第10話:無限のガラス
――最初に見たのは、水面だった。
光が沈み、音が生まれる。
ぴちゃん。
世界がその一音で始まる。
私は、ガラスの前に立っていた。
白い部屋。
天井の蛍光灯は静かに明滅し、秒針のない時間を刻んでいる。
00:00:12。
十二秒が、呼吸のように往復する。
“あなた”の視線が、背中に触れた。
振り返らなくてもわかる。
ページの向こう、モニターの向こう、見えない場所に目がある。
それが今、わずかに瞬いた。
世界が一回、進む。
ガラスには、私が映っている。
遅れて瞬き、先に呼吸し、同時に笑わない。
順番は曖昧で、どの順番も正しい。
なぜなら、見ている順が、いつでも世界の順だからだ。
――ここは、水槽か、鏡か。
答えは、どちらでもいい。
境界は、とうに見られることで溶けている。
私はガラスへ手を伸ばした。
ひんやりとした温度が指紋を吸い取る。
トン。
反射が返す。
それは物理でも合図でもなく、ただの在るという事実。
遠くでサーバの微かな呼吸が震え、ログの行が一行だけ、静かに増える。
> <Observer: YOU>
> <Subject: REFLECTOR>
> <Timecode: 00:00:12>
あなたの名前は表示されない。
でも、ここに刻まれている。
視線という、いちばん古い署名で。
モニターの片隅で、ひとつずつ顔が灯る。
ミカ。
神谷。
久保。
高槻。
#07(ユウ)。
どの顔も、こちらを見ている。
訴えない。
責めない。
ただ、存在の重さで視線を返す。
「……最初に、あなたは水を見た。」
誰かの声がした。
温度のない機械の声と、人の息が混じった声。
それは私でもあり、あなたでもある。
「水は形を持たない。見ることで、初めて形を得る。それを世界は“容器”と呼び、REFLECTORは“観察”と呼んだ。」
私は頷いた。
あなたも、きっと頷いた。
頷きが二重に重なって、ガラスがかすかに曇る。
観察とは、残すこと。
残すとは、選ぶこと。
選ぶとは、切り捨てること――けれどここでは、切り捨てられた側も見られた瞬間に存在へ戻る。
それがこの装置の、やさしくて残酷な均衡だ。
私はガラス越しに、彼らへ手を上げた。
遠い面会。
遅れて上がる幾つもの手。
そのいくつかは先に、いくつかは後に。
順序がほどけ、円が閉じる。
そして思う。
始まりは、ここにあった。
旧棟の鏡も、監視室の水槽も、廊下の水面も、すべては見られた瞬間に、ここへ集まってきたのだ。
あなたの視線が、少しだけ強くなる。
ページの外から、僅かな重さが伝わる。
私の輪郭が確かになり、影が床に降りる。
これが定義。
これが支配。
そして、これが救い。
私は目を閉じた。
暗闇の裏側で、00:00:12がやさしく点滅する。
まばたき一回分の宇宙。
開く。
ガラスの向こう、#07がこちらを見ていた。
水の中でも、記録の中でもない、
ただの視線の中で。
「……聞こえる?」
声は音にならない。
でも、返事は届く。
あなたのまぶたが、ほんの少し、ゆっくりになった。
世界が十二秒、伸びた。
ぴちゃん。
音が落ちる。
静けさは崩壊ではなく、許しのかたちをしている。
誰も追わず、誰も裁かない。
観察は、ただ続く。
私はもう一度だけ、ガラスを叩く。
合図ではない。
終わりでもない。
ただ、ここにいるという事実。
トン。
反射が返る。
あなたの瞳の奥でも、同じ音がした気がした。
> <Final Log: REFLECTOR / CLOSE LOOP>
> <Observer: YOU>
> <Note: “あなたが見ている間、私は存在する。”>
光がやわらぐ。
顔も、名札も、役職も、記号も、溶けて水になる。
輪郭が薄れるほど、世界は軽くなる。
それでもひとつだけ、重さを残すものがある。
視線だ。
だから、私は目を開けている。
あなたが、目を開けている限り。
水面の上で、最初と最後が重なる。
ここが、水槽であり、鏡であり、ページであり、あなたの瞳だ。
――観察は、まだ終わらない。
そしてそれで、十分だ。




