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朝日真也の魔導科学入門  作者: Dr.Cut
第一章:イクリプス-1『守護魔召喚』
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2. 魔法使い アルテミア・クラリスの序論

 雷が雲ごと落っこちて来た。

 部屋が閃光に包まれたその瞬間、少女が感じたのは正にそんな感覚だった。

 

 とにかく最悪な日の夜だったのだ。

 彼女はその日、とにかく一日中酷い目に合い続けて、息をするのも億劫なくらいに疲れて、何もかもがどうしようもないくらいに嫌になって、だから自棄っぱちになって“ソレ”をした。

 そんな正気じゃない事をしないと、彼女は正気を保てなかったのだ。

 

 そう。それはただの八つ当たりだった。

 少女はただ癇癪を起こして、ただただ自棄っぱちになって魔法円を書き殴って、思いっ切り魔力をぶち撒けただけ。

 

 

 それがこんな結果になるだなんて、一体誰が想像しただろう……。

 

 

 本当に雷に撃たれたのかもしれない。

 神経に流された電流に脳は溶かされて、意識は一瞬で真っ白になった。

 劈く様な爆音は聴覚を麻痺させて、五感なんて物はあった事すらも忘れさせられた。

 身体中の神経を引き千切られたかの様な負荷。

 それは世界の理を捻じ曲げた事への代償だったのか。

 或いは世界の理を冒涜した事に対する懲罰だったのか――。

 

 許容量を超えた刺激に沸騰した彼女の頭では、それを理解する事は出来なかった。

 いや、その時の彼女にはそんな事を考えている余裕なんか無かったのだ。

 限界を超えた疲労で混濁する意識と、それを遥かに上回る程の、確かな期待。

 少女はストロボみたいに明滅する視界で、ただその光景に目を奪われていた。

 

 

 ――星屑が流れている。

 

 

 月明かりに照らされた巨大な魔法円から次々と溢れ出す、粉末化した純金の様な黄金の微粒子。

 世界の外から吹き抜ける気流に流されながら、ソレらはまるで生き物の様にうねり、踊り、部屋を覆うベールとなって拡散してゆく。

 幻の様に虚空に溶けゆく、黄金色のカーテン。

 それはこの世界の理に適応出来なかった異界の物質が、砂粒よりも遥かに小さな最小単位にまで分解されて飛び散る最期の姿だった。

 

 ――目前に吹き抜ける異界の風。

 

 世界が終わったと聞かされても納得してしまいそうなその光景は、少女の全身を苛む激痛を、否、彼女に自身の生存すらも忘れさせてしまう程に壮観だった。

 

 

 烈風が頬を掠めた。

 原初の煉獄を彷彿とさせる程に熱い、灼熱の息吹。

 火龍にでも噛み付かれたかの様なその熱は、同時に生存の安堵も感じさせてくれる。

 痛感が生きている事の証明になるなんて、彼女はこの瞬間まで忘れていた。

 

 だが。その絶景も決して長くは続かない。

 永遠とも思える程の刹那の後、広大な私室は深夜の静寂を取り戻し始める。

 突風に吹き飛ばされた無数の本が、雹みたいに視界を落ちていた。

 

 少女の視線は、更に向こうに。

 未だに燻る、灰白色の靄の奥へと向けられている。

 先ほどまで何も無かった筈の、黄金の波源。

 真紅の月光に照らされた魔法円の中心に、少女は今、確かにその人影を認めていた。

 

 

「今晩は、異界の住人さん。

 あたしは召喚主(サモナー)のアルテミア・クラリス。

 早速だけど、貴方の事を教えてくれない?」

 

 

 溢れんばかりの万感を込めて、少女は彼に声を掛けた。

 魔術を覚えたその日以来、ずっと待ち続けたその機会。

 憧れ続けたその奇跡に、無垢な胸を踊らせながら――。

 

 ――繰り返す。

 それは、本当に最悪な日の夜の事であった……。

 

 

 ―――――

 

 

 ――――前日。

 

 自宅の扉を蹴破った少女を出迎えたのは、この10年ですっかり嗅ぎなれた芳香だった。

 

 手紙でも(したた)めていたのか。

 少々埃っぽく、薄暗いその部屋は、燻る様なインクの香りに満たされている。

 尤も、その理由が手紙なんかでは無い事は明白だろう。

 少女が帰省したこの部屋は、手紙を(したた)めた程度で匂いが籠るにはあまりにも広すぎる。

 

 10メートルはあるだろうか。

 アーチ状に歪曲した天蓋は人の手など及ばぬ程の高さにあり、全面に繊細な技巧を尽くされたステンドグラスを嵌められている。

 入口から見て向かいにある壁はあまりにも遠く、深夜の薄暗のせいもあってか果てを確認する事すらも難しい。

 ここまでくると、最早部屋というカテゴリーに収めるのが適切かどうかすらも判断しかねる程である。

 

 ――人間が生活するにはあまりにも広い空間。

 ならばそれだけの領域にインクの匂いが籠っているという事実は大層奇妙なものだろう。

 拡散するのが道理である匂いという物は、本来ならばこれほど広大な空間を満たし得ないからである。

 それこそ規格外の濃度か、或いは想定外の数の発生原でも存在しない限りは――。

 

 結論から言えば、この場における真理は後者であった。

 まるで巨人用に作られたかの様な、果てしない広間。

 しかしその空間は、夥しい数の本に埋め尽くされている。

 辛うじて人が通れる程度の隙間を開けて、所狭しと鎮座する高層建築の様な本棚達。

 棚に並び切れなかった溢れものは無造作に床に山積みにされ、採光窓から差し込む真紅の月光に、ただただ寂しげに照らされていた。

 

 ――図書館。

 初めてこの部屋に訪れた者は、十人中十人がそう形容するだろう。

 本来ならば訪問者に解放感を感じさせるであろうその大部屋は、しかし内包する物量の圧迫感からか、どこか閉鎖的な雰囲気を湛えていた。

 

 少女はビルの合間を縫う様にして歩みを進める。

 掃除の手など行き届く筈も無く、埃を被ったままになっている本棚達に、分厚いローブの裾が触れない様に気を払いながら――。

 つばの広いトンガリ帽子が恨めしいが、ヒョイと首を曲げながら本棚の隙間を通るのは、少女にとっては慣れた日常動作であった。

 全身を黒装束に包んだ、お伽話から抜け出したかの様な風貌の少女は、本棚の密林を迷うことなく闊歩してゆく。

 

 

 本の森を散策する様に歩んだ少女は、やがて少しだけ開けた一画で足を止めた。

 まるで本棚が自ら避けたかの様にして設けられたその円形の領域には、この図書館には似合わない寝具や調理器具などの日用雑貨がポツポツと点在し、周囲に比べると僅かに生活感が感じられる。

 申し訳程度に掃除がされた形跡があるところを見ると、どうやらここが彼女の主な居住領域らしい。

 

 少女は紅い唇をキュッと結びながら、領域の中央に設置されたベッドの前にまで歩みを進めた。無駄に嵩張るトンガリ帽子を(おもむろ)に掴み、ポンと床に投げ捨てる。月と同色の真紅のショートヘアが、採光窓から射し込む月光の中にフワリと舞った。

 

 歳の頃は十代前半といったところか。

 少女の肌は黒尽くめなファッションに対比するかの様に白く、勝気な印象を受ける双眸の中心で煌めく瞳は、透き通る様な翠色をしている。

 

 だが。

 少女の翡翠の瞳は、何故かこの夜に限っては何かを堪えているかの様な潤みを含んでいた。

 それが少女生来の可憐さにある種の儚さを加味させ、見る者がいれば目を奪われずにはいられない程の、美しさとも可愛らしさともつかない魅力となって醸し出されている。

 

 ――尤も。幸か不幸か、この屋敷には彼女の姿を見咎める見物人など住んではいない。

 それを当然の事と知っている少女は、誰に遠慮する事も無く暑苦しいローブを床へと脱ぎ散らかした。

 キャミソール1枚の姿になり、勢いよくベッドへとダイブする。

 ぼふっ、という柔らかそうな音と共に、月明かりの中で埃が躍る。

 靴を脱ぐのも億劫だったのか。

 少女が行儀悪く二つの足をブンブンと振ると、黒革のブーツがボトリと床に転がった。

 

 枕へと顔を埋める少女。

 キャミソールの内側に覗くその背中は、何故か小刻みに震えていた。

 

「なによ……。

 なんなのよ、もうっ!!」

 

 ヒステリックな声が広大な図書館の中で反響した。

 駄々っ子の様に布団を叩く少女の手足。

 埃は宙へと舞って行く。

 

 

 ――さて。

 事態が把握出来ないという感想を抱かれている方、挙手をして頂きたい。

 正しい反応であると確信を持って断言しよう。

 

 そろそろ状況を説明する必要性をひしひしと感じる頃合いである為、冒頭より本章の描写に中心的に現れているこの少女の素性を、この辺りで簡潔に述べておこうと思う。

 

 少女、アルテミア・クラリスは才能に満ち溢れた魔法使いであった。

 

 僅か8歳にして抗魔術結界を修得し、10歳にして魔導師の称号を与えられた彼女は、15歳の今となっては、“銀の国”では並ぶ者の居ない大魔導としてその名を知られている。

 

 彼女はそんな自身の才能に少なからず自信を持っていたし、それが過信で無い事も理解していた。

 いや、才能という言葉だけでは足りまい。

 何しろ少女にとって魔術とは、わざわざ学ぶべくも無い、幼少の頃から慣れ親しんだ日常生活の一部だったのだから――。

 

 魔術大国である銀の国(このくに)では、貴族や王族、富裕層の平民達は皆一度は魔導研究所で修練をし、学問としての魔術の素養を植え付けられる。

 それは教育水準的に大変素晴らしい事であるとお偉いさん貴族達は御高説なさるのだが、それでも魔術を学ぶ学生達は、誰でも一度は疑問に思うのだ。

 

 ――これ、将来何の役に立つのだろう、と。

 

 当然である。何しろ魔導師として研究所に就職するのでも無い限り、魔導の知識なんて物は普通は一生使い道が無い。敵国や魔獣と戦うのは専門の兵士や魔導師に任せればいいし、そもそも研究所で学ぶ様な高度な魔術なんか使えなくても、日常生活には何ら支障が無いからだ。

 よって地道に修練をしたり、バカみたいな量の知識を詰め込んだりしても、実生活にはあまり役に立たなかったりする。

 一般論として、小難しいだけの魔導を学ぶのは苦痛なのである。

 

 しかしそれはあくまで一般論であって、必ずしも少女に適応出来る物では無かった。

 何しろ歳を片手で表せる頃から、寒ければ布団を被るよりも火炎魔法で部屋を温め、運べない程の荷物には自分で動いてもらえと師匠に叩き込まれた彼女である。

 少女にとって魔術とは、身体機能の一部。

 それを行使する事は、二つの瞳が天空の星々を見せてくれる様に、或いは呼気が爽やかな大気を身体の中に運んでくれる様に酷く当たり前の事だったのだ。

 

 故に少女にとって、魔術とは自らの腕の延長と同義であり、それを呼吸するが如く行使出来る事は何物にも勝る誇りだった。

 そして、だからこそ、先刻少女が引き起こした“事件”はまるで想定などしていなかった事故の様な出来事であり、彼女自身のプライドを傷付けて余りある物だったのである。

 

 そう、話は数時間程前に遡る。

 少女は国の威信を掛けた“ある儀式”を行う為に、人里離れた僻地へとその足を運んでいた。

 百年に一度行われる、ソレを知る魔導師ならば誰もが憧れるその奇跡を担う為に――。

 

 

 ―――――

 

 

 僻地の名称は、一等級霊地・ウルズの泉。

 七色の聖水を湛えたその神秘の泉は、事実神話をそのまま実体化したかの様な神々しさを纏って彼女を出迎えた。

 

 泉から朝靄の様に湧き出る朧げな燐光は、濃密な魔力(マナ)特有の煌きである。

 橙赤(オレンジ)色が所々桃色に変化するその霞は、嘗ては精霊の鱗粉であるとも信じられていたという。普段から見慣れている筈のその現象は、しかし研究所とは段違いの神々しさによって少女から言葉を奪い去った。

 木漏れ日の向こうから聴こえる、心地の良い小鳥の囀り。

 気分を落ち着かせる為に深呼吸をすると、爽やかな冬の薫りが肺全体に染み渡っていくのが分かる。

 

 ――始まりには最高の場所。

 

 聖地の幻想的な景観に酔いながら、少女は自身の気持ちが加速度的に高揚していくのを感じていた。

 

 少女は泉の畔に描いた魔法円の前に歩みを進めると、呼吸を整えながら眼を閉じた。

 右腕を高く掲げ、深く深く集中する。

 掲げられた手の甲には、少女の先天魔術(ギフト)を示す白銀の魔法円が誇らしげに輝いていた。

 

命ず(ansur)

 

 気を抜くと際限無く高鳴ろうとする心臓を無理やりに落ち着かせながら、少女は詠唱を開始した。

 神秘を担う語句を紡ぎ、意識を自己へと埋没させていく。

 読み書きを正確に習得する以前から、何千、何万と無く繰り返して来た工程である。

 今となっては、少女は無意識にでも行える。

 

 少女は腕に魔力を通わせた。

 全身を電流の如く駆け巡る巨大なパルス。

 神経が火傷する様なその熱さは、未だ嘗て経験した事が無い程の魔力の猛りだ。

 不可能は無いと確信した。

 奇跡を起こすには余りある。

 

 少女の胸は高揚した。

 底の見えない、大海の様な力の塊が、彼女の意識すらも攫わんと体内で暴れ狂う。

 破裂しそうになる身体を押さえつけるべく、呼吸を落ち着かせ、少女は更に意識を埋没させる。

 自己の限界など、忘却の彼方へと消し去る為に。

 

 詠唱は歌うように。

 自らの精神を魔力へと融解させ、大気へと飽和させ、言霊を用いて精霊へと語りかける。

 神秘への憧憬を廃棄し、高位の力への畏怖を破却し、意識を無意識へと落とし込む。

 

 今はただ、身体機能の全てはこの奇跡を成すが為だけに――。

 

「――――っ!!」

 

 少女が一際深く集中した瞬間、泉は強烈な閃光へと包まれた。

 

 

 ―――――

 

 

 それが先刻起きた事件の発端である。

 手応えはあった。失敗も、無かった。

 彼女はそう確信している。

 

 そう。やはり儀式自体は完璧だった筈なのだ。

 どう考えてもあんな、七色の泉が干上がって水溜りにランクダウンする様な大爆発など起こる筈が無かったのである。

 

 納得がいかない。

 認めたくない。

 

「…………」

 

 いや、まあ。認めたくは無い、が、客観的かつ丁寧に述べるのならば、儀式は成功したと断言するのは憚られるというか難しく、いや、どちらかと言えば、控え目に表現しても良くは無かったと言えなくも無くもあるような無いような……。

 

 

 ……簡潔に述べよう。

 結果は目を覆いたくなる様な大災害であった。

 

 原因は少女には不明であったものの、結果として“銀の国”では三指に入るとまで言われた美しい泉は消滅し、大爆発の余波によって薙ぎ倒された木々は冬季の乾燥によって激しく炎上。衝撃波を浴びた小鳥は断末魔の悲鳴を上げながらボトボト落ちるわ、興奮した魔獣達が近隣の民家を襲い出すわで、あっという間に阿鼻叫喚の地獄絵図が出来上がってしまったのである。

 

 事態を聞きつけてやって来た、

 文部大臣・アスガルドの脂ぎった顔が頭を過る。

 

 人間が怒りで血を噴ける生き物だったとは、少女は今日初めて知った。

 どの様な魔術なのか非常に興味があると、ついつい感心して呟いてしまった程である。

 ……どうやら大臣にはそれが聞こえたらしく、そこから延々と説教が始まり、“貴様、絶対処分してやるからな!!”と怒鳴りつけた嫌味な口調は今でも少女の頭の中でリフレインしている。

 枕を布団に叩きつけて、それをなんとか吐き出そうと努力する。

 

 次々と湧いてくる、怒りとも情けなさともつかない気持ち。

 まるで濁ったコールタールが、脳にこびり付いて飽和していくみたいだった。

 

「なんでよ!? バカ~~っ!!」

 

 暴れても事態は好転しない事くらい、少女だって弁えている。

 しかし今だけは、どうにかこのモヤモヤした気持ちを鎮める為に、寝具達にはもう少しだけ埃を吐き出して貰おうと彼女は心に決めるのであった。

 

 

 ―――――

 

 

「はぁ……!! ふぅ……」

 

 暫く尺取虫の様に布団を転げ回っていた少女は、やがてパタリとその動きを止めた。

 まるで糸の切れた人形である。

 華奢な肩は激しく上下し、柔らかそうな紅い唇からは淡雪の様な吐息が漏れていく。

 酸素不足を訴える肺を黙らせる為に、少女は何度も何度も呼吸を繰り返した。

 

 乱れて捲れたキャミソールの下に覗く、白い背中。

 桜色に紅潮した肌には、ジットリと汗が滲んでいる。

 

「…………」

 

 むくり、と身体を起こす少女。

 胡座をかく様な姿勢でベッドに座り込むと、火照った身体を冷ますかの様に、一度大きく息を吐いた。

 

「……何してんだろ、あたし」

 

 先程までの醜態を気恥ずかしく思ったのか、少女は頬を染めながらそう零した。

 チョコチョコと桜色の頬を掻いてから、バツが悪そうに頭を抱える。

 散々暴れ回った事で、先程までのモヤモヤした気持ちは幾分楽になってはくれたものの、今はどうしようも無い虚しさだけが茹だった頭を占めていた。

 

「仕事……、しないと。

 原因くらい調べとかなきゃ、文部大臣(あいつ)に何言われるか分かんないし……。

 ソレって、面倒いし……」

 

 軽く目頭を抑えながらそう零した少女は、二、三度息を整えるとその右腕を頭上へと掲げた。

 目を閉じて自己の内面に意識を向ける。

 体内の集積器官から引き出された魔力が霊道を駆け抜け、右腕の周囲では僅かに空気の屈折率が変わった。

 

舞え(wynn) 踊れ(wynn)在るべき場所に(eihwaz)

 

 神秘を担う語句を紡ぐ。

 歌う様に口ずさまれたその言葉だけで、ベッドの下に脱ぎ捨てられた帽子とローブはまるで透明人形にでも羽織られたかの様に空中へと浮かび上がった。

 静かに風がそよいだかと思うと、ソレらは踊るように空中を舞ってゆく。

 

 果たして何所に飛んで行ったのか。

 漆黒の装束は闇に溶けたかの様に見えなくなった。

 

翼を与える(gyfu rad)

 蒼天を駆けよ(gyfu eoh)

 

 続いて少女が詠唱を行うと、部屋の奥の方からは無数の羽音が響いて来た。

 複数の影がバサバサと羽ばたきながら、少女の方へと飛んで来る。

 

 本棚の隙間を縫うように飛行するその影は、少女が本の山から検索して呼び寄せた魔導書であった。

 いかにも重そうな専門書の数々が、まるでワタリガラスの様に、表紙を翼代りにして羽ばたいている。

 常人ならば驚きに目を見張るであろうその光景を、少女は特に何の感慨も無く横目で確認していた。

 

 やがて本の鳥達は、掲げられた腕の上空を悠々と旋回したかと思うと、一冊づつ行儀よく少女の手元へと収まった。

 飛んでいたとはいえ、本は本である。

 片手で掴めない程分厚い専門書の重さに、一瞬だけバランスを崩しそうになった少女ではあったが、なんとかソレらを受け止めてベッドの上に放り出した。

 

 “一級以上の霊地に於ける魔力(マナ)の流動とその利用”

 “守護魔(ガーディアン)と原初世界の法則に関する発展的因果歪曲定理”

 “魔人召喚時に於ける単体対象の永続的な抗魔術結界”

 

 少女の手元に収まった魔導書の数々は、どれ一つをとっても並の魔術師では毛程も理解出来ない程の難物である。

 しかしソレらに付着した傷や汚れの数々が、彼女がこれらをしっかりと活用しているという事実を示唆していた。

 少女はそれらを慣れた様子で用途別に並べ替えながら、適当に片付ける順番を決めていき、

 

「あれ?」

 

 ――一冊。

 見慣れない本が混ざっていた事を確認して素っ頓狂な声を上げた。

 

 “ソレ”は、見事なまでのパステルカラーをしていた。

 可愛らしさなど欠片も無い、分厚い革表紙の専門書達の中にあって、余りにも場違いに過ぎるツヤツヤの表紙。

 普段少女が読み慣れている活字よりも3倍強は大きな簡易文字で綴られ、極めつけにはあちこちに陳腐なイラストが散りばめられた“ソレ”は――、

 

「うわ……。

 やっちゃった……」

 

 タイトルをまじまじと確認した所で、少女は頭を抱えて呟いた。

 ……赤っ恥と言う他無い。

 少女が取り違えたその本は、どこでどう間違えたのか、子供が寝る前に母親に読んで貰うような児童書だったのである。

 

 おそらくまだ精神に乱れがあったのだろう、などと少女は解釈してみる。

 なにせ、基本的に魔術の成功率とは、術者の想像力や精神状態に大きく左右されるものなのである。

 ……いや、まあ。少女の立場を考慮すれば言い訳にもならないのだが。

 こんな初歩の飛行魔術まで失敗したなんて、大臣には疎か教え子達にも言えないな~、などと、あまりの情けなさに少女は苦笑した。

 ……でも、なんとなく開いてみたりする。

 

「なになに。

 遠い遠いどこかの国では……」

 

 少女はわざとその本を手に取ったかの様に振る舞って、自身の失敗を無かった事にしたかったのかもしれない。

 或いは彼女は、御伽噺を読んでくれる様な母親には縁が無かったからなのかもしれない。

 理由は彼女自身にもよく分からなかったのだが――。

 気が付くと少女は、無意識の内にその本の文章をつらつらと目で追っていた。

 

 

 それは、どこか遠い世界のお話。

 

 

 その世界の住人は、鋼鉄の翼で空を飛び、馬に倍する速度で大地を駆け抜け、天空の月にすらもその足跡を残すという。

 少女もどこかで聞いた事のある、遠い遠い御伽噺――。

 

「バカみたい」

 

 イラストだらけで殆ど文字の無いその本を流し読み、閉じた瞬間に懐いた感想がそれであった。

 

 

 少女は魔導を知っている。

 

 

 飛行魔術の媒体に鉄なんかを使うのは魔力の無駄使い以外の何物でも無いし、馬の倍の速さなんていうのは“氷の国”の魔犬(ガルム)が全力を出しても難しい速度だという事実を、少女は常識として理解している。

 その本の信憑性の無さなど、彼女は痛い程によく痛感している。

 

 空想を楽しむのは自由だろう。

 しかしそれは、魔導師である彼女が認めていい物では無いのである。

 

「……でも、もし。

 もしも、これが本当だったら……」

 

 馬鹿な妄言を吐き掛けた所で、少女は頭を振って下らない妄想を振り払った。

 

 貴重な睡眠時間を無駄に浪費した事に軽い頭痛を覚えた少女は、その妙に薄っぺらい戯言本を床へと投げ捨てると、もう一度だけ風魔法の呪文を詠唱した。

 本は再び鳥の様に月灯りの下を飛び廻り、部屋の最果てへと消えて行く。

 その様子を確認するまでも無く、少女は一番近くに置いた専門書へと手を掛けた。

 

「あーっ!! もう、時間無駄にした!!

 早くしないと今晩寝られないじゃない!!」

 

 儀式の手順を本の内容と照らし合わせながら、少女の嘆きは月灯りの中へと溶けていったのだった――。


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