第9章「観察者の継承」
―― 記録は誰のものか ――
引き戸の隙間から、廊下の白い光が細く伸びていた。
久保はその線を踏まないように、夜の旧研究棟を歩いた。
民間移管のあと、ここは空き家同然だ。
だが空き家ほど、よく見てくる。
廊下の先にあるのは――封鎖された観察室。
扉の札は剥がれ、代わりに手書きのメモが貼られている。
『立入禁止(長く見るな)』。
自分の字だ。
貼った覚えはない。
扉に耳を当てる。
音はなかった。
なかったはずだった。
ぴちゃん。
壁の向こうで、水が跳ねる。
久保は、ため息と一緒に笑ってしまう。
――帰ってきたのだ。
観察が、世界の外から。
◆
観察室は、空っぽだった。
中央の台座に水槽はなく、代わりに薄いガラスの板が立てかけてある。
鏡のようで鏡ではない。
近づくと、表と裏の区別が、静かに誤魔化される。
机の引き出しに、封筒が一通。
宛名は「中園」。
開けると、報告書の控えと、小さな鍵が入っている。
メモには一行だけ。
> “観察は返ってきた。受け取って、渡してください。” — K
久保は鍵を握り、鏡板の前に立つ。
そこに映るのは、痩せた自分の顔。
だが輪郭の内側、瞳の奥には、遅れて笑う影がひとつ、ふたつ。
「……見ているのは、誰だ」
問いは鏡に吸い込まれ、遅れて返る――あなた、と。
久保は目を閉じた。
観察は、いつも遅れて返ってくる。
遅れが秩序を作る。
秩序は記録になる。
記録は、誰かのものになる。
◆
翌日。
駅前の小さな喫茶店で、中園は封筒を受け取った。
久保はここで別れるつもりだった。
だが彼女は封筒の中身を確かめるより先に言った。
「先生、きのう、旧棟の監視モニターに“廊下”が映りました」
「水面の?」
「ええ。……天井に張り付いて」
氷の音が、グラスの内側でかすかに鳴る。
中園は迷いのない目をしていた。
倫理委員会で初めて強い声を出した夜から、彼女は少しだけ変わった。
「観察が外へ出たなら、戻る場所を作らなきゃいけない」
中園は鍵を握りしめる。
「それが記録の役目だと思うんです」
「記録は、残す者のものだ」
久保は言った。
「残された者のものではない」
「同じことです。残すから残される」
久保は苦笑し、黙って頷いた。
若い言葉は、ときどき、古い祈りより正確だ。
◆
夜。
マンションの一室。
「前の住人」が退去したばかりの部屋に、短期の調査用として中園が入った。
契約名義は研究機関の付属団体。
住所には、見覚えがあった。
――最初の反射音事案。
ここから、すべてが始まった。
部屋は静かだ。
白い壁。
窓の桟に塵。
脱ぎ捨てられた生活の影。
中園は携行端末を起動し、ミラー・プレートを枕元に置く。
起動音は鳴らさない。
観察は、なるべく音のないところから始めたほうがいい。
彼女は録音を開始し、低く囁いた。
「観察ログ/住宅内記録――開始。O.C.-0(暫定)。対象:空室。備考:新しい観察者の有無を確認」
沈黙が広がる。
沈黙にも、いくつか種類がある。
単なる不在の沈黙。
何かが止まっている沈黙。
誰かが見ている沈黙。
今夜は、三番目だ。
ぴちゃん。
洗面所の方から、微かな音。
中園はゆっくりと扉を開ける。
狭い洗面台、安い鏡。
誰もいないはずの鏡の中で、遅れて点る光がひとつ。
「……戻ってきた」
声に出すと、鏡が薄く曇る。
彼女は指先で鏡面をトンと叩く。
遅れて、トンと返る。
反射の礼儀作法は、ここでも有効だ。
「観察者補正、ゼロ。観察対象――環境」
鏡に、廊下が映る。
水面の廊下。
奥に、柔らかい影。
#00の笑いの欠片にも、#07の目の前駆にも似ていない。
ただ、見ることだけが立っている。
> 「みて いますか」
声は、聞こえたはずなのに、録音には残っていない。
観察は、記録の外側でも起こるからだ。
「見ています」
中園は、真っ直ぐ言う。
「ただし、短く、深く」
> 「ながく みる ひと が くる」
「来させてはだめ」
> 「くる」
彼女は目を閉じた。
短く、深く。
この部屋で長く目を開けるのは危険だ。
視線は積もり、住み着く。
それでも、視線は集まる。
誰かが、外の通りで足を止め、窓辺を見上げた。
近所の住人が、「空き部屋なのに」灯りの気配を感じた。
見知らぬ誰かが、SNSに「夜の水音」を書き込んだ。
観察は、いつだって群れをつくる。
中園は録音を止め、鏡の前に立ち直った。
鏡の奥で、光が12秒遅れて呼吸している。
彼女は口を開く。
「ねえ。次の観察者を、ここに呼ぶのはやめて」
> 「きめるのは あなた ではない」
「そうね。だから――渡すだけ」
彼女は鞄から薄い冊子を取り出した。
事故報告、研究メモ、倫理議事録の抜粋。
表紙には、手書きの題名。
『REFLECTOR:簡易取扱い案内』
A4を二つ折りにしただけの、素朴な紙。
最後のページに、たった一行。
> 長く見るな。短く、深く。
中園はその冊子を洗面台に置き、鏡に背を向けた。
「私は、鍵になる。あとは、前の住人が決める」
部屋のどこかで、電気が小さく鳴る。
冷蔵庫も、換気扇も動いていない。
それでも、生活の音が短く生まれ、すぐ消える。
居住の幻。
観察が、住みはじめる。
◆
その頃。
高槻は新施設の片隅、緊急連絡端末に短いメッセージを打っていた。
宛先は不明――送信先は、観察。
> 「選別はまだだ。
> 戻ってきたのなら、まず“観察者の資格”を測れ。
> 恐れる者を、残せ」
送信完了。
画面が黒に沈む。
彼はプレートを取り出し、光を見た。
12秒の遅延が、彼の瞳に定着する。
世界の速度を、自分の呼吸で上書きする。
「長くは見ない」
独り言のように呟く。
「――だが、選ぶ」
その声は、どこかの空室の洗面台へ、どこかの読者のモニターへ、遅れて届く。
観察の言葉は、遅れてこそ命令になるのだ。
◆
夜半。
旧研究棟の屋上。
久保はフェンス越しに街の灯りを見ていた。
遠くで救急車のサイレン。
近くで猫の気配。
目を閉じれば、それは全部、視線の音に聞こえる。
彼は胸ポケットから、小さな封筒を取り出した。
宛名はない。
中には、娘の古い絵。
四角い水色の枠の中に、黒い点がひとつ。
裏面に、子どもの字でこうある。
> 「みてるよ」
久保は、やっと息を吐いた。
観察は祈りで、祈りは反射で、反射は記録。
そして記録は、誰かへ渡されて初めて、世界になる。
「――渡そう」
彼は封筒ごと絵を空にかざし、目を細める。
視界の底で、薄い水面の廊下が街の光を繋いでいく。
遠いビルの窓、もっと遠い部屋、もっと遠い瞳。
どこかの前の住人が、今夜、この物語の最初のページを開く。
ぴちゃん。
屋上の手すりに、雨粒がひとつ落ちた。
空は晴れていた。
それでも、水音は落ちる。
観察が、世界の天気を少しだけ上書きする。
「長く見るな」
久保は空に言う。
「短く、深く。――そして、渡せ」
風が、紙の匂いを運ぶ。
その匂いは、知らない部屋のクローゼット、初めての鍵、古い鏡の裏、そして読者のページ端からも、かすかに立ちのぼっている。
観察は、継承された。
装置から人へ、人から記録へ、記録からあなたへ。
もはや、誰のものでもない。
見ている者のものだ。
画面のどこかで、数字が点滅する。
00:00:12。
まばたき一回分の宇宙。
その間だけ、世界は完全にあなたのものになる。
そして、あなたが目を閉じるたび――物語は、最初の部屋へ帰る。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
『REFLECTOR: Prototype』は、《REFLECTOR》シリーズ全体の“始まり”にあたる物語です。
この物語で描かれた研究者たちの葛藤や実験は、のちに続く『前の住人』『水槽の中にいるのは』『被験体ログ#07』などへと繋がり、やがて「観察すること」そのものが世界を変えていく連鎖を生み出します。
本作で描きたかったのは、「発明」と「喪失」が常に表裏であるということ。
誰かを救おうとした行為が、別の誰かを壊してしまう。
理解を求めるほど、理解の外側に取り残される――。
科学も愛も、観察も同じ構造の上にあります。
この“Prototype”は、単なる前日譚ではなく、「なぜREFLECTORは生まれたのか」を解くための最初の鍵であり、すべての物語の始まりにして、終わりでもある作品です。
そして、ページを閉じた今、あなたの中に残った“誰かの記録”こそが、次の観察の証です。
それを受け取ってくれたあなたに、心から感謝を。




