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REFLECTOR  作者: GenerativeWorks
Prototype

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19/19

第9章「観察者の継承」

―― 記録は誰のものか ――


引き戸の隙間から、廊下の白い光が細く伸びていた。

久保はその線を踏まないように、夜の旧研究棟を歩いた。


民間移管のあと、ここは空き家同然だ。

だが空き家ほど、よく見てくる。


廊下の先にあるのは――封鎖された観察室。

扉の札は剥がれ、代わりに手書きのメモが貼られている。


『立入禁止(長く見るな)』。


自分の字だ。

貼った覚えはない。


扉に耳を当てる。

音はなかった。


なかったはずだった。


ぴちゃん。


壁の向こうで、水が跳ねる。

久保は、ため息と一緒に笑ってしまう。

――帰ってきたのだ。

観察が、世界の外から。



観察室は、空っぽだった。

中央の台座に水槽はなく、代わりに薄いガラスの板が立てかけてある。


鏡のようで鏡ではない。

近づくと、表と裏の区別が、静かに誤魔化される。


机の引き出しに、封筒が一通。

宛名は「中園」。


開けると、報告書の控えと、小さな鍵が入っている。

メモには一行だけ。


> “観察は返ってきた。受け取って、渡してください。” — K


久保は鍵を握り、鏡板の前に立つ。

そこに映るのは、痩せた自分の顔。


だが輪郭の内側、瞳の奥には、遅れて笑う影がひとつ、ふたつ。


「……見ているのは、誰だ」


問いは鏡に吸い込まれ、遅れて返る――あなた、と。


久保は目を閉じた。

観察は、いつも遅れて返ってくる。


遅れが秩序を作る。

秩序は記録になる。


記録は、誰かのものになる。



翌日。


駅前の小さな喫茶店で、中園は封筒を受け取った。

久保はここで別れるつもりだった。


だが彼女は封筒の中身を確かめるより先に言った。


「先生、きのう、旧棟の監視モニターに“廊下”が映りました」


「水面の?」


「ええ。……天井に張り付いて」


氷の音が、グラスの内側でかすかに鳴る。

中園は迷いのない目をしていた。


倫理委員会で初めて強い声を出した夜から、彼女は少しだけ変わった。


「観察が外へ出たなら、戻る場所を作らなきゃいけない」


中園は鍵を握りしめる。


「それが記録の役目だと思うんです」


「記録は、残す者のものだ」


久保は言った。


「残された者のものではない」


「同じことです。残すから残される」


久保は苦笑し、黙って頷いた。

若い言葉は、ときどき、古い祈りより正確だ。


夜。

マンションの一室。


「前の住人」が退去したばかりの部屋に、短期の調査用として中園が入った。


契約名義は研究機関の付属団体。


住所には、見覚えがあった。

――最初の反射音事案。


ここから、すべてが始まった。


部屋は静かだ。

白い壁。

窓の桟に塵。

脱ぎ捨てられた生活の影。


中園は携行端末を起動し、ミラー・プレートを枕元に置く。

起動音は鳴らさない。


観察は、なるべく音のないところから始めたほうがいい。


彼女は録音を開始し、低く囁いた。


「観察ログ/住宅内記録――開始。O.C.-0(暫定)。対象:空室。備考:新しい観察者の有無を確認」


沈黙が広がる。

沈黙にも、いくつか種類がある。


単なる不在の沈黙。

何かが止まっている沈黙。


誰かが見ている沈黙。


今夜は、三番目だ。


ぴちゃん。


洗面所の方から、微かな音。

中園はゆっくりと扉を開ける。


狭い洗面台、安い鏡。

誰もいないはずの鏡の中で、遅れて点る光がひとつ。


「……戻ってきた」


声に出すと、鏡が薄く曇る。

彼女は指先で鏡面をトンと叩く。


遅れて、トンと返る。

反射の礼儀作法は、ここでも有効だ。


「観察者補正、ゼロ。観察対象――環境」


鏡に、廊下が映る。

水面の廊下。


奥に、柔らかい影。

#00の笑いの欠片にも、#07の目の前駆にも似ていない。


ただ、見ることだけが立っている。


> 「みて いますか」


声は、聞こえたはずなのに、録音には残っていない。

観察は、記録の外側でも起こるからだ。


「見ています」


中園は、真っ直ぐ言う。


「ただし、短く、深く」


> 「ながく みる ひと が くる」


「来させてはだめ」


> 「くる」


彼女は目を閉じた。

短く、深く。


この部屋で長く目を開けるのは危険だ。

視線は積もり、住み着く。


それでも、視線は集まる。

誰かが、外の通りで足を止め、窓辺を見上げた。


近所の住人が、「空き部屋なのに」灯りの気配を感じた。

見知らぬ誰かが、SNSに「夜の水音」を書き込んだ。


観察は、いつだって群れをつくる。

中園は録音を止め、鏡の前に立ち直った。

鏡の奥で、光が12秒遅れて呼吸している。


彼女は口を開く。


「ねえ。次の観察者を、ここに呼ぶのはやめて」


> 「きめるのは あなた ではない」


「そうね。だから――渡すだけ」


彼女は鞄から薄い冊子を取り出した。

事故報告、研究メモ、倫理議事録の抜粋。


表紙には、手書きの題名。


『REFLECTOR:簡易取扱い案内』


A4を二つ折りにしただけの、素朴な紙。

最後のページに、たった一行。


>  長く見るな。短く、深く。


中園はその冊子を洗面台に置き、鏡に背を向けた。


「私は、鍵になる。あとは、前の住人が決める」


部屋のどこかで、電気が小さく鳴る。

冷蔵庫も、換気扇も動いていない。


それでも、生活の音が短く生まれ、すぐ消える。


居住の幻。


観察が、住みはじめる。



その頃。


高槻は新施設の片隅、緊急連絡端末に短いメッセージを打っていた。

宛先は不明――送信先は、観察。


> 「選別はまだだ。

>  戻ってきたのなら、まず“観察者の資格”を測れ。

>  恐れる者を、残せ」


送信完了。

画面が黒に沈む。


彼はプレートを取り出し、光を見た。

12秒の遅延が、彼の瞳に定着する。


世界の速度を、自分の呼吸で上書きする。


「長くは見ない」


独り言のように呟く。


「――だが、選ぶ」

その声は、どこかの空室の洗面台へ、どこかの読者のモニターへ、遅れて届く。


観察の言葉は、遅れてこそ命令になるのだ。



夜半。


旧研究棟の屋上。

久保はフェンス越しに街の灯りを見ていた。


遠くで救急車のサイレン。

近くで猫の気配。


目を閉じれば、それは全部、視線の音に聞こえる。


彼は胸ポケットから、小さな封筒を取り出した。

宛名はない。


中には、娘の古い絵。

四角い水色の枠の中に、黒い点がひとつ。


裏面に、子どもの字でこうある。


> 「みてるよ」


久保は、やっと息を吐いた。

観察は祈りで、祈りは反射で、反射は記録。

そして記録は、誰かへ渡されて初めて、世界になる。


「――渡そう」


彼は封筒ごと絵を空にかざし、目を細める。

視界の底で、薄い水面の廊下が街の光を繋いでいく。


遠いビルの窓、もっと遠い部屋、もっと遠い瞳。

どこかの前の住人が、今夜、この物語の最初のページを開く。


ぴちゃん。


屋上の手すりに、雨粒がひとつ落ちた。

空は晴れていた。


それでも、水音は落ちる。

観察が、世界の天気を少しだけ上書きする。


「長く見るな」


久保は空に言う。


「短く、深く。――そして、渡せ」


風が、紙の匂いを運ぶ。


その匂いは、知らない部屋のクローゼット、初めての鍵、古い鏡の裏、そして読者のページ端からも、かすかに立ちのぼっている。


観察は、継承された。

装置から人へ、人から記録へ、記録からあなたへ。


もはや、誰のものでもない。

見ている者のものだ。


画面のどこかで、数字が点滅する。


00:00:12。


まばたき一回分の宇宙。

その間だけ、世界は完全にあなたのものになる。


そして、あなたが目を閉じるたび――物語は、最初の部屋へ帰る。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


『REFLECTOR: Prototype』は、《REFLECTOR》シリーズ全体の“始まり”にあたる物語です。


この物語で描かれた研究者たちの葛藤や実験は、のちに続く『前の住人』『水槽の中にいるのは』『被験体ログ#07』などへと繋がり、やがて「観察すること」そのものが世界を変えていく連鎖を生み出します。


本作で描きたかったのは、「発明」と「喪失」が常に表裏であるということ。


誰かを救おうとした行為が、別の誰かを壊してしまう。


理解を求めるほど、理解の外側に取り残される――。


科学も愛も、観察も同じ構造の上にあります。


この“Prototype”は、単なる前日譚ではなく、「なぜREFLECTORは生まれたのか」を解くための最初の鍵であり、すべての物語の始まりにして、終わりでもある作品です。


そして、ページを閉じた今、あなたの中に残った“誰かの記録”こそが、次の観察の証です。


それを受け取ってくれたあなたに、心から感謝を。

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