第3章「被験体#00」
―― 愛と観察の崩壊 ――
「私が見る番よ。」
ユミの声は、静かだった。
淡い光に包まれた実験室の中央、水槽の前で彼女は微笑んでいた。
白衣の下の指がかすかに震えているのを、久保は見逃さなかった。
「やめましょう。」
久保は思わず声を上げた。
「あなたを被験体にするなんて、理論を越えている。」
「理論のためじゃないの。」
ユミはガラス越しに、青く光る装置を見つめた。
「彼が、もう一度“見る”ためよ。」
隣の制御卓で、高槻は黙ったままスイッチを調整していた。
その横顔には、わずかな迷いもなかった。
久保が近づき、低い声で囁く。
「あなた、正気ですか? 彼女はあなたの――」
「だからこそ、です。」
高槻は一言だけそう言った。
「愛しているから、観察する。」
久保は息を呑んだ。
それは彼自身がかつて、娘を救うために唱えた言葉と同じ響きを持っていた。
愛は観察を生み、観察は世界を変える。
だが、その代償を、彼は知っている。
◆
記録映像が回り始めた。
時刻、23時58分。
観察暦O.C.-5/実験コード:EXPERIMENT_#00。
ユミが水槽内の椅子に腰を下ろす。
透明な液体が彼女の足首を包む。
久保の心臓が速くなる。
“ぴちゃん”――小さな音が響く。
それは装置の起動音でもあり、観察の合図でもあった。
高槻がマイクに向かって言う。
「ユミ、聞こえるか?」
「ええ。」
彼女は笑った。
「あなたの視線、ちゃんと感じてる。」
久保は思わず目を逸らした。
その瞬間、モニター上の波形が乱れた。
高槻の声が冷たく響く。
「久保先生、視線を戻してください。観察者の数が変わるとデータが不安定になります。」
「人間の感情までデータ化するつもりですか。」
「感情もまた波です。観察を乱すノイズです。」
久保はそれ以上言わなかった。
ユミの姿が、水槽越しにかすんで見える。
青い光が彼女の髪を照らし、ガラスに反射して揺らめいた。
その反射の中に、もうひとつの顔が映る。
久保は目を凝らした。
――それは、誰の顔でもなかった。
◆
装置が臨界値に近づく。
観察波の交差点に、微弱な“干渉パターン”が現れる。
高槻は息を呑む。
「きた……!」
モニター上で、ユミの脳波と装置の波形が完全に重なった。
視線と視線が一致し、反射が循環を始める。
観察と被観察の境界が消える。
久保がメーターを見て叫んだ。
「高槻、止めろ! 同調率が限界を超えてる!」
「あと少しだ……これで“観察の完全循環”が完成する!」
装置が唸り声のような音を発した。
水面が膨張し、液体がガラスの縁から溢れる。
ユミの姿が一瞬、揺らいだ。
彼女はガラス越しに高槻を見つめていた。
その目は――愛情でも、恐怖でもなく、無音の理解に満ちていた。
「タカツキ……。」
唇が動いた。
だが、音は届かない。
モニターの波形が跳ね上がり、装置の照明が明滅する。
水槽の中で、彼女の身体が光に包まれた。
久保は走った。
「ユミ! 離れろ!」
だが、間に合わなかった。
光が閃き、すべての音が消えた。
◆
……静寂。
計器の針が止まり、時計の秒針が12秒遅延した。
液面は穏やかに波打ち、ユミの姿は消えていた。
水槽の奥には、淡い残光だけが残る。
高槻は茫然と立ち尽くしていた。
「成功だ……完全同調が……。」
「彼女はどこだ!」
久保が肩を掴む。
「返せ、高槻! 彼女は――!」
その瞬間、装置のモニターが点滅した。
映像が再生される。
ユミの顔。
笑っている。
だが、その表情はゆっくりと反転した。
まるで鏡の中で、誰か別のものが彼女を演じているように。
「……タカツキ?」
モニターの中で、ユミが囁いた。
だが声は反転していた。
録音の再生ではない。
“装置そのものが喋っている”――そう思えた。
高槻は膝をついた。
「……君、なのか?」
久保は制御卓に駆け寄り、電源を落とそうとする。
そのとき、画面上に文字が浮かび上がった。
> OBSERVER_SYNC : 100.0%
> REFLECTIVE_CORE ONLINE
> IDENTITY : UNKNOWN
> TIME : 00:00:12
「……観察が……続いている。」
久保の声が震える。
モニターの中のユミが、こちらを見た。
いや、“見返した”。
その視線に、久保は本能的な恐怖を覚えた。
装置は観察を完了していない。
観察が反転している。
水面が突然、静止した。
そして、再び“ぴちゃん”という音が響く。
誰も触れていない。
液体が、誰かの涙のように揺れた。
「止めろ! 観察を中断しろ!」
久保が叫ぶ。
だが高槻は立ち上がらなかった。
彼の目は、もう画面から離れない。
「彼女は、ここにいる……。見ているんだ、僕を……。」
久保は電源コードを引き抜いた。
光が一瞬だけ爆ぜ、闇が戻る。
静寂。
高槻はその場に崩れ落ちた。
◆
翌朝、研究所の全端末に一つのログが残っていた。
> [System Log #00]
> OBSERVATION TERMINATED
> SUBJECT : #00
> RESULT : SIGNAL REMAINS
> STATUS : OBSERVATION LOOP
久保は記録を読み、絶句した。
“信号は残留”――つまり、ユミの意識データは装置内に存在し続けている。
観察の終わらない世界の中で。
彼は手帳に短く書き残した。
> 「愛とは、最も残酷な観察行為である。」
ペン先からインクが滲み、紙の上に丸い染みを作る。
それは、まるで静かに広がる水紋のようだった。
◆
夜、久保は研究室に戻った。
すべての照明が落ちている。
ただ一つ、モニターだけが微かに光っていた。
近づくと、そこには“波形”が映っている。
誰も起動していないはずの装置が、わずかに動いている。
音がした。
“ぴちゃん”。
液体の跳ねる音。
久保の喉が鳴る。
画面の中で、何かが形を取り始めた。
女性の輪郭。
ユミだ。
だがその瞳の奥には、見知らぬ光が宿っていた。
「あなたは――」
言葉を続ける前に、映像が乱れた。
ノイズの中で、ユミの声が聞こえた。
それは確かに、彼女の声だった。
しかし、同時に装置の声でもあった。
> 「見て、ください。」
久保の目に涙が浮かんだ。
「……もう、見ているよ。」
> 「もっと……。」
画面が白く光り、記録が途切れた。
時刻表示:00:00:12。
――同じ12秒が、また刻まれていた。
◆
翌日。
高槻は研究所の中央制御室に立ち、封鎖命令を出した。
「この実験は中止です。」
声は震えていなかった。
だが、その手にはユミの指輪が握られていた。
久保は黙って頷いた。
そして、ただ一言だけ残した。
> 「観察は、愛を超えた。
> 次に装置が見るのは、私たち自身だ。」
その夜、研究室の水槽は完全に封印された。
だが、夜明け前。
監視カメラの記録には、誰もいない部屋で、微かな“水音”が記録されていた。
“ぴちゃん”――
その音を最後に、実験記録#00は終了した。
> “被験体#00は消失した。だが観察は続く。
> 観察は、愛よりも長く生きる。”
> — 久保泰志『観察日誌 第37項』




