11. 異次元生命体が起床時に示す習性の観察と生物史における味覚の重要性についての進化学的考察及び異なる物理法則下にて調理された食物の可食性を確かめる為の人体実験
起床鳥の鳴き声が、本の海に木霊した。
数多の真円が連なる、前衛芸術の様な紋様が描かれた床。
その上に設置された、足元の魔法円とは不釣り合いなくらいに家庭的なベッドの上。
「ん…………」
天蓋の小窓から差し込む青白い日差しをその身に浴びて、真紅の少女は小さな呻き声を漏らした。
寝起きで上手く開かない目を擦りながら、うーん、と大きく伸びをする。
可愛らしくも欠伸などを零しつつ、少女はゆっくりとその上体をベッドから起こした。
「ふぁ……。
……うん、よく寝た」
爽やかな冬朝の空気に細やかな幸せを感じながら、そんな自己分析を誰にともなく呟いてみる。
まだ少しだけ霞が掛かった頭で、少女はゆるゆると辺りを見回した。
――辺りには、見慣れた朝の景色が広がっている。
少々埃っぽくて、本の山に埋もれた、いつも通りの図書館であった。
……いや、まあ。焦げたりとか倒れたりとか吹き飛んだりとか、よく見ると多少の違和感があったりするけれど、概ねいつも通りの光景だと言っていいだろう。
“断熱黄銅”でコーティングされた床は天蓋から差し込む蒼い朝日を反射していつも通りの清々しい景色を演出しているし、ベッドの隣に視線を移すと、脱ぎ散らかしたローブや帽子が、律儀にも昨夜のままで片付けて貰える時を待っていた。
「…………」
脱ぎっぱなしの衣服を見て、何かを思い出した様子の少女。
なんとなく首筋に手を這わせると、少しだけベトつく感触が指先に絡み付いた。
「……ん、汗かいてる。
昨日、シャワー浴び忘れてたっけ」
どことなく、鈍い口調で呟く。
おそらく彼女は、あまり朝が得意な方ではないのだろう。
昨夜汗を流さずに就寝した事は思い出したようだが、その緩慢な動作からは、何故シャワーも浴びられない程に疲労困憊であったのかというその原因にまで意識が行っている様子は伺えない。
取り敢えず今の少女の頭を占めているのは、あり得ない程に物臭な就寝をしてしまった事に対する自己嫌悪と、一刻も早くその不快な汗を洗い流したいという衝動だけであった。
嫋やかな素足を、ゆっくりとベッドから下ろす。
指先が床に触れると、断熱金属特有の穏やかな冷たさが血管の中から登って来た。
少女は、フラつく身体で立ち上がる。
……と、瞬間。何故かズシリとした違和感を感じた。
まるで、全身の骨が鉛にでもなってしまったかの様な錯覚。
ハチミツの中を動いているかの様な、不自然な重さがのし掛かってくる。
不思議に思って肩を回すと、腕の神経が火傷したみたいに火照っているのが分かった。
「あれ……?
昨日、何かしたっけ?」
熟睡した筈なのに抜けない疲労に違和感を覚えたのか、少女は顎に手を当てて3秒程思案してみる事にした。
何かものすごく大事な、いや、致命的な事項を忘れている様な気がしたのである。
「うーん。何だったかな~……」
あちこちに散らばる瓦礫の山。
倒れた本棚に、不自然にも消し炭になった書物。
それらが何故か無性に気になって、なんとか昨夜の記憶を呼び起こそうと頑張ってみたのだが……。
どうしてなのか、まるで脳に霞でも掛かったかの様に思い出す事ができなかった。
そう。まるで、無意識が“思い出すな”とブレーキでも掛けているかの様に――。
「なんてね」
そこまで考えたところで、少女は小さく首を振った。
「気のせい気のせい。
あたしが思い出せない事なんて、どうせ大した事じゃないんだから」
まあ、気になることは気になるのだが、思い出せないのだから仕方ない。
少女は取り敢えず、その違和感を暫く放置しておこうという方針で納得した。
……物事とは大抵、放置すると悪い方向に転がって行く物なのではあるが。
とにかくこの時の少女にとっては、全身に纏わりつく不快な汗を洗い流す事こそが最優先事項だったのである。
少女の指が、キャミソールの紐を肩から外す。
ふぁさっ、という軽い音を立てながら、彼女の身体を包んでいた薄手の布地は簡単に床へと落ちた。一糸纏わぬ白磁の様な肌に、トレードマークの真紅の髪が美しいコントラストを描く。
「舞え。踊れ。在るべき場所に」
最早習慣の域にまで達した呪文を詠唱する。
ベッドの隣で少女の声を聞いた忠実なる僕達は、満を辞して部屋の最果てへの帰還を許された。
彼らのダンスを横目で確認しつつ、少女はベッドから10歩ほど前方に歩みを進める。
素足のまま白銀の床を探る様に歩み、足から伝わる床の温度が一気に下がった場所で歩みを止め、右腕を高く掲げた。
「形態変化。伸長成長。汝の腹に火を贈る」
再度、少女が呪文を詠唱した時である。
ドクン、と、空間そのものが脈を拍った。
部屋の輪郭が歪む。
初めてその現象を見た者がいたとしたら酒の飲み過ぎや目の錯覚を疑う様な、視覚に違和感を抱かせる程の遠近の変動を伴って、部屋が形状を変えていく。
少女を中心とした床はペッコリと埋没を始め、金属製のタイルがすり鉢状に凹んでいった。
床の変化に伴って、天井の一部も変形を始めた。
植物がその蔦を伸長させる様に、白銀のチューブが少女の頭上へと降りて来る。
陽光に眩しく煌めくそれは、少女の髪に触れようかという高さにまで降下したかと思うと、先端がまるで向日葵の花の様に拡がった。
「求める。水よ、降り注げ」
――パチンッ、と指を鳴らす。
それが合図だったのだろう。
白銀の向日葵は、その花弁から銀糸の様な雨を降らせ始めた。
雨中へと手を差し伸べ、温度を確かめてみる少女。
指先から伝わって来る、芯が溶けるかの様な心地良さに、彼女はついつい息を漏らした。
「う~ん……。
何か忘れてるような、何も忘れてないような……。
思い出せない事は大した事じゃ無い、ってよく言うけど。
……昔から、そういう事に限って大惨事を引き起こしたりするって言うし」
夜気に冷やされた指先を温めながら、呟いてみる。
次瞬、少女は胸に引っかかる小さな違和感を振り払うかの様にブンブンと首を振った。
もう一度腕に魔力を流し、シャワーの勢いを強める。
床で弾けた温水は朝靄の様に空気中へと拡散し、水の香りが朝の図書館に立ち込めていった。
冷えた身体を慣らす為に湯雨を掬って首筋に掛けると、柔らかい熱が身体を芯から温めてゆくのが分かる。
――ホッとする。
透明な水滴は少女の首筋から小ぶりな乳房へと滴り、彼女の体温に馴染みながら下腹部まで、肌理細かくも白い肌を伝ってゆく。
年齢特有の、瑞々しい少女の肌に、幾筋かの透明な線が描かれた。
徐々に身体が温まり、紅色が艶を増してゆく唇からは、細やかな安息によって吐息が漏れてゆく。
――やはり、先ほどから感じている不安は只の杞憂だったのだろう。
穏やかな朝の幸せを感じている少女は、今度は確信を持ってそう思い直す事が出来た。
心地のいい温水をチャプチャプと肌に救いながら、少女はうんうんと頷いた。
「すごいな。
どんな仕掛けになってるんだ?」
「ん? シャワーのコト?
この家はね、場所によって使われてる魔法金属の種類が違うの。
例えばここの“アダマス鉱”は、魔力を流せばある程度の成形が可能だから、その性質を利用して…………へ?」
――なにか。
少女は、背後で聞き覚えのある声を聞いた気がした。
穏やかな朝の安らぎが、一瞬にして氷点下にまでその温度を下げる。
先ほどまで蕩けた様な顔でシャワーを浴びていた少女は、一瞬で何かの化石みたいに全身の筋肉を硬直させていた。
初めに思ったのが、“誰だろうか”。
……無論、そんなボケた思考は瞬時に脳内で即殺された。
――空耳、幻聴、夢、幻。
それらの希望的な、そして魅力的な仮説が次々に生まれてゆくが、産声を上げるとほぼ同時に、瞬く間に脳内で惨殺死体へと変貌していく。
色々な解釈に努めようと頑張る彼女の努力を嘲笑うかの様に、脳内では昨夜自分が何をしたのか、いや、何をしてしまったのかが悪夢の様にフラッシュバックを始めていた。
そこに至って漸く、少女は自分が“思い出せなかった”のでは無く“思い出したくなかった”のだという事実に気が付いた。
……主に、メルトダウンしそうな精神を保護する為に。
ギギギ……、と。少女はまるで錆びたブリキ人形みたいな動きで背後へと振り向いた。
その表情はまるで能面の様に固まり、思考という物を一切感じない。
きっと、半ば無意識だったのだろう。
「――随分と遅いお目覚めだな。
いや。もしかすると……。
アル。君は夜行性なのか?」
「……なっ!?」
少女が振り向いた先には、当然の如くアイツが居た。
本の山をソファー代わりにして座りながら、黒表紙の魔導書に眉間に皺を寄せて読み入っている。
――いや、読み入っていた。
アイツは少女が振り向くなり、本から顔を上げて少女と視線を交えてきた。
そして、アイツが居るのは、角度としては約45°程上方。
……丁度、少女の全身がよく観察できる位置である。
「……“な”?」
何のつもりか。
アイツは不思議そうに首を傾げると、咄嗟に少女が上げてしまった驚声を反芻していた。
思案顔で顎に手を当てて、ブツブツと呟きながら何かを考え込んでいる。
やがて、まるで意を得たかの様にパンっと手を打った。
「ああ、なるほどな。この世界の朝の挨拶か。
流石に慣用句までは翻訳されないんだな。
……返した方がいいのか?」
「な!! ななな!! なっ!! な!?」
なんか、バカみたいな事を言い出した、アレ。
バカになりそうなくらい真っ白になった少女の頭では、アレが何を言っているのかはよく分からなかったけれど、取り敢えず、あのバカがナニか物凄くバカみたいな解釈をして納得している事だけは理解した。
――顔から火が出る、とはこういう状態の事を言うのだろうか。
いや。いっそのこと、本当に火とか出てくれないだろうか。
できれば、魔術じゃないヤツ。それでコイツ焼き殺すから。なんて、自分でもよく分からない願望が少女の脳内で暴れ狂う。
少女は湯温のコントロールをする余裕も無くなったのか、背後のシャワーにはグツグツという沸騰音が混じり始めていた。
そんな少女の心境など意にも介さず、アイツはコホンと咳払いをした。
なんか、右手を上げながら、少女に笑顔を向けている。
アイツが向けて来たその顔は、こんな笑顔も出来たのか、と少女がつい感心してしまう程に、本当に爽やかな笑顔だった。
「それじゃあ改めて。アル、“な”」
「なにを人の裸ジロジロ見てんのよっ!!
このドスケベ変態っっっ!!」
――とある日の朝一番。
爽やかな笑顔は熱湯に焼かれた。
―――――
「ヒリヒリする……」
感触は金属製。しかし光沢の無い、乳白色の、謎の物資にて作製されたダイニングテーブル。その席の背凭れに体重を預けながら、朝日 真也は苦痛の声を漏らした。
線の細い、涼やかな彼の顔立ちは、今では見るも無残に腫れ上がってしまっている。
彼は少女から手渡された“氷の魔法円”とやらが描かれた氷嚢で顔面を冷やしつつ、悲痛な声で呻いていた。
「……なによ。あんたが悪いんでしょ?
べ、別に、あんたなんかに見られて、も。
なんとも、思わないけど……。
い、いきなり声とか掛けられたら、驚くじゃない!!」
対する少女、アルテミア・クラリスは、トレードマークな赤髪を白いタオルで脱水しつつ、不満気な顔でそう答えた。
湯上りの為に艶っぽく染まった唇はへの字に結ばれ、紅潮した顔は普段に輪を掛けた仏頂面である。
そんな、妙に不機嫌そうな、それでいて悪びれた様子の見られない少女に内心では僅かな非難を浴びせつつ、真也は小さく息を洩らした。
「アル……」
顔面に押し付けていた袋を除けつつ、真也は少女に恨めしそうな視線を投げた。
少女は完全に明後日の方向を眺めながら、右腕を掲げて何かを唱えている。
それが終わると彼女の正面ではキラキラとした燐光が舞い、床がモコモコと盛り上がって少女の腰くらいの高さの火山型になった。
――無視されている様なので、真也は言葉を続けた。
「……話が違うぞ。
オレに魔法は効かないんじゃなかったのか?」
「第一工程まではね。
さっきのは第二工程だもん」
少女は指を鳴らしながら、目線も遣らずにそう答えた。
彼女の手元には、人間の頭が丸ごと入りそうな大きさの大釜が飛行してくる。
釜はクルクルと少女の腕の周りを旋回したかと思うと、上昇気流にでも乗ったかの様にフワリと浮かび上がり、火山の頂点へと設置された。
……何をしているのか気にはなったが、今は関係が無いので真也は先を促した。
「要するにね。純粋な魔術は無効化出来るけど、魔術で熱した水にはもう魔力が関係しないから有効ってわけ。
あんたの世界にも熱くらいはあったんでしょ?
“守護魔は守護魔が元々居た世界の理でしか傷つかない”。
逆に言うと、魔術運用の工程を増やして、“魔力無し”で守護魔が元々居た世界の理を再現すれば、傷つけるのは可能だってコト」
――ナニかの目玉。知らない生物の爪。顔のついた根っこ。
他にも何やらワケの分からない材料や液体を次々と釜に突っ込みながら、少女はそんな事実を伝えてくれた。
“cen”、という掛け声と同時に、火山の火口からは強い熱が発生し、大釜が火に晒される。
真也はその様子をあまり気にしない様に努めて、少女の説明を吟味しながら溜息を吐いた。
「なるほどな……。
つまり、殴られりゃ痛いし刺されりゃ死ぬってわけか。
まあ、昨日の内に大体分かってたけどな……」
「?」
余りにも疲弊し切ったかの様な、青年の声。
少女は小首を傾げている。
熟睡している少女に7度顔面を強打され、ベッドから蹴り落とされた挙句、寝るのを諦めて極寒の図書館で一晩中書物を読み漁っていた彼の徒労を彼女は知らない。
「……まあ、なんだ。
もし次があるのなら、オレの寝床は別に作ってもらうとしてだ。
取り敢えず、先ずは昨日の質問に答えてもらおうか」
「うーん……、もうちょっと待って。
それは今日、王宮で大臣が説明すると思うから」
釜の中身を竹箒みたいな道具で掻き回しつつ、少女はそんな答えを返した。
その様子を眺めながら、青年は小さく溜息を吐いて凝り固まった首を軽く回す。
――余談ではあるが。
釜の内容物はドロドロに溶け合い、今ではブスブスという煙を噴き上げる深緑色の粘液へと変貌していた。
何故だろうか。
辺りには、なんかザリガニの水槽みたいな臭気が充満し始めている。
「……わかった。今はそれで納得しておいてやる。
だが、それならせめてこれくらいは答えてくれ。
オレは、いつになったら元の世界に帰れるんだ?」
立ち込める強烈な臭気に渋面になりながら、真也は何とかそう尋ねた。
疲労と憔悴の色が濃い目線が、静かに少女へと向けられる。
少女は人差し指を口元に当てながら、何かを思案するような仕草をしていた。
鍋を掻き回す手が止まり、漸くその視線が真也へと向けられる。
彼には、少女の口元には小さな微笑が浮かんだ様に見えた。
「ゴメン。多分、帰れない」
――ゴポッ、と、鍋から煙が燻った。
緑色の粘液からは、紫色の瘴気がグツグツと沸き立っている。
真也には少女の佇まいが、昔読んだおとぎ話に出てくる、“子供を攫って食べる悪い魔女”の挿絵と酷く重なって見えていた。
―――――
「………………。
……冗談、だよな?」
痛々しい長さの沈黙を経て、朝日 真也は重い口を開いた。
彼には同情する。
今の彼の心境は、いきなり見知らぬ国に攫われた拉致被害者のそれと変わらないだろう。
彼の涼やかなポーカーフェイスは、今に限っては見る者の憐れを誘う雰囲気を醸し出していた。
流石に、悪いと思ったのだろうか。
少女は、ちょっと気まずそうな表情になってアタフタしていた。
「え? いや……。
えーと……、ね?
別に、絶対に帰れないって決まったわけじゃないのよ。
ただ、元の世界に帰った守護魔の前例が無いってだけで……。
いいじゃない別に。
あんたの実力次第じゃ、この世界では地位も名誉も思いのままなんだし……」
「生憎と、地位と名誉だけはとっくに手に入れた身だ。
……欲しくもなかったがな」
明らかに取り繕っている少女の言葉に、真也は不満を隠そうともせずにそう呟いた。
地雷を踏んだと思ったのだろう。
少女は“あはは、そうなんだ~。”なんて明らかに笑って誤魔化しながら、釜の中身を銀の器へと注ぎ込んでいった。
「…………?」
無論、真也は納得したワケでは無かったが……。
しかし、ふとした疑問が浮かんだので彼は追及の手を緩めた。
器に緑の粘液を流し込んでいる少女。
……先ほどから努めてスルーしてはいたのだが、彼女は一体何をしているのだろうか?
真也は最初、彼女が作っているのは火傷につける傷薬であると解釈していたのだ。少女は自らを魔法使いであると名乗っていたし、また真也の常識から言っても、魔女が薬を作るというのは非常にイメージに符合するからである。
その基本的な解釈は、今の少女の行動を見ても変化してはいない。
していないのだが……。
それなら、何故2つの器に盛り付ける必要があるのだろうか。
少女は粘液を銀の皿らしき物に移すと、パチンと指を鳴らした。
次いでソレらの淵をトンっ、と押すと、二枚の銀の器は滑らかに空中を滑り、真也の目の前とその向かいの席に停止した。
「はい。冷めないうちにどうぞ」
……そして、こんなわけのわからない事を言う。
これではまるで、少女はこの産業廃棄物みたいな汚泥を、人体の正門たる口の中に入れろと言っているみたいではないか。
「……アル?」
抑揚の無い声が響く。
それは彼自身が、自分はこんな声も出せたのか、と、驚く程に低い声であった。
真也の目線の先には、1年間放置した学校のプールみたいな色の粘液がある。
ゴポゴポと、紫色の煙が絶え間無く、まるで毒の沼みたいに噴き出している。
不意に、ソレを吸い込んでしまった時には、強烈なアンモニア臭で頭痛が起きた。
――少々、誤解があったのかもしれない。
真也は記憶を整理しながら、たった今聞こえた謎の怪音波に対する仮説を必死になって練り上げた。
1.誤訳。
2.幻聴。
3.ただの鳴き声。
……3、だろうか。
1の可能性も捨てきれないが、この中だと、3の仮説が最も妥当では無いのだろうか。
「…………?」
そんな真也の様子を、胡乱気な視線で見つめる少女。
ハッと口元に手を当てて、何かに気が付いた様な仕草でパンッと手を打った。
集中する様な仕草をしながら指を鳴らす。
――やはりこの物体には、何か別の用途があるのだろう。
真也は納得して頷いた。
「ゴメン、スプーン忘れてた。
来たれ。
はい、これでいいでしょ」
「…………」
カラン、という金属音が響いた。
真也の目の前には、何やらスゴク見覚えのある形の道具が飛んでくる。
少女は同じく自分の手元にも飛ばしたソレを手に取ると、ゆっくりとその粘液を掬い――。
小さな口に、流し込んだ。
「………………」
――確定した。
カルチャーショック、とは、こういう物のコトを言うのだろうか。
否、そんなモノではあり得ない。
これはカルチャーでは無くバイオロジーの問題である。
敢えて言うなら、そう。“バイオロジカルショック”である。
そして、彼はこの時。漸くその事実の真の意味を思い知った。
つまりは、彼女が“異生物”であるというその意味を――。
天才物理学者、朝日 真也は、この瞬間様々な疑問に嵐の如く脳内を蹂躙される事になった。
――コレ、美味いのだろうか。
――否。美味い不味い以前の問題として、自分はこの世界の物を口にしても問題は無いのだろうか。
――仮に問題が無いとして、ある種の生物は人間にとっての毒物を主食とする様に、彼女達の主食が人体に有害である可能性は無いのだろうか。
どれ一つを取っても結論は出ない。
だが、どれ一つとして安全性を保証してくれる要素は無い。
否。通常、見知らぬ土地に訪れた旅行者は現地の食べ物には気を付けて当然なのだ。
しかもここが本当に異世界だと言うのなら、その警戒度は更に引き上げて然るべきだろう。
――そう。こんなモノは、食べられない。
少なくとも、それが人間としての常識的な反応である。
常識的には、間違いなくそれが正しい反応である。
だが――。
「く…………」
思い出していただきたい。
朝日 真也は、実験の日の朝に朝食を摂り忘れていたという事実を。
彼は累計して半日以上もの間、食事はおろか水すらも一切口にしてはいなかったのである。
そんな彼に、曲がりなりにも“食事”として出された物を無碍にするだけの気力が、果たして残っているのだろうか。
真也は、少女を観察する。
「うーん……。
ちょっと、お塩入れ過ぎちゃったかな……?」
彼女はそんな事を呟きながら、プルンとした唇に銀色のスプーンを運んでいる。
小さな右手が傾くと、スプーンの中身は、トロリとその小さな口に滑り込んで行った。
――コクリ、と飲み込む。
白い喉元が小さく動き、彼女の口腔にあった食物が体内へと流れた事を知らせる。
少女は美しい真紅の髪を耳の後ろへと寄せながら、スプーンを再び食器へと沈めた。
「…………?」
――食器に添えられた手が止まった。
不思議に思って視線を上げると、少女の目がこちらへと向けられている。
細められた翡翠の瞳と、視線が交錯する。
少女の口元には、ゾクッとするほど可愛らしい微笑が浮かんでいた。
「どうしたの?
冷めると美味しくないよ?」
紅い唇が、そう告げる。
真也はその鈴の様な声を聞いて、一度目を閉じた。
目を閉じて、冷静に状況を分析し直した。
――素直に言おう。
彼女は、非常に可憐である。
本質的に異種生命体であろう彼女を主観的にそう形容するのは些か問題なのだろうが、それを差し引いても、客観的に判断して、彼女の容姿は類い稀な程に魅力的だと断言できるだろう。
いや。仮に彼女がアイドルや女優で、これが映画の撮影か何かであったと説明されても、今の青年ならば信じてしまうかもしれない。
そして、目の前にあるのはそんな彼女が作った“手料理”なのである。
あんなにも可愛らしい彼女が自分の為に振る舞ってくれた朝食であり、そして他ならぬ彼女自身が、それを問題無く口にしているのである。
「…………」
気が付くと青年は、スプーンを銀の皿へと沈ませていた。
感触を努めて意識しない様に気を付けながら、変わった色の“スープ”を掬い上げる。
――彼は思う。
もしかしたら、この“料理”は自分が思っている程酷くはないのかもしれない、と。
例えばそう、地球にも変わった風味を持つ食物は数多く存在していたではないか。
日本で言えば納豆が有名どころであるし、西洋で言えばチーズなどがそれに当たるだろう。
本質的に、人間とは初めて口にする料理には警戒心を抱くものなのである。
恐らくは、ラーメンやカレーライス、そしてコーラ等が一般に浸透するまでには、多くの人々がそれらを敬遠したのではあるまいか。
――あんなにも美味なモノにも関わらず、である。
そう。多くの場合、食わず嫌いは人生の損なのである。
それに、せっかく異世界とやらに訪れたのだ。
旅先で現地の料理を口にしないのも不粋というものだろう。
彼はそう思考した。
真也は息を止め、ゆっくりと、スプーン一杯分のソレを自らの口腔に流し込んだ。
「………………」
――味覚。
その神秘の知覚の、生物史における重要性を否定する科学者はいない。
生物史において、味覚とは本来、食物の摂食可能性を判断する為に発達してきた知覚であるとされている。例えば人類史において、ある個体が腐敗した肉を摂取したとしよう。もしもその個体がソレを口にした結果“不快だ”と判断出来る味覚を持ち合わせていたのならばソレを吐き出すだろうが、もしも“美味だ”と感じ得る味覚を持っていたとしたら、その肉を腐敗物とは気付かずに食べ続けてしまう。そういった個体は、おそらくは感染症で命を落としたに違いない。
つまるところ我々が現在、食物の美味い不味いを判断出来得る知覚を持ち合わせているという“奇跡”は、長い長い生物進化の過程において成された自然選択の一つの成果なのである。
――さて。そしてこの知覚は現代においては人々が食事という行為を楽しむ為に非常に重要であり、その素晴らしさを否定する人間はおそらくいないだろう。安全な食物を不自由無く手に入れる事が出来る立場にある我々は、日々の食事をより素晴らしく、そして美味な物にする努力に余念が無い。
“新しい料理の発見は、新しい星の発見よりも人類の幸福に貢献する”
フランスの美食家、ブリア・サヴァランが述べたこの言葉は、人類の味覚に対する賞賛と、美食に対する飽くなき羨望を最も簡潔に表した格言の一つであると言えよう。
さて。この様に、味覚とは本質的に人類にとって極めて重要な知覚であり、また人生を幸福にする上では欠かせない付加要素になり得る存在であるのだが、果たしてその認識が全ての時空において等しく適応出来る物であるか否か、という点を検証した前例は未だ無く、詰まるところ彼のこの一口は、人類の叡智の有効範囲を規定する程の哲学的な意味合いを持ち合わせた偉大なる、そして最も勇気ある挑戦の一つであるといえなくもなくもないとは必ずしも言い切れるような言い切れ無いような……。
――簡潔に述べよう。
「ウッぼヲ"ェゲェェェェェィィィァァァッッ‼‼」
……青年は、初めて味覚の存在を呪った。