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ふゆ

 濃い茶色と薄い茶色とクリーム色からできている犬のぬいぐるみを、貰ったのは夏のはじめだったので、ふゆ、と名づけた。

「ひねくれてる」

「そんなことないよ」

 運転席側の窓ガラス、クーラーを冷えるほど効かせていたのに全開にして外のなまぬるい空気がわたし達の間で混ざり合うのを感じている。広いけれど横一列にしか車が停められない駐車場で、彼はドア一枚隔てた外側でわたしを見下ろしていた。

「素直な奴がそんな名前つけるかよ」

「じゃあ他にどんな名前にしろっていうのよ」

「なつ、とか」

「安直、それならまだ、いぬ、ってつけた方がマシ」

 いろいろ言うけれどもうわたしの中では完全に、ふゆ、と名前がついてしまった濃い茶色と薄い茶色とクリーム色からできている犬のぬいぐるみは、剥き出しの両腕――半袖のシャツは二の腕が丸出しになる短いやつだった――にすっぽりと抱かれている。ありがとね、と思い出したように言ってみたら、あんまりありがたくなさそうだな、と彼が笑った。

 わたしは彼が好きだ。隙間なく日焼けした健康そのものの肌だとか、傍に寄った時の雰囲気だとか、少しぶっきらぼうな物言いだとか、いつも怒ったライオンみたいな顔をしているくせに時々無邪気に笑う時があって、そうすると途端にふにゃふにゃの小猫的な顔になってしまうところだとかが。だけれど男の人に、好き、という気持ちを悟られるのはあまり好きじゃないので、どうしても無愛想に接してしまう、あまり可愛くない事も言ってしまったりする。

「ま、こんなに暑い時に、なつ、って名前じゃ可哀想か」

 外側の世界から手を伸ばして、彼はわたしのものになりたての犬の頭を撫でた。一瞬、胸を触られるかと思って驚く、もちろんそんなことがある訳がないのに。

 昨日、恋人と別れた。

 別に今ここにいる彼が好きだからとか、そういった理由ではない。

 真面目で声のやわらかい、静かな男だった。わたしのことをちゃんと好きで、ご飯を食べに行けば必ず奢るかわたしよりも多めに金を払い、人前でもちゃんと手を繋いでくれて、電話もメールも多すぎず少なすぎずわたしを不安にさせない、それでいてうっとおしがらせもしない常識をわきまえていて、いつでも適確な事を適切に言うことができる人で。わたしは恋人が大好きだったし、その顔も性格も愛していたと思うのだけれど、何故か別れたいと一度だけ思ってしまった瞬間があって、それが胸に小さな穴を空けたことを大して気にも留めず放っておいたら、ある日突然その穴が自分自身を飲み込んでしまえるほど大きくなっていた事にいきなり気付いて愕然とした。

 別れましょうよ、と告げたわたしに、恋人は静かな声で、なぜ、とだけ聞き返した。それはわたしの言葉を知っていたような、待っていたような、それでいて本気で驚いているような、理解しかねているような、不思議な重みと奥行きの響きを持っていた。

 昨日の満月はひどく大きくて、わたしも恋人もどこか首を傾げながら、もしかしたらこれは何かの間違いで明日になれば普通に電話もメールも交換する、時々は好きだとか愛してるだとか言い合って気持ちの良いキスとセックスをする関係に戻るのではないかと思ったりしながら別れた。けれども今日、恋人からの連絡はないままなので、きっとちゃんとわたし達は別れられたのだろう。安堵も寂しさも辛さも解放感も、今のところ何もない。言い出したのは自分からなのに、わたしは恋人を失ったことがまだ上手に把握できていないようだ。

「あ、その曲」

「――うん?」

「お前、カラオケでよく歌ってるよな」

 カーステレオで繰り返されているCDは甘えた女性ボーカルの歌で、確かに彼の前で二度ほど歌ったことがある曲だ。彼は飲み友達で、飲みに行った帰りに何度か他の仲間も一緒にカラオケボックスへなだれ込んだ事がある。何人かは純粋にお酒を飲むのが目的で、そしてわたしを含めた何人かは純粋に歌うことが目的だった。そういえば今日はどうして彼とふたりでいるのだろう、とぼんやり考える。濃い茶色と薄い茶色とクリーム色の犬を抱いて、そうだ、と思い出す。ひとりで夜のドライブに出ていたら電話がかかってきたのだ、それであげたいものがあるから暇なら出てくれば、と言われて出てきたのだ。ついさっきのことなのに、遠い昔の話に思えた、それこそ昨日の別れ話の方がまだ身近にあった。

「あのね、昨日、恋人と別れたの」

「――は? なんだそれ、」

 少しの間の後で彼が驚いた声を出す。きっと多少の動揺は混じっていたと思う、当事者でもないのに、とわたしはおかしくなって、笑う。

「なんでまた」

「えっと、」

 なんでまた、の理由が話せれば楽なのだけれど、わたしにはよく分からない。

「いち、他の女に遊びとはいえ手を出した。に、キスもしないでセックスしようとする許せない男だった。さん、生理中は妊娠しないんだろってそういう時ばっかわたしを抱きたがる男だった」

 おいおい下ネタかよ、と彼が笑う、それらは全部当たり前のように嘘だったけれど、わたしも笑うだけにしておいた。

 恋人は浮気をしたことなど一度もない、わたしだけを真っすぐに好きだった、それは自惚れでもなんでもなく、ただの真実としてそこにあった。キスが好き、と自負しているわたしよりももっと丁寧に恋人はくちづけへと取り組んだ、額に、頬に、鼻先に、瞼に、唇に、首筋に、恋人の穏やかな唇が降り注がれなかった事は一度もない、セックスの最中にだって恋人はわたしの腕に、胸に、そしてきちんと唇に、キスをくれた。生理中のわたしが不機嫌さを身に纏っていることを除いても、彼はその時期のわたしを抱こうとはしなかった。時折暖めるように背中から抱き締めてくれることはあっても、服を脱がせようとしたり手を忍び込ませたりするようなことはけしてなく。

「よん、俺が好きだから」

「――え、」

 するり、と手が伸びてきてわたしの、ふゆ、が取り上げられてしまう。鼻が強調されたそのぬいぐるみのまさにその部分へ唇を押し付けて、彼がどこか艶っぽく微笑む。

「なんて、嘘。――おいおい、冗談だよ、なんでそんな顔してんだよ、まさか図星か?」

 変な沈黙の後で慌ててわたしは言う、自惚れないでよ、と怒ったような笑い声を立てる。それはない、彼を今わたしが好きだとしても、それと恋人との別れは少しも関係がないのだ、それだけは確信して言える、絶対に違う、それらは別々の、遠く離れた惑星同士の話くらい関係がない。

「自惚れないで」

「はい、すんません」

 恋人だったら、と思って、わたしはもうあの人が自分の恋人ではなかったことを思い出す。それでも面倒なので、恋人、のままで思い出すことにした。あの人ならもっと丁寧な言葉遣いでわたしに言うだろう。自惚れないで、と放たれたわたしの言葉に、恋人だったらきっと真っ直ぐに目を見て真面目な顔で、ごめんね、と言うはずだ。ごめんね、そうだね、自惚れていたかもしれない、と。

「ああ、」

 あの真面目さがわたし達の間を少しずつ侵蝕してゆき、そして腐蝕させてしまったのではないかと勝手に思ってみた、それは多分間違いなのだろうけどどこかしらほんの少しだけは、正しいのかもしれなくてわたしは哀しくなる。

 その真面目さを愛していた日々が、確かにあったはずなのに。

「なにが『ああ』?」

「うん、ちょっと納得したことがあって」

「なに?」

「ううん、いいの」

 手を伸ばす、わたしは、ふゆ、を取り返す。そんなに力の入っていなかった彼の手から、犬は静かに大人しく奪還された。

「いいの、」

 もう一度繰り返すと彼は腑に落ちない顔をした。わたしは彼が先ほど唇を押し付けた犬の鼻へ、真似て自分も唇を近づける。

「間接、キス」

「うわ、なんかやらしいな」

 同感だったのでわたしは笑った。どうして実際に唇を重ねるキスよりも、間接的なくちづけの方が背徳めいた淫靡さを想像させるのだろう、どこかいけない行為のような、どこか責められたいと思っているような。

「わたし、昨日恋人と別れたの」

「うん、聞いた」

「でもそれとは全然関係なくて、わたしはあなたが好きよ」

 さらりと言ったので途中まで相手もさらりとした顔をしていたのだけれど、わたしの言葉が完全に耳へ収まった後でいきなり混乱したらしい。ええ、と音程の外れた声を出してこちらをまっすぐに見たまま固まってしまった。

「えっと、」

「恋人と別れたのは全然あなたとは関係のないことだから、気にしないで」

「気にしないでって、言われても、」

「ふゆ、ありがと」

「ああ、うん」

 男の人は慌てると子供に戻ってしまう。焦ると、ただの名もない、男の子、になってしまう。そんな彼を笑って、わたしは自分の中にゆっくりと、恋人と別れてしまったことを実感しはじめた。あの手はもう握れない、あの唇が知らない誰かのものになってしまっても、わたしはもう文句を言うことができない、あの瞳が誰を見ても、あの耳が誰の声だけに傾けられても、あの人が誰を抱き締めても、もうわたしには関係がない。人と別れるということはそういうことだ、相手が自分の中では死んでしまうのと、きっと同じなのだ。

 満月を一日過ぎただけの夜なのに、空気はコーヒーゼリーのようだった。湿度が高いのか、微妙に不透明でよそよそしい空気。

 わたしは恋人を失ったのだ、そういう関係から解放されたと同時に生活のごく当たり前に手に入っていたもの――たとえば金曜の夜に行くスプモーニが美味しいお店、その隣に必ずいてくれたはずの恋人――も消滅してしまった。

「別に、わたしのことを好きになってくれなくても良いよ」

「なんだその自惚れは」

 彼が今度は笑う番だった、わたしもつられて唇の端を持ち上げる。

「失恋記念と犬獲得記念で飲みに行くか」

「わたしは振られた訳じゃないし、犬だって欲しくて堪らなくて貰った訳じゃないわ」

「あんまし可愛くないことを言う女は駄目です」

 可愛くないことを言う女は嫌われるよ、だとか、男受け悪いよ、ではなく、駄目です、などと言われてしまったのできょとんとする。

「ま、口実があればなんだっていいんだよ、飲みに行くか、なんならこいつの名づけ記念日としてでもいいぞ」

 こいつ、と彼は、ふゆ、を指差して言った。告白記念日でもいい、と小さな声で付け足されたけれど、わたしは聞えなかった振りをする。

 恋人はこの夜にひとりで眠っているのだろうか、と考えると胸が痛んだ。自分でしてしまった仕打ちだというのに。恋人の携帯電話に、まだわたしのメモリは残されているだろうか、胸の内にわたしがまだ住んでいるだろうか、プレゼントしたネクタイは、お揃いで買ったカップは、わたしが置いてきたワイングラスは。こうやって恋人のことを想うのは今夜で終わりにしようと、わたしは無茶なことを考えた。それは絶対に無理なのだと分かっていたけれど、決心が揺らがないように、わたしはただただ、ふゆ、を強く抱き締めた、そんなわたしをどことなしに楽しそうに彼が眺めて、さて飲みに行きましょうか、と作ったようなやわらかい声を出した。

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