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嵐が丘の娘  作者: ON
1章 〈嵐が丘〉からの逃走
2/13

2.ヘンジ―

 メイベルは黒い頭巾で白い髪を隠し、色褪せたシャツに着古した茶色いベスト、薄墨色のスカートを身につけていた。肩には、麻の袋を提げるだけにした。国の地図と数枚の金貨のほかには何も入っていない。


 アデイラは孫娘の身を整えてやったあと、自分はしばらくここに残って、家にまじないをかけてから発つと言った。心配だから見届けるとメイベルは何度も言ったが、アデイラは首を縦に振らなかった。


「古いまじないでしょう。効くかどうかもわからないものに時間をかけたってしょうがないわよ」


 メイベルはそう主張したが、アデイラは揺らがなかった。


「まじないは信じるから効くんだよ。祈ってから丘を降りなさい」


 メイベルは大人しく言うことを聞くことにした。

 ふたりは家をでて玄関の前に立つと、鍵を閉めた。


(悪い人が、絶対にここに立ち入ることがありませんように)


 メイベルは素早く目をとじると、心の中で祈った。生まれてからずっと暮らしてきた場所で、祖母との思い出も数え切れないほどある、大切な家だ。知らない者に、ぶしつけに入ってきてほしくなかった。


 アデイラは玄関の前で目をとじると、軽くうつむいて何かを唱えはじめた。アデイラはときどき、よくないことがあったときや、何かを祈るとき、古い言葉を唱えた。唱えたらといって何かがあるわけではない、古い習慣だとメイベルは思っていたが、祖母はこの言葉を大事にしているようだった。


「さあ、行きなさい」


アデイラは背中を押すように言った。


「いいね? おまえはもうあれこれ言われる前に動ける年だ。しっかり、考えなさい」


 アデイラの翡翠の瞳が、メイベルの瞳と合わさる。それだけで言葉以上のものを感じとって、メイベルの胸はいっぱいになった。


「わかった。しっかりやる」


 メイベルは祖母に背を向けた。しばらく、唱える声が途切れて、メイベルを見送っているのがわかった。丘の小道をくだっていく。振り返ってはいけない気がして、メイベルはゆるやかにくだり続ける細道を、たしかに歩いていった。


 丘を降りると、そこからは小さな森が広がっている。森といっても、少し歩けば平地に出る、トウヒの木の小さな群生だ。そのふもとの森にさしかかったとき、メイベルは妙な感じがして、後ろを振り返った。ほとんど晴れかかっていた空に、黒い雲がさしかかっているのが見えた。


(あれは……ふつうの雲とちがう)


 雨雲を見慣れたメイベルはすぐにわかった。雲というより、まるでインクを垂れ流したような、影のような黒い覆いだ──直後、足から体の芯を通り頭の先まで、ぞくぞくとした悪寒が突きぬけた。その感覚の衝撃で、メイベルはその場をしばらく動けなかった。


(見つかっている……!)


そう直感し、メイベルは落ち葉を蹴って走りはじめた。わけのわからない恐怖に襲われ、無我夢中で走りつづける。さっきの悪寒を思い出し、あれに近づかれたくないという恐怖が頭を占める。それ以外のことを考えられなかった。あの黒い雲の下に、よくないものの気配がある。姿は見えないが、丘の上で多数の人と馬がうごめいているのが、確信をもって感じられた。


(きっと探し回っているんだわ)


 トウヒの木々に囲まれた薄暗い道をすぐに抜け、広い石畳の道沿いに牧場や畑が広がる平地に出た。祖母と来慣れた、よく知る場所だ。遠くにぽつんと赤い屋根の家が見え、それだけでメイベルはほっとした。メイベルはその時ようやく、不穏な気配が消えているのに気づいた。これはいつものことだったが、トウヒの森を抜けると、空はからっと晴れて太陽が出た。この日も、丘の曇り空が信じられないくらいの穏やかな青空をしていた。


 息を整えるため、辺りを見わたしながら石の敷かれた道を歩く。祖母と来たことはあっても、ひとりでここを歩くのははじめてだった。牛が遠くに一頭見え、赤い屋根の家につながれた犬がメイベルを見て吠えた。人の気配がまったくなく、メイベルはあっというまに心細い状態に逆戻りした。


(ペンターのおじさんの家、どこだったっけ)


 歩いても歩いても草地と牧場が見えるだけで、メイベルは不安になった。ほかの道はないのだから、歩き続けるしかない。しばらく歩いていると、道の真ん中にぼんやりとした人影が見えた。子どもだろうか、背が小さい。逆光で影のようにしか見えず姿がわかりにくかったが、メイベルは人に会えたことが嬉しくて、足早になった。


「ごめんなさい、ペンターさんという人の家を知らない?」


 メイベルは声を張りあげ、手をふりながら近づいた。しかし、不思議なことに、近づくと影は掻き消えてしまい、代わりにそこにいたのは淡い色をしたまるっこいフクロウだった。







 フクロウは道の真ん中に堂々と立って、オレンジ色のまるい目でメイベルをじっと見つめていた。あまりに微動だにせずそこにいるので、メイベルは立ち止まってしまった。


「人とフクロウを見間違えるなんて、相当参っているのね」


 メイベルはフクロウを見ると、ひとりごとをつぶやいた。


「もう昼に近い朝なのに、フクロウがいるのなんてはじめて見た」

「おれだって、心外だよ。ほんとは夜が本領なのにさ。〈嵐が丘〉の娘のせいで昼に働かなくちゃならないんだ。人間ってどうして昼なんかに動くのかなあ」


 メイベルは耳を疑った。見間違いでなければ、フクロウが喋っていた。


「フクロウって喋ったっけ」

「いいや、ふつうは喋らないよ。おれは〈女王〉の眷属だから喋れるだけ」

「そう……」


 メイベルは深く考えないことにした。自分の身の上ですでにいっぱいになっていたからだ。恐ろしい体験をしたあとだったので、フクロウが喋ったことなど、大したことではないように感じられた。それに、聞き捨てならない単語が聞こえた。


「ねえ、いま、〈嵐が丘〉の娘って言った?」

「言ったよ。あ、そうだった。きみには『アデイラは無事だよ』って伝えに来たんだ」


 メイベルは前のめりになった。ずっと心配していたのだ。


「それ、ほんとう?」

「うん。おれの兄が、アデイラについているよ。一緒に山を越えるって」

「うそ、味方ってフクロウのことだったの」


 全然、頼りにならないじゃないの。メイベルの不安は逆戻りした。


「おれたちはただのフクロウじゃないよ」


 フクロウは羽を広げて抗議した。


「〈嵐追い〉の気配が、途中で消えただろう。あれはおれの術で、こちらの姿をくらましたんだ。感謝してくれなくちゃ。おれがいなきゃ、今頃捕まっていたんだからね」

「あなたが?」


 メイベルはフクロウをまじまじと見つめた。


「そうさ。さっきの人影だって、おれの術だよ。メイベル、きみは引っかかったじゃないか」


 メイベルは、名乗りもしないのにこちらの名前を知っているのを見て、信じていいかもしれないと思いはじめた。確かめるようにもう一度きく。


「あなたは〈嵐が丘〉の娘の味方をしてくれるの?」

「うん。正確には〈女王〉というひとに味方しろって言われているんだ。きみについていくよ」


 メイベルは嬉しさと安堵が身体中に広がっていくのを感じた。追われる身でもあるし、見慣れぬ土地をひとりで行くのは怖かったのだ。ひとりでなくなるだけで、救われるような心地だった。


「ありがとう、フクロウさん」

「どういたしまして、メイベル。ところで、おれの名前はヘンジーというんだけどね」




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