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朝日真也の魔導科学入門  作者: Dr.Cut
第一章:イクリプス-2『最初の敵』
12/91

12. 魔力の蓄積によるアダマス鉱の体積及び強度の可変性を確かめる為の不死鳥の羽根ペンを用いた魔力放出実験

 本の山を抜けた青年を出迎えたのは、見渡す限りの深緑の大地だった。

 芝の香りが緩やかに漂う、広い広い天然の大地。

 青々とした草本が、吹き抜ける風に揺らされて、心地のいい音色を奏でている。

 高い高い群青の空には、遮る雲は一つも無い。

 クークーという鳴き声を響かせて、豆粒みたいな鳥達が、時折空を駈けてゆく。

 その内の一羽を目で追うと、眩い太陽の輝きに目が留まった。

 青年の記憶よりも数段小さい太陽が、青白い閃光で世界を照らしている。


「驚いた……。

 ここって、本当に異世界だったんだな」


 見たことも無いくらい蒼い太陽に目を丸くしながら、朝日 真也は掠れた声でそう零した。

 美しい景観に驚嘆すべきその顔は何故か蒼白で、まるで死人か病人の様なオーラを醸し出している。感情があまり顔に出ない質の彼にとっては、それは許容量を超えた不調の訴えであると言るだろう。


 ……原因は語るまでもないが、敢えて語る。

 先ほどの汚泥(・・)である。


 彼がこの世界にて初めて口にした、緑色の粘液。少女が生み出したその産業廃棄物は、僅か一撃で真也の意識を虚空へと吹き飛ばした。ネットリとした感触が絡み付く度に全身がガクガクと痙攣し、味蕾が泣いて赦しを乞う幻影が脳内で明滅する程の地獄の具現。風味を鼻に逃がした瞬間には、あまりの刺激臭に走馬灯が見えた程だ。

 無我の境地に至り、脳内で無尽蔵に生産されたエンドルフィンが半分悟りを開き始めた頃、魔女の毒液をなんとか胃まで押し込んだ真也。だが、涙目で顔を上げた瞬間に彼が見つけたのは、怪訝そうな表情で自分を見つめる少女の目線だった。



 “言っとくけど。せっかくあたしが作った料理を残したりしたら、明日からご飯抜きだから”



 ニコリ、と、妖精の様な微笑みで妖怪の様な事を告げた少女。

 結局彼女は、有言実行で真也に“魔女のスープ・禁止薬物仕立て”を一滴残らず完食させた。

 そう。あのヒトの頭部が入りそうな大釜の中身を、(二人でとはいえ)一滴残らず、である。

 結果として今、彼は胃の中からこみ上げる地獄の瘴気に精神を蝕まれているのであった。

 先程の青年の呟き、“本当に異世界だったんだな”には、未知の景観に対する感動のみで無く、“君、本当に異生物だったんだな”という不満と侮蔑が暗に込められていたりする。

 

 そんな彼の心情を敏感に悟ったのだろうか。

 少女はキッと、睨み付ける様な視線を青年に向けていた。


「……なによ。

 あたしの料理、そんなに酷くなかったでしょ?

 まったく。あんたの世界の人間って、普段何食べて生きてるのよ」


「そうだな……」


 少女の問いに、真也は無意識に昨日の食事へと思いを馳せてみた。

 ・朝:卵掛けご飯。

 ・昼:菓子パン。

 ・夜:カップ麺。

 ……健康的とは言い難いが、まあ独身物理学者の食生活など、概してこんなものである。


 たまに大学の食堂に行く事もあったが、真也は人混みというものが好きにはなれなかった。

 なにしろ多勢の他人と一緒に食事など、考えただけでも飯が不味くなる。

 結果として彼は、上記のお手軽メニューに冷凍食品とデパートのお惣菜でローテーションという、なんとも残念な食生活を送って来たのだった。


 いや、まあ。

 何故か、偶に弁当を差し入れにくる物好きなアホ毛もいた気がしたが……。

 真也は、名前までは思い出せなかった。


 何にせよ、今の彼にはそれが飽食であったとすらも思えた。

 少女の様子を観察した限りだと、おそらくは先程の物体は、この世界の人間にとってはごく一般的な食事なのだろう。しかしちょっと考えてみれば、ライオンの食事をシマウマが摂取出来ないのは当然の事であって、どうやらこの世界の人間の食料は、自分の身体にはそぐわないらしいと彼は分析した。

 おそらく、地球人(ホモサピエンス)とは必要な栄養素や身体の構造そのものが異っているに違いない。


「…………」


 さて。だがそうなると、この世界で真也がまともな食事にありつく事は絶望的だと判断せざるを得ないだろう。日本にいない生物の餌がスーパーに売っていない様に、この世界にいない生物の真也が摂取できる食料が一般に販売されているとは考え難い。


 通常、人間が水のみで存命可能なのは1~2ヶ月が限度と言われている。肥満体型の人間ならばそれ以上も可能なのだろうが、不幸にして真也には余分な脂肪の蓄えはない。もしも今後も暫くはこの世界で過ごしていかなくてはならないと仮定した場合、栄養摂取という観点からすれば、彼はどうしようもない絶望感に打ち拉がれるしか無いのであった。


「この世界には、乗り物とかは無いのか?」


 蒼白な顔で歩みを進めながら、真紅の少女へと次の問いを投げる。

 少女は軽く肩を竦めてみせた。


「あるよ?

 ……でもね、あの家でそんなの飼えると思う?」


「…………」


 真也の意を汲んだ様な、少々先回りした答え。

 その一言で、彼はこの世界における“乗り物”という概念をなんとなく察した。

 おそらくは“動力機関”というものが開発されておらず、移動手段と言えば牛や馬なんていうレベルの世界なのだろう。

 ……せっかく“魔力”なんていう、不可思議な第五の“力”が存在しているのにも関わらず、それを用いて生活を改善しようという精神が全く見られない、“堕落”を許さない人々の情念に感心の意などを示しつつ、真也は死の軍行中の亡者の様な表情で溜息を吐く。


「はぁ……。大したもんだな。

 異世界人を拉致出来るクセに、この世界はそんなに技術レベルが低かったのか?

 恐れいったよ。これはまた、随分と方向性の偏った進化を遂げてきたんだな。

 てか君。せめてお得意の魔術とやらで、何か移動に使えるのは無いのか?

 例えば高速移動とか、瞬間移動とか……」


「あってもあんたには使えないでしょうが!!

 大体ね!! そんな大魔術を通勤に使える“先天魔術(ギフト)”持ってるのは、“氷の国”の暴君女くらいよ!!

 いいから、文句言わずに歩くのっ!!」


 いい加減怒気を孕み始めた少女の声を聞き流し、真也は大きく溜め息を吐いた。

 ゴポッ、と。胃から込み上げた瘴気が鼻に抜けて、意識が遠退く。

 一瞬だけ花畑が見えた様な気がしたが、気力だけでなんとか昏倒は思い留まる。

 彼の目線の先には、街と思しき光の塊が緑の大地にポッカリと浮かんでいた。

 目算、約2km。

 体内に蓄積した“毒”に侵された彼には、それがフルマラソンよりも遥かに果てしない距離に思えてしまう。

 ――乗り物、あったらよかったのになぁ。

 真也は半ば現実逃避気味に、ブツブツとそう呟き続けるのであった。



―――――



 結論から言うと、距離は2kmどころではなかった。

 街の周りに張り巡らされた、防壁らしき金属の壁。

 それがあまりにも、馬鹿馬鹿しいくらいに大きすぎて、実際よりもずっと近くに見えていただけの話だったのである。


 思い出すのは、東京都心のオフィス街だろうか。或いは、ニューヨーク州マンハッタンの摩天楼でもいい。ともかくとして真也の視界を覆うこの白銀の壁は、その向こうにそういった物がまるごと入っていても全く見えないだろうとすら思える程の、それこそ破格の巨大さを誇っていた。

 具体的な比喩を出すのならば、万里の長城がオモチャに見えるくらいである。

 ……もしも少女の家が丘の上に立地しておらず、ここまでの道程が下り坂でなかったとしたら、彼は途中で力尽きていたに違いない。


 真也は、フラつく足取りで正門へと歩みを進める。

 白銀の防壁は、近づくごとになお一層の威圧感をもって彼を出迎えた。

 門の中から吹き抜ける風に、街の熱気や人々の息遣いを確かに感じることができる。

 その活気に急かされたかの様に、真也は門の敷居へと足を向けた。

 周囲を軽く見物しながら、跳ね橋を超えて街に入ろうと足をかける。


 ――瞬間。近づいてきたのは、ガチャガチャという鋼の音。

 不思議に思った真也が顔を上げると、時代錯誤な鎧姿が、ロングソードを構えて目の前に立ちはだかっていた。

 どうやら、門番らしい。

 真也の白衣が珍しいのか、門番は随分と訝しそうな視線を投げかけてきたが、少女が2~3言何かを話したかと思うと恭しく頭を垂れて道を譲ってくれた。

 ……余談だが。爽やかな笑顔に白い歯が光る、近年稀に見る程の好青年だった。



 門の中には材質不明の石畳が続いていた。

 路の両サイドに続く建物の群れは、一見すると石造りに見えるが、しかし良く見ると金属製である事が分かる。

 様式も少々変わっており、全体像は中世ヨーロッパ風な印象を受けるのだが、細部を見るとやはり地球の物とは全く異なっているのが見て取れた。

 ――おそらく、この通りは商店街なのだろう。

 殆ど全ての建物が看板を掲げ、人々は活気に満ちた様子で客引きをしている。

 好奇心の赴くままに、真也は適当な店の看板を一つ読んでみたのだったが……。

 オシャレな趣の、喫茶店風のその店の名は“ポーションバー・マーニ”。

 結局、何の店なのかわからなかった。


 車が無い事が影響しているのだろう。

 まるで路全体を埋め尽くすかの様に、大通りには様々な人々が行き交っている。

 子連れの母親、恰幅のいい老人、真也と同じ年頃の青年達。

 皆が皆、一度は真也の異質な風貌に目を留めるが、隣にいる少女の姿を確認すると即座に道を譲り、会釈をしながらすれ違っていく。

 いかにも柄の悪そうな坊主頭の男が頭を垂れた時には、流石の真也も目を丸くした。


「大したものだな」


 感心した様子で、彼は呟いた。


 先程の門番の、恭しい礼が思い出される。

 この世界の警備体制など勿論知らない真也ではあったが、見るからに“異質な”服装の自分をやすやすと通す門番などいない事くらいは、物理学者の彼にも容易に想像がついた。

 つまりそれを可能にした彼女には、それだけの知名度があるという事なのだろう。


「フン。当たり前じゃない。

 言ったでしょ? あたしは国一番の魔導師だって」


 真也の目線を受けた真紅の少女は、自慢気に薄い胸を張っていた。



 会話を続けている間にも、彼女が通る度に通行人がざわめいている。

 まるで彼女を知らない人間など、この街には居ないとでも賛同するかの様に。

 自分たちに向けられる視線と声が、真也にはまるで彼女を喝采している様に聞こえていた。


「ふむ……」


 不意に、真也の頭には疑問が湧いた。

 昨日からのやり取りで、彼は自分がこの少女との意思疎通が可能であるという事は理解している。そしてそれは、少女によると、彼が彼女の知識を借りているからなのだという。

 

 だが。

 それなら、この世界の他の人間の声はどの様に聞こえるのだろうか。

 幸か不幸か先程の門番とは会話をせずに済んでしまったし、このあたりで一度意思疎通の可能性を確かめておくのもいいだろう。

 彼は、軽い好奇心と共にそう思案した。


 耳を澄ます。

 意識を道行く人々の雑談へと向ける。

 さて。果たしてその内容は――。



「うわっ、見ろよ。

 アルテミア所長が男と歩いてるぞ」


「はぁ? なにをバカな……って、うおっ!!

 ま、マジだ、信じられねー!!

 捕まえた男を鹿に変えて、犬の餌にするのが趣味だって噂じゃなかったのか?

 よ、よし!! お前、行って真偽を確かめてこい!!」


「どこの罰ゲームだよ!!

 それで火達磨にされたヤツが何人いると……、

 ヒッ!? や、ヤバイ!! こっち見たぞ!!」


「男? 雄性型のモンスターの間違いじゃないの?

 ほら。あの()、男なんか実験材料としか見てないって噂だし」


「どうせ儀式に使う生贄かなんかでしょ。

 うわー……。あの人可哀想……」


「ママ。あのおにいちゃん、たべられちゃうの?」


「シッ、見ちゃいけません!!」




「…………………。


 …………アル?」



 理解した。

 全て(・・)を、問題無く理解する事が出来た。

 なるほど。確かに彼女の知名度は、文句無しに凄まじいものがあるのだろう。

 ……危険物として。


 少女へと目線を送る。

 少女はフッ、と息を吐いていた。

 口元が三日月型に緩んでいる。

 右腕を、高く高く掲げている。



命ず(ansur)!!」



 少女が声を張り上げた瞬間である。

 突如、民衆は脱兎の如く走り出した。

 母親は子供を抱え込み、老人は杖を放り出して風を追い越し、若者は悲鳴を上げながら手近な店へと駆け込んでゆく。

 ――半径、およそ5m。

 一瞬にして取り巻きが消滅していた。



「ナニよヒトを怪獣みたいにっっ!!

 あたしが誰かと並んで歩いてるのがそんなに不思議!?

 誰が天変地異よ!? だれが最終戦争(ラグナロク)よ!? だぁれが惑星直列よっ!! 文句があるヤツは面と向かって言ってみなさいよバカーーッ!!」


 噴火したかの様な大音声が響いた。

 フーッ、フーッ、と。体毛があったら逆立てそうな勢いで喚き散らす少女。

 目を合わせる勇者はいない。

 人の消えた大通りに、閑古鳥が鳴いている。


「…………」


 癇癪玉を落とした少女の様子を見て、真也が思い出したのは昨夜の初対面であった。

 ……成程。普段からあの暴れっぷりであったなら、民衆のこの態度もまあ納得だというものだろう。

 自らを拉致した少女の怪獣ぶりを深く心に刻みつつ、彼は深々と嘆息した。

 瞬間――。



「うっ…………」



 ゴポッ、と。忘れてかけていたあの(・・)瘴気が、胃の中で再燃した。完全に気を抜いていた所での不意打ちであった為、急所を抉られたかの様に視界が一気に暗くなる。偏頭痛を起こし始めた頭を支え、真也はヨロヨロと、力無く道端にへばり込んだ。

 ……少女が、なんか人でも殺しそうな形相で睨み付けている。


「……どうしたの?」


「……いや、さっきの汚泥が」


「あたしの、料理(・・)が、ナニ?」


「………………」



 ――殺される。

 これ以上彼女の機嫌を損ねたら、間違いなくこの場で殺される。

 半ば動物的な本能でそれを察した真也は、取り敢えずは暫し無言で項垂れる事にした。



「痛……っ」



 硬い衝撃が、頭部に走った。

 一瞬、殴られたのかと錯覚した真也。

 だが、次瞬。目の前にボトリと落ちた小袋を確認して、どうやらソレを投げつけられたらしいと理解した。

 ドチャリと石畳の上に転がった袋には、イヌとネコを足して2で割った様な動物のイラストが縫い付けてある。


財布(ソレ)、貸しとく。

 あたしは王宮に話をつけて来るから、あんたはその間、薬でもなんでも買って飲んでなさい。

 終わったら、広場の噴水の前で待ってる事。

 ……無駄遣いは許さないからね?

 あ~っ、もう!! どいつもこいつもっ!!」


 少女は癇癪を起こしながらそうまくし立てると、街の奥の方へズンズンと歩いて行った。

 その後、彼女と等間隔で戻って来る人集り。


「……気遣いありがとう。

 だが、それなら気付いてくれ」


 小さくなっていくトンガリ帽子を眺めながら、真也はガックリと項垂れた。

 ――そう。少女は気付くべきだったのだ。

 この世界の“食料”が摂取出来ないなら、おそらくは“薬”を摂取しようとも、彼は全く同じ末路を辿るだろうという事に……。



 真也が大きく溜息を吐いたその瞬間――。



「おやおや、大丈夫かえ?」



 彼の背後からは、皺がれた声が掛けられた。



―――――



 顔を顰めざるを得ないほどに渋いその液体には、しかし想像よりも幾分ましな風味があった。あれ程身体を蝕んでいた瘴気がスーッと治まり、ミントの様な爽やかな芳香が鼻から抜ける。

 ――吐き気が風に溶けるかの様に消え失せて、爽快感が全身を満たす。

 その嘗て無い程の気分の良さに、真也は目を丸くした。


「どうじゃ? 騙されてみるもんじゃろ?」


 液体を真也へと手渡した老人は、剽軽に笑いながら“ん? ん?”と真也に同意を促した。

 真也は仕方なくといった表情で、肺の空気を吐き出しながら首を縦に振った。



 ――遡るは30分ほど前である。

 項垂れていた真也に話し掛けたこの老人は、それはもういかにも(・・・・)といった風貌の浮浪者だった。

 ツギハギだらけのローブは薄汚れ、あちこちに染みが着いていたし、黒ずんだ白髪はイエティみたいに伸び放題で、雑草みたいな口髭は顎鬚と繋がって喉を覆っていた。

 何らかの事故に会ったのかもしれない。

 左眼は黒い眼帯に覆われていて、残る右目は鮮血の様な緋色をしている。

 ……それだけ人相が悪くなる要素を揃えているというのに、どことなく朗らかな印象を与える表情ができるのだから、まあ中々に稀有な顔立ちをしているとも言えるかもしれない。


 無論。真也は初め、老人を相手になどしなかった。

 浮浪者の相手をするだけの精神的余裕など無かったし、なによりこの老人の酒臭い息が、只でさえ限界値を突破しそうな真也の吐き気に追い討ちを掛けて来たからである。

 ……いや、もう。ホント風呂に入っていないとか歯を磨いていないとかいうレベルでは無く、全身の体液が酒で出来ているとしか思えない様な臭いだったのだ。

 しかし真也が無視をしようとも、老人は後からグイグイとついて来た。


 “これこれ、ちょいとお待ちよ”

 “そう急ぐでない、若いの”


 しまいには真也に走る気力が無いのをいい事に肩を組み始めたので、彼はとうとう観念して老人の話を聞く事にしたのである。

 そして老人が謎の薬を手渡して来たのが、丁度5分ほど前。

 無論。この世界の食物の危険性を身を持って熟知している真也は、当然の如くソレを飲む事を躊躇していた。

 だが、待ち合わせの噴水の淵に座った所で老人が――。

 “仕方ないのぉ。一人で飲めんのなら、口移しでもしてやろうかぇ?”

 ……なんて恐ろしい事を言い出したのでとうとう観念し、今に至る。

 まあ。結果としてソレは功を奏した様なので文句は無いのだが。


 老人は暫しの間満足げに、青年の仏頂面をニヤニヤと覗き込んでいた。

 傍らから立ち上る、頭痛を覚える程の酒の臭いに顔を顰め、青年はプイと顔を逸らす。


「……まあ、とにかく助かりましたよ。

 まさかこんなに効く薬だとは思わなかったもので」


 すっかり体調が回復した真也は、伸びをしながら無愛想な礼をした。

 彼にしてみれば、この世界でも摂取可能な物質が存在したという事実の意味する所は大きい。そういった意味で、本音を言えばこの老人には感謝してもしたりないくらいではあったのだが――。

 先程の人々の雑談から、彼は自分が異世界人である事は、どうやら一般には知られていないらしいという事が分かってもいた。

 よって内心の感激を面には出さずに、そう言うだけに留めるべきだと判断したのである。


 真也が一息ついてから視線を上げると、老人は好々爺めいた表情で彼の顔を覗き込んでいた。

 剽軽な声で笑いながら、スッと右手を差し出している。


「いやいや、礼を言うのはこっちの方じゃよ。

 なにせ、大事な大事なお客様じゃからのぉ」


「…………は?」


 不思議に思って、真也は視線を落とした。

 老人の右手は、まるで何かを要求するかの様に、スッと彼の前へと差し出されている。



「100フェオじゃ」



 ……そして、ナニか聞いた事も無い単語を口にした。

 察するに、この国の通貨の単位だろうか。



「……爺さん。あんた、薬屋なんスか?」


「いやいや、わしゃ魔荷屋(まにや)じゃよ」


「魔荷屋?」


「まあ、何でも屋みたいなもんだと思っとくれ」


「…………」



 老人の説明はイマイチ要領を得なかったが……。

 取り敢えず真也は、何やら薬を売りつけられたらしいという事だけは理解した。

 ボロを着た灼眼の老人は、気さくな笑みで彼を見詰めている。

 ――真也は、冷静に状況を分析した。

 まず自分に薬を手渡した老人は、曰く“魔荷屋”を生業としているらしい。

 自分は、その老人から貰った薬を飲んだ。

 そして事後承諾ながら、老人は今その代金を要求している。


 さて。ところで今彼の手元にある財布は、少女から薬を買う目的で借り受けた物である。

 確か、無駄遣いはするなと釘を刺されはしたが……。

 しかし、まあ。ソレが胃薬ならば、彼女が承諾した内容と十分に合致するだろう。

 購入する分には問題など無い。

 ただ、薬をこの老人から買っただけだと考えればいいのである。



「どうぞ」



 真也は少女から借りた財布を老人に手渡した。

 まあ、問題は無いだろうと彼は思う。

 確かに薬はよく効いたのだし、それ以上に、本来この老人には感謝をしてもし足りないくらいなのだ。

 老人はホクホク顔で財布から100フェオを抜くと、“まいどあり”なんてセリフを吐きながら財布を真也の手に戻し、悠々と去って行った。



「ふぅ……」


 老人の後ろ姿が見えなくなった頃、真也は暇を潰す様に周りを見回していた。


 どうやらこの噴水のある広場は、街の住民の憩いの場となっているらしい。

 子供達は無邪気に広場を駆け回り、母親と思しき女性達は、ベンチや噴水の淵に腰を降ろして雑談に興じている。

 ――背後の噴水からは、涼やかな水の音が響いてくる。

 乾いた空気を潤すその気配が、彼には只々心地よく感じられた。

 こうして座り込んでいると、まるで休日の公園にでもいるかの様で、ここが異世界だというのが冗談だった様にすらも思えてくる。

 ……尤も。民衆の王道RPGみたいな服装に目を瞑れば、という条件付きではあるが。

 真也が見た限りだと、どうやらこの広場は街のほぼ中心部に立地している様であった。

 防壁の正門から続く、商店の立ち並ぶ大通りと、現在真也の背後に見えている巨大建築との丁度中間に位置している、町人達の社交の場。

 切り立った山を背にしている巨大建築(あれ)が、少女の言っていた王宮なのだろうか。

 その隣には、文字盤が20まである時計塔が聳えている。


 視線を下に戻すと、噴水広場の出入り口には一体の像が立っていた。

 ブロンズ像、にしては光沢があり過ぎ、色が白すぎる、白銀の彫像。

 靡いたマントと大きな帽子が印象的なソレの、モデルは果たして国王か、はたまたこの広場を作った金持ちか誰かなのか。

 さて。その像の造りを遠目に眺めたところで……。


「…………!?

 待てよ? そんなバカな!!」


 真也の目が、突如として科学者の物に切り替わった。



―――――



 待ち合わせの広場にて目当ての人物を発見し、アルテミア・クラリスは言葉を失った。


 最初、彼女が感じていたのは不安だった。

 待ち合わせに指定した噴水の広場に来てみると、何故かものすごい数の人集りが出来ていたからである。

 もしかしたら、誰かが大道芸でもやっているのかもしれない。

 “彼”を探すのは少々手間かもしれないな、などと思いつつ、彼女は“彼”を見つけようと人混みに分け入っていった。


 次に、少女はそれが杞憂であった事を知った。

 まるで、大道芸を見ているかの様な人集り。

 しかしいつもの如く皆が“譲ってくれた”道を通って前に行くと、その中心に居たのが、あろう事か“彼”だったからである。


「…………」


 そして現在。彼女は言葉を失っている。

 目の前で、何故か人々の注目を集めている、“彼”。

 ホント。何故かは知らないけど、彼はなんだかよく分からない事をしていたのである。



「……フム。

 これ程の強度の材質をどうやって……」


 “彼”は、像の前に居た。

 物珍しそうにアダマス像を撫でては、たまに確かめるかの様にコンコンと叩く。マントをめくろうと頑張ったり、髭を触ってあまつさえ引っこ抜こうと努力したりしている。

 やがて人集りに気付いた彼は、一番近場に居た老人と何やら話をし始めた。

 老人は困惑した様子だったが、彼はまるで気にした様子が無い。

 やがて彼は半ば強引に老人の杖をひったくると、像の前にまで戻って来た。

 そしてその杖を、大根切りよろしく大上段へと振り上げる。

 ……それは、もう。今にも全てを粉砕せんと言わんばかりに。



「……って!!」


 考えるよりも先に、身体が動いていた。

 臨界点を超えた少女の思考は、理性が結論を下すよりもなお速く足を動かし、小さな体を空中へと跳ね上げた。



―――――



「何を…………」


 聞き覚えのある声を聞いた気がして、青年は振り向いた。

 瞬間。彼の瞳に映ったのは、視界の全てを覆う黒い、黒い布。

 真っ黒な塊が何かを叫びながら、ものすごい速さで空中を飛んで来るのが見える。

 彼は一度、不思議そうに首を傾げた。



「やってるのよバカーーーーっ!!」


「へぶっっ……!!??」


 少女の華麗な飛び蹴りを右面に受けて、青年は交通事故みたいにぶっ飛んだ。

 涼やかな顔は疑問符を浮かべたままに90°傾き、地面を這う様に滑っていく。

 ――そして響く、ズザーッ、という摩擦音。

 魔導師にあるまじきその威力に、辺りからは拍手喝采が巻き起こった。


「あ、アル!?

 待て、ちょっと待て!!

 いきなり何してくれてるんだ!!」


「何してくれてるんだはこっちのセリフよ!!

 ナニ!? 何であんたはユミル様の像をぶん殴ってるわけ!?

 なんかこの人に恨みでもあんの!?」


「そっちこそ、何の恨みがあっていきなり飛び……いや待て待て待て待て!!

 ちょっと待て一回落ち着こう!!」


 腫れた頬を摩りながら少女を非難する真也。

 しかし彼女が追撃の用意を始めたので、必死で宥める事に徹し始めた。

 スッと立ち上がり、ズンズンと像の方に歩み寄る。


「オレはこの像を調べてたんだ!!

 これ、相当強度が高い金属で出来てるだろ!?

 どうやって削ったのか考えてたんだよ!!」


 像の髭を指差しながら、彼は少女に弁明した。

 ――そう。この像の材質は、物理学者たる彼でも見た事が無い程に強い金属だったのである。

 勿論はっきりとした数値は分からなかったが、それでも、間違いなく青銅よりは強度が上だと彼は断言できた。

 

 しかし像の造形は、材質の異常な強度にも関わらず非常に精緻に富んだものであった。

 驚くべきは紙の様に薄いマントは靡いた様な形で固定され、髭の一本一本までもが針の様な細さで独立に切り離されている点である。

 無論。鋳型を用いて鋳造しただけでは毛細な構造を一本一本分離するのはほぼ不可能なので、おそらくは慨形を作成後に削ったのだろうが……。

 現代科学の粋を用いても、ここまで細かく研磨するのは至難の技だろう。


「……削る?

 何でそんな面倒臭いことしなきゃならないのよ?」


 少女は、心底不思議そうに首を傾げていた。


「それじゃあ、やっぱり熱で溶かしたのか?

 それとも、薬品を使えば変質する素材だとか……」


「だ~か~ら~。

 何でそんな面倒臭い事しなきゃならないのよ」


 少女は、またも首を傾げている。

 今回は真也も同様であった。

 削らず、溶かさず、強い金属を微細に加工する技術。

 そんな夢の様な方法があるのだろうか?


「……まさかナイフで切り出した、とか言わないよな?」


 真也の問いには溜息を返し、少女はローブの懐に手を忍ばせると、一枚の羽根を取り出した。

 オレンジ色に輝くその繊維塊には、根元にインクの様な物が付着している。

 所謂、“羽根ペン”と呼ばれる代物であった。

 少女は地面にしゃがみ込むと、そのペンで石畳に円を描いた。

 内部にちょこちょこと文字を書き込み、立ち上がって2~3歩下がる。

 最後にオレンジの羽根を円の方に翳すと、石畳から燐光が舞い散った。


解放(jara)


「なっ!?」


 ――そして、真也は驚きに目を瞠った。

 少女が呪文を唱えたその瞬間、ドクン、と、石畳が生き物の様に脈を打ったからである。

 舞い散る燐光に祝福されたかの様に波打った石畳は、まるでベーキングパウダーを混ぜられた生地の様に盛り上がりを見せたかと思うと、次瞬には噴火する様な勢いで天へと突き抜け、オベリスクの様な棘柱となってその形状を固定した。

 ――少女の描いた、たった一つの落書き。

 たったそれだけの行為によって、広場の路面は物理法則的に異常な変化を遂げていた。


「……分かった?

 この街の物は建造物も、そこら辺の像も、みんな“アダマス鉱”っていう金属で出来てるの。

 アダマス鉱は魔力を吸収すると縮んで、放出すると膨らむっていう性質があってね。

 この“不死鳥の羽根ペン”には、魔力を魔法金属から解放する能力があるの。

 だから、あとは術式とコントロール次第。

 適切な図形さえ描き込めば、アダマス鉱は自在に変形可能ってわけ」


「…………」


 その説明を聞いて、彼が思い出したのは今朝のシャワーだった。

 少女の唱えた呪文によって自在に変形し、伸縮した天井と床。

 つまりはコレが、この世界では主流な“金属加工技術”だとでも言うのだろうか?

 ――バカげている。

 真也は地面に膝を着いて座り込むと、たった今生まれた銀の棘をペタペタと触り、その感触をじっくりと確かめながら思考した。

 ――少なくとも金属加工技術に関して言えば、この世界は地球よりも上だ。


 真也は言葉を失っていた。

 しかしその目線だけは、まるでオモチャ売り場に立ち寄った子供の様に少女の持つペンへと注がれている。

 嫌な予感を感じたのだろう。

 少女は身震いしていた。

 胡乱気な視線が、真也へと向けられる。


「……なによ」


「一本くれ」


「はぁ!?」


 少女はあからさまに眉を顰めたが、真也はそんな事など一切気にせずに詰め寄った。

 彼の涼やかな双眸は子供の様にキラキラと輝き、無邪気な筈なのに何故か危機感しか与えないという器用な雰囲気を醸している。

 ――そう。

 この時の少女には未だよく分かっていなかったものの、彼は生粋の物理学者なのである。

 未知の現象には、興味を抱かずにはいられない性分なのだ。



「頼む!! アル、この通りだ!!

 物理学者たるオレには、世界の神秘を解明する義務があるんだ!!」


「知らないわよそんなの!!」


「そこをなんとか!!

 一本!! 一本だけでいいんだ!!

 それ以上は何も求めないから!!」


「きゃっ!? ちょ、どこ触って……は、放してよ!!

 いい? このペンは、王宮お抱えの彫像技師か、師範クラス以上の魔導師しか持っちゃいけ…な……い」


 無論。少女は懇願する彼の要求を一蹴した。

 否。一蹴“しようとした”、のだが……。

 瞬間。現在の自分たちの構図に思い至って、少女はナニか薄ら寒い物を感じてしまった。

 簡潔に述べると、跳び蹴りされて頬を赤く腫らした青年が、地面に張り付き、涙目で瞳をキラキラとさせながら、少女の脚に縋りついている状態である。

 無論、真也が集めた取り巻きは先程のままで。

 と、いうか。なんか騒ぎを聞いたのか、どう見ても明らかに人数が増えている様な気がする。



 少女は、耳を澄ましてみた。



「おい。コレどうしたんだ? 」


「痴話喧嘩らしいぞ?

 さっき、アルテミア所長があの男に跳び蹴りかましたって」


「うわー、魔術も無しで鉄拳制裁かよ。

 相当キてるな、今日は。

 ……で? あの男を公衆の面前で、地べたに這わせて謝らせてるって?」


「うん。何したのか知らないけどさ。

 所長、まだ許さないみたいだよ」


「ひーっ、エゲツねえーーっ」


「そもそも、あの人何者?」


「知らないけど、結構親密な関係なんじゃない?

 さっき一緒に門潜ってるの見たもん」


「えーっ、マジ!?

 所長、やっぱりSだったんだ」




「………………」




 背筋に、イヤな汗が、滴った。




「…………ちょっと、シン?

 ねえ、お願いちょっと立って?」


 取り巻きの根も葉もない推測を聞いて、少女は真っ赤になりながら目を伏せた。

 青年は全く気付いた様子も無く、なおも深々と地面に張り付いている。

 聞こえて無いのだろうか。

 プライドとか、無いのだろうか。

 少女は心の中で彼を(なじ)る。


「頼む!! そこをなんとか!!

 ……あっ、そうだ。

 よし。これならどうだ。

 もしも君がソレをくれるなら、代わりに一つだけ何でも言う事を聞こう。

 手料理を残さず食えって言われても逆らわないし、もしもシャワーの時に……」


「わーーーっ!! わーーーーっっ!?

 ちょっ、シンッ!! ストップストップ!!

 ――ってかそれ以上言ったらマジでキレるから!!」


 一層騒がしくなり始めた雑踏を意識から排除して、少女は青年を引っ張り上げた。

 おおー、などとわけの分からない歓声が聞こえたので、取り敢えず右手を掲げる少女。

 取り巻きは蜘蛛の子を散らした様に去っていった。


「……くれるのか?

 ありがとう。君ならそう言ってくれると――待て待て待て待て!!

 何で拳を――ヘブッ!?」


「やるかバカァァァアアアッ!!」


 青年の顔が、左右対象に腫れた。


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