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朝日真也の魔導科学入門  作者: Dr.Cut
第一章:イクリプス-2『最初の敵』
19/91

19. 質量保存の法則の成立を確認する為に行ったとある物理学者の少々強引な古典的インプロージョンを再現した魔力放出実験

 勝負を決める斬撃。

 生死を別つ銃撃。

 必滅の意思と共に放たれようとした両者の攻撃は、不意打ちの様に視界を覆った星屑によって停止した。


 二人の魔人が目を見開く。

 困惑と動揺を内包し、思考を奪われた両者の視線。

 互いに戦闘の意思は緩めぬままに、彼らは自らの周囲に目をやった。



 ――部屋が、光っている。



 まるで妖精の鱗粉を散りばめたかの様な、世界を覆うオレンジ色のエフェクト。それは部屋中に描かれた魔法円から放たれた物だった。その源、目算23個。その全てが淡い燐光を吹き出し、二人の魔人を足元から包み込んでいる。


「…………!!」


 瞬間、男は理解した。

 これは何らかの魔術の行使。純白の姫が扱う魔術を幾度も見てきた彼は、その燐光が魔術の発現に特有の現象であると理解していた。


「…………!?」


 瞬間、少年は把握した。

 この世界に特有の力、魔術。しかしそれはこの世界の理でしか無く、他の世界の理に従う守護魔(じぶん)には効かない。ならば無視しても構わない筈だ。無視して男を焼き殺すのが最善の行動の筈だ。

 ――少なくともこんな、吐き気がする程の悪寒を感じる理由など無い筈だ。


 彼らは了解し、それ故に当惑する。


 そして二人はその姿を見た。

 自分達に向けられる視線。

 白装束の青年が手元にオレンジ色の羽根を構え、涼やかな微笑を浮かべているその姿を――。



解放(jara)



 条文を読む様な透明感。

 しかし淡々としながらも良く通るその声が波紋した瞬間、世界はその在り方を根本から変えていた。


「な……」


 男が驚愕に目を見開く。

 青い眼光が、視界を遮る影を認める。


「に……!?」


 少年が驚嘆に目を瞠る。

 赤い瞳が、その光景を映し出す。



 ――部屋が、脈を打っている。



 まるで酒の飲み過ぎや目の錯覚を疑う様な、余りにも異常な遠近の変動。それは空間その物が、常理を外れたその理に耐え切れぬと叫ぶ悲鳴であり、異常な現象を正常の如く体現しようとした代償であった。



 そして、部屋(せかい)は2人の魔人に牙を剥く。

 領域が彼らの存在を拒絶するかの様にその形状を変え、歪曲された常識が異界の法則を滅ぼさんと殺到する。


 彼らを襲うは白銀の槍。

 部屋(せかい)全てがその形を変え、床板(だいち)全てがその在り方を放棄し、怨敵を滅ぼすべき形に変化し射出されていく。



 ――不死鳥の羽根ぺン

 彼の手に入れたその魔装の能力は、物質からの魔力の解放である。そして魔力の放出に伴ってその体積を増大させるのが、アダマス鉱という金属の性質だ。物理的に考えれば、当然増加した体積は余裕のある空間を埋める様に働くのだろう。そして床や壁として使われている金属には、膨張した体積を逃がす方向など1つしか無い。

 結果として最も単純な術式で魔力を解放されたアダマス鉱は、自然に上部へと伸長する槍へと変化するのである。それがこの場においては、“領域”に佇む2人魔人へと殺到する刺殺武器として作用していた。


 視界を覆う程の槍の軍勢。

 その現象を見た事が無い存在には、それは常識外の悪夢としか形容出来まい。人間の殺傷という次元に合わせれば処刑具に相当するであろう、戦闘に使うには余りにもオーバーキルなその現象。だとすれば、それを向けられた存在が人間である以上、生き延びる術など常識の上ではありはしない。




 ――だがこの場は、そも常識外の存在が跋扈する魔窟。




 ならばこそ、仮に有り得ぬ現象が体現されるというのであれば、更に有り得ぬ現象がそれを打ち破るのは道理である。



「らぁああああっっ!!」



 高く成り響く金属音。

 既に金属から武器を作製する魔術を知っていた男は、放たれた槍と比してもなお最速かつシンプルに対処した。空間に乱舞する、粉雪を思わせる槍の破片。男は自らに向かう槍へと尽く刃を合わせ、振り翳す短刀で鋼の森を粉砕していく。


 ――なんという化け物だろうか。

 観察していた青年は戦慄する。

 全方位、360°から同時に浴びせられる無数の槍撃。それらに全く臆する事無く、男はそれこそ全ての穂先を研磨する様に、自らを襲う槍を完膚無きまでに打ち砕いていた。



「…………うぉっと!! あぶねっ!!」


 そして少年は回避に徹していた。

 体躯の小ささを利用して槍を掴み、ほんの僅かな隙間に身体を差し込む事による転身。それは文字通り滑らかな槍の表面を転がる様に流動し、服を破られながらも直撃を避けていく。その余りにも身軽な身のこなしは、少年に体重がある事に疑いを持つ程であった。


 男とはまるで異なる対処法。しかしながら少年も、槍の攻撃を躱しているという点を較べれば男と遜色は無い。必滅の領域に居ながら、やはり無傷。この少年の技量もまた、やはり男とは違った意味で怪物染みている。


 守備に徹する男と、回避に徹する少年。

 異なる世界が生んだ異なる魔人達は、全く異なる方法ながら、同じ脅威を防ぎ切ってみせた。



「白いの、お前……」


 自らの周りに聳え立つ槍の森。

 その現象の意味を、男はどう解釈したのか。

 自らの周りに存在する槍の先端部分だけを一通り斬り伏せると、彼は障害物の隙間から忌々し気に青年を見据えた。


「ヒヒヒッ、そっかそっか。

 テメェ、そんなに先に死にてぇかよ!?」


 少年は、怒りも顕に白い青年を睨んでいる。

 無理も無い事だろう。青年は殺し合いの興を奪っただけで無く、今の一瞬で少年の命まで取りに来たのだ。全身を槍の柱に囲まれ、殆ど身動きが取れない体勢の少年。自身がそんな無様な醜態を晒しているという事実が、一層の起爆剤となって少年の怒りを燃え上がらせる。


 興が乗ってきた戦闘を中断した、どうでもいい獲物。遥かに強い筈の自分に、無様を晒させた雑魚。そしてその雑魚が持つ、理解しようも無い攻撃手段。それは少年にとって、まるで折角の大物を釣り上げようとした瞬間に見た事も無い稚魚が糸を食い千切ったかの様な、青年の存在自体が許せなくなる類いの怒りであったのだ。


「ならお望み通りにしてやらぁ!!」


 烈火の如く咆哮する少年。槍の隙間から腕を伸ばし、檻の外の白衣に火炎銃を向けた。少年は思う。青年の表情に変化は無いが、内心は恐怖と絶望に染まっているに違いないと。

 何しろ青年は、少年の隣の大男とは違う。直接戦闘の技量が無く、増してや一般的な武器すらも所持している様子が無いあの青年にとって、少年に火炎銃を向けられるのは死刑宣告に等しい筈だ。青年はそれこそ何の抵抗も出来ないままに、あっという間に消炭となってその生涯を終えることだろう。


 怒りと愉悦。相反する二つの感情に歪んだ笑み。

 少年は容赦無く引き金を引いた。

 放たれるは主の感情を具現化した死の魔弾。

 火炎弾が標的に確実な死を齎すべく疾駆する。

 炎は十分な威力と速度を伴って空中を駆け、標的たる青年へと迫り――、




解放(jara)




 ――新たに生まれた白銀の柱に阻まれた。




「クッ……ノヤロォオオオ!!」


 少年が火炎を放つ。

 怒りに任せて引き金を引き、標的を焼く為だけに自らの破壊衝動を指先に込め続ける。


解放(jara)解放(jara)解放(jara)解放(jara)……」


 だが、その全ては次々に出現する白銀の柱によって妨害され、主の志を果たす事無く消滅していった。圧倒的な火力。しかしそれをもってしても柱の数本を溶解させるに留まり、青年の身体を焼くには至らない。


 少年はその事実に顔を歪ませる。

 だが、それは当然の理である。

 少年の放つ火炎は、確かに十分に恐ろしい凶器であろう。それが人体に触れようものなら、掠っただけでも、その全身を黒焦げにして余りあるに違いない。

 だがそれでも、火球が高速で駆けている以上、物体に触れている時間はそう長くは無いのだ。人間相手ならば十分な火力となるかもしれないが、しかし相手が金属の塊となると、少々話は違ってくる。


 一般的な金属の融点は高くはない。

 鉛ならば328℃。亜鉛ならば420℃。スズであれば僅か232℃で融解してしまう。当然、融点が1536℃の鉄や、3400℃を超えるタングステンなど、比較的熱に強い金属も多く存在するだろうが、しかしそれでも、一般的な物でも温度が1万℃を超えるプラズマが相手では、それが十分な密度を持っていた場合話にならない。

 アダマス鉱の融点など知る由も無い青年ではあったものの、少年の火炎を直接受けては、本来それが溶ける以外の結末を迎えるなど有り得ないであろう事だけは承知していた。



 だが、そこには1つ落とし穴がある。

 物質の融点とは、ソレを超える温源に触れた瞬間、即座に融解が始まる温度を意味する訳では無いのだ。融点とは、“物質そのものの温度”がソレに至って、漸く融解が始まる温度の事を言うのである。


 例え融点の低いインジウムだろうと、ひいては金属という、比熱が低いという特徴を持つカテゴリーの存在であろうとも、一瞬熱源に触れた程度であれば、それが融解に十分な温度に達する事は難しいだろう。一般的に物質の融解には時間がかかるのはこの為である。

 人体相手ならば、少年の炎は十分な威力を発揮するのかもしれない。もしかしたら、触れた瞬間に人間が感電死する程の電圧が、あの空気には掛っているのかもしれない。

 だがそれでも、それはあくまで人体が相手の場合の話だ。物質を溶かすという現象を考えた場合には、少年の火球はあまりにも接触時間が短すぎる。そして何より、少年の火炎銃がアダマス鉱相手にはその表面を溶かす程度の威力しか持たない事は、先刻既に実証済みである――。


 物理学者たる青年は、その事実を既に見抜いていた。牢獄の様な無数の柱に囲まれながらも、依然として自らを攻撃し得る、恐るべき飛び道具を持つ少年。しかしこの金属の柱こそが、ソレに対する絶対の防護壁になり得るであろう事を彼は熟知していた。だからこそ、2人が争っている間に急いで床に描き加えたのだ。2人の魔人と自分の間を遮る位置に、20を超える白銀の盾を。


 鳴り響く雷鳴と連続するエフェクト。

 柱の隙間から放たれる炎の弾丸は、幾重にも連なった棘によって霧散していく。自らの炎ではその盾を破れない事に、果たして少年は気が付いているのだろうか。否、気が付いたからこそ、その事実が更なるガソリンとなって少年の怒りを燃え上がらせるのである。少年の炎は標的を変え、尚も際限無く、自らの敵を焼き殺すべく増殖してゆく。




 ――風切り音が響いた。




 無限に続くと思われた攻防が、その第三の音源によって漸く小休止の気配を見せる。


「……やってくれたじゃねぇか」


 低い声が聞こえた。

 その主は語るまでもあるまい。

 青い鎧の大男、ネプトである。

 彼は刃の音で2人戦闘を中断させつつ、細めた眼光で白い青年を射抜いていた。


「まさかお前にこんな隠し球があったとはな。

 ったく、まんまと嵌められたもんだぜ。

 ……で、次はどうするんだ?

 何のつもりか知らねぇけどな、こんなもんじゃ、俺には5分の足止めにもならねぇんだよ!!」


 言いながら、男は手近な槍を1本斬り捨てて見せた。柱は鋼が成る高い音を響かせながら、まるで断面から滑る様にして床へと落ちる。宣言通り、もしも男がその気になれば、彼は5分もしないうちに全ての柱を斬り伏せて青年の下に追いすがるだろう。切り倒された柱は、そのまま青年の運命を暗示している様であった。



 だというのに――、



「……だろうな。

 いや。というか、まさかあんたが脱出に5分も掛かるとは思わなかった。今の情報は、オレにとっては寧ろ僥倖だ」


 青年は、あくまでも不敵に言い捨てていた。

 5分後の死刑宣告を受けて尚、顔色一つ変える様子の無いポーカーフェイス。

 白い学者は涼しげに、訝しげな男の視線を受け流す。

 そして大袈裟に肩を竦めながら続きを告げた。


「ネ……、ネプ……。

 ……まあネプ助でいいか。

 あんた、今その柱を平然と斬り捨てたよな。

 それが出来た事について、あんたは何の疑問も持たなかったのか?」


「…………は?」


 顔を顰める青い男。

 あんまりな呼び名を聞いた気がしたが聞き流し、彼は青年の言葉に頭を捻っていた。


 確かに男は、たった今金属の柱を斬った。否、5分と待たずに青年を斬れる証明として、邪魔な障害を排除して見せたのだ。

 アダマス鉱は強い金属である。王都の防壁に使われているという事実から考えても、それは試さなくても明らかな前提だろう。それを刀剣で切断する事は、確かに容易では無いかもしれない。

 だが、決して不可能という訳でも無いだろう。否、そもそも剣とて相応の強度を持つ金属なのだから、刃よりも柔らかい物が斬れない道理が……。



(…………!? “柔らかい”?)



 不吉な予感が、背筋に走った気がした。

 それが何なのかを理解するより前に、青年は更に続きを述べる。


「“質量保存の法則”というのがあってな。

 これは、まあ。例えばそこの床板だが、これはどんなに形を変えたり捏ねたりしてみても、その重さは変形前と変わらないという、ある意味当たり前の定理なんだが……。

 さて、だがこの法則をこの場に当て嵌めると、些か不都合が生じる。例えば床板を変形させたその柱。仮にそいつが元の3倍の体積になっているとしよう。しかしそれでも変形前から総重量が不変だとすると、その密度は3分の1に減少しなくては計算が合わない。つまりな、膨張後のアダマス鉱はスカスカだって事だ」


「何が言いてぇんだ?」


 勿体ぶった青年の口調に、男は業を煮やしたかの様に続きを促す。


「分からないか?」


 青年はあくまでも不敵に微笑んでいた。

 それは科学の天才に特有の、人が計算によって未来を垣間見た瞬間に見せる忍び笑いであった。


「よく見るんだ。

 お前達の周りに生えている槍だが、それはどこから伸びている?」


「どこってそりゃ……」


 言われて、男は槍の元を辿り始めた。

 柱、床板、天井の張り、そして壁。

 それらはあらゆる場所からその体積を奪い、そして槍として成立していた。そう、絶対の強度が要求される、“柱”や“床”からである。


「……おい、白いの。

 まさかお前――」


 悪寒が走った。

 2人の魔人は柱の森に囲まれている。

 彼らがそこを抜け出すまで、確かに5分も掛からないだろう。だが、逆を言えばそれは5分くらいは時間を要するという意味である。そして白い青年が意図する事とは――。


「正気かテメェはぁぁぁああああ!!」


解放(jara)


 男の叫び声を遮るかの様に、青年はその言葉を口にした。構えた羽根ペンは遥か下に。この時計塔の基部に当たるであろう部分に向けられている。

 それは男と少年が立っている領域の裏側、つまりは階下の天井に描かれた魔法円すらも発光させた。



 ――そして崩壊が始まった。

 この時計塔に描かれた全ての魔法円。

 男がこの階層に至るまでに見かけた全ての図形が階下で発光し、槍として突き抜ける事によりその密度を下げていく。柱という柱がその強度を失い、断末魔の悲鳴を上げながらひしゃげていく。


 世界が崩壊する。

 柱という柱が生涯最期の奇声を上げ、床板(だいち)は裂けて奈落へと崩落していく。空間は自重を支え切れずに崩れ落ち、瞬く間にその存在意義を無くしていく。



 ――爆破解体(インプロージョン)

 建物の要所となる部位をピンポイントで破壊する事により、自重を利用して建造物を破壊する技術。物理と化学の粋を結集した、彼の世界が誇る叡智の一つであり、最小限の力で狙った現象を引き起こす破壊の芸術。この世界の常識を用いたその再現こそが、彼の用意した切り札だったのだ。


 異なる世界から呼ばれた2人の魔人。

 彼らは白い青年の振りかざす理、万有引力の法則に従い、遥かな高層から奈落の底へと吸い込まれて行った。



 -----



「――――!?」


 銀弓に向けて放たれる剣戟。

 勝負を決するべく鋼の大剣を振り下ろそうとしたその刹那、純白の姫は強烈な悪寒に身震いした。全力で逸る足を止め、反射的に後方へと飛び退く。無論、全力疾走の勢いは咄嗟には殺し切れずに、彼女は尻餅を着く様な体勢で派手に地面を滑った。


「クッ…………!!」


 ――しまった。

 ウェヌスは自らの判断を呪って歯噛みした。

 目前に居る敵は今にも大魔術を放たんとその弓を引き絞っている。それは言わば、既に鎌を振りかぶった死神だ。そんな相手を前にして尻餅を着くなどという行為が、果たして自殺行為で無くてなんと言おう。


 何故か行ってしまった反射。

 本能が訴えた危機回避。

 自らが身に付けたその第六感が、彼女にはこの時ばかりは疎ましく思えた。

 だが、もう取り返しがつかない。

 真紅の少女は、意気揚々と愚かな獲物に狙いを定め……。


「…………?」


 視線を上げる。

 いつまでも来ない衝撃を訝しんで顔を上げると、真紅の少女もまた、魔術を中断して後方へと飛び退いていた。そして粟を食った様な蒼白な表情をしながら、何故か上方を見上げている。それはもう、異次元生命体でも見たかの様な、心底驚嘆した様子でポカン口を開けながら――。


(好機……?)


 ウェヌスは思案する。

 敵の誤判断によって勝利を納める筈だった少女は何故か放心しており、彼女必殺の魔装たる弓は無造作に地面に向けられている。それは無防備とかどうとかいう以前に、最早正気とは思えない程の呆然っぷりであった。もしも今女が剣戟を放ったとしたら、それだけで勝負は決するに違いない。

 ……不意打ちに近いのが不本意ではあるが、そもそも果たし合いの最中に放心するなど、相手に対する侮辱でしか無い。


 女は立ち上がり、僅かに重心を落とした。

 今の少女が相手ならば、全力での剣戟など必要無い。

 魔装たる弓を破壊するだけで、十分な無力化が可能だろう。

 純白の姫は静かに頷くと、下段にその大剣を構え――、




 何故か、巨大な壁にその視界を遮られた。




「…………は?」


 固まった。

 余りにも異常な事態故に、少女の放心を非難していた彼女自身が放心して硬直する。何故こんな所に壁が出来たのか、目の前の壁はどこから来たのか、など、訳の分からない困惑は彼女の脳内を無遠慮に蹂躙していった。純白の姫は半ば無意識に、先程見た少女の視線の先へと目をやった。


「…………」


 そこには、時計塔があった。

 正門付近からもその慨形を伺えた、王都周囲の防壁よりも更に高い時間の支配者。どんな曰くがあるのか、歴史を感じるその偉容は異国民たる彼女にも十分な造形美を感じさせ、空けられた窓から覗く内装からは知識の倉庫たる重厚さも感じられる。それはまさに、魔術大国たる銀の国の学研の象徴であると形容出来るだろう。


 しかし今、ソレには何故か大きな皹が入っていた。

 柱という柱、壁という壁に亀裂が入り、節々から粉塵を撒き散らしている。その悠久建築の上部の壁に空いた大穴を確認し、どうやら目の前の銀壁は、あの時計塔から降ってきた物らしい事を彼女は理解した。


「…………」


 頭痛のする頭で、少し考えてみる。

 皹の入った柱。

 砕けて落ちた巨大な壁。

 隙間から巻き起こる粉塵と、パキパキという軽い音。


 では、次に起こる現象は――、



 そこまで思考した直後である。



 時計塔が咆哮した。

 金属が軋む音を天高く木霊させながら、その形が徐々に大きくなってゆく。否、その形が一気に歪み、陰影を変化させながら徐々に近付いて来る。銀の国が誇る高層建築は、その文字盤の部分から真っ二つに裂けて、ゆっくりと彼女達の方向へ傾いて来ていた。


「は…………?」


 意味が分からない。

 ワケが分からない。

 分からないので、女は取り敢えず、少女と自分の間に存在する壁を蹴り飛ばしてみることにした。

 女は異国民である。この国の常識をあまり知らなかった彼女は、この国の国民であり、つまりはこの状況をより良く理解しているであろう少女に、これが何事なのかを説明してもらいたかったのだ。

 壁は元から不安定だったのか。少し力を込めて蹴ると、思ったよりも簡単に倒れてくれた。壁の向こうに視線をやると、先程と何ら変わらずに放心している少女。壁が倒れた事に気付いたのか、ゆっくりとこちらに向き直る。翡翠の瞳と視線が交錯する。


「…………」


 “知らない。コレ、知らない。

 逃げよう。ね、早く逃げよ!!”


 潤んだ瞳が、無言のままにそう語っている気がした。



「…………」



 純白の姫は小さく頷いた。

 目線を塔に戻し、両手を力強く大剣に添える。

 重心を深く下げつつ、倒壊して来る塔を正面から見据える。



「……ウェヌス。

 あんた、ナニしてんの?」



 ポカンした少女の声。

 その色はあからさまに困惑している。

 姫は、その口元に微笑を浮かべていた。



「無論、迎撃の準備です」


「はぁ!?」



 奇声を上げて呆れる少女。

 しかしそんな事は気にも留めずに、彼女は続きの言葉を告げようと口を開いた。


「ええ、分かっていますとも。

 こんなに都合良く塔が倒れて来るなんて、そんな事がまさか偶然の筈がありません。

 きっとこれは、亡き母上が私に与えた試練なのです。

 ――つまり、アレを斬れと」


 陶酔し切った声色で姫は語る。

 天下の大バカを見る様な少女の視線は、完全に彼女の視界の外にあった。


「分かっていますとも。

 丁度、一度くらいは塔を斬ってみたいと思っていたところです。その最初の一つがあの様な大物とは想像もしませんでしたが、相手にとって不足はありません。

 ええ、腕が鳴るというものではありませんか」


 少女は唖然として固まっている。

 暫し呆然と目の前の(バカ)を見つめていたが、やがて我に帰ったかの様にその肩を震わせた。


「あんたどこまでバカなわけ!?

 あんな塔、“帝霊級”でも壊せるかどうか分からないっていうのに、そんな剣一本で何が出来るっていうのよ!!」


「愚かなのは貴女の方です。

 伝説に謳われる達人は、嘗て剣一本で“山の根”すらも斬り落としたという話ではありませんか。

 それに比べれば、あんな塔など物の比ではありません」


「ウソ!! それ絶対ウソだから!!

 ――ってか100歩譲ってもただのお伽噺だから!!」


「ええ。確かに私も、幼い頃には嘘かもしれないと思った事もありました。城の近くの山を1週間ほど掘ってみた事もありましたが、結局根など見つかりませんでしたから。

 ですが、成長した今では思うのです。

 ――きっと()の達人が斬ったからこそ、山には根が無いのだと」


「だ~か~ら~っ!!

 山には初めから根なんか一本たりとも無いし!! そんな物を斬ったヤツなんか初めっから1人もいないんだってばっ!!

 というかそもそも!! 1万歩譲って(アレ)が斬れるとしてもっ!! その剣じゃ全然刃渡りが足りて無いのっっ!!」


「そんな事は些細な問題です。

 第一、既に逃げられません」


「…………は?」


 言われて、少女は気が付いた。

 目前に迫る白銀の瓦礫。

 竹の様に真っ二つに割れた塔から生まれたその壁は、今では空を覆う様に視界を隠して彼女の目前へと迫っている。

 考えてみると、確かに、今から走って逃げ切れる範囲は須らくあの瓦礫に圧殺されるだろう。

 どうやら(バカ)に気を取られている間に、少女まで逃げ遅れたらしい。

 その事実に気が付いた瞬間、少女は全身の血の気がサーっと引いていくのを感じた。



「……ウェヌス。

 ちょっとこっち来なさい速く!!」



 ――走った。

 少女は全力で姫の元へと走り、その手を無理矢理に引っ張って瓦礫の雨から逃れようとローブの裾を翻す。


「な……!?

 あ、アルテミア!!

 何をするんですか放しなさい!!

 あの位置じゃないと折角のイメージが……」


「それはイメージじゃなくてただの妄想!!

 いいからあんたも、全力であたしが逃げるのに協力しなさいっていうのよ!!」


「に、逃げる!?

 待ちなさい!! 貴女はともかくとして、何故私まで逃げなくてはならないのですか!? 体力も士気も万全だというのに――」


「頭の中が万全じゃ無いからに決まってるでしょ!?

 大体あんたこそ、今からじゃもう間に合わないじゃない!!」


「く……。

 む、無念です。

 ですが、これは決して逃亡ではありません。

 次こそは……、次こそは必ずあの塔を……!!」


「次なんかあって堪るかバカぁぁあああ!!」


 駆け出した瞬間に襲い来る瓦礫の雨。

 少女は咄嗟に自らの周囲に飛行魔術の結界を展開し、降り注ぐ崩落の速度を全力で軽減させてゆく。

 それを補助するは純白の姫。

 迫る瓦礫が速度を落とした瞬間、直接その手で触れることによりその形状を変化、成形させ、即席の屋根を創り上げて道を切り開く。


 土砂崩れを思わせる空間の消滅。

 その渦中に晒された2人の大魔導は、自らの魔術と技の全てを嵐の様に行使し続け、命からがら安全圏へと避難する事に成功した。



 -----



「はぁ……、はぁ……」


「ふぅ……、ふぅ……」


 天変地異の様な災害の中を、2人の人影は奇跡的に生還した。彼女達は崩落した瓦礫の山を見つめながら、地べたにへたり込んで呼吸を整えている。


「なんで、いきなり……、はぁ、塔なんかが、倒れて来るのよ!!」


「老朽化……、していた…のでは……ありませんか? 流石は、魔導師の、国ですね。古い物に固執するのは……、貴女達の悪い癖です」


「な……!!

  確か…に…、あの塔は……古いけど!!

 それでも…立派な…王都のシンボルの一つだったのよ!? あ……あんたこそ、ゼェ……あの塔になんかしてくれたんじゃ…ないでしょうね!?」


「ぬ、濡れ衣です……。

 大体、貴女は……、ハァ…いつまで私の手を握っているつもりなんですか?」


「は……?」


 言われて気が付いた。

 少女の手は、女の手を引いた瞬間からずっと彼女と繋ぎっぱなしだったという事実に。

 しかも脱出の際に揉み合ったのが原因なのか、手の握り方は微妙にズレて、今では指と指が絡み合う様な形で握られている。

 ……それはもう、まるで恋人同士がデートする時の様な握り方で。


「きゃぁぁあああ!?

 さ、触るな脳筋女あああっっっ!!」


「なっ!? ま、待ちなさい!!

 先に手を握って来たのは貴女ではありませんか!!

 大体、の、脳の筋肉なんて、いくら私でもそう簡単に鍛えられるわけが……」


「本気で脳に筋肉があるって思ってるバカが、脳筋じゃなくてなんだって言うのよ!?」


 瓦礫の山を背にしながら、息つく間も無く口論を繰り広げる2人。過剰な運動によって異常分泌されたアドレナリンが脳を興奮状態にさせ、顔が真っ赤になる程のヒステリーが彼女達の精神に去来する。

 ……先程までの戦闘と同様、これはこれで熾烈な戦争と言えたかもしれない。


「脳筋脳筋と何なのですか貴女は!!

 大体筋肉なら、例え脳の中にでも無いよりあった方が良いに決まっています!!

 まったく。そんな事だから、貴女の体はそんなに貧相なのです!!」


「だ、誰のどこが貧相だって言うのよ!?

 大体、あんただって自慢出来る程大きくないじゃないっ!!」


「だ、誰がそんな下劣で低俗な話をしたのですか!?

 私は、あくまで戦士としての体格の話をしたのであってですね……。

 大体、いくら私でも、流石に貴女よりは――」


「はぁ!? ナニしれっとウソ吐いてるのよ!!

 あんたのはどうせ殆ど大胸筋でしょ!?」


「な……っ!!

 ど、どこまで失礼なのですか!? 貴女はっ!!

 いいでしょう、ここまで侮辱されては、流石の私も――」


 その言葉を言い終わる前に、純白の姫はその口を閉ざした。長年に渡って鍛え上げた戦士としての直感が、自らに向けられる第三の視線を感じ取ったからである。


「――何者ですか!?」


 振り向いた。

 声に含まれるのは俄かな緊張。

 気配を辿り、彼女は空を見据える様にその目線を上へと向けた。



「――――!?」


 瞬間、その場の空気は凍りついた。


 彼女の目線の先にある人影。

 真っ二つに裂け、内部構造が剥き出しになった元時計塔の最上階に佇む白い姿。

 ソレを見た瞬間、この惨状が人為的に引き起こされた物である可能性に思い至ったからである。


「…………。

 ウソ…………」


 呆然とした言葉は少女の物である。

 その声は酷く空っぽで、それは今の彼女の頭の中をそっくりそのまま表している様であった。

 彼女の表情は唖然として、バカみたいに開けた口を閉める方法すらも忘れている。


 ――無理も無い事だろう。

 元時計塔の最上階に見える、少女にとって見覚えのある姿。しかし彼女が認識している現状は、何一つとして許容出来る物では無かったのである。


 彼女の放つ筈だった最後の一手は瓦礫の山に阻まれた上、危うく潰されて真っ平らな平面人間になるところだった。恨めしげに見上げた塔の先には何故か見覚えのある白い人影があって、アイツの手には、信じ難い事に“あの”羽根ペンが握られている。オマケにああやって平然とこちらを見下ろしているという事は、この惨状はアイツの仕業だとでもいうのだろうか。更に極めつけは、アイツを追っていた筈の“青の守護魔”の姿が一切見えないという事である。



 という事は、信じ難い事だけど、アイツはつまり――。



 悠久の歴史が砕かれた瓦礫の山。

 その隣から天の祭壇を見上げつつ、2人の大魔導は風に靡く白衣に目を奪われていた。



 -----



「――以上の実験結果より、この時空に於いても質量保存の法則は成立すると考えられる。

 証明終了(Q.E.D)


 広さが半分になった展望台。

 見晴らしが良くなったテラスから眼下に生まれた瓦礫の山を見下ろして、朝日 真也は実験の終わりを宣言した。相変わらずのポーカーフェイスながら、その口元には僅かな微笑が浮かんでいる。



 ――爆破解体(インプロージョン)

 彼の世界が誇る破壊の芸術。

 そうは言っても、今回彼の行った行為は相当に乱暴な物であった。


 通常、現代の爆破解体とは綿密な計算と下準備を経て、要所要所を完璧な順番で破壊してゆく事によって成立する。そこには全ての柱を内側に向かって爆破し、周囲に被害が出ない様にする気配りも含まれるのが常識である。


 だが今回、彼にはそんな余裕など与えられなかった。

 彼の手元には案内図紛いの見取り図しか無かったし、アダマス鉱とやらがどの程度の膨張率でどの程度強度を下げるかといった、具体的な数値も知らなかったからだ。それどころか標的を確実に罠に嵌める為には、彼自身が倒壊させる建物の内部に陣取っていなくてはならないという足枷もあった。


 故に今回の彼の解体方は、不本意ながらも非常に単純な物にせざるをえなかった。自らが陣取る位置と反対の、建物の半分だけに魔法円を描き込み準備をする。後は領域を別つ位置に柱の森を乱立させ、やって来た敵を足止めしつつ、その強度が下がった位置から床が割れる様に計算すればいい。つまりそれは、人類初期の爆破解体の様な、倒れるに任せるという乱暴な破壊方法に他ならなかった。通行人が“殆ど”いない位置に上手く倒れたのは、割と奇跡の部類に入ると言えただろう。


 予想以上に上手くいった破壊の経過と、死の恐怖からの解放。そして柱の破壊に爆弾を要しなかったが故の、可能となった間近での崩壊の観測。

 そのどれもが想像以上に刺激的で、そして感情を揺さぶるに値する物だった。

 ――故に、彼はその口元を緩めたのかもしれない。


解放(jara)


 階段は瓦礫と化してしまったので、彼は下界に降りるべく再び魔装を使用した。

 少女が使ったのを真似ているだけなので、棘や柱しか生やす事の出来ない彼ではあるが、彼にしてみればそれだけでも活用法は無限にある様に思われた。

 床の裂け目に図形を3つ。角度をつけて描く事で、柱を下界への架け橋に変える。青年は世界を見下ろしながら、悠然とその橋を降りて行った。


 その半ば。視界の高度が半分程に下がったところで、青年は橋の終点付近に見覚えのある人影を認めて眉を動かした。まさかこんな場所に居るとは思っていなかった為に見落としていたものの、よく見ると確かに、黒いローブと白いドレスが瓦礫の隣に並んでいる。


 2人の様子は明らかに険悪であり、次の瞬間には戦闘を開始してもおかしく無い様な雰囲気であった。否、それはある意味では青年の予想通りではあるのだが……。流石に少女の手に握られている武器が弓だという事実を認識した時には、彼は溜息を吐かずにはいられなかった。


 ……なんの事はない。

 白い女の得物が何かは知らないが、まさか弓よりも近距離戦に向かない武器という事は無いだろう。2人の距離が少女にとって最悪の間合いだという事は、流石の青年にでも見て取れた。


「あー……。まあ、なんだ。

 取り敢えずだな、落ち着いて聞いて欲しい」


 青年は歩みを進めながら、努めて淡々とした口調で声を発する。ポカン口を開けている少女と、目を丸くしている女を軽く交互に見据えつつ、白いドレスに目を留めて彼は言葉を繋げた。


「見ての通りだ、お姫様。

 あんたの呼び出した魔人とやらは、たった今オレが仕留めた。まあ、あんたが続けるって言うなら仕方ないが……。これ以上の戦闘は、お互いに無意味だとは思わないか?」


 青年の声が聞こえたのだろう。純白の姫はハッと息を飲むと、漸く我に帰った様子でその宝物の様な目を見開いた。青年の言葉をどう理解したのか。その端正な顔立ちは、青年には僅かに歪んで見えた。


「……面白い事を言うのですね。

 そんな結末はあり得ないでしょう」


「あり得ない? 何故そんな事が言い切れる?」


 青年は言葉を交わしながら橋を下る。

 白い女と青年との距離は、既にお互いの表情がはっきりと視認出来る程に近付いていた。

 女を真っ直ぐ見据えつつ、青年は更に畳み掛ける。


「そう不思議がる事でも無いだろう。

 あんたが良く知っている通り、守護魔(オレ)は常理の外の存在だ。あんたが知らない武器の1つや2つ、持っていても何もおかしくは無いさ」


 言いながら、青年はこれ見よがしに手元の羽根を見せ付けた。漂う魔力が燐光を放ち、青年の白衣を青空に映えさせている。オレンジ色の繊維塊は、まるで自己主張するかの様に風に靡いていた。


「コレは次元歪曲装置ベンディング・ディメンションと言ってな。オレの世界では伝統的な兵器の一つなんだが……。

 まあ詳しい説明は省略するが、空間そのものを押し潰す道具だとでも思ってくれ」


「下手な嘘ですね」


 迷いの見られない視線で姫は言う。

 しかし青年は、その澄んだ声に、ほんの僅かな虚勢の色が見られる事を敏感に感じ取っていた。

 否。虚勢が入っていない筈が無いと、彼の推測は明確に語っていたのである。


 女の言う通り、真也の言葉は虚言である。

 この羽ペンの能力は物質に蓄えられた魔力の開放に過ぎないし、そもそも彼の世界に存在する道具では無い。空間を押し潰すなんていうSF理論が大嘘ならば、使用前に魔法円を描いて下準備をする必要があるなんていう前提など、彼は仄めかしてすらもいない。


 だが青年は、或いはそれでも誤魔化せると考えていた。何しろ彼は、少女が羽根ペン(それ)を国家機密だと言っていた事を覚えている。敵国の姫が、その原理や正確な形状まで知っている可能性は皆無だろうと考えていたのだ。


「この世界じゃ勝手が違ったからな。

 先ほどは破壊力が大きくなってしまって、つい塔の半分を消し飛ばす羽目になったが……。

 まあそれでも、もう大分慣れたからな。次はあんたの周囲だけを押し潰せるが、どうする?」


「……ハッタリです」


 青年は橋の終点に着く。

 終着点より白銀の大地へと降り立ち、青年は姫を正面から見据えて向かい合った。未だに訝しむ様な表情をしている彼女に向けて、不敵な笑みを浮かべながら彼は続ける。


「オレがわざわざ降りて来た意味が分からないか?」


「…………」


 女は今度こそ閉口した。

 その怜悧な瞳には、疑念と同時に困惑が潜んでいる。

 青年と彼女の距離は約5歩。

 彼女ならば一息で剣を創り上げ、次の瞬間には斬り伏せ得る距離である。ならば当然、彼女は勝利を確信して微笑むべき立場にあるだろう。


 だが女は、それでも尚、疑念を完全に払拭する事が出来なかった。

 何しろ青年は、自らその距離へと歩み寄ったのである。

 戦闘に慣れた女の常識で考えるのであれば、ソレが彼にとって不利な距離である筈が無い。



 ――女の理性が、僅かな違和感を警告する。



 彼女が青年を斬り伏せるまで二呼吸。

 もしもあの羽根が彼の説明通りの兵器であり、それが一呼吸で発動し得る物だとしたら――。


「…………」


 嫌な想像が頭を過る。

 自分達の、直ぐ隣に見える瓦礫の山。

 それが彼女には、底知れぬ不気味さを醸す墓標の様に感じられた。


 目の前の青年は、戦士では無い。

 それだけは断定していいだろう。

 ならばこの間合いがどんなに危険な距離なのか、それを彼が理解していない可能性もあるだろうし、そんな人間があの武人(ネプト)を倒す可能性など皆無だろう。

 だが果たして、その常識を常理の外の存在である守護魔に当て嵌めてもいいものなのだろうか――。


 確信する事が出来ない。

 安直な判断を理性が拒絶する。

 彼女から立ち込める空気は、それこそ秒単位で張り詰めていった。




「…………」




 ――緊迫した両者の睨み合いは、カチンッ、カチンッ、という、謎の金属音によって終わりを告げた。




 女の顔に疑問符が浮かぶ。青年もその予想外の雑音に、不快そう眉を潜めている。放心していた少女でさえも、その音を合図に我に帰ったらしかった。

 瓦礫の山に響き渡る、規則的な鐘の音。

 それを訝るかの様に、三人の視線は、ほぼ同時に音の方へと向けられた。


「――のポンコツ!!

 これくらいで壊れてんじゃねーよっ!!」


 息を飲む声。

 その存在を確認した瞬間、三者三様な驚きが場に溢れた。女は警戒心を顕にし、少女はその姿をまじまじと観察し、青年は、まるで幽霊でも見たかの様な顔で硬直している。


 音源には少年が居た。

 まるで犬の様な耳を付けた、迷彩服を纏った赤髪の少年。彼は銃口のひしゃげた火炎銃をカチカチと鳴らしながら、癇癪を起こす様にしてソレを瓦礫へと叩き付けていた。


「……驚いたな。

 一体どんな手品を使ったんだ?」


 青年は咳払いをしてから淡々と尋ねた。

 彼の目からは困惑と、僅かな恐怖。そして何故か、好奇心の様な感情も見て取れる。


 だが、それも当然だろうか。

 彼はこの中で唯一、少年が塔の最上階に居たのを確認している。通常、建物の崩落に巻き込まれるという事は、実質その瞬間に居合わせた階から突き落とされるのに等しいのだ。あの高さの塔の最上階から落下すれば、生身の人間が生き延びる可能性など皆無だろう。どの様な手で生き延びたのか。それは何の虚飾も無く、青年にとっては確かに興味に値する事だったのである。


「――あぁ!?」


 しかしそんな青年の思考など知る筈も無い少年は、今の言葉を挑発と取ったらしかった。まるで睨み付ける様にして視線を上げる。瓦礫の山に胡座をかいて座り込み、憤怒に歪む灼眼で青年を射抜く。


「手品ぁ?

 テメェと一緒にするんじゃねーよ!!

 こんなビックリ芸でおれっちの獲物横取りしやがってよぉ!! 死ぬ覚悟は出来てんだろぉなあ!! あぁ!?」


 火の出るような少年の罵声。

 青年はそれを、溜息一つで受け流した。

 青年にしてみれば少年の感情など理解出来なかったし、そもそも理解するつもりも無かったからである。

 元から他人になど興味の無い青年である。

 獲物の横取りなどという理由で非難を浴びせたところで、感情の籠もった返答を期待するのは酷という物だろう。


 受け取り手に届かない非難。

 だが少年の罵声に対して、それを向けられた青年よりも尚顕著な反応を見せる人物が居た。


「待って下さい。

 今、貴方は“獲物”と言いましたか?

 それは一体、誰の事を指しているのでしょうか」


 純白の姫、ウェヌスである。

 彼女は切れ長の瞳を僅かに細めながら、空気が冷える様な視線を少年へと向けていた。


「――ん?

 うお!! 誰かと思えば、さっき壁に穴空けてくれた美人のネェちゃんじゃねぇか。

 いや~、お陰様で侵入楽だったぜ~!!

 ひょ~っ!! いい女だとは思ってたけど、近くで見るとハンパね~!! こう、グッとくるっつーか、ソソルっつーか」


「質問に答えなさい!!

 貴方の言う獲物とは、一体誰の事なのですか!?」


 下品な賛辞と舐める様な視線。

 そんな少年の態度に不快感を覚えたのか、ウェヌスは語調をやや強めて返答を促した。


 少年は口笛を吹きながら肩を竦めている。

 そして女の身体をねぶる様に観察したかと思うと、ニヤニヤとした笑みを浮かべながら口を開いた。


「あ~、多分あんたの思ってる通りじゃね?

 ほら、さっきあんたとベタベタしてた、あの青いの。アレなぁ、その白いののせいで、今頃この瓦礫の下で煎餅だよ。ヒヒヒッ、ざま~ねぇの。

 ったく、本当はおれっちが直接殺してやるつもりだったんだぜ? いや~、残念無念。ま、でもさ、とりあえず結果オーライってコトで」


「…………」


 瓦礫の下に埋まったという、青い従者。

 少年はソレを、まるで笑い話の様に、心底楽し気にケラケラと語る。女は少年のその態度に、並々ならぬ不快感を感じている自分に気が付いた。


 そして次に少年が発した一言により、その感情はあらゆる色が塗り潰される事になる。


「まっ。どっちにしてもさ、どうせアイツはもう生きちゃいね~だろ。

 ――ってわけでさ、ネェちゃん。

 折角だし、ほら。おれっちに乗り換えない?」


「は…………?」


 女は目を点にした。

 暫しの間、何を言われたのか分からないという表情で硬直する。

 しかしそんな彼女を気にも留めず、少年は更に続けた。


「いや~、おれっちもさ。今の“ご主人様”にゃ、チョイとこりごりなわけよ。いや、良い女なんだよ? 良い女なんだけどな~、ど~も性格に難ありっつ~か、まあ、アレな感じなわけよ。ほら、あんた美人じゃね? おれっちとしては、どうせ呼ばれるんなら、あんたみたいな女だったら文句無かったのにな~、なんて思うわけよ」


「ふ、ふざけないで下さい!!

 何故武の国の王族であるこの私が、名も知らぬ敵国民の貴方を登用しなくてはならないのですか!?」


 視線の温度が更に下がる。

 女はその銀細工の様な声色を微かに荒げ、叱責する様にそう言い捨てた。


「う~ん。トーヨーってのはちょいと違うんだけどな~。ヒヒヒッ!! ま、見た目通りの真面目ちゃんってコトかね~。……んあ、名前だっけ? そういやネエちゃん、名前なんての?」


「あ、貴方の様な下賤かつ下劣な方に、名乗る名など有りません!!

 だ、大体。名を尋ねる時は、自分から名乗るべきだと教わらなかったのですか!?」


「ん~。ゲセンとかゲレツとか、おれっちイマイチ馴染みが無いわけよ。まっ、細かいこたぁ気にすんな。あんましお固いと、折角の胸まで固くなるぜ? 元から大してね~んだからさ。資源は大切にしろよ~?」


 ケラケラと笑いながら、少年はあくまでも軽い口調で語る。しかしその視線は、変わらず女の全身をジロジロと眺め回していた。その纏わり付く様な視線に、純白の姫は全身を穢されているかの様な不快感を覚えて身震いする。


「そ~いうワケで~。

 おれっち、ネェちゃんが偉ぶってもあんまし気にしないから安心しなって。

 ヒヒヒッ!! どうにもおれっち、昔っから良い女には目が無いわけよ。ど~せあんなデカブツじゃ、布団の中でもあんたを満足させられなかっただろ? ほら、おれっちならそこら辺、チョイとは分かってるつもりだし~?」


「…………」


 女は、暫し黙って少年の言葉を聞いていた。

 もしかしたら冗談かもしれない。

 いや、冗談でも不愉快な事には違い無いが、それでも謝罪するのならば、まだ赦してもいいかもしれない。それだけを期待し、女はただ肩を震わせていたのだ。


 だが、それにも限界があった。


「貴方は……」


「…………ん?」


 元から、大して気が長くは無い彼女である。

 増してや世俗の穢れなど知らず、直向きに鍛錬を積んで来た彼女にとっては、目の前の少年の言動は何一つ許容出来る物では無かったのだ。


 ――今はただ、自らの誇りを穢すあの舌を、一刻も早く斬り落としたい。

 純白の姫は、生涯でも数える程しか感じた事の無い、強い怒りに沸点を超えた。


「――貴方は、どこまで私達を侮辱すれば気が済むのですかっ!?」


 怒号と共に彼女の身体は流動した。

 流れる様な動作で白銀の大地へと手を這わせ、光のエフェクトが大気中へと発散される。

 瞬きの内に彼女の右手には小刀が握られていた。

 鍔も無く、柄も短い鋼。投合用に特化された、ダークと呼ばれる剣である。


「はぁあああああ!!」


 上体を戻す動作と投合は同時。

 小刀は空間に銀糸の様な残照を残し、少年の喉元目掛けて一直線に飛翔した。


「……っと!! あぶねっ!!」


 だが標的は、先刻あの男と殺し合いを演じた程の技量を持つ少年である。女との距離は、悠に15メートル以上。しかも女から見て上方に居る彼に投合武器など当たる筈も無く、少年は首を曲げただけで自らに迫る刃を躱していた。


「オイオイ、ネェちゃん。

 キレイな顔して結構――ってうおっ!?」


「やぁああああ!!」


 だが、女の怒りは収まらない。

 武装姫は少年が躱している間に更に3本の剣を作製し、矢継ぎ早にそれを放り投げた。

 少年がそれに気を取られている間に更に5本の投げ槍を作製し、標的が伏せた瞬間には8つのチャクラムがその頭部に投合される。

 息つく暇も無い連続攻撃。

 それは奇しくも、少年が彼女の従者に用いた戦法の焼き直しであった。


「――って、好い加減にしやがれこのジャジャ馬!!」


 叫び声を上げながら少年は跳躍した。

 それはどの様な理だったのか。

 ただの一蹴りによって空中へと跳ね上げられた彼の身体は高らかに宙を舞い、十数メートルもある瓦礫の山の頂上へと降り立った。


「……ったく、怖ェ怖ェ。

 いい女には取り敢えず粉掛けんのがおれっちの信条なんだけどよ~。こいつはちょいと望み薄かね?

 あ~……と。一応聞いとくけどさ、遊びでもいいから付き合ってみない?」


「太陽が東から上るくらいあり得ません!!」


 少年はあくまでも軽薄に話す。

 女は余程頭にきているのか、肩を震わせながら少年の言葉を両断した。


「……いや、太陽は東から上るんだけど」


 強い頭痛を堪える様な少女の声。

 冷静にツッコミを入れながら、今のセリフは怒りのあまり言い間違えただけなのだと、少女は取り敢えず信じてみる事にした。


 少年は瓦礫の頂上から眼下の3人を見下ろしつつ、自らの足元をチラリと伺った。山の中腹に先刻投げ捨てた火炎銃を認め、小さく舌打ちの音を響かせる。


「今はちと不利だな。

 ったく、何でこんな時に限って壊れてくれんだよ、クソッ」


 忌々し気に吐き捨てる。

 少年は3人の顔を交互に見比べた。


 ――女は殺気を漲らせた視線を向けている。

 ――少女は目を丸くしながら、何かを問う様に青年の顔を見詰めている。

 ――そして青年は、訝る様な表情を浮かべながらも、地面に何かの図形を描き加えてようと羽根を構えている。


 少年の口元が三日月形に歪んだ。

 まるで、視界の全てを嘲笑するかの様に。


「コレ、な~んだ!?」


 少年は、とうとうその背中に背負っていた筒を肩に担いだ。

 中身は空っぽ。

 黒光りする砲身が陽光を反射する、用途不明の中空の筒である。

 純白の姫も、真紅の少女も、その意味を理解出来ないらしく首を傾げていた。



「……な!?」


 だがこの場でただ1人だけ、少年の持ち出した道具の存在を理解し、同時に驚愕している人物がいた。白衣の青年、朝日 真也である。


 彼は知っていた。

 少年が使用した火炎銃の脅威を、この中で唯一、彼だけは理解していた。銃器とは、その口径に比例して殺傷力が高まるのが通例だ。無論、それは一般論でしか無い為に、中には例外もあるだろうが、それでも大砲が拳銃よりも威力が高いのは常識である。


 無尽蔵のプラズマを放射し続けた常識外の兵器。

 少年の世界が誇るであろうその叡智。

 もしもあの火炎銃が、口径に比例した破壊力を持つ兵器だとしたら――。


 砲身が咆哮する。

 雷鳴の様な駆動音を天高く響かせながら、炎神の殺戮兵器が数秒後の破壊に向けて歓喜する。それはまるで悪鬼の目覚めの様に、禍々しい妖光を纏いながらその内部を輝かせ始めた。


「アル!! 伏せろ!!」


 響き渡る青年の声。

 それと引き金の音は同時だった。


「あばよ、ネェちゃん!!

 生きてたらまた会おうぜ!!」


 災禍の火球が天を覆い、爆音と共に空間を食い尽くした。

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