後編
意識を失ったのち、目覚めた私はアルバートお兄様に呼び出された。
「まったく……お前は何をやっているのだ」
呆れ顔のアルバートお兄様を前にして、私は恥ずかしさのあまり身を縮めた。
今私の目の前には、私とまったく同じ色彩を持つ長兄、アルバートお兄様が座っている。色彩だけではない、少しきつそうに見える目元や、派手な美貌も、私にそっくりだった。
けれど私と違い、お兄様が”意地の悪そうな顔”などと陰口を叩かれることはまったくない。第一王子と王女という差を抜きにしてもだ。それはひとえに、お兄様の清廉な人格が関係しているのだろう。
「あの護衛騎士も可哀想に……王女に抱きつかれ泣かれたあげく、気を失われたのだぞ? 一体何をやったのだと、上司に怒鳴られたそうだ」
……何てことだろう。
過去へ戻った途端、迷惑をかけてしまうとは。前回など、私のせいで彼は殺される羽目になったというのに……。
「あとで謝罪しておけ」
お兄様の言葉に、私は素直に頷いた。
王女から護衛騎士への謝罪。アルバートお兄様はそういうことを当然のように口に出す、尊敬すべきお兄様なのだ。
そして、謝罪を名目としてウィリアムに会いに行った私は、まんまとウィリアムを自分の護衛騎士にすることに成功した。
最初ウィリアムはとても驚いていたけれど、これからは護衛騎士を一人に絞りたい、お兄様の話を聞いてあなたに決めたと言うと、どうにか納得してくれた。
ウィリアムのことをお兄様に聞いたというのは、本当のことだ。
護衛騎士としてのウィリアムのことを聞いた私に対し、お兄様から返って来た答えは私の想像を超えていた。
『誰がお前の護衛騎士を決めたと思っている。ウィリアムは王家が抱える護衛騎士の中でも一番優秀だ』
たった一人で次々と襲いかかって来る追手から私を逃してくれただけあって、ウィリアムはやはり優秀だったらしい。その一番優秀な護衛を好みではないからという理由だけで遠ざけていた以前の私には、もう言葉もない。
そしてウィリアムが褒められていることについにやけてしまった私は、ようやく男を上辺ではなく内面で見るようになったかと、お兄様にからかわれてしまった。
色々な意味でとんでもなく恥ずかしかったが、否定はしなかった。お兄様を味方につけておくためだ。
今回私はジェルミと婚約するつもりはないし、ウィリアムのことを諦めるつもりもない。しかし王女という立場故、いつかは私にも政略による婚約話がもたらされる可能性は、大いにあり得ることだった。
その時、私がウィリアムに恋をしていることをお兄様が知っていれば、きっと昔から私に甘いお兄様なら、断れる話ならば断わってくれる気がしたからだ。
そして、その後のジェルミとの初顔合わせ。
「初めまして、リディエンヌ殿下、プリメラ殿下」
私の目の前には艶めく金色の髪を揺らし、優雅な仕草で挨拶をする男。元婚約者のジェルミがいた。
改めて目にしても、ジェルミはやはり顔の良い男だった。
ただ前回はジェルミの顔にぼうっと見蕩れ胸ときめかせていた私だったが、今回は美しいとは思えど、それ以外の感情は湧いてこなかった。
とりあえず、私がジェルミに恋をしなかったことにより、ジェルミは今回は無事、妹のプリメラと婚約することになった。そしてどうやらこの組み合わせは、お兄様にとっては最善の采配だったらしい。
私とお兄様の母親は正妃だけれど、プリメラの母親は私のお母様の生国にいた時からの侍女であり、側妃だ。そのため、同じ王女であっても後ろ盾という点では私とプリメラにはそれ相応の違いがあった。
どうやらお兄様はジェルミがこの国で権力を持つことを懸念していたようだ。だからこそ、プリメラを婚約者に推したのだと言っていた。だというのに、それを前回は私の我儘で婚約者の座をプリメラから奪うことになってしまったのだ。
プリメラと婚約出来たことに満足したのか、ジェルミには今のところ不審な動きは見られない。だが、これからの行動には気を配る必要がある。
けれど困ったことに、前回、ジェルミが特別不審な動きを見せていた記憶が、私にはないのだ。ジェルミがいつこの国を奪おうと思いついたのか、その理由にも時期にも、まったく思い当たらなかった。
しかも、だ。ジェルミを警戒するにしても何をどう行動すれば良いのかすら、これまで護られる立場の王女として生きて来た私にはまるでわからなかったのだ。
私が思いつく一番簡単な方法は、ジェルミをずっと見張り続けることだ。朝も、昼も、夜も、一日中。それを彼が死ぬまで、ずっと。
けれどそれはなかなかに難しい方法でもある。というより実際には無理だろう。
婚約者ではなくなるのだから、私自身が日がな一日ジェルミを見張るわけにはいかないし、そもそも前回ジェルミの行動に何も気付かなかった私では、今回だって見過ごす恐れがある。
けれど、だからといって誰か他の者に監視を頼むわけにもいかない。私が改めてジェルミの監視を頼む、その理由がないからだ。
実際には私がジェルミを疑う理由はある。
妹と浮気され、父を殺され、兄を殺され、挙句の果てには追手を差し向けられ、私自身も殺されたのだから。けれどそれは、私以外の誰も知らないことだ。
ジェルミは表向きは友好の証として、この国にやって来た人間だ。国からある程度の監視はつくと予想できるが、あからさまに疑うような行動は慎まなければいけないし、そもそも私には個人で動かせる部下だっていない。
お兄様に頼むのが一番安全で道理に適っているのだろうが、そんなことを頼むにはやはり理由が必要となる。
ジェルミはいつかお父様を亡き者とし、お兄様をも弑すのです。
そう言えたらどれほど楽だったか。
前回失踪扱いだったアルバートお兄様が、失踪した時点で殺されていたかどうかはわからない。ジェルミは私に対し、「あなたにもいなくなってていただく」と言っただけだからだ。
ただ、逃げている時の私は一縷の望みに縋ってまだお兄様が生きていると思い込もうとしていたけれど、実際のところその考えは、かなり希望に傾いたものだったのだろう。
なぜなら、アルバートお兄様を生かしておく理由など、当時のジェルミにはなかったのだから。
今回は絶対、お父様のこともお兄様のことも護らなければならない。
けれど時を戻ったことは誰にも言ってはいけないのだ。それを誰かに話したら、時がまた元へと戻ってしまう。
どうしたものかと悩んだ私だったが、結局は私のその心配は杞憂に終わった。
とっくにジェルミの野心に気付いていたお兄様は、プリメラと婚約した後はプリメラの身体が弱いことを理由に、二人をともに田舎の領地に押し込める予定だったらしい。
しかも驚いたことに、ジェルミの父親である隣国の王にもその許可はとってあるのだとか。
ジェルミを可愛がっていると聞いていた隣国の王は、それでもお兄様同様、ジェルミの野心に気付いていたようだ。可愛くはあるが、隣国であるこの国との関係を悪くしようなどとは、毛頭思ってはいないのだと。
ようするに、私が余計な事をしなければ万事うまくいったということなのだろう。
前回ジェルミが秘密裏にお父様を殺し、お兄様を失踪させることができた背景には、私の亡くなったお母様の力が関係している。
前回の私はこの国でもっと力をつけたいというジェルミに頼まれ、お母様の祖国とこの国で出来たお母様の後見に頼み込み、様々な伝手を紹介してもらったのだ。
我ながら本当に、自分の行動には呆れてしまう。
お兄様の思惑にも気付かずジェルミと婚約し、嫌われていることにも気付かずその美貌に逆上せ上り、裏で取っていた行動にもまったく気付かず力を与え、結局最後には用無しとばかりに殺されてしまうのだから。
しかも、ウィリアムを巻き込んで。
けれど、ならば何故、お兄様は前回私の我儘を聞いたのだろうかと、そのことを不思議に思った。最初からジェルミをプリメラと添わせるつもりだったなら、私の我儘など無視しておけば良かったのだ。
だから私は、お兄様に聞いてみた。もし、私がジェルミの婚約者になりたいと言ったら、どうしますかと。
そしたらお兄様は少しだけ考え込んだあと、私が本気ならば仕方ないと真剣な表情で答えてくれた。その分自分の苦労は増えるかもしれないが、まあ、許容範囲だと。
やっぱりアルバートお兄様は、私には甘かった。
その、妹可愛さからの選択がこの国と自分にどういった未来をもたらすかなど、さすがにこの優秀なお兄様をもってしてもわからなかったのだろう。
あるいは、いくら野心を持っていたからと言って、ジェルミがそこまでのことをするとは露ほども思っていなかったのかもしれない。
友好の証として来た隣国の王子がまさかこの国をあそこまで引っ掻き回すことになるなど、普通は思うわけがない。
ともかく、今回私はジェルミと婚約をしないのでお兄様の想定通りにことは進むはずだ。隣国の王もお兄様も警戒している中、田舎の領地へ送られるジェルミとプリメラには、国を乱す程の力を付けることは難しいだろう。
継続しての警戒は必要かもしれないが、これで前回のようなことにはならないはずだ。
私としても個人的に出来る範囲でジェルミの行動を見張ろうと思っていたのだが――。
ここでも、私の想定外のことが起こっていた。
なんだか今回のジェルミが前回のジェルミとは違うのだ。
城内で見かけるジェルミはいつも楽しそうにプリメラをエスコートしており、私と会ってもにこやかに挨拶をしてくれる。
その笑顔はとても柔らかく美しく、これまで私が見たことのないものだった。私の前では、いつもその美しい顔を歪めていたというのに。
ジェルミのあまりの変わりように、私は呆気に取られていた。その変化はまったくの別人に思えてしまう程だ。
そのため一度はジェルミも私同様過去へ戻ったのではないかと疑ったが、この力はお母様の生家の血を引く女性――すなわち私にしか使えず作用しないはずなので、それも違う。
しばらくもんもんとジェルミの変化について考えていた私だったが、日々を過ごしていくうちに、何となくだがジェルミが変わったその答えがわかりはじめてきた。
そして、私のその何となくの考えが当たっていたと確信できたのは、ジェルミとプリメラが領地へ向かってしばらく経ってからのことだった。
❇ ❇ ❇
プリメラとの結婚後すぐに領地へ旅立ったジェルミだったが、旅立ちの日は意外な程に幸せそうな顔をしていた。
目を細め、口元を緩め、優しい視線でプリメラを見つめるジェルミの姿がそこにはあった。
そしてその数か月後には、プリメラに第一子が出来たとの報告が舞い込んできたのだ。
プリメラからの私宛の手紙にも、今がどれだけ幸せかというようなことが延々と書かれており、いい加減途中で読むのをやめようかと思ったくらいだ。同じように、お兄様宛てのジェルミからの手紙にも似たようなことが書かれていたらしい。
二人ともに幸せいっぱい。鬱屈した想いや野心など、今の二人からは欠片も感じることは出来なかった。
本当に――今の私は選ぶ相手によってこれだけ未来が変わってしまうのかと、何だか釈然としないような、信じられないような思いでいっぱいだ。
けれど、もしかしたら前回だって、お兄様の采配どおりジェルミとプリメラが婚約していたら、今回のような結果で終わっていたのかもしれないとも思っている。
まったく、たった一度の間違った選択でとんでもない未来へと運ばれてしまうこともあるのだから、恐ろしいったらない。
この場合の間違いはもちろん、私がジェルミを選んでしまったことだ。否……言葉を濁さずに言えば、私のしたことはプリメラからジェルミを奪ったのも同じこと。
妹の婚約者になる予定だった人を、無理やり自分の相手に変えたのだから。
あの時の私がジェルミに対し、まったく恋心を抱いていなかったとは言わない。ジェルミは私がこれまで見た中で一番と言って良い程美しい顔をしていたのだから、美青年好きの私がジェルミの顔に惚れるのは、ある意味当然の結果だった。
けれど、やはりそこにはプリメラに負けるのが嫌だという意地と見栄があったのだ。
心からウィリアムのことを愛しいと想う今の私には、あの時の選択は間違っていたと断言できる。ただジェルミの顔だけを見て、そしてプリメラに対する屈折した気持ちだけで、自分の生涯の伴侶を選んでしまったようなものだ。
そんなの、ジェルミにとってもプリメラにとっても、たまったものではないだろう。
私がプリメラからジェルミを奪った時、プリメラが私に対しどういった感情を抱いていたのかはわからない。
けれど、私がプリメラの愛らしい容姿に対し劣等感を持っていたように、おそらくだけど、プリメラは以前から己の出自に劣等感を持っていたように思うのだ。
私のお母様の侍女だった、プリメラの母親。
二人がまだ存命の頃は、”意地の悪そうな顔”と陰口を叩かれていた私のように、”恩知らずの娘”と、プリメラもまた陰口を叩かれていたことを、私は思い出した。
そして第七王子だというジェルミの母親もまた――その美しさのみで王の心を捕らえた、王妃付きの侍女だったという話も、同時に思い出した。
境遇の似ている二人。互いの気持ちも、立場も、良く理解出来、通じ合うものがあったのだろう。
私と婚約した後でも、結局ジェルミはプリメラを望んだ。私はてっきり、ジェルミはプリメラのその美貌を欲したのかと思っていたけれど、それは間違いだったのかもしれない。
二人の関係は世間的に見れば浮気だったけれど、きっと私のせいで、二人はそんな関係しか築けなかったのだ。プリメラからジェルミを奪ってしまった、私のせいで。
ジェルミの婚約者は、第一王女である私。正妃の娘である、私。
いくらプリメラが良いとジェルミが言ったところでそれを覆すことは出来ないし、前回の私ならば、おそらくそれを許すこともなかっただろう。
プリメラにしたってそうだ。プリメラと私はあまり仲が良くなかった上、正妃の娘と側妃の娘という、明確な立場上の差があった。ジェルミを奪われたことに対する怒りがあったにしても、それをまっすぐ私にぶつけることは出来なかっただろう。
だから――。
だから。ジェルミはあんな愚行に出たのだろうか。プリメラと添うため、私から逃れるため。
やり方は最低だったけれど、もしかしたらそれは二人なりの復讐だったのかもしれないと、そう思えてしまう。
否。プリメラに関しては、どこまでお父様とお兄様のことに関わっていたのかは、正直わからない。ただ私からジェルミを奪い返しただけだと、本人はそう思っていたのかもしれない。
今の二人を見ている限り、父と兄の命を奪うという罪をジェルミがプリメラに背負わせるとは、到底思えないからだ。
堕ちる時は二人で共に。そんな考え方もあるのだろうが、やはりプリメラに対する今のジェルミの態度を見ていると、そうではないだろうと思えるのだ。
――今回のことから、私は人にはそれぞれ最良の相手がいるのだろうと考えるに至った。
優しくしたいと想える相手。
幸せになれる相手。
良き人間でいられる相手。
屈折した想いや、胸の内に燻らせていた野心など、どうでも良くなってしまうような相手。それが、ジェルミにとってのプリメラで、プリメラにとってのジェルミだったのだろう。
そして、私の場合はもちろん――。
私がアルバートお兄様の部屋を出ると、そこには扉から少し離れた位置で、心配そうな表情で佇んでいるウィリアムがいた。
「ウィリアム!」
私が声を掛けると、ウィリアムは微笑み、すぐに私の傍に駆け寄って来た。
「お話はできましたか?」
先ほどまで私は、アルバートお兄様と最後の話合いをしていたのだ。これまで幾度にも渡って話し合ってきた、今後の私たちの未来について――。
「ええ。ちゃんとこれまでのお礼も言ったわ。でも一番優秀な配下を連れて行くなんてって、怒られちゃった」
「それは……光栄ですね」
より正確に言えば怒られたのではなくなじられたといった感じが強かった。だがどちらにしろ、お兄様がウィリアムのことを惜しんでくれたことには変わりない。
「ふふ。でも考えようによってはお兄様も安心できるんじゃない? 妹の夫になる人がお兄様の配下の中で一番優秀だった護衛騎士なのだもの」
「……」
夫という言葉に照れてしまったらしいウィリアムは、顔を赤くしてそっぽを向いてしまった。いや、言葉だけではなくその他諸々に照れたのかもしれない。ウィリアムは意外と照れ屋なのだ。
私は現在十九歳。
時を戻ってから二年が経っている。
前回ではこの時期にはすでに亡くなっていたお父様も、あまり病状は芳しくないがいまだ命を繋いでいる。
アルバートお兄様はもちろん行方不明にはなっていないし、一年前には正式にお父様の後を継ぎ、王となった。お兄様と後継者争いをしていたフレイム兄様が、お兄様との話し合いの末、あっさりと王位継承権を放棄したためだ。
元々フレイム兄様自身は進んで王になりたいとは思っていなかったらしい。ただ兄様の母親の生国からの圧力がすごく、気の弱い母親にどうか王になってくれと頼まれ仕方なく王位争いに参加していたと、あっけらかんとアルバートお兄様の前で笑っていた。
これで心置きなく騎士としての道を邁進できると意気込んでいたフレイム兄様は、私の想像していた人物像とはかなりかけ離れていた。
どうやら私はフレイム兄様のことを誤解していたらしい。プリメラ同様あまり接触がなかったため、性格を読み間違えていたようだ。
前回はアルバートお兄様が失踪してしまったため、きっとフレイム兄様は仕方なしに王として立ったのだろう。
私を手配したことについても、おそらくジェルミにあることないこと吹き込まれ、それを信じたあげくのことだと想像がつく。アルバートお兄様曰く、フレイム兄様は自分が裏表のない分、人に対してもそうであると思い込んでいる節があるそうなので。
本当に――前回の私の目は、開いてはいても何も見えてはいなかったらしい。今ではフレイム兄様とも以前よりは良く話すようになっているし、プリメラからも月に一度は必ず手紙が届くようになり、なんだか普通に仲の良い姉妹みたいだ。
そんな風に、以前よりも格段に穏やかな生活を営む中、けれど私にはまだどうしてもやり遂げなければならないことがあった。
そこで、私はアルバートお兄様にあるお願いをしすることにしたのだ。
護衛騎士のウィリアムと結ばれるための、あるお願いを――。
王女と護衛騎士という立場を頑なに護り続けるウィリアムを落とすのは、それなりに苦労した。
押して押して、押しまくって、ようやく憎からず思うようになってくれたと思っても、最後まで護衛騎士であり男爵家の四男という自分と、王女である私との間に横たわる身分差をウィリアムは気にしていた。
だから、私は王女を辞めることにした。
フレイム兄様のようにこの国の王位継承権を放棄し、元から持っていたこの国の爵位を継ぐことにしたのだ。
これが、私がアルバートお兄様にしていたお願いだ。
結婚するでもなく王女が王籍を抜けるのは、やはり諸々面倒くさい処理が必要だ。お兄様にはそこまでしなくてもと言われたが、やっぱり私としては少しでも近しい存在として、ウィリアムに見て貰いたかったのだ。
私が持っていた爵位は、男爵家に生まれたウィリアムを婿に迎えてもおかしくないものだ。身分差がまったくなくなるわけではないが、それでも王女だった時よりはよほど気安くなるはずだった。
そうと決めてからの私はお兄様やウィリアムが驚くほど素早く、様々な面倒くさい手続きをあっという間に片付けいった。お兄様になど普段からそれだけの仕事をしてくれれば良いものを、などと言われてしまう始末だ。
王籍から抜け、新しく爵位をいただき、現在の私は女子爵だ。
大好きで大切な人と一緒に生きるために、手に入れた地位。
生まれてからこれまで過ごしてきた場所を離れる寂しさはあったが、王女という身分には、何の執着も湧かなかった。
たまには帰って来いとアルバートお兄様は言ってくれたし、王籍から抜けても、アルバートお兄様もフレイム兄様も、そして――プリメラも。私の家族であることには変わりないからだ。
臣下になってからの一からの生活に対しても、不安はなかった。あるのはこれから先、ウィリアムとともに過ごす人生への希望と、期待だけ。
甘い考えかもしれない。
考えている以上の苦労を、これからするのかもしれない。
けれど私にとっての最良の人であるウィリアムが傍にいてくれるなら、きっと乗り越えて行けるだろうと、私は確信していた。
「ねえ、ウィリアム。……大好きよ?」
私はウィリアムの服の袖を掴み、彼にだけ聞こえるように囁いた。
私はいつもウィリアムに対し好意を隠さないようにしているのだけれど、どうやらウィリアムは私のそうした好意に対し、どう返していいかわからないらしい。
だいたいがいつも一瞬固まったあと、顔を赤くしてその顔を見られまいとそっぽを向くか、顔を手で覆ってしまう。
今もそう。私の愛の告白を聞いたウィリアムは一瞬息を呑んだあと、真っ赤な顔を慌てて横に向けてしまった。
けれど、こうやって想いを言葉にすれば、恥じらいながらもウィリアムは絶対に応えてくれるのだ。
「……俺もですよ。何があっても、あなたのことは俺が命をかけて護ります」
背けていた顔を元に戻し、正面から私を見つめウィリアムが言った。
けれど、私は真摯な瞳のウィリアムに見蕩れながらも、釘を刺しておくことは忘れない。
「命はかけなくてもいいわ。けれどもし、それが無理なら……死ぬときはあなたと一緒がいい」
「それでは護衛失格ですよ……」
困ったように笑うウィリアムに対し、私の胸に限りない愛しさがこみ上げてくる。
優しい笑顔。優しい瞳。私への気遣いに溢れた、優しい口調。
思い返してみれば、追手から逃げていた時すらウィリアムの瞳はいつも優しい光を讃えていて、だからこそ私は命を狙われ、追われながらも精神の均衡を崩さずにいられたのだ。
視線を向ければいつもそこにある、ウィリアムの優しい瞳に安心していたから。
「いいの。だってこれからはもう、あなたは私の護衛じゃないもの。それに……あなたのいない世界はきっと私には耐えられないわ」
あんな想いはもう二度としたくない。それに、私を護ってウィリアムが死ぬなど、二度とあってはならないことだ。
もし、もう一度あんなことがあったとしても、もう時は戻れない。
時逆の女神の力を使えるのは、一度だけ。古の契約に基づき、たった一度だけ、運命を変えることが許されるのだ。
そんなことを考えていたからか、ふいにお母様のことが思い出された。
今はもういない、お母様。
お母様はいったい、いつ、何を求めて過去へと戻ったのか。あるいは戻らなかったのか。
もう聞くことは出来ないけれど、お母様はきっと自分の人生に後悔はしていなかったはず。
なぜなら……最後に見たお母様は、本当に、本当に、とても幸せそうに微笑んでいたからだ。
そう。きっとウィリアムを見つめる、今の私のように――。
「あなたを護れないことこそ、俺には耐えられません。護衛としても……夫としてもです」
ならば、前回のウィリアムは護衛としての職務を全うしたことになる。結局私は死んでしまったけれど、それでも私はウィリアムのあとに死んだ。長く苦しむこともなかった。
そしてウィリアムは真実、私を護ってくれた。ジェルミたちに裏切られ、自らの過ちを悔いていた、私の心を。
「じゃあ、私を護ってあなたが死んだあとすぐに、私も追いかける」
私のその言葉に、それじゃあ意味がないのですが、などと言いながらも、ウィリアムは優しい笑顔を見せてくれた。
慈しむように、そして心の底から愛しむように、私を見つめながら――。
――あの時。
二人して追手から逃げていた、あの時。
死の直前まで名前すら知らなかった護衛騎士は、今では私の最愛の人。
きっと私は死ぬまで彼の瞳を見続け、彼の声に耳を澄まし続け、彼に恋をし続けるのだろう。
ああ、時逆の女神様。
私の願いを叶えて下さり、本当にありがとうございます。
ウィリアムの優しい瞳を見つめながら、私は願いを叶えてくれた女神様に心からの感謝を捧げた。