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朝日真也の魔導科学入門  作者: Dr.Cut
第一章:イクリプス-2『最初の敵』
21/91

21. 異世界に存在する2つの国の文化や風土及び生活習慣の違いに関する調査報告と生物学の十分な発展が見られない異界におけるとある調査の打診

 冬の夕暮れは早い。

 秋の夕陽は釣瓶落とし、とはよく言うが、一般的に1年で日照時間が最も短くなるのは冬至、つまりは12月20日頃であり、それは常識的に考えれば冬も冬、真冬である。よって冬季の太陽は、鶴瓶にも増して速く落ちると表現出来るだろう。


 そしてそれは、どうやら異世界においても共通の定理であったらしい。考えてみれば太陽と気温の間には密接な関係があるのだから、気温が低ければ必然的に日照時間が短かったり太陽光線のエネルギーが弱かったりなどの要素(ファクター)が想定されるのは当然な訳で、現在この国が冬であるという前提に立つのであれば、まあ正午を過ぎれば瞬く間に夕暮れ時を迎えるのは自明の理であったと言えるだろう。


 その理に律儀にも従ったのだろうか。聖堂はガラス張りの天井から降り注ぐ、オレンジ色の光の帯に溢れていた。しかし、ソコはソレ。流石は異世界と言ったところである。蒼い太陽には青年が地球で見慣れた様な綺麗な夕暮れなど期待出来る筈も無いらしく、太陽は今や赤黒い染みの様な姿となって不気味に空を切り取っている。


 それでも聖堂が綺麗なオレンジ色の光に包まれているのは、(ひとえ)に月が鮮やかな真紅である為だった。どの様な理屈なのか。太陽が血塗れになり始めると同時に地平線より上がった紅い月は、輝きを失い始めた太陽と並ぶ程に眩く輝き、結果としてこの世界特有の幻想的な夕暮れを演出しているのである。


「……で」


 その聖堂の中心。

 いかにも地位のありそうな貴族や大臣達に囲まれながら、朝日 真也は謎の呟きを零していた。その表情には色が無く、声にはやはり抑揚が無い。


「この集まりは何なんだ?」


 青年は顔色を変えずに問いを重ねた。

 その表情は茫然自失というよりも、本当に状況が理解出来ないという単純な疑問から形作られた物である様な印象を受ける。彼はあくまでも涼やかな表情のまま、黒い瞳を隣のトンガリ帽子へと向けていた。


「何って、審問会でしょ?

 ほら。あんたがさっきやらかしちゃったコトについてさ」


「やらかしたコト?」


「うん」


 青年の素朴な疑問を受けて、アルテミア・クラリスはやはり淡々と返答した。その表情には青年と同様に色が無く、やはり心中が伺えない。少女は観念した様な、呆れた様な、或いはどこか達観した様な雰囲気を醸し出しながら、視線を正面の座へと向けていた。


「汝はアサヒ シンヤで間違いが無いか?」


 厳粛な声が聞こえてきて、青年は視線を正面へと向けた。視線の先には、口髭をピンと立てた、厳しそうな顔つきの男が座っている。青年は彼の名前になど興味が無いのでスルーしたものの、男の椅子に乗せられたプレートには“法務大臣”の役職が記されていた。彼の隣や後列には、これまた偉そうな貴族達が沢山座り、やはり様々な役職の書かれたプレートを乗せている。


(なんか、癪に触る空気だな)


 まるで罪人を裁く裁判の様なその雰囲気に、青年は少し居心地が悪くなるのを感じていた。


「答えよ、被告人!!

 汝は特務教諭、アサヒ シンヤで間違いは無いか!?」


「……へ? あ~、はい」


 法務大臣が叱責するかの様に怒鳴りつけたので、青年はつられる様に頷いた。答えてから、今の問いには何かスゴくおかしな呼称が含まれていた気がしたが、まああまり気にせずに周りを見回してみる。法務大臣の後ろに座っていた貴族達は、何故か満足気に頷いたりざわめいたりしていた。


「では被告人、アサヒ シンヤよ。

 汝には起訴状の事実を確認した後、我ら審問会が定めた刑罰を負ってもらうものとする。異議申し立てがあるのならば、今のうちに申すがよい」


「あー、その……。

 異議っていうか、どうしても聞きたい事が先ず1つあるんスけど」


 青年はゆっくりと手を上げると、もう一度辺りを見回してみた。ざわめく貴族達と、最後までナニカを喚いていたカツラの大臣が少々気になったので、彼らが静かになるのを待ってから再び口を開いた。


「そもそも、何でこんな事になってるんスか?」


「…………」


 法務大臣は無言のままに青年を睨みつけると、その顎を青年の隣に控えている少女へと向けた。

 溜息を吐きながら、気怠そうな態度で口を開く少女に、青年は何故かデジャヴを見ている様な錯覚を覚えたりする。

 少女は本当にイヤそうにしながらも、青年に先刻の出来事を思い返す様に促した。



 ――遡るは数刻程前である。


 グリフォンが飛来し、純白の姫とその従者が武の国へと発った後、青年と少女は何故か戻って来た王宮魔術団に囲まれた。


 ……いや、少し違う。

 正確には王宮魔術団は遠巻きに見ているだけであり、2人を取り囲んだのは王宮“騎士団”であった。銀の国の軍隊には魔術団と騎士団があり、魔術大国たる銀の国では騎士団は魔術団に比べて軽視される傾向がある。しかし今回は魔術が効かない敵が現れたという報せを受けて、緊急に騎士団が前線に駆り出されたとの事である。今度は文部大臣アスガルドだけで無く、軍務大臣を名乗る小太りの男も先陣に立っていたのだが、まあその辺は余り重要では無いので省略する。


 兎にも角にも意気揚々と、おそらくは武の国の2人組と戦う為に乗り込んで来たであろう彼らであるのだが、標的が既に帰った後だと知るや否や戦意の矛先は青年と少女に向いた。

 “何故みすみす逃がしたのか”とか、“怖くて手出し出来なかったんじゃないか”、などという非難はまだ序の口。終いには真っ先に逃げ出した魔術団の連中やアスガルドまでもが罵声に加勢し始め、2人を何らかの罪に問うべきであるという意見が出始めたのである。


 ……結論から言うと、これは何とかなった。

 何しろ敵を見逃した事で罪を問うというのであれば、敵前逃亡をかました魔術団やアスガルドなどは更に重い罪になってしまう。軍務大臣や騎士団の連中はそれでも良かったらしいが、敵襲の報せを受けても救援に来なかったという負い目もあり、彼らも直ぐに沈黙した。


 問題が起きたのはその後だ。

 2人の大臣達は、暫しの間憤怒に満ち溢れた眼差しで“元”時計塔を睨みつけていたのだが、それが半分以上青年の仕業だと知るや否や態度を急変させた。


 “き、貴様!! この塔の中にどれ程の……オ、オホンッ。いや、この塔がどれ程由緒正き物であるのか分からんのか!? 貴様のやった事は、十分な反逆行為だ!!”


 そんな事を言いながら突然、何故か青年の胸倉を掴みかからんばかりの勢いで憤慨した2人の大臣は、面目を潰された魔術団や騎士団の加勢もあって、青年を塔の破壊に関する罪状で審問会に掛ける事を決定したのである。



 ――そして現在、王宮に引き摺られてから数刻程待たされた青年は、数多の大臣達に囲まれながら審問を受けていた。そこまでの経緯を整理した後、青年は再び首を傾げる。


「……まあ、確かそうだったよな。

 で。結局それのどこが不味かったんだ?

 あの時は緊急事態だったから、まあ仕方なかったと思うんだが……」


 小さく肩を竦めながら、青年はゆるゆると辺りを見回してみる。時計塔の展望台と同じくらい広い聖堂には、無駄に青年を待たせただけあってスゴい数の大臣や貴族が参列していた。彼らは少し高くなった豪奢な椅子から、青年と少女を囲む様にして見下ろしている。


 ……そう。青年はここに至る経緯は理解出来ていたのだが、この状況が分からなかったのである。だってこんなに沢山のお偉いさんらしき人々に囲まれていたら、まるで自分が重罪人か何かみたいでは無いか、と。


「どこが不味いって、あんたね……。

 ……まあ、とにかくさ。あの連中の機嫌損ねてもロクなコト無いから、あんたは大人しくしてなさい」


 少女も肩を竦め、溜息混じりに返答する。

 青年も吊られて溜息を吐き、面倒臭そうに正面の大臣を見据えるのだった。



 一呼吸置くと、大臣達は漸く審議に移るつもりになったらしい。法務大臣のプレートを抱えている正面の男は、手元の書類に簡単に目を通すと、文部大臣アスガルドに起立を促した。

 おそらく、調書に名前でもあったからだろう。アスガルドは意気揚々と立ち上がると、小さく咳払いをし、まるで演説でもするかの様に大音声を響かせ始めた。


「皆さん、聞いて戴きたい!!

 ここにいる被告人、アサヒ シンヤは、偉大なる国王陛下に仕える身でありながら王権のシンボルたる時計塔に悪辣な落書きなどを施し、王都の景観を著しく損なったのです!!」


「……そういう言い方をされると、なんか物凄く悪い事したみたいだな」


 あんまりな説明のされ方に、聞こえないくらい小さく悪態をつく。どうやら文部大臣にはそれが聞こえたらしく、一瞬だけチラリと睨まれた気がしたので、取り敢えず青年はスルーしておく事にした。


「更にです!! この男はそれだけでは飽き足らず、塔の重要性を十分に理解していながらもこれに卑劣極まりない仕掛けを施し、あろう事か破壊する事によって王の威厳を地に落とした!! これらの反逆行為を、我々は決して!! 決して許してはならないっっ!!」


 大袈裟なジェスチャーと、訴えかける声。

 如何にも芝居がかったアスガルドの演説であったが、辺りからは拍手と賛同の声が巻き起こった。貴族や他の大臣達の視線を受けて、アスガルドは油ぎった顔を光らせながら満足気に頷く。


 その温まった空気を落ち着かせながら、法務大臣は確認する様に口を開いた。


「被告人。以上の事実に相違は無いか?」


「……いや、まあ。

 間違ってはいないッスけど」


 青年は溜息混じりにそう答えた。

 ……そうとしか言えないからである。

 確かに言い方はアレではあったが、その実アスガルドの言葉には、明らかな虚言は何も含まれてはいないのだ。


 法務大臣は青年の言葉を聞くと、何の感慨も無く次のセリフを告げた。


「反論が無いのであれば、審議はここで終了となる。汝は文化財破損及び反逆の罪により、全ての財を没収した後地下の独居房に入る事になるが、宜しいか?」


「…………」


 青年は、黙したままに暫し逡巡した。

 現状について頭を巡らせる。

 どうやらこの大臣様達とやらは、自分が塔を破壊した事にご立腹で、ここで何かを言わないと独居房とやらに放り込むつもりらしい。


 青年は小さく首を振った。

 いや、反論とかは未だ思いついていなかったのだが、取り敢えず独居房は困るのだ。というか異世界に攫われ、敵国の化け物に命を狙われた挙句牢屋暮らしなんて、それはあまりにも非道過ぎる。あまりにも納得がいかない。


「では、反論が無い様なので判決に移る」


「いや、今首振……」


「受け付けない!!」


「…………」


 黙った。

 あまりの横暴さに、青年はとうとう言葉を失った。思うに、魔女狩りの裁判とかってこんな感じだったのでは無かろうか。なるほど。実はココ、割と独裁的な統治の国なのかもしれない。


 青年が言葉を発しないのを、果たして会の終結ととったのか。法務大臣は咳払いをし、青年を真っ直ぐに見詰めながら――。



「待って下さい!!」



 むさ苦しい中年ばかりの聖堂に、不似合いな程に澄んだ声が響き渡った。全ての視線が、半自動的に声の元へと向けられる。


 判決を遮った声の主は、青年の隣に佇んでいた真紅の少女である。彼女は大臣席を真っ直ぐに見据えながら、良く通る声で続ける。


「大臣様方。彼に罪状ばかりを押し付けるなんて、一体どの様なおつもりなのでしょうか?

 確かに、彼のした事は上手くなかったかもしれません。もっと上手く立ち振る舞えば、塔を壊さずに済んだ可能性もあるでしょう。ですが大臣様。貴方方は、彼の功績に対する評価をお忘れではありませんか?」


「功績だと?」


「はい」


 真紅の少女は迷いの無い声で続ける。

 彼女に向けられる視線には非常に冷たい物があったが、少女は物怖じせずに堂々と語った。


「先刻、この国は二体もの守護魔に襲われたのです。

 ――守護魔。彼らがどれ程に強力な魔人であるのかは、直接その目で確認された文部大臣様ならば良くご存知である事と思われます。

 それを二体。彼は倒せないまでも、王都から追い払って見せたのです。その功績は、決して過小評価すべき物ではありません」


 少女の言を聞いて、法務大臣はアスガルドの方へと視線を送った。資料に目を通しつつ、アスガルドに2、3言何かを確認している。それが終わると、仕切り直す様に咳払いをしながら少女へと向き直った。


「……確かに、危機的状況であった事は認める。

 被告人の貢献は、無かったとは言えないだろう。

 だが、それが時計塔破壊の罪を軽くする物では無い」


「何故でしょうか?

 法務大臣様!! 貴方様は時計塔を破壊する事が、敵国の襲撃を容認するよりも王の権威を損なうとでも!?」


 少女は更に勢い良く詰め寄る。

 そして厳粛な面持ちで聞き入っている法務大臣を一瞥した後、その背後で苦虫を噛み潰したような顔をしているアスガルドへと視線を向けた。


「私には塔の破壊よりも、不用意な判断で敵国民に逃亡の機会を与えた者の行為の方が遥かに重罪であると考えます。そもそもです。確かにあの時計塔は王都のシンボルではありましたが、魔導研究所や王宮に比べれば遥かに歴史が浅く、その破壊は器物破損の域をでる物ではありません。

 ……それとも大臣様。貴方方はあの時計塔に、|歴史有る塔よりも価値の有る・・・・・・・・・・・・・・でもお忘れになったのでしょうか?」


「この痴れ者があっ!!」


 少女が揶揄するかの様に尋ねた瞬間、アスガルドは席を立ちながら怒声を上げた。吊られる様に何人かの貴族も立ち上がり始め、疎まし気な視線が少女へと投げかけられる。


「アルテミア・クラリス!! 貴様はこの場を何と心得るか!! 本来であれば、神聖なる審問会の場に、貴様の如き卑しき者など立ち入ることすらも許されんのだぞ!? それを戯言で会の進行を乱した挙句、下らぬ妄想で我らを侮辱するとは!! 恥を知れえっ!!」


 アスガルドの叱責を皮切りに、周囲の貴族や大臣達からも罵声が巻き起こった。そこには少女の主張に対する反論のみで無く、少女の人格そのものを否定する様な、聞くに耐えない罵詈雑言まで含まれている。少女に向けられるのは侮蔑と卑下。中には溝鼠や蛆を見る様な、向けられただけでいたたまれなくなる様な視線もあった。


「雑種の魔導師風情が、恥を知れ!!」

「貴様の様な汚らわしい鼠が、どの面を下げて我ら貴族に意見するか!!」

「小蝿は外に集るが似合いだろう!! 早々に王都から立ち去り、最果ての丘へと下るがいい!!」


 貴族達からの野次は止まない。

 蔑む様な彼らの視線は、青年が嫌悪を通り越して吐き気を覚える程であった。少女は肩を震わせている。俯いたその顔は、帽子の鍔に隠されてよく伺えない。だが青年は、真紅の少女が悔し気に下唇を噛みながら、強く拳を握りしめてるのを見た。


「……穏やかじゃないな」


 青年は独り言の様に呟いた。

 視線は大臣席に。しかし向けられる相貌の温度は、大臣達が少女に向ける物よりも数割増しで尚低い。少女の前に立つ様にして歩み出た彼に、その場の全ての視線が収束する。


 青年は、アスガルドを真っ直ぐに見据えた。

 人間の全てを嫌悪する氷の瞳が、冷徹に文部大臣の姿を映す。何か反論があるのだろう。青年はアスガルドに指を突き付けながら、その口を今にも開こうとし――。



「…………」



 ――何故か、青年はポカンと目を見開いて、顎に手を当てながら考え込み始めた。



「……なんて言ったか。

 確かナントカルド……ナントカルド……」



 ……どうやら青年は、大臣の名前を呼ぼうとしているらしい。だが、悲しいかな。この青年は、ヒトの名前を3音節以上覚えられない。名前が呼べず、早速出鼻を挫かれた形である。

 青年は思い返す様に何かを呟いている。

 その彼の呟きをどう受け止めたのか。

 彼に収束する全ての視線は、彼が発する言葉を聞き逃すまいと沈黙し、全ての人間が彼の存在に意識を向けていた。


「……ああ、そうだ」


 思い出したらしい。

 青年はアスガルドの頭部をまじまじと見ながら手を拍ち、不敵に微笑みながら反論を述べ始めた。




「“カツラルド”文部大臣。

 貴方に一つ、確認したい事があります」




「「「…………」」」



 ――空気が、凍った。




「……ん。あれ、どうしたんスか?」


 青年は首を傾げている。

 おそらくは、まだ反論も述べていないのに沈黙した彼らの空気が気になったのだろう。心底不思議そうに疑問符を浮かべ、辺りをキョロキョロと見回している。そんな彼の視線の先にいる貴族達。ある者は青くなり、ある者は必死で笑いを堪え、そしてまたある者は、顔をタコの様に真っ赤にしながら青年を睨み付けていた。


「貴様!! 貴様ぁああ!!

 こここ、高貴なるこのワシに向かって、なっ、何という暴言を!?」


「……罪状に審問会侮辱罪を追加する」


 火山活動の様に喚き立てる文部大臣と、淡々と青年の罪状に新たな条文を追加する法務大臣。そんな彼らの態度を受けて、尚も青年は、心底不思議そうに次の爆弾を投下した。


「何故でしょうか。私はまだ、カツラルド文部大臣の行いについては何も言及しては……ムグッ!?」


「……シン。お願いだからちょっと黙ってて」


 続きの言葉を言おうとした瞬間、青年の口には何かが突っ込まれた。ゴツゴツしていて硬い感触と、口腔に広がる錆びた鉄みたいな味。その感覚から青年は、どうやら少女に、大きめの金属塊みたいな物を突っ込まれたらしいと判断した。大方、先刻瓦礫の山に埋まった時に、帽子やローブの中にでも入り込んでいた破片なのだろう。



「話を戻しましょう。

 彼の処遇についてですが……」


「それならばもう決まっていよう。

 独居房に放り込み、そこで永久労働だ」



 少女と法務大臣が、何かを話し込んでいる。

 しかし今の青年には、そんな事を気に留める余裕などありはしなかった。


「ムグッ……!! グッ……!?」


 ――苦しい。

 呼吸困難に陥る程の息苦しさに涙が滲む。まるで野球ボールやリンゴが、歯列の内側に丸ごと詰め込まれている様な感覚。アダマス鉱は内蔵魔力量によって体積が変わる金属である。これが塔の破片であるとするのならば、おそらく少女は、詰め込んだ瞬間にソレを膨張させて抜けなくなる様に細工したに違いない。何という手の込んだ拷問だろうか。



「独居房ですと!? 何を甘い事を!!

 此奴にはたった今、このワシに対する侮辱罪が追加されたではありませぬか!!

 こんな無礼な生き物には、懲役させる価値も無い!!

 さっさと家畜にでもその地位を落とすべきなのです!!」


「な、何を勝手な事を言っておられるのですか!?

 彼はまだ、この世界の名前に慣れていないだけなんです!! 大臣様のお名前なら、今夜にでも100回復唱させて覚えさせますので、それでこの場は放免にすればいいではありませんか!!」



 周囲の会話が遠くなる。

 酸素不足と異物感に何度も嘔吐くが、口が塞がっている為にそれすらも許されない。舌が圧される強烈な違和感に、不快感を通り越して気が狂いそうになる。



「ハン、何を悠長な事を言っておるのだ?

 高貴なるこのワシの名を覚えられなかったのだぞ?

 それだけでも万死に値する無能さだというのに、此奴は大切な塔まで壊した重罪人だ。機会を与えるだけ愚かしかろう。

 ああ、そうだなぁ。異存があるのならば、貴様も仲良く家畜に落としてやろうか? 貴様の如き銀蝿には、さぞお似合いな地位であろう」


「だ、大臣様――ああもう!! あんたどこまで性格悪いのよ!! 息吸ってるだけで嫌味が漏れる生き物の癖に、人様に対して侮辱罪!? 家畜みたいな体型して、人を家畜にするとかギャグでも三流よ!!」



 会話の内容は無視して、青年は現状を打破する手立てを考える。口の中身は、おそらくアダマス鉱。所持している不死鳥の羽根ペンを使えば、確か成形は可能な筈だ。だが悲しいかな、青年はアダマス鉱を膨張させて、槍を作る変形しかやり方を知らない。無論、口の中なんかで使ったら大惨事である。



「ハハハッ!! 売女め!! とうとう馬脚を現したな!?

 貴様の如き品性に欠けた賎民は、やはり家畜が似合いだ!!

 なんなら5番街の富裕館にでも飼われてみるか!? 連中なら貴様の様な銀蝿でも、多少はましな性奴に調教してくれそうだしなあ!!」


「~~~~っ!!

 ――だ、ダイジンサマ。

 お戯れは、そのくらいに、していただけませんか?

 先程のは、場を…和ませようと、冗談を述べただけでして。この私が、高貴なる貴方様を、侮辱……などする筈が無いではありませんか」



 涙で歪んだ世界に、砕けそうなくらい奥歯を噛み締めている少女が映った気がしたが、青年には気にしている暇など無かった。不死鳥の羽根ペンが使えない以上、方法は一つだけだ。つまりは無理矢理に指を入れて、力尽くで破片を引っ張り出す――。


 青年は上を向き、顎が良く開く様な体勢を作りながら、奇声をくぐもらせつつ口に手を突っ込んだ。



「ははは!! そうか、冗談か!! それは良かった!!

 ワシの言葉には何一つ冗談など無いから安心するがいい!! そもそも貴族出身者でも無い貴様が、歴史ある魔導研究所の所長職に就いておる事自体、王権に対する許し難い侮辱なのだ!! そうだなぁ!! これを機に、元の身分に相応しい身の振り方を考えるのも悪くはな――」



 大臣の嫌味は、最後までこの世界に産まれる事は無かった。



「――っし!! 抜けた!!」



 カポッという音と共に、青年が歓声を上げる。

 彼は楽になった呼吸に空気の美味しさを噛み締めながら、深呼吸を二度三度と繰り返した。滲んだ涙をボロボロの白衣の袖で拭き、生き返った心地に安堵する。


「アル、口を塞ぐにも方法があるだろう!!

 そもそも黙らせたいのならば、口で言ってくれればいいじゃないか!! 口より先に手が出るのは、君の悪い癖だと――」


 言いかけて、青年はその言葉を切った。

 自らの隣にいる少女。

 彼女が何故か蒼白な表情をしながら、オバケでも見た様な顔で、大臣席を指差していたからである。辺りの貴族達も卒倒する様に顔色を失い、信じられないモノを見る様な視線で青年を睨んでいる。


「……シン。あんた、ナニしてんの?」


「は?」


 言われて、少女の指先を追う。

 正面の大臣席には、最前列に法務大臣。少女の指先は、どうやらその隣を示している様だ。更にそちらの方へと目線移す。


「…………」


 そこには、文部大臣アスガルドが居た。

 大臣は何かを言い掛けた体勢のまま、何故か顔に石つぶてみたいなモノを減り込ませて固まっている。


 ……頭には、カツラが無かった。

 おそらく、石つぶてが当たった衝撃で飛んだのだろう。顔から問題のブツが剥がれると、ゴロリ、という虚しい音が、沈黙が支配する聖堂にイヤに大きく響き渡った。どうでもいいが、なんか、物凄く覚えがある大きさの石つぶてだった。


 青年は、視線を右手に落とす。

 口腔の障害物を取り除き、今現在ソレを持っている筈の右手を見る。

 今現在ソレを持っている筈なのに、矢鱈と軽い右手をまじまじと観察する。



「…………」



 コレは、まさか……。



「…………抜けた?」



 状況を理解した。

 どうやら石つぶてを口から引っこ抜いた際、勢い余って手からすっぽ抜けたらしい。要するに、それが運悪く、文部大臣の顔面へと直撃したのだ。



「……シン。あんた、ナニしてんの?」



 壊れたプレイヤーみたいな少女のリピートが、矢鱈と良く耳に残った。



「フハ!? フハハハハハァァァッッ!?

 見ましたか皆様!! 見ましたか法務大臣殿っ!?

 この者はあろうことか、神聖なる審問会で暴力を!! 暴力を振るったのですぞ!? こんな危険で野蛮な生き物は、サッサと首輪でも付けて奴隷にでもするのが相応しい処遇でありましょう!!」


「いや、別に悪気とかは無かったんスけど。

 いや、本当に。全く」


 努めて淡々とした青年の弁明。

 そんな事には聞く耳持たず、アスガルドは真っ赤になった顔で、壊れた笑みを浮かべながら聖堂中に叫び散らす。カツラの吹き飛んだその頭は、まるでトンスラの様な見事な河童であった。


「ああ、そうだ!! もっと早くそうしておくべきだったのだ!! 何しろ斯様な赤ばみ溝鼠に呼ばれた魔人殿ですものなあ!! 放任しておけば、直ぐに問題を起すのは道理であった!! よし、決まりだ!! 貴様達はたった今より、このワシの奴隷としてこき使ってやる!! このワシが情けを掛けてやるのだ、有難く――ヒャベバァ!?」


 アスガルドがナニカを言い終わる前である。

 突然として飛来した石つぶてが、再び彼の顔面に減り込んでいた。


「……アル?」


 青年が、目を伏せながら少女に問う。

 少女は見事な投球フォームを経て、完璧なフォロースルーをしながら右手を下げていた。

 なるほど。ローブに入っていた瓦礫は、アレ1つでは無かったらしい。


「……ゴメン。

 あまりにもウザいから、つい……」


「牢ォにぶち込めェェエエエ!!

 此奴らに懲役……、いや死刑!! 死刑をぉぉおおお!!」


 発狂せんばかりに憤慨するアスガルド。

 貴族用の豪奢な椅子を投げようとしたところを、隣にいた貴族達に宥められていた。

 青年も何やら命の危機を感じた為、宥める声に参加しようと声を張る。


「落ち着いてくださいカツラルド大臣!!」


「殺ォォォオオス!!

 殺ォォォォォオオオオオスッ!!」


「何故だ!? 何故あのおっさんは怒るんだ!?」


 逆効果であった。

 何故大臣がそれ程までに憤慨しているのか、青年には終ぞ理解出来なかった。



 審問会は既に混沌としている。

 法務大臣が叫ぶ声もアスガルドの罵声に掻き消され、周囲の貴族達も唖然としたままに硬直して動かない。既にこの場の混乱は、何人たりとも収束出来ない域に達しようとしていた。


「あ、アル!! 何とかしてくれ!!

 君があんなモノ投げるからこうなったんだろ!?」


「あ、あんたが先にあんなの投げるから、つい手が滑ったんじゃない!! あたしだって、いつもはあのくらいのイヤミ我慢してるのよ!!」


「アレは事故だったと言っているだろ!?

 大体!! 元はと言えば君がオレの口にあんなモノ突っ込むからああなったんじゃないか!!」


「元はと言えば!! あんたがアイツの名前変な風に間違えるからでしょうが!! ナニよカツラルドって!! アイツの名前はアスガルド!! 明らかにワザとじゃない!!」


「音が似てるから言い間違えただけだろ!?

 大体、名は体を表すって言うじゃないか!!

 あまりにもカツラのイメージが強すぎたから口が滑ったんだ!!」


「はぁ!? アスガルドとカツラルドって、どこがどう似た発音だって言うのよ!? 信じられない!! あんたどういう耳してるワケ!? あの頭で名前がカツラルドだったら、いっそ清々しいわよ!!」


「ホアギャァアアア!!」


「あ、アスガルド文部大臣!!

 神聖なる審問会で剣を抜くとは何事か!?

 衛兵!! 衛兵はナニをしておるか!!」


「君こそ忘れたのか!?

 オレの耳には、君たちの言葉がオレの世界の言葉に翻訳されて聞こえてるんだぞ!? あのハゲの名前は、こっちの発音に変換させるとカツラと極めて近くなるって事だろう!! そのくらい配慮してくれ!!」


「配慮するのはあんたの方でしょ!? アイツがハゲなのは誰が見ても明らかなんだから!! 発音が似てるんなら尚更気をつけなきゃダメに決まってるじゃない!!」


「ブロォオオオアアアアッッ!?」


「衛兵!! 衛兵!! こっちだ早く来い!!

 さっさとそこの2人とこちらの……違う!! それは魔獣では無くアスガルド文部大臣だ!! 少々変貌しておるが決して傷付け……」


「あ~っ!! もうっ!!

 あんたらうるさい!! 燃えろ(cen)!!」


「「「ぐぁああああっっ!!」」」


「衛兵!? 衛兵っ!!

 あ、アルテミア・クラリスよ!!

 貴様神聖なる審問会で魔術行使などと正気……ってアスガルド文部大臣!! 青筋が切れて血を噴いておりますぞ!? どうか落ち着いて……」


「ハゲハゲ言うなバカッ!!

 カツラルドだって隠してるつもりなんだから!! 黙って気付かないフリしてあげるのが優しさじゃない!!」


「待て!! 今君はカツラハゲ大臣を呼び捨てにしたぞ!? それは名前を間違えるのと同じくらい不敬じゃないのか!?」


「あんたこそ!! いつになったら覚えるのよ!!

 何度も言ってるように!! アイツの名前はカツラルド……ってアレ?」


「Gyeeaaahhhhhhhhahahahahahahaaa!!」


「静粛に!! 静粛にっ!!

 アスガルド文部大臣!! お願いですからせめて人語を……というかお願い誰か止めてもうイヤァァアアアっ!!」


 巻き起こる罵声と奇声の嵐。

 時折声に混じって魔術や椅子までが聖堂を飛び交い、審問会は阿鼻叫喚の地獄絵図へと変貌していた。貴族達は逃げる事も出来ずに椅子の下に伏せて隠れ、駆け込んだ衛兵は乱舞する火球によって聖堂に踏み込んだ瞬間に討ち取られていく。


 そう。この場は既にこの世の地獄。

 治め得るのは閻魔か仏のみであろう。



 ――だからきっと、その存在はそのどちらかであったに違いない。



「おやおや。随分とお困りのようじゃのぉ」


「――――!?」


 振り向いた。

 突如として聞こえた嗄れ声に思考は止まり、青年は条件反射の様に背後へとその視線を向けた。

 青年だけでは無い。真紅の少々や法務大臣。怒りに我を忘れていたアスガルドどころか雪崩れ込んで来た衛兵達まで、まるで申し合わせたかの様に、全ての視線が突如として現れた声の元に向けられる。


 視線の先には老人が居た。

 この嵐の様な混乱の中を、一体どの様に通過したのか。

 薄汚れたボロを来たその人物は、足音も気配も何一つ発さぬままに、まるで背後霊の如く青年の後ろに立っていたのである。その老人の在り方は、それその物がまるで魔法の様であった。


 審問会の空気は、一瞬にして凍り付いていた。

 突如として会場の中心へと現れた老人。その姿に全ての人間は驚愕し、顔色を失いながら呆気にとられている。奇声を上げていた法務大臣やアスガルドでさえも、老人の姿を認めるなり顔色を無くし、ただ無言のままにその姿に見入っていた。老人の一言は、それだけで聖堂の空気を一変させてしまったのである。


 その不可思議な沈黙の中。

 青年はそれを実現した魔術師の姿をその目で確認すると、その老人が目の前にいる理由に思いを馳せて溜息を吐いた。


「……魔荷屋の爺さんじゃないか。

 言っておくが、金ならまだ払えないぞ?

 見ての通り、今はそれどころじゃ……ってかあんた、よくここに入れて貰えたな」


 老人の姿を、果たしてどう受け止めたのだろうか。

 青年は取引の時と変わらぬ口調で話しながら、明後日の方向を向いて頭を掻いた。


 青年の視線の先には、黒いローブの少女の姿。

 彼女は青年の呟きを聞くと驚きに目を見張り、次の瞬間には“やられた”という様な表情を浮かべて溜息を吐いた。


「……なるほどね。

 コイツがどこから不死鳥の羽根ペンなんか持って来たのか不思議でしょうがなかったけど、そういう事だったわけ」


「…………?

 アル。この爺さんと知り合いなのか?」


 眉を潜めながら舌打ちする少女。

 青年は少女と老人の姿を交互に見比べる。

 そして老人がその口髭を誤魔化す様に引っ張ったのを見て、泳ぐ視線を老人へと止めた。


「ほほほ。まあ訝りなさるな、若いの。

 実はのぉ、魔荷屋は副業で、本職はチョイと別にあるんじゃよ」


「……へ?」


 首を傾げる青年。彼が思案している間に、聖堂にはガタガタという椅子の音が響き始めていた。それに気付いて青年が周囲を見回した時には、既に全ての貴族や大臣が席を立ち、床に跪いて礼をしていた。驚くべき事に真紅の少女でさえも、丁寧に床に片膝を着き、行儀良く浮浪の老人に傅いている。



「……漸くお戻りになられたのですね。国王陛下(・・・・)



 困惑し、目を見開く青年。

 アスガルドの意味不明な言葉だけが、理解不能なままに彼の頭の中に響いていた。



「…………。

 …………へ?」



 -----



 審問の間から追い出され、再び謁見の間へと通された頃には、陽は既にとっぷりと暮れていた。

 砕いた真珠を散りばめた様な白銀の星々と、漆黒の夜空に浮かぶ紅い月。穏やかな月光が窓から差し込み、聖堂は幻想的な煌めきに包まれている。


 その最奥に設置された王座。

 昼は無人であった豪奢な椅子に、今宵は1人の老人の姿があった。ギリシャ神話の最高神を思わせる純白のローブに身を包み、入浴により洗浄された口髭は、穢れとは無縁に老人の威厳を周囲に知らせる。軽いカールの掛かった銀髪は老人の灼眼と強いコントラストとなり、聖堂を照らす燭台の灯に透明感のある輝きを得ていた。


 名をヘリアス・ノルマンド・フォン・プラティヘイム。国王とは思えぬ程に奔放な気質を持ち、国民の前には殆ど姿を現さぬこの老人こそが、魔術大国・銀の国(プラティヘイム)を統べる“魔導王”である。


 その王座の前。

 老人の視線を正面から受け止め、国王を囲む数多の貴族達に見下ろされながら、顔を寄せ合って何事かを囁き合う若い男女の姿があった。


「……どういう事なんだよ、アル」


「……どういう事なのか聞きたいのはこっちよ。

 あんたこそ、どういう経緯で国王様と知り合いになったわけ?」


「だから、そこが先ずおかしいだろ。

 あんな性根の腐った浮浪者が国王だって?

 この国の統治はどうなってるんだよ」


「アレは例外中の例外よ。

 国王の浮浪癖は病気なの。

 大臣達も誰も咎めないの。

 だってあの王様、居なくなっても誰も困らないんだもん」


「……この国はもうダメだな」


 幻様に煌めく聖堂に、燭台の灯り。

 そして小声で何かを囁き合う男女。

 ……見様によってはロマンチックなシチュエーションなのだろうが、彼らの会話の内容には色も素っ気もありはしなかった。


 そんな彼らをよそに、大臣席から1人の人影が歩み出る。


「国王陛下!! お戻りになられて早々のところ申し訳ございません!! ご無礼を承知で、私の箴言をお聞き願いたい」


 大きな音源が存在しなかった聖堂に、張り上げる様な声が響き渡った。文部大臣アスガルドは国王の前に跪くと、頭を垂れながら発言の許可を貰う。

 ――どうでもいいが、カツラは既に被り直していた。


「本日、我が国は敵国による襲撃を受けました。

 その折、ここに居るアサヒ シンヤ特務教諭は、あろう事か塔を!! 王都のシンボルたる時計塔を!! 敵国民の襲撃に(かこつ)けて不必要にも破壊したのです!!」


「……いや。

 なんかさっきより酷い話になってないか?」


「黙れぇぇぇえええッ!!

 最早貴様に発言権などナイワァアアアッッ!!」


 ……妖怪の様な形相に気圧されて、青年は取り敢えず黙る事にした。

 アスガルドは、表情を作ってから国王に向き直り、続ける。


「此奴のした事は、立派な反逆罪ですぞ!?

 ……いや。いや!! それだけでは御座いませぬ!!

 此奴が来た当日に2体もの守護魔が現れるなどと、こんな事態が偶然の筈が無い!!

 はっ!! そっ、そうだ!! きっと此奴は異世界人のフリをした魔界の悪魔なのです!! そうだそうに違いありません!! 大魔導アルテミア・クラリスは守護魔を喚んだと虚言を申し、我らを滅ぼすべく悪魔を用いて呪いを掛けておるのです!!

 国王陛下ぁ!! 処分をっ!! 一刻も早く此奴らに処分を!! これ以上判断が遅れては、国がとんでもないコトになりますぞ!?」


 目を白黒させながら、アスガルドは半狂乱になって喚き散らしていた。呆気に取られる青年と、呆れ顔で溜息を吐く少女。そんな彼らを好々爺めいた笑みで眺めながら、銀髪の老人はふむふむと唸っていた。


「塔を壊したか。

 一体どこの誰があんなことをしでかしたのかと思っておったが、まさかお前さんとはなぁ。いやいや、流石のワシにも予測できんかったなぁ。しかしその様な大事、果たしてどう処分したものか」


 老人はその灼眼で、白衣の青年の全身を余さず観察していた。流石にアスガルドの主張を全て真に受けた訳では無かったようだが、それでも老人は、意地の悪い笑みを浮かべながら、値踏みする様に彼を眺め回している。老人の性根の曲がり具合を知っていた青年は、その視線だけで生きた心地がしなかった。


「よし、決めたぞ」



 やがて老人は、意を決した様に手を叩き――。



「大負けに負けて、今回は赦す!!」


「「「は?」」」



 疑問符が重なった。

 白衣の青年とアスガルドのみで無く、真紅の少女や貴族達も含め、全ての人間がポカン口を開けて言葉を失っていた。


「こここ、国王陛下!?

 な、何を血迷った事を仰いますか!?

 此奴らはその発言!! 行動!! 否、存在自体が王権を脅かす不敬の塊なのですぞ!? 此奴らを!! 此奴らを放免などにしては!! とても国民に示しがつきませぬっ!!」


 憤るアスガルド。

 老人は果たして聞いているのか、ほうほうと頷きながら笑っていた。


「しかし、そうは言ってものぉ。

 貴族でも無い若者の敬語に、一々目くじらを立てるのもなぁ」


「不敬に身分など関係ありませぬ!!

 それに此奴らは、曲がりなりにも由緒正しき王宮へと足を踏み入れる事を許された身分!! 例え平民下民であろうとも、貴族と同等の権威を持ち、相応の責任を負うべき立場にあるのです!!」


「いや、あんた。

 さっきと言ってる事全然違……」


「黙れぇぇえええッッ!!

 貴様が喋ると呪いが掛かるわこの悪魔めぇええっっ!!

 ――コホン!! そ、それにですぞ!? 仮に塔の破壊を赦すにしてもです!! 私の調査によりますと、この者はその手段として、かの不死鳥の羽根ペンを用いたとのことです!! あれは一級危険魔装に指定されており、許可無き者は使用どころかその所持すらも許されてはおりませぬ!! そうです!! この下賤な輩は今現在もそれを所持しており、その違法行為は王権を著しく損なう物であります!! ならばこの者の処分は免れ……いや、それだけではありません!! 守護魔の不法行為を見逃した召喚主アルテミア、及び身分を無視して魔装を売り捌いた、どこの馬の骨とも知らぬ許し難い輩まで探しだし、一刻も早く牢へとぶち込んでやるべきなのです!!」


「……あ。終わった」


 この時青年は、初めて人が壮大なる墓穴を掘る瞬間を目撃した。


「そうか。彼に魔装を売り付けた者は牢獄行きか。

 まあ仕方ないのかのぉ」


「そ、そうです!! そうなのです!! そんな身分も分からぬ大馬鹿者は、太陽の下を歩くことすらも許されるべきではありません!! 一刻も早く探し出し、相応の処罰を与えて後悔させてやらねばなるませぬ!!」


「しかし、困ったのぉ。

 一応、彼に魔装を売りつけたのはワシなんじゃが」


「そうですか!! まさか国王陛下が馬の骨だとは思いませんでした!! ではさっさと牢獄にお入りになって下さ……ってなんですと!?」


 アスガルドの弁舌が止まる。

 茹でダコの様になっていた頭は急速に萎れ、瞬く間に真っ青な青瓢箪になった。口は顎が外れたカバの様にガバッと開けられ、舌は脱水症のヘビの様に飛び出ている。


「……やっぱりね」


 少女の納得した様な声だけが、妙に大きく聞こえた気がした。


「し、ししし、失礼いたしました!!

 こ、ここ国王陛下がお認めになられたのであれば、彼が魔装を所持する事については何の問題も御座いませぬ!! それは法にも明文化されておる事で御座います!!

 し、しかし修繕費は!? 塔の修繕費はどうなさるおつもりなのです!? あれ程の塔を復旧させるには、相応に税を引き上げねばならぬでしょう!! 此奴を処罰せねば、国民の反感は免れませぬぞ!?」


「ほほほ。実はのぉ、赦して良いと言った一番の理由はそこなんじゃよ」


 最後の砦の様に食い下がるアスガルド。

 しかし国王の返事は、あくまでも軽い物だった。


「壊れた時計塔の下から、これが中々に面白い物が見つかってのぉ。いやいや、どうやら暫くは財政に余裕が出そうでなぁ。彼には処罰どころか、寧ろ勲章を与えたいくらいなのじゃが」


「こ、国王陛下……?

 ま、まさか、それは……」


 そう言ったきり、アスガルドは完全に沈黙した。

 国王の後ろに佇む貴族からも、驚愕した様なざわめきが大きく聞こえて来る。


「……どうしたんだ?」


 その様子が気になった青年は、何となく少女へと話を振ってみる事にした。

 少女は頭を抱えながら、国家の恥を見る様な目で大臣達を見据えていた。


「……知らない。

 埋蔵金(・・・)でも埋まってたんじゃない?」


 結局アスガルドを中心とした大臣勢は国王の鶴の一声で沈黙し、青年と少女は、今回の件について一切のお咎めが無いという信じられない事態が発生したのであった。



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「そうだ。二人共、今日は昼も食べておらんのだろう? 今宵はもう遅い。折角じゃし、夕食でも食べていかんかね?」


 罪状の審議が終わった謁見の間。

 隣に控えていた衛兵から時間を聞いたヘリアス王は、口髭を弄りながらそんな提案を示した。


「ゆ、夕食ですと!?」


 流石に今の提案は聞き流せなかったのだろう。放心していた、アスガルドを始めとした大臣達は瞬時に我に帰って色めき立ち、口々に制止の言葉を発し始めた。


「なりません!! なりませんぞ!? 国王陛下!!

 此奴らの如き下賤な者を王宮に上げるだけでも汚らわしき事態であるというのに、更に王族の晩餐に参列させるなどと……」


「シン、どうする?

 あんたがいいなら、別に食べて行ってもいいけど」


「そうだな……」


「……って聞け貴様らぁああ!!

 貴族が発言中であるぞぉおおお!!」


 アスガルドの奇声は無視しつつ、国王の提案を吟味する青年。内容を理解した後、彼は少女に首を振った。その表情には、何か記憶を辿る様な色が明確に含まれている。

 青年は国王へと向き直ると、確かめる様な表情で言葉を発した。


「……えーと。

 国王陛下、でいいんスよね?」


「ほほほ。楽にするがよい。

 お前さんの呼びたい様に呼べばいいさ」


 楽に呼べばいいと言うので、一瞬“魔荷屋の爺さん”と言いかけた青年ではあったが、アスガルドが深海魚みたいな目付きで睨んで来たので思い留まった。


「折角のお心遣い悼みいるのですが、出来ればお断りさせては戴けないでしょうか。

 今朝方、私は彼女にこの世界の朝食を賜りました。ですがどうにも、私の身体には受け付けない様でして……」


 青年がそう発言した瞬間である。

 突如として、周囲のざわめきは一層濃い物になった。


 不思議に思って見回す青年。

 貴族は皆蒼白になってこちらを見据え、吐き気を堪える様に口元に手を当てたり頭を掻き毟ったりしている。中には信じられないモノを見る目や、完全に異次元の生命体を見る様な視線も混じっていた。あのアスガルドや国王でさえも、脂汗を流しながら、まるでヒ素を食べる細菌を発見した生物学者の様な目でこちらを見ていた。


 やがてヘリアス王は、痙攣したかの様にガチガチと歯を鳴らしながらも、意を決したかの様に一言だけ問うた。



「アルテミアの、料理を……。食べたのか……?」



「……アル。後で話がある」



 明後日の方向を見ながら頬を掻いている少女を見据えつつ、青年はただ一言だけ、抑揚の無い声でそう告げた。



 結局青年は、晩餐の申し出を受ける事にした。

 この世界の“普通の”料理を摂取できるのかどうかを確認したかったし、それに異世界の宮廷料理とやらにも少々興味があったからである。本来、新しい料理の発見は、新しい星の発見よりも人々の幸せに貢献するのだ。


 流石に土埃で汚れた白衣では晩餐会には参列出来なかったらしく、青年は宝石着きのローブの様な衣装を借り受ける事になった。聞くに、それはこの世界の魔導師の正装なのだという。衣服は綺麗に修繕し、夕食が終わる頃には洗った状態で渡してくれるというのだから、使用人はきっと大忙しだろう。


 日本の一般家庭の部屋よりも容積がありそうなシャンデリアが飾られた、豪奢なサロン。その末席に案内された青年が暫く待っていると、やがて見た事も無い程に可憐な少女が隣に座った。

 真紅の髪に良く映える、絹糸で編んだ様な白いドレス。首元に飾られた宝石が、彼女の芸術的なまでに白い肌をさらに艶やかに魅せている。

 たった1日で見慣れたローブとかけ離れたその出で立ちは、一瞬それが誰なのか分からなくなる程に可憐に過ぎた。暫し呼吸を忘れ、何一つ言葉を発せぬままに見入っていた青年だったが、少女の不機嫌そうなセリフを聞いて取り繕う様に何かを言った……と彼は思う。実際何を言ったのか、彼には覚えている余裕などなかった。ただ、昼間にローブが1番似合うと言った事を鮮烈に後悔した事だけは記憶している。

 ……要するに本当に美しい宝石というのは、どの様な装飾を繋いでも、犯罪的なまでに人を惹きつけるのである。


 本当にこの世界の料理が食べられるのか。否、それ以前に今の少女の隣で料理の味など分かるのかと暫し不安になっていた青年ではあったが、偉そうな貴族達が長々と謝辞を述べてくれたお陰で、何とか味を判別するくらいの機能は取り戻す事が出来た。


 料理は非常に美味だった。

 見覚えのあるスープから、見た事も無い程に大きな果物。ローストチキンの様な味がする植物には少々面食らったものの、どれもが本当に、信じ難い程に美味であった。思えば料理で身心共に満たされる体験などという物は、青年にとっていつぶりであっただろうか。


 ……だが正直に言えば、彼の内心は少々複雑であった。

 この料理が美味ければ美味い程、今朝方食べた少女の料理の異次元な刺激が誇張され、彼女の味覚の異常性をまざまざと認識させられるのである。


 陛下曰く、

「ほほほ、まあ仕方ないだろう。何しろ彼女のアレは、調理では無く調合だ。まあ身体には良さそうなんで、月に一度くらいは、大臣共々振舞って貰う事にしておるのだがなぁ」

 ……とのことだ。

 無論。爺さんには一度、国を上げて味覚の存在意義を確かめる様に打診しておいた。これも地球の知識を供給するという、守護魔の仕事の1つだろう、と、青年は何やらいい事をしたつもりになってみたりする。

 何はともあれ、これからも少女の家で過ごすのだと仮定した場合、彼女の料理にはなんらかの対策を取らねばならないだろうと彼は嘆息した。


 食事は厳かながらも粛々と進み、食後に全員で“ポーション”なる嗜好飲料を飲んでいた頃、時計を見た王様は唐突に口を開いた。


「おやおや、しまったのぉ。

 どうやら門限を過ぎてしまったようじゃ」


 どうやら、この城と王都の防壁には門限があるらしかった。まあ、こんな敵国民が跋扈している様な世界であれば、夜に警戒して門を閉めるのは当然であると言えるだろう。そうでなくては、何の為の防壁なのか分かった物では無い。


「仕方ない。

 アルテミア。それからシンヤ殿。

 今夜は城に泊まっていきなさいな」


「国王陛下ぁ!!」


 これに口を挟んだのは、矢張り文部大臣アスガルドであった。晩餐会にも当然の様に出席していた大臣は、矢張り当然の様に国王の隣に陣取っており、当然の様に2人の“異分子”への対応を箴言し始める。


「神聖なる王宮を何と心得ておられるのですか!?

 此奴らの様な凡俗は、野宿でもなんでもさせれば良いのです!!」


「しかしのぉ、今宵は一応、客人として招いておるワケじゃしなぁ。客人に野宿などさせては、まあ王族の名折れじゃろうて」


「その様な事は決して御座いませぬ!!

 此奴らの様な輩は、我らが王宮の様な高貴な場所では十分な休息が取れない生き物なのです!! ええ、野宿の方が心が休まるのですから、そうする事こそが客人に対する正しい対応なのです」


「……いや、別にそんな事は無いッスけど」


 発言した瞬間、アスガルドが強烈な睨みを効かせて来た為に青年は黙った。まるで親の仇を見る様な目だった。成る程。何故かは分からないが、どうやら相当に嫌われたらしいと青年は納得する。

 ……いや、青年には本当に理由が分からなかったのではあるが。


 国が喚んだ“協力者”と、文部大臣の不仲を悟ったのだろうか。ヘリアス王は両者の顔をほうほうと見比べたかと思うと、徐に大臣の顔を見つめ、思い付きの様に口を開いた。


「そうさなぁ、アスガルドよ。

 折角じゃし、お前さんが彼らに部屋を選んでやってくれんかの?」


「「「は?」」」


 三者の声が、重なった。


「お前さんは生粋の貴族じゃからな。

 王宮を知り尽くしたお前さんなら、まあいい部屋を見繕ろえるじゃろうて。不仲ではお互いに居心地も悪かろう。城の案内でもしながら、彼らと打ち解けるがいい」


「な……こ……お……」


 アスガルドは、暫し大口を開けながら青年の顔と国王の顔を交互に見ていた。無論、国王を見る時には赦しを請う仔犬の様な目をし、青年を見る時にはゴキブリを見る害虫駆除業者の様な目をしながら、である。

 しかしやがて、国王の表情から、どうやら今の発言に撤回は無いらしいという事実に気が付いた様だ。アスガルドは引き攣った顔で、血走った眼で、充血した歯茎を見せながら、額にビキビキと青筋を立て--。


「……コチラへドウゾ。ゴキャクジン」


「「…………」」


 笑顔(・・)で、そう告げた。



 -----



「……やけに待遇がいいな、あの王様」


 燭台の灯りが照らす、赤絨毯に覆われた城の回廊。

 無言で殺気を放ちながら先行するアスガルドの後ろに3歩下がってついて行きながら、朝日 真也は独り呟いた。


 この世界に来てこの方、次々と襲う待遇の悪化に苦しめられ続けて来た彼である。初めは自分を優遇してくれる王様に好感度を上げるだけであったが、流石にここに来て少々不気味になってきた様であった。否。あの老人の性根を考えるに、こんな丁重なもてなしがある筈が無い。きっと持ち上げてから崖に蹴り落とし、転がっていく音を肴に酒でも飲むつもに違いない、と。青年は、半ば確信めいた予感でそう感じていた。もしも、いや万が一それ以外の理由が考えられるとしたら、きっとそれは――。


「オレ達、なんか物凄く良い事でもしたのか?」


 なるべく前向きな解釈に努めつつ、青年は少女の方へ問いを発した。


「うん。多分ね」


 否定されると思っていたのだが、少女の返答は思いの外前向きな物であった。その何かを確信する様な表情に、謁見の間でのヘリアス王の発言と、その時に少女の言った“埋蔵金”という単語が何となく頭を過ったりする。気になったので、青年は少女に先を促した。


「あたしもさっき知ったんだけどさ。

 なんか壊れた塔の下から、物凄い額のお金が出てきたんだって。一応王宮で回収する事になったみたいだけど、なんかソレを巡って、街中の人々は大騒ぎだって話よ?」


「さっき?

 さっきっていつ……ああ、そうか」


 疑問を持ったところで、青年は少女が遠隔感知の魔術を扱える事を思い出して納得した。そういえば晩餐会前に大臣達のスピーチを聞きながら、何か集中する様な仕草を見せていた気がしたが、おそらくはその時にでも街に探りを入れていたのだろう。

 その身をドレスに包もうと、少女の本質はやはり“魔導師”だという事だろうか。国一番の魔導師であるという彼女の手腕に、青年は改めて感心した。

 少女は頭を抱えながら更に続ける。


「……前から噂はあったのよ。

 時計塔のどこかには、一部の貴族達が横領した税金を溜め込んでる隠し金庫があるって」


「……まあ、言われてみればいかにも、って感じの建物だったよな」


 青年は、既に存在しない建物の内部に思いを馳せた。矢鱈と上下が入り組んだ階段に、迷宮の様な各階層。極めつけには、内部をジャングルの様に覆い尽くす本棚の群れときている。階段の汚れ方を見る限りでは利用者も少ない様ではあったし、確かに良からぬ物を隠すには最適の場所であっただろう。


「何度か視察団が入った事もあるんだけど、結局何も見つからなかったらしいから、あたしも都市伝説の類いだと思ってたんだけど……。実際にあったって事は、きっと相当に手の込んだ隠し部屋でも作ってたんでしょうね。まあ流石に塔そのものが壊れたんじゃ、伝説の宝箱も一堪りも無かったみたいだけど……。

 ……なんでも今回の晩餐会は、全部そのお金で賄ったんだって。塔を再建しても余裕があるくらいバカみたいな金額だったから、暫くは国民にばら撒く様な使い方になるみたい。まあ先ずは、今回の事件で被害が大きかった店とか、民家とかから保障するみたいだけど。

 ……全く。一体どれだけの貴族が、何十年かけて溜め込んでたんだって話よね」


「……溜息の出る話だな。

 でもまあ、要するに全うな金じゃないってわけか。

 そんなもんで宴会開くんだから、流石はあの爺さんというか何というか……。

 隠してた連中には気の毒だが、自業自得か」


 などと言いながら実際に大きな溜息を吐いた青年に、少女は賛同するかの様に頷いた。


「そうそう。あんな額のお金を隠す様なのは、どうせブクブク太ったブタみたいなヤツに決まってるのよ。それで誤魔化せるって思ってるんだから、ほんとにバカっていうか頭が悪いっていうか……。

 ま、いい薬になったんじゃない?」


「オレ達の世界じゃ、バカに付ける薬は無いって言うぞ? その連中も、きっと凄い逆恨みでもしてるんだろうな……。もしかして、あの審問会もそいつらが噛んでたんじゃのか?」


「あはは、まっさか~。

 流石にそこまでバカなヤツはいないでしょ。

 人様から盗んだお金が没収されたからって、ソレを見つけた人恨んで審問会?

 今時、子供でもそんなバカな逆ギレの仕方しないって」


「……まあ、それもそうだな。

 相手もいい大人なんだろうし、それが当然だろう。

 オレの考え過ぎか」


「そうそう。そうに決まってるって。

 横領とかする時点で性根が腐ってるクセに、アタマまでそんなバカなんじゃ、流石にもう人間としてマズイでしょ」



「…………」



 少女と青年が好き放題な予想を述べていると、前を歩いていた大臣が急に立ち止まった。ゆっくりと振り向く。2人を真っ正面から睨み付けながら、その唇はショック症状でも起した様に震えている。

 血走った目。切れそうな青筋。引きつった笑顔がピクピクと痙攣し、お面の様に顔に張り付いている。

 アスガルドは――。



「エエ、マッタク、ソノトオリ、デショウナ」



 ……怖かった。



 -----



 少女とは部屋の前で別れた。部屋に案内されたのは青年が先であった為、少女の部屋の場所を彼は知らない。それが女性である彼女への配慮だとするのならば、アスガルドも流石は腐っても貴族様といったところであろうか。


「フゥ……」


 アスガルドの言は正しかったのかもしれない。

 一人で寝るには広すぎるベッド。

 心地良過ぎるが故に逆に居心地が悪くなる様なその布地に、身体を横たえた青年は大きくため息を吐いた。


 衣服の袖で目を覆いながら、緩やかに思考を回してゆく。瞼の裏を巡るのは、昨夜からまるで嵐の如く襲いかかって来た出来事の数々。今まで深く考えている余裕は無かったが、異世界に来て初めて独りで考える時間を得た今、彼の頭は静かに状況を整理し始めていた。取り留めの無い思考が水泡の様に生まれ、次の瞬間には弾ける様に消えていく。


 ――セトル・セトラの義。

 様々な可能性を持つ異世界から“協力者”を呼び寄せ、国の発展に貢献させるという壮大な拉致計画。


 冷静に考えれば、物凄い話ではある。

 昨日まで物理学者として常識的な生活を送っていた自分。おそらくはあの大男や少年にも、自分の様に元の世界での生活はあったのだろう。

 そんな、この世界とは何の関係も無い存在を6人。一方的に拉致した挙句、生命維持装置という保険を盾に、利用するだけでなく時には殺し合わせる。もしも自分が発狂する程に怒り狂ったとしたらそれは当然であり、事実自分にはそうする権利があるのだと、少なくとも彼の感情の表面だけは訴え続けている。


「…………」


 そこまで考えたところで、青年は自らの思考に違和感を感じた。

 確かに、怒りはある。とんでもない事に巻き込まれたな、などという気持ちも、当然の如く持ち合わせてはいる。

 だが、青年にはどうにも、自分が本心からそう思っているようには感じられなかったのだ。


 微睡む様な思考で、暫し思案する。

 幸か不幸か、少し考えると、その理由は拍子抜けする程あっさりと見つかった。


 魔法使いだという少女。

 命を握られているという自分。

 化け物染みた、異世界人達との殺し合い。

 ……何の事は無い。

 要するに、全てがあまりにも突拍子もない事態に過ぎるが故に、全く現実感が湧かないのである。


 まるで、映画でも見ている様な感覚。

 登場人物が危険に晒されれば緊張もするだろうし、危機感も感じるだろう。でもそれは、どこか他人事の様な、余りにも希薄な現実感に過ぎないのだ。


 きっと人間とは、本質的にそういうモノなのだろう。あまりにも現実離れした危機に出くわすと、それが自分自身の事として考えられない。鮮烈過ぎる危機感は、その本来の味を薄めてしまうのだ。例え先刻、実際に命を狙われたとしても、である。


「ふぅ……」


 ため息を吐きながら上体を起こし、宝石が埋め込まれた窓枠から空を覗く。漆黒の天空には、まるで血の様に紅い満月が煌々と輝いていた。その様に、嫌でもここが異世界なのだという事実を認識させられる。

 何となく、自分の頬を叩いてみる。弱すぎたと判断したのか、彼は何度か追加で音を鳴らした。


「……バカか、オレは」


 自嘲気味に呟きながら、彼は軽く頭を降った。

 夢を見ているかの様な感覚。

 余りにも鮮烈で、それゆえに生温い悪夢。

 まるで、それが今の現実であると目を覚ますかの様に――。


「お前は今日、殺されかけたんだぞ?」


 宵の窓とは天然の黒鏡だ。

 窓辺の向こうの世界には、もう1人の自分が写っている。微睡む様なその姿を正面から見据え、彼は警告する様に言い聞かせる。


 ――殺されかけたのだ。


 常識の括りに出来ない、まるで化物の様な連中が、本気で命を狙って来た。剥き出しの殺気。腕を抉る刃の激痛。冷静になって思い出すと、それを現実の物であると認めると、今でも血が凍る様な恐怖を感じる。


 巻き込まれたのだ。化物達の殺し合いに。

 他にも数組、ああいう化物達がこの世界には居て、そいつらは間違いなくこちらの命を狙って来るのである。


 ならば、現実感が無いなどと言ってはいられない。

 夢だなどと思っている暇などありはしない。

 そんな余計な事を考えていたら、この悪夢の様な現実から、二度と目を覚ます事は無い。

 青年にとっての現実とは、既にそういう世界になったのだ。


 考えなくてはならない。

 自分に出来る事を。

 そして、自分にしか出来ない事を。


「……困難は乗り越えられる者にだけ与えられる、か。

 成る程な、オレが喚ばれるワケだ。

 ――いいだろう。やってやる!!」



 左手に輝く魔法円を見つめ、一度強く握り閉めた。

 倒れこむ様にベッドに沈み、重い瞼を閉じる。

 これからのプランをイメージしながら、青年の思考は緩やかに微睡みへと落ちて行った。



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 獰猛なる氷河帝国・氷の国(フィンブルエンプ)。銀の国の北に隣接するこの国は、年間を通して雪と氷河が支配する極寒の帝国として、その名を世界に知られている。

 特に北半球に冬が訪れるこの時期には、地表に育つ作物など有る筈も無く、それどころかそもそも木々や草本といった植物すらも見る事は出来ない。

 ――よって真っさらな雪原には目印となる物など1つも無く、更に局所に見られるクレバスは訪問者を飲み込む天然の罠と化している。

 今やこの帝国は、例え虹の橋(ビフレスト)のシステムなど無かったとしても、一部の特殊な人間以外には十分な陸の孤島になっていると言えるだろう。


 そんな地獄の様な光景を横目に、事前に聞いていた安全地帯を走ること半日以上。氷の国自慢の魔犬(ガルム)を飛ばしに飛ばし、少年は漸く帝都へと帰還する事に成功した。出発から数えて丸二日。この瞬間こそが一睡もせず、ろくな食事も摂らずに行った少年の遠征劇の終わりであった。


 銀世界を照らす太陽は既に高い。

 長い冬の間に降り積もったであろうドカ雪は、帝都に並ぶ急勾配な屋根の住宅群を2階まで埋め、比較的高い建物が乱立している筈の街は、建造物の殆どが1階建ての安屋の様になってしまっている。

 雪掻きに精を出す街人もチラホラ見られたが、大半の人間はそれすらも諦めて家に閉じ籠っているようであった。それはつまり、この程度の雪ではこの国の家は潰れやしないという事なのだろう。


「寒っ!! やっぱハンパね~な、この国!!

 こんなトコに住めるとか、ココの連中って肌腐ってんじゃね~の? いやマジで」


 吹き荒ぶ吹雪(ブリザード)に全身の体毛を逆立てつつ、少年は魔犬で通りを走りながら悪態を吐く。口ではそう言ったものの、実際には今の言葉は、半分以上が冗談であった。

 何しろ少年は、既にこの国の人間の肌を知っている。もしも“あの女”の肌を基準にしていいのなら、という前提付きではあるが、少年にはアレが腐っているモノとは到底思えなかったのだ。

 ……いや仮に、もしもあの旨そうな二の腕とか太腿の肉がこの世界の平均的な腐敗物であるとするのならば、この世界の男どもは毎日屍姦に没頭しているに違いない。勿論少年はこの世界に来てこの方、未だそんなシュールな光景にはお目にかかっていないのだから、少なくとも“あの女”の肌は腐っていないという事なのだろう。

 ……腐ってるのは、身体では無く趣味の方なのだ。


「…………」


 自らをこの世界に喚んだ元凶の姿を思い出して、少年は言い知れない悪寒に身震いした。どうにも少年は、“あの女”が生理的に受け付けなかったのだ。いや、少年が思うに、“あの女”に会えば全ての男はそう感じるに違いない。あんなむしゃぶりつきたくなる様な外面で中身が“アレ”なのだから、ホント世の中間違ってると彼は思う。


「ケッ、なんだってんだよ~。

 あの金髪ネェちゃんは犯し甲斐ありそうだったってのによぉ、何でおれっちは“アレ”なんだっての」


 魔犬の揺れに身を任せながら溜息を吐く。

 ……しかし、まあ。いくら悪態を吐いてみても、“あの女”が少年の召喚主であるという事実は揺るがないのだ。召喚主、つまりは“ご主人様”であるのだから、どんなにイヤでも一緒にいないワケにもいかないのである。

 というか、これ以上帰りが遅くなると本気でナニされるか分かったもんじゃ無いので、少年は理性と本能に逆らって、帝都の中心に聳える宮殿へと急ぐのであった。



 宮殿の外壁へと辿り着く。

 クリスタルの装飾が施された外壁には、バカみたいな大きさの上下開閉式の門が設置されており、その両サイドには2人の衛兵が据えられていた。今は冬場である。周囲の民家の埋まり具合から考えて、地面に相当な厚さの雪が積もっているであろう事を考えると、この門は本当はもっとバカなのだろう。


 少年は銀の国の防壁を見た時にも思ったが、どうやらこの世界の門やら壁やらは、やたらと大巨人が来訪した時の事を想定し過ぎているらしい。

 少年には心底、その辺の理屈が意味不明であったものの、まあデカブツはそれだけで威張り散らせるのが常であるし、これもどうせ、例のイゲンとかタチバとかいうのに関係しているのだろう、くらいに考えていた。


 地獄みたいな寒さの中、鼻水1つ垂らさずに仁王立ちしている兵士達を冷やかしつつ、適当に挨拶でもしながら門を開けて貰う。凍り付いたチェーンが軋みながらも重い鉄板を持ち上げ、少年に宮殿内の意匠を見る事を許す。“あの女”にピッタリの、クリアブルーで統一された色彩であった。

 衛兵に魔犬の処理を頼みながらタイル張りの床へと歩み乗ると、“動かない空気”による熱循環で温められた空気が、凍り付いた少年の骨髄を緩やかに融かしてくれた。


「…………」


 ……いや。温められた空気とは言っても、それはあくまで外気と比べての話である。宮殿内はコートが脱げない程に寒い。その寒さが“あの女”の趣向である事は重々理解している少年ではあるものの、それでもやはり、この国の風土と“あの女”には反感を覚えずにはいられない少年であった。


 一応のところ反感とは説明したが、少年にとってそれは長く抱ける類いの感情では無かった。何故なら少年が自分の思考に浸れたのは、この日はこれが最後になったからである。

 少年は、余分な思考など中断せざるを得なかったのだ。

 ……見覚えのある“女”が、少年の目の前から全力疾走で駆けて来たのだから。


「マ……」


 女は何かを呟いた。

 可愛らしくフリルスカートの裾を掴みながら疾走し、素晴らしい脚力で間合いを詰めて来る。

 やがて女は、その細身な上体を屈めることで両足に溜を作り……。


「マルスきゅ~んっっっ!!」


 ガバッと、女はフライングボディープレスをかますかの如く宙を舞い、マルスと呼ばれた少年に正面から飛び付いた。


「ゴハッ……!!」


 女の体重を受け止める事が出来ずに、派手に吹き飛ぶ赤い少年。衝撃で背負っていた大砲は遠くに飛び、彼は背中を打ち付けながらド派手に床を滑って行く。焼ける様な背中の熱さに奇声を発した少年の身体は、女にボディーボードみたいに乗り回された挙句、閉められた門に頭を打ち付けたところで漸く停止してくれた。


「マルス君だ~。

 ホントにマルス君だぁ。

 うう。モフモフ気持ちいいですよぉ。

 モフモフ癒されますよ~」


 頭を打った少年の視界に、チラチラと星が明滅する。

 しかし女は一向に止まる気配が無く、少年に強く抱き付いたままに頬擦りしたり、頭をナデナデしたりしている。少年が顔を顰めても、女は尚も止まらず、髪の匂いをクンカクンカしたり尻尾の有無を確かめる様に少年の臀部をサワサワしたりしている。


「――ってフォル!! テメッ!!

 良い加減離れねェと犯すぞごらぁ!!」


 ヌイグルミの様な扱いに激怒したのか。

 甲高いながらもドスの効いた声が宮殿のエントランスに響き渡る。瞬間、フォルと呼ばれた女は我に帰ったかの様に目を見開き、“ひゃっ”と小さく呻きながら後方へと飛び退いた。


「きゃぁ~っ!! ご、ごごご、ゴメンなさい!!

 だ、だってモフモフだったんで!! 犬耳がスゴくモフモフだったんで!! ゴメンなさい許して下さい犯さないで下さいゴメンなさいゴメンなさぃ!!」


 女はぺたりと座り込みつつ、両手を顔の前で合わせながら懇願する様にペコペコと謝った。少年は漸く、女とまともに向かい合う機会を得る。


 フォルは、家庭的な雰囲気の女性であった。

 容姿について言及するのであれば、まあ極端な美人というワケでは無いだろう。決してブスとか醜いとかいうワケでは無いのだが、先刻少年が見た姫や少女の現実離れした美貌に比べると、やはり野花と薔薇といった感情を覚える。


 三つ編みにした栗毛が白い三角巾からチョコンと下がり、宮廷仕えのメイド服に良く似合っている。年齢は少年と比べれば上なのだろうが、それでも彼女の小動物の様な目やソバカス、何よりそのおっとりとした雰囲気が保護欲をそそり、たまに年下なのではないかと少年が錯覚する程である。


 フォルはどちらかと聞かれれば、まあ美人の部類に入るだろう。だがそれは、絶世の美女というよりも、差し詰め近所の綺麗なお姉さんという感じの可愛らしさであった。


「ん~……」


 少年、マルスはフォルの全身を観察しながら、先程から小さな引っかかりを覚えている自分に気がついていた。フォルは、大人しい娘である。“あの女”直属の使用人として扱き使われている彼女ではあるが、しかしそれでも、自分から感情を露わにする様な性格では無かった筈なのだ。少なくとも少年は、召喚されてからこの国に居た間で、フォルが我を失って誰かに飛び付くのを見た事は無い。


「なんかあったの?」


 少年は、頭頂部の犬耳をピョコピョコと動かしながら女に問うた。フォルはその耳に心底ご執心であった様に見えたが、少年が何を聞いているのかを理解したらしく、シュンと項垂れた。


「はぃ~……」


 空気の抜けた風船みたいな声。

 フォルは突如として沈んだ面持ちになると、おずおずといった様子で肯定する。

 ……その態度から、少年は事の概要を理解した。

 “あの女”直属の使用人である彼女がこういう反応をする相手は、必然的に1人しかいないからである。


「……メル嬢か」


 “あの女”の名前を呟く少年。

 フォルは、コクコクと頷いていた。


「マルス君があんまり遅いから、“ご主人様”がタイヘンだったんですよぉ? 今も王座で、沢山の男のヒトを集めて、新しい拷問の方法考えたりしてるんです。さっき、これで12個目だって喜んでました。早くマルス君に試したいって笑ってましたぁ」


「……じゃ、そういうことで。

 メル嬢には、おれっちは旅に出たって伝えてくれ」


 サッサと立ち上がり、回れ右して門へと向かうマルス。フォルはそんな彼を抱きとめる様に、後ろから少年の幼い身体にしがみ付いた。


「だ、ダメですよぉ!! 早く行かないと、スゴくタイヘンな事になるんですからぁ!!」


「行くとおれっちがタイヘンな事になるんだろ!?

 ジョーダンじゃねーっての!! メル嬢のワガママに一々付き合ってられっかってんだ!!」


「で、でもぉ」


「でもじゃねーっ!!

 どうせあと半日もすりゃ飽きるんだから、それまでおれっちは絶対ェに逃げ切る!!」


「だ、だからぁ……」


 尚も門に向かおうと暴れるマルス。

 そんな彼を必死で押さえつけながら、フォルはおずおずと先を告げた。


「ご主人様、今ゲームしてるんですよぉ。

 マルス君が出かけてる間に新しい拷問を考えて、戻って来るまでに幾つ作れるかっていう……。

 ご主人様、ゲームの間に考えた拷問は、全部マルス君に試すって言ってましたぁ。

 そ、それに……。

 さ、さっき、ちょっとだけ覗いたんですけど……。試されてるヒト、す、スゴイ声で叫んでて……。こ、これ以上増えたら……、マルス君、し、死んじゃう……!!」


「さあて、ご主人様はどこかな~っ!!

 あっ、王座だっけ!? 王座ってあっちだよね~!?

 早く会いて~なコンチクショウッ!!」


 ガマガエルの様に脂汗を垂れ流しながら、少年は王座へ続く階段を全速力で駆け上り始めた。



 -----



 宮殿の頂上にある王座に着くには、少年の脚をもってしても半刻程の時を要した。途中、擦れ違う臣下達から投げられる哀れみの視線と、何故か時折感じる妬む様な目線を完全に無視しつつ、少年はガラスの階段を駆け上がり、蹴破る様にして最後の扉を開け放った。


 視界に映るは女が1人。

 丁度新作の拷問とやらが終わったばかりなのか、湖上の氷を思わせるクリスタル張りの床にはナニも転がってはいない。部屋に親衛隊すらもいないという事は、おそらく実験台の入れ替えの為に部屋を出ているのだろう。


 ――好都合だ。

 これなら、ここで何が起こっても誰にも分からない。

 少年はそんな解釈をしながら身体に力を込めた。


「帰ったぜメル嬢!!

 おれっち早かっただろ? 頑張っただろ!?

 だからお願いちょいと待てやゴラァアアア!!」


 徹夜とランナーズハイ、及び死の恐怖により少々おかしなテンションになりながら、少年は王座の前まで一気に駆け寄る。そのまま速度を落とさずに広間を駆け抜け、王座に偉そうに踏ん反りかえる女の、艶かしいクリアブルーの長髪に手を伸ばし――、



 女の姿は、手が触れる直前に少年の視界から消失していた。



「…………は?

 どうな――ヒャベバァッ!?」


 突如として消えた“あの女”の姿。

 それが何なのかを理解するより尚早く、少年の後頭部には稲妻の様な衝撃が炸裂していた。一撃で脳を揺らされ、床に這わされる少年。その頭に、非情にも固い靴の感触が乗せられる。


「遅かったなぁ、マルスよ。

 まあ、予の美貌を2日も拝めんかったのだ。

 辛抱堪らず発情する気持ちは分からんでもないが……。

 主人を押し倒すのは、愛玩動物(ペット)の分際にしては過ぎた欲情だとは思わぬか?」


 頭の上から浴びせられる、熱を帯びた様に恍惚とした声。脳震盪にぐるぐると回る視界でそれを聞きながら、少年は強く歯を食いしばった。


「うっせぇええッ!!

 おれっちは、ババアに欲情する程堕ちちゃいねぇっ!!」


 甲高い声を荒げつつ、少年は床を転がって頭に乗っている足を外す。麻痺しきった三半規管が訴える吐き気を無理矢理に抑え付けながら、少年は“あの女”が立っているであろう位置に全力の蹴りをくれてやった。


「――――はぁ!?」


 ――が、またしても居ない。

 蹴りを放つその瞬間まで確かにそこに居た筈の“あの女”は、少年が足を伸ばした瞬間に幻の様に消え失せていた。


「ハビャッ!?」


 そして次瞬、当然の様に背後から走る衝撃。おそらくは“あの女”の蹴りが、全く何の容赦も無く、真後ろから少年の腰部を撃ち抜く。


「グッ!! ベッ……!?」


 蹴りの衝撃を受け止め切れず、まるでヌイグルミの様に床を転がっていく赤い少年。視界に3回、天井の歴史掛かった油絵が映ったところで、少年の身体は何故か自分を蹴り飛ばした筈の“あの女”の脚に止められていた。


「落ち着くがよい、赤犬。

 そう興奮されては、ついついその生意気な口を踏み潰してしまいそうだ」


 脳髄が痺れる程に艶のある声が響いた瞬間、少年の口元には女の靴が乗せられた。少年の反撃が気に障ったのか、体重を込めてグリグリと踏み付ける。徐々に重くなるその感触に、少年は本当に口を潰されかねない程の痛みを覚えた。



「…………」



 暫しの沈黙。

 ピクリともしなくなった少年の態度を、女は果たして服従と取ったのか。余韻が残る程緩やかに、彼女はその脚を退けた。


 マルスは、仰向けになったまま動かない。

 しかしその目線だけは恨めしげに、自らを見下ろす女の姿へと向けられている。やがて女が起き上がる許可を出したのを確認してから、少年は床に胡座をかいて座り込んだ。


「フハハッ!! 良い貌だ!!

 その生意気そうな目!! 虐め甲斐が有り過ぎて、眺めているだけでも脊髄が痺れそうだぞ!!」


 女はそのふくよかな胸を張りながら、高らかに笑い声を上げた。少年はやり場に困る女の肢体から逃れる様に目を伏せつつ、聞こえない程小さく舌打ちをするのだった。



 ――メルクリウス・フィンブルエンプ。

 透き通る様なクリアブルーの長髪に、サファイアを思わせる蒼い瞳。常に嗜虐的な笑みを絶やさない彼女こそが、獰猛なる氷河帝国・氷の国(フィンブルエンプ)を統べる若き女帝である。

 彼女自身の実力もさることながら、特にその極めて希少な先天魔術(ギフト)から“瞬帝”と恐れられる暴君であり……つまりは、少年の召喚主にあたる人物であった。


 容赦について述べるのであれば、とにかくキツい。

 何がキツいかって、男子にはとにかく刺激がキツ過ぎるのである。

 彼女と向かい合った者が男であれば、先ず間違いなくその妖艶な肢体に逆らう事は出来ないだろう。細身で清楚な純白の姫とも、華奢で可憐な真紅の少女とも違う、タップリとした女の身体から香る色気。ふくよかに過ぎるその胸は、相対した者に欲情の欠落があったとしても、否が応にもその視線を誘惑する。


 そんな刺激の強すぎる身体だけでも健康な男子としては堪らないというのに、何を考えているのか、この皇帝陛下は服を着ない(・・・・・)。否、一応のところ衣装と呼べる物は身に付けてはいるが、少年にはソレを服と呼ぶのは憚られた。

 何しろ胸部に当てられた胸当ては、その豊満すぎる胸の頂上付近しか隠しておらず、下に至ってはTバックも真っ青な程の食い込みっぷり。赤い外套のお陰で直線尻を拝まなくて済むのが救いと言えば救いではあったが、彼女の格好は冗談抜きで、並の男であれば近寄られただけで腰砕けになる程の殺人的な色気となって雄を蠱惑していた。


「ほぅ、どうした?

 予の身体に見惚れるのであれば、もっと正面から鑑賞すれば良いだろう。そんな盗み見る様な視線では、いくら眺めても満足など出来なかろうに」


 自信満々な声色。からかう様なメルクリウスのセリフを受けて、少年は漸く、自分が彼女の身体を食い入る様に見ていた事に気が付いた。視線を上げると、嗜虐的に見下ろすブルーの瞳。その事実が。いや、よりにもよって“この女”に魅入っていたという事実が、凶悪なアルコールとなって少年の顔を見る見る紅潮させる。


「うっ、うっせえ変態女っ!!

 テメェはサッサと服着ろよ!!」


「フハハハッ!! 何をバカな事を言っておるのだ!!

 服とは、見苦しい部位を隠す為にあるのだぞ!?

 この予の身体に、恥ずべき所など一片たりともありはせんっ!!」


「こっっちが恥ずいんだよぉっ!!

 ババアの裸見せられるおれっちの身にもなりやがれこの変態っっ!!」


 少年の悪態に表情を歪める氷の女帝。

 しかしそれは、決して怒り故では無い。

 心底楽し気な嗜虐に満ちた流し目は、身体の奥を直に舐め回す様に少年に向けられている。

 女帝は屈み込み、少年の顎をクイッと持ち上げると、赤い瞳を覗き込みながら囁いた。


「……マルスよ。

 敵国民から敗走した割には、随分と余力が残っていると見えるな。いや、良かった。折角の仕置きを加減せねばならぬかと迷っておったが。どうやら、その必要も無さそうだ」


 神経をネットリと溶かす様な、身体を芯から痺れさせる程に甘い声。しかし悦に入ったその声が示す内容を聞いて、少年の背筋はブルリと震えた。


「ま、待てよメル嬢――ってかざけんなババアッ!!

 おれっちが敗走したぁ!?

 あのデカブツは死んだんだからよ~、結局はおれっちの勝ちだろ!?」


「ほぅ、マルスよ。

 予に向かって虚言を吐くとは、少し見ぬ内に随分と肝が据わったものだな。いや、折角の愛玩動物だ。そうで無くては詰まらんが」


 ニタリと、口の端を上げた意地の悪い笑みを浮かべながら、メルクリウスは少年を削る様に言葉を繋げた。


「予を誰と心得るか。

 隣国で起きた出来事の顛末など、この座に座りながらでも把握できるわ。

 貴様がノコノコ逃げ帰った後、あの男は瓦礫の山から這い出たぞ? それも、殆ど無傷と来たものだ。これでも尚、貴様は敗走などしておらぬと申すのか?」


「はぁ!? んだそりゃ!?

 あいつどんな身体してやがんだよ!?

 ……ん? 顛末を知ってる?」


 驚きに目を瞠っていた少年は、女のその一言に凄まじい悪寒を覚えた。時計塔の崩壊と、その顛末。そして彼女は、少年が去った後の事まで把握しているという。と、いう事は、つまり、時計塔が壊れた後の“あの事”も知ってるってわけで……。



「…………」



 ――少年は、呼吸の仕方を忘れた。



「マルスよ。この予の寵愛を受けておきながら、まさか武の国の棒人間に尻尾を振るとはなぁ。フハハハハッ!! なかなかに面白い口上を述べてくれたものだ!! あまりの愛しさ故に、その泣きっ面を想像しただけで芯が疼いた程だぞ?」


「ちょっ!! まっ!! あ、あれはほら、アレだから!!

 こう、その――ってせめて言い訳だけでもさせてお願いだからぁあああ!!」


 蕩ける様な顔でニッと笑う妖艶な美女。

 その全ての雄を骨抜きにする程に凶悪な表情を見た瞬間、マルスの見る景色は凄まじい勢いで流れ始めた。

 ムカつく兄貴。フロッド族との抗争。武器売買に大爆発。あー、ろくな人生じゃなかったなー、なんて目の前を走る光景を眺めながら、少年は自分の人生を他人事の様に理解する。


(……ってまてええっ!!

 え!? 走馬灯!? コレって走馬灯ってやつ!?

 え!? 死ぬの!? ヤッパおれっち死ぬの!?)


 少年の困惑を無視しつつ、景色は更に疾走してゆく。

 突然の召喚。目の前にあった凶悪な肢体。楽しませろとか足を舐めろとかいう滅茶苦茶な命令。叫び声を上げる自分を見て、心底楽しそうに高笑いする美女。

 ……とことん酷い女である。

 最後に視界には、とある大男の姿が映った。

 先刻少年と死闘を演じた、青い甲冑の武の国の守護魔――。


『俺は主には逆らわねぇ』


 その声が脳内に響いた瞬間、少年の腹部に手が触れた。迷彩服の破れ目から女の体温が直に伝わり、その驚く程の熱さに、心の一番大事な部分が溶かされていく様な錯覚を覚える。高い高いされる子供の様に、女の眼前へと掲げられる少年。目の前には笑み。心の底から虐待を愉しむ、人間としてあってはならない暴君スマイル。


『主がそうしろって言うんなら、いつだってそれが俺の意思だ!!』


 ……そして、リフレインする大男の言葉。


「認めねぇぇえええっ!!

 あんなデカブツ、おれっちはぜってェ認めねぇからなっっっ!!」


 叫んでみても虚しいだけだった。

 皇帝は少年を小脇に抱え直すと、少年の為に新調した拷問部屋へと歩いて行く。どうやら生意気な少年が虐められる姿というのは、この皇帝様の嗜好にピッタリと嵌ったらしい。


「さてと、どれから試そうか。

 流石に35通りも思い付いては、些か判断に迷うものだな」


「さ、3じゅ……!?

 ――って待てやメル嬢!!

 ふぉ、フォルは!! フォルはさっき12個って!!」


「ん? ああ、あの後急に頭が冴え渡ってな。

 20もの方法が次々に閃いたのだ。

 いや、真に素晴らしき時間であった。

 貴様を見ている内に3つ程思い付いたし、全部で35通りで合っておるぞ?」


「そ、そうだ!! こんな事してる場合じゃねーだろ!?

 敵国!! あのデカブツが生きてんなら、サッサと攻め込んでやらねえと!! やられっ放しは性に合わ――」


「ハハハッ!! 何をバカな!!

 虹の橋(ビフレスト)がある限り、どうせ当分、貴様は連中とは争えん!! つまり時間はタップリあるという事だ!! ……おっ、そうだな。虹の橋に因んで、先ずは“橋渡し”から試すとするか。

 クククッ!! 良い声で鳴けよ?」


「いやいや因んでっていうかマジヤメテイヤアアアア!!」


 ……この日の王宮には、夜まで少年の悲鳴が絶えなかったという。

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