婚約者が真実の愛に出会ったと言って私を牢屋に閉じ込めたから、私は愛を捨てた。
「イザベラ! 君は嫉妬深すぎる! 牢屋で頭を冷やしなさい!」
舞踏会場を満たしていた喧騒が、ぴたりと途絶えた。第二王子アンドレアが、自分の婚約者であるイザベラ・コンウェルに向けて放った言葉のせいだった。
王都に国王と皇太子が不在の隙を突き、第二王子が勝手に起こした暴挙だった。騎士たちは戸惑いながらも、王の代理として振る舞う第二王子の命令に従い、イザベラを床に押さえつけて縛り上げた。
青いドレスがめちゃくちゃに乱れたが、イザベラの眼光は死んでいなかった。彼女の青い瞳が王子を鋭く睨みつけ、言った。
「殿下!」
「君はずっとレディ・ロッシをいじめていただろ! 王子の婚約者でありながら、まるで小説に登場する悪役令嬢のように振る舞っていたじゃないか!」
「レディ・ロッシと不適切に会わないよう申し上げただけです!」
レディ・ロッシとは、ロッシ男爵に引き取られた娘で、もとは平民だった。姓もなく「ソフィア」と呼ばれていたパン屋の娘に一目惚れした王子が、彼女をロッシ男爵家に籍に入れたのだ。それだけでなく、毎日宮殿に招いてイチャイチャしがちだった。結婚前の男女の距離感ではないと周囲がヒソヒソ噂するせいで、イザベラが注意するよう警告したところ、恨みを買ったのだった。
「あえて私を侮辱するとは! 私は真実の愛に従っただけだ!」
彼は息を荒げながら吐き捨て、やがてイザベラを中傷し始めた。
「イザベラ、君は茶の作法を教えてやるという口実で、レディ・ロッシの拙い振る舞いを毎回嘲笑っていただろ! そんな女をどうやって愛せばいいんだ?」
イザベラに嫉妬がなかったと言えば嘘になる。彼女は嫉妬と羨望に満ちあふれていた。愛する婚約者が美しい少女を毎日戯れのように愛でるのを聞き、見なければならないなんて、地獄も同然だった。イザベラはたびたびお茶会の席を設け、レディ・ロッシを招いた。彼女の拙い立ち居振る舞いを一つひとつ嘲笑い、からかうことで鬱憤を晴らしていたことは否定できなかった。
イザベラと仲の良い少女たちは、レディ・ロッシがお茶を飲むときに音を立てると、クスクス笑いながら目配せしたものだった。
しかし、それは大半の少女が行う幼い行動にすぎなかった。嫌だったのなら、レディ・ロッシにまともな作法を教えるべきだった。
無知な少女を男爵令嬢にしておきながら、ただ可愛がるだけではなく! そうしていれば、イザベラはレディ・ロッシをもう少し嫉妬せずに済んだかもしれない。
だが、そんな仮定は何の役にも立たなかった。
「泣きもしないのか。君は本当に可愛げがない。牢屋で反省していなさい。」
第二王子はこれ以上聞きたくないというように手を払い、イザベラを連行するよう命じた。イザベラはできるだけ優雅に立ち上がろうと努めた。彼女は自分の両脇に張り付いた騎士たちの腕を振り払った。
「離してください。婚約者のいる身ですから、他の紳士のエスコートなど必要ありません。」
腰を真っ直ぐ伸ばした彼女が体を翻した。どうせ牢屋に閉じ込められている時間は長くない。イザベラは罪になるようなことは何も犯していない。
これは明白な暴挙だった。父親が抗議してくれさえすれば、いや、王さえ戻ればイザベラは家に戻れるはずだった。彼女は唇を噛み締めた。
絶望がイザベラの肩を重く押し潰した。
*
牢屋とはいえ、貴族を閉じ込める場所はそれほど過酷ではない。王の血筋が拘禁されることもあるため、豪華な家具が配置され、むしろ普段の生活より快適だと言う貴族がいるほどだ。しかし、イザベラに与えられたのは一つのベッドと一つの机、そして一冊の聖書だけだった。彼女は怒って抗議したが、騎士たちは慌てるばかりだった。詮索せずとも明白だった。王子の命令に違いない。
イザベラは怒りに震えた。自分を裏切った婚約者も、彼をそそのかした男爵令嬢も憎くて仕方がなかった。
「憎い、憎くてたまらない!」
イザベラは信仰心の厚い少女だったので、嫉妬も羨望も罪悪であることは分かっていたが、どうしても我慢できなかった。彼女は食事も抜いて祈った。
「ああ、神よ。私が清らかな心を持てるようにしてください。彼を憎まず、彼女を哀れむことができますように。」
しかし、憎しみは日増しに大きくなっていくだけだった。イザベラは苦痛でやつれていり。嫉妬で燃え盛る胸のせいで、なかなか眠りにつくこともできなかった。イザベラは朝日が昇るのを見て気絶するように眠りにつき、騎士たちが交代する物音で目を覚ました。起きているときは休むことなく祈った。
「憎い、王子様が本当に憎い。レディ・ロッシが憎くてたまらない。どうかこの憎しみを取り去ってください。」
他人の目を気にして容易に泣くこともできない少女を哀れんだ看守たちは、できるだけ気配を殺し、それとなく交代するふりをしてその場を離れ、彼女が思いっきり泣けるよう配慮した。
イザベラがそれに気づいたのは、看守たちがそんなふうに席を外したときだった。彼女の足元へと何かが這ってきた。真っ黒で丸い毛玉のように見えるものは、よく見なければ目と口がついていることすらわからない代物だった。イザベラはそれがネズミだと思った。
しかし、その真っ黒なものは言葉を話すことができた。
「お嬢様、お嬢様!」
イザベラはびくりと驚き、品位を欠いた悲鳴を上げそうになった。
「お嬢様、私は死にかけています。どうか助けてください。」
だが、彼女は慈悲を施すよう育てられてきた貴族の少女だったので、目の前で今にも死にそうに這う生き物に冷酷に振る舞うことはできなかった。
「あなたの名前は何と言うの?」
「イザベラ。」
彼女は習慣のように答え、すぐに口を押さえた。黒い物体はペコペコとお辞儀をし、彼女の足元でブルブルと震えていた。
「イザベラ! 神の誓いという名ですね。慈悲をください、イザベラお嬢様。」
「ネズミが人の言葉を話すなんて。気持ち悪い!」
「違います、私はネズミではありません。お嬢様、慈悲を!」
「もしかして悪魔かもしれないわ! あっちに行って!」
イザベラは恐怖と好奇心が入り混じった視線でそれを見つめ、手を振り払った。
「私に感情の欠片を一つだけくだされば、私は再び生き返ることができるでしょう。」
「聞きはしないわ。悪魔は哀れなふりをして人をたぶらかすって言うもの。」
「お嬢様、どうか。私は神が紡いだ存在なのです。嘘ではありません。賛美歌を歌いましょうか?」
真っ黒なものは賛美歌を歌い始めた。粗削りで稚拙な調子だったが、神を称える言葉だけははきはきとしていた。イザベラは疑いと警戒を解いた。もしそれが悪魔なら、神を称えることなどできるはずがないからだ。
真っ黒なものは今にも死んでしまいそうだった。イザベラはそれが不憫になった。大切に育てられたお嬢様とは、巧みな誘いにたやすく引っかかるものなのだ。
「何をあげればいいの?」
「感情を、お嬢様! 一番必要のないものを一つだけください!」
イザベラはしばし考えに耽った。彼女にとって一番必要のない感情とは何だろうか?
憎しみはどうだろうか? イザベラはレディ・ロッシを憎んでいた。彼女が王子の愛を受けているからだ。
嫉妬はどうだろうか? イザベラは王子の愛を受けるレディ・ロッシに嫉妬していた。彼女が持つ愛を奪い去りたかった。
散々考え抜いた結果、イザベラは自分にとって必要のない感情とは、アンドレアに対する愛だと結論づけた。憎しみや嫉妬は、彼を愛しているからこそ付いてくる副次的なものにすぎなかった。
イザベラは疲れ果てていた。婚約者として10年も耐え抜いてきたが、結婚もしていないのに愛人を連れ込んだ王子を、これ以上愛する自信などなかった。苦しまずに済むなら、愛なんていくらでもくれてやった。
イザベラは気持ちを立て直し、真っ黒なものに告げた。
「愛をあげるわ。」
「愛を!」
「王子様を愛する感情をあげる。他のものはダメよ。」
黒い物体はぴょんぴょんと跳ね上がった。喜んでいるのか、戸惑っているのかは判別がつかなかった。
「本当にくださってもよろしいのですか?」
「ええ、持って行って。」
真っ黒なものはイザベラの指にしがみついた。彼女が驚いて手を振り払うより早く、指先からピンク色の煙がもやもやと流れ出した。
黒い物体はその煙をゴクゴクと飲み干した。すると驚いたことに、黒い塵の塊のようだったそれは人間の姿へと変貌を遂げた。しかも、整った美男子だった。黒髪に黒い瞳、彫刻のように爽やかな顔立ちをした男だった。
イザベラは反射的に悲鳴を上げ、ベッドの隅に身を隠した。
「キャーッ!」
「お嬢様!」
牢屋を警護していた騎士たちが慌てて鉄格子の中に飛び込んできた。イザベラは美男子を指差した。
「あ、あそこに! 急に塵が人間になったのよ! は、早く追い出してちょうだい!」
しかし、騎士たちは美男子を追い払うどころか、戸惑いながらイザベラを見つめるばかりだった。
「いったい何をなさっているのですか? たとえ私が牢屋にいようとも、私はコンウェル家のレディです! あの無礼な男を引っ張り出しなさい!」
「そ、それは……。」
騎士たちは気まずそうに笑った。
「レディ・コンウェル、あそこには何もいませんよ。」
「月の影でも見間違えられたのでしょう。」
イザベラはぽかんと男を見つめた。自分の目にハッキリとはっきりと映っているのに、何もないだなんて。皆でグルになって自分をいじめているように感じられた。
一方、騎士たちは幼いお嬢様が王子に裏切られ、過酷な環境の中で飢えに苦しんだあまり幻覚を見ているのだと思い込んでいた。彼らはイザベラを憐れみ、持ち場へと戻っていった。
「お嬢様、彼らには私が見えないのです。」
「やっぱりあなたは悪魔なのね!」
「あくまでもお嬢様の忠実な僕でございます。」
美男子はイザベラに近づいてきた。彼がイザベラに手を差し出すと、彼女は自分でも気づかぬうちに、その手にそっと自分の手を重ねていた。
男は優雅に腰を屈め、イザベラの指先に口づけをした。
彼が甘い声で囁いた。
「等価交換をご存知ですか?」
「錬金術師たちが言う……一つを得るには一つを失わなければならないっていう意味よね。」
「ええ、その通りです! 私はお嬢様に借りを作りましたから、あなたに恩返しをしなければなりません。」
イザベラは躊躇した。暗く湿った牢屋に長く閉じ込められていたせいで、自分自身が正気なのかどうかも疑わしかった。それほど現実感がなかった。彼女が常に心の奥底に抱いていた願いを口にすれば、そのまま夢から覚めてしまいそうだった。
「私が望むもの……。」
彼女はすぐには欲しいものを口にできなかった。
「ゆっくりお考えになって結構ですよ。望むものは何でも叶えてあげます。私にできないことはありません!」
男が軽く手を叩いた。すると、暗く冷たかった牢屋の中が一瞬にして華やかに変わった。
「まあ!」
イザベラは驚いて布団を撫でてみた。ふかふかで柔らかく、何より先ほどまで湯たんぽで温められていたかのように温かかった。しかも、彼女の好みの香りまで漂っていた。極限まで緊張していた体が瞬く間にほぐれていった。
真っ黒な美男子が甘い声で囁いた。
「お休みください、お嬢様。明日の朝起きれば、すべてが変わっているはずです。」
イザベラはこれが夢や幻に違いないと思いながらも、布団の中に潜り込むしかなかった。
*
牢屋の朝は早い。イザベラは目を覚ますやいなや、自分が久しぶりにぐっすり眠れたことを悟った。体が凝り固まっておらず、手も震えていなかった。祈りながら倒れ込むように眠って起きると頭が割れるように痛かったというのに、今はすっきり通り越して晴れやかだった。
環境ははるかにマシになったが、牢屋に閉じ込められているという現実は変わらないし、今後王子がイザベラを愛してくれることもないだろう。それでもイザベラは、何かが変わったと感じていた。
「よくお休みになれましたか?」
「おはよう。」
素敵な男は昨日とは違い、きちんとした身なりをしていた。使用人たちが身につける端正な制服だった。イザベラはぎこちない表情で彼の給仕を受けた。
「朝食はいかがなさいますか?」
「新鮮なりんご。なめらかなクリームにつけて食べたいわ。ベーコンは柔らかめに焼いて。添えるのはスクランブルエッグがいいわね。オートミールのお粥は嫌い。」
イザベラは冗談めかして言った。真っ黒な男が手を一振りにすると、ベッドトレイとともに朝食が現れた。イザベラが望んだ料理がトレイの上に綺麗に並べられていた。
「すごい……。」
イザベラの青い瞳がキラキラと輝いた。何日まともに食べられなかったせいで、口からヨダレが垂れそうだった。彼女は必死に正気を保とうと努めながら食事を始めた。
まともに食べられなかった胃に突然食べ物を入れたのだから、消化が良いわけがなかった。イザベラは食べたものをすべて吐き出してしまう。汚らしくて情けなくてめそめそ泣く彼女を、男はやさしくなだめた。
「大丈夫です。そういうこともありますよ。」
「ぐず、ぐずっ……見ないで! うっ、あまりにも情けないわ……。」
「お嬢様は塵の塊のようだった私にも優しくしてくださったではありませんか。美しいご自身に対しても寛大になられては如何ですか?」
彼は丁重にイザベラの嘔吐物を片付け、濡れタオルで彼女の顔を拭いてやった。
「離して! 汚いじゃない!」
「少しも汚くありません。」
「嘘よ! 王子様はお茶を少しこぼしただけでも汚いって言って怒鳴ったんだから!」
イザベラは遥か昔の出来事を思い出した。アンドレアは幼い彼女がお茶を飲んでいるときに数滴こぼしたという理由で、彼女を何年もの間「汚らわしい」と責め立てたのだった。イザベラが茶の作法に異常なほど強迫的な少女になったのは、彼のせいでもある部分があった。
アンドレアは作法に厳格で、イザベラが少しでも拙い姿を見せると彼女を侮辱し、非難した。
黒い男はイザベラを何度も優しくなだめてくれた。
「たかが吐いたくらいで。お嬢様は相変わらず美しいですよ。」
しばらく泣いたイザベラはふと、自分がアンドレアのことを微塵も考えていないことに気づいた。彼女の胸を埋め尽くしていた愛が、まるで水が引くようにすっかり空っぽになっていたのだ。
「私、おかしいわ。」
「お加減が悪いのですか?」
「ううん、そうじゃなくて……昨日から一度も殿下のことを思い出してないの。変な気分だわ。」
淡々とした声だったが、彼女が相当な衝撃を受けていることは容易に分かった。
「信じられないわ。殿下を思い出しても胸がときめかないのよ! おまけに、どうしてあんな男にあそこまで執着していたのかもわからないわ。まるで愛が消え去ってしまったみたいに……。」
イザベラがぽかんとまばたきをすると、男は面白そうに笑った。
「そりゃ当然ですよ! お嬢様が私にくれたんですから!」
彼はくるくると回りながら愛嬌を振り撒いた。現実感がなかった。イザベラの視線が虚空をあてどなく彷徨った。
「お嬢様、何をそんなに深く考えていらっしゃるんですか?」
黒い男はねっとりとした声で彼女を誘惑し始めた。
「お嬢様のことだけお考えください。ご自身を最優先に考えましょう。望むものは何でもおっしゃってください。すべて叶えて差し上げます。あなたが真に望むものは何ですか?」
イザベラは冷水を浴びせられたかのようにハッと正気に返った。
「私が……心から望むもの?」
彼女がこれまで望んでいたのはアンドレアの愛だったが、なぜか燃え盛る恋心は冷め、永遠だと思われた気持ちもしおれてしまっていた。残ったのは虚しさだけだった。昨日まで輝いていた心だったが、改めて見つめてみるとそこらへんの石ころよりも価値がないことに気づいた気分だった。
頭の中の霧が晴れると、やるべきことが明確になった。イザベラの心中を知らない黒い男がニヤニヤしながら言った。
「あの女を殺しましょうか? そうすれば再び王子様はお嬢様のそばに戻ってくるしかなくなるでしょうに。」
「ううん、いいわ。」
イザベラはレディ・ロッシを殺したいとは思わなかった。お茶の一つまともに飲めない愚かなソフィア・ロッシ。王子が大切に囲い込み、男爵令嬢に仕立て上げてくれたというだけで殺すのは可哀想だった。憎くはあるが、殺したいほどではなかった。
「では、王子様を不具にするのはどうですか? 精神を奪って人形にしてしまうのもいいでしょう。」
「私の欲しいものは、そんなちっぽけなことじゃないわ。」
王子が不具になることも、精神を奪ってその肉体だけを手に入れることも望んでいなかった。イザベラは拳をきつく握りしめた。十分に力の入らない手が小刻みに震えた。
「本当に欲しいものは、この手で掴み取るのよ。」
そして美男子を見つめながらふわりと微笑んだ。王子から悪役令嬢だと叱責されていたときには絶対に浮かべられなかった、邪悪な笑みだった。
「ありがとう。おかげで人生を変えられそうよ。」
*
イザベラはすぐに何かを起こしたりはしなかった。彼女は黒い男が用意したベッドで眠り、彼が用意した食事を食べながら優雅な生活を満喫した。
騎士たちにとっては、イザベラは正気を失った可哀想なお嬢様にしか見えないだろうが。
「あの、お嬢様、復讐はしないんですか?」
「あら、誰が聞いたら私が意地悪な人みたいじゃない。」
イザベラは黒い男が差し出したフィンガーフードをつまみながら、鼻歌を歌った。
「のんびりしていて本当にいいわね。」
朝早く起きて教育を受けたり、ティーパーティや舞踏会に招待されて動き回る生活よりも、牢屋でのんびりダラダラする生活のほうが彼女にはしっくりきていた。おまけに王子によく見られようと必死になる必要がないのも最高だった。社交界の生活は、思っていた以上にイザベラにとってストレスだったようだった。
「紅茶の葉を変えたほうがいいわね。添えるお茶菓子の甘みが強いんだから、お茶はできるだけ甘みの薄いもので。基本でしょ。」
イザベラは不満を言いながらも、とても嬉しそうだった。黒い男は唇を尖らせながらも、イザベラの望み通りに紅茶を淹れ直した。
「お嬢様、何をなさるつもりなのか全く見当がつきません。少しだけでも教えていただけませんか? どうしてこんなに余裕でいられるんですか?」
黒い男が切なそうに尋ねた。端正な顔立ちで行うその仕草はまるで子犬のようで、イザベラは思わずクスクスと笑ってしまった。
「待ってなさい。」
彼女はよくしつけられた猟犬を叱るようにきっぱりと言った。黒い男は口を尖らせながらも、おとなしく口を閉ざした。
イザベラは十日を過ぎずに釈放された。王が視察から戻るやいなやイザベラの事情を聞き、仰天したのだ。コンウェル伯爵はやつれ果てた娘の姿を見てめまいを起こした。
「私は大丈夫よ。」
「ああ! イザベラ! 私の可愛い娘よ、お前の悲しみは私が分かっている。陛下に強く抗議してやる! 結婚の前に愛人を囲うことだけでも許しがたいのに、愛しいお前を牢屋に閉じ込めるとは!」
「いいえ、お父様。そんなことしないで。」
イザベラは父親の手をぎゅっと握りしめた。
「私に考えがあります。」
彼女の背後で黒い男が首をかしげていることなど、誰も知る由もなかった。
イザベラが釈放されて数日後、王宮で小さな舞踏会が開かれた。王が戻ってきたことを記念するという名目だったが、実態はイザベラを懐柔するためのものであることは誰もが分かっていた。貴族たちは扇子の陰に好奇心の入り混じった口元を隠し、ヒソヒソと囁き合った。
「レディ・コンウェル。」
王が近づいてくると、イザベラは膝をついて頭を下げた。
「王子の過ちのせいで、そなたが苦難を味わったと聞いたぞ。」
王は第二王子の暴挙を単なる「過ち」と称した。こう言えばアンドレアを愛するイザベラが彼を許すと考えたからだった。滑稽極まりない振る舞いだった。可憐なお嬢様を勝手に牢屋に放り込んでおいて、それを過ちで済ませようとするなんて。イザベラは心の中で嘲笑った。
彼女は、王がアンドレアを罰すると言ったかのように声を張り上げて叫んだ。
「陛下! どうかアンドレア様をお許しください!」
イザベラは手を固く組み、健気な顔つきで王を見上げた。牢屋に閉じ込められている間に日光を浴びなかった彼女の肌は青白く、黒髪のせいで濡れた白梅のように儚げだった。
イザベラはできるだけ声を震わせながら言葉を続けた。
「アンドレア殿下は本当にレディ・ロッシを愛していらっしゃるのです!」
「レディ・コンウェル、そなたの心が痛むのは理解するが……。」
貴族たちの視線が一斉に注がれると、王は慌てて口を閉ざした。舞踏会からイザベラが連れ去られるのを目撃した貴族が一人や二人ではないという報告を思い出したからだ。
「あんなにも聡明な殿下が私を理由なく閉じ込めたのは、真実の愛ゆえです!」
彼女は頬の内側を強く噛んだ。自然と頬を伝って一筋の涙がぽろりとこぼれ落ちた。
「殿下は一瞬判断力が鈍るほど、レディ・ロッシを愛しておられるのです……私は殿下の幸せのために身を引きます!」
イザベラがドラマチックな声で叫んだ。王が小さくうめいた。息子が愛人のために伯爵令嬢を幽閉した愚か者だと思われるより、恋に落ちて過ちを犯したとしたほうがはるかにマシだったからだ。
イザベラはゴホンと小さく咳き込んだ。教養ある淑女としてできるだけ音を立てないようにしたが、体がふらつくのまでは抑えきれなかった。
「無礼をお許しください、陛下。体が弱ってしまい……お恥ずかしい限りです。」
イザベラは頬を押さえ、悲しげに目を伏せた。周囲の人々の間には同情心が芽生えているはずだった。イザベラが弱り切っているのは牢屋にいたからであり、か弱い女性を無理やり牢屋に押し込んだのは王子の独断だ。イザベラは絶対的な被害者であるにもかかわらず、王子のために健気に彼の幸せを祈っているのだ。
人間の心とは滑稽なほど単純で、美しい女性に簡単に自分を感情移入させてしまうものだ。
「可哀想に……。」
「痛ましいことだ。」
王の前で王子の悪口は言えない。むしろそれが、イザベラを一層不憫に思う起爆剤となってしまった。口で「可哀想だ」と言葉にするうちに、心の底から可哀想だと思い込んでしまうのである。
王は八方塞がりだった。適当に婚約を継続させることで伯爵家に支払うべき賠償金もうまくごまかそうと考えていたが、イザベラが破談を望むとは予想していなかったからだ。
無理やり結婚まで話を繋げたところで、周囲の貴族たちの冷ややかな視線が痛い。どうせ第二王子なのだ。王には健康な皇太子がおり、その下にも優秀な息子たちが大勢いた。彼は素早く損得勘定を終えた。
「おお、レディ・コンウェル。そなたがどれほど崇高な決断を下したか、よく分かった。このような決断は容易にできるものではない。そなたと第二王子の婚約は解消するとしよう。」
円満な収拾を図るため、王はイザベラに特権を与えた。王族の前で膝をつかなくてもよい特権だった。実用性のないくだらない特権ではあったが、この上なく名誉なことであるのは間違いなかった。イザベラは深く腰を折り、感謝を示した。
「陛下、一つ願いがございます。」
「なんだ?」
「アンドレア王子様が『真実の愛』に出会われたのですから、ぜひお祝いさせていただきたいのです。レディ・ロッシとアンドレア王子様の結婚式にご招待いただけるのであれば、この上ない光栄でございます。」
それはレディ・ロッシと第二王子の結婚を促す言葉に他ならなかった。王は長く悩まなかった。
「許可しよう。」
「ありがとうございます、陛下。」
王はイザベラの体調が万全ではないことを口実に帰宅を命じた。イザベラは礼を言い、足早に舞踏会場を後にした。
彼女の後をトコトコとついてきた黒い男が尋ねた。
「お嬢様、どうして他人のいいようにばかりしてあげるんです?」
「あら、それが他人のためになるように見える?」
イザベラが目を細めて微笑んだ。黒く長い髪を持つ彼女がそんなふうに笑うと、ゾッとするほど妖艶に見えた。
「待っていなさい。最高に面白いものが見られるから。」
*
半年が過ぎた。イザベラは療養を口実に屋敷に引きこもったまま出てこなかった。どうやったのか、黒い男は遠く離れた土地に住む貴族の末息子という身分を手に入れて現れた。イザベラが驚くと、彼は平然と言ってのけた。
「こんなの朝飯前ですよ。」
名前をつけてほしいとせがむため、イザベラは彼に「ポレット」という名を与えた。彼は有能さを認められ、イザベラの使用人兼護衛騎士として彼女のそばにぴったりと張り付いて行動するようになった。
ポレットはどこにいようともイザベラが呼べば彼女の前に現れた。
「ポレット。」
「はい、お嬢様。」
黒髪の、色黒な肌の男が目を細めて微笑みながらイザベラを見つめると、すでに消え去ったはずの感情が再び蘇ったかのように心臓がドキリと高鳴った。彼女は必死に気を引き締めながら口を開いた。
「王子様の結婚式の招待状が届いたわ。思っていたより早いものね。」
「まだ遅くありませんよ、お嬢様! あの男を殺してしまいましょう!」
ポレットは飛び上がった。彼はこれまでイザベラを何度も懐柔しようとしていた。アンドレア王子とソフィア・ロッシが幸せそうにしている姿をそのまま指をくわえて見ているつもりか、と何度も彼女を説得しようとしたのだ。しかし、イザベラはどこ吹く風だった。
彼女が首を傾げ、ポレットと視線を合わせた。
「当然、私をエスコートしてくれるわよね?」
「そ、それは当然ですけど……。」
「綺麗に着飾ってちょうだい。いいわね?」
「はい、お嬢様。」
ポレットは不満そうに返事をしたものの、当日になると新郎よりも華やかに着飾って現れた。
結婚式が開かれる礼拝堂へと向かう道中、ポレットはひっきりなしにイザベラを説得しようと試みた。
「お嬢様、私はあなたに幸せになってほしいんです。」
「まあ、嬉しい言葉ね。」
「今からでも、新婦を取り替えたいって神様に祈ってみたらどうですか?」
イザベラはポレットの額を人差し指で軽く押し返した。
「面白いものを見せてあげるって言ったでしょ。おとなしく待ってなさい。」
「でも……。」
ポレットがぐずぐずと文句をたれている間に、馬車は礼拝堂の前に到着した。王国で一番大きな礼拝堂は、各地から駆けつけた貴族たちでごった返していた。イザベラは周囲の人々と適度な挨拶を交わしながら、式場の裏手へと向かった。ポレットも彼女の後をちょこちょこ追いかけながら不満げに唇を尖らせた。
「ここには面白いものなんて何もないじゃないですか。どうせ控室くらいしか……。」
「少し黙りなさい!」
どこからか聞こえてきた大声に、イザベラの手足がぴたりと止まった。彼女はそっと壁に身を寄せ、窓の外を覗き込んだ。ポレットも彼女の真似をして身をかがめ、窓の外を窺った。
そこでは、アンドレア王子が花嫁衣装を着たレディ・ロッシに向かって怒鳴り散らしていた。
「もっと優動的に振る舞えと言っただろ! 人々の前で私に恥をかかせるつもりか?」
「ひ、ひどいです、殿下……! あ、あまりにも難しすぎるのです……!」
「愚か者が!」
ポレットは状況を飲み込めず、イザベラだけを見つめた。イザベラは肩をすくめ、簡単に状況を説明してやった。
アンドレア王子は作法に非常に厳しい。潔癖症のレベルにまで優雅さに執着する傾向があった。イザベラは彼の基準に合わせるため、社交界デビュー後も朝早くから厳しい教育を受けなければならなかった。王子がソフィア・ロッシに対して寛大だったのは、彼女があくまで「愛人」だったからにすぎない。
愛人はそばに置いて、ただ可愛がっていればいい存在なのだ。
イザベラは、あの二人が結婚すれば必ずやこういう部分で衝突すると予想していた。そして、その予想は的中した。
もっとも、新婦控室でいきなり掴み合いの喧嘩を始めるとまでは予想していなかったが。イザベラの説明が終わるより早く、激しい怒鳴り声が響いた。
こっそり中を覗き見ると、アンドレア王子がソフィア・ロッシの頬を叩いたようだった。王子は手を振り上げたまま荒い息を吐き、ソフィア・ロッシは床に倒れ込んで起き上がる気配すらなかった。
「死んだの?」
「いいえ、死んではいないようです。」
イザベラが驚くと、ポレットが慌てて彼女を落ち着かせた。けたたましい物音のせいで、参列者たちが控室へとぞろぞろ集まってくる気配がしたため、二人は静かにその場を離れた。
あんなことがあったにもかかわらず、結婚式は予定通り執り行われた。参列者たちは新婦の頬が赤く腫れ上がっていることに敏感に気づいていた。ポレットはこっそりイザベラの耳元に囁いた。
「お嬢様があの女に同情するのかと思っていました。」
「可哀想だとは思っているわよ。」
「助けてやりたいと言い出すんじゃないかとヒヤヒヤしたんですよ。」
「ねえ、私のことを慈善事業家だとでも思っているの?」
新郎も新婦も、誰も幸せそうに見えない結婚式だった。イザベラは楽しげな表情で参列者たちのヒソヒソ話を堪能した。
「王子は何も損をしていないじゃないですか。不公平です。」
「そうかしら?」
帰りの馬車の中でポレットはずっとぶつぶつ文句を垂れていたが、イザベラの顔には満面の笑みが浮かんでいた。二人の結婚生活が決して平穏なものにならないと確信していたからだ。
「お嬢様の考えていることは本当にわかりません……。」
ポレットがイザベラの肩に頭を軽くすり寄せてきた。子犬のようなその仕草に、イザベラの心臓がドキンと音を立てて沈み込んだ。まるでアンドレアを愛していたときのように心臓が不規則に脈打ち、頬が赤らんだ。ポレットが自分に近づいてくるとき、決まってこうした症状が起きるのだった。彼女はポレットの頭をそっと押しやりながら命じた。
「それより、屋敷に着いたらお医者を呼んでくれる? 最近、時々心臓がおかしくなるのよ。もしかしたら変な病気にかかったのかもしれないわ。」
「お嬢様は病気なんかじゃありませんよ。」
ポレットが不思議そうに答えた。イザベラは首を横に振った。手入れの行き届いた彼女の黒髪がサラリと揺れた。
「でも、心臓の鼓動がおかしいのよ。まるで恋に落ちたみたいに。私、愛の感情なんて全部あなたにあげちゃったはずなのに?」
「違いますよ。」
ポレットは何を言っているんだとばかりに笑った。
「お嬢様が僕にくださったのは『アンドレア王子に対する愛』でしょう? 普通に、他の人なら愛することができますよ。」
イザベラはぽかんとした後、すぐにその言葉の意味を理解して悲鳴を上げた。
あまりの衝撃に、イザベラは数日間ボーッとして過ごした。彼女がようやく正気を取り戻したのは、「ソフィア・ロッシが度重なる虐待に耐えかね、初夜が終わるやいなや王子を毒殺した」というニュース耳にした後だった。
「最高ですね。僕に命令すら下さず、自らの手で二人を破滅に追い込むなんて、さすがはお嬢様です!」
イザベラはこめかみを押さえた。端正な顔立ちの男がニコニコと笑顔を浮かべているせいで、その破壊力は凄まじかった。たとえその口から飛び出すのが血生臭いお話だとしても、だ。ポレットが美しい笑みを振り撒きながら尋ねた。
「お嬢様、まだ『本当に望むもの』はお決まりになりませんか?」
イザベラは妖精なのか悪魔なのか分からない美男子を見据え、ゆっくりと口を開いた。
「私が本当に望むものはね――」




