位なんか認めてもらえないんだから」
感情の伺えない声でそう告げた。
少女は僅かに瞳を翳らせて、窓の外へと視線を流す。
少女の表情は理解出来なかったものの、なんとなく、青年も窓の外へと目を移してみる事にした。
窓から覗く最果ての地平線には、少女の館が霞んでいる。
この年端もいかない少女が、高い防壁で隔絶されたあの丘に住んでいる理由など、この時の青年にはまだ知る由も無い事柄であった。