14. とある物理学者の科学者とはかくあるべしという信念の合理性を考察する科学論と異世界人から見た更に異界の住人に対する身体能力試験
――固定観念。
それは、人間が思考に纏う一種の鎧であると形容する事が出来る。
人間とは、成長に伴って相応の社会的責任と人間関係の円滑さを求められる生き物である。人は独りでは生きていけない、などという文言が疑う余地の無い真理として一般に広く扱われている事からも察しがつく様に、我々は幼少の頃より、無意識の内に“常識”と呼ばれる定型句をなぞる事で極力周囲の人間達との差異を無くし、無個性かつ無根拠な事項を真理として扱うことで自らを保護することこそが正当である、という概念の刷り込みを受けている。
つまりは周囲の人間から社会的立場を護り、同時に自らの精神を守る手段として、人間は思考に常識と言う名の鎧を纏う事によって成長してゆくのである。
これは中々に強固で、堅固で、そして重厚な防具だ。
――教えられた通り、聞かされた通りに行動すれば間違いが起きない。
――今まで皆そうして生きて来たのだから、それに倣う事こそが最良にして最善の選択である。
ある意味では消極的とさえ取れるこの考え方は、しかし歳を重ねる毎に分厚く、そして頑強になってゆく、中々に便利で甘美な武装である。
だが。忘れてはいけない真理が一つ、ある。
鎧の強度とは即ち装甲の質と厚さに比例し、そしてその二つを兼ね備えた鎧とは、通常の場合は重鈍で、そして行動を束縛する重りにもなり得る物だという事である。
固定観念という鎧を身に纏い、身じろぎせずに周囲からの批判に備える姿勢とは、即ち思考を放棄するという行為に他ならない。
それは端的に言えば、自分がどう思い、どう理解したのかでは無く、ただ皆がそう思うという事実のみを根拠として真理とする、あまりにも盲目的な崇拝行為ではなかろうか。
そこには崇高なる好奇心などは勿論無く、同時に面白みなどという概念も一つたりとてありはしない。
活動の放棄とは、思考にとって即ち腐敗に等しいのだと、朝日 真也は予てよりそう強く認識していた。
物理学の世界にも、その前例には暇が無い
光の波動性に最期まで疑念を抱いていたアイザック・ニュートンに、宇宙膨張に猜疑心を持ち宇宙項を付け足したアルバート・アインシュタイン。彼らの“失敗”は、確か当時常識とされていた事柄を無意識に真理と思い込んでしまうという、ある種の固定観念による物では無かったのか。
言い方を変える。
つまりは例え彼らの様な、歴史に名を残す程の天才達であろうとも、歳と共に固くなった頭は思考を蝕み、麻痺させ、掴み取れた筈の真理を指の隙間から零してしまうという事なのである。
故に朝日 真也は、固定観念という単語を何物にも増して恐れ、同時に深く嫌悪していた。
特に昨夜、“自分が居るのは地球以外にありえない”という自己が無意識の内に持ち合わせていた先入観をまざまざと認識させられた彼は、尚更に未確認の常識をこの世界にも適応し得る“真理”であると断言する事は憚られたのである。
――結論を述べる。
良くも悪くも生粋の物理学者であった彼は、こう考えていたのである。
例えどう見ても明らかにカツラにしか見えなかったとしても、実際にこの手で確かめてみるその瞬間までは、決してソレをカツラだと断定するべきでは無い、と――。
―――――
「バ・カ・な・の!?」
王宮から正門へと伸びる大通り。
様々な種類の人間が行き交う、活気あふれる商店街を歩きながら、アルテミア・クラリスは白い青年を詰問していた。
人目を憚らぬ大声ではあるのだが、こんな状態の少女と目を合わせる様な猛者はこの街には存在しない。
大通りを埋める様な人混みが、少女が歩む度にモーゼの十戒の如く割れてゆく。
「あんた、マジで底なしのバカなんじゃないの!?
なぁにが"ハゲは隠すモノなのでしょうか"よ!!
アンタの首から上は全部飾り!?
隠してるんだから隠すべきモノに決まってるじゃない!!
あいつの機嫌が悪くなると、とばっちり食うのは魔導師達なんだからね!?」
がぁーっと、真紅の少女は王宮を出てからこっち、ずっと激高しっぱなしであった。
掴みかからんばかりの剣幕で目を爛々と輝かせ、白い青年を睨みつけている。
その獲物を狙うライオンの様な雰囲気を飄々と受け流しつつ、しかし標的となった彼は疑問符を浮かべていた。
「? 何でそんな事が言い切れるんだよ。
ここは異世界なんだろ?
アレが隠ぺいなのかファッションなのか、見ただけじゃよく分からないじゃないか。
じゃあ実際に本人に聞いてみないと……」
「隠ぺいかもしれないなら何で本人に聞くのよぉ~っ!!」
あまりにもすっ飛んだ彼の返答に、少女は顔を赤らめて怒りを顕にした。
下唇をキュッと噛み締め、細い肩をワナワナと震わせながら目を伏せる。
――そんな少女を心底不思議そうに見ながら、真也はコクリと首を傾げたりしている。
それはとぼけでも誤魔化しでもなんでも無く、純粋に少女の不満が理解出来ないといった体であった。
“常識を破壊するのが科学者である”。
……彼の持論など、勿論少女には知る由も無い事柄であった。
「はぁ……。
本当に、あんたってさ……」
とうとう、常識を前提に話をする事にすら嫌気が差してしまったのだろうか。
少女はまるで疲れた様に、ガックリとその肩を落としてしまっていた。
昨夜から彼に振り回されっぱなしだな~、なんていう自己分析をしたりして、これからの先行きにそこはかとない不安を覚えたりしてみる。
少女は未だ詳しく説明をしていなかったが――。
通常、各国において守護魔は“異国民”という立場で民衆に認識されるのが普通なのである。
いくら魔導が広く普及したこの世界とはいえ、流石に“異世界人”を呼び出すのは何かと物議を醸す可能性が高いらしく、一部の人間を除いては事実を歪曲した形で伝える事が世界の定石として罷り通っているのだ。
真也が“特務教諭”という地位を与えられたのも、実はこの辺りが理由である。
これも魔術大国である“銀の国”だからこその地位であり、他国ではそれぞれの国柄に合った地位を守護魔に与える事で民衆の目を誤魔化しているという。
兎にも角にもそういった経緯があり、この青年にはこれから先何があっても“異国からの亡命者”として振る舞って貰わねば困るのだが……、
何しろ、少女もここまで反りが合わない相手であるとは思わなかったのだ。
――守護魔はよく、“常理の外”の存在だと賞される。
それは別世界の技術という常識外の知識を持ち、この世界の理では傷一つ付かない存在であるが故の称号だ。
少女とて、勿論それは望むところであったのだが……。
まさかそれが脳内にまで適応される真理だったとは、彼女には完全に誤算であった。
少女は疲れた様に肩を落とし、小さく首を振ってから、切り替える様にして口を開いた。
「いい?
とにかく、これからはあたしの言う事をちゃんと聞いて、ダメって言ったことはやっちゃダメだからね?」
「郷に入っては郷に従えか。
まあ、それは当然そうするべきなのだろうが……。
そういう君も、さっきは笑ってなかったか?」
「もしも笑ってたら!!
あたしまであいつに説教される羽目になってたから怒ってるのよっ!!」
「……八つ当たりじゃないか」
キッと睨みつけてくる少女の視線を受け流しながら、真也も何か疲れた様に溜息を吐いて空を見上げた。
そろそろ正午を過ぎた頃だろうか。
青白く輝く太陽が白銀の街を真上から照らし出し、ここが異世界であるという事実を否応無しに彼に自覚させる。
隣から聞こえる少女の支離滅裂なお説教を聞き流しながら、彼は自分の置かれた状況を整理し、自らが取るべき行動について思索を巡らせていた。
――自分は、これからどうなるのだろうか。
真也の思索が纏めた最重要項目は、差し当たってはソレであった。
昨夜少女に召喚されたという事実を聞かされた時には、彼にはまだ希望があった。
この少女が何らかの目的があって自分を呼び寄せたのなら、その目的如何によっては、まだ交渉の余地が残されているからである。
話が通じるのならば、そのうち帰還を承諾してもらう事も、まあ不可能ではないだろう。
事実、彼が初めに立てたプランはその様な物であった。
だが現在では、彼はそれがほぼ不可能な状況にある事を理解してしまっている。
何故ならば前提として、交渉とは対等な立場同士にある者が行う行為だからだ。
この少女に命を握られている現状では、彼はどう足掻いたところで、この世界の人間に逆らう事など出来ないのである。
逆に言えば、この少女さえ味方につければなんとかなりそう、という意味でもあるのだが……。
現時点でその条件を当てにするのは、彼には少々現実逃避気味な選択肢である様に思われた。
帰還に当たっては、この世界の人間の手は一切借りられないと考えてほぼ間違いは無い。
と、なると、である。
やはり、なんとか自力で帰る方法を探すしか無いのだろうか?
異世界に行く方法に関する研究でのノーベル賞受賞者が居ない点から鑑みるに、それも中々に困難な方法だという事は推測できる。
しかしこうして自分が呼びだされている以上、それは決して不可能な事ではない筈なのである。
この世界には“魔力”なんていう未知の力が存在しているのだし、それに真也は、そもそも一流の物理学者だ。
魔術という学問を学んでいけば、地球に帰る方法だって自力で開発する事も可能なんじゃなかろうか?
「…………」
真也は、小さく首を振った。
――おそらく、ダメだろう。
何しろ少女曰く、彼女自身は一流の魔法使いだという話なのである。
魔術とやらを異世界人の真也が扱えるのか否かは未だ不明ではあるものの、しかし仮に扱えたとしても、この少女の目を盗んで研究が出来るとは到底思えない。
帰る方法を研究している事がバレてしまったとしたら、この世界の人間たる少女は、全力でソレを阻止しに掛る事だろう。
と、なれば。結局は自力での帰還も、この少女に逆らえない以上は実現不可能な選択肢である。
……いっそのこと、諦めてこの世界に移住するのはどうだろうか。
何しろ、命を握られているという点さえ除けば、今の彼の立場は元の世界と大して変わる物では無いのである。
中途の研究を放り出さざるを得ない無念はあるものの、この世界自体が既に興味深い現象に溢れているし、学者として飽きる事は無い筈なのだ。
ならば彼はこの世界に場所を移そうと、肩書きを大学教授から特務教諭とやらに変えようとも、今まで通りに世界を計算し、余生を空費していけばいい。
確かに命を握られて扱き使われるのには反感を感じない事も無いが、しかし人間が悍ましいのはどこの世界でも同じだろう。
それに生きていくための糧を餌に扱き使われるのも、資本主義ならどの社会でもある意味では似たような物である。
――なんだ。形が明確になっただけで、何一つ変わったモノなど無いではないか。
ライフラインに少々不安が無い事も無いが、しかし接種できる食物もある様だし、生きていく分には何とかなりそうでもある。
ならば自分はもう帰還など綺麗さっぱり諦めて、この世界に永住する事を考えた方が遥かに前向きで健全だというモノだろう。
「……ダメだろうな」
そこまで考え、真也は自嘲気味に呟いた。
――そう、ダメなのである。
ハッキリとした理由は分からないものの、この時の朝日 真也は、確かに“帰りたい”と感じてしまっていた。
人間を嫌悪し、狭い研究室に閉じ籠る事を選んだ彼が、しかし何故か今、元の世界に帰りたいのだと強く思ってしまっているのである。
それは果たして彼自身が分析した郷愁の念によるものなのか、或いは何か他の理由からなのか。
彼自身、それはよく分からなかった。
胸の奥に消えない違和感の様なモノがつっかえたまま、自身の感情が不確かなまま、真也は無言で門を潜っていった。
「……って。
ちょっと、シン!!」
「……ん?」
腕を引っ張られる感覚に、青年は思考を中断した。
チラリと振り向くと、この事態の元凶たる赤髪の少女が、そのしなやかな手で彼の白衣を掴んでいる。
どうやら走って追って来たらしい。
少女の肩は、少々リズミカルに揺れていた。
「ん、じゃないでしょ!?
あんた、ボーッとしたままどこまで歩いてくつもりなのよ!!」
「どこって、商店街の寝具屋に……。
……あれ?」
キッと睨み付ける、少女の視線。
我に帰った真也は、ごく自然に自らの居場所を見回した。
――見たところ、正門前商店街を抜けた門の外の様である。
太陽が頂点を過ぎた為に防壁の影となったその場所は、彼が朝方に見た時とはまた違った趣を呈している。
門番の好青年だけが、朝と変わらぬ定位置にて爽やかな微笑を浮かべていた。
「あ……」
「あ、じゃない!!」
少女の怒声を聞いて、真也は漸く自らのやらかした事を理解した。
3秒程思案し、そもそも何故こんな事になっているのかを分析し直してみる。
“取り敢えず、先ずは商店街でも見ていかない?
あんたの分の生活用品とか買わなくちゃいけないし……。
ほら、布団とかさ”
魔導研究所を出る時に少女と話しあった結果、本日の行動として決定したのがそれであった。
勿論彼も、この提案には異議など有る筈も無く、少女に連れられて早速商店街の寝具店へと向かっていた筈だったのだが……。
どうやら思考しているうちに、呆然と商店街を通り越して門を潜ってしまったらしい。
「すまない、ボーッとしていた」
「見ればわかるわよ!!」
恐らく、何度も呼びかけていたのだろう。
形の良い頬を微かに膨らませて、少女は刺々しくも睨んでいる。
段々慣れてきた少女の罵倒を聞き流しつつ、真也は静かに自己分析してみた。
……おそらく昨夜睡眠を取らなかった疲労が、見えない所で溜まっているのだろう、などと彼は考えてみる。
2~3日の徹夜程度で思考に異常が起きる様な柔な生活を送ってきたつもりは無いが、それでも異世界に攫われたという事実は、おそらく想像以上に自己の精神に負担をかけていたのだろう、と。
きっと、つまらぬ感傷に浸ってしまった事もそれが原因に違いない。
真也は胸の奥に僅かな引っかかりを感じながらも、先程の妙な感情はもう忘れる事にした。
彼の目の前では、少女が自前の吊り目をさらに吊り上げながらこちらを睨んでいる。
どうやってこの小さな怪獣さんを宥めようか、などと思案しつつ、そんな少女のネコの様な瞳を見た彼は、不意に忘れかけていたある物を思い出した。
「あ、そうだ」
その事を思い出した彼は、小さく手を叩きながら白衣のポケットに手を忍ばせ、ヒョイと“ソレ”を少女の前へと差し出した。
手のひらサイズ。
イヌとネコを足して2で割った様な生物の絵が縫い付けられた、可愛らしい袋である。
「あ、あたしのお財布。
そういえばアンタに貸したままだったっけ」
少女も思い出したのだろう。
キョトンと目を丸くしてから頷いて、ゆっくりと、ソレを手で持ち上げた。
「…………」
――そして。何故か、固まった。
財布を持ち上げるなり、少女はまるで瞬間冷凍されたハツカネズミの様にその動きを停止させ、暫し放心状態で自身の手元を見詰めていた。
一度、ゆっくりと、青年の掌へと財布を戻す。
もう一度、ゆっくりと持ち上げて、やっぱり納得がいかないな~という様な顔で眉根を潜め、首を傾げてみたり財布を振ってみたりしている。
そんな少女を見ながら、真也は繁々と頷いていた。
「さっきは助かったよ。
いや、まあ、原因が原因なんだがな。
それでも一応礼は言っておこう。ありがとう」
「…………」
真也の謝辞を気にも留めずに、少女はゆっくりと紐を緩めていた。
袋の口をカパっと開け、スゴスゴと中身を確認していたりする。
「……シン。
怒らないから、正直に言って?」
「…………? ああ」
「ナニ、買ったの……?」
「…………は?」
少女の問いが理解出来ず、真也は目を丸くした。
何か自分は、おかしな物でも買ってしまったのだろうか? などと一瞬だけ不安になった彼は、すぐさま記憶を呼び起こし、一通り問題が無い事を確認してから、正直に答える事にした。
「何って、胃薬だが……」
「……いくらしたの?」
「確か、100フェオって言ってたか?」
「ひゃ、100フェオ!?」
真也が平然と答えた瞬間である。
少女の顔が、驚愕に染まった。
一気に色の消えた顔は急速に青くなり、更にそれに倍する速度で真っ赤に変わっていく。
「ふざけないでよ!!
胃薬なんて、高くても精々10フェオくらいでしょ!?
あんた、一体どこでそんなに吹っ掛けられたわけ!?」
「? いや、どこって魔荷屋とかいう爺さんだが。
まあ、もう見るからに酔っ払いの浮浪者だったんだが、薬売りつけるなりどこかに……」
「はぁ!? ちょっと!!
何でそんな怪しいヤツから買った薬をホイホイ飲めるのよっ!! アンタはっ!?
信じられないどういう神経してるわけ!?」
まるで怪獣みたいに吠えながら、少女は青年の胸ぐらを掴んでブンブンと振りまわした。
そのやたらと迫力のある表情を見て、怒りや困惑よりも先に、何か自分がとんでもない事をやらかしたらしい、という事だけは察する青年。
彼は少女を宥めながら、淡々と口を開いた。
「……参考までに聞くが。
100フェオって、どの位の金額なんだ?」
「……その財布に入ってたのが132フェオ80ヴァ―ス、って言ったら分かってくれる?」
「……下にもう一つ単位があったのか」
成程、と、真也は納得して頷いた。
簡単に考えて、フェオとやらがドルと同じくらいの相場だったとすると、100フェオは約8000円。ユーロと同じくらいだったとしたら11500円程度の支払いをした計算になるのだろうか。
この国の物価が分からない為に単純な比較は出来ない真也ではあったが、成る程、確かに胃薬一回分の値段にしては破格と言わざるを得無いだろう、などと、彼は独りで納得していた。
真也が思案しているうちに、少女は大地を揺るがす様な怒気を纏いながら、門を離れて丘の方へと足を向けていた。
「? どこに行くんだ?」
「家に帰るのよ!!
どうせ残ったお金じゃ布団も買えないんだから、今日はもう終わり!!
アンタなんか、床でも外でも、どこでも好きな所で凍えてればいいのよ!!
勿論、あたしのベッド以外でねっ!!」
不機嫌にそう吐き捨てながら、少女は丘へと向かって行く。
それはどうやら、彼が平然と金をぼったくられた事に対する怒りのみで無く、昨晩から堪りに堪った不満が爆発した態度の様であった。
「ちょっと待ってくれ。
確かにみすみす金を取られたのは悪かったと思うが……。
金額の上限を指定しなかった君にも落ち度はあるんじゃないか?
オレはこの街へ来たのも初めてなんだから、胃薬の相場なんか知るわけが無いだろう」
真也はあまり反省の色も見せず、淡々とそう弁明する。
ソレを聞いた少女は、ピタリとその足を止めて、ゆっくりと振り返った。
表情は、帽子のつばに隠れて伺えない。
しかし怒りに震えた小さな肩は、彼女の沸点を超えた感情を明確に示唆していた。
「胃薬も買えない程バカなやつだとは思わなかったのよ!!
うん、確かにあたしが悪いのかもね!!
アンタみたいなバカに、一瞬でもお財布を渡すなんて、正気じゃなかったわっ!!」
「なに……!?」
見下す様な視線で、少女は青年を罵倒した。
今の言い草には、流石に青年もカチンと来たらしい。
そもそも、不満があるのは少女だけでは無い。
否。不満という点についてのみ言えば、いきなり異世界に攫われた挙句に命の危険に晒されている彼も、全く負けてはいないのである。
「元はと言えば、君がオレをこの世界に攫って来たのが原因だろう!!
5大国との冷戦? 世界の覇権? 知るかそんな物!!
不満があるのなら、初めからオレなんか呼ぶなっていうんだ!!」
声を荒げて青年が答える。
少女は、背筋が冷える程に冷ややかな視線を返した。
「勘違いしないでくれる?
あたしが呼ぼうとしたのは、もっと頭が良くって物分りのいい、あたしの役に立ってくれる守護魔なの。アンタみたいな常識知らずの役立たずが出てくるって知ってたら、あんな大変な思いしてまで儀式なんかしてないわよ!!」
吐き捨てる様な、少女の返答。
青年の表情は怒りに歪んだ。
無表情な印象は崩れていないものの、しかし顰められたその細い眉からは、彼も内心に堪え難い怒りを堪えている事が伺える。
彼は大袈裟に肩を竦め、両掌を見せながら鼻を鳴らした。
「ああ、そうか。オレは要らないか。それは何よりだな。
それならもう一回、儀式でもなんでもやって、もっと上等な“協力者”でも拉致してくればいいだろう!! 尤も、短気な君の事だ!! 何度やっても同じ事の繰り返しだとは思うがなぁ!!」
「~~~~っ!!」
青年が声を震わせ、そう言い切った瞬間である。
不意に、少女の動きが止まった。
帽子の下に覗く紅い唇はワナワナと震え、肩には必要以上の力が込められている事が見て取れる。
両腕は棒みたいに真っ直ぐに下げられ、拳は音が出そうなくらい強く握られていた。
今にも殴りかかって来そうな様相の少女。
感情の昂ぶりによってコントロール出来なくなった魔力が空気中に漏れ、淡い燐光を発しながら景色を歪め――。
「……そう。
それもいいかもね」
その一言で、丘の気温が5℃下がった。
「…………へ?」
呆けた様な真也の声。
彼は、少女から伝わって来ていた怒気の熱が急速引いていくのを感じていた。
まるで、沸点を超えた感情が一周して氷点下になった様な錯覚。
彼女の気配が大気を侵食して、空間を凍らせていく様な光景を幻視する。
――その凍えそうに冷えた空気の中で。
真也は、今の一言が言ってはならない事だったのだと理解した。
「おい……」
底冷えする様な恐怖を覚えた。
少女の右腕が静かに掲げられ、燐光を帯びた指先が、彼の左手に在る魔法円を指し示している。
その意味するところを理解し、真也の背筋には冷たい汗が滴った。
鈍い筈の彼の心音が、ドクンドクンと異常な程に脈を打ち始めていた。
「待て……」
「何で?
もう一回儀式すればいいだけの話でしょ?
じゃあ、アンタなんかもう要らないじゃない」
驚く程冷たい声色が、目の前の少女から響いて来る。
その冷淡な魔術師の空気が風に乗って首筋を撫で、断頭台に立たされているかの様な死の匂いが彼の全身を苛んだ。
――殺される。
彼はそう直感した。
それは元の世界に居た時には感じた事の無い程の、首筋に刃物を添えられるよりも遥かにリアルな、あまりにも直接的な死の恐怖である。
例え元の世界で誰かの怒りを買ったとしても、彼は決してここまでの恐怖を感じる事は無かっただろう。
彼の世界に於いては、当たり前の事だが、人を殺すには殺すしか無いからだ。
人間を正面から殺そうと思ったら、相応の道具を用意して、相応の覚悟と共にソレを用いなくてはならない。そこには、まだ救済の余地がある。逃亡の余地がある。どんなに絶望的だろうと、まだ助かるかもしれないという期待がある。
抵抗も許さずに息の根を止めるなんていうのは、正に死神にしか出来ない芸当だろう。
そういった意味で言えば、青年にとって、この少女こそは正に死神であった。
なにしろこの少女には、それが出来てしまうのだ。
例え真也に魔法が効かないとしても、少女に凶器を所持している様子が無いとしても、そんな事実は何の救いにもなりはしないのである。
彼女はもっと直接的に青年の命を握っていて、ソレを容易く握り潰せるのだから――。
少女にとって、きっとそれは簡単だろう。
青年の左手は、言わば彼らにとっての保険なのだ。それを使用する事が、刺殺や銃殺よりも難しい筈が無い。握られている青年の心臓は、それこそほんの少し少女が手を加えるだけで潰されるだろう。少女にとって、青年を殺すには殺す必要すら無い。もしも、本当に少しでも長く生きたいと思っていたのならば、彼はこの少女にだけは、絶対に逆らってはならなかったのだ――。
「アル……、冗談、だよな?
あの大臣様だって、オレには残って貰わなきゃ困るって言ってたじゃないか。
君の一存でオレを殺すなんて、それはいくらなんでも……」
「…………」
少女は、何も答えなかった。
答える代わりに、腕の周囲で空気の屈折率が変わる。
大気が、震え始めた。
それが収束し始めた魔力の波動なのだと、彼は理性では無く本能で理解した。
――自分の人生を終わらせる、最期の燐光。
少女は無言のまま周囲の魔力を掻き集め、そのまま――。
「召喚から一日と経たず、もう廃棄ですか。
まあ、それが貴女程度の術者の限界でしょう。
身の程を知って自ら舞台を降りようという決断は、正しい選択であると賞します」
「――――!!」
――二人は、その呼吸を止めた。
凛とした声が丘から響き、既にこれ以上無い程に凍てついていた空気が、絶対零度にまでその温度を下げる。
――振り向いた。
青年と少女は沸騰しかけていた自らの意識すらも忘れ、咄嗟に声の方へと跳ねる様に身構えていた。
過剰反応、では無い。
一秒でも遅ければ斬殺されるという、予感というにはあまりにも確かな直感があった。
背筋に触れる刃物の冷たさは、決して錯覚なんかでは無いだろう。
事実。声の主にとってその距離は、獲物の背筋に刃を当てているも同然なのだから――。
――風が吹いた。
街の方角から吹いたその旋風は、深緑の草本をシャラリと揺らしつつ、涼やかに丘を駆け上がる。
その先。
青年と少女から10歩程の距離を隔てて佇む彼女の姿を、透き通る様に鮮明な群青の空に映えさせる為に。
清流の様に澄み渡った、白薔薇の微笑。
丘を覆う深緑の草本に浮かぶ様に、純白のドレスが靡いている。
「不思議な事もあるものですね。
まさか、探すまでも無く貴女に会えるとは思いませんでした」
鈴の様な声が響いた。
見る者全ての目を奪う、金砂の髪が風に揺れる。
息を呑む程の美貌の女性は、その怜悧な視線を静かに細めながら、眼下に佇む少女を見据えていた。
「ウェヌス――」
少女が、呟く様に女の名前を零す。
その声に含まれているのは、少女が青年に見せたモノとはそもそもを異にした色であった。
――驚嘆。悲哀。憤怒。絶望。
その全てを内包し、そして混ぜ合わせたかの様な、正に掛け値の無い負の感情。
翡翠の瞳は震える様に、しかし怯むことなく正面から、白い女の姿を射抜いていた。
少女の視線を受けてなお、女は涼しげに口元を緩めている。
清楚な顔立ちに零れる様な笑みを浮かべ、あくまでも優雅に頷いて見せた。
「さて。私が自ら出向いた意味、ですが……。
アルテミア。貴女ならば、もう分かっていますね?」
しなやかな女の右手が、ダンスの様な流麗さで横へと差し出された。
細い指先は、しかし何かを指し示す様に。
彼女の所作には、まるで刑罰を決する神の使いが、罪人の行く末を暗示するかの様な重さと神々しさがあった。
――つられて、真也は女の指先を目で追った。
その段になって、彼は初めて、そこに佇むもう一つの影に気が付いた。
女の隣には、男が居た。
大海の様な青い甲冑を身に纏った、岩の様な体躯。
本来見落とす事などあり得ぬであろう大男は、しかし事実岩の様に、ここに至るまで一言も声を発さずに、気配を殺してそこに立っていた。
「ウェヌス、話は終わりか?」
女が優美に頷いたのを確認し、男は腰から一振りの剣を抜き放った。
下げられた二本の内の、一本。
銘も飾りも有りはしない、ウェヌスと呼ばれた女の傍にはあまりにも似つかわしくないその剣を手に取り、力も込めずに空へと掲げた。
――何かが刺さる音がした。
「…………へ?」
漏れたのは、あまりにも間抜けな声。
――それは、どういう手品だったのか。
視線を落とした青年の足元には、男の持っていた剣と非常に良く似たモノが突き刺さっていた。子供の頃から知っていた筈なのに、一度も自身の目では見た事の無い、あまりにも無骨なその鉄屑。
一振りの短剣が、まるで大地から生えたかの様に、サックリと緑の絨毯から伸びている。
地面に突き刺さった、その鋼。
――それが。
彼の目には、何故か自身の墓標の様にしか見えなかった。
「……反応なし、か。
こりゃ予想以下だな」
落胆した様な男の声。
青年が剣から視線を移すと、男の手は既に空になっていた。掲げられた腕も何時の間にか降ろされていて、獣の様な眼光だけが、はっきりとこちらの生命を射抜いている。その時になって、彼は漸く、あの男が何をしたのかを理解した。
――投げたのだ。
何の工夫も、種も無く、ただ持っていた剣をこちらへと投げ渡しただけ。
何の他意も殺意も持たずに、只々剣を投げ渡しただけなのである。
その事実に気が付いて、彼の全身に流れる血液は凍りついた。
――なんの事は無い。
今彼の足元に剣を投げたあの男は、その剣で真也を串刺しにする事も出来た筈なのである。
“物を投げる”。
そんな些細な、ごく普通の動作でさえ、あの男が行えば人間を殺す行為になる。
そしてソレを理解してしまった彼は、同時にその怪物が剣を投げ渡した意味に絶望した。
「おい、白いの。
さっさと剣を取れ。
一滴でも俺に血を流させたら、お前の勝ちにしてやるよ」
正面から獲物を見据える、青い鎧の獣の声。
低く響いた無色の音が、しかし真也には、あまりにも現実離れした恐ろしさを伴って響いた――。
―――――
「……待て。
待て待て待て待てちょっと待て!!
何がどうなってるのかをちょっと整理させてくれ!!
あんた達は何所の誰で、何でオレがそんな意味不明な事をしなくちゃならないんだ!?」
青年は、狼狽しながら誰何の声を発した。
涼やかな彼の双眸は、しかし今だけは白黒と慌ただしく泳いでいる。
その様子を、果たしてどのように取ったのか。
純白の衣装を纏った女性は、目を丸くしながら口元に手をやっていた。
「失礼しました。
初対面の方に対して名乗らないなどと、私はどうかしていた様です」
フワリ、という擬音が似合いそうな所作。
女は、この場にあまりにも不似合いな礼をして見せた。
正直、真也には彼女が何を考えているのか全く読めなかったのではあるが――。
しかし彼女が何かを言おうとしている事に気が付いて、彼は思考を中断した。
「私は武の国の第一王女、ウェヌサリア・クリスティーです。
その左手の魔法円。
貴方はそこのアルテミア・クラリスに呼ばれた異界の方とお見受けしますが、それは間違いがありませんね?」
「……不本意だけどな」
不機嫌そうな少女の顔を横目で眺めながら、真也は本当に嫌そうにそう答えた。
否定しなかったのは、その意義を感じなかったからである。
質問の形を取ってはいるが、ウェヌサリアと名乗った女にはかなりの確証があるのだと、その声色がハッキリと明示していたのだ。
だからこそ、真也は誤魔化さず、正直に返答した。
「不本意、ですか。
成程。確かに、異界の方々の抱く感情は概してそのようなものであると聞き及んでおります。
加えて彼女程度の術師に使役されるとなっては、まあ不満があるのも当然でしたね。
さて。この度は我々の世界にまでご足労いただいた事、全ての民に代わって心より感謝いたしましょう。
失礼ですが、貴方のお名前を伺っても宜しいでしょうか?」
「――――? 朝日 真也。
姓が朝日で、名前が真也、です。
一応、学者をやってますが……」
礼儀正しい女の問いに、今度は真也も目を丸くした。
初見の殺気に気圧されたものの、何やら、彼女は随分と話の分かる様子だったからである。
何のつもりだろうか、などと彼は訝しみもしたが……。
よく考えると、彼女達は自分を殺すなどと一言も言っていないという事実に気が付いて彼は納得した。
内心でホッとしつつ、繁々と女の表情を伺ってみる。
彼が見たことも無い程の美貌の女性は、見た者全てが忠誠を誓わずにはいられない様な、正に女神の笑みを零しながら、まるで歌でも歌う様に口を開いた。
「さて、シンヤさん。
それでは挨拶も済んだことですし、是非とも速やかに死んでは頂けませんか――?」
「なるほど。それはまた随分とシンプルな用件ですね。
まあ、それくらいならば前向きに検討――出来るか!!」
見惚れずにはいられない程の美貌についつい騙され掛けた真也は、しかしその内容を理解した瞬間に全力で首を振った。
なんの事は無い。今のは、もうまごう事無き抹殺宣言である。
目の前の女性は、その容姿とはあまりにも不似合いなセリフを平然と零しながら、真也の拒否を心底不思議そうに眺めて首を傾げている。
……いや。何故そこで首を傾げるのか。
真也は彼女の思考回路がどうなっているのか知りたいような、或いは知るのが怖いような、とても不思議な気分になってみたりする。
「…………」
壮大なる謎を胸に秘めたまま、ゆっくりと視線を隣に移す。
女の傍らに佇んでいた大男は、真也の疲れた視線を受けながら、その意図するところを察したように肩を竦めて辟易していた。
「……諦めろ。
うちのお姫様は……、まあアレだ。
ちょっと変わった環境で育っててな。
挨拶と斬り合いは同じ意味なんだよ」
「…………」
――どんな環境だ、それは。
彼のツッコミを代弁出来る人物はこの場にはいない。
男は面倒臭そうに腕を組んだ。
「ま、安心しな。
俺も素人相手に、本気で斬りかかる趣味はねぇからよ」
言葉を失う青年を見据えながら、男はそう嘯いた。
その表情には見るからにやる気が無く、先刻感じた様な強烈な殺気は伝わって来ない。
その様子から、もしかしたら彼はまともな常識を持ち合わせているのかもしれない、と青年は静かに期待した。
「…………」
青年は顎に手を当てて思案し、頷く。
成程。良く考えたらこの男は、もう既に一回、こちらを殺す機会を逃しているではないか。
そう。もしもこの男が本気で真也を殺すつもりだったなら、投げた剣でそのまま真也を貫けばよかったのである。
だが、この男はそれをしなかった。
それは、“殺意無し”を証明する状況証拠には十分になり得る代物だ。
それに先に彼が述べた、“変わった環境で育った”という見解は、自身がまともな環境で育っていなくては述べられない物ではないのだろうか?
「…………」
一縷の期待と共に、彼は状況を再分析した。
――先程あの男は、一滴でも血を流させたらこちらの勝ちでいいと言ってくれた。
それはきっと、この剣で斬り合えという意味なのだろうが……。
しかし彼が隣のお姫様に振り回されているだけなのだとしたら、まだ望みはあるかもしれない。
もしかしたらわざと負けて、自分を助けてくれるつもりでいるのかもしれないのである。
真也が前向きな解釈に努めていると、男はわかり難い笑みを見せながら口を開き――。
「記念に初撃くらいは打たせてやるよ。
ああ。言っとくが、その後はなるべく動くなよ?
万が一急所外れたら、死ぬ時苦しいぜ」
「…………」
……理解した。
なるほど。この場にまともな人間なんて、初めから一人もいなかったのである。
「おいおい。なぁにしけた面してやがんだよ。
お前だって、いつかはこうなるって分かってたんだろ?
それが偶々今日で、相手が俺だったってだけの話だ。
……ま、男らしく観念するんだな」
放心する真也を慰める様にそう言いながら、男はヒラヒラとその左手を振ってみせた。
掌には、橙赤色の魔法円がチラついている。
物理法則を歪曲する、この世界が誇る魔導の奇跡。
その事実を認識したところで、青年の顔は驚愕に染まった。
「まさか……。あんたもか?」
真也の問いに、男は溜息の様な笑みを零した。
それは、果たして肯定だったのか。
彼は自らの腰に残ったもう一本の短刀に手を掛け、金属音を鳴らしながら引き抜いた。
「待て――。待ってくれ!!
あんたがオレと同じ立場なら、何でこんな事をする必要がある!?
言っておくが、オレにはあんたに危害を加える意思なんか無い!!
いや、そもそも……」
真也の声は、短刀による風切り音に遮られた。
剣風は矢切の様な残響を残し、丘に渦巻く風の流れを僅かに変える。
「……最後だ。
剣を取って向かって来い。
やらないなら俺からいくぜ?」
「……っ」
空気が、張り詰める。
剥き出しの殺気に呼吸器を圧迫され、真也は吐き気すらも覚えた。
胃酸の濃度が急速に高まり、喉が抉れる様な胸焼けが、真也の神経を犯していく。
――殺す気だ。
青年は、静かにそう直感する。
説得は、おそらく無意味だろう。
無駄な力を入れず、まるで掌と一体化したかの様な自然さで握られた短刀。
一体どれ程剣を振るってくれば、あんな握り方が出来る様になるのか。
男にとって、それを振り下ろすのは呼吸となんら変わりないに違いない。
弁明や口上など、口にする間も無くあの短刀に両断されることだろう。
――それに、である。
仮に、万が一この男に戦意が無いとしても、そんな物は何の救いにもなりはしないのだ。
彼が真也と同じ立場であるのなら、隣のそう女が命じる以上、彼は決して逆らう事なんか出来ないのだから――。
「…………」
剣の柄に手を掛けながら、青年の顔は絶望に染まった。
――勝負になどならないだろう。
彼は、本能でそう理解した。
この剣を抜けば、朝日 真也は一瞬で殺される。
男は、もしかしたら、宣言通りに一撃くらいは打たせてくれるかもしれない。
だが。それで終わりだ。
正面切っての喧嘩も殆どしたことの無い真也は、次の瞬間には一息で急所を突かれて絶命することだろう。
この男は、それこそ真也が死んだ事にも気が付かない程に、華麗且つ速やかに彼の息の根を止めてくれるに違いない。
「…………」
――コレを抜けば、死ぬ。
だが抜かなくとも、恐らくその結果は同じだろう。
余命を宣告されたかの様な、絶望的な悪寒が、青年の脳を麻痺させていた。
確実に助からないと分かる高さから突き落とされた様な、毒を呷ったかの様な寒気と共に、思考を殆ど停止させながら、真也は剣の柄へと力を込め――。
「その目を差し出せ、
愚かなる賢者」
「――――!!」
瞬間。少女の声が、最果ての丘へと響き渡った。
膨大な魔力が、全員の虚を突いて爆弾の様に空へと炸裂する。
魔力によって強められた光は一瞬にして太陽の数倍に至る明るさの閃光を生み出し、門の外を白一色に染め上げた。
「閃光魔法!?
まさか、魔術を行使している気配なんてどこにも……!!」
驚愕の声は女の物だ。
それは視界を奪われた事に対する動揺か、或いは自らを出し抜いた少女の手腕に驚嘆したからなのか。
「シン、こっち!! 走って!!」
――腕が、引かれるのを感じた。
何も見えない闇の中で、青年は少女の声だけを頼りに足を動かす。
転んでいる暇なんて無い。息をしている時間すらも惜しい。
安定感の無い草の大地を、青年は思考を放棄して全速力で駆け抜けた。
「ネプト、追撃を!!」
「分かってる!!」
青年には何も見えない。
視界という最重要の知覚が消えた分、他の感覚は信じられない程に鋭敏になり、特に聴覚は嘗て経験した事が無い程に過敏になっていた。
――だからだろう。
青年の耳は、本来聞こえない筈のその音を拾っていた。
(風を切る、音……?)
「ギ……ッ!?」
――左腕に熱を感じた。
まるで、焼鏝でも押し当てられたかの様な錯覚。
皮の中を抉るナニカの感触が、あまりにも生々しく彼の精神を侵食する。
――足が、止まりそうになる。
これ以上は動けない。せめて自分の腕がどうなっているのかを確認するまでは、これ以上は一歩も走れない。激痛と焦燥に、青年の足は縺れそうになった。
「グ……ッ、ア゛!!」
――走れない。
走れない、筈なのに。
右腕に感じる少女の手は暖かくて、そして一生懸命に力が込められていた。
体温が、伝わって来る。
それを意識していると、青年の脚は何故か勝手に動いてくれていた。
少しすると、足から伝わる感触が変わった。
柔らかかった地面の感触は、やがて乾いた音を響かせ始め、直ぐに硬い石畳の物へと遷移する。
「衛兵、敵襲!!
ぼさっとしてないで、さっさと門閉めて!!」
感じるのはただ、激痛と灼熱。
苦痛しか無い真っ暗な世界に、少女の声だけが篝火の様に響いていた――。
―――――
「……しくじったか」
色を取り戻した丘。
獲物を貫いた筈の自らの短刀が地面に果てているのを視認し、青い大男は息を漏らした。
その顔には、微かにバツが悪そうな色が浮かんでいる。
「言い訳をしても良いのですよ?」
獲物を逃した従者を叱責する事も無く、女はあくまでも優雅に告げた。
女の美貌には、しかし細やかな微笑が浮かんでいる。
まるで、彼は言い訳をしてもいい程の仕事をした、とでも言うかの様に――。
そして事実。女は本心からそう思っていた。
男の行った追撃は、その実十分に常理を外れた物だったからである。
「音だけを頼りに投げたにしては、十分に過ぎる精度です」
顔に浮かぶ笑みを深めながら、女は静かに彼を労った。
漸く完全に戻った視界で、地に落ちた短刀と、ソレを投げた男を交互に見比べながら――。
視界が奪われたその一瞬。感覚を鋭敏にしたのは青年だけでは無かった。
いや。感覚を研ぎ澄ませたという点で言えば、戦闘に慣れている大男は、寧ろ青年に増して上手く感覚器を使いこなしたと言えるだろう。
――地を踏む獲物の足音。
――押し殺した呼吸音。
それらを人間離れした聴覚で聞き届け、そしてそれだけを頼りに、男はその短刀を投合していたのである。
ならば急所を外したとはいえ、その絶技は賞賛を受けて然るべきものだっただろう。
例え命を奪うまで至らなくとも、その短刀に血を付けたのは十分な達人芸であると言える。
「…………」
しかしそれでも尚、男は釈然としない表情を浮かべていた。
――だが。男にとって、それは寧ろ当然だ。
何しろ彼は、短刀が青年の心臓を貫いたのを確かに“見た”のだから。
虚勢では無い。
視界を奪われて物理的な意味で青年を捉える事は叶わなかったが、それでも彼は間違いなく、自らの短刀が敵を貫いた像を脳裏に浮かべたのである。
瞼の内に仕留めた像が映ったならば、短刀は間違いなく獲物の心臓を貫いていなければならない。
現実とズレる像を幻視する程、彼の重ねてきた鍛錬は自堕では無いのだ。
彼にとって、この世界が“そう”でさえなかったのならば――。
「いや、俺の落ち度だ。
――ったく、まだまだ修行不足だな」
しかしソレを分かって尚、男は一切の弁明をしなかった。
――未だに慣れない、この世界の“理”。
そんな事実は、いざ戦闘になれば何の斟酌もされないと十分に理解しているからである。
「んで、どうするんだ?
あいつら防壁の中に篭っちまったぞ?
まさか向こうから出てくる事もねぇだろうしよ、なんか作戦でもあるのか?」
「おかしな事を聞くのですね。
分かり切った事でしょう」
眼前に聳える、山の様な高さの防壁。
難攻不落としか形容出来ないその威容を視界に収めつつ、ウェヌスは不敵な笑みを浮かべながら言い放った。
「無論、正面突破です――!!」
「やっぱりな……」
爛々と燃える彼女の瞳から目を逸らしながら、男は海よりも深い溜息を吐いた。
――彼は、もう知っている。
このお姫様に頭を使った作戦を要求しようなどという前提が、そもそも根本から間違っているのだ、と。
男の美貌の雇い主は、思慮深そうな容姿をしながら、その実一つ以上の事を考える事が極端に苦手な気質の持ち主であった……。
「わかってると思うけどよ、あの嬢ちゃんはそこそこ手馴れてたぜ?」
「そのようですね。
……確かに、彼女も一応は“大魔導”でした」
ウェヌスは少女の機微を思い返しながら、静かに分析した。
――先の魔術は、彼女をもってしても発動の瞬間まで魔力の波を一切感じ取れなかった。
おそらくは自分達が会話をしている間に、こちらが気付けない程にゆっくりと、魔力をその腕に流していたのだろう。今のが彼女の“先天魔術”でないとすれば、その術式構築の手腕は尋常ではない。
「…………」
未知数とも言える、“彼女”の実力。
防壁の中へと籠った、敵。
それら全てを理解した上で尚、彼女は小さく頷いて見せた。
「彼女が全力で挑んで来るのなら、万に一つくらいは私に手傷を負わせることもあるかもしれません。
彼女は私にとって、近年稀に見る難敵と言って良いでしょう。
――そんな相手の本拠地を、正面から打ち破る。
ええ、考えただけでも心が踊るではありませんか――!!」
「…………」
……男が呆れて頭を抱えていた事に、彼女はついぞ気が付かなかった。