第六話 私の問題
悠太くんの病室を出てから10分くらい。私は今、私の家の玄関の前で深呼吸をしている。お父さんもお母さんもまだ仕事で帰っていないとわかっていても、家に入ったら悠太くんとの楽しい時間が終わってしまって、悠太くんの優しく包みこんでくれるような感覚も消えてしまいそうで。家に入ることが大きな壁になっている。それでも私とは私が片付けないといけない。これは、私と私の家族の問題。いま悠太くんは関係ないのだから。5分ほど家の前で葛藤してから重い腰を上げて扉を開けた。その中には、今までの嘘でできた私が作ったまるで夢のような家族の家が部屋が広がっていた。これも全て今日でなくなると思うとどこか悲しい。
「悠太くんさえいればこんな気持ち風にのって飛んでいくのに。」
靴を脱いで、手を洗って、私は私の部屋へ向かう。そこには悠太くんにわかりやすく教えるために努力したあとが残っている。乱雑に置かれた教科書、ノート、ドリル、プリント。もうこんな仮初の勉強ができる天才で、最強な私を作らなくても何も無いただの私を見てくれる人がいると思えば少しは心が軽くなった気がする。
お父さんもお母さんもあと2時間くらいしたら帰って来る。その間にできることは心の準備くらいだろうか。ベッドに転がって天井を眺める。今なら天井のシミをすべて数えることも難しくない。しばらくすれば私の意識は深い海へと沈んでいった。
起きた頃には部屋が真っ暗になっていた。時計を見れば夜8時夜ご飯が出来ている時間だ。今日はたまたまお父さんもお母さんも家に帰る時刻が同じでみんなで食卓を囲む事ができる。この食卓の場で私の本音を打ち明けようと強く誓う。
私の部屋の扉を開ければそこにはあたたかいようでどこか冷たいリビングが見える。どうやらご飯はもう出来ていてお母さんが私を起こしに立ち上がるタイミングだった。
「おはよう日車」
「この時間はこんばんはでしょお父さん。」
「あぁそうだったか。」
「こんばんは日車」
「こんばんはお母さん」
仮初の仮面は私にこびりついて剥がれない。一度溶けた金属のようにすっかり固定されてしまっている。
金属であればもう一度熱してしまえば外すことは簡単なのだがどうやらそこまで簡単じゃないようだ。
食卓には私の大好物の唐揚げがいっぱいのったカレーが置かれている。いつもの、いや今までの私であれば目を大きく開けてできる限りの笑顔を作って嬉しさを体で表す。でも、今日はしない。できない。両親が少し驚いたような顔をして私を見つめる。しかし、注目は変わってお母さんの手に握られた新聞の、隅に載った小さな記事へと移った。
「あぁ、日車。そういえば今日は学校で何か変わったことはあったかい?」
お父さんが、新聞を広げながら、日車を見ずに問いかけてきた。それは、「今日も問題なく優等生をやってきたか?」 という、毎日の成績確認の儀式のようなものだった。
いつもの私なら、「何の心配もいらないわ」と完璧な笑顔で応える。でも、今日は。
「特に、何も。」
声は、予想以上に冷たく、感情のない音になった。
お父さんは新聞から、お母さんはカレーをよそっていた手から、初めて私に視線を向けた。 その目には、「違和感」 と「探るような色」が浮かんでいる。
「ふむ。元気がないな。病院での勉強疲れか?それとも、期末テストに向けて何か不安でもあるのか?」
お母さんが心配そうに尋ねてきたが、その心配は私の体調ではなく、「優等生というステータス」 に向けられているのがわかった。
今だ。 この、私の「優等生」の仮面が揺らいでいるこの瞬間に、切り込むしかない。
私は手に持っていたスプーンを、カチャリと皿の上に置いた。
次回は明日の20時に投稿します。




