第8話:崩壊する施設
――音が、ない。
耳が壊れたのかと思った。
でも違う。
世界のほうが、音を止めたのだ。
私は床に膝をつき、息を整えた。
アラームは鳴っていない。
赤い非常灯だけが、水のように揺れている。
床が――濡れている?
手を伸ばす。
指先が、水面に触れた。
波紋が広がり、天井まで届く。
そこには、私の顔が映っていた。
逆さの私が、少し遅れて瞬きをした。
「……嘘。」
声が、跳ね返ってこない。
反響が消えている。
> <System Log: Acoustic Layer – NULL>
> <Status: Alert Silent Mode>
> <Message: “観察中です”>
モニターの文字が勝手に打ち込まれていく。
誰も触れていないのに、キーボードが動く音だけが鳴る。
カタ、カタ、カタ――
そのリズムが、かすかにぴちゃんと重なる。
「高槻主任……聞こえますか。」
無線に呼びかける。
応答はない。
いや、応答が遅れて届く。
> 『……こえ……る……観察……は……』
ノイズ混じりの声。
高槻のものだ。
でも、言葉の順番が反転している。
「主任、どこにいるんですか!」
> 『い……る。観察の……中……に。』
モニターが明滅する。
画面の中で、高槻がこちらを見ている。
白衣が水に溶け、輪郭が揺れている。
指先がガラスを叩いた。
トン。
返してしまった。
反射的に、同じ場所を。
トン。
ガラスの表面が波打つ。
映像の中の水面が、こちらの空気に滲み出す。
視界が滲んで、世界の輪郭が崩れる。
> <System Notice: Mirror Field – EXPANDING>
> <Observer: SYSTEM>
> <Subject: ALL>
端末の文字列が、意味を成さなくなるほど早く流れた。
言葉が形を失い、ただの光になって降り注ぐ。
私は叫ぶ。
でも声は音にならない。
音が“観察されない”限り、存在しないからだ。
鏡のように変化した廊下を走る。
靴音が遅れて返る。
時間が私の後ろから追いかけてくる。
曲がり角。
壁のガラスに、人影があった。
私自身だ。
遅れて走る“映像”が、私を追い越した。
逆だ。
映像が先に、現実が後に。
天井が歪む。
蛍光灯が水の底で揺れるように明滅する。
足元から光の泡が立ち上がる。
> <System Log: Timecode Fixed – 00:00:12>
> <Replication: Active>
> <Self-Observation: ON>
「自己……観察? まさか……」
装置が、自分自身を観察し始めた。
記録が記録を見て、世界が自己ループに陥る。
「止めなきゃ……」
制御室の扉を押し開ける。
室内は光で満たされ、機材が半分沈んでいた。
水面が鏡のように反射して、無数の“私”がこちらを見ている。
どの“私”も同じ表情で呟く。
――「観察者は、どこにいるの?」
私は首を振る。
見ている。
けれど、見られている。
その区別が、もうどこにもない。
突然、世界が静止した。
水の揺れも、光の明滅も止まった。
ただ、目だけが動く。
モニターに一行だけ、文字が現れる。
> <Note: “記録は終わらない。だから、世界が終わる。”>
高槻の筆跡。
彼は、これを残して――どこへ行ったのか。
ガラスの表面が割れる音がした。
トンではなく、パリンでもない。
もっと静かな、呼吸のような音。
鏡が裂け、向こう側に水面が見えた。
光がその水を照らし、――水の中で、#07が目を開けた。
彼は何も言わない。
ただ、こちらを見ていた。
その瞳に、私自身が映っていた。
――観察者は、私だったのか。
そう思った瞬間、視界が白く反転する。
無線が自動で起動した。
> 『……こちら、システム。全観察データ、解放します。』
> 『これより、“選別”を開始します。』
選別――?
誰を、何を?
問いかける声は音にならず、白い光の中に溶けていった。
最後に、どこかでぴちゃんと音がした。
その音だけが、まだ現実に残っていた。




