第三十一話:空を裂く刃
アランとエルは、墓地を離れ、小さな土の道を並んで歩いていた。空は雲ひとつない快晴で、旅立ちにはこれ以上ないほどの天気だった。
アランの手には、神父から渡されたエルフ語の辞書がある。慣れない文字と発音に悪戦苦闘しながらも、何度もページをめくっては、声に出して確認していた。
「えーっと……だいぶ、歩いた、けど……大丈夫?」
たどたどしい言葉ながら、真剣な眼差しでエルを気遣う。言葉の壁はあっても、その思いだけは伝わってほしかった。
エルはふと立ち止まり、アランを見上げた。そして、柔らかく微笑んでひとこと
「ダイジョブ」
その短い言葉が、アランの胸をじんわりとあたためた。
エルはそのままゆっくりと歩を進め、見知らぬ草原を見渡した。
どこまでも続く緑の波。空には白い雲が穏やかに流れ、風が優しく髪を揺らしていく。
森や街とは、まるで違う景色だった。あの森の静けさも、木々のざわめきも、ここにはない。だが、それが不安というわけではなかった。
むしろ、心が軽くなるような、そんな感覚だった。
初めての風。初めての匂い。初めての世界。
どれもが新鮮で、どこか心地よかった。
一方で、アランは周囲に妙な違和感を覚えていた。
「……おかしいな。馬車が一台も通ってないなんて」
道には確かに、馬車の轍が残っている。けれど、人の足跡は驚くほど少なかった。まるで馬車だけが、誰にも会わずに通り過ぎたかのようだった。
「静かすぎる……」
アランはつぶやき、耳を澄ませた。だが、鳥の声すら聞こえない。森が近いにもかかわらず、動物の気配がまるでなかった。風の音すら、どこか遠くに感じる。
そのときだった。空が、急に暗くなった。
「……昼だよな? まさか、日が落ちた?」
不意の暗転にアランが顔を上げた瞬間、胸が凍りついた。
大きな影が、空を滑るように飛んでいる。
ワイバーンだ。
「……なんで、こんなところに……!? この辺にはいないはずだろ!」
ワイバーンは咆哮を上げ、空を切り裂くように降下してきた。風圧で木々が揺れ、地面が震えた。あまりの迫力に、エルは腰を抜かして座り込んでしまった。
「エル!」
アランはすぐに駆け寄り、彼女の手を握って叫んだ。
「逃げるぞ!」
先回りするように、巨体が地面に降り立ち、行く手をふさぐ。
「くそっ……速すぎる……!」
息を切らせながら、アランは背に差していた短剣を抜いた。手のひらに汗がにじむ。まともに戦った経験などない。だが、エルが後ろにいる。守らなければならない。
「せめて……エルだけでも逃がす!」
そう思ったその瞬間、空から怒鳴り声が響いた。
「さすがよ、青年!逃げもせず、戦おうとするとはね!」
声の主に目を向けた途端、アランは目を見開いた。
空を駆ける紅い閃光。
それは、赤髪をなびかせながら巨大な両手剣を構える、一人の女性だった。
「うおりゃあああああああ!!」
気迫とともに振るわれた一撃は、ワイバーンの首を一瞬で断ち切った。
断末魔もなく、巨体が崩れ落ち、地面を震わせる。
砂埃の中から、女性が軽やかに着地する。戦い慣れた者の動きだった。
「怪我はない!」
弾けるような笑みでそう言った彼女は、全身に自信と強さをまとっていた。
アランは呆然としながらも頷く。エルはまだ驚いたまま、彼女を見つめていた。
「よし、無事なら何よりよ。だが、油断はしないで。まだワイバーンがいるかもしれないわ。安全な場所まで移動するわよ!」
彼女は剣を背に戻し、くるりと背を向けて言った。
「さあ、ついてきて!」
その言葉に、アランとエルは顔を見合わせた。
状況はつかめていない。名前も知らない。
それでも、あの背中には、不思議な信頼を抱かせる力があった。
「行こう。きっと彼女は……味方だ」
アランがそう言うと、エルもそっと頷いた。