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朝日真也の魔導科学入門  作者: Dr.Cut
第一章:イクリプス-2『最初の敵』
18/91

18. 地球とは全く異なる技術体系が進歩した異世界出身の少年が扱う未知のプラズマ兵器の原理に対する考察とそれに遭遇した更に別世界の人間が示した対処法の一例

 ――守護魔。

 様々な可能性を持つ異世界から召喚される彼らは、その常識外の知恵や能力故に“常理の外の存在”と称される。この世界の理では傷一つ付ける事が叶わない彼らは、言わば存在そのものが反則な魔人なのである。


 朝日 真也は先刻、謁見の間にて確かにそう説明された。

 そして、それはきっと正しいのだろう。

 彼はその瞬間に、はっきりとそう確信した。

 何故なら彼の目前で行われているその戦闘は、正に常識破りを競う戦いであったのだから――。


「オラよっと!!」


 軽快な掛け声とともに少年は引き金を引く。

 小砲より放たれる“弾丸”は無数。

 その全てが一撃で敵を絶命させる死の権化となりて、青い鎧に向けて疾駆する。


「クッ……!!」


 対する男は、ただひたすらに床を転がっていた。

 それはもう何度めになるか分からない回避行動である。男は金属が擦れ合う耳障りな音を残しながら床を這い、少年が放つ弾丸を寸での所で躱しつつ体勢を整える隙を模索する。


「おっ、頑張るね~。

 おうし、そんじゃ次いくぞ」


「――――っ!!」


 だが、雨の様に降り注ぐ弾丸がそんな事を許さない。男が片膝を着いた瞬間には頭上、脇腹、右膝へと攻撃が迫り、手を着いた瞬間には的確にその腕を捥ぎにくる。

 結果として男は、崩れた体勢を満足に整える事も、息をつく事すらも許されず、硬い床を無様に転げ回る以外に手を与えられなかった。


「なんだ、アレ……」


 青年は、遂に耐え切れずに声を漏らした。

 驚嘆に満ちたその瞳は、しかし決して少年の技量に対して向けられた物では無い。

 否、自分より幾分年下の少年が、あの化け物じみた大男を防戦一方にしているという事実も、確かに彼にとっては驚くべき事象ではあったが、それはそこまで注視するべき問題では無かった。驚嘆すべきはその手段と、それを可能としている少年の武器だったのである。



 小砲は絶え間なく火を吹き続ける。比喩では無い。少年が携えたその武器は、言葉通りの意味で“火を吹いて”いた。無反動砲と思われたその武器は、その実敵を焼き殺す火炎放射器だったのである。



 ――火炎放射器。

 人類の歴史上、その武器が戦場でメインとなる事は多くなかった。主な理由としては殺傷力が銃器に劣り、射程があまりにもお粗末であった事が挙げられる。火炎放射器が戦闘に使われたのは、専ら閉所の敵を炙り出す作戦か、もしくは酸欠による敵の窒息死を目的とした場合、或いは通常の弾薬が効果を発揮しにくい対戦車戦くらいな物だったのである。


 特に問題となったのは、その安全性であった。

 火炎放射器はその構造上、使用者は必ず燃料パックを装備していなくてはならない。当然である。炎とは物質が燃焼する際に発生する現象であり、つまりは燃える物が無くては火炎放射器は火炎放射器たり得ないからだ。実際の所、火炎放射器とは可燃物のガスや液体のジェット噴射を浴びせる道具であると説明する事が出来る。


 そして、反応対象を選ばないのが化学反応という物の特性だ。

 殺し、殺されるのが戦場での唯一のルールであるのならば、それは火炎放射器を持つ兵士にも例外無く適応されるだろう。結果として、実戦では敵の銃弾が装備者の燃焼パックを破る事が間々あったのだ。そうなれば炎は容赦無く装備者の身を焼き、無様に踊る火達磨へと変貌させる。構造上、直立して無防備な状態での使用しか出来ないという欠点もあり、その様な理由から火炎放射器は戦場にて華となる事は稀であったのだ。



 そう。少なくともそれが地球の歴史であり、青年の知る常識である。

 そして、だからこそ、少年の武器はあまりにも異様だった。



「オラオラ、休んでっと丸焼けだぞ~?

 ヒヒヒッ!! 踊れ踊れ~っ!!」



 少年の武器は火炎放射器である。

 炎を射出している点から考えて、それは間違い無いと言えるだろう。しかし彼のそれは、火炎放射器という定義に従いながらも、致命的なまでに青年の知る常識とは乖離していたのだ。


 それもその筈である。

 少年が放つ火炎は、その実何かが燃えている訳では無いのだ。少年の筒は“中空”である。それは先程青年が観察した瞬間から、一切揺るがない事実としてそこにある。だが少年の持つその武器は、一切の可燃物を放射していないにも関わらず、無尽蔵とも言える炎の弾丸を放ち続けていた。その時間、既に半刻以上。小砲は、休む事無く火を吹き続けている。


 その余りにも出鱈目な理。

 あり得ない筈の物理現象を目にした青年は、目を科学者特有の洞察眼へと変え、事態を理解しようと錆び付いた脳に喝を入れた。



「…………」



 青年は思考し、記憶した“常識”を静かに引っ張り出す。

 ――炎。

 炎とは、プラズマの一種である。

 そしてプラズマというのは、確か物質の三態には属さない第四の形態の事ではなかったか。


 固体を温めれば液体に変わる事は小学生でも知っている。液体を更に温め続ければそれは蒸発・沸騰し、気体となって大気中へと霧散していくのも常識だろう。では、果たして気体をさらに熱し続けたらどうなるか。


 分子間の結合がほぼ無くなり、バラバラの分子だけが飛び散っているのが気体の状態である。しかしこの分子が更に熱を受け続けると、やがて気体分子は分子ですらもいられなくなってしまう。電子が原子核の電場を振り切って飛び出し、イオンになった原子とごちゃ混ぜになった状態で不規則に飛び回る“雲”として振舞う様になるのだ。この第四の状態の事を、我々はプラズマと呼んでいる。



 先程青年は、少年の筒は“中空”だと考えた。

 しかしここが大気中である以上、中空とは真空を意味しない。例え空っぽな筒の中でさえも、そこには必ず、空気という“気体”が存在しなくてはならないのだ。


 無限の炎を射出する中空の筒。

 無限の弾丸を生み出しつつ、しかし弾丸を要し無い火炎銃。

 その矛盾した事象を体現するその道具の正体は、つまり――。



(――プラズマ砲。

 空気をプラズマ化し、炎として射出する、可燃物を要しない火炎放射器――!!)



 青年はそう分析した。

 分析しておきながら、その余りにも常識外れな常識に唖然とする。


 何故なら、プラズマとは本質的にコントロール出来ない物なのだ。正電荷を持つ原子核と負電荷を持つ電子が混在したプラズマという物は、全体としては電気的に中性になる。よって雲状物質を動かす上で最も現実的な、電場を作って目的の場所に誘導するという手法が成り立たない。


 しかもプラズマは、大気中においては直ぐにエネルギーを放出してプラズマでなくなってしまう為に、射出しても標的に到達するまでプラズマ状態を維持する事が非常に難しいのだ。

 現代の地球において、未だに実用的なプラズマ兵器の開発に成功したという話を聞かないのはこれが理由である。



 ――だが、少年の武器は違った。

 不定形の筈のプラズマは完全な球形を保って、視認すらも困難な速度で空中を駆けている。

 正確な形を保ったままに宙を移動するその様は、つまりはあのプラズマが指向性を持っているという証拠に他ならない。


 青年には、その原理は分からない。

 それが地球に無い技術である以上、そも青年にそれを理解する術は無いだろう。ただ、彼には1つだけ断言出来る事実があった。

 あの少年の世界の住人は、おそらくプラズマを自在にコントロールする術を会得している――。



「――――っ!!」



 男の頭を狙った炎の弾丸。

 紅炎は囀る様な残響を残しながら、獲物の脳漿を沸かさんと光のテラスを疾駆する。男は首を思い切り捻り、寸での所で火球を躱した。男の青髪が僅かに焼かれ、焦げ臭い臭気が展望台に漂う。


「チッ……!!」


 弾丸を躱し切れなくなってきたという事実に焦りを感じたのか、男はその精悍な顔を微かに顰める。それも無理が無い事だろうか。何しろ、男が少年に髪を焼かれるのは、初撃以来の事であったのだ。


 ――初撃。

 少年の武器より不意討ちの様に放たれた弾丸を、男は咄嗟に転がる様にして回避していた。それは先程、少年が自らに向かって放った謎の光球を思い出したからか、はたまた男の戦闘経験が敵の武装を飛び道具だと悟ったが故か。

 青年にそれは判断出来なかったものの、結果として、少年の火炎弾は男の前髪を僅かに焦がす程度に留まったのだ。


 しかしそれは、あまりにも長いダンスの始まりに過ぎなかった。

 青年には、その時は男の行動が最善の物に見えたのだが、少年は男に崩した体勢を整える機会を与えなかったのだ。

 初撃から現在に至るまで、既に半刻以上もの間、男は立ち上がる事すらも許されずに防戦を続けている――。


「ク…………ッ!!

 ……のガキ!!」


 このままではジリ貧だと悟ったのか。

 突如として男は、まるで勝負に出るかの様に、床を踏み抜かんばかりの勢いでその両脚を天に振りかざした。


「らぁぁああああ!!」


 うつ伏せになりながらも、無理な体勢で地を蹴る男。

 まるで地を滑る様に、青い鎧姿は低く移動する。

 手前に飛来する三発を、彼はそのまま伏せて躱していた。


「――――っ!!」


 そこに前方から迫る次弾。頭部を直撃するであろうその軌道を、右に転がって回避する。黒い銃口が男を追いかける。地に伏した男を焼き殺そうと、火龍の口は獲物の肉へと追いすがる。男はその軌道、その着弾点を現在までの少年の狙いから予測し――、


「うぉぉおおおおお!!」


 四肢の全てを使ってその巨体を、弾丸を飛び越すべく空中へと跳ね上げた。

 青い鎧を掠める3撃の火炎弾。

 それはしかし、的を正面から捉える事など決して叶わず、紙一重でニアミスしながら標的を離れていく。



「――――っ!!」



 ――鎧の音が木霊した。



 無理な体勢で飛んだ為か。

 満足に受け身も取れず、身体を部屋の壁へと強く打ち付ける男。鎧から伝わる衝撃が余りにも強かった為か。建物の壁が2、3枚の板に割れて、砂糖菓子のようにボロリと欠け落ちた。


「…………」


 だが、それは必要な代償だったに違いない。

 黙したままに息を整える男の体躯をその目で見て、青年は確かにそう確信する。

 結果として今、男の両脚は床板を踏み締めているからだ。

 全身の軽い打撲と引き換えに、男は少年の炎を直に浴びる事が無いままに、半刻ぶりに少年と対峙する事が許されたのだ。男は少年を睨む様に見据えながら、勝負を仕切り直すかの様に背を伸ばし――、



「おうおう、よ~く頑張れたじゃねえか。

 いや、感心だね~っ!!

 よっ、大将!! お国一!!」



 ――嵌められた。

 少年の声を聞きながら、男はそう確信して舌打ちした。


 男が立ち上がったその場所は、部屋の角だったのだ。

 左右に一切の逃げ場が無い、飛び道具を相手にしては正に棺桶とも呼べる領域である。

 少年はわざと躱しやすい場所を作って弾丸を放ち、男が足場と引き換えに逃げ場を失う様に仕向けていたのだ。


 少年は勝利を確信したのか、ニヤリとその口元を緩めている。

 対する男は、憎々し気に少年を睨む事しか出来ない。

 この瞬間、二人の魔人の視線は、全く異なる色合いを持って交錯していた。



(決まり……か?)



 状況は既に詰んでいる。

 素人である青年にも理解出来る程に、それはあまりにも明白であった。


 三方を壁に囲まれ、唯一空いた正面からは火炎が放たれようとしている状況。

 この戦いは、少年が引き金を引けばそれで終わるだろう。

 少年がその指を、ほんの数センチ手前に動かすだけで、男は断末魔を上げながら絶命するに違いない。少年が殺すと明言している以上、それはもう、既に決定された未来である。



 男は何も言わない。

 岩の様に黙したままに、ただ目の前の少年を、自らの命を終わらせる死神の姿をその獣の様な眼光で射抜き――、



「…………」



 ――その右手を、腰元に携えた短刀に掛けた。



「は? オマエ、何してんの?」


 少年は嘲る様に問い掛ける。

 なんという苦し紛れか。

 おそらく少年の目には、それが男が打開策を持たないが故の無意味な動作に映ったのだろう。



「…………!!」


 だが、それを見ていた青年の解釈は少々違っていた。

 あの男なら殺し得る。

 それを悟り、白い青年は戦慄する。


 彼が思い出すのは、正門前であの男と初めて対峙した時の事件である。あの時は、確かに彼が意識を緩めていたという理由もあっただろう。

 だがソレを差し引いても、あの男はあの時、間違いなく人間が目で追えない速度で剣を投げつけてきたのである。


 そう。男の投合は、一撃に限り銃弾を上回る殺傷力を発揮する。少年と男の距離は、奇しくも先刻と同じ10歩。男ならば、十分に少年を串刺しにし得る距離である。


「へ~……。あっ、そう。

 ま、いいんじゃね?

 そんじゃ、やるだけやってみろよ」


 少年はあくまでも軽薄に言い捨てる。

 しかし彼も、内心では男の殺気が高まっていくのを感じているのだろう。余裕に満ちていたその表情は、微かに険しくなっていた。

 余りにも対照的な蒼赫(そうかく)の風貌を持つ両者の間には、言い知れない緊張感が漂い始めている。



 ――青年は分析する。

 この勝負、おそらくは少年に分があるだろう。



 速度だけならば、おそらく男の投合は少年を上回る。プラズマの弾丸が一般的な銃弾に比して遅いという事もあるが、武人たるあの男は、呼吸の合わせ方があまりにも上手いのだ。

 それを鑑みるに、男の投合は少年よりも間違いなく“早く”なるだろう。


 だが、注視するべき要素が1つだけある。

 今回男は、その短刀を鞘に収めたままなのだ。

 男の剣戟は、確かに驚嘆すべき速度である。しかしそれでも、剣を引き抜いてから狙いを定め、その上投げるという動作を考えた場合には、既に狙いを定めて引き金に指を掛けている少年には到底及ばないだろう。

 ……つまり男がこの勝負で少年に勝とうと思ったら、彼は初めから剣を抜いた状態で構えていなけらばならなかったのだ。

 良くて相打ち。

 10回中8回は少年が勝つであろう、余りにもハンデのある早撃ち勝負。


「ハッ!!」


 少年もそれは悟ったのか。

 小馬鹿にする様に鼻をならし、男をねぶる様に見据えている。


 何も言わず、ただ愉悦だけにその幼い瞳を踊らせたまま――、

 少年は、静かにその引き金を引いた。





「――――は?」





 驚愕の声は、誰の物だったか。





「らああああああっ!!」





 雄叫びが陽光に反響する。

 擦れた金属が鍔鳴りを残し、居合いの一撃が天へと迸る。

 その軌道は射手たる少年ではなく、炎の魔弾に向かって放たれていた。蒼い空間に残る、あまりにも鮮やかな白銀の残像。その常識外れな斬撃は、まるで敵の常識をねじ伏せるかの様に、少年の炎を真っ二つに“切り裂いた”。



「な……」



 ポカン、と、口を開けて固まる青年。



「――んだそりゃっ!?」



 驚愕に目を見開き、叫ぶ少年。

 全く温度の違う彼らの反応は、その実全く同じ感情から生まれた物である。


 無理もあるまい。

 放たれし弾丸はプラズマ。

 全てを焼却し、燃焼する高速の雲。

 数千度の熱量を誇り、形という物を持たない、本来御し得る可能性など皆無な存在。

 それを“斬る”などという行為を、果たしてどこの誰か想像し得ようか。


「悪いな、ガキ。お前がさんざっぱら無駄撃ちするもんだからよ。目が慣れちまった」


 抜き放った短刀を肩に叩きながら、男は平然とそんなデタラメな事を言い放った。その表情には一切の動揺が見られず、今の行動が紛れも無く狙って行われたものである事を示唆している。


「テメェ……」


 驚愕に目を見張る少年。

 悪夢の様なその光景を目の当たりにし、しかし彼は小さくその首を振ってから再び銃口を構えた。


「はっ、なぁにが慣れちまっただよ。

 ――んなマグレが、そう何度もあって堪るか!!」


 激昂する少年。

 小砲は再び弾丸を放った。

 狙いは男の眉間。

 見えているからこそ標的が恐怖を覚える、本能を脅すヘッドショット――!!


「シッ!!」


 だが、通じない。

 男はそれを、さも当たり前の様に切り捨てていた。

 切られた炎は原型を失って四散し、散り散りになって虚空へと溶けていく。

 少年の銃を異様と形容するのであれば、男の対処方は最早異常であると言えた。



 少年は驚愕している。

 獣の耳は稜立つ様にピョコピョコと動き、その赤髪は威嚇する様に逆立てられている。

 だが、未だにその手は火炎銃から離れない。

 それを確認したのか、男は悠然と口を開いた。


「まだ続けるのか?

 いいぜ。なら、お前の気が済むまで付き合ってやる!!」


「ほざけよ、デカブツ。

 おれっちの気が済む時は、テメェの身体が燃えた時だっ!!」


 その声が合図になり、少年は狂った様に銃を乱射し始めた。炎の弾丸は結合し、最早巨大な壁となって青い鎧を飲み込もうと迫る。

 対する男はその全てに剣を合わせ、まるで削岩機の様に炎の弾幕を削っていく。炎の咆哮が雷鳴ならば、男の剣舞は荒れ狂う暴風である。二人の魔人が乱舞するその光景は、正に嵐そのものだった。


「はっ、らあ!!」


 掛け声と共に剣を振るう男。

 どの様な感情からか。

 青年には、その口元が僅かに綻んで見えた。


「ク……の!! は!! はっ!!

 ははは、ヒャハハハハッ!!」


 嘲笑と共に引き金を引く少年。

 どの様な心情からか。

 彼は、心底楽し気に高笑いをしていた。




 際限無く増殖していく弾幕と、際限無く高まっていく剣戟。雷鳴は部屋を包みこみ、閃光は二つの人形(ヒトガタ)を覆っていく。

 世界の常識をねじ伏せんと乱舞する二人の魔人の戦闘は、白衣の青年に溜息を吐かせた。



 ――成る程。

 どうやら、あの連中は二人で戦う事に決めたらしい。

 青年は半ば呆然としながら、静かにそう分析する。


「…………」


 呆れながら小さく頷く。

 なるほど。化け物同士で殺し合ってくれる分には、こちらとしては一向に構わないだろう。折角の実験が御破算になるのは心苦しいが、それでも命に代える程に価値のある物でもあるまい。いや、いい事だ。そもそも青年は、こんな物騒な事など柄では無かったのだ。あの連中が勝手に潰し合ってくれる分には、青年には何の不都合も無い。いやいや、本当に何と都合のいい事か。


 現状に対して前向きな解釈をした彼は、取り敢えず王宮にでも避難してみようかと思い至った。王宮魔術団とやらがどんな連中なのかはよく知らないが、それでもこの連中の場所を教えれば、何らかの手は講じてくれるに違いないからだ。

 そうだ。少々イカれているあの二匹は取り敢えず放置して、自分は安全圏から鑑賞でもしていよう。

 そう考えながら、彼は立ち上がろうとその両脚に力を込め――、


「?」


 何かが、彼の頭上を掠めた。

 青年の視界の外を通過したその飛行物体は、彼の頭上で“チリッ”という軽い音を立てて、背後の壁へと突進した。



 何となく、振り返る。

 何故か無性に気になって、彼は自分の背後をゆっくりと観察してみる。

 壁には、何故か椅子の脚みたいな物が突き刺さっていた。そしてその隣の壁は、濃硫酸でも被ったのか、何故かドロドロに溶解していた。



「…………」



 もう一度、怪物達の方向へと振り返る。

 意味が分からなかったので、なるべく分かりやすい疑問符を浮かべながら、何故か変な物を投げて来た魔人達へと視線を送る。



「おい…………」


 唸るような低い声。

 男の右手には短剣が握られていた。

 左手はナニカを投げた後みたいに下げられていて、脚の欠けたソファーがその足下に転がっている。



「…………」


 睨みつけるような視線。

 少年の手には、例の火炎銃。

 しかしその銃口は、何故か、青い男では無く白い青年を向いている。

 彼らは何かを言いたげな形相で、何故か戦闘を一時中断したまま、ジッと青年の方を睨んでいた。



「……白いの。

 てめえ、ナニ逃げようとしてやがんだ?」


 青い男が言う。

 獣の様な眼光が、ギロリとこちらを睨んでいる。


「ケケケッ、そのと~り。

 テメエはそこで、おれっちの勇姿を黙って見てりゃいいんだよ!! ああ、安心しな。このゴリラ焼いた後にゃ、直ぐにテメエも殺してやるから」


 赤い少年が言う。

 獣の様な耳が、ピョコピョコと楽し気に跳ねている。



「…………」



 青年は、観念した。

 成る程。どうやら彼らは、勝手に喧嘩をおっ始めたくせに、青年を逃がすのは少々気に食わないらしい。

 優先度は目の前の敵程では無い様だが、それが終わったら、取り敢えずは青年も殺しておく算段でいるようだ。


「……穏やかじゃないな」


 白い青年は肩を竦め、心底疲れた顔でそう零した。



 -----



 そして少女は弓を下げた。


 時計塔に程近い、人気の絶えた通りの真ん中。

 正午を過ぎた陽の光が王宮に遮られ、涼やかな木陰となっているその場所で、少女は自らの魔術が敵を焼いた手応えを感じ取った。


「ふぅ……」


 緊張の糸が切れた様に、小さく息を吐きだす。

 全力で走りながら弓を引いていたからだろう。

 酷使し続けた肺から漏れた空気は、それこそまるで火が着いたかの様に熱かった。


 ローブの袖で軽く汗を拭いながら、少女はぐったりと地面に座り込む。年頃の女子としては少々行儀が悪いかもしれないが、今だけは仕方ないのだと、彼女は自分に言い聞かせてみるのだった。

 自身の限界を超えた感知魔術の継続と、人の限界を超えた体力を持つ“アレ”との鬼ごっこ。

 昨夜から持ち越された身体の怠さも加算されて、彼女の疲労は既にピークを通り越そうとしていたのである。


「…………」


 呼吸を整えながら、少女は遥か前方の空をその瞳に映す。

 冬晴れの空には、相変わらず雲は一つも無い。今しがた行使した大魔術による黒煙だけが、ポッカリと群青の海に浮かんでいた。(スミレ)畑に紛れ込んだ黒薔薇の様な色彩の変化をその双眸に納め、少女は漸く、自らがあの敵に勝利した事を実感する。



「あたしの勝ち。

 空っぽなあんたの頭でも、流石にあたしの方が強いって理解出来たでしょ」


 もう聞いていないであろう敵に向けて、少女は独り言の様に呟いた。瞳に見られるほんの僅かな翳りの色は、目線の先にある黒煙が映っただけだろうか。

 宝石の様な翠の瞳は、最後まで何も語りはしなかった。



「さて……」


 少女は右手を空中へと這わせながら、意識を黒煙の方向へと集中させた。龍霊級火炎魔法の直撃を受けた、自らの敵の姿を確認する為である。

 無論、敵とて大魔導である。“抗魔術結界”などこの国に入った瞬間から張っていただろうし、そんな常備用の結界でも、あの炎を3秒くらいは防げただろう。大火傷を負って戦闘不能なのは間違い無いだろうが、それでも一命は取り留めている可能性が高い。


 どちらにせよ、少女が手の掛かる“アイツ”を助けてあげる為には、取り敢えずは純白の姫にあの大男を処分させるしか無いのだ。或いはそこまでいかなくとも、最低限あの大男が“アイツ”を襲わない様に命令させなくてはならない。

 ……少女本人、何であんな役立たずでムカつく奴の為にそこまでしなくてはならないのか甚だ疑問ではあったものの、勝手に呼び出したのは事実だし、それに怪我をさせてしまった負い目もちょっぴり感じてはいるし、ちょっとくらいなら助けてあげてもいいかな、などという気分になっていた。



 銘の詠唱と共に、視界は少女の身体を離れて疾走する。

 魔力の波が4原色の景色を創り上げ、少女の双眸に火元の光景を伝播させる。

 さて、火達磨になったであろう敵の容体は――、



「……ウソでしょ?」


 瞬間、少女はその顔を強張らせていた。

 自らが認識した事実。視覚として感じられるその光景が、まるで信じられないとでも言わんばかりに。



 黒煙の中には卵があった。

 直径は、軽く少女の身長の倍くらい。

 金属製の卵形の物体が、まるで奇妙なオブジェの様に、大通りの真ん中に安置されている。



 背筋に嫌な汗を感じつつ、少女は緩やかに思考を回した。

 少女はこんな物を用意した記憶は無い。

 あの場所に、あんな物があった記憶は無い。

 つまり、アレを用意したのは――、



『私に手傷を負わせた事は賞賛します。

 しかし、所詮はそこまで。

 いくら心得の無い貴女でも、流石にもう実力差が分かったのではありませんか?』



 針として用いた霊道が、凛とした声を捕捉した。

 白銀の卵に皹が入り、怪鳥(グリフォン)の雛が孵る様にその正面が砕け散る。極限の機能美とはある種の芸術だ。厚さが少女の身長程はあろうかというその殻は、内部に何層もの隙間が設けられており、彼女はついその微細な断熱構造に感嘆してしまった。

 その防御。完成品たるその芸術を惜しみなく破壊し、純白の姫はその健在な姿を陽光の下に晒した。


 生還を果たし、陽光を眩しがる様に腕を掲げる武装姫。

 辛うじて見られる負傷は、赤熱した金属に触れたであろうその右手に軽い火傷がある程度。ドレスには焦げ跡一つ見当たらず、彼女を象徴する金糸の髪は、未だに目を奪う美しさで彼女の魅力を装飾している。戦姫は疲労も憔悴も一切見せぬまま、未だに現実離れした美しさでそこに居た。


『終わり、ですか?

 ――分かりました。

 それなら、遠慮無く決着を着けさせて貰いましょう』


「――――!!」


 敵の声が少女に届く。

 あれ程の大魔術の直撃を浴び、なおもさしたる傷を負わぬ美貌の怪物が、少女にその処刑を宣告する。

 勝利宣言から一転、窮地に立たされる少女。

 その表情は、あまりにも予想外の現実に色を失っていた。





「…………」





 ――いや、違う。

 予想外だと考えたところで、少女は自らの思考に頭を振った。





 本当は、分かっていたのだ。

 万全を機した一撃。

 必殺を期した魔術行使。

 それを用いてもなお、あの敵ならば防ぎ得るかもしれない。否、防ぐ可能性があるだろう。

 そんなことは、少女は半ば無意識に察していたのだ。


 だからこそ、彼女は矢を1本残した。

 先ほど少女が放った矢は26。

 27本中26本。

 必殺を期すと言いながら、その実敵が防ぎ切る可能性を捨て切れず、彼女は最後の攻撃手段をその手に残していた。



 ならば、慌てる必要など無い。

 手持ちの矢はたった1本。

 だが、慌てる必要も焦る必要も無いのだ。

 何故なら、少女はまだ切り札を残している。

 少女を大魔導たらしめている必殺の大魔法を、少女はまだ使用していない。


 万物全てを焼き払う究極の一。

 例えあの敵であろうと、否、この世界の存在である以上防ぐ事など叶わない炎の奥義。

 “精霊級魔術”。

 放てば、勝負はそれで決するに違いない。

 問題は、間に合うかどうか――。


 純白の敵が駆けて来る。

 数秒足らずで彼女の姿は少女の視界へと入り、更に数秒で剣の間合いへと漆黒の衣を捉えるだろう。魔術の発動に必要な時間との比較。

 ――結果は、ギリギリ。

 それこそまるでコインを投げて占うかの様な、あまりにもギリギリなタイミング。


その鎚(tir)常に赤熱し(thorn)数多の邪悪(hagalaz)を打ち払う(ken)


 だが、やるしか無い。

 間に合うか、では無く間に合わせなくてはならない。敵に勝利する手段は、最早それしか残されてはいないのだから――。


高き雄峰は(geofu)虚無の谷に(sowelu)

 世界蛇には(geofu)最期の神罰を(sigel)――」


 敵が現れた。

 曲がり角から飛び出す純白のドレス。

 到底走るには向かないその出で立ちで、しかし戦姫は常識外の速度で間合いを詰めて来る。

 目算、残り6秒。

 詠唱完了まで、残り――、



 -----



 灼熱の業火にその身を包まれた瞬間、女は一度死を覚悟した。


 世界を覆い尽くす、圧倒的な炎の奔流。

 それは正に伝説の火龍を彷彿とさせる程の、大魔導たる少女に相応しい威力の大魔術だったと言えるだろう。


 それを不意打ちに近い形で食らっては、いかな大魔導(ウェヌス)と言えども戦闘不能は免れまい。

 彼女がそれを防ぎ切れた理由はただ1つ。足元から炎が噴き出した瞬間、一切の無駄が無い動作で熱防壁を組み上げる事が出来たからである。

 それは(ひとえ)に彼女自身、あの少女が放つ最後の猛攻が、あの程度で終わる筈が無いと無意識に感じ取っていたからであった。


「終わり、ですか?

 ――分かりました。

 それなら、遠慮無く決着を着けさせて貰いましょう」


 認めるには多少癪な理由ではあったが、まあ敵の最後の攻撃を防ぎ切った事に変わりは無い。

 姫は高らかに勝利を謳い、どこまでも優雅に、そして軽やかにその歩みを進めた。

 その口元には、自らの絶対の勝利を確信したが故の笑みが見られる。

 彼女が闊歩するその様は、正に王族の凱旋のようであった。



「――――っ!!」



 だがその波動を感じた瞬間、彼女の凱旋は突如として逃避行へと変貌した。



(精霊級魔術!?)



 それは先刻の流星群を遥かに上回る悪寒であった。

 感じるのは、最早吐き気を覚える程の魔力の収束。

 敵が放とうとしている正真正銘の切り札に、女の全身は総毛立った。



 ――精霊級魔術。

 それは精霊の力を借りて行使するという魔術の定義の中にあって、精霊の力を全て持ち出して行使するとされている魔術の名称である。


 有象無象の魔術が精霊の力を一部しか借り受けないのに対して、精霊1体分の力を丸ごと使用して放つ、最高ランクの大魔法。このランクに分類される魔術は、無数の銘が存在する魔術の中にあって、各属性に1つづつの計4種類しか無い。

 それは正に、魔導の頂天に位置する4大魔術なのである。


 身震いしながらも、彼女は更に思考した。

 これまでに敵が放った魔術の属性を鑑みるに、自らに向けられたその種別はおそらく火だろう。少女が放とうとしているのはおそらく、ただでさえ4大元素の中で最も攻撃力が高いとされる火属性の、更にその頂点に位置する大魔術。それが果たしてどれ程の威力を誇るのか。そんな物は、最早考えるだけ愚かしい。

 なら、ここで立ち止まるなど愚の骨頂だ。ソレを防げる盾や結界など、この世界にはあろう筈も無いのだから。


 純白の姫は、疾走しながら距離を測る。

 彼我の距離、凡そ10秒弱。

 敵の詠唱完了までの時間、“精霊級”であるのなら最低30秒以上――、


 ――違う。そんな筈が無い。

 敵が今それを使おうとしている以上、それはつまり間に合うかもしれない時間の筈だ。



 曲がり角から飛び出した瞬間、武装姫の視界は真紅の少女の姿を捉えた。闇を纏うかのような漆黒のローブに、遠方からでも目立つトンガリ帽子。その全身は妖精の如く燐光に包まれ、規格外の魔力がその細腕に流れている事を示している。赤熱した鏃は白いドレスに。解放の瞬間を今か今かと待ち望んでいる。



 白いドレスが黒いローブに疾走する。

 赤熱した鏃が放たれるに先んずるべく、回避も防御も度外視して、女は真紅の少女へと間合いを詰める。


 残り、6歩。

 敵影までの最後の距離を駆け抜けながら、戦姫はその剣を振り上げた。必勝を期し、その銀弓ごと少女の腕を粉砕せんと、白銀の剣戟が陽光に閃き――、



死せる(wyn)朋友(geofu)愛する者には(wynn)祝福を与えん(inguz)


 少女の詠唱が完了する。

 自らに向けて迫る剣戟。

 瞬きの後に自らを斬り伏せるであろうその銀閃を前にして、なおも瞬きすらもせずに彼女は自らの標的を見つめ、ソレを灰燼に帰さんと魔力の奔流は荒れ狂い――、





 そして、“彼女”は勝利を確信して微笑んだ。





 -----



 雷鳴は止まない。

 炎の弾幕はその実無限なのだろう。

 故に少年は、自らの炎が敵を焼き尽くすまで止まらない。止まる時は死ぬ時だと言わんばかりに、遠雷は尚も果てしなく鳴り響く。


 暴風は止まない。

 炎が無限なのだとしたら、対する剣舞もまた無限であった。男の剣戟は敵を斬り伏せるまで止まらない。否、それは当然だろう。男の剣舞が暴風である以上、それが雷鳴より前に止まる事などあり得ない。


「――のヤロ!! 好い加減くたばりやがれ!!」


 少年の放つ火炎弾は、再度炎の壁となって青い男を飲み込もうとしていた。絶え間なく続く連続砲撃。炎とは、本質的に形が無い物だ。常識で考えるのならば、無形の炎を有形の剣が防ぎ切る道理など有りはしない。


「ガキ!! お前こそ好い加減諦めやがれ!!

 こっちは後がつかえてんだ!!」


 だが、常識とは更なる常識によって塗り替えられる定めにある物だ。男の剣戟は、近寄る炎をただ一つの例外も無く斬り捨てていく。少年の炎が空気から生成される物である事が災いしたのか。火炎銃が空気を弾丸としている以上、炎は空気が無くては存在し得ない。男の剣戟に遅れた空気は隙間、つまりは真空を作り出し、風切り音を残しながら炎を両断していく。彼の剣は、文字通り空を切っていたのである。


 2人の魔人の戦闘は、なおも激しさを増してゆく。

 お互いを認め、お互いを障害として認識し、なおも敵の存在を自らの常識(ルール)で塗り潰さんと、戦闘はどこまでも楽し気に加速していく。



「…………」



 その戦い。

 見る者の目を奪い、圧倒するであろう2つの世界の衝突を目にしつつ、どこまでも複雑そうに表情を歪ませる見物人がいた。


 “白の守護魔”、朝日 真也である。

 彼は初め、自分が感じているのは恐怖だと思っていた。何しろ目の前の魔人達が人間離れした戦いを繰り広げれば繰り広げる程に、生き残った方が自分の命を狙って来るという現実が、逃れられない死刑宣告として彼に突きつけられるのだ。胃の辺りに感じる黒い重さも、その恐怖という感情から生まれた物に違いないと彼は考えていた。



 だが彼は、今ではそれが違う感情も含んだ物だったという事実に気が付き始めている。

 際限無く加速する人外の戦いと、塗り替え続けられる世界の常識。その渦中に居る2つの人形(ヒトガタ)は、どこまでも必死そうに、しかしどこか楽し気に、お互いの命を取り合っている。

 その様子を眺めながら、彼は自分が思いもしない感傷に囚われている事に気が付いたのだ。



 ――自分は、何をやっているのか。



 目の前にいる2人の魔人は、自分と同じ境遇にある人間であるという。それぞれが別々の可能性を持つ異世界で育ち、運命の悪戯によってこの場に巡り合わせただけの、“ただの”異界の人間。

 ならば、状況はイーブンの筈だ。彼らと自分に差は無い筈だ。それにも関わらず、自分とこの2人の間に存在するこれだけの格差は何なのか。



「…………」



 本当は、分かっていた。

 彼らが歩んで来たであろう人生と、自分が歩んで来た人生。

 彼らの世界の環境と、自分の世界の環境。

 それらが余りにもかけ離れていて、自分はたまたま、争いなんか殆ど経験せずに済む世界で育っただけの話だ。少なくとも青年の世界では、争いの無い平和な世界は“良い世界”だと信じられていたし、実際そう教育されてきた。ならば彼は、荒事に向かない世界の出身だったという事実を誇りこそすれ、負い目に感じる理由など無いだろう。



 そう。無い筈だ。



 もし彼が少年の様に、あの歳でも強力な武器を扱わされる世界の出身であったのならば、あの2人を横から狙い撃つ事も出来たかもしれない。或いはもしも男と同じ様に、圧倒的な剣の技量を身に付ける事が出来る世界の出身であったのならば、敵を正面から迎え撃つ事も出来たかもしれない。


 全てはもしもの話。

 あり得ない仮定。

 無い物ねだりな情けない願望。

 実際には、そんな事実は無い。

 そんな都合のいい現実は無い。

 青年には戦闘の経験も無ければ、青年の世界では、敵と戦う術をまともに教えられる事も無い。

 戦う手段など、彼には初めから無い。

 この場において彼らに対抗する力など、青年の世界の人間にはあろう筈も無い。



「…………」





 ――違う。





 一瞬、強い感情が彼の頭を掠めた。

 沈んだ脳内に赤い色が明滅していく。

 ――そう、違う。

 彼らは彼らの世界からやって来て、彼ら自身の常識を用いて戦っているだけだ。だが、彼らの間に優劣は無いだろう。剣を振るう男がその力を誇るのならば、対する少年の技術もまた、甲乙付けがたい程に優れた力なのである。


 ならば、優劣などあるまい。

 様々な可能性を持つという異世界。

 しかしそれらは只あるだけで、それぞれに優劣などあろう筈も無い。

 そしてそれは、青年の住む世界にも言える事である筈だ。例え直接彼らと戦う術が無くとも、正面から戦えば瞬殺される様な脆弱な生き物であったとしても、それが彼の世界が他の世界に劣っているという理由になどなりはしない。



 ――武器はある。

 否、初めから武器はあったのだ。

 勿論、こんな小さな羽根ペンなどでは無い。

 もっと、ずっと。遥かに強力で、あまりにも身近にあったから武器だと思えなかった力。

 武器にするにはあまりにも当たり前だった、彼の世界が誇る常識。

 ならば、恐れる必要など無い。

 怯える理由などありはしない。

 何故なら青年にとって、積み重ねて来た生涯を通して、自分に誇れる物があるとしたら、ただその一点のみだったのだから――。



 男が少年へと踏み込んだ。

 剣戟は神速で閃き、少年の腹部へと駆け抜ける。

 対する少年は上体を反らし、男の剣を躱しながら銃口を敵の顎へと向ける。



 そう。奇しくも青年が意図していた、正にその“領域”の上で――。



 青年はずっと見ていた。

 彼はずっと待っていた。

 2人の魔人が戦っている内に、偶然その“領域”へと足を踏み入れるその瞬間を。



 二人の魔人が必殺を期したその瞬間、



解放(jara)



 青年は、終わりのセリフを口にした。

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