2、出会い
異界からやってきたトウコの命は雨そぼ降る路地裏で風前の灯だった。
「貴様、そこで何をしている」
都市郊外では物乞いも珍しくなかった。警察隊の目の届かない薄暗がりから伸びる手。よく見れば上着の片腕が熟れた柿のようにしぼんでいることや、その胸元に陸軍胸章が鈍く光っていることも珍しくはなかった。
物乞いのなかでは女子供の稼ぎがよいというのも常識で、倫理観の欠落した終戦直後には、組織的な物乞いさえあったという。
妹の墓標を見た後でなければ、わたしがトウコに声をかけることもなかっただろう。
「聞こえないのか。貴様、そこで何をしている」わたしは繰り返した。
トウコはゆっくりとわたしに視線を向けた。そのときわたしは、彼女の装いに気づいた。絹のような袖の短い上衣に控えめな色彩の白のスカート。雨風にさらされたそれは一見みすぼらしいが、上物に間違いなかった。
貴族の親族か、あるいは中央教会の官僚の娘か。
いずれにしても、この状況が解せないことに変わりはなかった。
「・・・――・・・」
トウコが何かをつぶやいた。
「貴様、言葉が通じないのか」
わたしは濡れた髪がはりついた顔をのぞきこんだ。我が国の顔立ちではなかった。かといって敵国である帝国兵との顔つきともちがった。
「どこの人間だ。ここで何をしている」
「・・・―――・・・」
トウコはまた何かを言った。同じフレーズの繰り返し。
言葉の意味は判じかねたが、彼女の命の灯が消えようとしているのはわかった。そして、彼女がそれに抵抗する意志がないということも。
わたしはその場を後にすることにした。妹の葬儀のあとで、生きる意志のない人間を見るのははっきり言って不快だったからだ。
しかし、そのときわたしは気づいた。
「貴様、脚が・・・」
彼女の脚には明らかな異常が見られた。
折れている?いや、違う。もっと根本的な問題な気がする。士官学校で得た乏しい医学知識を掘り起こすが、素人に対処できるものではない。
「―――・・・」
トウコは脚を動かそうとした、ように見えた。しかし、糸の切れた人形のように動かない。トウコはあきらめの表情を浮かべ、わたしは彼女が生存を放棄した理由を知った。
「貴様、死にたいか」
とわたし。生きたいか、と訊かなかったことに深い意味はない。
「・・・―――」
トウコは何かを口走った。むろん、言葉は通じないので何を口にしたのかは、わたしと彼女のあいだで意味はない。
ただ彼女は、生をあきらめたような表情の刹那、すがるような眼をした。ほおを伝うのが涙なのか雨なのかはわからなかった。
わたしが考えていたのは、妹は、ミーティアは末期にどんな表情を浮かべたのだろう、ということだった。
すでに御察しかと思うが、このときのわたしはひどく感傷的だった。わたしがトウコを連れ帰ったのは、そうしたわたしの気持ちと無関係ではなかっただろう。彼女がわたしの家に居を得たのが、この物語の始まりだ。
「絶対安静、これにつきますな」
もろもろの処置を終えた老医師は、道具を片付けながらわたしに言った。
わたしの家に運びこまれた彼女は、使われていなかった一室のベッドで訪問医の治療を受けていた。
「体力の消耗が激しすぎます。戦時中はこういった患者もよく見かけましたが、今時めずらしいですな。この娘はどこで何をしていたのです、クラヴィス大尉」
「わかりません」わたしはそう言わざるをえなかった。「足のほうはどうです」
「わかりませんな」老医師は言った。「決してあなたの真似をして揚げ足を取っているわけではありませんよ。本当にわからないのです。目立った外傷はなし。触診をしてみましたが、骨折や脱臼ではありません。考えられるとすれば神経系の損傷ですが、こうなるとわたしのような一介の町医者にはどうにも・・・」
「そうですか」
わたしはベッドのうえの娘に目をやった。小康状態に落ち着いたのか、小さな寝息を立てて眠っている。明るい場所でみると整った顔立ちをしていた。
「必要ならば紹介状をしたためますが」
「いや、それはけっこう」わたしは言った。「それよりも、この娘についてわかっていることを教えてほしい」
「といいますと?」
老医師は首をかしげた。
「性別、年齢、出身地、職業・・・わかったことは何でも、だ。とにかくこの娘の素性が知りたい」
「わたしは探偵ではありませんよ」老医師は苦笑した。「性別は見てのとおり女性。年齢はおおよそ二十代前半。出身は・・・この国の人間ではないでしょうな。長いこと医者をしていますが、こんな顔つきの患者は見たことがない。このあたりは軍人であるクラヴィス大尉のほうがお詳しいのでは?」
「帝国の人間ではないな」
「では共和国か中立同盟の人間ですか?」
わたしは答えなかった。
老医師は残りの道具を手早くまとめると、
「まあ、わたしに分かることはこのくらいですな。なんにせよ、しばらくは栄養剤で様子を見ながら体力の回復を待って、本人から話を聞けばよろしいでしょう。言葉が通じないということですが、コンタクトを取る手段は何も言葉ばかりではありませんから」
ではこれで、と老医師は去っていった。
それからわたしは、彼女の看病をして一日を過ごすようになった。
幸い、陸軍本部からの出頭命令はなかった。事情を知っているラングレー大佐のはからいかもしれない。
ただ、わたしとしてはどちらでもよかった。思考を止めて打ち込めるものがあれば、それが戦場か自宅かは問わない。
彼女の体調は劇的ではなくとも着実に回復していった。
翌々日に彼女は目を覚ました。口を動かすのが難しいようだったので、事情聴取はなしで栄養剤の投与のみでその日は終わった。
さらにその翌日、彼女はスープのような流動食を食べられるようになった。周囲の状況を目でうかがうようなしぐさを見せたので、会話を試みてみたが、反応はなかった。
次の日、短時間であれば上体を起こせるようになった。ここにきてわれわれは、初めて意思疎通らしい意思疎通がはかれるようになった。
わたしが自分を指さして「クラヴィス」と名乗ると、彼女も「クノサキ トウコ」と名乗った。
しかし、それ以上の言葉によるコミュニケーションが難しいので、いくつか絵を見せてみた。
パターン1、四つの国旗。第二帝国、中立同盟ソアラ、楊民主共和国、そして我が国神聖国ライカンベル。
自分の故郷を指させ、ということである。彼女はその意図をくんでくれたようだった。しばらく四つの国旗を見比べていたが、無言で首を振った。
パターン2、四つの言語。先ほどみせた四つの国家の公用語でつづられた文字を見せてみた。意味はどれも共通して「これが分かるか」
彼女は即座に首を振った。どうやら、さきほどの四つの国旗と関連があることを見抜いたらしい。該当なし、と素早く判断した。
「ふむ」
わたしは考えた。どうやらこの娘は頭の回転が速いらしい。戦勝パーティーで見かけるような世間知らずの令嬢とは違うらしい。
病み上がりの彼女の体力を鑑みて、その日の聴取はそこで打ち切りとなった。
翌日。わたしはまた複数の絵による意思疎通を試みようとした。すると、驚くべきことに彼女は右手を上げて何かジェスチャーをしてみせた。何かを握るような・・・
「ペンがほしいのか」
手近にあったペンと便箋を手渡す。ペンは速記用の黒色と書類添削用の朱色である。
彼女は便箋に大きな四角とそのなかにまるを一つ描いた。そしてまるを朱色で塗りつぶし、わたしに見せた。
わたしは驚いた。
「今度はわたしが試されているわけか」
おそらく国旗だろうが、そんなシンプルな国旗には心当たりがなかった。
彼女はたいして残念そうには見えなかった。そうだと思った、というように。しかし未練はあったらしく、便箋のすみにわたしの知らない言葉を書いて見せてきた。
わたしは無言で首を振る。
するとトウコはもう一枚便箋を要求した。わたしが手渡すと、手早く描写をすませてわたしに見せる。
「これは・・・」
先ほど彼女が描いた朱色のまるの国旗と、わが国の国旗。そのあいだには矢印。
「移動してきた?」
わたしが矢印をなぞると、トウコはうなずいた。
「しかし、どうして我が国の国旗がこれだとわかった」
わたしはそう問いかけ、四つの国旗を再び見せた。すると、トウコは無言で自分の胸を指さした。わたしが眉をひそめると、続けてわたしの胸元を。
「なるほど」
わたしの胸章を見たのか。日頃から軍服を着用していたことが思わぬところで功を奏した。
しかしこの娘、よく見ている。
この調子なら、もう少し詳しいことが分かるかもしれない。わたしは自室に戻って世界地図をもってきた。
「貴様の国はどこだ」
しかし、トウコは世界地図を見るなりまた首を振った。
「どういうことだ。貴様の国はどこだ」
指さしのジェスチャーをしてみるが、トウコは首を振るばかりだった。そして、さきほどの矢印を描いた図に、一つの斜線を勢いよく引いた。
「断絶・・・?」
その描写の意味は、わたしには掴みかねた。トウコも伝達をあきらめたのか、くしゃくしゃと便箋を丸めてしまった。
これが言葉の壁の限界か、とわたしはあきらめかけた。するとトウコは、手近にあったランプを指さしてわざとらしく首をかしげてみせた。
「なんだ。それはただのランプだ」
「・・・?」
「ランプ」
トウコはうなずいた。そして次は、カーテンを指さした。
「カーテン」
とわたしは答えた。
どうやらトウコのほうは意思疎通をあきらめたわけではないらしい。むしろ、これ以上ないいばらの道として、わが国の言葉を一から覚えることにしたらしい。
途方もないが、確実な方法と言える。
つくづく賢いというか、状況の飲み込みがはやい娘だ。そして、見知らぬ国、見知らぬ相手に対して一切物怖じする様子がない。わたしと出会ったときは、よほど衰弱していたということだろうか。
それ以降、トウコとわたしはひたすらクイズでもするように、部屋にあるものをひたすら問うては挙げてを繰り返していった。