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前編

前後編二話となります。皆様良いお年を。

 


『これはね。代々うちの王家に伝わってきた伝説なの。遠い昔に、私たちの先祖の女性が、時逆(ときさか)の女神と契約をした。それ以来、王家の女にだけ引き継がれてきた特別な力があるのよ。それはね……』


 緩く弧を描く唇に白く細い指先を添えて、お母様が言った。



『一度だけ、時を遡ることの出来る力なの』



 幼かった頃の私に、秘密を教えてくれたお母様。


 幼い頃から寝物語に聞いてきた、お母様の祖国の王家に伝わる伝説。お母様はその力を使ったことがあるのかと私が聞くと、どうかしら、と言ってお母様はどこか楽し気に、そしてほんのちょっぴり寂し気に微笑んだ。


 それからまた、話の続きを聞かせてくれた。



『時を超えて来たことは、誰にも言ってはいけないの。もしそれを破ったら、時は元に戻ってしまう。だから誰にも言えないの』



 それじゃあ、時を遡ったことは証明できないね。私がお母様にそう返すと、そうね、と言って笑ったお母様。



 ――昔の話だ。お母様はもういない。







 ❇ ❇ ❇ 







「もう、嫌!」


「もうすぐ着きます! もう少しだけ頑張ってください!」



 限界を超えた疲れに悲鳴を上げた私に、前を走る護衛騎士が励ましの言葉をかけてきた。


 私たちは今、森の中をある目的地に向かって進んでいた。


 国中至る所にある、王家の者が有事の際に使う場所。私たちはその隠家の一つを目指しているのだ。


 深い森の中を、息を切らせて私たちは走った。細くて狭い、道とも言えぬ道はでこぼこで、ただ地面を蹴るだけの作業がとても難しく感じられた。


 足がもつれ、何度も転びそうになる私を、彼はその都度支えてくれた。


 現在、私たち二人は逃亡中だ。


 私と、私の護衛騎士の二人だけ。私たちは追われているのだ、私の元婚約者から――。


 だが、これは愛の逃避行では決してない。


 なぜこんなことになったのか。すべてはあの顔だけ男のせいだ。







 私が顔だけ男――元婚約者であるジェルミと出会ったのは、三年前、十七のときだった。


 政略ではあったが、輝く金髪に煌めく青い瞳、甘い笑顔のジェルミに、私はたちまち恋に落ちた。


 正妃の娘であった私は第一王女で、ジェルミは隣国の第七王子。結婚したらジェルミはこの国で侯爵位を賜り、そして私は侯爵夫人となる予定だった。


 それなのに――。


「なんで、こう、なったのよ!」


 ぜえはあ、と口で荒い息をしながら私は獣道を懸命に走った。追いつかれたら殺される。冗談ではなく、殺されるのだ。


 あの無慈悲な男が、情けをかけるわけがない。自分の欲のためならば、何人殺そうと平気な男なのだ、あいつは。


 元婚約者の美しくも憎らしい顔を思い浮かべた私は、彼との初めての出会いを思い出していた。







 ジェルミがうちの国にやってきたとき、うちの国はごたついていた。

 

 王であるお父様が永年病に臥せっており、二人の王子のどちらが王位につくのかが争われていたからだ。


 お父様の子どもは四人。兄二人に私、そして妹の四人だ。そして私たちは長兄であるアルバートお兄様と私が同じ母親という以外、すべて母親が違っている。


 私も一応継承権は持っているが、周囲の人間はおろか自分でさえも王位につくことなど考えたこともなかった。もっぱら王位争いは二人の兄の間で行われていた。


 私たちのお母様は正妃だけれど、小国の生まれ。次兄であるフレイム兄様の母親は、第二妃だけれど大国の生まれ。


 普通なら長兄に譲られるはずの王位も、それぞれの母親の国の影響力故に、国内の意見が二つに割れていたのだ。


 アルバートお兄様を王位に着ける。


 そのための布石が、ジェルミだった。


 ジェルミはフレイム兄様の母親の国と並ぶ大国である、隣国の第七王子。彼は表向きは隣国とこの国との友好の証として、裏では隣国が長兄であるアルバートお兄様の後見となる見返りとして、この国の王家と縁続きになるためにやってきた。


 そう。二人いる王女の、どちらかと婚約を結ぶために。


 最初ジェルミの相手は妹のプリメラになるはずだった。プリメラの母親は私のお母様と同じくすでに亡くなっているけれど、生国が同じだったため、勢力図としてはプリメラはアルバートお兄様側に入ることになるからだ。


 しかし、ジェルミに一目惚れした私がお兄様に頼み込み、妹から婚約者の席を譲ってもらったのだ。私は当然アルバートお兄様側の人間なのだから、プリメラと私、ジェルミと結婚するのはどちらでも構わないだろうと。


 今思えば、美しいジェルミを見て、何故私ではなくプリメラに。そう思ったことも、婚約を譲ってもらった理由ではあったのだろう。


 素直に認めるのは癪に障るのだが……私は妹のプリメラに対し、少しだけ屈折した想いを抱いていたからだ。







 金色の髪に薄い茶色の瞳をしたプリメラは、私とは違い可愛らしい容姿をしていた。そして病弱なせいもあり、儚げな印象を見る者に与えるのだ。


 私も美人ではあるが可愛らしさとも儚さとも無縁の顔をしているため、表では威厳のある美しさと讃えられるが、けれど裏では意地の悪そうな顔だといつも貶されていた。


 いくら陰口を叩かれようと、私は自分が美しいことは知っていた。何しろ私そっくりなアルバートお兄様の顔を、いつも間近で見ていたのだから。


 それでも傷つかないわけではないのだ。男性と女性では、好まれる容貌が異なることも事実だったから。


 銀髪に若草色の瞳は気に入っていたけれど、常に愛らしい、可愛らしいと褒めそやされる妹の姿を見て、やはり私も妹のような愛される容姿に生まれたかったと、これまで何度も思ったものだ。


 やはり得をするのは、プリメラのような可愛らしい容姿の娘なのか。そんな風に思ったことも、一度や二度ではない。


 あの時――初めてジェルミを見た、あの時。


 ほんのわずか、そんな気持ちが顔を出したことを私は否定することができないのだ。


 そして、きっとジェルミも私よりもそんな可愛らしい妹が良かったのだろう。決して口には出さなかったが、結局はそういうことだったのだ。







 ジェルミと出会い、婚約を結んだのは十七の時。


 それからたった三年で、私をとりまくすべての状況は変わってしまった。一年前にはお父様も身罷り、今は次兄のフレイム兄様が王となっている。長兄のアルバートお兄様は現在行方不明だ。


 お父様の死にもお兄様の失踪にもジェルミが関わっていると私が知ったのは、本当に偶然だった。


 ジェルミを驚かそうと面会の許可を取らずに入ったジェルミの職務室には、プリメラと口付けを交わすジェルミの姿があった。すぐに私の存在に気付いたジェルミはプリメラをその場に残し、扉の前で固まっている私の元へとやってきた。


 そしてその美しい顔を私に近付け、うっとりするような笑みを浮かべながら言ったのだ。



『いけませんね。勝手に入って来ては。……見られたからには仕方ない。あなたにもいなくなっていただきましょう』



 最初は信じられなかったし、信じたくない想いでいっぱいだった。


 だがジェルミの背中越し、私を見下すように笑うプリメラを見て、ようやく私は真実に気が付いたのだ。


 もっと早くに私があの二人の正体に気が付いていれば、こんなことにはならなかったのだろう。


 だがどれほど嘆いても、もう手遅れなのだ――。










「もうすぐです! 殿下!」


 前を走る護衛騎士が、後ろを振り返り叫んだ。


 これでようやく、走らなくて済む。そして、ジェルミの放った追手から逃げ切れる――。


 荒い息を吐き続けながらも、彼の言葉に安堵した私の唇からは微かな笑い声が零れた。


 私は目の前を走る、これまでずっと私を護ってきてくれた、護衛騎士の後ろ姿を見つめた。


 身体中の至る所に斬撃による痕があり、暗い色彩の服の上からでも分かるほどに、血が滲んでいる。


 彼は数いる私の護衛騎士の一人にすぎない。


 そして彼のその容貌はと言えば――ジェルミに比べると、あまりぱっとしないものだった。


 しかし、私つきの護衛騎士のほとんどが私を裏切るなか、彼だけは最後まで私を護って戦ってくれたのだ。それを思えば、容姿などに拘っていた自分はなんと浅はかだったのかと思わざるを得ない。


 アルバートお兄様が戻り、すべてが終わったその時には――。


 絶対に彼を取り立てる。


 そう決心して、とっくに限界を超えている脚を無理やり動かし、私はまた走り続けた。







 樹々を掻き分け、細い獣道を突き進み、鬱蒼とした森を駆け抜ける。するとそこには人目を逃れる様に建つ小屋があった。


「殿下! あそこが……」


 言葉を切った護衛騎士が急に足を止めたため、私は彼の背中に鼻をぶつけた。


「ちょっと……どうした、の……」


 痛む鼻を抑えながらも周囲に注意を向ければ、小屋の前には数人の人相の悪い男たちがにやにやと嫌な笑みを浮かべながら立ちふさがっていた。


 その男たちを見た瞬間、私は死を覚悟した。


 ここに来るまでの間、この護衛騎士はすでに何度も追手と戦っている。たった一人で、何の役にも立たない私を庇いながら、彼は一人でその追手のすべてを退けて来たのだ。


 もう彼はボロボロだ。


 これ以上は、無駄なこと。


 ジェルミが私を連れて逃げた彼を見逃すとは思えないが、もうこれ以上無駄に傷つく必要もない。


「……もういいわ。これまでよ」


「殿下!」


「ごめんなさい……ここまで護ってくれたのに。……巻き込んでしまってごめんなさい」


 普段他人のことなど考えない私だったが、さすがに申し訳なさすぎて目に涙が滲んできた。


 彼だけが、私を裏切らずに最後までついてきてくれた。ここまでボロボロになりながらも、戦ってくれた。ジェルミの企みによって、私は今フレイム兄様からも手配されているのだ。


 私などいつ放り出されてもおかしくない立場だったのに、彼はそうしなかった。


「……あなたを護るのは、俺の……護衛騎士の役目です」


「……でも」


「それに、あなたは何も悪くはないでしょう?」


 彼の言葉に私は驚き、後悔に俯けていた顔をあげた。


 私は悪くないと、本当にそう言えるのだろうか。


 けれど自らの罪を自問する私に、彼は優しく微笑み、言ったのだ。



「あなたは恋をしただけだ」



 ――そう。


 彼の言う通り、私は恋をしただけだ。


 でもだからといって、悪くないということにはならない。だって私がジェルミを選ばなければ、今、私たちはこんな目に遭ってはいなかった。


 王女として人の表裏を教えられて生きて来たのに、あの男の本性を見抜けなかった私が悪い。


 わかっているのに。そう言ってくれる彼の心遣いが嬉しくて、気付けば震える声で私は彼に乞うていた。


「……ねえ。あなたの、名前を教えて」


 私はここまで一緒に逃げてくれた、護衛騎士である彼の名前すら知らなかったのだ。


 何の変哲もない、茶色の髪に、茶色の瞳。調ってはいるけれど、それでも特徴に乏しい、平凡な顔。けれどその眼差しは真摯で、こんな絶望的な状況だというのに力強い。


 護衛として何度か目にしたことのある男。何の興味も引かれない男。そう、思っていたのだ。


 冴えない男だと思っていたのに、今、目の前で微笑む彼はとても素敵だ。強くて、勇敢で、優しくて。言葉と顔だけは甘いジェルミなどよりも、よほどいい男ではないか。


「ウィリアムと申します」


 優しい瞳で私を見つめながら、彼は言った。


 どうしてもっとに早く気付かなかったのだろうと、私の胸に後悔の念が押し寄せた。しかしきっと今だからこそ、私は彼の真価に気付けたのだ。


 今思えば、私は本当にジェルミに恋をしていたのかさえあやしいほどだ。


 私は美しい顔の男が好きだった。そしてそんな私の嗜好に、ジェルミはぴたりと重なっていた。


 もしや私はジェルミの顔だけが好きだったのではないか。それが正解のような気がしてしまう。


 その証拠に、ジェルミのどこが好きだったのか思い起こそうとしても、あの美しい顔しか浮かんでこない。


 ジェルミに、プリメラに、裏切られたと知った時に湧き出た感情は怒りだった。悲しみは今も感じない。けれど、もうこれきりウィリアムに会えないのかと思えば、体の中のすべてが空っぽになってしまったかのような、空虚な悲しさを感じるのだ。


 ジェルミに対する想いは、きっとおままごとのような拙いものだった。けれどウィリアムに対する想いは、この身を焦がすような切ないものだ。


 私たちに未来はない。今この時だけが、私が彼の瞳を見ていられる最後の時間。


 彼の優しい声。優しい微笑み。慈しむようなその瞳。それが私の最後の記憶になる。


 それを幸せだと思う一方で、もっともっと。ずっとずっと。彼の声を聞いていたい、彼の瞳を見ていたいと切望してしまう。


 けれど――それが叶わぬ夢だということを、武器を鳴らしながら近付いてきた男たちによって、私は思い知らされた。


 ウィリアムが素早く私の前に出て、小さな声で「逃げてください」と言ったけれど、もうどこにも逃げ場なんてないことなど、私も、そして、きっとウィリアムでさえもわかっていた。


 ――それでも。


 ウィリアムは最後の最後まで、私を護って追手と戦ってくれた。


 地面に倒れた彼のその瞳が静かに閉じられるのを見た私は、深い、底なしの絶望に心が沈んでいくのを感じていた。


 追手により眼前に突き付けられたよく磨かれた鈍色の輝きには、涙を流した、虚ろな目をした一人の女が映っていた。


 もう取返しがつかないのだ。


 心臓を貫かれた痛みも、彼を失った痛みに比べればなんてことはない。暗闇に意識が落ちていく恐怖も、彼を失った恐怖に比べれば、些細なことだった。


 ――私は本当に、なんて愚かなのだろう。


 死ぬ直前に、私は彼に絶望的な恋をしてしまったのだ。









 段々と薄れゆく意識の中、私は昔お母様とした会話を思い出していた。


 お母様の生国である王家に伝わる伝説。王家の女にだけ伝わる、時を遡る力。


 その話が真実かはわからない。ただの絵空事かも知れない。けれど私は願わずにはいられなかった。


 やり直したい。


 もう一度やり直したい。



 ああ、時逆の女神様。ただ願わくは、もう一度。






 ――彼のあの優しい瞳を、見ることが出来ますように。







 ❇ ❇ ❇







「――……リディエンヌ様。リディエンヌ様」


 ふわふわと漂っている意識の狭間、ふいに聞こえて来たのはどこかしら幼さの残る声だった。


「リディエンヌ様――」


 そのどこかで聞いたことのある声に興味を惹かれた私がゆっくりと目を開けると、そこには心配そうに私を見つめる侍女――サーナの姿があった。


「……え? ……サーナ?」


 サーナの姿を認めた私は、疑問に眉を顰めた。サーナがここにいるはずはない。なぜならサーナは私が追われる身となるだいぶ前には、侍女を辞めているはずだからだ。


「どうしてこここに……?」


「も……も、申し訳ありません! まだお起こしするにはちょっと早い時刻でしたでしょうか⁉」


 きっと私に怒られたと思ったのだろう。サーナの顔色がどんどんと悪くなっていった。


「え? ……いえ、違うのよ。でも、起こすって……?」


 そこで私はたとして自分が今いる場所を見回した。


 私は今広い部屋の中央に置かれた、ふかふかとした大きなベッドの中にいる。ここはどう見ても王城にある自分の部屋だ。


 だが、それはまだいい。追われていた自分がなぜ城にある自分の部屋に寝かされているかという疑問はあったが、それよりもまず考えるべきは、どこも痛まないこの身体のことだ。


 私は確かに胸を刺されたはずなのに――。


 私は震える手をどくどくと鳴る心臓の真上に置いた。服の上からそっと探ってみるが、包帯を巻かれている様子もない。


 思わず胸元の服の生地を伸ばし中を覗き込んでも、そこにあったのは白く滑らかな、傷一つ見つからぬ肌だけだった。


「……どういうこと?」


 答えを求めてサーナの顔を見つめるが、サーナからその答えが返ってくるようなことはないだろうと、私はすでに理解していた。


「あ……あの、リディエンヌ様?」


 私は何もない空間を見つめたまま動けないでいた。


 自分の身に起こった奇跡が、にわかには信じられなかったからだ。


 まさかという思いはある。


 けれど、そうとしか思えない。


 だって、あれは絶対に、夢ではなかったのだから。


 私はちゃんと、あの心の蔵を貫かれたときのとてつもない痛みと息が止まる感覚を覚えている。あれが夢だなどとは到底納得できるはずもない。


 ならば考えられることはひとつ。


 私は一度死んだ。死んで、過去へと遡ったのだ。


 本来ならこんな馬鹿げたこと、到底信じられるわけはない。けれど私にはそんな馬鹿げたことを信じるだけの根拠があった。


 今はもういないお母様が言っていた、お母様の生家の王家に伝わる、突別な力。


 時逆の女神との契約。


 時を遡る力。


 お母様は本当のことを言っていたのだ。




 私が死んだのは二十歳の時だ。過去に戻ったというのなら、一体どれほどの年月を遡ったのか確認しておかなければならない。


「サーナ……私は今何歳だったかしら?」


「……え、あの、リディエンヌ様は御年十七であらせられます……」


 では今は私が死んだ三年前にあたる。


 三年前――。


 それは私がジェルミに出会った歳だ。


「……では、今は何の月?」


「い、今は……金光の月ですが……」


 私は真剣そのものだったが、答えるサーナの顔色が先ほどとはまた違った意味で変化した。


 見る見るうちに、顔色が先ほど私に怒られたと思った時よりも悪くなっていく。その変化には気付いたが、今はそのことに構っている余裕はなかった。


「日にちは?」


「……七の日です」


 私が十七の歳。そして金光の月の七の日。


 それは私がジェルミと初めて会った日の三日ほど前の日付だ。


 一度は納得したはずだというのに、私は信じがたい現実を目の前にして動揺していた。本当にこんなことがあり得るのだろうか、夢だと言われたほうがまだ信憑性があると。


 しかしサーナが私に嘘をつく理由はないし、それに私は確かにウィリアムと一緒に追手の剣に貫かれたはず――。


 そこまで考えた私は、ベッドから飛び起きた。


「リディエンヌ様……⁉」


 サーナの驚きの声にも構わず、私はそのまま廊下へと続く扉に向かって駆けだした。しかし扉を開く寸でのところで、サーナからの制止がかかった。



「リディエンヌ様……お待ちください! 夜着のままです!」



 サーナの言葉に私ははたと立ち止まり、身体を見下ろし、今の自分の恰好を確認した。昼間着る服よりも薄手のゆったりとした生地で出来た夜着は、光に透けると身体の線がはっきりとわかってしまう。


 これはではさすがに破廉恥すぎる。


「……サーナ、着替えを手伝って!」


「は……はい!」


 私からの命令に、サーナがわずかに怯みながらも元気良く返事をした。





 ❇ ❇ ❇





 私はサーナの手を借り大急ぎで夜着からドレスに着替えると、髪も結わず化粧もせずに、一心不乱にある場所を目指して走った。


 本当に過去へと遡ったのなら、ウィリアムはどうなったのか。


 後ろから数人の護衛騎士が追いかけてきたが、それだけだった。捕まえようとはせず、一定の距離を保ったまま後をついてきている。


 私は王女だ。その身に危険が迫ってでもいない限り、その手を掴んで捕まえるなどということは出来ないのだ。ただ、お待ちください、だの、お停まりください、だの後ろから声をかけて来るだけ。


 王宮内を髪を振り乱し駆け抜ける王女の姿を、城で働く者たちが皆驚きの表情で凝視してきた。


 中には護衛騎士同様止めようとする者もいたが、私はそんな者たちには一切構わず、走り続けた。森の中のでこぼこ道と比べ、この王宮の廊下の走りやすいことといったらない。


 私は生まれてからはじめて、王宮内の廊下を全力疾走した。







 私の護衛騎士だったウィリアムだが、あの日までは数いる護衛騎士の中の一人にすぎなかった。


 私の護衛騎士は名目上数多くいたが、しかし実際に護衛につく人間はほとんど決まっていたのだ。


 なぜなら、私は己の護衛に顔の良い者を選んでいたからだ。


 王女という身の上ゆえ、私は自分に恋愛結婚が出来るとは思っていなかった。だからこそ、美しいジェルミが目の前に現れた時、私は期待したのかもしれない。


 そして、それまでは常に傍にいる護衛騎士を偽りの恋人として、束の間の疑似恋愛を楽しんでいたのだ。


 常に二、三人の顔の良い青年が傍にいることは、退屈な人生をほんの少しだけ楽しいものにしてくれた。


 交わる互いの視線を楽しみ、偽りの愛を囁き合った。ほんの些細なお遊びだ。しかしそのお遊びに、私がウィリアムを誘ったことは一度としてなかった。


 だから今日、扉の向こうにウィリアムがいるわけがないことはわかっていた。今、私を追ってきている護衛騎士たちの中にも、もちろんウィリアムの姿はない。もし本当に時を遡っているのなら、ウィリアムは今王宮のどこかで警備をしているはずだ。


 私の護衛につかないときは、他の護衛騎士はすぐに護衛の交代が出来るよう、王宮の中のどこかで警備に当たるのが常だった。


 私はウィリアムを探してとある場所を目指した。


 ジェルミの手の者に追われたあの日、たまたま逃れ隠れようと入った部屋で私はウィリアムと出会ったのだ。


 常よりよく、その部屋を警備していたという彼に――。







 私は目的の場所に到達すると、突然入ってきた王女に使用人たちが驚き頭を下げるなか、わき目も降らずにウィリアムの姿を探した。


 食器の並ぶテーブルと、火の灯った竈。その周囲にはそれぞれ、食材と調理道具を持ちながら立ち尽くす者たちがいる。だがきょろきょろと辺りを見渡しても、ウィリアムの姿は見当たらない。


「どこ……」


 絶対にここだと確信しはやる気持ちを押さえやってきただけに、当てが外れた私は泣きそうになっていた。


「どこにいるの……?」


 せめて無事かどうかだけでも知りたいというのに――。


 本当に時を遡っているというのなら、私同様ウィリアムとて無事なはずだ。しかしこの目で確認しないと安心できなかった。


 失意と、全力疾走した疲れに私はその場にしゃがみ込む。だが、すぐにがやがやとした喧噪の中聞こえた声に気付き、勢い、顔をあげた。


 ああ、この声……この声は――。


「殿下! どうなされたのですか!」


 顔を上げた先、食堂の裏手に続く扉から焦った表情のウィリアムが入ってきた。狼狽える他の使用人たちを押しのけ、ウィリアムが私に近付いてくる。


「王女殿下……!」

「……ウィリアム!」


 私の呼びかけに、目を見開いたウィリアムが数回瞬きをした。きっと王女である私が自分の名を知っているとは思わなかったのだろう。


 ならここにいるウィリアムはやはりあの時のウィリアムではない。私は確かに過去に遡ったのだ。


「殿下……?」


 訝しみ、さらに私へと近寄り、己もその場へとしゃがみ込むウィリアム。その茶色い瞳を間近で見た私は、溢れてくる喜びと愛しさに抗うことが出来ずに、ウィリアムの首に抱き着いた。


「殿下……!」


 その瞬間、周囲から悲鳴と怒号があがった。


 衆目の下、一介の護衛騎士に王女が抱き着いたのだ。周囲の驚きはいかばかりか。しかし私はそれらを一切無視して、ウィリアムに縋りついた。


「ウィリアム……ウィリアム!」


「王女殿下! ……どうなされたのです⁉ 何があったのですか⁉」


「……何もない。何もないわ」


「何もないわけはないでしょう……! ……このように怯えて」


 ウィリアムに指摘されて、私は自分が震えていることに気が付いた。


 そう。私は怖かったのだ。


 生きて動いているウィリアムを前にしても、あの時の光景が頭から離れてはくれなかったから。


 最後の最後まで、私を庇って、追手の剣をその身に受けたウィリアム。私はあの時の絶望を、こうして生き返った今も、まだ忘れることができないでいた。


 今ここにいるウィリアムは、あの時のウィリアムではない。まだ生きている。そして私のように過去の記憶を持っている訳ではない。けれど――。


 私はウィリアムから身体を離し、その瞳をじっと見つめた。あの最期のときと何一つ変わらない、慈しみに満ちた優しい瞳。


 私はウィリアムの瞳を見つめたまま、涙を流した。


「……殿下!」


 もう一度見たいと思っていた瞳。


 もう二度と見ることは叶わないと思っていた瞳。


 泣き続ける私を、ウィリアムが呼び続けている。


 けれど、私はその呼びかけに応えることが出来なかった。――なぜなら、私の意識はそこで途切れてしまったからだ。


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