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REFLECTOR  作者: GenerativeWorks
Observation

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第4話:前の住人

引っ越し初日の夜、私は壁の鏡を外そうとした。


古い木枠。


釘が錆びていて、びくともしない。


姿見は、私より少し背が高い。

薄暗い廊下の光を吸い込んで、部屋の奥に長い影を作っていた。


「管理人さん、これ……もらっていいですか。」


日中に訊ねたら、管理人はしわだらけの目を細めた。


「置いとけ。前の人も持ってかなかった。重いからな。」


置いておけ、は、持っていくな、と同じ意味だった。

でも、他に鏡がない。

私はそのまま暮らし始めた。


夜、歯を磨きながら、鏡を見た。

疲れた顔。

見慣れない部屋。

あくびをした私に、鏡の中の私は――少し遅れてあくびを返した。


「……今、遅れた?」


電球のちらつきだろう、と自分に言い聞かせて、寝た。


翌晩も、遅れた。

三日目は、もっとはっきり遅れた。

四日目には、先に笑った。


私は、小さなノートを買った。

なんでもない罫線の、安いノート。

最初のページに、数字を記す。


――00:00:12。


その時刻になると、鏡が私を追い越す。

そう決めつけただけかもしれない。


でも、決めてしまうと、毎晩確かめに行くようになった。

歯を磨き、洗面台に両手をつき、息を整える。


秒針のない部屋で、私の体内時計が一秒を刻む。


十二秒。

トン。


鏡の内側で、小さな音がした。

外から爪で叩いたような軽い音。


なのに、胸の中のどこか深いところへ落ちていく。


「誰?」


もちろん返事はない。

代わりに、薄くぴちゃんと水の音がする。


天井は乾いている。

床は埃っぽい。


水気なんてどこにもないのに、音だけが落ちてくる。


私はノートに書き足した。


“ぴちゃん”。


ひらがなで書くと、音がやわらかくなって、少しだけ怖くなくなる。


五日目、私は目覚ましを00:00:10に合わせた。


秒を数え、鏡の前に立つ。

十、十一、十二。

私は笑わない。


鏡の私は――笑った。


「やめて。」


言葉にすると、鏡の私の口も同じ形を作る。

けれど、声は遅れて、変な響きで戻ってきた。


そこに私の声は含まれていない。

透明な、無人の音。


翌朝、管理人に鏡のことを訊いた。


「前の人も、書きつけてたよ。」


「書きつけ?」


「夜になると起きて、何か帳面に。ほら、この部屋、壁紙やり替える前に穴があってな。中からちぃとばかし出てきた。」


管理人が出してきたのは、茶色い紙切れだった。

そこに、同じ数字がいくつも並んでいた。


 00:00:12

 00:00:12

 00:00:12


ペンの力が少しずつ弱くなっている。

最後の一行だけ、震えた文字でこう書かれていた。


見すぎないこと。


その夜、私は鏡をシーツで覆った。

何度も、角を押さえ、布を押し込む。


“見るものを、見えなくするために”という作業は、思ったよりも体力が要った。

汗を拭いて、ベッドに倒れ込む。


静かになった部屋で、私はゆっくり呼吸を整える。


――トン。


布越しに、また音がした。

私はベッドから起き上がり、布の上から鏡に触れた。


冷たい。

ガラスの冷たさが、布を通って皮膚へ伝わる。


「……ごめん。」


謝る相手なんて、どこにもいないはずなのに。

布を外すと、鏡は黙って私を映した。


私は笑わない。

鏡の私は、遅れて笑わなかった。


その晩だけは、何も起きなかった。


次の日の夕方、ドアを叩く音がした。

男が二人。


グレーの作業着。

胸元に小さく会社名のようなロゴがある――読めない。

名刺は渡されなかった。


「施設の依頼で、調査に来ました。」


「施設?」


「搬出を伴います。鏡は、こちらでお預かりします。」


私は管理人を呼んだ。

管理人は二人を見ると、すぐに頷いた。


「前にも来た。ここの古いのは、みんな持ってった。」


「“みんな”?」


「鏡とか、窓ガラスとか、音のするもの。」


音のするもの――。

私は無意識に鏡に近づいた。


ガラスに指が触れる。

冷たい。

指先が、自分の指先と重なる。


トン。

中から、指で返された。


私は息を吸い、ゆっくり吐いた。


「持っていくなら、壊さないでください。」


男たちは返事をしなかった。

緩衝材で鏡を包み、木枠に固定し、番号札をつける。

札には、英数字が黒いマジックで書かれていた。


濡れた指で触れたように、少し滲んでいる。


REF / 旧棟 / 取扱注意


最後の行だけ、かすれて読めなかった。

でも、最初の三文字ははっきりしていた。

REF。


それが何を意味するのか、その時の私は知らない。


搬出の間、私はノートを開いて、最後のページに書いた。


 ――00:00:12

 ――見すぎないこと

 ――ぴちゃん


鏡が部屋から運び出されると、影が消えた。

午後の日差しが床に広がる。


光は軽い。

音は戻らない。


男たちはドアの向こうで短く会話した。


「旧棟の方からだ。」


「上には?」


「主任へ。移送先は――」


廊下へ出る直前、鏡の角が私の肩に触れた。

冷たさが体の奥にすっと入って、肺の形を撫でた。


痛くはない。

でも、そこに形が残る感じがした。


夜。

鏡のない部屋。


私は眠った。

目覚ましはかけなかった。


夢の中で、誰かが私を見ていた。

薄いガラス越しに。


笑わず、息もせず、ただ見ていた。

――ぴちゃん。


夢の中の音は、現実よりも冷たかった。


数日後、ポストに茶封筒が入っていた。

差出人はなく、中には一枚の紙。

印字は薄く、途中で千切れ、最後の一行だけが読める。


観察は、まだ終わらない。


私は封筒を折り、捨てられなかったノートに挟んだ。

めくった最初のページに、古い自分の字が残っている。


00:00:12。


数字を見ているうちに、部屋のどこかでトンと音がした。

鏡はもうない。

音だけが残る。

私は息を止め、耳を澄ます。

何もない。

何も――。


廊下の端、壁の塗装が薄く剥がれて、ほんの少しだけ光って見えた。

近づいて、指を当てる。

冷たい。


耳の奥で、水が落ちた。


――ぴちゃん。


私はその場で目を閉じた。

見なければ、終わる。

見れば、変わる。


あの鏡はどこへ行ったのだろう。

どこかの白い部屋で、今も誰かを映しているのだろうか。


封筒の裏に、鉛筆で薄いスタンプの跡があった。

斜めに読める。


REFLECTOR / 旧棟搬出 / 受領


私はノートに最後の一行を書いた。


始まりは、ここにあった。

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