第二十五話:それぞれの準備
青年は朝早く目を覚まし、まだ薄暗い部屋の中で静かに起き上がった。目をこすりながら机の前に座り、神父様に借りたエルフ語の辞書を開く。神父様から預かったエルフ語の本を読み始めてから、少しずつだが言葉の感覚が掴めてきていた。それでも、まだ完全には理解できておらず、単語一つ一つをじっくり確認しながら勉強する毎日が続いている。
「よし、もう少しだ…」
青年は小さな呟きとともに、再びページをめくる。気づけば、外はすっかり明るくなっていた。薄曇りの空から朝の光が差し込み、部屋の中が穏やかな明るさに包まれていた。
その時、部屋の扉の向こうから、香ばしいパンや温かいスープの匂いが漂ってきた。青年の胃袋が反応する。
「朝か…」
青年は勉強を中断し、軽く伸びをしながら部屋を出ると、食堂の方へ向かって歩き出した。
食堂にはシスターが一人、朝食の準備をしている姿が見えた。シスターはいつもと変わらず、活き活きとした笑顔でパンを焼きながら、料理を作っている。
「あら、おはよう、坊や」
シスターは振り返って、にこやかに手を振った。
「ちょうどよかったわ、エルちゃんを起こしてきてくれる?」
青年は少し驚きながらも、すぐに頷いた。
「わかりました」
青年は食堂を出て、エルの寝室へと向かう。ドアの前に立ち、軽くノックをした。
しばらく静かだったが、やがてドアがゆっくりと開かれた。エルが寝間着姿のまま、ぼんやりと顔を出した。金色の髪が乱れていて、目がまだ半分閉じている。寝ぼけた表情をしているが、その美しさには変わりがない。
青年は慌てて言った。
「あ、ごめん!」
エルは驚いた様子で目を大きく開き、少し時間が経つと、ようやく冷静さを取り戻した。寝間着姿で立っていることに恥ずかしさを感じたのか、エルはドアをそっと閉めた。
数秒後、再びドアが開き、今度は修道服に着替えたエルが出てきた。
「おはよう、エル。」
青年は微笑みながら声をかけると、エルは照れ隠しに軽く頭を下げ、青年と一緒に食堂へ向かった。
食堂に到着すると、シスターはニコニコしながら言った。
「あら、エルちゃん起きたのね。ちょうどよかった、坊や、朝食を並べるのを手伝って」
青年は頷き、シスターの指示で料理を並べ始める。エルも手伝おうとするが、青年は彼女の肩に優しく手を置き、「エル、座ってて」と言って椅子に座らせた。
エルは少し驚いたような顔をしたが、うなずき、そのまま椅子に座った。シスターはその様子を見て、微笑みながら料理を並べ続けていた。
食事の準備が整うと、神父様が食堂に入ってきた。彼はゆっくりと歩きながら、みんなに声をかけた。
「おはよう。みんな、朝食前のお祈りをしよう」
みんなが神父様の指示に従い、手を合わせて静かな祈りの時間を過ごした。青年も、エルも、神父様の言葉に合わせてお祈りを捧げた。
その後、食事が始まると、神父様が青年に向かって言った。
「お主には、そのエルフ語の辞書を預けておく。それに、冒険用の装備と旅道具、念のための短剣も後で渡しておくからな」
青年は少し驚きながらも、言いかけた。
「まだ行くとは、言っていな…」
「馬鹿者、エルちゃんを一人にするつもりか!」神父様は少し怒った様子で、青年を見据えた。「お主が行かなくてどうする!」
青年は渋々頷きながらも、「分かりました…」と返事をした。
シスターはさらに続けて言った。
「エルちゃんには、耳が隠せるような冒険用の服と旅の道具を渡しておくわねー。食事の後に着替えを手伝ってあげるわ」
シスターの言葉が分からなかったエルは、少し体を震わせながら、とりあえず頷いた。青年は、昨日エルがシスターに人形みたいに着せ替えられていたのを思い出し、少し気の毒に感じた。
食事が終わり、みんなが食器を片付けているとき、神父様がふと口を開いた。
「お主には先ほど言ったものを後で渡しておくから準備してきなさい。エルちゃんも準備ができたら正面玄関に来なさい。わしは正面玄関で待っているからの」
エルは無言で頷くと、シスターに「さぁ、着替えましょうねー」と手を引かれ、部屋へと連れて行かれた。エルは、少し助けを求めるような目をしていたが、青年は何も言わずに見守った。
その後、青年は自分の心を整理しながら、決意を新たにした。エルのために、そして自分のために、この冒険を引き受けるしかないという思いが、胸の中で確かに強くなっていった。