17. 一般の人々にとって興味の無い事象や理解の無い現象に対する実験は多くの場合一般の方々の理解が得られない上にその安全性を問われることも間々あるという事実を示す事例の一つ
男がその場所を発見したのは偶然だった。
人気の消えた住宅地に、まるで紛れるかの様に佇むボロ屋。二階建ての寂れた店は、入り口に“魔装屋・ギル”と書かれた看板を下げていた。
この国で育った人間では無く、増してやこの世界の人間ですら無い男である。それが何の店なのかなど完全に理解の外ではあったが、そこが只ならぬ状況に陥っている事だけは一目で把握できた。
理由は単純である。
第一に、二階の窓は全て吹き飛んでいる。
第二に、店の前の石畳には、斧やナイフといった物騒な道具が山ほど突き刺さっている。
第三に、真新しい血痕が、店から石畳へと続いている。
そのあまりにも酷い崩壊の跡は、初見ではここは初めから廃墟だったのではないか、と男に錯覚させた程であった。
――それが間違いだった事に気付くのに、そう時間は掛からなかった。
ガタガタに歪み、半開きのまま固定された扉を蹴破って店内に入った瞬間、警戒しながら様子を窺っていた男を出迎えたのは、まるで樹木の様に乱立する銀の柱と、ボロボロに破壊された商品棚だったのだ。店主らしき中年の男が、店の隅の方でガタガタと震えていた。
舌打ちしながら、男は状況を分析した。
この店は、おそらく白い青年に襲われたのだろう。
現場の状況証拠から、男はそう確信する。
命を狙われ、男に対抗する手段も無く、敵は相当に焦っていたに違いない。おそらくは、武器を調達する目的でここに強盗にでも入ったのだろう。
散らばっている商品らしき武具。
石畳に残された血痕。
何らかの魔術でも使われたのか、無秩序に立ち並ぶ無数の柱。
これらから判断するに、強盗に入った青年はここで店主の魔具による抵抗に合い、傷が開いたか新たに傷を負ったかをして退散したというところだろうか。
少なくとも、男はそう理解した。
――ならば、この惨状は自分の責任である。
先程門の外で仕留められなかったのだから、錯乱した青年が何かをしたとしたら、それは全て自分の責任なのだ。男は店主を起き上がらせ、深々と頭を下げた。
男は店主に、手持ちの金を財布ごと渡してやった。
国交の無い武の国の通貨が、この国の通貨と両替可能であるとは思えなかったものの、それでも男は何かをしなくては気が済まなかったのである。そして何より、ここでこの惨状を見なかった事にしては、主である“彼女”の顔に泥を塗る事になる。
男には、それだけは出来なかった。
外に散らばっていた商品を粗方店の中に運び終えた後、男は意を決して導火線を辿り始めた。
一度は途切れた道標であったが、今度ばかりは途切れる前にヤツに追い付く。これ以上ヤツが何かをしでかす前に、一太刀の下にあの白装束を切り伏せる。男は使命感にも似た焦燥感と共に、白銀の石畳を猟犬の如く駆け抜けた。
「…………」
そして彼は今、導火線の終着点にいる。
場所は時計塔の前。
青年の姿は未だ見えないが、血痕が建物の内部へと続いている以上、ここが目的地である事に疑いの余地は無かった。
内部へと足を踏み入れる。
時計塔は図書館も兼ねているのか、内には古めかしい専門書が所狭しと並べられていた。
強いインクの薫りが鼻腔を満たし、まるで青年の血臭を紛らわすかの様に、男の五感を麻痺させる。
螺旋状の階段を登る。
魔術大国故の装飾なのか。
階段や壁、柱には、所々に円形の図形が描かれて、ぼんやりとした燐光を放っていた。
その周囲には、血塗れの手形が無数に付着している。
それらを無視しながら、男は血痕を辿り歩みを進めた。
入り組んだ通路に、曲がりくねった階段。
それらに方向感覚を失いそうになりながらも、男はただ血の跡だけを頼りに先へと進んで行く。
どれ程の距離を歩いたのか。
どれ程の階層を登り、降りたのか。
それすらもアヤフヤなまま、やがて彼は開けた場所へと辿り着いた。
本棚が無く、天井から蒼い光が差し込む部屋。
四方に窓が設置され、その前に置かれたソファーが陽光に照らされている、光のテラス。
時計塔の断面に匹敵する広さを持ち、開放的な視界から眼下の街を一望出来る、最高層の展望台。
「遅かったじゃないか。
オレは待たされるのは好きじゃないんだがな」
あちこちに円い図形の描かれた、落書きだらけの空間。
その一番奥。
壁際のソファーに腰掛けて、白い青年はオレンジの羽根を指先に遊んでいた。
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老人から武器を手に入れた後、青年が初めに行ったのは必要な全ての“常識”を再検証する事だった。
手始めとして彼は、先ず早速店の床で羽根ペンの能力を試してみる事にした。老人の様子からしてそれが偽物であるとは思えなかったものの、それでも一応のところ、動作を確認しておく必要性を感じたからである。
店主が訝しむ様な目線を投げかけ続けていたが気にせずに、青年は広場で少女が描いた図形を努めて正確に再現し、また少女の発音までもなるべく真似て言霊を呟いてみることにした。
……結論から述べると、結果は無残であった。
何度か図形を試し描きし、発音も変えて何度も何度も挑戦してみたものの、床には何の変化も起きなかったのである。もしやこの建物はアダマス鉱とやらではないのではないか、などとまだ希望のある仮説を考案しつつ、彼は一縷の望みを託しながら、床中に魔法円を描いて描いて描きまくった。
店中を落書きだらけにされた店主の目が血走り始めた頃、彼は漸く、その道具が偽物であるという可能性を受け入れた。疲れた腕を休ませる為に、腕を屈伸したり手を開閉してみたりした青年。
――その時である。彼は、少女が石畳を変形させた時には、確か羽根ペンを魔法円へと翳しながら呪文を唱えていたという事実を思い出した。
駄目元で、試しに羽根ペンを床に翳しながら詠唱を行ってみた青年。
……結果、床中にビッシリと描かれた魔法円は一斉に燐光のエフェクトを放ち、店内は一瞬にして崩壊したのであった。
まるで化け物を見た様な顔をした後、徐々に化け物の様な顔つきに変わっていった店主の反応が気ががりではあったものの、既に学者モードに突入していた青年は、そんな些細な事など気にも留めずに次の行動を開始した。
商品棚に置いてあったメジャーの様な道具を手に取り、二階の窓から一階へと垂らす。目盛りには“ラド”とかいう聞いた事もない単位が使われていたものの、取り敢えずは地面から二階の窓枠までの高さを知る事が出来た。
そして青年は、店の中にある物を抱え込めるだけ抱え込み、一つづつ、静かに、窓から外へと落としていった。
時計塔には秒針が無かったが、運良く店内に掛け時計を発見した為、それで落下時間の平均を求める事には成功したのだ。
商品を粗方落とし終え、求めた数値を羊皮紙の裏に記入し終わった頃、青年は背後に妙な気配を感じたので振り返ってみた。
そこに居たのは、鬼の様な形相をした店主。
柱の森を悪戦苦闘しながら通過し、不安定な体勢になりながらも、何故か手斧の様な物を大きく振りかぶっていた。
……店主の行動は意味不明であったものの、その様子から重要な事項を思い出した青年。取り合えず無言でその斧を引っ手繰ってみることにした。そして自らが生やした柱のあちこちを力任せに殴り付け、再び羊皮紙に何かの数値を記入していった。
最後に斧を床へと打ち付けると、流石に限界が来たのか、斧の刃はポロリと折れてしまった。
漸く気が済んだのか。
ボロボロに崩壊し、殆ど廃墟となった店を出ようと出口へと向かった青年。そんな彼の頬を掠め、鈍く光るナニかが壁へと突き刺さった。
――ナイフだった。
振り返ると店主が、聳えた柱の隙間から、肩をガクガクと震わせながら次の刃物を投げようと構えている。
……店主が何をしようとしているのか、青年には本当によく分からなかった。
だが取り敢えずはその行動のお陰で、彼は最後の布石を思い付く事ができた。
治りかけの傷口に手を当てる。
くっつきかけた細胞同士の隙間に指を入れて、力任せにグイっと広げる。視界が白くなるような痛みの後に、再び例の赤いモノが、体内からジクジクと噴き出して来る感覚を彼は感じた。皮膚の中に指を入れて、更に広げる。自分の口から自分のものとは思えない声が出て、床には真っ赤なペイントがベッタリと施されていった。
店主はその様子を呆然と見ていたが、やがて顔を青くして目を逸らし、最後には怯える様にガタガタと震えるだけになっていた。
……繰り返すが、青年には店主の考えている事がよく分からなかった。
否、分からなかったし、そもそも興味が無かった。
今の彼にとって、重要なのはただ一点だけだったのである。
――これで、導火線には再び火が着いた。
男は血の跡を辿り、いずれ自分へと追い付くだろう。彼はそう信じ、時計塔へとその足を速めた。
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そして今、状況は彼の意図した物となっている。
場所は時計塔の最上部。
街中を見渡せるその高座において、彼は自らの命を狙う猟犬と対峙していた。
「遅かったじゃないか。
オレは待たされるのは好きじゃないんだがな」
白い青年は、男に向かって不遜に言い捨てる。
いつもと変わらぬポーカーフェイス。
内心を悟られぬように、努めて淡々とした声色で彼は語り掛けた。
「なぁに、臆病なキツネがチョロチョロ逃げ回りやがるからよ。
ちょいとばかり追い詰めるのが手間だったんだ」
それに対し、男は軽口で返答する。
甲冑の音を高く響かせながら、まるで大地を踏みしめる様に、ゆっくりと前方に歩を進めて来る。
獲物を狙う猟犬の眼光が、青年の心情を見抜こうと白く細められていた。
「――――?」
――不意に、その足が止まる。
男の眼光はなお一層鋭くなり、まるで白い青年を正面から射抜いているかの様な印象を与えた。
「観念した……って顔じゃねぇよな。
一丁前に罠でも張ってやがんのか?」
「……やれやれ、おかしな事を言うんだな」
大袈裟に肩を竦めながらの返答。
青年はいかにも辟易した面持ちで、男が何を言っているのか分からないといった口調で言葉を返した。
(勿論、張っているに決まっているだろう)
口には出さずに、彼は内心にて苦笑する。
古来より、人間が猛獣と戦う手段は罠か猟銃と相場が決まっている。
素手でライオンと向かい合おうとするのは、人間でない身体能力をもっている者か、人間並の知性を持ち合わせていないモノの愚行だろう。
――故に、彼は男とは正面から戦わない。
“領域”まで目測、残り3歩。
男にその距離を歩ませる事が出来れば、その瞬間に運命が決する事を彼は知っているからである。
「たしか一撃だけ打たせてくれるんだろう?
だが見ての通り、オレは今武器を持っていない。
出来れば剣を貸して欲しいんだが……」
特に意味が無く、興味も無い問い。
だがこの場においては、問うという行為そのものに意味がある。
今の彼は、例えその内容にさしたる興味が無くとも、目の前の男と会話を続ける事で時間を稼ぐ算段でいたのである。
「おかしな事を言ってんのはお前だ。
生憎と今日は、さっきお前に渡した物以上の剣なんか持ってねぇしよ、それに……」
青年の思惑を知ってか知らずか。
男は腕を組み、眉を顰めながら――、
「てめぇにはもう、一撃打つだけの資格もねぇ!!」
殺気を漲らせながら吐き捨てた。
果たして何があったのか。
男の貌からは、初見よりも強い殺意が感じられる。
多くの人間を斬り捨てたであろう、剣の達人が放つ殺気。それは実質、死神の鎌と変わらない。通常の精神を持つ現代人であれば、向かい合っただけで筋肉の痙攣を起こし、失禁しても不思議が無い程の迫力がそこにはあった。
「…………」
だがそれは、青年にとって考察するにも値しない要素だ。彼は思考の余分を排除し、必要な能力のみに意識を傾けている。
――2歩。
男が足を進めたのを視認し、カウンターを一つ回す。
「やれやれ、そんなにオレを殺したいか。
まあ、敵国の協力者の首を狙うのは当然なんだろうが……。
でも一つだけ聞かせてくれ。
それはあんたの意思か?
それとも、あのお姫様に命令されて仕方なくか?」
「ばぁか、そんなモンどっちもだよ」
形式だけの質問に、律儀にも返答する男。
しかし、その殺気は微塵も収まる気配が無い。
青年の手に汗が滲む。
命を狙う集中が時間と共に研ぎ澄まされていくのを、青年は肌で感じていた。
「俺は生憎と育ちが悪いもんでな、主の真っ当な敬い方なんか知らねぇし、口の利き方もなってねぇだろうよ。
でもな、従者は主には逆らわない。
あいつがそうしろっていうんなら、それがいつだって俺の意思だ」
「……分からないな。
心酔するのはあんたの勝手だが、あのお姫様だって完璧って訳じゃないだろう。
それでもあんたは、どんな命令を貰ったとしても、その主様とやらには絶対服従だっていうのか?」
「そうだ」
言いながら、男が腰の短剣に手を掛けた。
――まだ早い。
青年は内心で舌打ちし、会話を続ける術を模索する。
男は、あのお姫様の意思に従うという。
成る程、従者としては立派な態度なのだろうが、それを認めては会話が終わってしまう。
ならば、論破だ。
論破を試みるのがここでの正しい選択に違い無い。
青年は思案し、分析する。
その結果、例え男が腹を立てようと関係は無い。
男は、この話題に関しては決着を付けるまでは自分を殺さない筈だ。
思想の不足を指摘されたまま敵を斬り伏せては、返す言葉が無かったと公言する様な物なのだから。
青年は打算を重ねながら、男の言動に意識を研ぎ澄ます。
男は、大きく溜息を吐きながら口を開いた。
「分かんねぇのはてめぇだ。
あいつはどう見ても完璧なんかじゃねぇし、そもそも、いつでも正しい完璧な主なんかいる訳がねぇだろ」
青年は小さく頷く。
彼はあのお姫様の人間性など知らないし、そもそも大して興味など持っていなかったが、それでも“完璧な指導者”などというものが幻想の類である事は理解していた。
「……その通りだろうな。
確かに、完璧な指導者などいないだろう。
だからこそあんたの、指導者に絶対服従などというスタンスは良くない。不可解な指示には疑問を持って問い質したり、間違った命令にはそれを指摘できたりする従者、っていうのも中々素晴らしいと--」
言いかけて、青年は息を飲んだ。
男の感情には、一切の変化が見られなかったからだ。
主君の不足を指摘し、男自身の在り方への疑問まで投げ掛けたというのに、男は微動だにしないまま青年を見据えている。
「だからどうした?」
男は肩を竦めながら答える。
青年の言い分を全て認め、肯定した上で、しかし男は、それを斟酌するに値しない物であるとして切り捨てた。
「あのな。主が正しいか間違ってるか、なんてのはな、俺にとっちゃどうだっていい事なんだよ。
――ってか、そもそも意味がねぇ。
主ってのは、いつだって正しいもんなんだからよ」
「…………?」
青年は首を傾げた。
男は、青年の言い分を認めている。
自身の主君は完璧ではないし、そもそも完璧な主君などいないという事を事実として認めている。
だがそれならば、主はいつでも正しいというのはどういう意味なのか。
矛盾した思想。
矛盾した定義。
それは、青年の意図からは完全に外れる思考であった。
「分かんねぇヤツだな。
オレはな、間違った判断なんかねぇって言ってんだよ。
あるのは一つ。
上手くいったかいかなかったかだけだ。
政治なんてのはな、どんな無茶な手段だって上手くいく時もありゃ、万全を期したのに失敗する事もある。
だったら間違いなんかねぇだろ。
指導者なんてのは、好き勝手やりゃいいんだよ。
もし、万が一それが上手くいかなかったら、そりゃたまたま、それを実行する従者の力が足りなかっただけの話だ」
「…………」
青年は言葉を失った。
要するにこの男は、どんな指示や命令でも“正しい物”として扱うし、そもそも絶対に間違いだと言える判断など無いと言っているのである。
例えば仮に、青年自身の価値観に置き換えてみよう。
物理学の世界では、答えは常に一つである。
誰が観測しても林檎は地球へと落ちていくし、真空中の光は、常に秒速30万kmで駆け抜ける。
だが、その結論に至る方法は一つではあるまい。
単純な方程式の解を積み重ねて証明していく方法もあれば、直接手で触り、実験を繰り返す事で積み上げる方法もある。
そしてそれは、万物に共通の真理だ。
例え答えや目的が一つであろうとも、そこに至る手段は一つでは無い。逆に言えばそれが目的へと向かう方法である以上、どのような方法を用いたとしても、難易度の差こそあれ目的へと到達出来る。
だからこの男は、自らの主を後押しする。
どのような手段にも目的を達成する可能性があるのならば、自らの主の判断を疑いも無く信じて、例えそれが非効率的な物であっても、上手くいく様に全力を尽くす。
よって、主の判断に間違いなど無い。
あるのはただ、たまたまその結果が上手くいったかどうかと、臣下にそれを実行するだけの力があったかだけ。だったら臣下のすべき事は、ただ愚直に主を信じ、その意思が通る様に尽力するだけである。
――それが、この男の考え方であった。
「全ての道はローマへと通ず、か。
言いたい事は分からんでもないが……。
あんたがどんな社会で育ったのかは知らんが、まったく溜息が出る程の忠義者だな」
“それでも、より良い手段を模索した方が明らかに近道だろうに”と、青年は実際に大きな溜息を吐きながら付け加えた。
「知らねぇよ。
生憎と、俺は命令の善し悪しを判断出来るほど頭良くねぇんだ。出来るのはただ、一回誓った事を、バカみたいに最期まで張り通す事だけだ!!」
――1歩。
男は眼光の鋭さを増し、“領域”へと1メートル足らずの場所へと足を掛ける。
(踏み込め。踏み込め)
会話を続ける手段を忘れ、青年はただ男の行動を願う。
あと1歩。
そのたった1歩の距離を残しつつ、男は短剣に手を添えている。男が近付いて斬りつけてくるなら良し。あの場から投獄してくればアウト。青年は、全身の筋肉が硬直していく様な錯覚を覚えていた。
(踏み込め、踏み込め)
心の中で繰り返す。男の思考は理解した。説得は不能だろう。ならば会話を続けて時間を稼ぐか、もしくは男が無意識のうちにあと1歩だけ、その足を前に踏み出すような偶然が起きないか。
(踏み出せ、踏み出せ)
なおも繰り返す。あと1歩。自分を直接斬りつける為には踏み出さなくてはならない。ならば早くその足を――。
「……おしゃべりは終わりか?
そりゃ残念だな。そんじゃ、手早く終わらせるぜ?」
青年の祈りが通じたのか。
男はその右足を、まるで擦る様に前方へと動かし――、
「――――っ!!」
突如、2メートル程後ろに飛び退いていた。
「は…………?」
青年の困惑した声が響く。
男の理解出来ない行動に、彼は唐突にその双眸を見開く。
そして次の瞬間、まるで彼の視界を横切るかの様に、紅い何かが飛来して来ていた。赤色の飛行体は高速で空中を駆け、たった今まで男が立っていた床へと命中する。
「――――っ!!」
咄嗟に目を覆った。
紅いモノが爆ぜる。
まるでクラッカーの様な軽い残響を残しつつ、赤色の球体は床に触れるなり火花を伴って四散した。
想定外の現象に、青年は疑問符を飛ばす。
彼の視線の先では、その想定外の現象が今でも確かに起きていた。
――床が溶けている。
アダマスの床は赤い球体が当った部分で確かに溶解し、燻る様に黒煙を噴き上げていた。
それは、どの様な現象だったのか。
一体誰が、何をした結果なのか。
青年はついぞ、自力でそれを理解する事は出来なかった。
「何者だ!?」
男が紅球の飛来した方向へと振り向く。
獣の様な眼光が、明確な殺意を込めて突然の闖入者に向けられている。
青年は、その視線を追うかの様に、展望台の窓枠へと目を移した。
「チッ、勘だけはいいでやんの。
さっさと死んでくれよな~、面倒くせ」
甲高い声が響く。
声変わり前の子供に特有のアルト。
第三の魔人は赤い髪を靡かせて、ニヤついた笑みを浮かべながら窓枠へと腰掛けていた。
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視線の先には少年が居た。
細身の身体を包むのは、ボロボロに破けた迷彩服。
燃え立つ様な髪は赤銅。少年自身の口調と合間って、それは彼の刺々しい雰囲気を増している。
背中に背負った長い筒。パッと見ではバズーカ砲の様にも見えるその道具や、腰元に備え付けられたホルスターがまるで軍隊出身者の様な印象を与え、青年には、それらが少年の物騒な気配を尚も強めている様に思えた。
何よりも目を引くのは、赤髪の間から覗く耳である。まるで犬の様な形状のフサフサの耳が、稜だつ様にして頭の上部に付いている。それはまるで、ゲームの世界の獣人が、そのまま具現化したかの様な姿であった。
「何のイタズラだ? ガキ」
男が少年へと問う。
静かなその声色は低く、相手の年齢など斟酌せずに殺気を向けているのは明らかである。
――いや、それは違うだろう。
躱したから良かったものの、もしも咄嗟に避けてさえいなければ、男は溶けた床と同じ末路を辿っていたのだ。
それをしたのが年端もいかない少年で無かったのならば、男は躊躇い無くその刃を向けていたに違いない。
人間を向かい合っただけで硬直させる殺気。
男の低い声を受けて尚、少年はカラカラと笑っていた。
「イタズラも何もねぇだろ~?
ほら、なんかお前ら楽しそうな事してるしよ~、見てたら交ぜて貰いたくなったってやつ? おれっち、一応その為に呼ばれたみたいだし~?」
間伸びした口調で言いながら、少年は小さくその左手を見せた。
橙赤色に輝く紋様。
その場の二人が等しく持つその図形が、少年の掌にもボンヤリと光っている。
――最早語るまでもあるまい。
この少年こそが、第三の大国により召喚された守護魔なのである。
「…………。
はぁ…………」
ニヤニヤと笑う少年に向けて、男は本当に怠そうに溜息を吐いていた。
「……無差別とは聞いてたが。
ド素人の次はこんなガキだとはな……。
――ったく。俺は本当に、こんな奴らと殺し合いしなきゃなんねぇのか?」
独り言のような声。
男はやる気がなさそうに頭を掻きながら、辟易した様子で少年へと目をやった。
「……おい、ガキ。
さっきのは見逃してやるからよ、今のうちに逃げとけ。
俺もガキを斬る趣味はねぇし、ウェヌスが何も言わねぇうちは、まあ見逃してやるから」
「そう、それ!!
いいね~、分かってんじゃん!!
おれっちが文句言いてぇのは正にソレなんだよ~!!」
少年はニンマリと破顔し、我が意を得たりと手を叩きながら男の言葉を囃したてた。僅かに眉を顰める男。そんな彼の様子を気にも止めず、少年は更に言葉を繋げた。
「さっきっから聞いてたけどな~。オマエ何なの? なぁにが主様には絶対服従です、だよ!? ヒャヒャヒャッ!! マジ笑い死ぬ!! いい歳してどこのドMだよって感じでさぁ!! 口煩く命令してくるだけのヤツなんざ、さっさと殺してやんのが世の為だろ!?」
「…………」
男は黙った。
しかし、纏う殺気は一層濃くなっていく。
――相手は子供である。
本来ならば、男は何を言われようと腹を立てる事は無いだろう。
事実として男は、今も一切腹を立ててはいない。
だが、それと生存を容認する事は全く別の問題だ。
何しろ目の前の少年は異世界から呼ばれた魔人であり、敵国の協力者であり、男にとっていずれは殺さなくてはならない敵なのである。
先程、男は見逃してもいいと言った。それは正確に表現するのであれば、本来ならばここで殺さなくてはならないが、特別に今回は殺さないでやってもいいという意味である。
ならば相手がそれを拒否する限り、わざわざ生かして帰す理由はどこにも無い。
男は、黙したままに少年を睨み付けた。
「――最後だ。
命が惜しけりゃ家に帰れ。
大人しくするんなら、今日のところは見逃してやる」
「は~っ!? バッカじゃねぇのぉ?
それ、脅してるつもり?
分っかんねぇなぁ、それじゃまるで、オマエがおれっちより強ぇみて~じゃん。
そっちこそ、命乞いでもすりゃあちょっとは楽に殺してやるぜ?」
男の最期通告。
それを挑発的に跳ね除け、少年は窓枠から床へと降り立った。男を睨みつつ、少年は腰のホルスターに下げられていた“武器”を男へと突き付ける。
「……なんだそりゃ?」
男が疑問の声を上げる。
青年もその様子を無言で観察しながら、その顔にやはり疑問符を浮かべていた。
――それは、奇怪な武器だった。
いや、武器と形容していいのかすらも怪しい。
少年が右手に構えた道具。
それは、彼らが知る武器の形状からはあまりにもかけ離れた物だったのだ。
形状だけで言えば、最も近いのはバズーカや無反動砲だろうか。
無骨な金属製の筒は中空で、もしも少年が爆薬や砲弾を詰めてそれを使用したとしたら、辛うじて武器としては役に立つのかもしれない。
だがそれも、もしもの話だ。
現実はそう上手くはいかないだろう。
何しろ、小さ過ぎる。
腰のホルスターに収まっていたという事実が示す様に、サイズは精々拳銃か、はたまたドライヤー程度しかない。拳大くらいの口径の筒は真に中空で、中には弾丸も爆薬も装填されておらず、こちら側から覗くと少年の服がはっきりと見えている。
否、それも当然だろうか。もしもこれが無反動砲だとしたら、砲身に当たる部位がごっそりと抜け落ちている事になる。当然弾丸を装填する場所など無いし、そもそも肩に掛けられない大きさならば、無反動砲はその構造上カウンターウェイトが射手を直撃する。それでは自滅だ。
空っぽの筒を構え、強気に男を挑発する少年。
それはまるで、オモチャの拳銃でごっこ遊びをしている子供の様にも見えた。
「まっ、知らねぇよな。
うん、仕方ない仕方ない。
よしよし、そんじゃ動くなよ?
教えてやるから動くなよ~?」
少年はニヤニヤと笑いながら男を見ている。
男はその様を、ただ黙したままに睨んでいた。
……無理もあるまい。
おそらく男の世界には、それと形状の類似する道具すらも存在してはいなかったのだろう。
初めて目にする空っぽの筒が殺傷力を持とうなどと、まさか想像しよう筈も無い。
男の油断を悟ったのか。
少年は口元を悪鬼の様に吊り上げ、その“銃口”を男の青い鎧へと向け――、
「あばよ。
くたばれ、青ゴリラ!!」
空っぽの筈の小砲は、男に向かって火を吹いた。
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その戦いは戦争だった。
比喩では無い。
もしも我々が戦争を大量の武器、或いは相当の戦力を投入し、夷敵を殲滅する事を目的とする行為と定義するのであれば、彼女達の戦闘はその全ての事項を問題無く満たすことだろう。
「やああああああ!!」
鋼の音が反響する。
純白の姫はもう何発目になるか分からない流星を、上段に構えたブロードソードで左後方へと受け流した。風切り音が遠ざかり、流星の軌道を変えた大剣が曲がる。彼女が製作した希代の名剣は、自らを破壊せんと駆けて来た飛来物の威力を受け流しきれずに、まるで飴細工の様に湾曲していた。
無理も無い事である。
いかな名剣・名刀であろうとも、それが金属製である以上、金属の持つ性質から逃れる事は出来ない。少女が放つ流星は、その実灼熱の業火を纏った爆弾だったのだ。
「――――っ!!」
形を失った大剣を放り捨て、石畳から次の武器を構築する武装姫。自らに向けて放たれた残り5発の流星を、広刃の短刀を二本生み出し、縦横無尽に振り回す事によって後方へと弾く。3発弾いた段階で右翼は用を成さなくなった。刀身の消えた右剣を投げつけて4発目の軌道を逸らし、最後の1発を溶けかけの左翼で叩き落とす。
「はっ……、はぁ……」
自らの剣舞にて流星群を防ぎ切った戦姫。
未だ無傷なままのその顔に、しかし余裕の色は見られない。
背筋に滴る冷たい汗を感じながら、彼女はただ、静かに敵の戦力を把握していた。
――敵の魔装は弓矢であった。
本来は射出に相応の力を要し、少女の細腕では満足な威力が発揮出来ない筈の遠隔武器。
否、そもそも弓矢とは、本質的に集団運用を前提とする兵装である。実戦である程に当てる事が難しく、また刀剣や槍程の殺傷力の無い弓という武器は、何十、何百という射手が同時に矢を放ち、矢の雨を降らせる事によって初めて敵の軍団を殲滅する事が可能となるのだ。
その意味では射手がたった一人の現状など、彼女程の使い手の前では何の脅威にもなりはしない。
しかしそれは、あくまでも敵が常識内の存在であった場合に限られる。魔導師たる少女が扱っては、弓矢は最早、全く異なる意味を持つ兵器へと変貌していたのである。
女の周囲は抉られていた。
矢には果たして、どれ程の魔力が込められていたのか。
強力な火属性の魔法を纏った矢は大地を抉る爆薬となり、アダマスの石畳を粉砕している。
クレーター状の穴が空き、変形した大地はまるで空襲跡の様で、灰白色の煙をブスブスと燻らせている。直撃すれば人間など容易く爆散するその威力を再認識し、彼女は更に神経を研ぎ澄ました。
『銀の流星、天の雷、我が怨敵を火で囲め』
「――――!!」
数十メートルの先から響く声に、戦姫は再び空を仰ぐ。
彼方より迫る羽の音。赤銀の流星群は群青の空に白い尾を引き、陽光に煌きながら天を翔けていた。
目算、14撃。
その全てが標的の魔力を感知し、目標物に向かって落下していく、必殺の威力を持った追尾魔弾――!!
「…………」
――それを前にして、しかし彼女は楽しげな微笑を浮かべていた。
自らに迫る数多の死。
これだけの数の遠隔魔術が直撃しては、一個中隊であろうとも大打撃を受けるだろう。
通常、単騎でその着弾点に立つ人間が原形を留める術など無い。
否、だからこそ、彼女はそれを防ぐ事に愉悦を感じるのである。彼女もまた大魔導。ならばこそ、敵の魔術を防げぬ道理などありはしない――。
フレアを纏って迫る銀閃。
全てを焼き尽くし、粉砕するであろう死の軍団を前にして、彼女は気合いと共に、石畳からそれを上回る大軍団を編成する。
「はあああああ!!」
銀の柱が天へと5本。
振り上げた腕に握られた鉄塊は戦斧に変わり、礫は投げられる直前に姿を変えてダガーになる。
天高く放たれるモーニングスター。2つの流星を粉砕したそれは空中で5本の連節棍へと分かれ、宙を円形に薙ぎ払った。
その猛攻をすり抜けた3本の火矢。
1発であろうと直撃すれば標的を焼き尽くすその業火は、彼女に触れる遥か手前で4枚の盾に阻まれる。
――14撃。
絶対の崩壊を齎す筈のその全ては、しかし絶対の防御を誇る武具の山によって空中で果てた。
「フ…………ッ」
女の口元が綻んだ。
それは死の雨を散らした自らの能力に対してか、または自らにそこまでの力を出させる好敵手の技量に対してか。
それすらも曖昧なままに、女は自らの敵に向けて心底楽しげに声を掛けた。
「この程度ですか?
そんなか弱い武装では、私には傷一つ付ける事は叶いませんよ」
手元には新たに長槍を構え、武装姫は矢の発射元を目指して駆け出した。
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標的からの挑発の声は、真紅の少女を身震いさせた。
場所は純白の姫から100メートル程の距離を隔てた、王宮に程近い建物の陰。自らの攻撃が全て弾かれた事を魔術によって感知し、彼女は小さく舌打ちをした。
――敵は、化け物だった。
少女が放った矢の総数は既に29。
本来であればたった一矢であろうとも標的を焼き、中型の魔獣すらも絶命させる筈の遠隔魔術を既に29度、あの女は無傷なままに弾いて見せたのだ。
様子見のつもりで放った5本は、弾くまでもなく躱された。
次は弦の戻りを加速して、初撃よりも遥かに高威力化した火矢を10本。しかしそれも、先刻剣舞によって叩き落とされた。
今の14本に至っては、その全ての矢に“狼霊級魔術”相当の炎を纏わせて、内3本は死角から迫るように計算して放ったのだ。
それを無傷で防ぎ切るなんていうのは、ソレは手練れとか達人とかいう以前に、最早人間では無い。
傷を負う気配すら無い敵。
これだけの牽制を掛けながら逃走しようとも、一行に開く気配の無い標的との距離。
少女はここにきて、自らの失策に焦りを感じていた。
無限に装備を用意出来る敵と違い、少女の武器には球数制限があるのだ。
残矢数は、現時点で27。
既に手持ちの矢を半分以上を使い切った計算である。
少女とて大魔導だ。その気になれば、石畳から即席の矢を生み出す事くらいは出来るだろう。しかしそんな物では現行の矢を上回るだけの威力など望むべくも無いし、そもそも調達に時間が掛かり過ぎる。
敵のように一瞬で武器を作製する手段が無い以上、その時間はそのまま彼我の距離を埋める事になり、自らの首を絞める結果になるのは間違いない。
つまり少女は、なんとしてもこの27発の矢で敵を仕留めるしか無いのである。
「……ま、今更文句言っても仕方ないんだけどね。
でも……、アレ本当に人間なわけ?
なんかヤバい魔獣とか、変なのが混血で入ってるんじゃないの?」
軽口を叩きつつ、少女は弦に次の矢をつがえた。
集中の限界が迫る感知魔術と、ジリジリと差を縮めて来る敵。その二つに精神力を削がれ、額には微かな汗を浮かべながら――。
――手はある。
少女は冷静に首肯し、肯定する。
ここは少女の本拠地であるし、そもそも少女は、自身があの敵に劣っているとは微塵も感じていない。
作戦という程でも無いが、この27の矢を放てば、必ず敵を業火に包むという確証が確かにあるのだ。
勝負は一度。
必殺の炎を用いて、武器の山を吹き飛ばす――!!
「結界構築。霊道舗装。
我が怨敵を、火に包め」
更に強く魔力を込め、少女は文字通り矢継ぎ早に矢を繰り出した。
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自らの標的に向かって駆けながら、女はその煌きに目が眩んだ。
頭上に広がる群青の空。
蒼い太陽が支配するその天空を切り裂いて、再び銀糸の流星群が迫って来る。
その数を目算した瞬間に、女は不覚にも背筋が寒くなるのを感じた。
「多い……!?」
女の顔に焦りの色が浮かぶ。
天空より飛来する風切り音。
その総数は26。
それも込められた魔力の総量は、これまでなどとは比較にならない。
一本一本が誇る熱量、実に前回の5割増し。
それは一個大隊を相手にするかの様な、あるいは竜種の討伐に派遣された軍隊が使用するかの様な、正しく規格外の魔術行使であった。
小さく息を飲む音。
金糸の髪を背中に鋤き、翠の瞳は真っ直ぐに空を見上げている。
「……いいでしょう」
女は心底愉快そうに微笑った。
白薔薇に例えられるその笑みは慎ましくも大輪に咲き誇り、見る者全てを虜にする程に眩い。
「分かりました。
決着を付けよう、という事なのですね」
小さく首肯し、天を見据える。
迫る魔弾の雨。
無数の弾丸が強烈なフレアと共に飛翔する様は、まるで空そのものが燃えているかのようである。
そのあまりにも絶望的な破壊力。
標的に絶対の消滅を齎す死の軍勢を前にして――、
「ええ、いいでしょう。
異存も不足もありません。
無論、受けて立ちます!!」
女を中心として展開される光のエフェクト。
こちらもこれまでの比では無かった。
最早剣舞で防げる数では無いと思ったのか、彼女を中心として無数の金属塊が乱立していく。
刃渡り5メートルの剣が10本。天を切り裂く様に伸長するその様は正に鋼の大樹だ。
その隙間を枝葉の様に走る捕縛鎖はそれこそ無数。
武具の城の主たる彼女の前には、厚さ1メートルを超える鏡面の盾が生まれた。
――3秒。
その瞬き程の時間の後に、彼我の優劣は決定するだろう。
武器の城が敵の軍勢を打ち破るか、或いは敵の炎がこの身を焼くか。いずれにせよ、これだけの死力を用いた魔術の行使。実質、勝負はこの激突で決定する。
――2秒。
純白の姫君は、漸く敵の勢力を完全に把握した。
敵の総勢26。
敵にも焦りがあったのか、内5本は軌道を外れて命中しない。よって実数は21。
その魔力量を、こちらの防壁が防ぎ切る可能性は――、
――1秒。
「――――っ!!」
激突する二つの金属軍。
鋼の森を、銀の炎が蹂躙する。
鋼の城が、銀の兵団を粉砕する。
発生する熱量が火龍の息吹なら、崩壊の音は獣の咆哮だ。
通り一帯の色は消え、絶え間の無い爆撃音は音という音を奪い去る。
「く…………」
その中心あって、彼女は瞬き一つせずに戦況の把握に努めていた。神経を研ぎ澄まし、聞こえない筈の音を聞き、見えない筈の軍勢の激突をその目で見る。絶え間ない雷鳴。永遠と思える程の攻防はその実、刹那か。集中は時間の感覚を忘れさせ、人には把握出来ない程に僅かな歪みを無意識に把握させる。
衝撃の数はここに至るまでに15。
迫る魔弾は残り6発。
17発目で構えた盾が軋んだ。
それは即ち、自らの前面に存在する鋼の森が消滅した事を示している。残る矢、4本。何もせずとも汗が滲む灼熱の大気の中、彼女は矢が盾を削る音だけを聞いていた。
「――――っ!!」
3、2――、砕けた。
彼女を守る最後の防壁、鏡の盾が、20本目の矢を受けて塵芥に粉砕していく。
残る矢、1本。
しかしその1本は、当たれば確実に絶命する死の魔弾――!!
当たれば死ぬ。盾を失い、無防備となった標的は抵抗する事も出来ず、脳漿まで沸騰させて霧散することだろう。それが城を失った主の運命だ。
そう。それが彼女でさえなかったのならば――、
「やあああああああ!!」
純白の姫は右手に魔力を収束させ、再び魔術を使用した。武器作製は彼女の先天魔術である。故に詠唱も術式も必要としない。その手に触れる金属があれば、彼女の手は瞬時に武器へと加工する。
そして今、彼女の手元には金属がある。
たった今砕け、破片となって飛び散っていく盾の欠片が――、
「――――っ!!」
――金属音が、一際高くなった。
盾の欠片から生み出した短剣。
刃渡り20cm程のその小さな刃は、主を貫かんと駆けて来た鏃に当てられ、ほんの僅かだけその進行方向を左へとずらす。
爆音が響き渡る。
最後の魔弾がその魔力を炸裂させ、周囲を巻き込んで空間ごと焼却していく。その一撃。少女が必殺を期して放ったであろうその魔弾が果てる断末魔を、彼女は自らの背後に聞いていた。
「はぁ……、はぁ……」
爆風が緩やかに外気を運び、熱を持った彼女の身体を仄かに冷ます。
――勝った。
女は確信し、乱れた息を整えながら首肯した。
彼女は未だ無傷のままそこにあり、少女の火矢は一撃たりとも彼女の肌に触れぬままにその役目を終えたのだ。
互いが死力を尽くした魔術行使。
全力を尽くし、必殺を期した攻防。
ならばそこで完全なる敗北を喫した以上、敵に戦意など残ろう筈も無いだろう。
「私の勝ち、ですね。
アルテミア・クラリス。大人しく降伏して下さい。
貴女が敗北を認め、守護魔を処分するというのなら、私とて命までは取りません」
自らの声を聞いているであろう敵に向けて、彼女は凛とした声でそう告げた。
告げながら、意識は自らの行っている魔術、逆探知の術式へと向ける。
「…………」
――変化は、無い。
敵は王宮の前。時計塔の隣にて不動。
これ以上移動する気配も無ければ、感知魔術を切って逆探知を止める気配も、逃亡する気配すらも無い。
それをウェヌスは、武器の補充。
敵の戦闘を続行するという意志だと理解した。
時計塔と王宮の中間地点。
全力で駆ければ15秒とかからないその場所。
敵がいる地点を怜悧な視線で見詰めつつ、女はその両脚に溜を作った。
「いいでしょう。
貴女が続けるというのなら、私は――」
――その時である。
駆け出そうとした瞬間。
白銀の地面を踏みしめ、蹴ろうとしたその刹那。
自らの足元が目に入り、女は言葉を失った。
視線を落とした先。
自らの足元に当たる位置から感じる想定外の魔力の奔流に、彼女の思考が完全に凍り付く。
彼女の足元には魔法円が描かれていた。
先ほどまで何の変哲も無かった石畳。
そこには彼女を中心とする円が通りの幅一杯に描かれ、既にその術式を完了させていたのだ。
「そんな、いつ……」
“あり得ない”。
彼女は戦慄し、背筋を震わせる。
少女と自分との距離は、未だお互いが視認出来ない程に離れている。そして行われたのは、あれだけの攻防。あの嵐の様な鋼の激突の中にあって、一体いつ、こんな物が描かれたのか。
そこまで思考した時に、彼女はその図形の起点となっているモノを見た。
――矢である。
先ほど放たれた矢の内の一部。
不可解に軌道を外し、彼女へと命中しなかった5本の矢は、その実彼女に向けて放たれた物では無かった。
目的はただ一つ。
彼女の周囲に結界を張る為の“杭”となり、彼女に気付かれない内に即席の魔法円を組み上げる事である。
軌道を外れた5本の矢は、それ自体が領域を構築する布石となり、彼女の周囲に強力な魔力を循環させていたのだ。
『強欲なる者。無力な英雄。
暗き洞穴にて灰燼に帰せ』
遠方から届く少女の声。
魔力の逆探知によって流れ込むその声に、武の姫は少女の姿を幻視した。膨大な魔力を腕の周囲に収束させ、歌うように詠唱しながら、勝利を確信して微笑むその姿を――。
「待――っ」
『火龍の火炎弾!!』
魔術式に収束する炎の魔力。
火山噴火を思わせる熱量の爆発が、たった一つの人形に向かって殺到する。
最終戦争を思わせる炎の宴。
火龍の咆哮が、武装姫を足元から飲み込んだ。